焚巣館 -晋書慕容雲伝載記

晋書慕容雲伝載記

 慕容雲、字は子雨、慕容寶の養子である。祖父の和は高句驪の支庶、出自は雲高陽氏の苗裔であることから高を氏としていた。慕容雲は冷静沈着で思慮が深く、度量も大きかったが、重厚な態度で口数が非常に少なかったので、当時の人々は誰もが愚鈍であると考え、ただ馮跋だけが彼の意志と度量を奇特なものと捉えて友人となった。慕容寶が太子となると、慕容雲は武芸によって貴人の護衛官として東宮に侍ることになり、侍御郎を拜し、慕容會の軍を襲撃して敗退させた。慕容寶は彼を子とし、姓に慕容氏を賜わって夕陽公に封じた。

 慕容熙が苻氏を葬ると、馮跋は慕容雲を訪問して彼に謀略を告げた。慕容雲は恐懼し、「私が暦年にわたって嬰疾(やまい)を患っていることは、諸兄等も知っておろう。その計画を白紙に戻してはくれんかね。」て言ったが、馮跋は迫り、「慕容氏は代々にわたって衰え続け、河間では暴虐を尽くし、妖淫の女に惑溺して天の常道に逆乱しておる。百姓はその害毒に堪まらず、乱を起こしたいと思う者は十室のうち九にのぼろう。これぞ天の亡ぶ時である。そなたの出自は高氏の名家であろうに、なぜ他家の養子となることがあろうか。機運を迎えることは難しく、千載一遇の時、そなたよ、辞退することなどできようか?」と言って彼を取り囲みながら護衛して出発した。慕容雲は言った。「私は疾病に苦しんで日は久しく世間の務めを絶っていたのに、この度は興建の大事であるからと謬(あやま)ってお前から推挙を迫られた。外をうろついているのは、我が身の為ではない。実に徳がまったく不足していることを心配しながらも、人民の救済を求めただけのことである。」馮跋等が彼に強いたことで、慕容雲は遂に天王の位に即し、姓を高氏に戻して国内で死刑以下に処される者に大赦を下し、正始と改元して国号を大燕とした。馮跋に侍中、都督中外諸軍事、征北大將軍、開府儀同三司、錄尚書事、武邑公と署し、伯、子、男、鄉を封じ、亭侯となった者は五十人余り、士卒に穀帛に差をつけて賜った。慕容熙の群官には、その爵位を戻した。妻の李氏を天王後に立て、子の彭を太子とした。越騎校尉慕輿良が謀反したが、これを高雲は誅殺した。

 高雲が東堂に臨んでいるところに寵愛していた臣下の離班、桃仁が剣を懐に抱えながら手紙を持って入り、封を切るためだと称して剣を抜くと、高雲を擊った。高雲はそれを数回は防いだが、離班と桃仁は進み出て、彼を弑殺した。馮跋は高雲の屍を東宮に遷し、偽って惠懿皇帝と諡(おくりな)した。高雲は自らの功徳がないながらに豪桀に推挙されることになり、いつも内心に恐懼を懐いていたことから、壮士を寵養することで腹心としていたのだ。離班や桃仁等は並んで禁衛の任務を専らとし、彼らは爪牙として委任を受け、賞賜は月に数千萬まで至り、衣食の日常はすべて彼らと同じくしていたことから、これによって最後は高雲を毀敗するに至ったのである。

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【白文】
 慕容雲、字子雨、寶之養子也。祖父和、高句驪之支庶、自雲高陽氏之苗裔、故以高為氏焉。雲沈深有局量、厚重希言、時人咸以為愚、唯馮跋奇其志度而友之。寶之為太子、雲以武藝給事侍東宮、拜侍御郎、襲敗慕容會軍。寶子之、賜姓慕容氏、封夕陽公。

 熙之葬苻氏也、馮跋詣雲、告之以謀。雲懼曰、吾嬰疾歷年、卿等所知、願更圖之。跋逼曰、慕容氏世衰、河間虐暴、惑妖淫之女而逆亂天常、百姓不堪其害、思亂者十室九焉、此天亡之時也。公自高氏名家、何能為他養子。機運難邀、千歲一時、公焉得辭也。扶之而出。雲曰、吾疾苦日久、廢絕世務。卿今興建大事、謬見推逼。所以徘徊、非為身也、實惟否德不足以濟元元故耳。跋等強之、雲遂即天王位、復姓高氏、大赦境內殊死以下、改元曰正始、國號大燕。署馮跋侍中、都督中外諸軍事、征北大將軍、開府儀同三司、錄尚書事、武邑公、封伯、子、男、鄉、亭侯者五十餘人、士卒賜穀帛有差。熙之群官、復其爵位。立妻李氏為天王後、子彭為太子。越騎校尉慕輿良謀叛、雲誅之。

 雲臨東堂、幸臣離班、桃仁懷劍執紙而入、稱有所啟、拔劍擊雲、雲以幾距、班桃仁進而弑之。馮跋遷雲屍於東宮、偽諡惠懿皇帝。雲自以無功德而為豪桀所推、常內懷懼、故寵養壯士以為腹心。離班、桃仁等並專典禁衛、委之以爪牙之任、賞賜月至數千萬、衣食臥起皆與之同、終以此致敗雲。

【書き下し文】  慕容雲、字は子雨、寶の養子なり。祖父の和は高句驪の支庶、自ら雲高陽氏の苗裔、故に高を以て氏と為せり。雲は沈深にして局量有り、厚重にして言(ことば)すること希(まれ)、時の人は咸(ことごと)く以為(おもへ)らく愚ならむとし、唯だ馮跋のみ其の志度を奇して之れを友とせり。寶の太子と為るや、雲は武藝を以て給事(そばづかえ)して東宮に侍し、侍御郎を拜し、襲ひて慕容會の軍を敗る。寶は之れを子とし、姓に慕容氏を賜ひ、夕陽公に封ぜり。

 熙の苻氏を葬るや、馮跋は雲を詣(たず)ね、之れに告ぐるに謀を以てす。雲懼れて曰く、吾は嬰疾(やまひ)すること歷年(ひさしく)、卿等の知る所なり。願はくば之れを圖すること更(あらた)めんことを、と。跋逼(せま)りて曰く、慕容氏は世(よよ)衰へ、河間に虐暴し、妖淫の女に惑して天常に逆亂せり、百姓其の害に堪ず、亂を思ふ者は十室に九ならむか、此れ天亡の時なり。公の自は高氏の名家、何ぞ他の養子と為るに能ふか。機運は邀うること難く、千歲一時、公よ焉ぞ辭を得むや、と。之れを扶(まも)りて出ず。雲曰く、吾は疾ひに苦しみて日は久しく、世(よ)の務めを廢絕せむ。卿は今や興建の大事、謬(あやま)りて推逼を見(う)く。徘徊する所以、身の為に非ざるなり。實に否德の不足を惟(おも)ふは以て元元を濟はむとする故のみならむ、と。跋等之れを強い、雲遂に天王の位に即し、姓を高氏に復(もど)し、境內に殊死以下を大赦し、改元して正始と曰ひ、國に大燕を號せり。馮跋に侍中、都督中外諸軍事、征北大將軍、開府儀同三司、錄尚書事、武邑公を署し、伯、子、男、鄉を封じ、亭侯の者五十餘人、士卒に穀帛を賜ふに差有り。熙の群官、其の爵位を復(もど)せり。妻の李氏を立て天王後と為し、子の彭は太子と為る。越騎校尉慕輿良は叛を謀るも、雲は之れを誅せり。

 雲は東堂に臨み、幸(さひはひ)せる臣の離班、桃仁、劍を懷き紙を執りて入り、啟(あ)くる所有らむと稱し、劍を拔きて雲を擊たば、雲は以て幾(いくばく)か距(ふせ)ぐも班と桃仁は進みて之れを弑(ころ)せり。馮跋は雲の屍を東宮に遷し、偽りて惠懿皇帝を諡(おくりな)す。雲は自ら功德無きを以てして豪桀に推さるる所と為り、常に內には懼れを懷き、故に壯士を寵養して以て腹心と為す。離班、桃仁等は並びて專ら禁衛に典(あず)かり、之れを委ぬるに爪牙の任を以てし、賞賜すること月に數千萬まで至るも、衣食の臥起(ふしおき)は皆之と同じなるに、終に此れを以て雲に敗を致せり。