眞興王

眞興王

 眞興王が擁立された。
 諱は彡麥宗、あるいは深麥夫と書く。
 当時、年齢は七歲、法興王の弟葛文王立宗の子である。
 母は夫人金氏、法興王の娘である。
 妃は朴氏思道夫人である。
 王は幼少であり、王太后が攝政することになった。

 元年、八月。
 大赦を出した。
 文武官爵一級を賜った。

 冬十月。
 地震が起こり、桃李の花が咲いた。

 二年、春三月。
 雪が一尺ほど積もった。
 拜して異斯夫を兵部令に任命し、內外兵馬の権限を掌握させた。
 百濟が使者を派遣して講和を請願したので、それを許可した。

 五年、春二月。
 興輪寺を建てた。

 三月。  人が出家して僧尼となり、仏に奉ずることを許可した。

 六年、秋七月。
 伊飡の異斯夫が上奏して言った。
「かつては国史の者が君臣の善悪を記録し、褒貶を万代に示しました。
 撰を修めることなくして、後代の者たちは何を観ればよいのでしょうか。」
 王はそれに深く賛同して、大阿飡の居柒夫等に命じ、広く文士を集めさせ、撰集を制作させた。

 九年、春二月。
 高句麗と穢人が百濟の獨山城に攻め込んだため、百濟が救援を要請した。
 王は將軍朱玲(珍)と領勁卒三千を派遣して攻撃し、甚だ多くの者を殺害、捕虜とした。

 十年、春。
 梁が使者を出して學僧覺德を入国させるとともに、佛舍利を送った。
 王は興輪寺の前路にて百官に奉迎させた。

 十一年、春正月。
 百濟が高句麗の道薩城を抜いた。

 三月。
 高句麗が百濟の金峴城を陥落させた。
 王が両国の兵が疲弊したことに乗じて、伊飡の異斯夫に命じ、軍隊を出動して攻撃させた。
 二城を取って増築し、甲士一千を駐留させて威迫した。

 十二年、春正月。
 開國に改元した。

 三月。
 王が次娘城を巡守した。
 于勒と弟子の尼文が樂に詳しいと聞いて、特別に呼び出すことにした。
 王は河臨宮に駐在し、その音楽を奏でさせてみると、二人がそれぞれ新たな歌を製作して奏でた。
 この話は、加耶國の嘉悉王が十二弦琴を製作し、それによって十二月それぞれの旋律を象(かたど)ろうとしたことに遡る。
 嘉悉王は于勒に命じてその曲を製作させたが、その国が乱れたため、于勒は楽器を持って我が国に身を投じ、その音楽を加耶琴と名づけた。
 王が柒夫等に命じて高句麗に侵攻させ、勝ちに乗じて十郡を取った。

 十三年。
 王が階古、法知、萬德の三人に命じ、于勒から楽を学ばせた。
 于勒はその人それぞれの能力を量り、階古には琴を教え、法知には歌を教え、萬德には舞を教えた。
 業(わざ)が成り、王が命じてそれを演奏させ、
「前の娘城での音楽と異なるところがない!」
 と言い、これを厚く褒賞した。

 十四年、春二月。
 王は所司に命じ、新宮を月城の東に築かせると、黃龍がその地に現れた。
 王はそれを怪しく思い、改めて仏寺を建立し、皇龍と號を賜った。

 秋七月。
 百濟の東北鄙を取って新州を置き、それをもって阿飡武力を軍主に任命した。

 冬十月。
 百濟王女を娶り小妃とした。

 十五年、秋七月。
 明活城を修築した。
 百濟王の明襛と加良が管山城を攻撃しに来たが、軍主の角干于德や伊飡の耽知等が抗戦したので失わなわずに済んだ。
 そこに新州軍主の金武力が州兵を率いて赴き、そのまま交戦するに及んだ。
 三年山郡の高于都刀を将に任命して急擊させ、百濟王を殺した。
 ここへきて、諸軍は勝ちに乗じ、大いにそれに打ち克ち、佐平四人、士卒二万九千六百人を斬り殺し、一匹の馬さえ帰るものはなかった。

 十六年、春正月。
 完山州を比斯伐に置いた。

 冬十月。
 王北漢山を巡幸し、封疆を拓いて定めた。

 十一月。
 北漢山から到着し、州郡巡幸の経路を教え、一年租調を返還した。
 曲赦を出し、二罪を除いて皆これを免罪した。

 十七年、秋七月。
 比列忽州を置き、それによって沙飡成宗を軍主に任命した。

 十八年。
 國原を小京に任命した。
 沙伐州を廃し、甘文州を置き、それによって沙飡起宗を軍主に任命した。
 新州を廃し、北漢山州を置いた。

 十九年、春二月。
 貴戚子弟及び六部豪民を、實國原に移住させた。
 奈麻身得が砲弩の制作して献上したので、それを城上に置くことにした。

 二十三年、秋七月。
 百濟が国境の民家を侵して略奪した。
 王は軍隊を出して防衛し、殺害あるいは捕虜とすること一千人余り。

 九月。
 加耶が叛いた。
 王は異斯夫に命じて討伐させ、斯多含を副将に任命した。
 斯多含領の五千騎が先に馳せ、栴檀門に入って白旗を立てた。
 すると城中の者たちが恐懼し、どうしてよいかわからなくなって困惑した。
 異斯夫が兵を引き連れてそこに臨むと、一度に皆が降服を願い出た。
 評定において、斯多含を功績第一とした。
 王は良田と捕虜となった二百口を褒賞としたが、斯多含は三度断った。
 それでも王がさらにそれを強いたので、受け取ることにした。
 その生口のうち、放を良人、田を戦士と分けたので、国民はそれを立派なことだと評判とした。

 二十五年。
 北齊に使者を派遣して朝貢した。

 二十六年、春二月。
 北齊の武成皇帝が詔を発した。
 これより王を使持節、東夷校尉、樂浪郡公、新羅王と任命する、と。

 秋八月。
 阿飡春賦に命じ、出撃させて國原を守らせた。

 九月。
 完山州を廃し、大耶州を置いた。
 陳が劉思と僧明觀を遣使して聘問させ、釋氏經論千七百卷余りを送った。

 二一(十)七年、春二月。
 祇園、實際の二寺を建立した。
 王子の銅輪を王太子に擁立した。
 陳に遣使して方物を貢いだ。
 皇龍寺建立の工程が終わった。

 二十八年、春三月。
 陳に遣使して方物を貢いだ。

 二十九年。
 大昌と改元した。

 夏六月。
 陳に遣使して方物を貢いだ。

 冬十月。
 北漢山州を廃し、南川州を置いた。
 また比列忽州を廃し、達忽州を置いた。

 三十一年、夏六月。
 陳に遣使して方物を献上した。

 三十二年。
 陳に遣使して、方物を貢いだ。

 三十三年、春正月。
 鴻濟と改元した。

 三月。
 王太子銅輪が死去した。
 北齊に遣使して朝貢した。

 冬十月二十日。
 戦死した士卒のために外寺で八關筵會を七日に渡り開いた。

 三十五年、春三月。
 皇龍寺丈六像を鑄成した。
 銅は重さ三萬五千七斤、金が重さ一萬一百九十八分を鍍った。

 三十六年、春夏。
 旱魃。
 皇龍寺の丈六像が淚を流し、それが踵にまで滴った。

 三十七年、春。
 初めて源花を奉げた。
 この話の始まりは、次のようなものである。
 君臣が人材を見分けることができないことに心を病ませた。
 そのため、多くの人々を集めて遊ばせることで、その行義を観察してから、それらの人々を推挙して用いようとしたことに始まる。
 こうして選び取った美女二人の名を南毛と俊貞といい、集めた徒人は三百人余りである。
 二人の女はその美貌を争っておたがいに妬み合い、俊貞は南毛を私邸に誘って酒をむりやり勧め、酔っぱらったところでその身を引きずり、河水に投げ込んで殺した。
 俊貞は誅されることになり、徒人たちは和を失って散り散りとなった。
 その後、今度は美貌の男子を選び、化粧をさせてこれを飾り、『花郞』と名づけて奉った。
 すると、多くの人々が雲のように群がり、ある者は道義によって互いを磨き、あるものは歌楽を互いの歓びとし、山水に遊娛し、遠くであっても行かないということがなかった。
 これによってその人の邪正を知り、その善者を選び、これを朝廷に推薦した。

 金大問の『花郞世記』では次のように記されている。
 賢佐忠臣、これに従って秀で、良将勇卒、ここによって生まれた。

『崔致遠鸞郞碑序』には次のように記されている。
 国に玄妙の道があり、それを風流という。
 教の源を設し、仙史を詳細を備え、結実すれば三教を包含し、親しく教化し合って皆で生きている。
 家に入れば孝を尽くし、国に出れば忠を尽くす、これは魯司寇の教旨である。
 無為に身をおいて、不言の教えを行うのは、周柱史の教宗である。
 諸悪をおこなうことなく諸善をおこなうのは、竺乾太子の教化である。(※1)

『唐令狐澄新羅國記』には次のように記されている。
 貴人子弟の美しき者を選び、化粧をさせて飾ると伝えられる。
 その名は花郞。
 国民は皆がこれに仕えることを尊んだ。

 安弘法師が隋に入って法を求め、胡僧毗摩羅等二僧と共に帰国し、稜伽勝鬘經及び佛舍利を献上した。

 秋八月。
 王が死去し、諡は眞興である。
 哀公寺の北峯に葬られた。
 王は幼年に即位してより一心に仏に奉じ、末年に至るとざんばら髪にして僧衣を慶び着て、自らを法雲と號してその身を終えた。
 王妃もまた、それに影響されて尼となり、永興寺に住むことにした。
 その死去に及んで、国民は礼をもって葬った。










(※1) 家に入れば孝を尽くし、国に出れば忠を尽くす、これは魯司寇の教旨である。
     無為に身をおいて、不言の教えを行うのは、周柱史の教宗である。
     諸悪をおこなうことなく諸善をおこなうのは、竺乾太子の教化である。

 魯司寇は孔子のこと。司寇は周王朝の官位における秋官の長で、刑罰及び警察権を掌握する。
 魯は周王朝における国家のひとつで孔子の出生国。生前、孔子は魯国で司寇の位に就いた。
「家に入れば孝を尽くし、国に出れば忠を尽くす」の原文は「入則孝於家、出則忠於國」。
 これは論語学而篇の「弟子入りては則ち孝、出でては則ち悌」に準ずる。

 周柱史は老子のこと。
 柱史は周王朝における蔵書室の管理人を務める役人。
 史記等では、孔子は周に遊学した際、柱史に就いた老子に師事したとされている。
「無為に身をおいて、不言の教えを行う」の原文は「處無爲之事、行不言之敎」。
 これは老子道徳経第二章の「是以聖人、處無爲之事、行不言之教」に準ずる。

 竺乾太子は仏陀(ゴータマ・シッダルタ、ブッダ)のこと。
 竺乾は天竺、現在の北インドからネパール周辺。
 ゴータマ・シッダルタはその地域を国領とするシャカ族の王子であった。
「諸悪をおこなうことなく諸善をおこなう」の原文は「諸惡莫作、諸善奉行」。
 これは七仏通誡偈の「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」に準ずる。
 パーリ語では、「Sabba pāpassa akaraṇaṃ kusalassa upasampadā Sacitta pariyodapanaṃ etaṃ buddhāna sāsanaṃ」とのこと。
 七仏通誡偈とは、訓ずれば「七の仏に通じたる誡(いましめ)の偈(げ)」であり、いわば「(ゴータマ・ブッダ以外も含めた)七の仏に通じる(普遍的な仏法の)戒めとして説かれる詩」である。
 七仏とは毘婆尸仏、尸棄仏、毘舎浮仏、倶留孫仏、倶那含牟尼仏、迦葉仏、釈迦牟尼仏で、最後の釈迦牟尼仏はゴータマ・シッダルタ。
 偈(げ)は仏法を讃える詩で、サンスクリット語のgāthāの音写。

 この偈については次の逸話が有名である。
 唐代の詩人として著名な白居易が仏法の大意を問われた鳥窠和尚が、上述の七仏通誡偈をもって答えると、白居易は3つの赤子でも知っている(三歳孩児也、解恁麼道)と笑った。
 しかし、鳥窠和尚が「三歳の赤子でも知っているが、八十の老人でも行うことはできない(三歳孩児雖道得、八十老人行不得)」と答えたので、ついに白居易は礼をもって和尚に接した。
 逸話の出典は『景徳傳灯録』。
 過去七仏から天台徳韶門下に至るまでの禅僧を中心とした伝記である。

 

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≪白文≫
 眞興王立。  諱彡麥宗、或作深麥夫。  時年七歲、法興王弟葛文王立宗之子也。
 母、夫人金氏、法興王之女。
 妃、朴氏思道夫人。
 王幼少、王太后攝政。

 元年、八月。
 大赦。
 賜文武官爵一級。

 冬十月。
 地震。桃李華。

 二年、春三月。
 雪一尺。
 拜異斯夫爲兵部令、掌內外兵馬事。
 百濟遣使請和、許之。

 五年、春二月。
 興輪寺成。

 三月。  許人出家爲僧尼、奉佛。

 六年、秋七月。
 伊飡異斯夫奏曰、
 國史者、記君臣之善惡、示褒貶於萬代。
 不有修撰、後代何觀。
 王深然之、命大阿飡居柒夫等、廣集文士、俾之修撰。

 九年、春二月。
 高句麗與穢人、攻百濟獨山城、百濟請救。
 王遣將軍朱玲(珍)領勁卒三千擊之、殺獲甚衆。

 十年、春。  梁遣使與入學僧覺德、逸(送)佛舍利。
 王使百官、奉迎興輪寺前路。

 十一年、春正月。
 百濟拔高句麗道薩城。

 三月。
 高句麗陷百濟金峴城。
 王乘兩國兵疲、命伊飡異斯夫出兵擊之。
 取二城增築、留甲士一千戍之。

 十二年、春正月。
 改元開國。

 三月。
 王巡守次娘城、聞千(于)勒及其弟子尼文知音樂、特喚之。
 王駐河臨宮、令奏其樂、二人各製新歌奏之。
 先是、加耶國嘉悉王、製十二弦琴、以象十二月之律、乃命于勒製其曲、及其國亂、操樂器投我、其樂名加耶琴。
 王命居柒夫等、侵高句麗、乘勝取十郡。

 十三年。
 王命階古、法(注)知、萬德三人、學樂於于勒。
 于勒量其人之所能、敎階古以琴、敎法知以歌、敎萬德以舞。
 業成、王命奏之曰、
 與前娘城之音無異。
 厚賞焉。

 十四年、春二月。
 王命所司、築新宮於月城東、黃龍見其地、王疑之、改爲佛寺、賜號曰皇龍。

 秋七月。
 取百濟東北鄙、置新州、以阿飡武力爲軍主。

 冬十月。
 娶百濟王女爲小妃。

 十五年、秋七月。
 修築明活城。
 百濟王明襛與加良、來攻管山城、軍主角干于德、伊飡耽知等、逆戰失利。
 新州軍主金武力、以州兵赴之、及交戰、裨將三年山郡高于〈干〉都刀、急擊殺百濟王。
 於是、諸軍乘勝、大克之、斬佐平四人、士卒二萬九千六百人、匹馬無反者。

 十六年、春正月。
 置完山州於比斯伐。

 冬十月。
 王巡幸北漢山、拓定封疆。

 十一月。
 至自北漢山、敎所經州郡、復一年租調。
 曲赦、除二罪、皆原之。

 十七年、秋七月。
 置比列忽州、以沙飡成宗爲軍(軍)主。

 十八年。
 以國原爲小京。
 廢沙伐州、置甘文州、以沙飡起宗爲軍主。
 廢新州、置北漢山州。

 十九年、春二月。
 徙貴戚子弟及六部豪民、以實國原。
 奈麻身得作砲弩上之、置之城上。

 二十三年、秋七月。
 百濟侵掠邊戶、王出師拒之、殺獲一千餘人。

 九月。
 加耶叛、王命異斯夫討之、斯多含副之。
 斯多含領五千騎先馳、入栴檀門、立白旗、城中恐懼、不知所爲。
 異斯夫引兵臨之、一時盡降。
 論功、斯多含爲最、王賞以良田及所虜二百口、斯多含三讓、王强之、乃受。
 其生口、放爲良人、田分與戰士、國人美之。

 二十五年。
 遣使北齊朝貢。

 二十六年、春二月。
 北齊武成皇帝詔、以王爲使持節東夷校尉樂浪郡公新羅王。

 秋八月。
 命阿飡春賦、出守國原。

 九月。
 廢完山州、置大耶州。
 陳遣使劉思與僧明觀、來聘、送釋氏經論千七百餘卷。

 二一(十)七年、春二月。
 祇園、實際二寺成。
 立王子銅輪爲王太子。
 遣使於陳貢方物。
 皇龍寺畢功。

 二十八年、春三月。
 遣使於陳貢方物。

 二十九年。
 改元大昌。

 夏六月。
 遣使於陳貢方物。

 冬十月。
 廢北漢山州、置南川州。
 又廢比列忽州、置達忽州。

 三十一年、夏六月。
 遣使於陳獻方物。

 三十二年。
 遣使於陳、貢方物。

 三十三年、春正月。
 改元鴻濟。

 三月。
 王太子銅輪卒。
 遣使北齊朝貢。

 冬十月二十日。
 爲戰死士卒、設八關筵會於外寺、七日罷。

 三十五年、春三月。
 鑄成皇龍寺丈六像。
 銅重三萬五千七斤、鍍金重一萬一百九十八分。

 三十六年、春夏。
 旱。
 皇龍寺丈六像、出淚至踵。

 三十七年、春。
 始奉源花。
 初、君臣病無以知人、欲使類聚、遊、以觀其行義、然後擧而用之。
 遂簡美女二人、一曰南毛、一曰俊貞、聚徒三百餘人。
 二女爭娟相妬、俊貞引南毛於私第、强勸酒、至醉、曳而投河水、以殺之。
 俊貞伏誅、徒人失和罷散。
 其後、更取美貌男子、粧飾之、名花郞以奉之。
 徒衆雲集、或相磨以道義、或相悅以歌樂、遊娛山水、無遠不至。
 因此知其人邪正、擇其善者、薦之於朝。
 故金大問『花郞世記』曰、
 賢佐忠臣、從此而秀、良將勇卒、由是而生。
 崔致遠鸞郞碑序曰、
 國有玄妙之道、曰風流、設敎之源、備詳仙史、實乃包含三敎、接化群生。
 且如入則孝於家、出則忠於國、魯司寇之旨也。
 處無爲之事、行不言之敎、周柱史之宗也。
 諸惡莫作、諸善奉行、竺乾太子之化也。
 唐令狐澄新羅國記曰、
 擇貴人子弟之美者、傅粉粧飾之、名曰花郞、國人皆尊事之也。
 安弘法師入隋求法、與胡僧毗摩羅等二僧廻、上稜伽勝鬘經及佛舍利。

 秋八月。  王薨、諡曰眞興、葬于哀公寺北峯。
 王幼年卽位、一心奉佛、至末年祝髮被僧衣、自號法雲、以終其身。
 王妃亦、效之爲尼、住永興寺。
 及其薨也、國人以禮葬之。


≪書き下し文≫
 眞興王立つ。
 諱は彡麥宗、或は深麥夫と作す。
 時に年七歲、法興王の弟葛文王立宗の子なり。
 母は夫人金氏、法興王の女なり。
 妃は朴氏思道夫人なり。
 王は幼少、王太后攝政す。

 元年、八月。
 大赦す。
 文武官爵一級を賜ふ。

 冬十月。
 地震。桃李華(はなひら)く。

 二年、春三月。
 雪一尺。
 拜して異斯夫を兵部令と爲し、內外兵馬の事を掌(つかさど)らせしむ。
 百濟遣使して和を請ひ、之れを許す。

 五年、春二月。
 興輪寺成す。

 三月。
 人出家して僧尼と爲り、佛に奉ずることを許す。

 六年、秋七月。
 伊飡の異斯夫奏じて曰く、
 國史の者、君臣の善惡を記し、褒貶を萬代に示す。
 撰を修むる有らずして、後代何を觀るか。
 王深く之れを然りとして、大阿飡の居柒夫等に命じ、廣く文士を集めさせ、之れをして撰を修めしむ。

 九年、春二月。
 高句麗と穢人、百濟の獨山城を攻め、百濟救を請ふ。
 王は將軍朱玲(珍)領勁卒三千を遣り之れを擊ち、殺獲すること甚だ衆(おお)し。

 十年、春。
 梁遣使して學僧覺德入ると與に、佛舍利を逸(送)る。
 王は百官をして、興輪寺の前路に奉迎す。

 十一年、春正月。
 百濟高句麗道薩城を拔く。

 三月。
 高句麗百濟金峴城を陷(おと)す。
 王兩國の兵疲に乘じ、伊飡異斯夫に命じて兵を出し之れを擊つ。
 二城を取り增築し、甲士一千を留めて之れを戍す。

 十二年、春正月。
 改元開國。

 三月。
 王次娘城を巡守す。
 千(于)勒及び其の弟子尼文は音樂を知るを聞き、特に之れを喚す。
 王河臨宮に駐し、令して其の樂を奏せしめば、二人各新歌を製して之れを奏す。
 先ず是れ、加耶國の嘉悉王、十二弦琴を製し、以て十二月の律を象(かたど)り、乃ち命じて于勒に其の曲を製させしむるも、其の國亂るに及び、樂器を操り我に投じ、其の樂を加耶琴と名づく。
 王命じて柒夫等を居させ、高句麗を侵し、勝ちに乘じて十郡を取る。

 十三年。
 王命じて階古、法(注)知、萬德の三人、于勒に樂を學ばせしむ。
 于勒其の人の能ふ所を量り、階古は琴を以て敎え、法知は歌を以て敎え、萬德は舞を以て敎ゆ。
 業(わざ)は成り、王命じて之れを奏せしめて曰く、
 前の娘城の音と異なること無し、と。
 厚く焉(こ)れを賞す。

 十四年、春二月。
 王は所司に命じ、新宮を月城の東に築けば、黃龍其の地に見(あらわ)れ、王之れを疑ひ、改めて佛寺を爲し、號を賜ひて皇龍と曰ふ。

 秋七月。
 百濟の東北鄙を取り、新州を置き、以て阿飡武力を軍主と爲す。

 冬十月。
 百濟王女を娶りて小妃と爲す。

 十五年、秋七月。
 明活城を修築す。
 百濟王の明襛と加良、管山城の攻に來たり。
 軍主の角干于德、伊飡の耽知等、逆戰して利を失はず。
 新州軍主の金武力、州兵を以て之れに赴き、交戰するに及び、將をして三年山郡高于〈干〉都刀、急擊せしめ百濟王を殺せしむ。
 是に於いて、諸軍勝ちに乘じ、大いに之れに克ち、佐平四人、士卒二萬九千六百人を斬り、匹馬に反る者無し。

 十六年、春正月。
 完山州を比斯伐に置く。

 冬十月。
 王北漢山を巡幸し、封疆を拓定す。

 十一月。
 北漢山より至り、州郡を經る所を敎え、一年租調を復す。
 曲赦し、二罪を除き、皆之れを原(ゆる)す。

 十七年、秋七月。
 比列忽州を置き、以て沙飡成宗を軍(軍)主と爲す。

 十八年。
 以て國原を小京と爲す。
 沙伐州を廢し、甘文州を置き、以て沙飡起宗を軍主と爲す。
 新州を廢し、北漢山州を置く。

 十九年、春二月。
 貴戚子弟及び六部豪民を、以て實國原に徙(うつ)す。
 奈麻身得砲弩を作し、之れを上(ささ)げ、之れを城上に置く。

 二十三年、秋七月。
 百濟邊戶を侵掠し、王師を出だして之れを拒み、殺獲すること一千餘人。

 九月。
 加耶叛き、王異斯夫に命じて之れを討たせしめ、斯多含之れを副す。
 斯多含領五千騎先に馳せ、栴檀門に入り、白旗を立てれば、城中恐懼し、爲す所を知らず。
 異斯夫兵を引きて之れを臨み、一時降るを盡す。
 功を論ひ、斯多含を最と爲し、王良田及び虜する所の二百口を以て賞するも、斯多含三たび讓り、王之れを强いれば、乃ち受くる。
 其の生口、放を良人と爲し、田を戰士と分け、國人之れを美とす。

 二十五年。
 北齊に遣使して朝貢せしむ。

 二十六年、春二月。
 北齊の武成皇帝詔す。
 以て王を使持節東夷校尉樂浪郡公新羅王と爲す、と。

 秋八月。
 阿飡春賦に命じ、出でて國原を守る。

 九月。
 完山州を廢し、大耶州を置く。
 陳、劉思と僧明觀を遣使して、聘に來させしめ、釋氏經論千七百餘卷を送る。

 二一(十)七年、春二月。
 祇園、實際の二寺成。
 王子銅輪を立てて王太子と爲す。
 陳に遣使して方物を貢ぐ。
 皇龍寺の功を畢(おえ)る。

 二十八年、春三月。
 陳に遣使して方物を貢ぐ。

 二十九年。
 大昌と改元す。

 夏六月。
 陳に遣使して方物を貢ぐ。

 冬十月。
 北漢山州を廢し、南川州を置く。
 又た比列忽州を廢し、達忽州を置く。

 三十一年、夏六月。
 陳に遣使して方物を獻ず。

 三十二年。
 陳に遣使して、方物を貢ず。

 三十三年、春正月。
 鴻濟と改元す。

 三月。
 王太子銅輪卒す。
 北齊に遣使して朝貢す。

 冬十月二十日。
 戰死を爲す士卒、八關筵會を外寺に設け、七日罷る。

 三十五年、春三月。
 皇龍寺丈六像を鑄成す。
 銅重三萬五千七斤、鍍金重一萬一百九十八分。

 三十六年、春夏。
 旱。  皇龍寺丈六像、淚を出して踵に至る。

 三十七年、春。
 始めて源花を奉ぐ。
 初め、君臣以て人を知ること無きを病み、類聚をして遊ばせ、以て其の行義を觀、然る後に擧げて之れを用ひんと欲す。
 遂に美女二人を簡(えら)ぶ。
 一に曰く南毛、一に曰く俊貞、聚徒三百餘人。
 二女娟を爭ひ相妬み、俊貞は南毛を私第に引き、强いて酒を勸め、醉ふに至り、曳きて河水に投げ、以て之れを殺す。
 俊貞は誅に伏(したが)ひ、徒人(あだびと)和を失ひ罷散(まかりあか)る。
 其の後、更に美貌の男子を取り、粧して之れを飾り、花郞と名づけて以て之れを奉る。
 徒衆雲集し、或は相ひ磨くに道義を以てし、或は相ひ悅ぶに歌樂を以てし、山水に遊娛し、遠の至ざること無し。
 此れに因りて其の人の邪正を知り、其の善者を擇び、之れを朝に薦む。
 故に金大問、花郞世記に曰く、
 賢佐忠臣、此れに從ひて秀で、良將勇卒、是に由りて生ず。
 崔致遠鸞郞碑序に曰く、
 國に玄妙の道有り、曰く風流。
 敎の源を設し、仙史を詳なるを備へ、實れば乃ち三敎を包含し、接化群生(せっけぐんしょう)す。
 家に於いて入りては則ち孝、國に於いて出でては則ち忠、且(か)の如(ごと)くなれば魯司寇の旨なり。
 無爲の事に處し、行不言の敎なれば、周柱史の宗なり。
 諸惡作すもの莫く、諸善奉行するは、竺乾太子の化なり。
 唐令狐澄新羅國記に曰く、
 貴人子弟の美者を擇び、粉粧して之れを飾ると傅へ、名づけて曰く花郞。
 國人皆之れに事ふることを尊ぶなり、と。
 安弘法師隋に入り法を求め、胡僧毗摩羅等二僧と與に廻り、稜伽勝鬘經及び佛舍利を上(ささ)ぐ。

 秋八月。
 王薨ず、諡を曰く眞興。
 哀公寺北峯に葬むらる。
 王幼年に卽位し、一心に佛に奉じ、末年に至り髮被僧衣を祝ひ、自ら法雲と號し、以て其の身を終へり。
 王妃も亦た、之れを效きて尼と爲り、永興寺に住まふ。
 其の薨ずるに及ぶや、國人禮を以て之れを葬れり。