焚巣館 -三国史記 第二巻 儒禮尼師今-

儒禮尼師今



現代語訳
 儒禮尼師今が立った。〈古記の第三と第十四の二人の王の いみな は、同じく儒理とされ、あるいは儒禮とも伝わっているが、どちらが正しいのかわからない。〉助賁王の長子である。母は朴氏、葛文王の奈音の娘である。かつて夜中に歩いていると、星の光が口の中に入り、こうして妊娠した。誕生した夕べ、異質な香りが室内に満ちた。

 二年(285年)春正月、始祖廟に謁した。
 二月、拝して伊飡の弘権を舒弗邯とし、機密の政務を委任した。

 三年(286年)春正月、百済が使者を遣わせて和睦を要請した。
 三月、旱魃があった。

 四年(287年)夏四月、倭人が一禮部を襲い、火を放ってそれを焼き、千人を生け捕りにして去った。

 六年(289年)夏五月、倭の兵がたどり着いたと聞いて、船を修理して鎧や武器を修繕した。

 七年(290年)夏五月、洪水があった。月城が崩れて毀損した。

 八年(291年)春正月、拝して末仇を伊伐飡とした。末仇は忠清で貞実であり、智略にすぐれ、王はいつも政治の要諦を訪ねて質問していた。

 九年(292年)夏六月、倭の兵が沙道城を攻め陥した。一吉飡の大谷に兵を統領するように命じてそれを救援させ、無事を保った。
 秋七月、旱魃と蝗が発生した。

 十年(293年)春二月、沙道城を改築し、沙伐州の豪民の八十家余りを移住させた。

 十一年(294年)夏、倭の兵が長峯城を攻めに来たが勝てなかった。
 秋七月、多沙郡は嘉禾を進呈した。

  十二年(295年)春、王は臣下に「倭人が頻繁に我が国の城邑を犯し、百姓は安住を得られない。私は百済と共謀して一気に海を渡ってかの国に入り、擊とうと思っているのだがどうだろうか。」と言うと、舒弗邯の弘権が答えた。
「我々は水戦を習得しておりませぬ。危険を冒してまで遠征すれば、不測の危機に陥る恐れがあるでしょう。ましてや百済は詐術が多く、いつも我が国を併呑しようとする心を持っていますから、これまた恐らく一緒に共謀することを困難にしております。」
 王は「よし」と言った。

 十四年(297年)春正月、智良を伊飡とし、長昕を一吉飡とし、順宣を沙飡とした。伊西古国が金城を攻めに来たので、我が国は大いに挙兵して防御したが、追い払うことができなかった。突如とし異兵が来て、その数は記録することができないほどであった。人は皆が竹の葉を耳飾りにして我が軍と共同で賊を擊ち、それを破ったが、その後に彼らがどこに帰ったのかはわからない。数万の竹の葉が竹長陵に積まれているのを見た人もいて、そのことから国の人々は、先王が陰兵で戦に助力したのだと考えた。

 十五年(298年)春二月、京都 みやこ に大いに霧が起こり、人を弁別できないほどであったが、五日にして晴れ渡った。
 冬十二月、王が薨去した。

注記
(※1)古記
 三国史記の原史料のひとつ。原史料には『海東古記』『三韓古記』『本国古記』『新羅古記』等と並ぶが、古記とのみ記される史料がこうした「古記」の総称や略称なのか、『古記』という独立した史料の名称なのか、よくわからない。

(※2)かつて夜中に歩いていると、星の光が口の中に入り、こうして妊娠した。
 感生神話と呼ばれる神話の類型。中国最初の人間の帝王とされる黄帝の母親は、北斗七星に感応して黄帝を生んでいる。また、鮮卑の女の口の中に雹が入って檀石槐という君長が生まれたという伝説もある。

(※3)一禮部
 これを「一利郡」と解して韓国慶尚北道星州郡星州面とする説がある。

(※4)月城
 現在の韓国慶尚北道 慶州市仁旺洞387-1に在居する。

(※5)伊伐飡
 骨品制における第一位であり、王族にしか就けない官位である。

(※6)沙道城
 現在の韓国慶尚北道浦項市とされる。

(※7)一吉飡
 骨品制における第七位であり六頭品。

(※8)沙伐州
 現在の韓国慶尚北道の尚州市にあったとされる。

(※9)長峯城
 どこか不明。

(※10)多沙郡
 現在の韓国慶尚南道河東郡とされる。

(※11)嘉禾
 よく穂の稔った穀物。これを王に進呈するのは、豊作の報告である。

(※12)舒弗邯
 現代韓国語では서불한 ソボルカン 。新羅の骨品制における一等官の伊伐飡の別名とされている(が、訳者は違うと思う)。日本書紀には、昔于老と同一だと思われる人物として宇流助富利智干 うるそほりちか の名が登場し、宇流 うる は于老、助富利智干 そほりちか 舒弗邯 ソボルカン を指していると思われる。日本書紀の宇流助富利智干 うるそほりちか は新羅王とされている。また、新羅初代王の朴赫居世を拾ったおじいさんの蘇伐公の「蘇伐』は朝鮮語で소벌 ソボル であることから「ソボルの公(首長)」ではないかと申采浩は考察しており、新羅では古くから地方の首長官を カン ということから、舒弗邯 ソボルカン は「新羅の古都である蘇伐 ソボル の首長」という意味があるのではないかと推測できると思う。

(※13)伊飡、沙飡
 伊飡は骨品制における第二位であり、沙飡は第八位。

(※14)伊西古国
 現在の慶尚北道清道郡とされる。

(※15)金城
 新羅の首都。現在の慶尚北道慶州市。

(※16)竹長陵
 現在の韓国慶尚北道にある大陵苑(天馬塚)に存在する古墳群のひとつ。竹長陵という名称は、この逸話に基づいて名付けられたとされる。

漢文
 儒禮尼師今立、〈古記第三、第十四、二王同諱儒理、或云儒禮、未知孰是。〉助賁王長子。母、朴氏、葛文王奈音之女。嘗夜行、星光入口、因有娠、載誕之夕、異香滿室。

 二年、春正月、謁始祖廟。二月、拜伊飡弘權爲舒弗邯、委以機務。

 三年、春正月、百濟遣使請和。三月、旱。

 四年、夏四月、倭人襲一禮部縱火燒之、虜人一千而去。

 六年、夏五月、聞倭兵至、理舟楫、繕甲兵。 七年、夏五月、大水。月城頹毁。

 八年、春正月、拜末仇爲伊伐飡、末仇忠貞、有智略、王常訪問政要。

 九年、夏六月、倭兵攻陷沙道城、命一吉飡大谷、領兵救完之。秋七月、旱、蝗。

 十年、春二月、改築沙道城、移沙伐州豪民八十餘家。

 十一年、夏、倭兵來攻長峯城、不克。秋七月、多沙郡進嘉禾。 十二年春、王謂臣下曰、倭人屢犯我城邑、百姓不得安居。吾欲與百濟謀、一時浮海、入擊其國、如何。舒弗邯弘權對曰、吾人不習水戰。冒險遠征、恐有不測之危。況百濟多詐、常有呑噬我國之心。亦恐難與同謀。王曰、善。

 十四年、春正月、以智良爲伊飡、長昕爲一吉飡、順宣爲沙飡。伊西古國、來攻金城、我大擧兵防禦、不能攘。忽有異兵來、其數不可勝紀。人皆珥竹葉、與我軍同擊賊破之、後不知其所歸。人或 見竹葉數萬積於竹長陵。由是、國人謂、先王以陰兵助戰也。

 十五年、春二月、京都大霧、不辨人、五日而霽。冬十二月、王薨。

書き下し文
 儒禮尼師今立つ。〈古記 ふるふみ 第三 みたりめ 第十四 とあまりよたりめ ふたり きみ いみな を同じく儒理とし、 ある いは儒禮と云ふも、未だ いづ れか よろ しきを知らず。〉助賁の きみ 長子 をさご たり。母は朴 うぢ 、葛文王の奈音の むすめ たり。 かつ て夜に あゆ まば、星の光は口に入り、因りて はら む有り、載誕 うまれ の夕、 あた しき かほり いへ に滿つ。

 二年、春正月、始祖 はぢめおや みたまや まみ ゆ。
 二月、 さづ けて伊飡の弘權を舒弗邯 らしめ、以ちて機務 まつりごと を委ぬ。

 三年、春正月、百濟 くたら 使 つかひ を遣はして なぎ を請ひたり。
 三月、 ひでり あり。

 四年、夏四月、倭の人は一禮部を襲ひて火を はな ち之れを燒き、人を とりこ にすること一千 ひとちたり にして去る。

 六年、夏五月、倭の いくさ の至るを聞きて、舟楫 ふなかぢ をさ めて甲兵 つはもの を繕ふ。

  七年、夏五月、大水 おほみづ あり。月城は くづ こは る。

 八年、春正月、 さづ けて末仇を伊伐飡 らしむ。末仇は忠貞 さだ しく、智略 はかりごと 有り、 きみ は常に まつりごと かなめ 訪問 たづ ぬ。

 九年、夏六月、倭の いくさ は沙道城を攻め をと し、一吉飡の大谷に みことのり し、 いくさ をさ めせしめて之れを救はしめて また うせしむ。
 秋七月、 ひでり いなご あり。

 十年、春二月、沙道城を改め築き、沙伐州の豪民の八十餘家 やそあまりのいへ を移したり。

 十一年、夏、倭の いくさ は長峯城を攻めに來たるも克たず。
 秋七月、多沙郡は嘉禾を進む。

  十二年春、 きみ 臣下 をみ に謂ひて曰く、倭の人は しばしば 我が城邑 しろむら を犯し、百姓 たみ は安き すまひ を得ず。 百濟 くたら と與に謀りて一時 ひととき に海を わた り、其の國に入り擊たむと おも ふは如何 いか に、と。舒弗邯の弘權は こた へて曰く、吾人 われら 水戰 みづいくさ を習はず。 あや ふきを をか して遠く かば、不測 はからず あやうき 有るの恐れあり。 いはむ 百濟 くたら いつはり 多く、常に我が國を呑噬 くら はむとするが心を ち、亦た恐らくは とも はかりごと を同じくし難し、と。 きみ 曰く、 よし 、と。

 十四年、春正月、以ちて智良を伊飡 らしめ、長昕を一吉飡 らしめ、順宣を沙飡 らしむ。伊西古の國は、金城を攻めに來たらば、 わがくに は大いに兵を擧げて防禦 ふせ ぎたるも、 はら ふこと能はじ。忽ち あた しき いくさ の來たる有り、其の數は しる すに へる可からず。人は みな が竹の葉を みみかざり にし、我が いくさ とも に同じく あた を擊ちて之れを破り、後に其の歸る所を知らず。人 り、竹の葉の數萬 いくよろづ の竹長陵に積まるるを見ゆ。是れに由りて國の ひとびと おもへ らく、 さき きみ ひそ かなる いくさ を以ちて いくさ を助けたるなり、と。

 十五年、春二月、京都 みやこ に大いに霧あり、人を わけ ず、五日にして はれわた る。
 冬十二月、 きみ みまか れり。

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