焚巣館 -三国史記 第二巻 基臨尼師今-

基臨尼師今



現代語訳
 基臨〈一説には、基立と伝わる。〉尼師今が立った。助賁尼師今の孫である。父は乞淑用飡、〈一説には、「乞淑は、助賁の孫である」と伝わる。〉性格は寛容で温厚であり、人は皆が彼を称賛した。

 二年(299年)春正月、拝して長昕を伊飡とし、内外と兵馬 いくさ の事を兼知させた。
 二月、始祖廟を祀った。

 三年(300年)春正月、倭国と互いに使者を交換した。
 二月、比列忽を巡幸し、 みずか ら高齢者や貧窮者を慰問し、それぞれに差をつけて穀物を賜った。
 三月、牛頭州までたどり着き、太白山を望んで祭った。楽浪郡と帯方郡の両国が帰服した。

 五年(302年)春夏に旱魃があった。

 七年(304年)秋八月、地震があり、泉が湧いた。
 九月、京都 みやこ に地震があり、民家を壊して死者が出た。

 十年(307年)国號を新羅に戻した。

 十三年(310年)夏五月、王は疾病に寝して久しく、内外の獄囚を赦した。
 六月、王が薨去した。

注記
(※1)用飡
 用飡という官位は存在しない。おそらく『角飡』の誤字であろうが、『伊飡』かもしれない。

(※2)伊飡
 骨品制における第二位。

(※3)比列忽
 現在の韓国江原道安辺郡に比定される。

(※4)牛頭州
 現在の韓国江原道春川市とされる。日本書紀にも『曾尸茂梨 そしもり 』の名で登場する。高天原 たかまがはら を追放された建速須佐之男命 たけはやすさのをのみこと が最初に降臨した地が牛頭 そしもり であった。建速須佐之男命 たけはやすさのをのみこと と習合した垂迹の牛頭天王 ごずてんのう の名は、牛頭州に由来するとの説もある。

(※5)太白山
 韓国における象徴的な山岳。信仰の対象。現在の韓国江原道寧越郡、旌善郡、太白市、慶尚北道奉化郡にまたがって存在している。

(※6)楽浪郡、帯方郡
 楽浪郡は、前漢の武帝が紀元前1世紀に朝鮮半島に置いた四郡の一つ。詳細な経緯は史記朝鮮伝にて。帯方郡は、後漢末期に設置された郡。紀元3世紀初頭に中国北東部に存在する遼東郡を治める太守の地位にあった公孫度は楽浪郡を併合した。その後、旧楽浪郡の南半分を割譲して息子の公孫康を太守に据えることで設置されたのが帯方郡である。現在の朝鮮国南西部から韓国北東部と推定される。

(※7)国號を新羅に戻した。
 本書には、国号を新羅にしたという記事がないのに、ここで突如として以上のような記述がある。

漢文
 基臨〈一云基立。〉尼師今立、助賁尼師今之孫也。父乞淑用飡、〈一云、乞淑、助賁之孫也。〉性寬厚、人皆稱之。

 二年、春正月、拜長昕爲伊飡、兼知內外兵馬事。二月、祀始祖廟。

 三年、春正月、與倭國交聘。二月、巡幸比列忽、親問高年及貧窮者、賜穀有差。三月、至牛頭州、望祭太白山。樂浪、帶方兩國歸服。

 五年、春、夏旱。

 七年、秋八月、地震。泉湧。九月、京都地震、壞民屋有死者。

 十年、復國號新羅。

 十三年、夏五月、王寢疾彌留、赦內外獄囚。六月、王薨。

書き下し文
 基臨〈 あるふみ に基立と云ふ。〉尼師今立つ、助賁尼師今の うまご なり。父は乞淑用飡、〈 あるふみ に乞淑は、助賁の うまご なりと云ふ。〉 ひととなり 寬厚 こころひろし 、人は皆が之れを たた ふ。

 二年、春正月、 さづ けて長昕を伊飡 らしめ、內外 うちそと 兵馬 いくさ の事を兼ね つかさど る。
 二月、始祖 はぢめおや みたまや を祀る。

 三年、春正月、倭の國と たづ ぬを まぢ ゆ。
 二月、比列忽を巡幸 みゆき し、 みづか 高年 としより 及び貧窮 まず しき者を たづ ね、 いひ を賜ふこと差有り。
 三月、牛頭 そしもり くに に至り、太白山を望み祭る。樂浪と帶方の ふたつ の國は かへ したが ふ。

 五年、春と夏に ひでり あり。

 七年、秋八月、地震 なゐ あり。泉湧く。
 九月、京都 みやこ 地震 なゐ あり、民の いへ を壞して死ぬ者有り。

 十年、國の よびな 新羅 しらぎ もど す。

 十三年、夏五月、 きみ やまひ したること彌留 ひさし 內外 うちそと 獄囚 とがひと を赦したり。
 六月、 きみ みまか れり。

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