百済



 百済の国は、もともと高驪とともに遼東の東千里余りにあり、その後に高驪は概ね遼東にあり、百済は概ね遼西にあった。百済が治めている場所、それを晋平郡、晋平縣という。

 義熙十二年、百済王の餘映を使持節、都督百濟諸軍事、鎮東將軍、百濟王とした。高祖は帝位を踏み、よびなに鎮東大將軍に進めた。少帝景平二年、餘映は長史の張威を派遣して宮門を訪ねさせ、貢献させた。元嘉二年、これに太祖はみことのりした。「皇帝が使持節、都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王を訪問する。世代をかさねて忠順につとめ、海を越えてまことをあらわし、遠方の王としてえびすたばね、ここに先大の偉業を修め、義を慕ってあきらかにされたこと、その赤款を心に懐いて、いかだを浮かべて水に並べ、貴重な財宝を献上して贄を渡されたこと、故に位を継承して今後を任せる。藩をもって東方を征服し、王位のあるべき仕事に励むがよい。前代の仕事を墜としめるでないぞ。今回は兼謁者の閭丘恩子と兼副謁者の丁敬子等を派遣して慰労の旨を宣べることで、朕のこころを述べることにする。」その後にも毎年に使者を派遣して表を奉り、方物みやげものを献上した。七年、百済王の餘毗はまたしても貢職みつぎものを修めたので、餘映の爵號を彼に授けた。二十七年、餘毗は書を上奏して方物みやげものを献上し、私假臺使馮野夫西河太守が表で易林、式占、腰弩を求めると、太祖は一緒にそれを与えた。餘毗が死に、息子の餘慶が代わりに立った。世祖大明元年、使者を派遣して位の授与を求めると、みことのりをして許可した。二年、餘慶が使者を派遣して表を上奏した。「臣国わがくには世代をかさね、とりわけ大きな恩を受け、文武の良輔は代々にわたってに朝廷の爵位をお受けしました。行冠軍將軍右賢王の餘紀等の十一人は忠に勤めましたのですから、どうか昇進を明らかにされるべきかと思います。伏して願わくば、なぐさみを垂れ、並びて官位の下賜を聴こしめんことを。」これによって行冠軍將軍右賢王の餘紀を冠軍將軍とし、行征虜將軍左賢王の餘昆と行征虜將軍の餘暈をともに征虜將軍とし、行輔國將軍の餘都と餘乂をともに輔國將軍とし、行龍驤將軍の沐衿と餘爵をともに龍驤將軍とし、行寧朔將軍の餘流と麋貴をともに寧朔將軍とし、行建武將軍の于西と餘婁をともに建武將軍とした。太宗泰始七年、またしても使者を派遣して貢献みつぎものをした。








(※1)遼西
 中国北東部の地名。遼東の西。

(※2)晉平郡、晉平縣
 中国北東部の地名。※1の別名とも。

(※3)餘映
 三国史記における百済の腆支王。餘は姓。三国史記では、百済王の氏姓は扶餘とされており、双書では扶の字が抜けている。

(※4)鎮東大將軍
 鎮東將軍であれば、四鎮将軍と呼ばれる四方の鎮守を司る将軍の東方担当であり、九品制の二品官となるが、ここでは「大」がついている。

(※5)張威、閭丘恩子、丁敬子
 三国史記には名が記されていない。

(※6)百濟王餘毗
 三国史記における毗有王。

(※7)私假臺使馮野夫西河太守
 私仮は「私的に仮の位を貸与した」ということで、百済王が朝廷の許可を得る前に仮の官位に任命したことを示す。台使は宮中の使者。馮野夫は人名。西河太守は西河の首長を示す。

(※8)易林、式占、腰弩
 易林は易経から発展した占書。式占は占いのための器具。腰弩は大型の弩。バリスタ。

(※9)百済王慶
 三国史記における蓋鹵王。慶は諱の慶司に由来すると思われる。

(※10)右賢王
 遊牧民における副王。

(※11)冠軍將軍、征虜將軍、輔國將軍、龍驤將軍、寧朔將軍、建武將軍
 すべて雑号将軍。九品制における三品官。




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≪白文≫
 百濟國、本與高驪俱在遼東之東千餘里、其後高驪略有遼東、百濟略有遼西。百濟所治、謂之晉平郡晉平縣。

 義熙十二年、以百濟王餘映為使持節、都督百濟諸軍事、鎮東將軍、百濟王。[12]高祖踐阼、進號鎮東大將軍。少帝景平二年、映遣長史張威詣闕貢獻。元嘉二年、太祖詔之曰、皇帝問使持節、都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王。累葉忠順、越海効誠、遠王纂戎、聿修先業、慕義既彰、厥懷赤款、浮桴驪水、獻賝執贄、故嗣位方任、以藩東服、勉勗所莅、無墜前蹤。今遣兼謁者閭丘恩子、兼副謁者丁敬子等宣旨慰勞稱朕意。其後每歲遣使奉表、獻方物。七年、百濟王餘毗復修貢職、以映爵號授之。二十七年、毗上書獻方物、私假臺使馮野夫西河太守、表求易林、式占、腰弩、太祖並與之。毗死、子慶代立。世祖大明元年、遣使求除授、詔許。二年、慶遣使上表曰、臣國累葉、偏受殊恩、文武良輔、世蒙朝爵。行冠軍將軍右賢王餘紀等十一人、忠勤宜在顯進、伏願垂愍、並聽賜除。仍以行冠軍將軍右賢王餘紀為冠軍將軍。以行征虜將軍左賢王餘昆、行征虜將軍餘暈並為征虜將軍。以行輔國將軍餘都、餘乂並為輔國將軍。以行龍驤將軍沐衿、餘爵並為龍驤將軍。以行寧朔將軍餘流、麋貴並為寧朔將軍。以行建武將軍于西、餘婁並為建武將軍。太宗泰始七年、又遣使貢獻。






 ≪書き下し文≫
 百濟國くだらのくにもともと高驪とともに遼東の東千餘里に在り、其の後に高驪はおほむね遼東に有り、百濟くだらおほむね遼西に有り。百濟くだらの治むる所、之れを晉平郡晉平縣と謂ひたり。

 義熙十二年、以て百濟王くだらのこにしきの餘映を使持節、都督百濟諸軍事、鎮東將軍、百濟王らしむ。高祖はくらひみ、よびなに鎮東大將軍を進む。少帝景平二年、映は長史の張威をりてみやいたらせしめ貢獻みつぎものせしむ。元嘉二年、太祖は之れにみことのりして曰く、皇帝の使持節、都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王を問ふ。かさねてまことよりしたがひ、海を越えてまことあらはし、遠ききみゑびすたばね、ここに先つわざを修め、義を慕ひて既にあきらめ、れ赤款をいだき、いかだを浮かべて水にならべ、たからささげて贄を執り、故に位を嗣がせしめてまさに任せむとし、くにを以て東にしたがはせ、きみのくらひする所に勉勗つとめ、さきわざを墜としめること無かれ。今兼謁者の閭丘恩子と兼副謁者丁敬子等を遣りて慰勞ねぎらひ宣旨べ、朕のこころよばひたらむ、と。其の後には每歲としごと使つかひを遣りてふみを奉り、方物みやげものささぐ。七年、百濟王くだらのこにしきの餘毗はまた貢職みつぎものを修め、映の爵號を以て之れに授く。二十七年、毗はふみささげて方物みやげものささげ、私假臺使馮野夫西河太守は、ふみして易林、式占、腰弩を求め、太祖は並びに之れを與う。毗死に、むすこの慶代はりて立つ。世祖大明元年、使つかひを遣りて除授を求め、みことのりして許す。二年、慶は使つかひを遣りてふみささげて曰く、臣國わがくにかさね、ひとえに殊しき恩を受け、文武の良きすけよよに朝の爵をく。行冠軍將軍右賢王餘紀等十一人、まことに勤めたるに宜しくあきらなる進に在らしむべし。伏して願はくばなぐさみを垂れ、並びて除を賜はるを聽こしめむことを、と。仍りて以て行冠軍將軍右賢王の餘紀を冠軍將軍らしむ。以て行征虜將軍左賢王の餘昆、行征虜將軍の餘暈並びて征虜將軍らしむ。以て行輔國將軍の餘都、餘乂並びて輔國將軍らしむ。以て行龍驤將軍の沐衿、餘爵並びて龍驤將軍らしむ。以て行寧朔將軍の餘流、麋貴並びて寧朔將軍らしむ。以て行建武將軍の于西、餘婁並びて建武將軍らしむ。太宗泰始七年、又たしても使つかひを遣りて貢獻みつぎせしむ。