焚巣館 -論衡 扶余王の東明について-

論衡 扶余王の東明について



現代語訳

 北夷の橐離の国王の侍女に身ごもった者がいたので、王は彼女を殺そうとしたが、侍女は「鶏卵たまごくらいの大きさのエネルギー体が天から私の身体に降りてきました。だから身ごもったのです。」と反論した。

 その後、生まれた子供を豚小屋の中に捨てたが、豚は口から息をその子に吹きかけたので、死ななかった。また場所を移して今度は馬を囲う柵の中に置き、馬に踏みつぶさせて、その子を殺してやろうとしたが、今度は馬が口から息をその子に吹きかけ、死ななかった。王は「もしや天子なのではないか」と疑い、その子の母に回収させ、その子を奴隷として養うように言いつけると、東明と名付けて牛馬の牧畜させた。

 東明は射撃が上手く、王はその国を奪われるのではないかと恐れ、彼を殺そうとした。東明は逃げ出し、南に向かって掩淲水までたどり着き、弓で川を擊つと、魚とすっぽんが浮かび上がり橋となって東明は渡ることができたが、魚とすっぽんが解散して追手の兵は渡ることができなかった。こうして夫餘を都として王となった。だから北夷には夫餘国があるのだ。東明の母は初めて妊娠した時、エネルギー体が天から降るのを見た。生まれてからは、彼を棄てても豚や馬は息を彼に吹きかけ、彼を生かした。大人になってからは、王が彼を殺そうとしたのに、弓で川を擊てば、魚やすっぽんが橋となった。天がまだ死なせてはならぬと命じていたから豚や馬の救済があり、夫餘を都として王にすることが命じられていたから魚やすっぽんが橋となる助けがあったのだ。

注記
(※1)橐離
 同様の伝記において、三国志扶余伝には、『高離』とされ、後漢書扶余伝には『索離』とされている。橐離と高離と索離に誤写があると思われるが、どちらが正しいのかは不明。

(※2)東明
 扶余の始祖とされるが、梁書には高句麗の祖が東明とされ、三国史記では東明聖王の名が高句麗始祖の朱蒙の名とされている。

(※3)掩淲水
 後漢書の扶余伝も同様の名であるが、三国志には『施掩水』とあり、梁書には淹滞水とされる。また、魏書には『一大水』とあるが、これは「一つの大きな川」という意味であるから名ではないだろう。三国史記には、『淹淲水』あるいは『盖斯水』とされる。

漢文
 北夷橐離國王侍婢有娠、王欲殺之。婢對曰、有氣大如雞子、從天而下我、故有娠。後產子、捐於豬溷中、豬以口氣噓之、不死、復徙置馬欄中、欲使馬藉殺之、馬復以口氣噓之、不死。王疑以為天子、令其母收取、奴畜之、名東明、令牧牛馬。東明善射、王恐奪其國也、欲殺之。東明走、南至掩淲水、以弓擊水、魚鱉浮為橋、東明得渡。魚鱉解散、追兵不得渡。因都王夫餘、故北夷有夫餘國焉。東明之母初妊時、見氣從天下。及生、棄之、豬馬以氣吁之而生之。長大、王欲殺之、以弓擊水、魚鱉為橋。天命不當死、故有豬馬之救、命當都王夫餘、故有魚鱉為橋之助也。
書き下し文
 北のゑびすの橐離の國王くにきみ侍婢はしためみごもる有り、きみは之れを殺さむとおもひたり。はしためこたへて曰く、ちからの大いなること雞子たまごの如き有り、あめすなはち我に下り、故にみごもる有り、と。後に產まるる子、豬溷ぶたごやの中につれば、ぶた口氣いきを以ちて之れをき、死なず、ふたたうつして馬のおばしまの中に置き、馬を使ましめ、之れを殺したらむとおもふも、馬はふたた口氣いきを以ちて之れをき、死なざりき。きみの疑うらくは以為おもへらく天子ならむ、として其の母にいひつけして收め取らせしめ、之れを奴畜やしなはせしめ、東明と名づけ、いひつけして牛馬をやしなはせしむ。東明は善く射ち、きみは其の國を奪ひたらむことを恐るるや、之れを殺さむとおもひたり。東明はのがれ、南は掩淲水に至り、弓を以ちてかはを擊たば、うをすつぽんは浮かびて橋と為り、東明は渡るを得。うをすつぽんは解き散ち、追兵おひては渡るを得ざりき。因りて夫餘に都しきみたり、故に北のゑびすに夫餘の國れ有らむ。東明の母は初めて妊みし時、ちからあめり下るを見。生まるるに及びたれば、之れを棄つるも、豬馬いのうまいきを以ちて之れを吁き、而りて之れを生かしたり。長大おとなびたれば、きみは之れを殺さむと欲おもふも、弓を以ちてかはを擊たば、うをすつぽんは橋と為る。天命あまつみことまさに死なせむとせざり、故に豬馬のすくひ有り、みことのりしてまさに夫餘に都しきみたらしめむとし、故にうをすつぽんの橋と為りたるのたすけ有るなり。


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