高麗



 東夷の高麗国は、西は魏虜の国境に接している。宋の末には、高麗王楽浪公の高璉は使持節、散騎常侍、都督營平二州諸軍事、車騎大将軍、開府儀同三司となった。太祖建元元年には、 よびな は驃騎大将軍に進んだ。三年には、使者を派遣して貢献 みつぎ させた。船舶に乗って海を渡り、訳者を使わせていつも通訳をさせていた。魏虜にも同様に使者を出していたが、彊盛であったから制御できなかった。

 魏虜は諸国の使者を やしき を置いていた。齊からの使者は第一、高麗はこれに次ぐ。永明七年、平南參軍の顏幼明と冗從僕射の劉思斅は魏虜に使わされた。魏虜の元會は、高麗の使者の続きに並んだ。顔幼明はニセモノの主客郎の裴叔令に言った。「我々は上華より銜命 みことのり をお受けし、 そち らの国に告げてやろうとして来たのだぞ! お前たちは魏を唯一とし、他の外夷から我々の後姿を遠くから仰ぎ見ることができないようにしているが、これは敵対行為に他ならぬ。ましてや東夷の小貊は(我が)朝廷に臣属しておるのに、今日わざわざ我らと一緒に足を並べさせおるとは……!」劉思斅もニセモノの南部尚書の李思沖に言った。「我が聖朝に魏の使者が滞在した時も、いまだかつて小国と一緒に列べたことなどない。 そち も同じくそうすべきではないか!」劉思沖も言った。「まったくその通り。主副の者は殿上までは昇ることができないものの、それだけのことに過ぎぬ。その間にも、座席や立ち位置は十二分に高くしてあった。お互いが合わせれば、足りることではないか!」劉思斅は言った。「李道固昔使は、衣冠を正すためにも距離を置かれただけである。魏国は必ず纓冕して来ていたが、その出立ちを否定したことがあったか?」顔幼明も同じく魏虜の主に言った。「相並びたる二国といえば、斉と魏の他にない。辺境の小狄をわざわざ臣のすぐ後ろに立たせるのか。」

 高麗の習俗は、窮袴を着用し、折風の一梁を冠とし、これを幘という。五経を読むことを知っている。使者が京師 みやこ に滞在していた時のこと、彼に中書郎の王融が「服の乱れは、身の災いですぞ。頭の上に鎮座されているのは何でございましょう。」と戯れて言うと、「これは古弁の遺像に即しております。」と答えた。

 高璉は齢百歲余りにして んだ。隆昌元年、高麗王樂浪公高雲を使持節、散騎常侍、都督營平二州諸軍事、征東大将軍、高麗王、樂浪公とした。建武三年、〈原闕〉功績に報いて勤仕をねぎらう。実に烈名なるものがあった。仮行寧朔将軍臣の姐瑾等四人は、忠誠を実行して振るい尽くし、国難を払い除け、志は勇敢にして決断力があり、しかも剛毅である。威名とどろく将に等しく、難攻不落の城のようだと言わねばなるまい。もとより蕃の社稷には、論功して勤仕をはかった。要職に抜擢せねばなるまい。今回は先例に依拠して行職を仮借しよう。伏して願わくば、恩愍によって仮借した官位を聴きいれて頂きたい。寧朔将軍、面中王の姐瑾よ、長年にわたる時節の務めと武功を並べて讃え、今回は行冠軍将軍、都将軍、都漢王を仮借する。建威将軍、八中侯の餘古よ、弱冠にして輔佐し、忠誠と実行は早くも著名なるぞ。今回は行寧朔将軍、阿錯王を仮借する。建威将軍の餘歷よ、平素からの忠款、文武ともに功績あり、今回は龍驤将軍、邁盧王を仮借して行わせることにする。廣武将軍の餘固よ、時節の務めに忠実なる実行があり、国政に栄光を示した。今回は建威将軍、弗斯侯を仮借して行わせる。

 牟大も次いで表した。「臣の派遣した行建威将軍、廣陽太守、兼長史臣の高達、行建威将軍、朝鮮太守、兼司馬臣の楊茂、行宣威将軍、兼參軍臣の會邁等の三人は、穢れなく明らかに行なうことを志し、忠款は早くも世に広まっております。泰始の中に往き、使者を宋朝に並べました。現在は使臣に任せ、危険を冒して険しい波を乗り越え、その功効の獲得を重ねたのだから、どうか進爵をお与え下され。謹みて先例に依拠し、それぞれに行職を仮借いただきたい。まさに聖なる恩沢の霊妙たる祝福は、万里につまだつもので、ましてや みずか らの天の庭の足元にありながら、 さいわい を蒙っておりませぬ。伏して願わくば、天より特別の愍みの正式な官位を鑑みて頂きたく思います。高達の辺境での功効は早くも世に広まり、公務に勤労しておりますが、現在は龍驤将軍、帯方太守を仮借して行なっております。楊茂は零台を清めて祀り、公務の廃れることのないようにしているのに、現在は建威将軍、廣陵太守を仮借して行なっております。會邁は繊細に志を墨守し、頻繁に功効に勤めを致しましたが、現在は行廣武将軍、清河太守を仮借しています。」 みことのり して認可し、ともに軍號と太守に位を賜り、使持節、都督百濟諸軍事、鎮東大将軍とした。兼謁者僕射の孫副を使者とし、亡き祖父の牟都に策命して大襲し、百済王として言った。「ああ、さて其方は世代を重ねて忠懃、忠誠は世に広まり遥かから表をもたらし、大海原からの路は澄み渡り、朝貢を約束して変わることがなかった。天下の常道を遵守し、これによって天の明命を継承された。なんと欽慕なることか! その盛況なる事業を継承されたことを敬う気持ちを慎むことができようか! 行都督百濟諸軍事、鎮東大将軍百濟王牟大今に祖父の牟都から大襲させて百済王とし、即位の章綬等として玉銅虎竹符四について みことのり つく ろうではないか。その拝受は、なんという幸運であろうか!」

 この歲、魏虜もまた騎兵数十万を出して百濟 くだら を攻め、その境界に入ったが、牟大は将の沙法名、贊首流、解禮昆、木干那を派遣し、諸衆を引率させて虜軍を襲撃し、大いにこれを破った。建武二年、牟大は使者を派遣して表を ささ げた。「臣は昔から封を受け、代々にわたって朝廷の栄光を被り、かたじけなくも節鉞を荷い、列なる罪人どもを討ち払って参りました。以前に姐瑾等は共に栄光ある官位を蒙り、臣は万物の太平をこい願っております。去庚午年、獫狁は改悛することなく挙兵し、深くまで迫りましたが、臣は沙法名等を派遣し、軍を統領して逆に討ち、宵に襲って雷撃の如く打ち据え、匈梨は惶懼をたぎらせ海蕩のように崩れ去りました。乗じて奔走し、追撃して斬り伏せ、死屍は野を赤く染めました。これによってその鋭気を挫き、暴力を取り上げ凶事を隠すようになったのです。現在の国家の謐静は、実に沙法名等の計略によるもので、その勲功を重ねたことから、どうか褒顕をあらしめんことを。現在は沙法名に行征虜将軍、邁羅王を仮借し、贊首流は行安国将軍とし、辟中王の解禮昆を行武威将軍とし、弗中侯の木干那は以前にも軍功があり、次いで臺舫を陥落したことから、行廣威将軍、面中侯としています。伏して願わくば、天恩の特別なる愍みによって官位を聴こしめんことを。」次の表には、「臣の派遣した龍驤将軍、楽浪太守兼長史臣の慕遺、建武将軍、城陽太守兼司馬臣の王茂、兼參軍、振武将軍、朝鮮太守臣の張塞、揚武将軍の陳明は、官にあって私を忘れ、ただ公のみに務めるばかり、危を見ては命を授け、難を踏んでも顧みることなし。現在は使臣に任せ、危険を冒して険しい波を渡り、その真実の忠誠を尽くしました。実にどうか進爵し、それぞれに行署を仮借ください。伏して願わくば聖朝の正式な官位を特別に賜らんことを。」とあった。 みことのり して認可し、並んで軍號を賜った。








(※1)魏虜
 北朝の魏のこと。虜は蛮族を意味する。魏虜という表記は、南朝の視点から北朝を蔑んでの称。本書『南斉書』は南朝の斉の視点を有する史書である。
 中国は三国時代から晋の統一があったが、僅か50年で天下は乱れた。そのきっかけは北方民族の流入である。これによって晋は南方に逃れ、北方には様々な民族が国を建てては滅ぼすことを繰り返す乱世となった。南朝からしてみれば、正統な漢族王朝は南朝であるという自負があり、北朝には漢族の王朝を狂わせたことに対する異民族への敵意と蔑視があり、その確執を表現した呼称と言えよう。

(※2)宋
 南北朝時代の南朝宋のこと。南斉の前の王朝。

(※3)高璉
 高句麗王。三国史記における長寿王のこと。

(※4)ニセモノの主客郎の裴叔令、ニセモノの南部尚書の李思沖
 「ニセモノの」は南朝視点での北魏への蔑視に基づく。当然ながら、斉は南朝が本来の正統な王朝だと考えているが、北朝が同じく中華王朝の正統を主張していることから、その名乗る官職などはすべて偽りとしており、この記述はそれに因む。

(※5)小貊
 朝鮮半島北部の部族。高句麗の別称としても用いられる。

(※6)李道固昔使
 かつて北魏の使者を務めた李道固のこと。かつて南斉を訪れた際、斉武帝が酒宴を開き、そこで酒を勧められた李道固は、公務の場で私的な施しは受けられないとして固辞したことがあり、このことを述べたのだと思われる。

(※7)纓冕
 冠とあごひものこと。正装。

(※8)窮袴
 股の縫い合わせのある(スカート状でない)袴。古代中国の正装と記録される。

(※9)折風
 中国における古来の冠の名。

(※10)幘
 髷を隠すための頭巾。

(※11)高雲
 おそらく高句麗の文咨明王(明治好王)のこと。長寿王の孫。三国史記では、諱は羅雲とされている。五胡十六国時代に北燕を立てた高雲(慕容雲)とは別人。

(※12)姐瑾
 三国時代の百済の将軍?

(※13)餘古、餘歷
 餘という姓からして、おそらくは百済人だと思われる。

(※14)牟大
 三国史記では東城王の諱である。おそらく同一人物。南斉書では百済の伝がなく、高句麗と一元化されている。当時の百済は高句麗の長寿王に滅ぼされ、一時は国力が大幅に減退していた。ここに記される百済に関する記事は、百済が再び独立した国家として南斉に承認されるまでの状を記したものである。

(※15)高達
 こちらは高氏なので高句麗人か?

(※16)牟都
 東城王の祖父ということになっているが、よくわからない。彼の祖父で百済の王位を得たといえば、おそらくは長寿王に敗れた亡国の王たる近蓋婁王ではあるが、その諱は慶司であることから、あまり接続されない。三国史記の百済本紀東城王(牟大)紀にも、冊府元亀から牟都についての文章を引用しつつ、南斉書の記述と併せていずれにも牟都が百済王かのように記されているが、『三韓古記』には牟都が百済王だとする記録はないとし、また牟大についても盖鹵王の孫、盖鹵の第二子の昆支の息子であって、その祖は牟都ではないとして、南斉書の記述について疑念が表明されている。

(※17)沙法名、贊首流、解禮昆、木干那
 三国史記にこれらの人物は登場しない。東城王紀五年には南斉に沙若思という使者を派遣しようとしたが高句麗に阻まれて行けなかったという記事が掲載されており、武寧王紀二十三年にも築城のために沙烏が人民を徴発したという記事が掲載されている。おそらく沙氏として同族ではないかと思われる。

(※18)虜軍
 虜は蛮族のこと。魏を指す。

(※19)節鉞
 皇帝から賜られるまさかり。軍事を委任することを意味する。

(※20)姐瑾
 三国史記には登場しない。日本書紀の継体天皇紀七年には、姐彌文貴将軍なる人物が登場し、おそらくこの姐彌という姓が姐と同一と思われる。

(※21)獫狁
 中国北西部に存在していた部族。ここでは魏のこと。

(※22)匈梨
 一般には匈犁と表記される。北方民族の匈奴。ここでは魏を指す。

(※23)征虜将軍
 南斉の官職。虜は蛮族を指し、異民族の征伐をする将軍。

(※24)邁羅王
 邁羅は百済の地名。城の名。魏志韓伝に登場する万盧国に比定される。

(※25)行安国将軍
 どの官位に属するかは不明。

(※26)辟中王
 辟中は百済の地名。旧加羅地域の国として日本書紀にもその名が登場する。

(※27)行武威将軍
 どの官位に属するかは不明。

(※28)弗中侯
 弗中は百済の地名。

(※29)臺舫
 不明。

(※30)龍驤将軍
 晋から南北朝時代にかけて存在した将軍号。三国時代に晋が呉を討伐した際、益州刺史王濬に授けたことから始まる。地位は一定ではなく、北魏と北斉では第三品。隋の時代に廃止された。

(※31)慕遺
 百済の官僚であるが、三国史記には登場しない。中国系と推定される。

(※32)建武将軍
 品秩は四品。

(※33)王茂
 百済の官僚であるが、三国史記には登場しない。中国系と推定される。

(※34)振武将軍
 品秩は四品。

(※35)張塞
 百済の官僚であるが、三国史記には登場しない。中国系と推定される。

(※36)揚武将軍
 品秩は四品。

(※37)陳明
 百済の官僚であるが、三国史記には登場しない。中国系と推定される。陳明の子孫の陳法子は唐に投降して中国で将軍となっており、その墓誌も中国で出土されている。それによれば、陳明の先祖は、後漢末の黄巾の乱以降に中国から朝鮮に移住した人物とのこと。




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≪白文≫
 東夷高麗國、西與魏虜接界。宋末、高麗王樂浪公高璉為使持節、散騎常侍、都督營平二州諸軍事、車騎大將軍、開府儀同三司。太祖建元元年、進號驃騎大將軍。三年、遣使貢獻、乘舶汎海、使驛常通、亦使魏虜、然彊盛不受制。

 虜置諸國使邸、齊使第一、高麗次之。永明七年、平南參軍顏幼明、冗從僕射劉思斅使虜。虜元會、與高麗使相次。幼明謂偽主客郎裴叔令曰、我等銜命上華、來造卿國。所為抗敵、在乎一魏。自餘外夷、理不得望我鑣塵。況東夷小貊、臣屬朝廷、今日乃敢與我躡踵。思斅謂偽南部尚書李思沖曰、我聖朝處魏使、未嘗與小國列、卿亦應知。思沖曰、實如此。但主副不得升殿耳。此閒坐起甚高、足以相報。思斅曰、李道固昔使、正以衣冠致隔耳。魏國必纓冕而至、豈容見黜。幼明又謂虜主曰、二國相亞、唯齊與魏。邊境小狄、敢躡臣蹤。

 高麗俗服窮袴、冠折風一梁、謂之幘。知讀五經。使人在京師、中書郎王融戯之曰、服之不衷、身之災也。頭上定是何物。答曰、此即古弁之遺像也。

 高璉年百餘歲卒。隆昌元年、以高麗王樂浪公高雲為使持節、散騎常侍、都督營平二州諸軍事、征東大將軍、高麗王、樂浪公。建武三年、〈原闕〉報功勞勤、實存名烈。假行寧朔將軍臣姐瑾等四人、振竭忠効、攘除國難、志勇果毅、等威名將、可謂扞城、固蕃社稷、論功料勤、宜在甄顯。今依例輒假行職。伏願恩愍、聽除所假。寧朔將軍、面中王姐瑾、歷贊時務、武功竝列、今假行冠軍將軍、都將軍、都漢王。建威將軍、八中侯餘古、弱冠輔佐、忠効夙著、今假行寧朔將軍、阿錯王。建威將軍餘歷、忠款有素、文武列顯、今假行龍驤將軍、邁盧王。廣武將軍餘固、忠効時務、光宣國政、今假行建威將軍、弗斯侯。

 牟大又表曰、臣所遣行建威將軍、廣陽太守、兼長史臣高達、行建威將軍、朝鮮太守、兼司馬臣楊茂、行宣威將軍、兼參軍臣會邁等三人、志行清亮、忠款夙著。往泰始中、[8]比使宋朝、今任臣使、冒涉波險、尋其至効、宜在進爵、謹依先例、各假行職。且玄澤靈休、萬里所企、況親趾天庭、乃不蒙賴。伏願天監特愍除正。達邊効夙著、勤勞公務、今假行龍驤將軍、帶方太守。茂志行清壹、公務不廢、今假行建威將軍、廣陵太守。≪萬≫〔邁〕執志周密、屢致勤効、今假行廣武將軍、清河太守。詔可、竝賜軍號、除太守。為使持節、都督百濟諸軍事、鎮東大將軍。使兼謁者僕射孫副策命大襲亡祖父牟都為百濟王。曰、於戲。惟爾世襲忠懃、誠著遐表、滄路肅澄、要貢無替。式循彝典、用纂顯命。往欽哉。其敬膺休業、可不慎歟。制詔行都督百濟諸軍事、鎮東大將軍百濟王牟大今以大襲祖父牟都為百濟王、即位章綬等玉銅虎竹符四。〔王〕其拜受、不亦休乎。

 是歲、魏虜又發騎數十萬攻百濟、入其界、牟大遣將沙法名、贊首流、解禮昆、木干那率眾襲擊虜軍、大破之。建武二年、牟大遣使上表曰、臣自昔受封、世被朝榮、忝荷節鉞、剋攘列辟。往姐瑾等竝蒙光除、臣庶咸泰。去庚午年、獫狁弗悛、舉兵深逼。臣遣沙法名等領軍逆討、宵襲霆擊、匈梨張惶、]崩若海蕩。乘奔追斬、僵尸丹野。由是摧其銳氣、鯨暴韜凶。今邦宇謐靜、實名等之略、尋其功勳、宜在褒顯。今假沙法名行征虜將軍、邁羅王、贊首流為行安國將軍、辟中王、解禮昆為行武威將軍、弗中侯、木干那前有軍功、又拔臺舫、為行廣威將軍、面中侯。伏願天恩特愍聽除。又表曰、臣所遣行龍驤將軍、樂浪太守兼長史臣慕遺、行建武將軍、城陽太守兼司馬臣王茂、兼參軍、行振武將軍、朝鮮太守臣張塞、行揚武將軍陳明、在官忘私、唯公是務、見危授命、蹈難弗顧。今任臣使、冒涉波險、盡其至誠。實宜進爵、各假行署。伏願聖朝特賜除正。詔可、竝賜軍號。






 ≪書き下し文≫
 東夷の高麗國は、西は魏の ゑびす と界 さかひ ぐ。宋の末、高麗王樂浪公の高璉は使持節、散騎常侍、都督營平二州諸軍事、車騎大將軍、開府儀同三司と為る。太祖建元元年、 よびな を驃騎大將軍に進む。三年、使 つかひ を遣りて貢獻 みつぎ たり、 ふね に乘りて海を わた り、 おさ 使 つか はして常に みち し、亦た魏の ゑびす 使 つかひ し、然れども彊盛 さかん にして おさむ を受けざり。

  ゑびす 諸國 もろくに 使 つかひ やしき を置き、齊の使 つかひ は第一、高麗は之れに次ぎたり。永明七年、平南參軍の顏幼明、冗從僕射の劉思斅は ゑびす 使 つかひ す。 ゑびす の元會、高麗の使 つかひ と相ひ次ぎたり。幼明は偽りの主客郎の裴叔令に謂ひて曰く、我等は上華より銜命 みことのり し、 そち の國に げたらむと來たり。為す所の抗敵 たむかひ は、魏を はじめ にし、 ほか 外夷 そとつゑびす り、 なら びて我が鑣塵を望むを得ざること在らむかな。況して東夷 あづまゑびす の小貊、朝廷に臣屬 きたるも、今日なれば乃ち敢えて我と とも くびす みたり、と。思斅は偽の南部尚書の李思沖に謂ひて曰く、我が聖朝の魏の使 つかひ ところ するは、未だ嘗て小國と與に列びたることなし。 そち も亦た まさ に知るべし、と。思沖曰く、實に此の如し。但だ主副は升殿を得ざるのみ。此の すき に坐り起きすること甚だ高し、相ひ報ゆるに以て足れり、と。思斅曰く、李道固昔使は、正しく衣冠を以て隔を致すのみ。魏國は必ず纓冕して至るも、豈に すがた しるぞ かるる、と。幼明も又た ゑびす あるぢ に謂ひて曰く、二國 ふたつのくに の相ひ ぐは、唯だ齊と魏のみ。 くにへ さかひ の小狄、敢えて臣の あと みたらむ、と。

 高麗の ならひ 、窮袴を 、折風の一梁を かむ り、之れを幘と謂ふ。五經を讀むを知る。使人 つかひ 京師 みやこ に在り、中書郎の王融は之れに戯れて曰く、服の不衷 まことならず は、身の わざはひ なり。頭の上に定むるは是れ何物ぞ、と。答へて曰く、此れ古き弁の遺りし かたち きたり、と。

 高璉は よはひ 百餘歲にして す。隆昌元年、以て高麗王樂浪公高雲は使持節、散騎常侍、都督營平二州諸軍事、征東大將軍、高麗王、樂浪公と為す。建武三年、〈原闕〉 いさお に報ひて つとめ ねぎら ひ、實に名の はげ しき り。假行寧朔將軍臣の姐瑾等四人、 まこと しるし を振るい くし、國の難を はら い除き、志勇 いさま しくして果毅 つよ きこと、威しき名のある すけ に等しく、扞城と謂ふ可し。固より くに 社稷 おほもとを いさお を論ひて勤を はか り、宜しく甄顯 あきらむ を在らしむべし。今は ならはし に依りて すなは ち行職を したらむ。伏して願はくば、恩愍 いつくしみ にして くらひ の假す所を聽かむことを。寧朔將軍、面中王の姐瑾よ、 こよみ に時の務めを贊へ、 いくさ いさお 竝列 ならび 、今は行冠軍將軍、都將軍、都漢王を假る。建威將軍、八中侯の餘古よ、弱冠 わかく して輔佐 たすけ まこと いさお はや あきら み、今、行寧朔將軍、阿錯王を假したらむ。建威將軍の餘歷、 まこと まごころ もと 有り、文武 なら びに あきら み、今、假りに龍驤將軍、邁盧王を行はしむ。廣武將軍の餘固よ、時の務めに まこと いさお あり、國政 まつりごと べ、今、行建威將軍、弗斯侯を したらむ。

 牟大も又た ふみ に曰く、臣の遣る所の行建威將軍、廣陽太守、兼長史臣の高達、行建威將軍、朝鮮太守、兼司馬臣の楊茂、行宣威將軍、兼參軍臣の會邁等の三人 みつたり 、清く あき らかなるを行はむと志し、忠款 まこと つと あらは りたる。泰始の中に往き、使 つかひ を宋朝に なら べ、今臣使 をみのつかひ に任せ、冒して波の險しきを涉り、其の いさを に至るを尋ぬれば、宜しく爵を進むを在らしめ、謹みて先例 さきつならはし に依り、 おのおの に行職を假るべし。且に ひじり たる めぐみ たま たる さいはひ 、萬の里の企ぶ所、況や みづか ら天の庭を あしもと にするも、乃ち賴を蒙らざり。伏して願はくば、天の とりは けなる愍みの くらひ の正しかるを かむが みむことを。達の くにへ いさを つと なる あきら み、公務 おほやけ 勤勞 つと むるも、今は假に龍驤將軍、帶方太守を行はしむ。茂は壹を行清 まつり するを志し、公務 おほやけ は廢るることなからしむるも、今は行建威將軍、廣陵太守を假る。≪萬≫〔邁〕は志を周密 きめこまか まも り、 しばしば 勤効 つとめ を致すも、今は行廣武將軍、清河太守を假り、と。詔して ゆる し、竝びに軍號 いくさのくらひ を賜り、太守に くらひ したる。使持節、都督百濟諸軍事、鎮東大將軍と為す。兼謁者僕射の孫副を使 つかひ せしめ、亡き祖父の牟都に策命大襲して百濟王と為す。曰く、於戲 ああ 。惟れ なむぢ 忠懃 まこと を世に かさ ね、 まこと あらは れて遐かに ふみ し、 ひろ き路は肅澄 すみわたり みつぎ むす びて替ゆること無し。彝典 のり 式循 したが ひ、 もち 顯命 あめのみことのり ぎたらむ。往欽 つつましき かな 。其の さかん たる みわざ けたるを敬ふは、慎まざる可きか。行都督百濟諸軍事、鎮東大將軍百濟王牟大今に以て祖父の牟都を大襲せしめて百濟王と為し、即位の章綬等に玉銅虎竹符四を みことのり つく らむ。〔王〕其の拜し受くるは、亦た さいはひ ならずや、と。

 是の歲、魏の えびす も又た うまいくさ 數十萬 いくとよろづ はな ちて百濟 くだら を攻め、其の さかひ に入らば、牟大は すけ の沙法名、贊首流、解禮昆、木干那を遣り、 ひと を率いせしめて ゑびす の軍を襲ひ擊ち、大いに之れを破る。建武二年、牟大は使 つかひ を遣りて ふみ ささ げて曰く、臣は昔 り封を受け、 よよ 朝の さかえ を被り、 かたじけな くも節鉞 まさかり を荷い、 つら とがびと はら ひたり。 さき に姐瑾等は竝びて光除 くらひ を蒙り、臣は ことごと くの やすら なるを こひねが はむ。去庚午年、獫狁は あらた むること く、兵を舉げて深く逼る。臣は沙法名等を遣りて いくさ おさ めせしめて逆ひ討ち、宵に襲ひて すみやか に擊ち、匈梨は おそ れを ひら き、崩るること海蕩の若し。乘りて はし り追ひ斬り、僵尸 しかばね は野を あか らむ。是れに由りて其の銳氣を摧き、暴を かか げ凶を かく したり。今の邦宇 くに 謐靜 しずまり たるは、 じつ に名等の はからひ にして、其の功勳 いさをし を尋ぬれば、宜しく褒顯 ほまれ を在らしむるべし。今は沙法名に行征虜將軍、邁羅王をを り、贊首流は行安國將軍と らしめ、辟中王の解禮昆を行武威將軍と らしめ、弗中侯の木干那前に軍功有り、又た臺舫を拔き、行廣威將軍、面中侯と らしむ。伏して願はくば、天恩の とりは けに愍み くらひ を聽こしめむことを、と。又た ふみ して曰く、臣の遣るらしむ所は龍驤將軍、樂浪太守兼長史臣を行ひたる慕遺、建武將軍、城陽太守兼司馬臣を行なひたる王茂、參軍を兼ね、振武將軍、朝鮮太守臣を行なひたる張塞に、揚武將軍を行なひたる陳明、官に在り わたくし を忘れ、唯だ おほやけ に是れ務め、危を見て みことのり を授け、難を蹈みて顧みること し。今は臣使 つかひ を任せ、冒して波の險しきを涉り、其の まこと まこと なるを盡したり。實に宜しく爵を進め、 おのおの に行署を假るべし。伏して願はくば聖朝の くらひ の正しきを とりはけ けに賜らむことを、と。 みことのり して ゆる し、竝びて軍號 いくさのくらひ を賜ふ。