眞平王が擁立された。
諱は白淨、眞興王太子銅輪の子である。
母は金氏萬呼(一節には萬内)夫人、葛文王立宗の娘である。
妃は金氏摩耶夫人、葛文王福勝の娘である。
王は生まれながらにして人相がすばらしく、体格がよく、見識はすぐれて明達であった。
元年、八月。
伊飡弩里夫を上大等に任命した。
母弟の伯飯に眞正葛文王、國飯に眞安葛文王の位を贈った。
二年、春二月。
自ら神宮を祀り、それによって伊飡后稷を兵部令に任命した。
三年、春正月。
初めて位和府を置いた。現在でいえば、吏部のようなものである。
五年、春正月。
初めて船府署を置いた。
大監、弟監はそれぞれ一員。
六年、春二月。
建福と改元した。
三月。
調府令に一員を置き、貢賦を掌握させた。
乘府令に一員を置き、車乘を掌握させた。
七年、春三月。
旱魃。
王は正殿を避けて常食の膳を減らし、御南堂にて自ら囚を録した。
秋七月。
高僧智明が陳に入り法を求めた。
八年、春正月。
禮部令に二員を置いた。
夏五月。
雷震、星降ること雨の如し。
九年、秋七月。
大世と仇柒の二人が海を渡った。
大世は奈勿王七世孫、伊飡冬臺の子である。
抜きんでた学問の才覚を持ちながら、方外の志はなかった。
しかし、僧の淡水と交遊しているとき、大世はこんな話をした。
「この新羅は山谷の間にあるちっぽけな国だ。
こんなことろで一生を終えるだなんて、池の魚や籠の中の鳥と違いがあるだろうか。
蒼き海の広大さも、山林の広々としてのどかなことも知ることがないのだ。
私はこれから筏に乗って海を渡り、呉越に渡って追師を侵尋し、名山で道を訪ねようと思う。
もし凡骨を換え、神仙に学ぼうというのならば、これから雲一つなく晴れ渡った空の下で風に乗り、その赴くままに天下を奇遊壮観しようではないか。
どうだろう、あなたも私と一緒に来ないか?」
淡水は同意しなかったので、大世は退いて仲間を求めた。
こうして、ついに仇柒という者に遇うことができた。
仇柒は物珍しいほどに固く節義を守る人物で、大世と共に南山の寺で遊学していた。
突然、風雨が起こり葉が落ち、庭は大雨で溢れた。
大世と仇柒は互いに言い合った。
「私と君とは西に遊ぼうとする志がある。
今、それぞれ一枚の葉を取り、これを舟に見立てて、その先行きを占おうではないか。」
俄かにして大世の葉は前に進んだ。
大世は笑いながら言った。
「では、私は行くことにするか。」
仇はいきり立って言った。
「私とて男児だ。どうして独り行けないということがあるだろうか。」
なるほど、それを見た大世は仇柒が自分と一緒に行きたいのだと察知した。
そして、こっそりと自分は仇柒と一緒に海を渡りたいのだと耳打ちした。
すると、仇柒は言った。
「それは私の願いだ。」
こうして二人は互いを仲間とし、南海から舟に乗ってどこかへと去った。
その後、どこへ行ったのかはわからない。
十年、冬十二月。
上大等弩里夫が死去したので、伊飡首乙夫を上大等に任命した。
十一年、春三月。
圓光法師が陳に入って法を求めた。(※1)
秋七月。
國西で大洪水が起こり、人戸の漂沒すること三万三百六十、死者二百人余り。
王は蔵を開いて賑給し、被害に遭った人民を支援した。
十三年、春二月。
領客府令の二員を置いた。
秋七月。
南山城を建築した。
その周囲は二千八百五十四歩である。
十五年、秋七月。
明活城を周囲三千歩、西兄山城を周囲二千歩に改築した。
十六年。
隋帝が詔を発した。
「拜して王を上開府樂浪郡公、新羅王に任命する。」
十八年、春三月。
高僧曇育が隋に入り法を求めた。それに従って隋に遣使して、方物を貢いだ。
冬十月。
永興寺に火災が起こり、延燒すること三百五十家。
王自ら救援に臨んだ。
十九年。
三郞寺を建立した。
二十二年。
高僧圓光が朝聘使奈麻諸文と大舍橫川に随伴して帰還した。
二十四年。
大奈麻上軍を遣使して、隋に入り方物を進呈した。
秋八月。
百濟が阿莫城に攻め込んだ。
王は将士に抗戦させ、大いに撃ち破ったが、貴山と箒項が戦死した。
九月。
高僧智明が入朝使の上軍に随伴して帰還した。
王は明公の戒行を尊敬し、大德とした。
二十五年、秋八月。
高句麗が北漢山城を侵犯したので、王自ら兵一万を率いて防衛した。
二十六年、秋七月。
大奈麻萬世、惠文等を朝隋に遣使した。
南川州を廃して、ふたたび北漢山州に戻した。
二十七年、春三月。
高僧曇育、入朝使惠文に随伴して帰還した。
秋八月。
軍隊を発して百濟を侵犯した。
三十年。
王は高句麗がいつも封場を侵犯することを思い患い、隋の軍隊に高句麗を征伐してくれるように要請しようと思い、圓光に軍隊を出してもらうための文書をしたためてほしいと命令した。
圓光は言った。
「自らが存在するために他を滅ぼしたいと求めるのは、沙門の行(※2)ではございません。
しかし、貧道(※3)は大王の土地に住み、大王の水を飲み、大王の草を食しております。(※4)
ですので、敢えてご命令に従わないということはございませんが……。」
こうして聞いたところを著述した。
二月。
高句麗が北国境を侵犯し、虜獲すること八千人。
四月。
高句麗が牛鳴山城を抜いた。
三十一年、春正月。
毛只嶽の下地が焼けた。
広さは四歩、長さは八歩、深さは五尺、十月十五日を経てようやく消えた。
三十三年。
王は隋に遣使して、文書を奉じて軍隊を要請した。
隋の煬帝はそれを許可した。
その兵事については高句麗紀にある。
冬十月。
百濟兵が来て椵岑城を百日を包囲した。
縣令讚德が固く守ったが、力を尽くして戦死し、城は没した。
三十五年、春。
旱魃。
夏四月。
霜が降った。
秋七月。
隋が王世儀を使者として出し、皇龍寺に到来した。
百高座を設けて圓光等法師を迎え、お経を説いた。
三十六年、春二月。
沙伐州を廃し、一善州を置いた。
これによって一吉飡日夫を軍主に任命した。
永興寺塑仏が自ら壞れ、その後まもなく、眞興王の妃比丘尼が死んだ。
三十七年、春二月。
大酺三日を賜った。
冬十月。
地震。
三十八年、冬十月。
百濟が母山城に攻め込んだ。
四十年。
北漢山州軍主の邊品がふたたび椵岑城で謀り、軍隊を発して百濟と戦った。
奚論も從軍して敵勢力に赴き戦ったが、そこで死んだ。論は讚德の子である。
四十三年、秋七月。
王が大唐朝に遣使して方物を貢いだ。
高祖自らそれを労問し、通直散騎常侍の文素を派遣して聘問に来させた。
これにより璽書、及畫、屏風、錦綵三百段を下賜した。
四十四年、春正月。
王自ら皇龍寺に行幸した。
二月。
伊飡龍樹を内省私臣に任命した。
ことの始まりは王七年。
その際に大宮、梁宮、沙梁宮の三か所に私臣をそれぞれ置いていたが、今回は内省に私臣一人を置き、三宮を兼務して掌握させた。
四十五年、春正月。
兵部大監二員を置いた。
冬十月。
大唐朝に遣使して貢いだ。
百濟が勒弩縣を襲った。
四十六年、春正月。
侍衛府大監六員を置いて、署大匠に一員、大道署大正に一員を賞賜した。
三月。
唐高祖が降使し、王を冊して柱國樂浪郡公新羅王とした。
冬十月。
百濟兵が我速含、櫻岑、岑、烽岑、旗懸、穴柵等の六城を包囲した。
これによって、三城のうちであるものは没し、あるものは降った。
級飡の訥催が、烽岑、櫻岑、旗懸の三城の軍隊を合流させて堅く守ったが、勝つことはなく戦死した。
四十七年、冬十一月。
大唐朝に遣使して貢いだ。
それに際して、使者は次のように訴えた。
「高句麗の路を塞いでいるので、使者が訪朝することができませんでした。
その上、奴らはよく我が国に侵入するのです。」
四十八年、秋七月。
大唐朝に遣使して貢いだ。
唐高祖は朱子奢を派遣して、詔により諭して高句麗と連和させた。
八月。
百濟は主が城にあることを見計らって攻め込んだ。
城主の東所は抗戦したが戦死した。
高墟城を築いた。
四十九年、春三月。
大風雨土が五日続いた。
夏六月。
大唐朝に遣使して貢いだ。
秋七月。
百濟将軍の沙乞が西鄙二城を抜き、男女三百口余りを捕虜とした。
八月。
霜が降り穀物を食べられなくした。
冬十一月。
大唐朝に遣使して貢いだ。
五十年、春二月。
百濟が椵岑城を包囲した。王は軍隊を出して撃破させた。
夏。
大旱魃が起こったので市場を移転した。
龍の絵を描き雨乞いをした。
秋冬。
人民が飢え、子女を売る者まで出た。
五十一年、秋八月。
王が大将軍の龍春、舒玄、副将軍庾信を派遣し、高句麗の娘臂城に侵攻させた。
高句麗人は城から出撃して陣形を立て、軍勢はあまりに盛況であった。
我が軍はそれに直面して懼れ、殊に闘争心が消沈した。
庾信が言った。
「俺は聞いたことがあるぞ。
”しわくちゃのコートも襟を振ればピンと張るし、綱も提げればピンと張る”ってな。
それが俺のスタンスだ!」
すると馬に跨って劒を抜き、敵陣の直前に向かっては三たび入り込んで三たび出てきた。
敵陣中に入り込むたび、あるときは敵将を切り殺し、あるときは敵の旗を抜き取った。
諸軍は勝ちに乗じて、太鼓を叩き鳴らして進撃し、斬殺すること五千級余り。
すぐにその城は降服した。
九月。
大唐朝に遣使して貢いだ。
五十二年。
大宮の庭地が裂けた。
五十三年、春二月。
白狗が宮の城壁を上った。
夏五月。
伊飡の柒宿と阿飡の石品が謀反を企てた。
しかし、王はそれを察知して柒宿を捕捉し、九族共に斬殺して東の市に晒した。
阿飡の石品は亡命して百濟の国境までたどり着いたが、妻子のことが心配になった。
昼間は身を隠して夜に行き、帰還して叢山に到着した。
そこできこりの男と会ったので、衣服を脱いできこりのボロと交換し、それを着て、薪を背負ってこっそりと家に着いたが、そこで捕縛されて刑に伏した。
秋七月。
大唐に遣使して美女二人を贈った。
魏徴はそれを受け取るのはよろしくないと意見した。
上帝はそれを喜び、
「あの林邑(※5)から献上されたオウムでさえも、寒さが苦しいと言い、国に帰りたいと思うのだ。
親戚と離別した二人の女は言うまでもなかろう。」
と言い、美女に使者を付けて帰国させた。
白虹が宮井を飮んだ。
土星が月を犯した。
五十四年、春正月。
王が死去した。
諡を眞平といい、漢只に葬られた。
唐太宗が詔を出して、左光祿大夫の位を贈り、物段二百を賻った。
古記では、「貞觀六年王辰壬辰正月に死去した」と云われている。
しかし、新唐書と資理通鑑ではいずれも「貞觀五年辛卯に羅王眞平が死去した」と云われている。
それは誤りだということだろうか?
三國史記、第四卷
(※1)圓光
新羅の仏僧。朝鮮仏教の礎を築いたと言われる人物。世俗五戒(세속오계)を伝えたことで有名。
通常、仏教における五戒(pañcaśīla)は以下である。
・不殺生戒(殺生をしない)
・不偸盗戒(盗みをしない)
・不邪婬戒(邪婬をしない)
・不妄語戒(妄りに語らない)
・不飲酒戒(飲酒をしない)
しかし、これは概ねの庶民生活とは合致し難い。
ゆえに圓光は仏法を広く伝えるための前段階として、民衆にわかりやすく広められる道徳として世俗五戒を立てたと云われる……が、それは怪しい。
世俗五戒の内容は以下のとおりである。
・事君以忠(君に事(つか)ふるには忠を以てす)
・事親以孝(親に事(つか)ふるには孝を以てす)
・交友以信(友と交るには信を以てす)
・臨戦無退(戦に臨みては退くこと無し)
・殺生有択(殺生に択ぶこと有り)
見ての通り、前3項は儒教倫理であり、最後のひとつは仏教に至る前段階の倫理のように思えるが、前段の第4項の戦闘行為に関するものが庶民の日常的営為にどこまで関係あるのか不明である。
そこで、第4項と第5項を併せてみれば、「戦いに臨めば一歩も退かず、殺すといえども濫りに殺さず」となる。
仏門の外における世俗の戒めであろうと、これは庶民にむけた戒律とすれば、あまりに偏っている。
これはおそらく戦士の倫理であろう。
圓光に世俗五戒を授けられたといわれる人物に貴山と箒項がおり(本文一九年秋八月にて登場)いずれも勇猛にして戦死した花郎である。
ゆえに、これは庶民一般に向けられたものではなく、青年の代表者として人を率いて先陣を切るべき花郎に限定した教えだったと思われる。
(※2)沙門の行
沙門(Samaṇa)成立の経緯は法興王の注で紹介した通り。
ゆえに沙門を開祖とする仏教やジャイナ教では実践的な倫理を尊ぶ。
仏教の五戒は(※1)にて述べたが、ジャイナ教における五戒は五大誓戒(mahāvrata)と呼ばれる。
・アヒンサー (ahiṃsā、非暴力、不害)
・サッティヤ (satya、真実語)
・アステーヤ (asteya、不盗)
・ブラフマチャリヤ (brahmacarya、不淫)
・アパリグラハ (aparigraha、無所有/無執着)
これらは概して仏教より厳格で、たとえばジャイナ教におけるアヒンサーであれば、呼吸にあたっては口に入る虫を避けて口を布で覆い、歩くにあたっては虫を踏まぬように道を箒で掃く。
沙門の行とは、こうした実践倫理のことである。
(※3)貧道
仏教修行に乏しいこと。転じて仏僧が謙譲した一人称。
(※4)大王の土地に住み、大王の水を飲み、大王の草を食しております。
原文は「在大王土地、食大王水草」。
「食水草」について、佛説九色鹿經には「昔者菩薩身爲九色鹿。其毛九種色、其角白如雪。常在恒水邊、飮食水草。常與一烏爲知識。」という近似する表現がある。
「昔、菩薩の身は九色の鹿と爲す。其の毛は九種の色、其の角の白きこと雪の如し。常に恒水の邊に在り、水草を飮食(のみくら)ふ。常に一烏と知識を爲す。」とでも訓ずるべきか。恒水はガンジス川のこと。
「水草」といえば、「水草(みずくさ)」で一語のようであるが、ここに「飮食水草」とある通り、本文の「食水草」も「水と草(植物)を口にしている」という意味であろう。ゆえに、このように訳した。
(※5)林邑
林邑(Lâm Ấp)は環王国とも表記される越南(ベトナム,Việt Nam)中部に存在したチャム族の国家。チャンパー王国(Chăm Pa)。
中華王朝では唐代まで林邑と呼び、宋代以降は占城(Chiêm Thành)と呼んだ。
名前の由来は古チャム語リウー(椰子)から。
成立は192年。
漢武帝以後、日南群として漢王朝の支配を受けていたが、独自の民族意識を持つチャム人は後漢の衰退に乗じて独立した。
三国時代には南方の呉と交易し、成立からしばらくは中国の制度を用いたが、3世紀以降は次第にインドの影響が強くなり、ヒンドゥー教が信仰されるようになった。
以後に自称したチャンパー王国の名は、古代インドのガンジス川南岸に存在したチャンパー国(चम्पा)に由来する。
15世紀に大越国の侵攻を受けて首都が陥落し、残存した少数の独立勢力も17世紀には消滅した。
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