奈勿尼師今

 奈勿(一説によれば那密)尼師今が王位に就いた。
 姓は金、仇道葛文王の孫である。
 父は末仇角于、母は金氏の休禮夫人である。
 妃は金氏、味鄒王の娘である。
 訖解が死去したが、子がおらず、奈勿が後を継いだ。
 末仇は味鄒尼師柰今の兄弟である。

 本件について論じよう。
 礼記には「妻を娶るには同姓の者を娶らず」「それによって別を厚くせよ」とある。
 これゆえに、魯公が同姓の吳から妻を娶ったことや晋侯に四姬がいたことを、陳司敗や鄭子産が強く批判したのだ。
 新羅のように同姓を娶ることを止めないのであれば、兄弟子姑姨従姉妹、誰でも妻にすることができるではないか。
 外国にそれぞれ異なる習俗があるといっても、中国の礼に基づいてそのすべきところを探れば、これは大いに悖るものである。
 匈奴は父が死んだら子が母を娶ると言うが、こうしたものは特に甚しきものだろう。

 二年春。
 使者を出して鰥寡孤獨を撫問し、それぞれに穀三斛を賜った。
 孝悌ですぐれた行いをする者には、職一級を賜った。

 三年、春二月。
 始祖廟に自ら杞祀した。
 廟の上に紫の雲が盤旋し、神雀が廟の庭に集まった。

 七年、夏四月。
 始祖廟の庭に樹理を連ねた。

 九年、夏四月。
 倭兵の大軍が到来した。
 それを聞いた王は、敵わないのではないかと恐怖し、草でダミーを数千体製造し、衣を待機した兵に着せ、吐含山のふもとに列立させ、斧峴の東にある平原に勇士一千人を待ち伏せさせた。
 倭人たちは数を頼りに直進してきたので、伏兵は不意をついて飛び出した。
 倭人たちは大敗北を喫し、それを追擊して殺し尽くした。

 十一年。
 春三月、百濟人が訪問した。
 夏四月。
 大水、山が十三ヶ所崩れた。

 十三年、春。
 百濟が使者を出し、良馬二匹を差し出した。

 十七年。
 春夏に大旱魃が起こった。
 その年は収穫もなく民は餓え、土地を捨てて流民となる者が多かった。
 使者を出して収蔵された穀物を開いてふるまった。

 十八年。
 百濟の禿山城主が人三百を率いて投降に来た。
 王はそれを納め、六部に分居させた。
 百濟王が書を移した。
「両国は和好し、兄弟として盟約を交わしたはずだ。
 今、大王は我が国から逃げ出した人民を収めたが、これは酷く和親の意と剥離している。
 それは大王の望むところでもないだろう。
 収めた人民をこちらに返還するように要請する。」
 王は答えた。
「人民に常なる心などありません。
 ですので、その国を想えば来るでしょうし、厭えば立ち去り、そこに住まおうとするものです。
 大王は人民を安んずることができなかったことを患うことなく、私めを責めるとは、それこそ甚だしきことでありましょう。」
 百濟はそれを聞くと、再度要請することはなかった。

 夏五月。
 京都に魚の雨が降った。

 二十一年、秋七月。
 夫沙郡が一角鹿を進呈した。
 この年は豊作であった。

 二十四年、夏四月。
 楊山の小雀が大鳥を生んだ。

 二十六年、春夏。
 旱魃。
 その年は不作で人民が餓えた。
 衛頭を派遣して符秦(前秦)に入国させ、方物を貢いだ。
 苻堅は衛頭に問うた。
「卿は海東の事を古と同じではないと言うが、どういうことだ。」
 衛頭は答えた。
「中国と同様に時代が変革すれば、名號を改め易えるものです。
 今どうして、かつてと同じであり得ましょうか?」

 三十三年、夏四月。
 京都で地震。

 六月。
 また地震。

 冬。
 氷無し。

 三十四年、春正月。
 京都で疫病が大流行した。

 二月。
 雨土。

 秋七月。
 蝗が発生し、穀物が実らなかった。

 三十七年、春正月。
 高句麗が使者を派遣した。
 王は高句麗が強く盛んであることから、伊飡大西知の子である實聖を人質として送った。

 三十八年、夏五月。
 倭人が来て金城を五日ほど包囲した。
 将士は皆戦いに出たいと請願したが、王は言った。
「現在、賊は舟を棄てたまま深入りし、まさに死地にある。
 攻撃に出てはならぬぞ。」
 こうして城門を閉じると、賊は何の成果もあげないうちに撤退した。
 王は先に勇騎二百を派遣して、その帰路を遮断した。
 そして步卒一千を派遣し、獨山まで追い回し、来擊して之れを大いに敗り、殺害、あるいは捕虜にすること甚だ多し。

 四十年、秋八月。
 靺鞨が国境北を侵犯した。
 軍隊を出陣させ、悉直の原にて大いに敗る。

 四十二年、秋七月。
 国境北の何瑟羅で旱魃が起こり蝗が発生した。
 その年は不作で人民は飢えたので、囚徒を曲赦し、租調を一年ほど返還した。

 四十四年、秋七月。
 飛蝗が野を覆った。

 四十五年、秋八月。
 ほうき星が東方に現れた。

 冬十月。
 王が御內の廐馬に試し乗りしたところ、膝をつけて跪き、淚を流して悲鳴を上げた。

 四十六年、春夏。
 旱魃。

 秋七月。
 高句麗に人質として出した子の實聖が帰還した。

 四十七年、春二月。
 王が死去した。

 

 戻る








≪白文≫
奈勿、一云那密、尼師今立、姓金、仇道葛文王之孫也。
父末仇角于、母金氏休禮夫人。
妃金氏、味鄒王女。
訖解薨、無子、奈勿繼之。
末仇,味鄒尼師柰今兄弟也。

論曰、取妻不取同姓,以厚別也。
是故、魯公之取於吳、晋侯之有四姬、陳司敗、鄭子産深譏之。
若新羅、則不止取同姓而已、兄弟子姑姨從姊妹、皆聘爲妻。
雖外國各異俗、責之以中國之禮、則大悖矣。
若匈奴之烝母報子、則又甚於此矣。

二年春。
發使撫問鰥寡孤獨、各賜穀三斛。
孝悌有異行者、賜職一級。

三年、春二月。
親杞祀始祖廟。
紫雲盤旋廟上、神雀集於廟庭。

七年、夏四月。
始祖廟庭樹連理。

九年、夏四月。
倭兵大至。
王聞之、恐不可敵、造草偶人數千、衣衣持兵、列立吐含山下、伏勇士一千於斧峴東原。
倭人恃衆直進、伏發擊其不意、倭人大敗走、追擊殺之幾盡。

十一年。
春三月、百濟人來聘。
夏四月。
大水、山崩十三所。

十三年春。
百濟遣使、進良馬二匹。

十七年。
春夏大旱。
年荒民飢、多流亡、發使開倉廩賑之。

十八年。
百濟禿山城主、率人三百來投、王納之、分居六部。
百濟王移書曰、
兩國和好、約爲兄弟、今大王納我逃民、甚乖和親之意、非所望於大王也、請還之。
答曰、
民者無常心、故思則來、斁則去、固其所也。
大王不患民之不安、而責寡人、何其甚乎。
百濟聞之、不復言。

夏五月。
京都雨魚。

二十一年、秋七月。
夫沙郡進一角鹿。
大有年。

二十四年、夏四月。
楊山有小雀、生大鳥。

二十六年、春夏旱。
年荒民飢。
遣衛頭入符秦、貢方物。
苻堅問衛頭曰、
卿言海東之事與古不同、何耶。
答曰、
亦猶中國、時代變革、名號改易、今焉得同。

三十三年、夏四月。
京都地震。
六月。
又震。
冬。
無氷。

三十四年、春正月。
京都大疫。
二月、雨土。
秋七月。
蝗、穀不登。

三十七年、春正月。
高句麗遣使、王以高句麗強盛、送伊飡大西知子實聖爲質。

三十八年、夏五月。
倭人來圍金城、五日不解。
將士皆請出戰。
王曰、 今賊棄舟深入、在於死地、鋒不可當。
乃閉城門、賊無功而退。
王先遣勇騎二百、遮其歸路。
又遣步卒一千、追於獨山、夾擊大敗之、殺獲甚衆。

四十年、秋八月。
靺鞨侵北邊、出師、大敗之於悉直之原。

四十二年、秋七月。
北邊何瑟羅、旱蝗。
年荒民飢、曲赦囚徒、復一年租調。

四十四年、秋七月。
飛蝗蔽野。

四十五年、秋八月。
星孛于東方。
冬十月。
王所嘗御內廐馬、跪膝流淚哀鳴。

四十六年、春夏。
旱。
秋七月。
高句麗質子實聖還。

四十七年、春二月。
王薨。


≪書き下し文≫
 奈勿、一に云く那密、尼師今立つ。
 姓は金、仇道葛文王の孫なり。
 父は末仇角于、母は金氏の休禮夫人。
 妃は金氏、味鄒王の女なり。
 訖解薨ずるも、子無し、奈勿之れを繼げり。
 末仇、味鄒尼師柰今の兄弟なり。

 論じて曰く、
 妻を取りては同姓を取らず,以て別を厚くするなり。
 是の故に、魯公の吳を取ること、晋侯の四姬有ることを、陳司敗、鄭子産之れを深譏す。
 新羅の若く、則ち同姓を取るを止めざるのみなれば、兄弟子姑姨從姊妹、皆聘(め)して妻と爲せり。
 外國各異俗あると雖も、之れを責むるに中國の禮を以てすれば、則ち大いに悖らんや。
 匈奴の母を烝(すす)めて子に報ゆが若きは、則ち又た此に於いて甚しきなり。

 二年春。
 使を發して鰥寡孤獨を撫問し、各おの穀三斛を賜る。
 孝悌に異(すぐ)れた行ひ有る者、職一級を賜る。

 三年、春二月。
 始祖廟に親ら杞祀す。
 紫雲廟上に盤旋し、神雀廟庭に集る。

 七年、夏四月。
 始祖廟の庭樹理を連ぬ。

 九年、夏四月。
 倭兵大いに至れり。
 王之れを聞き、敵ふ可からざるを恐れ、草偶人數千を造り、衣を持兵に衣し、吐含山の下に列立し、斧峴東原に勇士一千を伏す。
 倭人衆を恃り直進す。
 伏は其の不意に發擊すれば、倭人大敗走す。
 追擊して之れを殺して幾盡す。

 十一年。
 春三月、百濟人來聘す。
 夏四月。
 大水、山崩ること十三所。

 十三年、春。
 百濟遣使し、良馬二匹を進む。

 十七年。
 春夏大いに旱(ひでり)あり。
 年は荒み民飢ゑ、流亡するもの多し。
 使を發し倉廩(くらのふち)を開き之れを賑(めぐ)む。

 十八年。
 百濟の禿山城主、人三百を率いて投(なげだし)に來たる。
 王之れを納め、六部に分居す。
 百濟王書を移して曰く、
 兩國和好し、約(とりきめ)して兄弟と爲さん。
 今大王我が逃民を納め、甚だ和親の意と乖る。
 大王の望む所に非ざるなり。
 之れを還さんと請ふ。
 答へて曰く、
 民は常心無し、故に思へば則ち來、斁(いと)へば則ち去り、其の所に固するなり。
 大王は民の不安を患はず、而るに寡人を責むるは、何ぞ其れ甚しきか。
 百濟之れを聞き、復言せず。

 夏五月。
 京都に魚の雨(あめふ)る。

 二十一年、秋七月。
 夫沙郡一角鹿を進む。
 大有年。

 二十四年、夏四月。
 楊山小雀有り、大鳥を生ず。

 二十六年、春夏旱。
 年荒れ民飢ゆ。
 衛頭を遣り符秦に入り、方物を貢ぐ。
 苻堅、衛頭に問ひて曰く、
 卿は海東の事を古と同じからずと言ふ、何ぞや。
 答へて曰く、
 亦た猶ほ中國、時代變革すれば、名號改易し、今焉ぞ同を得ざらんや。

 三十三年、夏四月。
 京都地(なゐ)震る。

 六月。
 又た震(なゐ)。
 冬。
 氷無し。

 三十四年、春正月。
 京都大いに疫(おこり)あり。
 二月、雨土。
 秋七月。
 蝗(いなご)、穀(たなつもの)登(みの)らず。

 三十七年、春正月。
 高句麗遣使す。
 王高句麗の強盛(おおいにさかん)なるを以て、伊飡大西知子實聖を送り質と爲す。

 三十八年、夏五月。
 倭人來たりて金城を圍み、五日解かず。
 將士皆出戰を請ふ。
 王曰く、
 今、賊は舟を棄て深入りし、死地に在り。
 鋒當たる可からず。
 乃ち城門を閉じ、賊は功無くして退く。
 王は先ず勇騎二百を遣り、其の歸路を遮る。
 又た步卒一千を遣り、獨山に追ひ、夾擊して之れを大いに敗り、殺獲すること甚だ衆(おお)し。

 四十年、秋八月。
 靺鞨北邊を侵す。
 出師し、悉直の原に於いて之れを大いに敗る。

 四十二年、秋七月。
 北邊の何瑟羅、旱蝗。
 年荒れ民飢へ、囚徒を曲赦し、租調を一年復せり。

 四十四年、秋七月。
 飛蝗野を蔽ふ。

 四十五年、秋八月。
 星孛東方にあり。
 冬十月。
 王御內の廐馬に嘗せし所、膝を跪して淚を流し、哀鳴す。

 四十六年、春夏。
 旱。

 秋七月。
 高句麗質子實聖還る。

 四十七年、春二月。
 王薨ず。