焚巣館 -史記 朝鮮伝-

史記 朝鮮伝



現代語訳
 朝鮮王の満という者は、もともと燕の人であった。さて、かつての燕の全盛の当時には、真番、朝鮮を侵略して属地とし、役所を置いて国境に城壁を築いていた。秦が燕を滅ぼしてからも遼東の外の国境まで服属させていたが、漢王朝が興ってからは、遠隔地であることから守ることが難しいと考えるようになり、遼東の古い城塞を修復し、浿水までを国境として燕を服属させた。燕王の盧綰が反乱して匈奴に入国すると、満も亡命して千人余りの仲間を集め、魋結 しゃぐま を結い、蛮夷の着物を身につけて東に逃げた。城塞を脱出して浿水を渡り、過去に秦が領有していた空地にあった上下の城郭に居座ると、少しずつ真番や朝鮮の蛮夷や過去に燕や斉から亡命した者を配下として服属させてゆき、これらの者の王となり、王険を都にした。

 孝恵帝と高后の時になると、天下は初めて定まり、そこで遼東太守は満を外臣としつつ、

・城塞の外の蛮夷に責任を持ち、国境近辺で盗みをさせないようにすること。
・諸蛮夷の君長が天子に謁見するために(中国に)入朝したいと希望した場合、それを禁止しないようにすること。

 という条約を結ぶことにし、そのことを報告すると、それを君上は許可したが、これを理由に兵力を獲得した満は、威圧して財物を取り上げながら、自らの近辺にある小邑に侵攻して降し、真番や臨屯のすべてが服属しに来たので、(国土は)方数千里となった。

 (王位を)息子に伝えて孫の右渠に至り、誘い出した漢からの亡命者は徐々に増え続けたが、それでも未だかつて入朝して謁見することはなく、真番の近辺の多くの国々が文書を上奏して天子に謁見することを希望しても、やはり関所を塞いで通行させなかった。元封の二年(紀元前109年)には、漢が渉何を使わせて右渠を咎めつつも説諭したが、最後まで みことのり に奉ることを諒解しなかった。渉何が退去して国境までたどり着き、浿水に臨んだところで、刺客を使わせて渉何を送別していた朝鮮の裨王長を殺し、すぐに渡川して城塞に駆け込み、そのまま帰国して天子に報告して言った。「朝鮮の将を殺しました。」君上はその名を褒め讃え、そのまま詰問することなく、拝して渉何を遼東東部都尉とした。朝鮮は渉何を怨み、兵を出して襲撃し、渉何を殺した。

 天子は罪人を募って朝鮮を擊つことにした。その秋、樓船将軍の楊僕を遣わせて斉から渤海を渡らせた。兵は五万人、左将軍の荀彘は遼東から出発し、右渠を討とうとした。右渠は兵を出し、険難の地に待機して守備を固めた。左将軍の兵隊長は数が多く、遼東の兵を率いて先に派兵したが敗散し、多くの者が引き返して逃げようとしたので、法に照らし合わせて斬った。樓船将軍は斉兵七千人を引き連れて先に王険までたどり着いた。右渠は城に立てこもって守備していたが、樓船軍の数が少ないことを伺い知って、すぐに城から出て樓船を撃つと、樓船軍は敗れて散り散りに逃げ出した。将軍の楊僕は自らの衆勢を失い、山の中に十日あまり遁れ、散った兵卒を探し求めて少しずつかき集め、また結集した。左将軍は朝鮮の浿水の西の軍を擊ったが、まだ破ることができずに独断で前進していた。

 天子は、両将軍がまだ勝利できていないことを気にしていた。そこで衛山を使者として送り、兵の武威を恃みにして右渠の説諭に向かわせた。右渠は使者と会見して首を下げ、謝罪して降伏を願い出たが、両将軍は いつわ って臣下を殺すのではないかと恐れた。今は信節 はたじるし を見て、降服を願い出ただけではないか……と。太子を遣わせて入朝させ、謝罪して馬五千匹を献上し、一緒に軍糧を贈ることにした。人数は一万余り、武器を持ち、まさに浿水を渡ろうとした時、使者と左将軍は彼らが心変わりすることを疑い、「太子が既に降服したいと思っているのであれば、どうか人に命じて武器を手放させよ。」と言った。太子も使者と左将軍が いつわ って彼らを殺そうとしているのだと疑い、そのまま浿水を渡ることなく、また引き返してしまった。衛山が帰国して天子に報告すると、天子は衛山を誅殺した。

 左将軍は浿水のほとりの軍を破り、そのまま前進して城の ふもと までたどり着き、その西北を包囲した。樓船も同じく合流に向かい、城の南に待機していた。右渠はそのまま堅く城に立てこもって守備し、数ヶ月してもまだ下すことができなかった。

 平素の左将軍は侍中であったが、寵愛を受けていたので燕と代の兵卒を引き連れることになったが、勝ちに乗じた無骨者でしかなく、軍には傲慢な者が多かった。樓船は斉の兵卒を引き連れて海に入ったが、これまでに何度も敗北と亡失を繰り返していたので、その先鋒が右渠と戦っていたものの、兵卒に逃げられたことの屈辱から、兵卒の皆が恐怖におびえ、心に慙愧の念を抱えていたことから、彼らは右渠を取り囲んでいるのに、いつも和睦の しるし を手にしていた。左将軍はこれらを急撃し、朝鮮の大臣はそこで陰かに隠れて人を使わせ、私的に樓船に降伏するとのを取り決めをし、往来しつつ言葉にはしていたものの、それでもまだ決断をしようとはしなかった。左将軍は何度も樓船と合流して戦おうとしたが、樓船はその取り決めに就くことを急ぎ、合流しようとはしなかった。左将軍も同じく人を使わせ、隙を伺って兵を引き、朝鮮に降伏を求めていたが、朝鮮は諒解せず、心は樓船に附いていた。そのため両将軍は互いに上手くいかなかった。左将軍は心の中で、樓船が以前に軍を失った罪があり、今回は朝鮮と私的に好を結び、またしても(朝鮮は左将軍に)降伏しなかったことを意識し、疑いを持った。連中は反乱を計っているが、まだ発露していないだけではないのか、と。天子は言った。「将が引率しても無理だからということで、以前は衛山を使わせて右渠に降伏するように説得させた。右渠が太子を遣わせるまでに至ったのに、衛山は上手く決断させることができず、左将軍と一緒に計っても互いが間違いを犯し、結局は取り決めを邪魔しているではないか。今は両将軍が城を包囲しているのに、またしても互いが反目し合い、そのために長らく決断ができていない。済南太守の公孫遂を使わせ、そちらの征伐の向かわせるので、便宜を図って事をよく進めるがよい。」公孫遂が到着すると、左将軍は言った。「朝鮮はまさに下ろうとして久しいのです。下っていないのには、理由があるのです。」樓船に何度も合流したいと言ったのに合流せず、事細かに平素から心の中にあることを公孫遂に告発して言った。「今のまま、このように野放しにしていれば、大きな害となり、樓船だけではなく、同じく朝鮮と共同で我が軍を滅ぼそうとする恐れがあります。」公孫遂もそれに同意し、すぐに しるし をもって樓船将軍を召し、左将軍の軍営に入れて事を計ろうとしたところで、すぐさま左将軍の麾下の者に命じ、樓船将軍を捕え、その軍を併合して天子に報告した。天子は公孫遂を誅殺した。

 左将軍は両軍を併合した後、すぐに急いで朝鮮を擊った。朝鮮の相の路人、相の韓陰、尼谿相の参、将軍の王唊は一緒に たばか って言った。「最初は樓船に降伏するつもりだったが、樓船は今、囚われの身であり、左将軍だけが将を並べ、戦いは更に苛烈となり続けている。恐らく許されることはないだろうし、王も降伏には同意しないだろう。」陰、唊、路人はすべて亡命して漢に降ったが、路人は道半ばで死んだ。元封三年(紀元前108年)の夏、尼谿相の参はすぐに人を使わせて朝鮮王の右渠を殺し、降伏に来た。王険の城はまだ下っていなかったので、右渠の大臣の成巳も反乱を起こし、またしても役所を攻めた。左将軍は右渠の息子の長を使わせて降伏させ、相の路人の息子の最はその民を告諭し、成巳を誅殺したので、遂に朝鮮は平定され、四郡が設置された。参を澅清侯に、陰を荻苴侯に、唊を平州侯に、長を幾侯に封じた。最は父の死をもってすこぶる功績があり、温陽侯となった。

 左将軍が徴されて帰国すると、功績を争って互いに嫉み、計略に違反をしていたことから、法に照らし合わせ、公衆の面前に斬り殺されて死体は市で晒し者となった。樓船将軍も兵の洌口にたどり着いたとき、左将軍を待たねばならぬところで、独断で先行して兵を放ち、喪失した兵が多くいたことから、法に照らし合わせて誅殺に当たるものであったが、庶人に落とされることで贖った。

 太史公は言った。

 右渠は険難に恃んで守りを固めたが、国は祭祀を絶たれることになった。渉何は功績を あざむ いて無事であったが、兵を起こされて首を飛ばされてしまう。樓船将軍は侠客を引き連れて行軍したが、困難に当たって咎をかけられ、番禺での失敗に悔いを残し、そして謀反を疑われてしまう。荀彘は功労を争ったがために、公孫遂とともにどちらも誅殺された。両軍どちらも辱めを受けるばかり、兵を率いた将軍には侯になった者がいないではないか!

注記
(※1)満
 三国志の東夷伝の注には、満の姓は衛と記されたことから、以後は伝統的に衛満が本名とされ、彼の立てた朝鮮国は衛氏朝鮮と呼ばれる。しかし、史記には姓が衛であるとの記録はなく、満という名しか記されていない。厳密には、満の姓は不明である。

(※2)燕
 周王朝に冊封された中原諸国のひとつ。開祖は周王の親族として内政で活躍した召公奭。現在の中国北京の一帯である。秦に敗れて滅亡する。詳細は漢書地理志燕地条を参照。

(※3)真番
 朝鮮半島中西部の地域とされる。

(※4)朝鮮
 現代では朝鮮と言えば朝鮮半島を指すが、この頃の朝鮮は朝鮮半島北西部から大陸北東部にかけての地域を指す。

(※5)秦
 元は周王朝に冊封された中原諸国のひとつ。開祖は馬の生産で功績のあった非子という人物。中国西部の地域に位置し、山岳地域が国土の多くを占める。後に春秋戦国時代を通じて勢力を拡張し、最後には中原諸国をすべて平らげ、周を滅ぼして中原を統一した。

(※6)漢
 ※5秦は中原を統一して僅か15年で滅亡し、これに代わったのが漢王朝である。始祖は劉邦。

(※7)遼東
 大陸東北部に設置された郡。現在の遼寧省から朝鮮国の北部の一部に相当する。

(※8)浿水
 中国と朝鮮の境界となった河川。

(※9)燕王の盧綰
 漢の劉邦の幼馴染にして建国の功臣。漢王朝が興った後、燕王に封じられた。後に謀反を疑われて匈奴に亡命、その後しばらくして帰国した。

(※10)魋結 しゃぐま
 蛮族の結った髷の名称。

(※11)斉
 周王朝に冊封された中原諸国のひとつ。開祖は周王を補佐した軍略化として有名な太公望。現在の中国現在の山東省北部から河北省、河南省。

(※12)王険
 現在の平壌とされる。

(※13)孝恵帝、高后
 孝恵帝は漢の二代皇帝、高后は初代皇帝の劉邦の王妃、呂后のこと。

(※14)外臣
 漢王朝においては、漢に服属した民族国家の王のこと。

(※15)臨屯
 朝鮮半島北東部の地域。現在の朝鮮国の咸鏡道南部から江原道方面とされる。

(※16)裨王長
 裨は助、副などの意味。副王。

(※17)都尉
 地方官。郡を統括する郡太守の補佐官として軍事を掌る官職。

(※18)天子
 本文における天子は、漢の武帝を指す。史記の編者である司馬遷を急刑に処した張本人。一般名詞としての天子は中華王朝の君主。周王朝以降、王が天子を名乗るようになり、秦の統一以降は皇帝を指した。

(※19)樓船将軍
 漢の武帝が創設した将軍号。三国時代の魏でも用いられた。

(※20)渤海
 中国北東部の遼東半島と山東半島に囲まれた内海状の海を指す。後に中国北東部の日本海沿いに高句麗の遺民が渤海国を建国するが、これは渤海には面しておらず、別の存在である。

(※21)左将軍
 秦代に置かれた将軍号。前将軍、後将軍、左将軍、右将軍の四者を合わせて四方将軍という。

(※22)侍中
 皇帝の側近として身の回りの世話をする相談役。

(※23) しるし
 旗印のこと。

(※24)済南太守
 済南は、現在の中国山東省済南市および淄博市一帯にかけての地域に置かれた郡。太守は郡の統治を委任される官職。

(※25)尼谿相
 尼谿は地名と思われるが、よくわからない。孔子が斉に仕えようとした際、斉の景公から冊封を提案された地域の名が同名であるが、朝鮮とは関係ないように思う。

(※26)四郡
 武帝が朝鮮を植民地化するために設置した四つの郡。楽浪郡、玄菟郡、臨屯郡、真番郡。楽浪郡は朝鮮半島北西部、玄菟郡は朝鮮半島より北の大陸部、臨屯郡は朝鮮半島北東部、真番郡は朝鮮半島中西部とされる。

(※27)澅清侯、荻苴侯、平州侯、幾侯、温陽侯
 澅清、荻苴、平州、幾、温陽はそれぞれ朝鮮の地名だと思われるが、どこかは不明。

(※28)洌口
 朝鮮地域の地名。洌水という川の河口。

(※29)太史公
 史記の編者である司馬遷のこと。漢の官名で、国史の編纂や暦の制定にあたる。

漢文
 朝鮮王滿者、故燕人也。自始全燕時嘗略屬真番、朝鮮、為置吏、筑鄣塞。秦滅燕、屬遼東外徼。漢興、為其遠難守、復修遼東故塞、至浿水為界、屬燕。燕王盧綰反、入匈奴、滿亡命、聚黨千餘人、魋結蠻夷服而東走出塞、渡浿水、居秦故空地上下鄣、稍役屬真番、朝鮮蠻夷及故燕、齊亡命者王之、都王險。

 會孝惠、高后時天下初定、遼東太守即約滿為外臣、保塞外蠻夷、無使盜邊。諸蠻夷君長欲入見天子、勿得禁止。以聞、上許之、以故滿得兵威財物侵降其旁小邑、真番、臨屯皆來服屬、方數千里。

 傳子至孫右渠、所誘漢亡人滋多、又未嘗入見。真番旁眾國欲上書見天子、又擁閼不通。元封二年、漢使涉何譙諭右渠、終不肯奉詔。何去至界上、臨浿水、使御刺殺送何者朝鮮裨王長、即渡、馳入塞、遂歸報天子曰、殺朝鮮將。上為其名美、即不詰、拜何為遼東東部都尉。朝鮮怨何、發兵襲攻殺何。

 天子募罪人擊朝鮮。其秋、遣樓船將軍楊仆從齊浮渤海。兵五萬人、左將軍荀彘出遼東、討右渠。右渠發兵距險。左將軍卒正多率遼東兵先縱、敗散、多還走、坐法斬。樓船將軍將齊兵七千人先至王險。右渠城守、窺知樓船軍少、即出城擊樓船、樓船軍敗散走。將軍楊仆失其眾、遁山中十餘日、稍求收散卒、復聚。左將軍擊朝鮮浿水西軍、未能破自前。

 天子為兩將未有利、乃使衛山因兵威往諭右渠。右渠見使者頓首謝、願降、恐兩將詐殺臣。今見信節、請服降。遣太子入謝、獻馬五千匹、及饋軍糧。人眾萬餘、持兵、方渡浿水、使者及左將軍疑其為變、謂太子已服降、宜命人毋持兵。太子亦疑使者左將軍詐殺之、遂不渡浿水、復引歸。山還報天子、天子誅山。

 左將軍破浿水上軍、乃前、至城下、圍其西北。樓船亦往會、居城南。右渠遂堅守城、數月未能下。

 左將軍素侍中、幸、將燕代卒、悍、乘勝、軍多驕。樓船將齊卒、入海、固已多敗亡。其先與右渠戰、因辱亡卒、卒皆恐、將心慚、其圍右渠、常持和節。左將軍急擊之、朝鮮大臣乃陰閒使人私約降樓船、往來言、尚未肯決。左將軍數與樓船期戰、樓船欲急就其約、不會。左將軍亦使人求閒卻降下朝鮮、朝鮮不肯、心附樓船、以故兩將不相能。左將軍心意樓船前有失軍罪、今與朝鮮私善而又不降、疑其有反計、未敢發。天子曰將率不能、前(及)[乃]使衛山諭降右渠、右渠遣太子、山使不能剸決、與左將軍計相誤、卒沮約。今兩將圍城、又乖異、以故久不決。使濟南太守公孫遂往(征)[正]之、有便宜得以從事。遂至、左將軍曰、朝鮮當下久矣、不下者有狀。言樓船數期不會、具以素所意告遂、曰、今如此不取、恐為大害、非獨樓船、又且與朝鮮共滅吾軍。遂亦以為然、而以節召樓船將軍入左將軍營計事、即命左將軍麾下執捕樓船將軍、并其軍、以報天子。天子誅遂。

 左將軍已并兩軍、即急擊朝鮮。朝鮮相路人、相韓陰、尼谿相參、將軍王唊相與謀曰、始欲降樓船、樓船今執、獨左將軍并將、戰益急、恐不能與、(戰)王又不肯降。陰、唊、路人皆亡降漢。路人道死。元封三年夏、尼谿相參乃使人殺朝鮮王右渠來降。王險城未下、故右渠之大臣成巳又反、復攻吏。左將軍使右渠子長降、相路人之子最告諭其民、誅成巳、以故遂定朝鮮、為四郡。封參為澅清侯、陰為荻苴侯、唊為平州侯、長[降]為幾侯。最以父死頗有功、為溫陽侯。

 左將軍徵至、坐爭功相嫉、乖計、棄市。樓船將軍亦坐兵至洌口、當待左將軍、擅先縱、失亡多、當誅、贖為庶人。  太史公曰、右渠負固、國以絕祀。涉何誣功、為兵發首。樓船將狹、及難離咎。悔失番禺、乃反見疑。荀彘爭勞、與遂皆誅。兩軍俱辱、將率莫侯矣。

書き下し文
 朝鮮の きみ の滿なる者、 もと は燕の人なり。始め り、全き燕の時、嘗ては真番、朝鮮を をさ めて かせしめ、置吏 つかさのところ つく り、鄣塞 しろかべ きず きたり。秦は燕を滅ぼし、遼東の外の くにさかひ を屬かせしむ。漢は興るも、其れ遠く守ること難しと おも ひ、 ふたた び遼東の ふる とりで を修め、浿水に至るまでを さかひ と為し、燕を かせしむ。燕の きみ の盧綰は そむ き、匈奴に入りて滿は みこと のが れ、 ともがら 千餘人 ちたりあまり あつ め、魋結 しやぐま して蠻夷 ゑびす きもの にして東に走り、 とりで を出でて浿水を渡り、秦の かつ ての空の つち の上下の とりで ゐすは り、 やうや く真番、朝鮮の蠻夷 ゑびす 及び故ての燕と齊の みこと のが れたる者を役屬 かしめて之れに きみ し、王險に みやこ す。

 孝惠、高后の時に會ひ、天下 あめのした は初めて定まり、遼東の太守は すなは ち滿と とりきめ して外臣 そとをみ らしむるに、 とりで の外の蠻夷 ゑびす を保ち、 くにへ あた すことを無から使 めよ。 もろ 蠻夷 ゑびす 君長 をさ の天子に まみ えむと入らむことを欲したれば、禁止 とど むるを得ること勿れ。以ちて聞かば、 かみ は之れを許し、故を以ちて滿は つはもの を得て財物 たから を威して其の そば 小邑 をむら を侵し降し、真番、臨屯は皆が服屬 したが ひに來、 ひろさ は數千里たり。

  むすこ に傳へて孫の右渠に至り、誘ひたる所の漢の亡人 のがれひと ますます えたるも、又た未だ嘗て入り まみ えざりき。真番の そば 眾國 もろくに ふみ ささ げて天子に見えむと おも ひたるも、又た閼を とどこほ りて かよ はず。元封の二年、漢は涉何を使はして右渠に とが さと さしむるも、終に みことのり に奉るを うべな はず。何は きて さかひ の上に至り、浿水に臨まば、御刺 みさし を使はして何を送りたる者の朝鮮の すけ 王長 きみ を殺し、即ち渡り、馳せて とりで に入り、遂に歸りて天子に しら せて曰く、朝鮮の すけ を殺したり、と。 かみ は其の名を美と為し、即ち詰らず、拜みて何を遼東東部都尉 らしむ。朝鮮は何を怨み、 いくさ はな ちて襲ひて攻めて何を殺す。

 天子は罪人 とがひと を募りて朝鮮を擊たむとす。其の秋、樓船將軍 やかたふねのいくさかしら の楊仆を遣はせて齊從 り渤海を わた らしむ。 いくさひと 五萬人 いつよろづたり 、左將軍の荀彘は遼東を出で、右渠を討たむとす。右渠は いくさひと はな ちて けはしき ふせ ぐ。左將軍の卒正 はたかしら は多く、遼東の いくさひと を率いて先に はな つも、敗れ散り、多く還り走り、法に たりて斬る。樓船將軍 やかたふねのいくさかしら は齊の いくさひと 七千人 ななちたり ひき いて先に王險まで至る。右渠は城守 たてこもり 樓船 やかたふね いくさ の少なきを窺ひ知り、即ち城を出でて樓船 やかたふね を擊ちたれば、樓船 やかたふね いくさ は敗れ散り走りたり。將軍の楊仆は其の ひと を失ひ、山の中に のが るること十餘日 とおかあまり やうや く求めて散りたる いくさひと を收め、 たしても あつ む。左將軍は朝鮮の浿水の西の いくさ を擊ちたるも、未だ破ること能はず自ら すす む。

 天子は ふたり いくさかしら の未だ利有らざるを おも ひ、乃ち衛山を使はして いくさ たけだけ しきに因り、右渠を諭させしめに往かしめたり。右渠は使者 つかひ まみ えて あたま ぬかづ きて謝り、降るを願ひたるも、 ふたり いくさかしら いつは りて をみ を殺さむことを恐る。今は信節 はたじるし を見て、服降 くだる を請ひたる、と。太子 みこ を遣はして入りて謝り、馬五千匹を ささ げ、及び軍糧 かて おく りたり。人眾 ひと 萬餘 ひとよろづあまり つはもの を持ち、 まさ に浿水を渡らむとすれば、使者 つかひ 及び左將軍は其の かはる を為すを疑ひ、太子 みこ の已に服降 くだ るを謂ひたれば、宜しく人に みことのり して つはもの を持ちたること からしむるべし、と。太子 みこ も亦た使者 つかひ の左將軍の いつは りて之れを殺したるを疑ひ、遂に浿水を渡らず、 た引き歸したり。山は還りて天子に しら せば、天子は山を つ。

 左將軍は浿水の上の いくさ を破り、乃ち すす み、城の ふもと に至らば、其の西北を圍みたり。樓船 やかたふね も亦た まみ えに往き、城の南に いま したり。右渠は遂に堅く守城 たてこもり 數月 いくつき すれども未だ下すに能はじ。

 左將軍は もと は侍中にして、 さひはひ して、燕と代の いくさひと ひき ゆれば、 おご りて勝ちに乘り、 いくさ は驕りたること多し。樓船 やかたふね は齊の いくさひと ひき い、海に入りたるも、固より已に多く敗れ亡れたり。其の先は右渠と戰ひたるも、 いくさひと のが したるを辱(は)づに因りて、 ひと は皆が恐れ、心に はぢ ち、其れ右渠を圍ひたるも、常に にき はた を持ちたり。左將軍は には かに之れを擊ちたるも、朝鮮の大臣 おほをみ は乃ち ひそ かに して人を使はし、 わたくし 樓船 やかたふね に降りたらむと とりき め、往來 ゆきき して言ひたるも、尚ほ未だ決るを うべなは ず。左將軍は いくたび 樓船 やかたふね いくさ はさむとするも、樓船 やかたふね は急ぎて其の とりきめ に就かむと おも ひ、 まみ えず。左將軍も亦た人を使はして はざま しりぞ き朝鮮を降下 くだ さむと求むるも、朝鮮は うべな はず、心は樓船 やかたぶね き、故を以ちて ふたり いくさかしら は相ひ能はじ。左將軍の心は樓船 やかたふね の前に いくさ を失ひたるの罪有るを おも ひ、今は朝鮮と わたくし よしみ とも にし、 すなは ち又た降らず、其の そむき はかりごと 有るを疑ひたるも、未だ敢て あらは にせず。天子曰く、 いくさかしら は率ゆるも能はじ、前に衛山を使はして右渠を降らしめむと諭さしめ、右渠は太子 みこ を遣はすに及びたるも、山は もちは ら決めさ使 むること能はじ、左將軍と とも はか りたるも相ひ誤り、 つひ とりきめ はば む。今は ふたり いくさかしら は城を圍みたるも、又た乖異 もと り、故を以ちて久しく決まらじ。濟南太守の公孫遂を使はして之れを ちに往かしめ、便宜 とりはからひ を有らしめ以ちて事に從ふを得るべし、と。遂の至らば、左將軍曰く、朝鮮は當に下らむとすること久しきかな、下らざる者に なりゆき 有り。樓船に いくたび はむと言ふも はず、 つぶさ もと より こころ にする所を以ちて遂に告げ、曰く、今は此の如く取らざるは、大いなる わざはひ と為り、獨り樓船 やかたぶね のみに非ず、又た まさ に朝鮮と共に吾が いくさ を滅ぼさむことを恐る、と。遂も亦た以為 おもへ らく然りとし、 すなは はた を以ちて樓船將軍 やかたふねのいくさかしら を召し、左將軍の とりで に入れて事を計らむとすれば、即ち左將軍の麾下 しも みことのり し、樓船將軍 やかたふねのいくさかしら 執捕 らしめ、其の いくさ あは せ、以ちて天子に報しむ。天子は遂を つ。

 左將軍は已に ふたつ いくさ あは せ、即ち急ぎて朝鮮を擊つ。朝鮮の すけ の路人、 すけ の韓陰、尼谿相の參、將軍の王唊は相ひ とも に謀りて曰く、始め樓船 やかたぶね に降らむと おも ふも、樓船 やかたぶね は今は とら はれ、獨り左將軍は すけ なら べ、戰ふこと ますます さかん にして、恐らく くみ すること能はじ、王も又た降ること うべな はじ。陰、唊、路人は皆が亡れて漢に降る。路人は なかば に死ぬ。元封三年の夏、尼谿相の參は乃ち人を使はして朝鮮の きみ の右渠を殺して降りに來たり。王險の城は未だ下らず、故に右渠の大臣 おほをみ の成巳も又た そむ き、復たしても つかさ を攻む。左將軍は右渠の子の長を使はして降らしめ、 すけ の路人の むすこ の最は其の民に告げ諭し、成巳を ち、故を以ちて遂に朝鮮を定め、四郡を つく りたり。參に あた へて澅清侯と為し、陰は荻苴侯と為り、唊は平州侯と為り、長は幾侯と為り。最は父の死を以ちて頗る いさを 有り、溫陽侯と為る。

 左將軍は徵し至り、 いさを を爭ひて相ひ嫉み、 はかりごと もと るに たり、市に棄つ。樓船將軍 やかたふねのいくさかしら も亦た兵の洌口に至り、左將軍を待つに當たらば、先つ いくさ ほしいまま にし、失亡 うしな ひたるもの多きに たり、 に當たるも、庶人 ひらひと と為りて あがな ふ。

 太史公曰く、右渠は かたき たの み、國は以ちて まつりごと を絕たる。涉何は いさを あざむ き、 いくさ を為して首を はな つ。樓船 やかたふね とがひと ひき ゆるも、難きに及びて咎に かか る。番禺を失ひたるを悔ゆれども、乃ち そむ きを疑は る。荀彘は いさを を爭ひ、遂と とも いず れも ぬ。 ふたつ いくさ とも に辱め、將率 いくさかしら きみ たるもの莫き かな



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