≪白文≫
眞興王立。
諱彡麥宗、或作深麥夫。
時年七歲、法興王弟葛文王立宗之子也。
母、夫人金氏、法興王之女。
妃、朴氏思道夫人。
王幼少、王太后攝政。
元年、八月。
大赦。
賜文武官爵一級。
冬十月。
地震。桃李華。
二年、春三月。
雪一尺。
拜異斯夫爲兵部令、掌內外兵馬事。
百濟遣使請和、許之。
五年、春二月。
興輪寺成。
三月。
許人出家爲僧尼、奉佛。
六年、秋七月。
伊飡異斯夫奏曰、
國史者、記君臣之善惡、示褒貶於萬代。
不有修撰、後代何觀。
王深然之、命大阿飡居柒夫等、廣集文士、俾之修撰。
九年、春二月。
高句麗與穢人、攻百濟獨山城、百濟請救。
王遣將軍朱玲(珍)領勁卒三千擊之、殺獲甚衆。
十年、春。
梁遣使與入學僧覺德、逸(送)佛舍利。
王使百官、奉迎興輪寺前路。
十一年、春正月。
百濟拔高句麗道薩城。
三月。
高句麗陷百濟金峴城。
王乘兩國兵疲、命伊飡異斯夫出兵擊之。
取二城增築、留甲士一千戍之。
十二年、春正月。
改元開國。
三月。
王巡守次娘城、聞千(于)勒及其弟子尼文知音樂、特喚之。
王駐河臨宮、令奏其樂、二人各製新歌奏之。
先是、加耶國嘉悉王、製十二弦琴、以象十二月之律、乃命于勒製其曲、及其國亂、操樂器投我、其樂名加耶琴。
王命居柒夫等、侵高句麗、乘勝取十郡。
十三年。
王命階古、法(注)知、萬德三人、學樂於于勒。
于勒量其人之所能、敎階古以琴、敎法知以歌、敎萬德以舞。
業成、王命奏之曰、
與前娘城之音無異。
厚賞焉。
十四年、春二月。
王命所司、築新宮於月城東、黃龍見其地、王疑之、改爲佛寺、賜號曰皇龍。
秋七月。
取百濟東北鄙、置新州、以阿飡武力爲軍主。
冬十月。
娶百濟王女爲小妃。
十五年、秋七月。
修築明活城。
百濟王明襛與加良、來攻管山城、軍主角干于德、伊飡耽知等、逆戰失利。
新州軍主金武力、以州兵赴之、及交戰、裨將三年山郡高于〈干〉都刀、急擊殺百濟王。
於是、諸軍乘勝、大克之、斬佐平四人、士卒二萬九千六百人、匹馬無反者。
十六年、春正月。
置完山州於比斯伐。
冬十月。
王巡幸北漢山、拓定封疆。
十一月。
至自北漢山、敎所經州郡、復一年租調。
曲赦、除二罪、皆原之。
十七年、秋七月。
置比列忽州、以沙飡成宗爲軍(軍)主。
十八年。
以國原爲小京。
廢沙伐州、置甘文州、以沙飡起宗爲軍主。
廢新州、置北漢山州。
十九年、春二月。
徙貴戚子弟及六部豪民、以實國原。
奈麻身得作砲弩上之、置之城上。
二十三年、秋七月。
百濟侵掠邊戶、王出師拒之、殺獲一千餘人。
九月。
加耶叛、王命異斯夫討之、斯多含副之。
斯多含領五千騎先馳、入栴檀門、立白旗、城中恐懼、不知所爲。
異斯夫引兵臨之、一時盡降。
論功、斯多含爲最、王賞以良田及所虜二百口、斯多含三讓、王强之、乃受。
其生口、放爲良人、田分與戰士、國人美之。
二十五年。
遣使北齊朝貢。
二十六年、春二月。
北齊武成皇帝詔、以王爲使持節東夷校尉樂浪郡公新羅王。
秋八月。
命阿飡春賦、出守國原。
九月。
廢完山州、置大耶州。
陳遣使劉思與僧明觀、來聘、送釋氏經論千七百餘卷。
二一(十)七年、春二月。
祇園、實際二寺成。
立王子銅輪爲王太子。
遣使於陳貢方物。
皇龍寺畢功。
二十八年、春三月。
遣使於陳貢方物。
二十九年。
改元大昌。
夏六月。
遣使於陳貢方物。
冬十月。
廢北漢山州、置南川州。
又廢比列忽州、置達忽州。
三十一年、夏六月。
遣使於陳獻方物。
三十二年。
遣使於陳、貢方物。
三十三年、春正月。
改元鴻濟。
三月。
王太子銅輪卒。
遣使北齊朝貢。
冬十月二十日。
爲戰死士卒、設八關筵會於外寺、七日罷。
三十五年、春三月。
鑄成皇龍寺丈六像。
銅重三萬五千七斤、鍍金重一萬一百九十八分。
三十六年、春夏。
旱。
皇龍寺丈六像、出淚至踵。
三十七年、春。
始奉源花。
初、君臣病無以知人、欲使類聚、遊、以觀其行義、然後擧而用之。
遂簡美女二人、一曰南毛、一曰俊貞、聚徒三百餘人。
二女爭娟相妬、俊貞引南毛於私第、强勸酒、至醉、曳而投河水、以殺之。
俊貞伏誅、徒人失和罷散。
其後、更取美貌男子、粧飾之、名花郞以奉之。
徒衆雲集、或相磨以道義、或相悅以歌樂、遊娛山水、無遠不至。
因此知其人邪正、擇其善者、薦之於朝。
故金大問『花郞世記』曰、
賢佐忠臣、從此而秀、良將勇卒、由是而生。
崔致遠鸞郞碑序曰、
國有玄妙之道、曰風流、設敎之源、備詳仙史、實乃包含三敎、接化群生。
且如入則孝於家、出則忠於國、魯司寇之旨也。
處無爲之事、行不言之敎、周柱史之宗也。
諸惡莫作、諸善奉行、竺乾太子之化也。
唐令狐澄新羅國記曰、
擇貴人子弟之美者、傅粉粧飾之、名曰花郞、國人皆尊事之也。
安弘法師入隋求法、與胡僧毗摩羅等二僧廻、上稜伽勝鬘經及佛舍利。
秋八月。
王薨、諡曰眞興、葬于哀公寺北峯。
王幼年卽位、一心奉佛、至末年祝髮被僧衣、自號法雲、以終其身。
王妃亦、效之爲尼、住永興寺。
及其薨也、國人以禮葬之。
≪書き下し文≫
眞興王立つ。
諱は彡麥宗、或は深麥夫と作す。
時に年七歲、法興王の弟葛文王立宗の子なり。
母は夫人金氏、法興王の女なり。
妃は朴氏思道夫人なり。
王は幼少、王太后攝政す。
元年、八月。
大赦す。
文武官爵一級を賜ふ。
冬十月。
地震。桃李華(はなひら)く。
二年、春三月。
雪一尺。
拜して異斯夫を兵部令と爲し、內外兵馬の事を掌(つかさど)らせしむ。
百濟遣使して和を請ひ、之れを許す。
五年、春二月。
興輪寺成す。
三月。
人出家して僧尼と爲り、佛に奉ずることを許す。
六年、秋七月。
伊飡の異斯夫奏じて曰く、
國史の者、君臣の善惡を記し、褒貶を萬代に示す。
撰を修むる有らずして、後代何を觀るか。
王深く之れを然りとして、大阿飡の居柒夫等に命じ、廣く文士を集めさせ、之れをして撰を修めしむ。
九年、春二月。
高句麗と穢人、百濟の獨山城を攻め、百濟救を請ふ。
王は將軍朱玲(珍)領勁卒三千を遣り之れを擊ち、殺獲すること甚だ衆(おお)し。
十年、春。
梁遣使して學僧覺德入ると與に、佛舍利を逸(送)る。
王は百官をして、興輪寺の前路に奉迎す。
十一年、春正月。
百濟高句麗道薩城を拔く。
三月。
高句麗百濟金峴城を陷(おと)す。
王兩國の兵疲に乘じ、伊飡異斯夫に命じて兵を出し之れを擊つ。
二城を取り增築し、甲士一千を留めて之れを戍す。
十二年、春正月。
改元開國。
三月。
王次娘城を巡守す。
千(于)勒及び其の弟子尼文は音樂を知るを聞き、特に之れを喚す。
王河臨宮に駐し、令して其の樂を奏せしめば、二人各新歌を製して之れを奏す。
先ず是れ、加耶國の嘉悉王、十二弦琴を製し、以て十二月の律を象(かたど)り、乃ち命じて于勒に其の曲を製させしむるも、其の國亂るに及び、樂器を操り我に投じ、其の樂を加耶琴と名づく。
王命じて柒夫等を居させ、高句麗を侵し、勝ちに乘じて十郡を取る。
十三年。
王命じて階古、法(注)知、萬德の三人、于勒に樂を學ばせしむ。
于勒其の人の能ふ所を量り、階古は琴を以て敎え、法知は歌を以て敎え、萬德は舞を以て敎ゆ。
業(わざ)は成り、王命じて之れを奏せしめて曰く、
前の娘城の音と異なること無し、と。
厚く焉(こ)れを賞す。
十四年、春二月。
王は所司に命じ、新宮を月城の東に築けば、黃龍其の地に見(あらわ)れ、王之れを疑ひ、改めて佛寺を爲し、號を賜ひて皇龍と曰ふ。
秋七月。
百濟の東北鄙を取り、新州を置き、以て阿飡武力を軍主と爲す。
冬十月。
百濟王女を娶りて小妃と爲す。
十五年、秋七月。
明活城を修築す。
百濟王の明襛と加良、管山城の攻に來たり。
軍主の角干于德、伊飡の耽知等、逆戰して利を失はず。
新州軍主の金武力、州兵を以て之れに赴き、交戰するに及び、將をして三年山郡高于〈干〉都刀、急擊せしめ百濟王を殺せしむ。
是に於いて、諸軍勝ちに乘じ、大いに之れに克ち、佐平四人、士卒二萬九千六百人を斬り、匹馬に反る者無し。
十六年、春正月。
完山州を比斯伐に置く。
冬十月。
王北漢山を巡幸し、封疆を拓定す。
十一月。
北漢山より至り、州郡を經る所を敎え、一年租調を復す。
曲赦し、二罪を除き、皆之れを原(ゆる)す。
十七年、秋七月。
比列忽州を置き、以て沙飡成宗を軍(軍)主と爲す。
十八年。
以て國原を小京と爲す。
沙伐州を廢し、甘文州を置き、以て沙飡起宗を軍主と爲す。
新州を廢し、北漢山州を置く。
十九年、春二月。
貴戚子弟及び六部豪民を、以て實國原に徙(うつ)す。
奈麻身得砲弩を作し、之れを上(ささ)げ、之れを城上に置く。
二十三年、秋七月。
百濟邊戶を侵掠し、王師を出だして之れを拒み、殺獲すること一千餘人。
九月。
加耶叛き、王異斯夫に命じて之れを討たせしめ、斯多含之れを副す。
斯多含領五千騎先に馳せ、栴檀門に入り、白旗を立てれば、城中恐懼し、爲す所を知らず。
異斯夫兵を引きて之れを臨み、一時降るを盡す。
功を論ひ、斯多含を最と爲し、王良田及び虜する所の二百口を以て賞するも、斯多含三たび讓り、王之れを强いれば、乃ち受くる。
其の生口、放を良人と爲し、田を戰士と分け、國人之れを美とす。
二十五年。
北齊に遣使して朝貢せしむ。
二十六年、春二月。
北齊の武成皇帝詔す。
以て王を使持節東夷校尉樂浪郡公新羅王と爲す、と。
秋八月。
阿飡春賦に命じ、出でて國原を守る。
九月。
完山州を廢し、大耶州を置く。
陳、劉思と僧明觀を遣使して、聘に來させしめ、釋氏經論千七百餘卷を送る。
二一(十)七年、春二月。
祇園、實際の二寺成。
王子銅輪を立てて王太子と爲す。
陳に遣使して方物を貢ぐ。
皇龍寺の功を畢(おえ)る。
二十八年、春三月。
陳に遣使して方物を貢ぐ。
二十九年。
大昌と改元す。
夏六月。
陳に遣使して方物を貢ぐ。
冬十月。
北漢山州を廢し、南川州を置く。
又た比列忽州を廢し、達忽州を置く。
三十一年、夏六月。
陳に遣使して方物を獻ず。
三十二年。
陳に遣使して、方物を貢ず。
三十三年、春正月。
鴻濟と改元す。
三月。
王太子銅輪卒す。
北齊に遣使して朝貢す。
冬十月二十日。
戰死を爲す士卒、八關筵會を外寺に設け、七日罷る。
三十五年、春三月。
皇龍寺丈六像を鑄成す。
銅重三萬五千七斤、鍍金重一萬一百九十八分。
三十六年、春夏。
旱。
皇龍寺丈六像、淚を出して踵に至る。
三十七年、春。
始めて源花を奉ぐ。
初め、君臣以て人を知ること無きを病み、類聚をして遊ばせ、以て其の行義を觀、然る後に擧げて之れを用ひんと欲す。
遂に美女二人を簡(えら)ぶ。
一に曰く南毛、一に曰く俊貞、聚徒三百餘人。
二女娟を爭ひ相妬み、俊貞は南毛を私第に引き、强いて酒を勸め、醉ふに至り、曳きて河水に投げ、以て之れを殺す。
俊貞は誅に伏(したが)ひ、徒人(あだびと)和を失ひ罷散(まかりあか)る。
其の後、更に美貌の男子を取り、粧して之れを飾り、花郞と名づけて以て之れを奉る。
徒衆雲集し、或は相ひ磨くに道義を以てし、或は相ひ悅ぶに歌樂を以てし、山水に遊娛し、遠の至ざること無し。
此れに因りて其の人の邪正を知り、其の善者を擇び、之れを朝に薦む。
故に金大問、花郞世記に曰く、
賢佐忠臣、此れに從ひて秀で、良將勇卒、是に由りて生ず。
崔致遠鸞郞碑序に曰く、
國に玄妙の道有り、曰く風流。
敎の源を設し、仙史を詳なるを備へ、實れば乃ち三敎を包含し、接化群生(せっけぐんしょう)す。
家に於いて入りては則ち孝、國に於いて出でては則ち忠、且(か)の如(ごと)くなれば魯司寇の旨なり。
無爲の事に處し、行不言の敎なれば、周柱史の宗なり。
諸惡作すもの莫く、諸善奉行するは、竺乾太子の化なり。
唐令狐澄新羅國記に曰く、
貴人子弟の美者を擇び、粉粧して之れを飾ると傅へ、名づけて曰く花郞。
國人皆之れに事ふることを尊ぶなり、と。
安弘法師隋に入り法を求め、胡僧毗摩羅等二僧と與に廻り、稜伽勝鬘經及び佛舍利を上(ささ)ぐ。
秋八月。
王薨ず、諡を曰く眞興。
哀公寺北峯に葬むらる。
王幼年に卽位し、一心に佛に奉じ、末年に至り髮被僧衣を祝ひ、自ら法雲と號し、以て其の身を終へり。
王妃も亦た、之れを效きて尼と爲り、永興寺に住まふ。
其の薨ずるに及ぶや、國人禮を以て之れを葬れり。