焚巣館 -漢書 地理志燕地条-

漢書 地理志燕地条



現代語訳
 燕の地は、尾宿と箕宿の分野である。武王は殷を平定すると、召公を燕に封じ、その後裔の三十六世が六国と共に王を称した。東には漁陽、右北平、遼西、遼東があり、西には上谷、代郡、雁門があり、南には涿郡の易、容城、范陽を獲得し、北の新城、故安、涿縣、良郷、新昌、及び勃海の安次は、すべて燕に分である。楽浪と玄菟も同様に属地とせねばなるまい。

 燕が王を称して十世、秦は六国を滅ぼそうとしていたので、燕王の太子である丹は勇士の荊軻を西に遣わせて秦王を刺そうとしたが、成功せずに誅殺され、秦は遂に挙兵して燕を滅ぼした。

 (首都の)薊は南に斉や趙に通じ、渤海と碣石の間にある一大都会である。かつて太子の丹は勇士を賓客として生活の世話を見、後宮の美女を寵愛しなかったので、民が教化されて習俗を形成し、現在に至るまでそのままである。賓客が互いに(家を)訪れると、婦妻を寝床に侍らせるようになり、嫁取りの夕べにも男女の別はなく、かえってそれを栄誉としている。後に多少なりとも止みはしたものの、それでも結局まだ改まってはいない。その習俗は愚かで荒っぽく思慮が足りず、軽薄であり威厳もないが、長所もある。差し迫った事態に陥った人に敢えて手を差し伸べるのは、燕丹の遺風である。

 上谷から遼東までの地は広く、民も希少であり、頻繁に えびす おか されてしまう。習俗は趙や代の同類であり、魚、塩、棗、栗が豊饒である。北は烏丸、夫餘と対立し、東は真番と貿易して利益を得ている。

 玄菟、楽浪は、武帝の時に置かれ、どちらも朝鮮、濊、貉、句麗の蛮夷の地である。殷の統治が衰退し、それから箕子は朝鮮まで立ち去り、その地の民を礼義によって教化し、農作と養蚕、機織りが始まった。楽浪と朝鮮の民の犯禁八条では、殺人があれば、その場で償いとして殺す。人を傷つけたら、穀物によって賠償させる。盜みをした者があれば、男は(身分を)取り上げてその家の奴隷となり、女子は婢女 はしため となる。自ら賠償の意思を示した者は、一人につき五十万(の賠償)である。罪を免れて民の地位を守ったとしても、それを羞恥するような習俗が形成され、嫁取りにも持参金がいらなくなった。こうしてその地の民はついにお互いが盗みをすることがなくなったので、門戸を閉ざすことさえなくなり、既婚の婦人も貞淑となって姦淫をしなくなった。その地の農民は籩豆を用いて飲食をしていたが、都邑 みやこ ではよく(中国の)官吏や中国内の郡の商人を模倣し、しばしば杯器を用いて食事をするようになった。郡が置かれた当初の官吏は遼東から採用され、(当時の)官吏は民が倉庫を閉ざしていないのを見たが、通りがかりの商人の者が夜に盗みに入るようになり、(かつての)習俗は少しずつ、確実に薄まっていった。徐々に多くなった犯禁は、今では六十条以上に至る。貴ぶべきは、仁賢の教化であろう。それでも東夷の天性は柔順であり、(北、南、西の)三方の外夷とは異なる、だから道が行われないことを悼んだ孔子が筏を海に浮かべて九夷に住まおうとしたことにも、当然ながら理由があったのだ! 楽浪の海の向こう側には倭人がいて、分かれて百余りの国を形成し、歳や季節の折に合わせて奉献の朝見をしに来るそうである。

 危宿の四度から斗宿の六度までは、これを『析木の次』と謂い、燕の分である。

注記
(※1)尾宿と箕宿
 天球を二十八に分割した二十八宿の中のふたつ。いずれも東方青龍の宿星に分類され、尾宿はトレミー48星座でいえば、さそり座尾部に当たり、箕宿はトレミー48星座でいえば、いて座南部に当たる。

(※2)分野
 中国戦国時代の天文家が、天球を二十八の星宿に分割した二十八宿を諸国に割り当て、各星宿と地上における支配領域を相関させて定めた領地。※1の尾宿と箕宿が燕の星宿であり、これに基づいた領地が所有する分野となる。

(※3)武王
 中国の殷王朝を滅ぼし、周王朝を打ち建てた王。

(※4)殷
 中国太古の王朝。周王朝に滅ぼされる。

(※5)召公
 召公奭。※3の武王の親族であり、共に周王朝を建国した功臣のひとり。国内をくまなく歩いて人々の訴えに耳を傾けたという故事がある。

(※6)六国
 戦国時代における秦以外の六つの大国。斉、楚、燕、韓、魏、趙を指す。

(※7)王
 周王朝の当時は、王といえば周王の一人のみを指す。中華の冊封体制の下にある諸国の君主は「侯」であり、同時代に王は相容れなかった。ところが南方の楚が周王朝からの独立を唱え、4代周王を戦死させたのちに王を自称した。その後は呉や越などの南方の国家で王を自称する国が林立する。中原諸国においては、その後もしばらくは周王の威光があり、諸国が王を名乗ることはなかったが、徐々にその威光が弱まるにつれて、王を自称する国君が現れ始めた。それが※6の六国や後に天下を統一する秦といった、戦国七雄などと呼ばれる諸国である。

(※8)漁陽、右北平、遼西、遼東
 漁陽は現在の北京市密雲県の西南、右北平は中国河北省秦皇島市、遼西は現在の中国遼寧省西部地域、錦州、朝陽、阜新一帯、遼東は現在の中国遼寧省の一部と朝鮮国大陸部の一部にあったとされる。

(※9)上谷、代郡、雁門
 上谷は現在の中国北京市、代郡は現在の中国河北省蔚県、雁門は現在の中国山西省北部あたりにあったとされる。

(※10)涿郡の易、容城、范陽
 涿郡の易、容城、范陽はいずれも中国河北省保定市内にあったとされる。

(※11)新城、故安、涿縣、良郷、新昌
 新城は、中国河北省保定市徐水区あたり、故安、涿縣はいずれも中国河北省保定市内、良郷は中国北京市内、新昌もは中国河北省保定市内とされる。

(※12)勃海の安次
 もともと渤海は中国北東部にある遼東半島と山東半島の間の湾状の海域を指し、ここではその近辺に設置された、現在の中国河北省滄州市一帯に存在したとされる渤海郡のこと。安次は現在の中国河北省廊坊市内に存在していた。

(※13)楽浪、玄菟
 楽浪郡は朝鮮半島北部、玄菟郡は朝鮮半島と大陸北東部の境界部から北に置かれた中国の郡。漢の武帝の時、新たに設置された。設置の経緯については、『史記朝鮮伝』を参照

(※14)秦
 周王朝が衰退した後、戦国時代の中国を統一した。

(※15)秦王
 ここでの秦王は六代目の嬴政、後の始皇帝のことを指している。

(※16)薊
 春秋戦国時代に置かれた燕国の首都。現在の北京市。

(※17)斉、趙
 いずれも春秋戦国時代における大国。※6の六国に数えられ、これらの中でも特に勢いがあった。戦国時代に王を自称した。

(※18)渤海と碣石
 渤海は※12を参照。碣石は原義では中国の山の名前であるが、同名の山が中国北方に多く存在し、中国北国境を指す語である。

(※19)嫁取りの夕べに男女の別もなく
 おそらく乱交。

(※20)胡(えびす)
 北方騎馬民族の呼称。

(※21)趙、代
 趙は※6の六国に数えられる大国、代は趙の滅亡後に成立した亡命国家。趙の最後の王である幽繆王の兄の趙公子嘉が建国した。

(※22)烏丸、夫餘
 烏丸は北方騎馬民族。同じく北方騎馬民族の匈奴が東胡という騎馬民族を滅ぼした後、そこから分裂してふたつの騎馬民族集団が発生した。一方が鮮卑、もう一方が烏丸である。夫餘は中国東北部(満州)から朝鮮半島北東部にかけて存在していた民族。海東三国の高句麗と百済は、この夫餘から分化したとされている。

(※23)真番
 武帝が朝鮮遠征後に設置した四郡のひとつであるが、27年で廃止された。しかし、その後も真番の名が登場するため、その実態や比定地を巡って諸説ある。一応、四郡のうち最も朝鮮の南側に存在していたはずである。

(※24)武帝
 前漢7代皇帝。東西に遠征を繰り返し、これによって衛氏朝鮮も滅ぼした。その詳細は『史記朝鮮伝』を見よ。

(※25)朝鮮、濊貉、句麗
 ここでの「朝鮮」とは朝鮮半島自体ではなく、大陸北東部から朝鮮半島北部にかかる地域のこと。濊貉は朝鮮半島の中西部に割拠した部族の濊と北部に居住した貉を合わせ、朝鮮半島北中部に存在する部族の総称。句麗は三国史記の一国でもある海東三国のひとつ高句麗のことで、当時は朝鮮半島の北端から大陸北東部に割拠していたと考えられる。

(※26)箕子
 ※4の殷王朝最後の王である紂王の叔父にあたり、箕氏朝鮮の建国者とされる。孔子が尊敬した政治家のひとり。箕とは当時の殷の最北端に存在していた分国で、ここに箕子は封じられていた。紂王が象牙の箸を用いるようになったと聞いた際、これに合わせて次は玉の器を求め、次はそれに合わせた豪華な食事を求めるようになり、贅沢が止まらなくなってしまうと危機感を覚え、王に諫言した故事『箕子の憂い』が有名。この後も紂王に諫言を繰り返したことから投獄され、周武王が紂王を倒した後に獄中から解放された。この後、殷の遺民とともに朝鮮に赴き、箕子朝鮮を建国した。同じく腐敗した末期の殷王朝にあって王を諫めた微子と比干と並べ、孔子は彼を「殷の三仁」と呼んで尊んだ。

(※27)籩豆、杯器
 籩は祭祀に用いる果実類を盛るための竹製の器、豆は同じく祭祀に用いる肉類を盛るための木製の器。当時としても質素で古風な食器だったのだろう。杯器は土器や金属製、漆塗りの器。

(※28)孔子

(※29)道が行われないことを悼んだ孔子が筏を海に浮かべて九夷に住まおうとしたことにも、理由があったに決まっているのだ!
 論語子罕第九に「孔子は九夷に住まおうとした。ある人は言った。野蛮でどうしようもないところですよ。孔子は言った。君子が住めば、野蛮なんてことはあり得ぬ。(子欲居九夷。或曰、陋、如之何。子曰、君子居之、何陋之有。)」とあり、あるいは論語公冶長第五「孔子は言った。道は行なわれそうもないし、筏に乗って海を渡ってみるか。私についてくる者は、子路くらいのものだろうけどねえ。それを聞いて子路は大はしゃぎ。孔子は言った。子路は私よりもずっと勇敢だな。海を渡れるような筏の材料はないからやめておこう。(子曰、道不行、乘桴浮于海、從我者其由也與、子路聞之喜、子曰、由也、好勇過我、無所取材。)」とある。いずれも孔子が中華を離れようとしたという故事であり、この二者を併合させたのが本文の記述であろう。
 ここでは、これらが※26の箕子朝鮮の故事に基づいて解釈している。論語微子第十八には、「微子はその国から去り、箕子はそこで奴隷に身をやつし、比干は諫言して死んだ。孔子は言った。殷に三仁あり、と。(微子去之、箕子爲之奴、比干諌而死。孔子曰、殷有三仁焉。)」とあり、孔子が箕子を讃える章句がある。孔子が箕子朝鮮の故事を前提にして、同じく東夷に理想を求めたのだと論語を解釈した結果が本文の内容だと思われる。

(※30)危宿、斗宿
 天球を二十八に分割した二十八宿の中のふたつ。いずれも北方朱雀の宿星に分類され、危宿はトレミー48星座でいえば、みずがめ座一部とペガサス座の頭部、斗宿はトレミー48星座でいえば、いて座中央部であり南斗六星に当たる。

(※31)析木の次
 古代中国天文学における天球の分割法『十二次』における天分のひとつ。十二次は黄道十二星座に類似しており、析木の次はてんびん座に当たる。※2の分野説は十二次にも存在し、析木の次は燕が該当する。

漢文
 燕地、尾、箕分野也。武王定殷、封召公於燕、其後三十六世與六國俱稱王。東有漁陽、右北平、遼西、遼東、西有上谷、代郡、雁門、南得涿郡之易、容城、范陽、北新城、故安、涿縣、良鄉、新昌、及勃海之安次、皆燕分也。樂浪、玄菟、亦宜屬焉。

 燕稱王十世、秦欲滅六國、燕王太子丹遣勇士荊軻西刺秦王、不成而誅、秦遂舉兵滅燕。

 薊、南通齊、趙、勃、碣之間一都會也。初太子丹賓養勇士、不愛後宮美女、民化以為俗、至今猶然。賓客相過、以婦侍宿、嫁取之夕、男女無別、反以為榮。後稍頗止、然終未改。其俗愚悍少慮、輕薄無威、亦有所長、敢於急人、燕丹遺風也。

 上谷至遼東、地廣民希、數被胡寇、俗與趙、代相類、有魚鹽棗栗之饒。北隙烏丸、夫餘、東賈真番之利。

 玄菟、樂浪、武帝時置、皆朝鮮、濊貉、句驪蠻夷。殷道衰、箕子去之朝鮮、教其民以禮義、田蠶織作。樂浪朝鮮民犯禁八條、相殺以當時償殺。相傷以穀償。相盜者男沒入為其家奴、女子為婢、欲自贖者、人五十萬。雖免為民、俗猶羞之、嫁取無所讎、是以其民終不相盜、無門戶之閉、婦人貞信不淫辟。其田民飲食以籩豆、都邑頗放效吏及內郡賈人、往往以杯器食。郡初取吏於遼東、吏見民無閉臧、及賈人往者、夜則為盜、俗稍益薄。今於犯禁浸多、至六十餘條。可貴哉、仁賢之化也。然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人、分為百餘國、以歲時來獻見云。

 自危四度至斗六度、謂之析木之次、燕之分也。

書き下し文
 燕の つち は、尾と箕の分野 わけつち なり。武王は殷を定め、召公を燕に さづ け、其の のち 三十六世 みそあまりむつよ にして、六國 むつくに と俱に きみ なの る。東に漁陽、右北平、遼西、遼東有り、西に上谷、代郡、雁門を ち、南に涿郡の易、容城、范陽を得、北の新城、故安、涿縣、良鄉、新昌、及び勃海の安次は、皆が燕の わけ なり。樂浪、玄菟も亦た宜しく焉れ くべきならむ。

 燕の きみ なの りて十世 とよ 、秦の六國 むつくに を滅ぼさむと おも へば、燕の きみ 太子 みこ の丹は勇士 ますらを の荊軻を西に遣りて秦の きみ を刺さしめむとするも、成らずして に、秦は遂に いくさ を舉げて燕を滅ぼしたり。

 薊は南に齊趙と かよ ひ、勃と碣の あひま たる ひとつ 都會 みやこ なり。初め太子 みこ の丹は勇士 ますらを もてな して養ひ、後宮 きさきのみや の美しき をみな を愛づることなく、民は化はりて以ちて ならひ と為し、今に至るまで猶ほ然り。賓客 まらうと は相ひ過ぐれば、 つま を以ちて宿に侍らせしめ、嫁取りの夕べも男女 をめ の別れ無く、反りて以ちて はゑ と為す。後に やうや くたるか頗るなるかに止みたるも、然れども つひ に未だ改まらず。其の ならひ は愚かにして あら おもひはかり は少なし、輕薄 あさはか にして おごそ かに無かりけるも、亦た ける所も有り、 ゆくりな き人に敢てしたるは、燕丹の遺したる ならはし なり。

 上谷から遼東に至る地は廣く民は まれ にして、 しきり ゑびす あた かうむ り、 ならひ は趙代と相ひ たぐひ し、魚 しを なつめ 栗の めぐみ 有り。北に烏丸、夫餘と あらそ ひ、東に真番の めぐみ あきなひ す。

 玄菟、樂浪は、武帝の時に置かれ、 いず れも朝鮮、濊貉、句驪の蠻夷 ゑびす たり。殷の道は衰へ、箕子は之れより朝鮮に のが れ、其の民を教ゆるに禮義を以ちてし、 はたけ こがひ はたおり おこ る。樂浪と朝鮮の民の犯禁 おきて 八條 やつのきまり 、殺すを れば、當時 このとき を以ちて償ひ殺す。傷つけたるを れば、 いひ を以ちて償ふ。盜む者を れば、男は沒入 とりあげ して其の家の しもべ と為し、女子 をみな はしため と為し、自ら贖はむと おも ひたる者は、 ひとり 五十萬 いそよろづ 。免れて民 ると雖も、 ならひ は猶ほ之れを ぢ、嫁取りは もと むる所無く、是れ以ちて其の民は つひ に相ひ盜むことなく、門戶 の閉ざす無く、婦人 をみな 貞信 みさを ありて淫辟 よこしま せず。其の はたけ の民の飲食 をし 籩豆 たかつき を以ちてするも、都邑 みやこ は頗る つかさ 及び內郡 うつのこほり 賈人 あきひと 放效 まね し、往往 ときどき 杯器 うつは を以ちて みたり。 こほり は初め つかさ を遼東より取り、 つかさ は民の くら を閉ざすこと無からむを見るも、賈人 あきひと の往く者は、夜に則ち盜みを るに及び、 ならひ やうや ますます 薄まりたり。今や犯禁 おきて に於けるや やうや し、六十餘 むそあまり きまり に至る。貴ぶ可き かな 、仁賢の おしへ や。然るに東夷 あづまゑびす 天性 うまれながら 柔順 すなお 三方 みかた の外より異なり、故に孔子は道の行はれざるを悼み、 いかだ を海に設け、九夷に すま ひたらむと おも ひたるも、 ゆえ 有るかな。樂浪の海の中に倭の人有り、分かれて百餘國 ももくにあまり つく り、歲時 とき を以ちて たてまつ まみ えに來たると云へり。

 危四度 り斗六度に至るは、之れを析木の次と謂ひ、燕の わけ なり。



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