智證麻立干が擁立された。
姓は金氏、諱は智大路である。(あるいは智度路、または智哲老とも云われる)
奈勿王の曾孫であり、習寶葛文王の子、照知麻立干の再從弟である。
母は金氏鳥生夫人、訥祇王の娘である。
妃は朴氏延帝夫人、登欣伊飡の娘である。
王の体躯は極めて大きく、膽力は常人をはるかに超える。
前王が死去した際、子がいなかった。
そのため位を継いだが、当時年齢は六十四歲であった。
ここで論じることがある。
新羅王はこれまで、一人が居西干、一人が次次雄、十六人が尼師今、四人が麻立干を称した。
新羅末の名儒であった崔致遠は、帝王の年代曆を作成した際、皆を○○王と称し、居西干等の称号を用いなかったのは、その呼称が鄙野であったので、王の称号に足るものではないと判断したのだろうか。
左伝や漢書は中國の史書と言われているが、それでも楚語の「穀於菟(こくおと)」や匈奴語の「撑犁孤塗(とうりこと)」といった呼称が用いられるようなものである。(※1)
今回、新羅の事を記すにあたって、その方言を用いることも、また宜しきことではないか。
三年、春二月。
殉葬を禁止すると下令した。
前國王が死去した際、殉死者が男女それぞれ五人もおり、そのため禁令を出すことになったのだ。
自ら神宮を祀った。
三月。
州郡に農業を主として励むようにとそれぞれに命令を出した。
畑を耕すために初めて牛が用いられた。
四年、冬十月。
群臣が上言した。
「始祖の創業以来、国名は未だ定まっておりません。
ある時は斯羅と称し、ある時は斯盧と称し、またある時は新羅と呼んでおります。
私たち臣下の思案するに、『新』は徳業を『新』といい、『羅』は四方の義を網『羅』することを意味します。
ゆえに『新羅』を国号に定めるのがよろしいかと思われます。
また、古来より顧みれば国家の統帥者は、皆が帝あるいは王を称しております。
我らが始祖が国をお立てになって以来、現在は二十二世まで降りましたが、いたずらに方言を称するとあっては、尊号として正しいとは言えないでしょう。
今、私達臣下一同は意見を一致させ、新羅國王と号しては如何かと謹みて奏上いたします。」
王はそれに従った。
五年、夏四月。
喪服を制定し、法令を頒行した。
秋九月。
役夫を徴発し、波里、彌實、珍德、骨火等十二城を築いた。
六年、春二月。
王自ら国内の州郡縣を定めた。
悉直州を置き、それゆえに異斯夫を軍主に任命した。
軍主の名は、ここで初めて用いられた。
冬十一月。
初めて所司に『藏氷(※2)』を命じた。
また舟と舵の利を調節した。
七年、春夏。
旱魃が起こった。
人民が餓えたので、穀倉を開いてふるまった。
十年、春正月。
京都の東に市場を置いた。
三月。
檻や落とし穴を設置して、それによって猛獸の害を除いた。
秋七月。
霜が降り豆類を食べられなくした。
十一年、夏五月。
地震。
人屋が壞れ、死者が出た。
冬十月。
雷。
十三年、夏六月。
于山國が帰服し、毎年その土地の特産品を貢物とした。
于山國の溟州には正東海島がある。(あるいは鬱陵島とも呼ばれる)
その面積は方一百里、険しい地形をたよりとして服従しなかった。
伊飡の異斯夫は何瑟羅州の軍主に任命された。
于山人の愚かであるが悍強だと言われ、威をによって攻撃するのは難しく、計略によって征服するべきだということで、木偶の獅子をいくつも造り、それを戦船に分担させて搭載し、その国の海岸に船を寄せ、偽りを告げて言った。
「お前たちがもし服従しないというのなら、この猛獣を放って踏み殺させてやるぞ!」
その国の人々は恐れ怯えて、すぐに降服した。
十五年、春正月。
小京を阿尸村に置いた。
秋七月。
六部及び南地の人戸を移住させ、それを充実させた。
王が死去し、諡(おくりな)を智證とした。
新羅に諡法が用いられたのは、これが最初である。
(※1)楚語の「穀於菟(こくおと)」や匈奴語の「撑犁孤塗(とうりこと)」
㝅於菟は楚の令尹(宰相)であった鬬㝅於菟のこと。
㝅於菟の㝅は楚語で乳、於菟は虎であると春秋左氏伝に記されている。
鬬㝅於菟は楚の重臣であった鬬伯が鄖子の娘と密通して生まれた。
母親は生まれたばかりの㝅於菟を雲夢沢(揚子江中流の湿地帯)に捨てたが、虎が乳をやったので死ななかった。
それを後日、母親に見つかって元通り育てられる。
撑犁孤塗は匈奴語で天子。
中国の史書で匈奴の王は一般に単于と表記されるが、正式名称は撐犂孤塗単于である。
撑犁(トルコ語:tngri=天)の孤塗(ツングース語:guto=子)であり、単于(モンゴル語:delgüü)は広大を意味する。
(※2)藏氷
藏氷は氷の保存庫、あるいは氷の採集のこと。
同時期に船の整備をしていることから、ここでは氷の採集であると思われる。
三国時代から李氏朝鮮に至るまで、朝鮮では国家主導で氷の採集と保存が行われていた。
三国遺事では三代目新羅王儒理の代から既に藏氷が行われていたとされている。
高麗では夏になると官僚に藏氷から氷を支給する『頒氷』と呼ばれる制度があった。
李氏朝鮮の時代に降ると、漢陽では東氷庫と西氷庫が設置された。
東氷庫は王と高級官僚が使用する氷を、西氷庫は国策において使用する氷を保管した。
のちに私氷庫が設置され、宮廷内で用いられる氷を保管することになった。
また、李氏朝鮮では氷の採集のために民間人を徴発して『藏氷軍』が結成された。
12月になると藏氷軍は漢江まで氷を採集し、それを氷庫に入れると、春分までは扉を開けない。
6月1日から9月末日まで王から上級の官僚を中心に頒氷が為される。
しかし、李氏朝鮮九代王成宗は罪人にも氷を分け与えたことので、儒学者の金宗直に善政であると讃えられた。
現在も韓国には藏氷の跡が残っている。
古代社会において、氷の保存は世界的に決して珍しいものではなかった。
古代中国では、周王朝には凌人と呼ばれる氷の保管庫を管理する役職があり、周文王の九男康叔封は、庶子をそれに任命したとされる。
これが凌氏の始まりであるといわれ、現在ここから出た者で有名なのは三国志の凌統であろう。
春秋時代においても冬の川や山から氷を採集し、それを石造りの蔵に保管する『伐氷』が行われていたという。
中世以後は氷菓が発展し、13世紀に中国を訪れたマルコポーロは東方見聞録において、中国で食した練乳と砕いた氷を混ぜ合わせた氷菓を絶賛している。
これを欧州に持ち帰ってイタリア全土で人気を博したことが、ジェラートの起源とも云われている。
日本においても、氷の保管施設は『氷室(ひむろ)』と呼ばれ、古くは日本書紀において、仁徳天皇が額田大中彦皇子と狩猟をするため闘鶏に出かけた折に、天然の氷を保存した氷室を見つけ、以後それを朝廷に献上させたことが記録されている。
現在まで続く氷連や氷室といった姓に、その管理者が役職として存在していたことの面影が遺る。
こちらも中世以後も貴族を中心に愛好され、平安京には6か所の氷室が存在しており、朝廷に氷が献上された。
枕草子や源氏物語といった宮廷文学において、貴族が氷で涼むさまが描写されている。
砂漠地帯の中東であるが、アケメネス朝ペルシアは遅くとも紀元前5世紀から氷を貯蔵していた。
中東は砂漠地帯であると同時にさほど赤道に近くなく、標高の高い山が多くあるため雪や氷が採集しやすい。
標高による寒暖差が大きかったことが、氷の貯蔵をする文化的な推進力になったのかもしれない。
紀元前4世紀には、バラから抽出した香水とヴェルミチェッリ(ところてん)を凍らせて蜜をかけた『ファールーデ・シーラーズ』と呼ばれる氷菓があったという。
また、アレクサンドロス大王は雪や氷にハチミツや果汁をかけた氷菓を嗜好していた。
その後、冬場に保管した氷や雪によって冷やした砂糖入りの飲み物『シャルバータ』が開発された。
これは欧州に渡ってイタリアで特に親しまれ、ソルベットと呼ばれるようになった。
これがシャーベットの起源である。
特にシチリア島では果物の栽培が盛んであったため、それを利用したソルベットが特産品となり、シチリア出身の料理人によってイタリア王国の宮廷でも紹介された。
中東の影響からか、古代ギリシャ・ローマにおいても、冬に貯蔵した氷で夏場に食べて兵士たちが涼をとった。
ローマ皇帝ネロはアルプスから万年雪を採集させ、それに果汁や香水を混ぜたドルチェ・ヴィータをつくらせたと云われる。
このドルチェ・ヴィータはローマの裕福な市民に流行し、富豪は氷の貯蔵庫を私有するに至った。
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