韓は帯方郡の南にあり、東西は海を境界とし、南は倭と接し、面積はおよそ四千里である。三つの種族があり、ひとつは馬韓、ふたつめは辰韓、みっつめは弁韓という。辰韓とは、古の辰国である。馬韓は西にあり、その土着の民は、種植をし、養蚕を知り、綿布を作っている。それぞれに統率者がおり、大なる者は自ら臣智と名乗り、その次を邑借とし、山海の間に散在している。城郭はない。爰襄国、牟水国、桑外国、小石索国、大石索国、優休牟涿国、臣濆沽国、伯済国、速盧不斯国、日華国、古誕者国、古離国、怒藍国、月支国、咨離牟盧国、素謂乾国、古爰国、莫盧国、卑離国、占離卑国、臣釁国、支侵国、狗盧国、卑弥国、監奚卑離国、古蒲国、致利鞠国、冉路国、兒林国、駟盧国、内卑離国、感奚国、萬盧国、辟卑離国、臼斯烏旦国、一離国、不弥国、支半国、狗素国、捷盧国、牟盧卑離国、臣蘇塗国、莫盧国、古臘国、臨素半国、臣雲新国、如來卑離国、楚山塗卑離国、一難国、狗奚国、不雲国、不斯濆邪国、爰池国、乾馬国、楚離国があり、総じて五十国余り。大国には万余りの家、小国には数千の家、十万余りの人戸を統べている。辰王は月支国を治めている。臣智の中には、優越する者として、臣雲新国の遣支報、辰韓安邪国の踧支、濆臣離兒国の不例、拘邪国の秦支廉という よびな を呼ばれることもある。その官は、魏の率善、邑君、歸義侯、中郎將、都尉、伯長を有している。

 (朝鮮)侯の准が よびな として王を僭称した後、燕からの亡命者である衛満に攻撃されて(朝鮮国を)奪われてしまった。魏略には、「昔、箕子の後裔たる朝鮮侯は、周が衰退したことから、燕が自尊して王とし、東の地を侵略しようとすると、朝鮮侯も同じく王を自称し、兵を興して燕を迎え撃つために周室を尊んだ。その大夫の禮が彼を諫め、これによって止まった。礼を西に使わせて燕を説得すると、燕はこれを止めて攻めなかった。後の子孫が徐々に驕虐となり、燕はそこで将の秦開を派遣してその西方を攻め、土地二千里余りを取り上げ、満番汗までを境界とし、朝鮮は遂に弱まった。秦が天下に並び、蒙恬に築かせていた長城が遼東まで到達した。時に朝鮮王に立っていた否は、秦に襲撃されることを畏れ、服従しようと略 はか って秦に属したが、朝会は受け入れなかった。否が死ぬと、その息子の准が立った。二十年余りにして陳勝や項羽が決起し、天下は乱れて燕・斉・趙の民は苦しみ愁嘆すると、少しずつ亡命して准に往き、准はそこで彼らを西方に置いた。漢が盧綰を燕王にすると、朝鮮と燕は浿水より境界とした。盧綰が反乱を起こして匈奴に入ると、燕人の衛満が亡命し、胡服を身につけて、東に向けて浿水を渡り、准の下に参上して降伏すると、「西の国境に居住させることで、中国からの亡命者を朝鮮を守護するための垣根とするがいいでしょう」と准を説得した。これを信じた准は彼を寵愛し、拜して博士とし、これによって圭を賜わると、彼に百里を あた え、西の国境を守るように いいつけ した。衛満は亡命する仲間を誘い、衆勢は徐々に大きくなると、すぐに人をやって准に「漢兵が十道から襲いかかった。」と いつわり の報告をし、宿衛に入りたいと要求すると、そのまま准の方に引き返して攻め込んだ。准は衛満と戦ったが敵わなかった。その左右の宮人を引き連れて海に逃れ入り、韓の地に居住するようになり、自ら韓王と よびな した。〈魏略には、「彼らの子や親で国に留まり続けた者は、これに因んで姓に韓氏を借称した。准が海中で王となり、朝鮮と互いに往来することはなかった。」とある。〉その子孫は絶滅したが、現在の韓人にはまだその祭祀を奉る者がある。漢の時には楽浪郡に属し、四季には朝謁した。魏略には「はじめ、まだ右渠が破れる前のこと、朝鮮相と暦谿卿が諫めたが右渠は用いなかった。東の辰国は、この時に民が隨い出て居住する者も二千戸余り、同じく朝鮮の貢蕃と互いに往来することはなかった。王莽の地皇の時に至り、廉斯鑡は辰韓の右渠帥となったが、楽浪郡は土地が美しく人民も饒楽であると聞いて、亡命して降りに行きたいと望んだ。彼が村落から出ると、畑の中に雀を追い払う男子を一人見たが、彼の言葉は韓人のものではなかった。彼に尋ねると、男子は言った。「私たちは漢人で、名は戸来と言います。私たちの仲間は千五百人いますが、材木の伐採をしているのは、韓に擊たれて捕虜にされたからです。皆が髪を断って奴隷となり、三年が過ぎました。」廉斯鑡は「私はこれから漢の楽浪郡に降ろうとしているのだが、お前も行きたいか、そうでないか。」と言うと、戸來は「行きたい。」と言った。廉斯鑡はこれによって戸来を引き連れて出国し、含資縣にたどり着いた。縣とは郡のことを言う。郡はその場で廉斯鑡を訳者とし、芩 しじばり の中から大船に乗って辰韓に入り、戸来を迎えた。伴って降った仲間は千人以上であったが、そのうち五百人は既に死んでいた。廉斯鑡がこの時に辰韓に言ったことには、「お前たちは五百人を返還せよ。もしそれに違うことになれば、楽浪郡はこれから万の兵を派遣して船に乗せ、お前たちを撃ちに来ようぞ。」と言うと、辰韓は「五百人はもう死にましたが、我々はこれから贖いとして身を正します。」と言った。こうして辰韓から一万五千人を出し、弁韓は布一万五千匹が出された。廉斯鑡は収め取ってまっすぐに帰還した。郡は廉斯鑡の功績と義を表し、冠幘と田宅を賜い、子孫数世にわたった安帝の延光四年の時に至っても、このために課役を免除を受け続けた。

 桓帝と霊帝の末期、韓と濊は強盛となり、郡縣が制御できなくなったので、多くの民が韓国に流入した。建安の中、公孫康は屯有縣以南の荒地を分けて帯方郡とし、公孫模、張敞等を派遣して遺民を収集させ、兵を興して韓と濊を伐ち、かつての民が徐々に出国するようになった。この後、倭と韓は遂に帯方郡に属することになった。景初の中、明帝は密かに帯方太守の劉昕、楽浪太守の鮮于嗣を派遣し、海を越えさせて二つの郡を定めるとともに、諸韓国の臣智は加えて邑君には印綬を賜い、その次は邑長に与えた。その風俗は衣幘を好み、下戸が郡の朝謁に参加する際には、皆が衣幘を借り、自ら印綬と衣幘を所持しているのは千人余りである。部従事の呉林は楽浪がもともと韓国を統べていたことから、辰韓の八国を分割して楽浪郡に与えたが、吏の翻訳に食い違いがあったことから、臣智は激しく怒り、韓も腹を立て、帯方郡の崎離営に攻め込んだ。この時の太守の弓遵と楽浪太守の劉茂は、兵を興してこれを伐ち、弓遵は戦死したが、二郡は遂に韓を滅ぼした。

 その習俗には綱紀が少なく、国邑には主帥がいたものの、村落は雑居し、上手く相互に制御できていたわけではない。跪拜の礼はない。住居には、草屋の土室を作る。その形状はまるで塚のようである。その戸は上にあり、一家を挙げて中に共住し、長幼と男女の別はない。その葬儀には、槨はあるが棺はない。牛馬に乗ることを知らず、牛馬は死者の送別に尽きる。瓔珠を財宝とし、あるいは衣服に縫い付けて装飾とし、あるいは首にかけるか耳に垂らすかし、金銀錦繡を珍物とはしない。その人の性格は強勇、頭に何も被らずに束ねた髪を露出しているのは炅兵と似ている。布袍を着用し、足には革の蹻蹋を履く。その国中ですることがあれば、官家 みやけ の城郭を築かせるに際しては、年少で勇健な者たちは、皆が背中の皮をくりぬいて、大縄をそこに通し、また一丈程度の木を すき にして、日を通して大声をあげながら力仕事をし、それを痛いとすることなく作業を勤め終えれば、とりあえずは すこ やかであるとする。いつも五月に種を撒き終え、鬼神 かみ を祭って群衆が歌舞し、昼夜休みなく酒を飲む。その舞は、数十人を伴って起きて互いに隨い、大地を踏んで(身体を)上下するが、手足は互いに対応しない。演奏の節に鐸舞と似たところがある。十月に農事と土工を終え、同じくこのように戻る。鬼神 かみ を真とし、国邑らがそれぞれ一人の主祭の天神を立て、それを天君と名づけている。また諸国にそれぞれ別の邑があり、それを蘇塗と名づけている。大木を立て、鈴と鼓を縣けて鬼神 かみ に仕える。諸の逃亡者がその中まで入ると、皆それを還さず、好んで賊となる。その蘇塗を立てる わけ は、浮屠に似たところがあるが、行いの善悪が異なっている。その北の地方は郡に近く、諸国はいくらか礼の習俗に通暁してはいるものの、その遠い場所では単なる罪人や奴婢が集合しているようなものである。他に珍しい宝はない。禽獣草木は概ね中国と同じである。大きな栗を産出し、大きさは梨のようである。また細い尾雞を産出し、その尾はどれも長さ五尺余りである。その男子は時々に文身 いれずみ することがある。

 また州胡があり、馬韓の西の海中の大きな島の上にあり、その人はやや背が低く、言語は韓と同じではない。皆が鮮卑のように髪を剃り落としている。なめし皮だけを着用し、牛や豬の養育を好む。その衣には上はあるが下はなく、概ね裸のような姿をしている。船に乗って往来し、韓の中で売買をする。

 辰韓は馬韓の東にあり、その耆老 としより が代々伝えるには、古の亡命者として秦の役を避けて韓国を目指して来ると、馬韓がその東の境界の地を割譲して彼らに与えたと自称している。城柵がある。その言語は馬韓と同じではなく、単語に『国』を『邦』とし、『弓』を弧』とし、『賊』を『寇』とし、『行酒』を『行觴』とし、互いに皆を『徒』と呼び合うのも、秦人に似ている。ただ単に燕や斉から物が名づけられたわけではない。楽浪人を『阿残』という名で呼んでいるが、東方の人は『我』を意味する単語を『阿』としているから、楽浪人のことをかつての自らの残余の人だと思っているのだ。現在はこれを秦韓と名付ける者もいる。もともと六国あったが、徐々に分かれて十二国となった。

 弁辰も十二国、また小さく別れた諸邑もあり、それぞれに渠帥 かしら がいる。大きなものの名は臣智、その次が険側、次が樊濊、次が殺奚、次が邑借である。已柢国、不斯国、弁辰弥離弥凍国、弁辰接塗国、勤耆国、難弥離弥凍国、弁辰古資弥凍国、弁辰古淳是国、冉奚国、弁辰半路国、弁楽奴国、軍弥国〈弁軍弥国〉、弁辰弥烏邪馬国、如湛国、弁辰甘路国、戸路国、州鮮国(馬延国)、弁辰狗邪国、弁辰走漕馬国、弁辰安邪国〈馬延国〉、弁辰瀆盧国、斯盧国、優由国がある。弁辰の韓は合わせて二十四国、大国は四、五千家、小国は六七百家、総計四五万戸である。その十二国は辰王に属す。辰王は常に馬韓人を登用し、それを作り、代々わたって相続させている。辰王が自ら立って王となることはできない。〈魏略には、「彼らが流民であったから、馬韓に制されているのは明らかである。」とある。〉土地は肥沃で、五穀や稲を撒くのに向いている。養蚕に通じており、縑布 かとり を作り、牛や馬に騎乗する。嫁娶の礼俗には、男女の別がある。大鳥の羽で死者を送り、その こころ は死者を天空に飛び上がらせようとしてのことである。魏略には、「その国では、横に木を かさ ねて家屋を作り、牢獄と似ている。国は鉄を産出する。韓濊倭の皆が並んでそれを取り、これらの国の売買では皆が鉄を用い、中国の銭を用いるようである。また、二郡にも供給している。習俗では、歌と舞、酒を飲むことを喜ぶ。瑟があり、その形は きね に似て、それを弾く音曲もある。児が生まれると、すぐに石でその頭を押さえ、それを小さくしようとする。現在の辰韓の人は皆が小さな頭をしている。男女は倭に近く、同じく文身 いれずみ をしている。歩兵として戦い、武具は馬韓と同じ。その習俗は、道を歩いている者が互いにすれ違えば、皆が足を止めて路を譲り合う。

 弁辰と辰韓は雑居し、同様に城郭がある。衣服と住居は辰韓と同じ。言語と法俗 しきたり も互いに似ているが、祠祭 まつ 鬼神 かみ は異なっているところもある、 かまど を設置する場所は、どこも戸の西にある。その瀆盧国は倭と国境が接している。十二国にも王があり、その人の姿は皆が大きい。衣服は清潔で、長髪である。同じく幅広の細布を作る。法俗 しきたり は特に厳峻である。

 正始六年、楽浪太守の劉茂と帯方太守の弓遵は領土の東の濊が高句麗に服属したことから、軍隊を興してこれを伐ち、不耐侯等は邑を挙げて降伏した。その八年、宮闕を詣でて朝貢し、 みことのり をして改めて不耐濊王に拜した。住居は民間に雑じてあり、四季に合わせて郡を詣でて朝謁する。二郡に軍征や賦調があれば、供給役使する。その待遇は民のようである。








(※1)帯方郡
 後漢末期に設置された郡。3世紀初頭に中国北東部に存在する遼東郡を治める太守の地位にあった公孫度は、漢の武帝が紀元前1世紀に設置した楽浪郡を併合した。その後、旧楽浪郡の南半分を割譲して息子の公孫康を太守に据えることで設置されたのが帯方郡である。現在の朝鮮国南西部から韓国北東部と推定される。

(※2)辰国
 衛氏朝鮮の時代に朝鮮半島南部に存在していたとされる国家。本書に先行する漢書と史記に名称のみ登場するが、詳細はわからない。

(※3)臣智
 日本書紀には、朝鮮半島の国家に所属する人物の中に、「叱知 しち 」とつく名を有する者が複数名登場する。崇神紀六十五年に登場する任那の蘇那曷叱知 そなかしち 、神功紀三年に登場する新羅の毛麻利叱知 もまりしち などがそれである。これが本書の臣智と同語であると考えられている。

(※4)爰襄国
 京畿道の南西部に位置する華城市西部の南陽洞、あるいは、京畿道坡州市方面と推定されている。勢力基盤を維持したまま、後に百済に吸収された。

(※5)牟水国
 高句麗好太王碑文に登場する百済国の牟水城と同じ位置だと推測される。高句麗に支配されていた時期は買忽郡、統一新羅の時代には、水城郡であったと考えられる。

(※6)桑外国
 高麗時代の地名「雙阜縣」との音通から現在の京畿道水原市長安区の地域に比定されている。

(※7)小石索国
 京畿道に存在すると推測される。

(※8)大石索国
 上の小石索国に対応し、京畿道にあると推測される。

(※9)優休牟涿国
 京畿道富川市に比定される。

(※10)臣濆沽国
 現在の韓国京畿道安城市陽城面に比定される。3世紀頃まで存続し、その後に百済に服属した。旧高句麗の占領時代には沙伏忽、統一新羅の時代には赤城縣と名される。

(※11)伯済国
 後の海東三国の百済国に比定される。現時点では馬韓の中の小国のひとつに過ぎないが、今後において馬韓諸国をすべて統合して朝鮮半島統一に覇を競う一大国となる。

(※12)速盧不斯国
 現在の韓国京畿道金浦郡に比定される。首洸忽から統一新羅の時代に戌城縣へ改名。

(※13)日華国
 現在の韓国京畿道にあったとされる。

(※14)古誕者国
 現在の韓国京畿道楊平郡付近にあったとされるが根拠は未詳。

(※15)古離国
 現在の韓国京畿道楊州市に比定される。高句麗時代の骨衣奴縣、統一新羅の時代には荒壌縣に改名された。「骨衣」と「古離」の音通。

(※16)怒藍国
 現在の韓国京畿道利川郡陰竹面に比定される。高句麗時代は奴音竹縣、統一新羅時代に陰竹縣と改名。「奴音」と「怒藍」の音通。

(※17)月支国
 現在の忠清南道から全羅南道、全羅北道地域にかけて割拠したとされる当時の大国。青銅器遺物が豊富に発掘される栄山江流域が中心となる。※11の伯済国(百済国)が台頭する以前における馬韓諸国連合の筆頭。また、「月支」の語は三国志に頻出し、ギリシャの系譜を引く西方のグレコ=バクトリア王国周辺の民族を指すが、月支国周辺と比定される地域からは、ギリシャ美術に由来する渦文が多く見られることから、これらに関連性があるのではないかという指摘もある。

(※18)咨離牟盧国
 京畿道利川市の一部に比定される。牟盧は古代韓国語の「村」を意味する「ムロ」「モロ」と推定される。

(※19)素謂乾国
 韓国の京畿道か忠清南道保寧市に位置していたと比定される。

(※20)古爰国
 韓国京畿道から忠清南道に位置していたと比定される。

(※21)莫盧国
 韓国の忠清南道に位置していたと比定される。

(※22)卑離国
 韓国の忠清南道に位置していたと比定される。卑離を含む地名は本書韓伝に頻出し、おそらく百済の「夫里」や新羅の「伐」「弗」「火」に一致すると推測される。

(※23)占離卑国
 韓国の忠清南道に位置していたと比定される。離卑は※22にもある卑離の誤りだとも推測されている。

(※24)臣釁国
 韓国大田広域市に比定される。百済時代の眞峴縣。臣釁(シンキン)と眞峴(シンケン)は音通。『三国史記』地理志には黄山郡の属県に鎭嶺縣があり、鎮寧県は百済の鎮賢県。高麗王朝の時代には鎭岑縣とあり、いずれも音通する。

(※25)支侵国
 百済総督府の配置された七州に地潯州の名が登場するが、これが支侵国にあたると考えられている。地潯と支侵が音通。

(※26)狗盧国
 韓国忠清南道清陽郡清陽邑に比定される。百済の古良夫里縣。「古良」と「狗盧」が音通。統一新羅時代には、青正縣と改名された。また、「狗盧」は「クロ」と読めるため、「斯盧(シロ)」と対比されることもある。

(※27)卑弥国
 韓国の忠清南道西川郡に比定される。百済における比衆縣。統一新羅時代には、庇仁縣と改名された。本書倭人伝に登場する卑弥呼とも名が似ている。

(※28)監奚卑離国
 韓国の忠清南道洪城郡に比定される。※22の通り、卑離は百済語の夫里に対応し、監奚卑離は古沙夫里に比定される。

(※29)古蒲国
 韓国の忠清南道に存在したとされる。

(※30)致利鞠国
 韓国忠清南道西山郡に比定される。

(※31)冉路国
 韓国の忠清南道に比定される。

(※32)兒林国
 韓国の忠清南道予算郡大興面に比定される。百済時代には任存城。統一新羅時代には任城郡と改名された。任存城は日本書記の応神紀において爾林城と記され、これが兒林国に通じる。

(※33)駟盧国
 韓国の忠清南道洪城郡長谷面に比定される。百済次代の沙尸良縣、別名は沙羅。統一新羅時代に新良縣と改名された。沙尸良(サトラ)沙羅(サラ)と駟盧(サラ、サロ)が音通。

(※34)内卑離国
 韓国の忠清南道大徳郡儒城面に比定される。※22にある通り、卑離は百済の「夫里」、新羅の「伐」「弗」「火」にあたる。

(※35)感奚国
 韓国の忠清南道洪城郡金馬面に比定される。当地の旧名は大甘介面であり、甘介と感奚が音通。

(※36)萬盧国
 韓国の全羅北道沃溝に比定される。

(※37)辟卑離国
 韓国全羅北道金堤市に比定される。百済時代は碧骨縣、統一新羅時代は金堤郡と改名された。

(※38)臼斯烏旦国
 韓国の全羅南道長城郡に比定される。

(※39)一離国
 韓国全羅道のどこかと比定される。

(※40)不弥国
 韓国の全羅南道羅州市に比定される。百済時代は發羅郡。統一新羅時代の錦山郡。

(※41)支半国
 韓国の全羅北道のどこかに比定される。

(※42)狗素国
 韓国の全羅道のどこかに比定される。

(※43)捷盧国
 韓国の全羅北道鄭邑市に比定される。

(※44)牟盧卑離国
 韓国の全羅北道高昌に比定される。牟盧は邑国や村を意味する「牟良(ムラ、ムロ)」であり、卑離は百済語の「夫里」。よって、百済の牟良夫里縣に比定される。三国史記の表記は毛良夫里縣。統一新羅時代に高敞縣と改名。鉄器を早くに取り入れた先進的な国家であった。

(※45)臣蘇塗国
 韓国の忠清南道泰安に比定される。臣は「大」を意味し、蘇塗は本文に登場する韓における宗教的聖域。統一新羅時代の蘇泰縣に比定され、百済時代の名は省大兮縣。

(※46)莫盧国
 韓国の忠清南道から全羅道に比定される。

(※47)古臘国
 韓国の全羅北道南原。百済の古龍郡。古臘と音通する。統一新羅時代の南原小京である。

(※48)臨素半国
 韓国の全羅道に存在するとされる。

(※49)臣雲新国
 韓国の全羅道のどこかにあると思う。

(※50)如來卑離国
 韓国の全羅南道和順郡に比定される。百済時代は洸陵夫里郡、統一新羅時代は陵城郡と改名された。

(※51)楚山塗卑離国
 韓国の大韓民国全羅北道井邑市に比定される。百済時代の名は井村。統一新羅時代に井邑縣と改名。新增東國輿地勝覽に井村の別名が楚山であったと記されていることからの比定。

(※52)一難国
 韓国全羅南道霊岩郡郡西面東鳩林里。百済時代は月奈郡。統一新羅時代に霊巌郡と改名。

(※53)狗奚国
 韓国全羅南道康津郡に比定される。日本書紀の神功皇后紀に登場する古奚津と音通する。

(※54)不雲国
 韓国の全羅南道保城郡福内面一帯に比定される。

(※55)不斯濆邪国
 よくわからない。

(※56)爰池国
 韓国の全羅南道麗水市に比定される。百済の猿村縣。統一新羅時代に海邑縣と改名。

(※57)乾馬国
 韓国の全羅南道金馬堵に比定される。百済の金馬渚郡。統一新羅に金馬郡と改名。紀元前から青銅器が発掘されており、馬韓地域でも早期に発展した地域。馬韓の名の語源となったという説もある。

(※58)楚離国
 韓国の全羅南道高興郡南陽に比定される。百済の助助禮縣。助助禮(ソソリ)と楚離(ソリ)が音通する。統一新羅の時代に忠烈縣と改名され、高麗期に南陽縣となる。

(※59)臣智の中には、優越する者として、臣雲新国の遣支報、辰韓安邪国の踧支、濆臣離兒国の不例、拘邪国の秦支廉という よびな を呼ばれることもある。その官は、魏の率善、邑君、歸義侯、中郎將、都尉、伯長を有している。
 原文は、「臣智或加優呼臣雲遣支報安邪踧支濆臣離兒不例拘邪秦支廉之號。其官有魏率善、邑君、歸義侯、中郎將、都尉、伯長。」であるが、これを一般には、「臣智は優呼臣雲遣支報安邪踧支濆臣離兒不例拘邪秦支廉の号が加えられ、その官には、魏の率善邑君、歸義侯、中郎將、都尉、伯長がある。」という風に訳され、優呼臣雲遣支報安邪踧支濆臣離兒不例拘邪秦支廉は一塊の単語とされてきた。しかし、「優呼臣雲遣支報安邪踧支濆臣離兒不例拘邪秦支廉」には、「優呼臣雲(※49)遣支報安邪(※119)踧支濆臣離兒(?)不例拘邪(※117)秦支廉」に本文に登場する国名の一部やそれとよく似た語が潜んでいる。これを国名としてピックアップし、「臣雲(新国)の遣支報、安邪(国)の踧支、濆臣離兒(国)不例拘邪(国)の秦支廉の號を優り呼ぶ」と解釈し、上記のように訳した。

(※60)(朝鮮)侯の准
 箕氏朝鮮の41代王。箕氏朝鮮の成立については、漢書地理志燕地条を参照。

(※61)燕
 周王朝の時代に成立したとされる中国東北部の冊封国。詳細は、漢書地理志燕地条を参照。

(※62)衛満
 衛氏朝鮮の始祖。衛氏朝鮮の成立については、史記朝鮮伝を参照。

(※63)魏略
 中国三国時代の魏について記した歴史書。編者は魏の官僚であった魚豢。

(※64)周
 周文王が土台を築き、息子の周武王が殷王朝を打倒して紀元前1046年に打ち建てた中国の王朝。諸国に侯公を冊封して封建体制を築いた。

(※65)秦開
 中国戦国時代の燕の将軍。

(※66)満番汗
 現在の朝鮮国博川郡。紀元前300年に北方民族の東胡と戦い、その領域を北に千里退けた

(※67)秦
 もともとは周に冊封された西方の国家。春秋戦国時代を経て紀元前221年に中国を統一して王が初めて皇帝を自称し、強大な中央集権体制を構築した。ところが、強引な統一には歪みも多く、僅か15年を経た紀元前206年に滅亡した。

(※68)蒙恬
 秦に仕えた将軍。中国統一の立役者の一人。

(※69)長城
 現在も残る中国北部に横たわる万里の長城のこと。※68の蒙恬が建築の指揮に当たった。北方騎馬民族の流入に備えたものとされる。

(※70)遼東
 中国北東部の郡。東方の諸民族との交易を引き受ける立場にある。

(※71)否
 箕氏朝鮮の40代王。王在位期間は、紀元前232年から紀元前220年。※60の淮が後を継ぎ、最後の王となる。

(※72)陳勝
 秦の末期に帝国へ反旗を翻した人物。自らが王として張楚国を打ち建てるが、一代にして滅亡する。

(※73)項羽
 かつて秦に滅亡させられた楚の将軍の子。陳勝の乱に乗じて自らも叔父の項梁とともに軍を興し、大秦帝国に反旗を翻した。当初は楚の王族である懐王を立てて楚の復興を大義名分としたが、後に反目して殺害、覇王を自称して天下の王を名乗る。しかし、かつての臣下であった劉邦との決戦に敗れて死す。没年30歳。

(※74)燕・斉・趙
 周によって冊封された国家であり、後に秦に破れて滅んだ。しかし、漢が興ってから再び諸侯が冊封され、名目上の国家復興が果たされた。

(※75)盧綰
 漢の初代皇帝である劉邦の幼い頃からの親友。挙兵の当初から劉邦に付き随い、劉邦が皇帝となった後に盧綰は燕王に封じられた。ところが、謀反を企んでいるとの讒言が劉邦の耳に入り、その容疑がかけられることになると、当初は劉邦との旧知の好で見逃してもらえていたものの、その死去とともに自らの身が危ぶまれ、遂に北方騎馬民族の匈奴の元に亡命することになった。その後、帰国とともに赦免され、天寿を全うした。

(※76)浿水
 中国と朝鮮の国境とされる川。

(※77)匈奴
 北方騎馬民族。紀元前4世紀から西暦5世紀に至るまで猛威を振い、一時は漢王朝を服属させた。漢は武帝の時代の大遠征において勝利するまで、匈奴に圧倒されていた。

(※78)博士
 儒学に通じた学者に贈られる官職。

(※79)圭
 祭祀に用いられる玉器。先端がとがり、下部が四角形。諸侯を封じる際の証となった。

(※80)楽浪郡
 漢の武帝が朝鮮半島に置いた直轄地である四郡の一つ。詳細な経緯は史記朝鮮伝にて。

(※81)右渠
 衛氏朝鮮の三代王。最後の王。詳細は史記朝鮮伝にて。

(※82)朝鮮相と暦谿卿
 史記朝鮮伝では、朝鮮相は路人とされ、暦谿卿ではなく尼谿相の參とされている。歴谿卿は2000余戸を引き連れて辰国に南下したとされていることから、この一団が三国史記の新羅本紀の冒頭に登場する「朝鮮遺民」ではないかとする説がある。

(※83)貢蕃
 朝鮮の属国(貢蕃)とも解釈されるが、これが真蕃の誤字とする説もある。真蕃郡とは、漢武帝が朝鮮に置いた四郡のひとつ。詳細は史記朝鮮伝にて。

(※84)王莽
 新の初代皇帝。前漢皇帝の外戚として権勢を誇り、元前漢から禅譲を受けて新王朝を打ち建てて皇帝となったが、一代にして滅亡した。

(※85)地皇
 ※84の新の王莽が制定した元号。地皇は伝説上の皇帝の名。紀元20年から23年。

(※86)安帝の延光四年
 安帝は後漢6代皇帝。延光はその元号で、延光四年は西暦125年。

(※87)桓帝と霊帝
 後漢11代皇帝と12代皇帝。宦官の専横を許した皇帝として後漢衰退の象徴とされる皇帝たち。

(※88)建安
 後漢最後の肯定である14代献帝の代の元号。

(※89)公孫康
後漢末から三国時代にかけての群雄。遼東太守を父親の公孫度から世襲した。中央の混乱に乗じて東方の諸民族との外交を牛耳る。

(※90)部従事
 州から派遣される統治官。

(※91)帯方郡の崎離営
 おそらくは兵営の名。

(※92)槨、棺
 棺は棺桶のこと。槨は棺桶を土に触れぬように安置するための空間。直接棺桶を土に埋める場合、槨はない。

(※93)瓔珠
 珠飾りのこと。

(※94)炅兵
 意味はよくわかっていない。

(※95)蹻蹋
 サンダルのような履物だと言われているが、はっきりしたことはわからない。

(※96)浮屠
 仏教の僧侶のこと。

(※97)州胡
 韓国の済州島に比定される。

(※98)鮮卑
 戦国時代に権勢を誇った東胡の後裔。北方系遊牧民の五胡のひとつに数えられ、三国時代の後に始まる五胡十六国時代において北朝を統一した北魏の拓跋氏もこれにあたる。その後、北朝における支配的な地位を長らく占める。中国を統一する隋と、その地盤を引き継いだ唐の皇帝も祖先が鮮卑の出身である。

(※99)耆老 としより
 70台の老人のこと。

(※100)已柢国
 慶尚北道のどこかにあると考えられている。

(※101)不斯国
 韓国の慶尚南道昌寧郡に比定される。新羅の比自火郡、あるいは比斯伐郡とされる。統一新羅の時代に火王郡と改名され、高麗王朝では昌寧郡となる。

(※102)弁辰弥離弥凍国
 韓国の慶尚南道密陽市に比定される。新羅の密城郡。

(※103)弁辰接塗国
 韓国の慶尚南道密陽市に比定される。新羅の漆吐縣。接塗と漆吐が音通。

(※104)勤耆国
 韓国の慶尚北道永同郡に比定される。新羅の斤烏支縣。

(※105)難弥離弥凍国
 慶尚北道義城郡丹密面。召文国の武冬彌知。新羅に併合されて聞韶郡の單密縣となる。

(※106)弁辰古資弥凍国
 韓国の慶尚南道固城郡。古史浦国。新羅に併合されて古自郡となる。日本書紀には、古嗟国の名で登場する。

(※107)弁辰古淳是国
 韓国の慶尚南道晋州市に比定される。

(※108)冉奚国
 韓国の蔚山広域市に存在したと推定される。

(※109)弁辰半路国
 慶尚北道城州郡城山面に比定される。職貢図に記載のある叛波や日本書紀継体紀に登場する伴跛国のことだと考えられている。

(※110)弁楽奴国
 韓国の慶尚南道河東郡嶽陽面一帯に比定される。新羅の小多沙縣。後に嶽陽縣に改名。

(※111)軍弥国〈弁軍弥国〉
 韓国の慶尚北道漆谷郡に比定される。

(※112)弁辰弥烏邪馬国
 慶尚北道高霊郡に比定される。伽耶諸国のひとつとして、当初に最大勢力を誇っていた高霊加羅。別名は大加羅。のちに金官加羅が台頭して高霊加羅は加羅諸国の筆頭としての地位を失う。また、弥烏邪馬 みあやま という国名が任那 みまな に音通するとして、これに比定する説もある。ただし、任那を金官加羅(※117の狗邪国)や安羅(※119の安邪国)に比定する立場からは反論が為されている。

(※113)如湛国
 韓国の慶尚北道軍威郡に比定される。奴同債縣あるいは如豆債縣。統一新羅の時代に軍威縣に改名。

(※114)弁辰甘路国
 甘文小国に比定される。後に統一新羅の時代に開寧郡に改名。

(※115)戸路国
 どこか不明。

(※116)州鮮国(馬延国)
 慶尚北道慶山市の地域に比定される。後の卓淳国。

(※117)弁辰狗邪国
 韓国の慶尚南道金海一帯に比定される。伽耶国 かやのくに と音通。金官国、金官伽耶国、金官加羅国、駕洛国のこと。本書倭人伝における狗邪韓国と同一視されることもある。

(※118)弁辰走漕馬国
 韓国の慶尚北道金川市朝馬面一帯に比定される。日本書紀欽明紀の卒馬国。伽耶諸国のひとつ。

(※119)弁辰安邪国〈馬延国〉
 慶尚南道咸安郡に比定される。高句麗好太王碑文には、阿尸良、阿那、阿羅、安羅といった名で登場する。阿羅加耶国として伽耶諸国のひとつ。日本劣等との関係も深く、日本書紀の神功皇后紀、継体紀、欽明天皇紀に登場する。

(※120)弁辰瀆盧国
 韓国の慶尚南道巨済島一帯に比定される。

(※121)斯盧国
 後に朝鮮半島の大半を統一する新羅の原型。

(※122)優由国
 韓国の慶尚北道清道郡。かつての密城郡の烏也山。統一新羅が烏丘山縣と改名し、高麗期には清道郡となる。




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≪白文≫
 韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。辰韓者、古之辰國也。馬韓在西。其民土著、種植、知蠶桑、作綿布。各有長帥、大者自名爲臣智、其次爲邑借、散在山海間、無城郭。有爰襄國、牟水國、桑外國、小石索國、大石索國、優休牟涿國、臣濆沽國、伯濟國、速盧不斯國、日華國、古誕者國、古離國、怒藍國、月支國、咨離牟盧國、素謂乾國、古爰國、莫盧國、卑離國、占離卑國、臣釁國、支侵國、狗盧國、卑彌國、監奚卑離國、古蒲國、致利鞠國、冉路國、兒林國、駟盧國、內卑離國、感奚國、萬盧國、辟卑離國、臼斯烏旦國、一離國、不彌國、支半國、狗素國、捷盧國、牟盧卑離國、臣蘇塗國、莫盧國、古臘國、臨素半國、臣雲新國、如來卑離國、楚山塗卑離國、一難國、狗奚國、不雲國、不斯濆邪國、爰池國、乾馬國、楚離國、凡五十餘國。大國萬餘家、小國數千家、總十餘萬戶。辰王治月支國。臣智或加優呼臣雲遣支報安邪踧支濆臣離兒不例拘邪秦支廉之號。其官有魏率善、邑君、歸義侯、中郎將、都尉、伯長。

 侯准既僭號稱王、爲燕亡人衛滿所攻奪、魏略曰、昔箕子之後朝鮮侯、見周衰、燕自尊爲王、欲東略地、朝鮮侯亦自稱爲王、欲興兵逆擊燕以尊周室。其大夫禮諫之、乃止。使禮西說燕、燕止之、不攻。後子孫稍驕虐、燕乃遣將秦開攻其西方、取地二千餘里、至滿番汗爲界、朝鮮遂弱。及秦並天下、使蒙恬築長城、到遼東。時朝鮮王否立、畏秦襲之、略服屬秦、不肯朝會。否死、其子准立。二十餘年而陳、項起、天下亂、燕、齊、趙民愁苦、稍稍亡往准、准乃置之於西方。及漢以盧綰爲燕王、朝鮮與燕界於浿水。及綰反、入匈奴、燕人衛滿亡命、爲胡服、東度浿水、詣准降、說准求居西界、(故)中國亡命爲朝鮮籓屏。准信寵之、拜爲博士、賜以圭、封之百里、令守西邊。滿誘亡黨、衆稍多、乃詐遣人告准、言漢兵十道至、求入宿衛、遂還攻准。准與滿戰、不敵也。將其左右宮人走入海、居韓地、自號韓王。〈《魏略》曰、其子及親留在國者、因冒姓韓氏。准王海中、不與朝鮮相往來。〉其後絕滅、今韓人猶有奉其祭祀者。漢時屬樂浪郡、四時朝謁。《魏略》曰、初、右渠未破時、朝鮮相曆谿卿以諫右渠不用、東之辰國、時民隨出居者二千餘戶、亦與朝鮮貢蕃不相往來。至王莽地皇時、廉斯鑡爲辰韓右渠帥、聞樂浪土地美、人民饒樂、亡欲來降。出其邑落、見田中驅雀男子一人、其語非韓人。問之、男子曰、我等漢人、名戶來、我等輩千五百人伐材木、爲韓所擊得、皆斷髮爲奴、積三年矣。鑡曰、我當降漢樂浪、汝欲去不。戶來曰、可。(辰)鑡因將戶來(來)出詣含資縣、縣言郡、郡即以鑡爲譯、從芩中乘大船入辰韓、逆取戶來。降伴輩尚得千人、其五百人已死。鑡時曉謂辰韓、汝還五百人。若不者、樂浪當遣萬兵乘船來擊汝。辰韓曰、五百人已死、我當出贖直耳。乃出辰韓萬五千人、弁韓布萬五千匹、鑡收取直還。郡表鑡功義、賜冠幘、田宅、子孫數世、至安帝延光四年時、故受復除。

 桓靈之末、韓濊強盛、郡縣不能制、民多流入韓國。建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡、遣公孫模、張敞等收集遺民、興兵伐韓濊、舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。景初中、明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡、諸韓國臣智加賜邑君印綬、其次與邑長。其俗好衣幘、下戶詣郡朝謁、皆假衣幘、自服印綬衣幘千有餘人。部從事吳林以樂浪本統韓國、分割辰韓八國以與樂浪、吏譯轉有異同、臣智激韓忿、攻帶方郡崎離營。時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之、遵戰死、二郡遂滅韓。

 其俗少綱紀、國邑雖有主帥、邑落雜居、不能善相制禦。無跪拜之禮。居處作草屋土室、形如塚、其戶在上、舉家共在中、無長幼男女之別。其葬有槨無棺、不知乘牛馬、牛馬盡於送死。以瓔珠爲財寶、或以綴衣爲飾、或以縣頸垂耳、不以金銀錦繡爲珍。其人性強勇、魁頭露紒、如炅兵、衣布袍、足履革蹻蹋。其國中有所爲及官家使築城郭、諸年少勇健者、皆鑿脊皮、以大繩貫之、又以丈許木鍤之、通日嚾呼作力、不以爲痛、既以勸作、且以爲健。常以五月下種訖、祭鬼神、群聚歌舞、飲酒晝夜無休。其舞、數十人俱起相隨、踏地低昂、手足相應、節奏有似鐸舞。十月農功畢、亦復如之。信鬼神、國邑各立一人主祭天神、名之天君。又諸國各有別邑。名之爲蘇塗。立大木、縣鈴鼓、事鬼神。諸亡逃至其中、皆不還之、好作賊。其立蘇塗之義、有似浮屠、而所行善惡有異。其北方近郡諸國差曉禮俗、其遠處直如囚徒奴婢相聚。無他珍寶。禽獸草木略與中國同。出大栗、大如梨。又出細尾雞、其尾皆長五尺餘。其男子時時有文身。又有州胡在馬韓之西海中大島上、其人差短小、言語不與韓同、皆髡頭如鮮卑、但衣韋、好養牛及豬。其衣有上無下、略如裸勢。乘船往來、巿買韓中。

 辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同、名國爲邦、弓爲弧、賊爲寇、行酒爲行觴。相呼皆爲徒、有似秦人、非但燕、齊之名物也。名樂浪人爲阿殘、東方人名我爲阿、謂樂浪人本其殘餘人。今有名之爲秦韓者。始有六國、稍分爲十二國。

 弁辰亦十二國、又有諸小別邑、各有渠帥、大者名臣智、其次有險側、次有樊濊、次有殺奚、次有邑借。有已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁樂奴國、軍彌國〈弁軍彌國〉、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戶路國、州鮮國(馬延國)、弁辰狗邪國、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國〈馬延國〉、弁辰瀆盧國、斯盧國、優由國。弁、辰韓合二十四國、大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戶。其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之、世世相繼。辰王不得自立爲王。〈《魏略》曰、明其爲流移之人、故爲馬韓所制。〉土地肥美、宜種五穀及稻、曉蠶桑、作縑布、乘駕牛馬。嫁娶禮俗、男女有別。以大鳥羽送死、其意欲使死者飛揚。《魏略》曰、其國作屋、橫累木爲之、有似牢獄也。國出鐵、韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。俗喜歌舞飲酒。有瑟、其形似築、彈之亦有音曲。兒生、便以石厭其頭、欲其褊。今辰韓人皆褊頭。男女近倭、亦文身。便步戰、兵仗與馬韓同。其俗、行者相逢、皆住讓路。

 弁辰與辰韓雜居、亦有城郭。衣服居處與辰韓同。言語法俗相似、祠祭鬼神有異、施灶皆在戶西。其瀆盧國與倭接界。十二國亦有王、其人形皆大。衣服絜清、長髮。亦作廣幅細布。法俗特嚴峻。




 ≪書き下し文≫
 韓は帶方の南に在り、東西は海を以て かぎり と爲し、南は倭と ぎ、 ひろさ およそ 四千里。三つの ちすぢ 有り、 ひとつめ は馬韓と曰ひ、 ふたつめ は辰韓と曰ひ、 みつめ は弁韓と曰ふ。辰韓なる者は、古の辰國なり。馬韓は西に在り。其の民の土著 つちひと 種植 たねまき し、蠶桑 こがひ を知り、綿布 わたぬの を作る。 おのおの 長帥 をさ 有り、大き者は自ら名のりて臣智と爲し、其の次は邑借と爲し、山海の間に散り すま ひ、城郭無し。爰襄國、牟水國、桑外國、小石索國、大石索國、優休牟涿國、臣濆沽國、伯濟國、速盧不斯國、日華國、古誕者國、古離國、怒藍國、月支國、咨離牟盧國、素謂乾國、古爰國、莫盧國、卑離國、占離卑國、臣釁國、支侵國、狗盧國、卑彌國、監奚卑離國、古蒲國、致利鞠國、冉路國、兒林國、駟盧國、內卑離國、感奚國、萬盧國、辟卑離國、臼斯烏旦國、一離國、不彌國、支半國、狗素國、捷盧國、牟盧卑離國、臣蘇塗國、莫盧國、古臘國、臨素半國、臣雲新國、如來卑離國、楚山塗卑離國、一難國、狗奚國、不雲國、不斯濆邪國、爰池國、乾馬國、楚離國有り、凡そ五十餘國。大國 おほくに には萬餘りの家、小國 をくに には數千の家、十餘萬戶を ぶ。辰王は月支國を治む。臣智の あるもの には とりは けに加へて臣雲の遣支報、安邪の踧支、濆臣離兒の不例、拘邪の秦支廉の よびな を呼びたり。其の つかさ に魏の率善、邑君、歸義侯、中郎將、都尉、伯長有り。

  きみ の准は既に よびな ひそか にして きみ よば ふも、燕の のが れ人の衛滿に攻め奪はるる所と爲る。魏略に曰く、 かつて 箕子の後の朝鮮侯、周の衰ゆるを け、燕は自ら尊びて きみ と爲し、東に つち おさ めむことを欲し、朝鮮侯も亦た自ら よば ひて きみ と爲し、 いくさ を興して燕を逆擊 むかへう たむと欲して以て周室を尊ぶ。其の大夫の禮は之れを いさ め、乃ち とど む。禮を西に使はせて燕を說かば、燕は之れを止め、攻めざり。後の子孫は やうや 驕虐 おご り、燕は乃ち すけ の秦開を遣りて其の西の ところ を攻め、 つち を取ること二千餘里、滿番汗まで至りて さかひ と爲し、朝鮮は遂に弱まる。秦の天下 あめのした たるに並ぶに及び、蒙恬を使はせて長城を築かせしめ、遼東に到る。時に朝鮮王の否立ち、秦の之れを襲ひたるを畏れ、 したが はむと はか りて秦に くも、 あした つどひ には うべな はず。否は死に、其の むすこ の准立つ。二十餘年にして陳項起こり、天下 あめのした は亂れ、燕齊趙の民は愁ひ苦しみ、稍稍 やうやう のが れて准に往き、准は乃ち之れを西の ところ に置く。漢の盧綰を以て燕王と爲すに及び、朝鮮と燕は浿水より さかひ とす。綰の そむ きて匈奴に入るに及び、燕人の衛滿は亡命し、 ゑびす きもの け、東に浿水を わた り、准に いた りて降らば、准に說けるに、西の さかひ すま ひ、中國の亡命を朝鮮の籓屏 かくれまがき らしめむことを求む。准は之れを まこと として で、拜みて博士 らしめ、以て圭を賜ひ、之れに百里を あた え、 いひつけ して西の くにへ を守らせしむ。滿は のが れし ともがら を誘ひ、 ひと やうや く多くなり、乃ち いつはり して人を遣りて准に告がせしむるに、漢兵の十道より至るを まを し、宿衛に入らむことを求め、遂に准を還り攻む。准は滿と戰ふも敵はざるなり。其の左右 すけ 宮人 みやひと ひき いて海に のが れ入り、韓の つち すま ひ、自ら韓の きみ よびな す。〈魏略に曰く、其子及び親の國に留まり在る者、因りて姓を韓氏と おほ ひたり。准は海の うち きみ たり、朝鮮と相ひ往來 ゆきき せざりき。〉其の後は絕滅 ほろ ぶも、今の韓人に猶ほ其の祭祀 まつり を奉る者有り。漢の時には樂浪郡に き、四時 よつのとき 朝謁 あした せり。魏略に曰く、初め右渠の未だ破れざる時、朝鮮相と曆谿卿は以て諫むるも右渠は用いず、東の辰國は、時に民の隨ひ出て すま ふ者も二千餘戶、亦た朝鮮の貢蕃と相ひ往來 ゆきき せざりき。王莽の地皇の時に至り、廉斯鑡は辰韓の右渠帥 すけかしら と爲るも、樂浪の土地の美しく、人民の饒樂たるを聞き、 のが れて降りに來たらむと欲す。其の邑落 むら を出れば、田の中に雀を驅る男子 をのこ 一人 ひとり を見、其の ことば 韓人 からひと に非ず。之れに問へば、男子 をのこ 曰く、我等は漢人 あやひと 、名は戶來、我等の ともがら 千五百人 ちいつもたり にして材木 まるた を伐るは、韓に擊ち得らるる所と爲り、皆が髪を斷ちて しもべ と爲り、三年を積みたらむ、と。鑡曰く、我は當に漢の樂浪に降らむとするが、汝は去るを欲するや いな や、と。戶來曰く、可なり、と。鑡は因りて戶來を ひき いて出で、含資縣に いた り、縣は郡を言ひ、郡は即ち鑡を以て譯と爲し、 しじばり うち 大船 おほぶね に乘りて辰韓に入り、戶來を むか へて取る。降りし とも ともがら 尚ほ千人を得るも、其の五百人は已に死す。鑡は時に辰韓に曉謂 ものまふ せるは、汝は五百人を還すべし。若し たが こと なれば、樂浪は當に よろづ つはもの を遣りて船に乘せ、汝を撃ちに來たらむ、と。辰韓曰く、五百人は已に死ぬも、我は當に あがなひ を出だして直くするのみ、と。乃ち辰韓より萬五千人を出し、弁韓は布萬五千匹、鑡は收め取りて直ぐ還りたり。 こほり は鑡の功と義を あらは し、冠幘 かんむり 、田宅を賜ひ、子孫數世して安帝の延光四年の時に至り、故に復除を受く。

 桓靈の末、韓と濊は強盛 さかん 、郡縣は能く おさ へず、民は多く韓國 からくに に流れ入る。建安の うち 、公孫康は屯有縣 より 南の荒地を分けて帶方郡と爲し、公孫模、張敞等を遣りて遺民を收集 あつ め、 つはもの を興して韓濊を伐たむとすれば、 かつ ての民は やうや く出で、是の後に倭と韓は遂に帶方に きたり。景初の うち 、明帝は密かに帶方太守の劉昕、樂浪太守の鮮于嗣を遣り、海を越えせしめて二つの こほり を定め、諸韓國 もろからくに の臣智は加えて邑君に印綬を賜ひ、其の次は邑長に與う。其の ならひ は衣幘を好み、下戶 しものへ は郡の朝謁 あした まひ らば、皆が衣幘を り、自ら印綬と衣幘を つは千有餘人。部從事の吳林は樂浪の もともと 韓國 からくに を統べたるを以て、辰韓の八國を分割 わか ちて以て樂浪に與え、 つかさ 譯轉 つたゑ 異同 くひちがひ 有り、臣智は いか りて韓も忿 いか り、帶方郡の崎離營を攻む。時の太守の弓遵、樂浪太守の劉茂は つはもの を興して之れを伐たむとするも、遵は戰死し、二つの こほり は遂に韓を滅ぼしたり。

 其の ならひ 綱紀 しきたり は少なく、國邑には主帥 かしら 有りと雖も、邑落 むら 雜居 まぢりすま ひ、善く たがひ 制禦 おさへ るに能はず。跪拜の禮は無し。居處 すまひ 草屋 くさやね 土室 つちいえ を作り、 すがた は塚の如し、其の戶は上に在り、家を舉げて共に中に在り、長幼と男女の別は無し。其の とむらひ には槨有るも棺無し、牛馬に乘るを知らず、牛馬は死を送るに盡く。瓔珠を以て財寶 たから と爲し、或いは衣に綴るを以て飾りと爲し、或いは以て頸に縣けるか耳に垂らし、 こがね しろがね にしき ぬひたり を以て珍しきと爲さざり。其の人の さが 強勇 いさまし 、魁頭して まげ あらは にすること炅兵の如し、布袍を 、足には革の蹻蹋を く。其の國の うち に爲す所有らば、官家 みやけ の城郭を築かせ使 むるに及び、 年少 わか 勇健 たけ き者、皆が の皮を くりぬ き、大繩 おほなは を以て之れを貫き、又た丈許 ひとたけばかり の木を以て之れを すき とし、日を つら ねて よろこ びて さけ び、作力 たがや し、以て痛と爲さざれば、既に以て作を勸め、且つ以て すこやか と爲す。常に五月を以て種を下すは へ、鬼神 かみ を祭り、群聚 もろひと は歌ひ舞ひ、酒を飲むこと晝も夜も休むこと無し。其の舞は、數十人にして とも に起きて相ひ隨ひ、 つち を踏み、低昂して手足は相ひ應えず、奏を節するに鐸舞と似たること有り。十月に農功は え、亦た もど ること之の如し。鬼神 かみ を真とし、國邑ら おのおの 一人の主祭の天神を立て、之れを天君 あまぎみ と名づく。又た諸國 もろくに おのおの 別の邑有り。之れを名づけて蘇塗と爲す。大木を立て、鈴と鼓を縣けて鬼神 かみ に事ふ。諸の亡逃 のがれびと の其の うち に至れば、皆之れを還さず、好く賊を す。其の蘇塗を立つるの わけ は、浮屠に似たること有り、而れども行ふ所の善し惡しに ことなる 有り。其の北の方は郡に近く、諸國 もろくに やや 禮の ならひ るも、其の遠き ところ ただ 囚徒 とがびと 奴婢 しもべ の相ひ たか るが如し。他に珍らしき たから は無し。禽獸草木は おほむ ね中國と同じ。大栗を出だし、大なること梨の如し。又た細き尾雞を出し、其の尾は皆長さ五尺餘り。其の男子 をのこ は時時に文身 いれずみ 有り。又た州胡有り、馬韓の西の海の中の大なる島の上に在り、其の人は やや 短小 ひくし 言語 ことば は韓と同じならず、皆が頭に髡をすること鮮卑の如く、但だ なめしがは 、好く牛及び豬を養ふ。其の衣には上は有るも下は無し、 おほむ ね裸の すがた なるが如し。船に乘りて往來 ゆきき し、韓の中に巿買 うりかひ す。

 辰韓は馬韓の東に在り、其の耆老 としより よよ に傳ふるには、自ら古の亡人 のがれひと にして秦の役を避けて韓國 からくに きに來れば、馬韓は其の東の さかひ の地を割りて之れに與ゆと言ふ。城柵 しがらみ 有り。其の言語 ことば は馬韓と同じにあらず、名に國は邦と爲し、弓は弧と爲し、賊は寇と爲し、行酒は行觴と爲す。相ひ呼びて皆は徒と爲すは、秦人 はたひと に似たる有り、但の燕齊の物を名づくに非ざるなり。名に樂浪人は阿殘と爲し、東の ところ の人は名に我は阿と爲し、樂浪人を もともと の其の殘餘 のこり の人と おも はる。今は之れを名づけて秦韓 はたのから と爲す者も有り。始め六國 むつくに 有るも、 やうや く分かれて十二國 とおあまりふたつのくに と爲る。

 弁辰も亦た十二國 とおあまりふたつのくに 、又た もろ 小別 をわかる むら 有り、 おのおの 渠帥 かしら 有り、大者 おほもの は臣智と名づけ、其の次に險側有り、次に樊濊有り、次に殺奚有り、次に邑借有り。已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁樂奴國、軍彌國〈弁軍彌國〉、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戶路國、州鮮國(馬延國)、弁辰狗邪國、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國〈馬延國〉、弁辰瀆盧國、斯盧國、優由國有り。弁辰の から は合はせて二十四國 はたちあまりよつのくに 大國 おほくに 四五千家 しごちのいえ 小國 をこく 六七百家 ろくしちものいえ すべ 四五萬戶 しごよろずといえ 。其の十二國 とあまりふたつのくに は辰王に く。辰王は常に馬韓人を用ひて之れを さしめ、世世 よよ に相ひ繼がせしむ。辰王は自ら立ちて きみ と爲るを得ず。〈魏略に曰く、其の流移 ながれうつる の人と爲りて、故に馬韓に おさ めらるる所と爲るは明らかならむ、と。〉土地 つち 肥美 へ、五穀 いつのいひ 及び稻を くに宜しく、蠶桑 こがひ り、縑布 かとり つく り、牛や馬に乘り またが る。嫁娶 くがなひ 禮俗 ならひ 、男女の別有り。大鳥 おほとり の羽を以て死を送り、其の こころ は死せる者を使 て飛び揚がらしめむことを欲すればなり。魏略に曰く、其の國は屋を作くるに、橫に木を かさ ねて之れを爲し、牢獄 ひとや に似たること有るなり。國は くろがね を出し、韓濊倭は皆が なら びて之れを取る。 これら 巿買 うりかひ は皆が くろがね を用い、中國の錢を用ゆるが如し、又た以て二郡 ふたつのこをり 供給 そな ふ。 ならひ うた まひ 、酒を飲むことを喜びたる。瑟有り、其の形は きね に似て、之れを彈かば、亦た音曲 ねいろ 有り。 ちのみご の生まるれば、便りて石を以て其の頭を し、其れを せば まむと欲す。今の辰韓の人は皆が せま き頭たり。男女は倭に近く、亦た文身 いれずみ す。 あしがる に便りて戰ひ、兵仗 つはもの は馬韓と同じ。其の俗は行く者の相ひ逢へば、皆が とど まりて路を讓る。

 弁辰と辰韓は雜居 まぢりすま ひ、亦た城郭も有り。衣服 ころも 居處 すまひ は辰韓と同じ。言語 ことば 法俗 しきたり も相ひ似たるも、祠祭 まつ 鬼神 かみ には異なること有り、 かまど を施すは皆が戶の西に在らしむ。其の瀆盧國は倭と さかひ ぐ。十二國も亦た きみ 有り、其の人の かたち は皆 おほ き。衣服 ころも 絜清 きよらか にして髮を長くす。亦た廣い幅の細布を作る。法俗 しきたり は特に嚴峻 きびし からむ。