太宗武烈王

太宗武烈王

 太宗武烈王が擁立された。
 諱は春秋、眞智王の子の伊飡龍春(一説には龍樹と伝わっている)の子である。
 (唐書で眞德の弟とされているのは誤りである。)
 母の天明夫人は眞平王の娘で、妃の文明夫人は舒玄角飡の娘である。
 王は儀表英偉、幼い頃から済世救民の志を備え、眞德王に仕えながら伊飡の位を歴任し、唐帝から特進の称号を授けられた。
 眞德王が死去すると、群臣は閼川伊飡に摂政を要請したが、閼川は固く辞譲した。
「私はもうおいぼれにございますし、德行に称賛すべきところもございません。現在で德望崇重といえば、春秋公以上のお方はいらっしゃらないでしょう。実に済世の英傑と言うべきです。」
 こうして王とすべく奉られた春秋は三たび辞譲したが、やむを得ずして王位に就いた。

 元年、夏四月。
 王考を追封して文興大王とし、母を文貞太后とした。
 大赦した。

 五月。
 理方府の令良首たちに律令を審査選考して採用するように命じ、理方府の格六十条余りを修定した。
 唐は使持節を派遣して禮を備えさせ、開府儀同三司新羅王に冊命した。
 王は遣使して唐に入らせ謝意を表した。

 二年、春正月。
 拜して伊飡の金剛を上大等に、波珍飡の文忠を中侍に任命した。
 高句麗と百濟、靺鞨が兵を連合させて我が国の国境北部を侵軼し、三十三城を略取したので、王は遣使して唐に入り救援を求めた。

 三月。
 唐は營州都督の程名振、左右衛中郞將の蘇定方を派遣し、兵を出発させて高句麗を攻撃した。
 元子の法敏を太子に擁立し、庶子の文汪を伊飡に、老旦を海飡に、仁泰を角飡に任命し、智鏡と愷元をそれぞれ伊飡に任命した。

 冬十月。
 牛首州が白鹿を献上した。
 屈弗郡が一首二身八足の白猪を進呈した。
 王女の智照を大角飡の金庾信に下嫁させた。
 鼓楼を月城内に立てた。

 三年。
 金仁問が唐から帰国したので、そのまま軍主を委任し、獐山城の建築を監督させた。

 秋七月。
 子左武衛將軍の文王を派遣して唐に訪朝した。

 四年、秋七月。
 一善郡で洪水が起こり、溺死する者が三百人余り。
 東吐含山の地が燃え、三年して消えた。
 興輪寺の門がひとりでに壊れた。
 ■■■北巖(欠字)が崩れ落ちて米となり、それを食べてみると陳倉米のようであった。

 五年、春正月。
 中侍の文忠を改めて伊飡に、文王を中侍に任命した。

 三月。
 王は何瑟羅の地が靺鞨と連合しているために人民が安寧を得られないので、罷京を州とし、都督を置いてそれを鎮めさせた。また、悉直を北鎭に任命した。

 六年、夏四月。
 百濟が頻繁に国境を侵犯するので、王はそれを討伐しようと遣使して唐に入らせ軍隊を乞うた。

 秋八月。
 阿飡の眞珠を兵部令に任命した。

 九月。
 何瑟羅州が白鳥を進呈した。
 公州基郡の江の中から大魚が出てきて死んだ。全長は百尺、食べた者は死んだ。

 冬十月。
 王が朝廷に坐して唐に兵を要請したが、返報がなかったので顔色に憂いが表れた。すると、忽然と人が王の前に現れた。かつて臣下であった長春と罷郞のようである。
「私は骨を枯らしておりますが、今なお報国の心があります。以前、大唐に到ると、皇帝が大將軍の蘇定方たちに来年の五月に兵を率いさせ、百濟を討伐するように命じたことがわかりました。このように、私は大王のことを切に想っておりますので、こうして報告いたした次第でございます。」
 言い終えると消えてしまった。
 王は大いに驚いてそれを異事とし、厚く両家の子孫に褒賞し、そのため漢山州に莊義寺を建立するように所司に命じ、冥福に資することにした。

 七年、春正月。
 上大等の金剛が死去したので、拜して伊飡の金庾信を上大等に任命した。

 三月。
 唐の高宗が左武衛大將軍の蘇定方を神丘道行軍大摠管に、金仁問を副大摠管に任命し、左驍衛將軍の劉伯英等に水陸十三萬军を率いさせ、百濟を討伐させるべく王に勅を下して嵎夷道行軍摠管に任命し、兵を率いてそうするようにと声援を発した。

 夏五月二十六日。
 王と金庾信、眞珠、天存たちが兵を率いて京を出発した。

 六月十八日。
 続いて南川に停留した。
 蘇定方が萊州から出発し、千里に渡って船団を連ね、流れに隨って東に下った。

 二十一日。
 王は太子の法敏を派遣し、兵船一百艘を率いさせ、蘇定方を德物島にて迎えた。
 蘇定方は法敏に言った。
「私は七月十日をもって百濟の南に到着し、大王と兵を会して義慈の都城を屠破したいと思う。」
 法敏は言った。
「大王は今か今かと大軍をお待ちしておりました。もし大將軍がいらっしゃったと聞けば、寝床で食事を取ってでも必ず到着するでしょう。」
 蘇定方は喜び、法敏を還遣して新羅の兵馬を徴発した。法敏が帰り着くと、蘇定方の軍勢が甚だ盛であると言ったので、王は喜びを隠すことができなかった。
 また、太子と大將軍の金庾信、將軍の品日、欽春(あるいは純とも記される)たちに精兵五万を率いるように命じ、それに応じて王も今突城に続いた。

 秋七月九日。
 金庾信たちは黄山の原に進軍したが、百濟將軍の階伯が兵を擁して辿り着き、先に険難を拠点とし、三つの兵営を設けて待機していた。金庾信たちは軍を分けて三方向から攻め、四戦したが不利のまま、士卒は力尽きてしまった。
 将軍の欽純は子の盤屈に言った。
「臣を臣たたらしめるものに忠より上はなく、子を子たらしめるものに孝より上はない。危を見て命を致せば、忠孝のいずれも全うすることができる。」
 盤屈が言った。
「謹みて命をお聞きしました。」
 そのまま陣中に入り、力戦して死んだ。
 左將軍の品日は子の官状(一説には官昌と伝わっている)を呼びだし、馬の前に立たせて、諸将を指して言った。
「我が子の年齢は僅か十六であるが、志気は頗る勇ましい。今日の戦役、三軍の手本となれ。」
 官状は「わかりました。」と言い、甲馬単槍を装備して敵陣に赴いたが、賊に捕らわれることになり、生きたまま階伯に送致された。
 階伯が甲冑を脱がせると、それが年少で勇猛であることを愛しく思い、加害するには忍びなく、嘆いて言った。
「新羅を敵に回してはならなかった。少年でありながらこれほどならば、壮士については言うまでもない。」
 こうして許しを受けて生還した官状は父に告げて言った。
「私は敵中に入りながら、旗頭の将軍を斬ることができませんでした。しかし、これは死を畏れたからではありません。」
 そう言い終えると、手で井戸の水を掬って飲み、更に敵陣に向って疾走し、闘った。
 階伯はそれを捕えて斬首し、馬の鞍に繋いでそれを送りつけた。
 品日がその首を手に取ると、流血が袂を濡らした。
「我が子の顔は生きているかのようだ。王にお仕えして死ねるのは幸(さいわい)である。」
 三軍はそれを見て、怒りと悲しみから決死の志が生まれ、太鼓を打ち鳴らして進撃した。百濟の衆勢は大敗し、階伯もそこで戦死し、佐平の忠常、常永ら二十人余りを捕虜にした。
 この日、蘇定方と副摠管の金仁問たちが伎伐浦に到着し、百濟兵に遭遇するも反撃し、それを大いに敗った。
 金庾信たちは唐の兵営營を訪ねると、蘇定方は金庾信たちが期日の後に着いたことをもって、新羅督軍の金文穎(あるいは永とも記される)を軍門で斬刑に処そうとした。
 金庾信は衆人に向けて言った。
「大將軍は黄山の役を見ていなかったから、期日に遅れたことをもって罪としようというのだろう。俺は無罪にすることができず、屈辱を受けることになった。必ずや先に唐軍と決戦し、然る後に百濟を撃破することになるだろう。」
 こうして鉞(まさかり)を杖にして軍門にそびえたち、怒りで頭髪を植木のように逆立て、その腰に携えた宝劒は自ら鞘から躍り出た。
 蘇定方右將の董寶亮がその場から駆け出して報告した。
「新羅の兵将に異変がありました!」
 蘇定方はこうして金文穎の罪を釈した。
 百濟の王子が佐平の覺伽を使者にして、文書を唐の將軍に移し、兵を撤退してほしいと哀乞した。

 十二日。
 唐と新羅軍■■■(欠字)義慈都城を包囲し、所夫里の原に進軍した。
 蘇定方は忌むところがあって前進することができなかったので、金庾信は、二軍は勇敢であるから、四方向から一斉に攻め込もうと説得した。
 百濟の王子がまた上佐平を使者にして饔餼豐腆(諸侯接客の大礼のごちそう)を送致したが、蘇定方はそれを返却した。
 王の庶子の躬が佐平六人と王の御前を詣でて罪を乞うたが、またそれを拒否した。
 十三日。
 義慈は左右を率いて夜に遁走し、熊津城に逃げ込んだが、義慈の子の隆と大佐平の千福たちが出てきて降服した。
 法敏は隆に馬前にて跪き、その面に唾を吐きかけて罵った。
「以前、お前の父親は私の妹を道理もなく殺し、それを獄中に埋めたのだ。私はそのことで二十年間も心を痛め苦悶してきた。しかし、今日お前の命は我が手の中にある。」
 隆は地に伏し、何も言わなかった。

 十八日。
 義慈は太子と熊津方領軍たちを率い、熊津城から降服に来た。
 王は義慈の降服を聞いた。

 二十九日。
 今突城から所夫里城に辿り着くと、弟監天福を派遣し、大唐に勝利の報告をした。

 八月二日。
 大いに酒を置いて将士をねぎらい、王と蘇定方及び諸将は堂上に坐し、義慈と子の隆は堂下に坐し、ある者は義慈に酒を注がせ、百濟佐平らの群臣は声を詰まらせ、涙を流さない者はいなかった。
 この日、毛尺を捕えて斬刑に処した。毛尺はもともと新羅人であったが、百濟に亡入し、大耶城の黔日と同じく謀略を立てて城を陥落させ、そのために斬刑に処したのだ。
 また黔日を捕縛し、罪を数えて言った。
「お前は大耶城に在りし日、毛尺と謀略を立て、百濟の兵を引き入れ、倉庫を焼き尽くし、一城の糧食を欠乏させて敗北させた。これがひとつめの罪である。
 品釋夫妻を氏に陥れた。これがふたつめの罪である。
 百濟に味方して本国に攻め込んだ。これが三つめの罪である。」
 こうして四肢を切り裂かれ、その屍は江水に投げ棄てられた。
 百濟の余賊は南岑、貞峴、■■■城を拠点にし、また佐平の正武は衆勢を集めて豆尸原嶽に駐屯し、唐人や新羅人から抄掠した。

 二十六日。
 任存の大柵を攻撃したが、兵が多く地は険しいため勝つことができなかった。ただし、小柵は攻め破った。

 九月三日。
 郞將の劉仁願が兵一万人をもって泗沘城に駐留して鎭め、王子の仁泰と沙飡の日原、級飡の吉那が兵七千をもって副将として輔佐した。
 蘇定方は百濟王及び王族臣寮の九十三人、百姓一萬二千人を伴って、泗沘から唐に船に乗って帰国し、金仁問と沙飡の儒敦、大奈麻中知たちもそれに同伴した。

 二十三日。
 百濟の餘賊が泗沘に侵入し、生きたまま降服した人を誘拐しようと謀ったが、留守の劉仁願が唐人と新羅人を出撃させ、これらを撃退させた。
 賊は泗沘の南嶺まで退上すると、四五の柵を立て、屯集して隙を伺い、城邑を抄掠した。
 百濟人が叛き、応じた城は二十余りであった。
 唐皇帝が左衛中郞將の王文度を派遣して、熊津都督に任命した。

 二十八日。
 三年山城に辿り着くと、詔を伝え、王文度は東に面して立ち、大王は西に面して立った。錫命の後、王文度は宣物を王に授けようとしたが、突然病の発作で死んでしまったので、従者がその位を摂して事を終えた。

 十月九日。
 王が太子及び諸軍を率いて禮城を攻めた。

 十八日。
 その城を奪取して官守を置くと、百濟二十城余りが震懼し、すべてが降伏した。

 三十日。
 泗沘の南嶺の軍柵を攻め、一千五百人を斬首した。

 十一月一日。
 高句麗は七重城に侵攻し、軍主の匹夫が戦死した。

 五日。
 王が雞灘に行渡して王興寺岑城に攻め込んだ。七日後に勝ち、七百人を斬首した。

 二十二日。
 王が百濟から論功に来た。
 罽衿の卒の宣服を級飡に、軍師の豆迭を高干に任命した。戦死した儒史知、未知活、寶弘伊、屑儒らの四人には、それぞれに別の職を与えた。
 百濟の人員を並べ、才を量って任用した。
 佐平の忠常と常永、達率の自簡には、官位として一吉飡を授け、職位として摠管を充てた。恩率の武守には、官位として大奈麻を授け、職位に大監を充て、恩率の仁守には、官位として大奈麻を授け、職位として弟監を充てた。

 八年、春二月。
 百濟の殘賊が泗沘城に攻め込んだ。
 王は伊飡の品日を大幢將軍に任命し、迎飡の文王、大阿飡の良圖、阿飡の忠常たちをその副将とした。
 迎飡の文忠を上州將軍に任命し、阿飡の眞王にその副将をさせた。
 阿飡の義服を下州將軍に、武欻、旭川たちを南川大監に、文品を誓幢將軍に、義光を郞幢將軍にそれぞれ任命し、救援に向かわせた。

 三月五日。
 路の途中で品日が麾下の軍を分け、豆良尹(一説に伊と記される)を先行させて城南に往かせ、互いに兵営を立てさせた。
 陣形が整っていないのを望み見た百濟人がにわかに出陣して不意を突いて急襲したので、我が軍は驚駭して潰北した。

 十二日。
 大軍が古沙比城の外に来て駐屯して豆良尹城に進軍して攻撃し、ひと月と六日戦っても勝てなかった。

 夏四月十九日。
 軍隊を引き上げた。大幢と誓幢が先行し、下州軍は殿後(しんがり)を務め、賓骨壤まで辿り着いたが、百濟軍に遭遇して、相闘って敗退した。死者は少なかったが兵械輜重を甚だ多く失亡してしまった。上州と郞幢が角山で賊に遭遇し、その後進撃してそれに勝ち、遂に百濟の屯堡に入り込み、二千級を斬殺あるいは捕虜とした。
 王は軍を破られたと聞いて大変驚き、将軍の金純、眞欽、天存、竹旨を派遣して軍を救済するために救援させた。加尸兮津に辿り着くと、撤退した軍が加召川に辿り着いたと聞いて、そのまま帰還した。
 王は諸將の敗績をもって、それぞれに論罰した。

 五月九日(一説には十一日とも伝わる)。
 高句麗將軍の惱音信が靺鞨將軍の生偕と軍を合わせ、述川城を攻めに来たが勝てなかった。
 移動して北漢山城を攻めた。抛車を列べて石を飛ばすと、当たった家屋は破壊された。城主大舍の冬陁川が鐵蒺藜(まきびし)を城外に撒き散らかしたので、人馬は行軍できなくなった。また、安養寺の廩廥を破壊し、その材を運んで城の破壊されたところを修理させ、すぐに高楼や櫓を立て、絙網を結びつけて牛馬の皮や綿衣を懸け、内に弩砲を設置して守った。
 この時、城内には男女二千八百人しかおらず、城主の冬陁川はよく少弱の者たちを激励し、それによって強大の賊におよそ二十日余り匹敵した。
 しかし、糧食は尽き、力は尽き果ててしまったが、至誠は天に通じ、突然大星が賊の軍営に落ち、また雷雨が震を伴って起こり、賊は疑懼して包囲を解いて去った。
 王は慶んで冬陁川を報奨して大奈麻の官位に抜擢し、押督州を大耶に移して阿飡宗貞を都督に任命した。

 六月。
 大官寺の井戸の水が血となり、金馬郡の地に広さ五歩に渡って血が流れた。
 王が死去した。
 諡(おくりな)を武烈といい、永敬寺の北に葬られ、太宗と上號された。
 高宗は訃報を聞くと、洛城門にて哀悼の意を表した。

 三國史記、第五卷

 

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≪白文≫
 太宗武烈王立、諱春秋、眞智王子伊飡龍春、一云龍樹、之子也。
 唐書以爲眞德之弟、誤也。
 母、天明夫人、眞平王女。
 妃、文明夫人、舒玄角飡女也。
 王儀表英偉、幼有濟世志。
 事眞德、位歴伊飡、唐帝授以特進。
 及眞德薨、羣臣請閼川伊飡攝政。
 閼川固讓曰、
 臣老矣、無德行可稱、今之德望崇重、莫若春秋公、實可謂濟世英傑矣。
 遂奉爲王、春秋三讓、不得已而就位。

 元年、夏四月。
 追封王考爲文興大王、母爲文貞太后。
 大赦。

 五月。
 命理方府令良首等、詳酌律令、修定理方府格六十餘條。
 唐遣使持節備禮、冊命爲開府儀同三司新羅王。
 王遣使入唐表謝。

 二年、春正月。
 拜伊飡金剛爲上大等、波珍飡文忠爲中侍。
 高句麗與百濟、靺鞨連兵、侵軼我北境、取三十三城。
 王遣使入唐求援。

 三月。
 唐遣營州都督程名振、左右衛中郞將蘇定方、發兵撃高句麗。
 立元子法敏爲太子、庶子文汪[1]爲伊飡、老旦爲海飡、仁泰爲角飡、智鏡、愷元各爲伊飡。

 冬十月。
 牛首州獻白鹿。
 屈弗郡進白猪、一首二身八足。
 王女智照、下嫁大角飡庾信。
 立鼓樓月城内。

 三年。  金仁問自唐歸、遂任軍主、監築獐山城。

 秋七月。
 遣子左武衛將軍文王朝唐。

 四年、秋七月。
 一善郡大水、溺死者三百餘人。
 東吐含山地燃、三年而滅。
 興輪寺門自壞。
 ■■■北巖崩碎爲米、食之如陳倉米。

 五年、春正月。
 中侍文忠改爲伊飡、文王爲中侍。

 三月。
 王以何瑟羅地連靺鞨、人不能安、罷京爲州、置都督以鎭之。
 又以悉直爲北鎭。

 六年、夏四月。
 百濟頻犯境、王將伐之、遣使入唐乞師。

 秋八月。
 以阿飡眞珠爲兵部令。

 九月。
 何瑟羅州進白鳥。
 公州基郡江中、大魚出死、長百尺、食者死。

 冬十月。
 王坐朝、以請兵於唐不報、憂形於色。
 忽有人於王前、若先臣長春、罷郞者。
 言曰、
 臣雖枯骨、猶有報國之心、昨到大唐、認得皇帝命大將軍蘇定方等、領兵以來年五月。
 來伐百濟、以大王勤佇如此、故控告。
 言畢而滅。
 王大驚異之、厚賞兩家子孫、仍命所司、創漢山州莊義寺、以資冥福。

 七年、春正月。
 上大等金剛卒。
 拜伊飡金庾信爲上大等。

 三月。
 唐高宗命左武衛大將軍蘇定方、爲神丘道行軍大摠管、金仁問爲副大摠管、帥左驍衛將軍劉伯英等水陸十三萬军、以伐百濟、勅王爲嵎夷道行軍摠管、使將兵、爲之聲援。

 夏五月二十六日。
 王與庾信、眞珠、天存等、領兵出京。

 六月十八日。
 次南川停。
 定方發自萊州、舳艫千里、隨流東下。

 二十一日、王遣太子法敏、領兵船一百艘、迎定方於德物島。
 定方謂法敏曰、
 吾欲以七月十日至百濟南、與大王兵會、屠破義慈都城。
 法敏曰、
 大王立待大軍、如聞大將軍來、必蓐食而至。
 定方喜、還遣法敏、徴新羅兵馬。
 法敏至、言定方軍勢甚盛、王喜不自勝。
 又命太子與大將軍庾信、將軍品日、欽春、或作、純、等、率精兵五萬、應之、王次今突城。

 秋七月九日。
 庾信等進軍於黄山之原、百濟將軍階伯、擁兵而至、先據嶮、設三營以待。
 庾信等、分軍爲三道、四戰不利、士卒力竭。
 將軍欽純謂子盤屈曰、
 爲臣莫若忠、爲子莫若孝、見危致命、忠孝兩全。
 盤屈曰、
 謹聞命矣。
 乃入陣、力戰死。
 左將軍品日、喚子官状、一云官昌、立於馬前、指諸將曰、
 吾兒年纔十六、志氣頗勇、今日之役、能爲三軍標的乎。
 官状曰、
 唯。
 以甲馬單槍、徑赴敵陣、爲賊所擒、生致階伯。
 階伯俾脱胄、愛其少且勇、不忍加害、乃嘆曰、
 新羅不可敵也、少年尚如此、況壯士乎。
 乃許生還。
 官状告父曰、
 吾入敵中、不能斬將搴旗者、非畏死也。
 言訖、以手掬井水飮之、更向敵陣疾鬪。
 階伯擒斬首、繋馬鞍以送之。
 品日執其首、流血濕袂。
 曰、
 吾兒面目如生、能死於王事、幸矣。
 三軍見之、慷慨有死志、鼓噪進撃、百濟衆大敗、階伯死之、虜佐平忠常、常永等二十餘人。
 是日、定方與副摠管金仁問等、到伎伐浦、遇百濟兵、逆撃大敗之。
 庾信等至唐營、定方以庾信等後期、將斬新羅督軍金文穎、或作、永、於軍門。
 庾信言於衆曰、
 大將軍不見黄山之役、將以後期爲罪。
 吾不能無罪而受辱、必先與唐軍決戰、然後破百濟。
 乃杖鉞軍門、怒髮如植、其腰間寶劒、自躍出鞘。
 定方右將董寶亮、躡足曰、
 新羅兵將有變也。
 定方乃釋文穎之罪。
 百濟王子、使佐平覺伽、移書於唐將軍、哀乞退兵。

 十二日。
 唐、羅軍■■■圍義慈都城、進於所夫里之原。
 定方有所忌不能前、庾信説之、
 二軍勇敢、四道齊振。
 百濟王子、又使上佐平致饔餼豐腆、定方却之。
 王庶子躬與佐平六人、詣前乞罪、又揮之謂。
 十三日、義慈率左右、夜遁走、保熊津城、義慈子隆與大佐平千福等、出降。
 法敏跪隆於馬前、唾面罵曰、
 向者、汝父枉殺我妹、埋之獄中、使我二十年間、痛心疾首、今日汝命在吾手中。
 隆伏地無言。

 十八日。
 義慈率太子及熊津方領軍等、自熊津城來降。
 王聞義慈降。

 二十九日。
 自今突城至所夫里城、遣弟監天福、露布於大唐。

 八月二日。  大置酒勞將士、王與定方及諸將、坐於堂上、坐義慈及子隆於堂下、或使義慈行酒、百濟佐平等羣臣、莫不鳴咽流涕。
 是日、捕斬毛尺。
 毛尺本新羅人、亡入百濟、與大耶城黔日同謀陷城、故斬之。
 又捉黔日、數曰、
 汝在大耶城、與毛尺謀、引百濟之兵、燒亡倉庫、令一城乏食致敗、罪一也。
 逼殺品釋夫妻、罪二也。
 與百濟來攻本國、罪三也。
 以四支解、投其尸於江水。
 百濟餘賊、據南岑、貞峴、■■■城、又佐平正武聚衆、屯豆尸原嶽、抄掠唐、羅人。

 二十六日。
 攻任存大柵、兵多地嶮、不能克、但攻破小柵。

 九月三日。
 郞將劉仁願、以兵一萬人、留鎭泗沘城、王子仁泰與沙飡日原、級飡吉那、以兵七千副之。
 定方以百濟王及王族臣寮九十三人、百姓一萬二千人、自泗沘乘廻唐。
 金仁問與沙飡儒敦、大奈麻中知等偕行。

 二十三日。
 百濟餘賊入泗沘、謀掠生降人、留守仁願出唐、羅人、撃走之。
 賊退上泗沘南嶺、竪四五柵、屯聚伺隙、抄掠城邑、百濟人叛而應者二十餘城。
 唐皇帝遣左衛中郞將王文度、爲熊津都督。

 二十八日。
 至三年山城、傳詔、文度面東立、大王面西立。
 錫命後、文度欲以宣物授王、忽疾作便死。
 從者攝位畢事。

 十月九日。
 王率太子及諸軍攻𠇍禮城。

 十八日。
 取其城置官守、百濟二十餘城、震懼皆降。

 三十日。
 攻泗沘南嶺軍柵、斬首一千五百人。

 十一月一日。
 高句麗侵攻七重城、軍主匹夫死之。

 五日、王行渡雞灘、攻王興寺岑城、七日乃克、斬首七百人。

 二十二日。
 王來自百濟論功、以罽衿卒、宣服、爲級飡、軍師豆迭爲高干。
 戰死儒史知、未知活、寶弘伊、屑儒等四人、許職有差。
 百濟人員、並量才任用、佐平忠常、常永、達率自簡、授位一吉飡、充職摠管、恩率武守、授位大奈麻、充職大監、恩率仁守、授位大奈麻、充職弟監。

 八年、春二月。
 百濟殘賊、來攻泗沘城。
 王命伊飡品日爲大幢將軍、迎飡文王、大阿飡良圖、阿飡忠常等副之。
 迎飡文忠爲上州將軍、阿飡眞王副之。
 阿飡義服爲下州將軍、武欻、旭川等爲南川大監、文品爲誓幢將軍、義光爲郞幢將軍、往救之。

 三月五日。
 至中路、品日分麾下軍、先行、往豆良尹、一作伊、城南、相營地。
 百濟人望陣不整、猝出急撃不意、我軍驚駭潰北。

 十二日。
 大軍來屯古沙比城外、進攻豆良尹城 一朔有六日、不克。

 夏四月十九日。
 班師、大幢誓幢先行、下州軍殿後、至賓骨壤、遇百濟軍、相鬪敗退。
 死者雖小、失亡兵械輜重甚多、上州郞幢遇賊於角山、而進撃克之、遂入百濟屯堡、斬獲二千級。
 王聞軍敗大驚、遣將軍金純、眞欽、天存、竹旨濟師救援。
 至加尸兮津、聞軍退至加召川、乃還。
 王以諸將敗績、論罰有差。

 五月九日。、一云十一日、高句麗將軍惱音信、與靺鞨將軍生偕合軍、來攻述川城、不克。
 移攻北漢山城、列抛車飛石、所當陴屋輒壞、城主大舍冬陁川、使人擲鐵蒺藜於城外、人馬不能行、又破安養寺廩廥、輸其材、隨城壞處、即構爲樓櫓、結絙網、懸牛馬皮綿衣、内設弩砲以守。
 時、城内只有男女二千八百人、城主冬陁川、能激勵少弱、以敵強大之賊、凡二十餘日。
 然糧盡力疲、至誠告天、忽有大星、落於賊營、又雷雨以震、賊疑懼解圍而去。
 王嘉奬冬陁川、擢位大奈麻、移押督州於大耶、以阿飡宗貞爲都督。

 六月。
 大官寺井水爲血、金馬郡地流血廣五歩。
 王薨。
 諡曰武烈、葬永敬寺北、上號太宗。
 高宗聞訃、擧哀於洛城門。

 三國史記、第五卷



≪書き下し文≫
 太宗武烈王立つ。
 諱は春秋、眞智王の子の伊飡の龍春、一に龍樹と云ふ、の子なり。
 唐書以て眞德の弟と爲すは誤りなり。
 母は天明夫人、眞平王の女たり。
 妃は文明夫人、舒玄角飡の女なり。
 王は儀表英偉、幼に濟世の志有り。
 眞德に事へ、伊飡に位歴し、唐帝授くるに特進を以てす。
 眞德の薨ずるに及び、羣臣閼川伊飡の攝政を請へり。
 閼川固く讓りて曰く、
 臣は老ひたるかな。
 德行に稱する可きは無く、今の德望崇重、春秋公に若くもの莫く、實に濟世英傑と謂ふ可けむや。
 遂に奉り王と爲し、春秋三たび讓るも、已むを得ずして位に就く。

 元年、夏四月。
 王考を追封して文興大王と爲し、母を文貞太后と爲す。
 大赦す。

 五月。
 理方府の令良首等に命じ、律令を詳酌せしめ、理方府の格六十餘條を修定す。
 唐は使持節を遣り禮を備はせしめ、冊命して開府儀同三司新羅王と爲す。
 王は遣使して唐に入らせ謝を表す。

 二年、春正月。
 拜して伊飡の金剛を上大等と爲し、波珍飡の文忠を中侍と爲す。
 高句麗と百濟、靺鞨と兵を連ね、我が北境を侵軼し、三十三城を取る。
 王は遣使して唐に入り援を求む。

 三月。
 唐は營州都督の程名振、左右衛中郞將の蘇定方を遣り、兵を發(はな)ちて高句麗を撃つ。
 元子の法敏を立て太子と爲し、庶子の文汪を伊飡と爲し、老旦を海飡と爲し、仁泰を角飡と爲し、智鏡、愷元を各(それぞれ)伊飡と爲す。

 冬十月。
 牛首州白鹿を獻ず。
 屈弗郡一首二身八足の白猪を進む。
 王女の智照、大角飡の庾信に下嫁す。
 鼓樓を月城内に立つる。

 三年。  金仁問唐より歸し、遂に軍主を任じ、獐山城を築くこと監す。

 秋七月。
 子左武衛將軍文王を遣り唐に朝す。

 四年、秋七月。
 一善郡に大水、溺死する者三百餘人。
 東吐含山の地燃え、三年して滅す。
 興輪寺の門自ら壞る。
 ■■■北巖崩碎し米を爲し、之れを食へば陳倉米の如し。

 五年、春正月。
 中侍の文忠を改めて伊飡と爲し、文王を中侍と爲す。

 三月。
 王は何瑟羅の地の靺鞨に連ぬるを以て人安ずるに能はず、罷京を州と爲し、都督を置きて以て之れを鎭む。
 又た悉直を以て北鎭と爲す。

 六年、夏四月。
 百濟頻(しばしば)境を犯し、王將に之れを伐たむとし、遣使して唐に入らせ師を乞ふ。

 秋八月。
 阿飡眞珠を以て兵部令と爲す。

 九月。
 何瑟羅州白鳥を進む。
 公州基郡の江の中、大魚出でて死に、長さ百尺、食ふ者は死す。

 冬十月。
 王は朝に坐して以て唐に兵を請ふも報(しらせ)なく、色に憂形す。
 忽として人王前に有り、先臣の長春、罷郞の者が若し。
 言ひて曰く、
 臣は骨を枯らすと雖も、猶ほ報國の心有り、昨に大唐に到り、皇帝は大將軍蘇定方等に命じ、兵を領むるに來年五月を以てするを得るを認む。
 百濟を伐ちに來たり、以て大王の勤佇すること此の如し、故に控告す。
 言ひ畢(お)へて滅す。
 王大いに驚ろき之れを異とし、厚く兩家の子孫に賞し、仍りて所司に命じ、漢山州に莊義寺を創り、以て冥福に資す。

 七年、春正月。
 上大等の金剛卒す。
 拜して伊飡の金庾信を上大等と爲す。

 三月。
 唐高宗は左武衛大將軍の蘇定方に命じ、神丘道行軍大摠管と爲し、金仁問を副大摠管と爲し、左驍衛將軍の劉伯英等水陸十三萬军を帥いせしめ、以て百濟を伐ち、王に勅して嵎夷道行軍摠管と爲し、將兵をして之れを爲さむと聲援す。

 夏五月二十六日。
 王と庾信、眞珠、天存等、兵を領めて京を出ず。

 六月十八日。
 次ぎて南川に停むる。
 定方は萊州より發し、千里を舳艫し、流れに隨ひ東下す。

 二十一日。
 王は太子の法敏を遣り、兵船一百艘を領めせしめ、定方を德物島にて迎ふ。
 定方は法敏に謂ひて曰く、
 吾は七月十日を以て百濟の南に至り、大王の兵と會し、義慈の都城を屠破せむと欲す。
 法敏曰く、
 大王立ちて大軍を待つ。
 如し大將軍の來たるを聞かば、必ず蓐食して至る。
 定方喜び、法敏を還遣し、新羅の兵馬を徴(め)す。
 法敏至り、定方の軍勢甚だ盛なるを言へば、王喜び自ら勝(た)へず。
 又た太子と大將軍庾信、將軍の品日、欽春、或は純と作す、等に命じ、精兵五萬を率いせしめ、之れに應じ、王は今突城に次ぐ。

 秋七月九日。
 庾信等は黄山の原に進軍すれば、百濟將軍の階伯、兵を擁して至り、先に嶮に據り、三營を設けて以て待す。
 庾信等、軍を分けて三道を爲し、四戰するも利あらず、士卒力竭(つ)く。
 將軍の欽純は子の盤屈に謂ひて曰く、
 臣を爲すこと忠に若くもの莫く、子を爲すこと孝に若くもの莫く、危を見て命を致せば、忠孝の兩(いずれ)も全うす、と。
 盤屈曰く、
 謹みて命を聞けり。
 乃ち陣に入り、力戰して死す。
 左將軍の品日、子の官状、一に云く官昌を喚(よ)び、馬の前に立ち、諸將を指して曰く、
 吾が兒(こ)の年は纔(わず)か十六、志氣は頗る勇まし、今日の役、三軍の標的を爲すに能へむか。
 官状曰く、
 唯。
 甲馬單槍を以て、敵陣に徑き(ゆ)赴くも、賊の擒はるる所と爲り、階伯に生致す。
 階伯は胄を脱がせ、其の少(わかく)且つ勇(いさまし)きを愛(おし)み、加害するを忍びず、乃ち嘆きて曰く、
 新羅の敵ふ可からざるや、少年尚ほ此の如し、況や壯士をや。
 乃ち生還を許す。
 官状は父に告げて曰く、
 吾は敵中に入り、將搴旗の者を斬ること能はずも、死を畏るるに非ざるなり。
 言訖し、手を以て井の水を掬ひ之れを飮み、更に敵陣に向ひ疾鬪す。
 階伯擒へて斬首し、馬の鞍に繋ぎて以て之れを送る。
 品日其の首を執れば、流血は袂を濕(しめ)らす。
 曰く、
 吾が兒の面目は生の如し、王事に能く死せるは幸(さいわい)かな。
 三軍は之れを見、慷慨に死志有り、鼓噪して進撃し、百濟の衆は大敗し、階伯之れに死し、佐平の忠常、常永等二十餘人を虜ふ。
 是の日、定方と副摠管金仁問等、伎伐浦に到り、百濟兵に遇ひ、逆撃して之れを大いに敗る。
 庾信等は唐營に至るも、定方は庾信等の後に期するを以て、將に新羅督軍の金文穎、或は永と作す、を軍門に於いて斬らむとす。
 庾信は衆に言ひて曰く、
 大將軍は黄山の役に見えず、將に後に期するを以て罪と爲す。
 吾は無罪に能はずして辱を受く。
 必ず先に唐軍と決戰し、然る後に百濟を破らむ。
 乃ち軍門に鉞を杖にし、怒髮は植の如し、其の腰間の寶劒、自ら躍り鞘を出ずる。
 定方右將の董寶亮、躡足して曰く、
 新羅兵將に變らむや。
 定方乃ち文穎の罪を釋(ゆる)す。
 百濟の王子、佐平の覺伽をして、書を唐の將軍に移し、退兵を哀乞す。

 十二日。
 唐、羅軍■■■義慈都城を圍み、所夫里の原のに進む。
 定方は忌む所有り前(すす)むに能はず、庾信は之れに、二軍の勇敢、四道齊振と説く。
 百濟の王子、又た上佐平をして饔餼豐腆を致すも、定方之れを却(かえ)す。
 王の庶子の躬は佐平六人と前に詣でて罪を乞ふも、又た之れを揮す。
 十三日と謂ひ、義慈は左右を率い、夜に遁走し、熊津城を保ち、義慈の子の隆と大佐平千福等、出でて降る。
 法敏は隆に馬前にて跪し、面に唾して罵りて曰く、
 向者(さきほど)、汝の父は我が妹を枉殺し、之れを獄中に埋め、我が二十年間をして、心を痛め首を疾せしむるも、今日汝の命吾が手中に在り。
 隆は地に伏して言(ことば)無し。

 十八日。
 義慈は太子及び熊津方領軍等を率いて、熊津城より降りに來たる。
 王は義慈の降を聞く。

 二十九日。
 今突城より所夫里城に至り、弟監天福を遣り、大唐に露布せしむ。

 八月二日。  大いに酒を置き將士を勞ひ、王と定方及び諸將、堂上に坐し、義慈及び子の隆は堂下に坐し、或(あるもの)は義慈をして酒に行かせしめ、百濟佐平等の羣臣、鳴咽して涕を流さざるものは莫し。
 是の日、毛尺を捕へて斬る。
 毛尺は本(もともと)新羅人、百濟に亡入し、大耶城の黔日と同じく謀り城を陷し、故に之れを斬る。
 又た黔日を捉へ、數へて曰く、
 汝は大耶城に在り、毛尺と謀り、百濟の兵を引き、倉庫を燒亡し、一城をして食を乏しめ敗を致す、罪の一なり。
 品釋夫妻を逼殺す、罪の二なり。
 百濟と本國を攻めに來たり、罪の三なり。
 以て四支を解き、其の尸を江水に投ぐ。
 百濟の餘賊、南岑、貞峴、■■■城に據り、又た佐平の正武は衆を聚め、豆尸原嶽に屯し、唐、羅人を抄掠す。

 二十六日。
 任存の大柵を攻むるも、兵多く地嶮(けわ)し、克つこと能はず、但し小柵は攻め破る。

 九月三日。
 郞將の劉仁願、兵一萬人を以て、留まり泗沘城を鎭め、王子の仁泰と沙飡の日原、級飡の吉那、兵七千を以て之れに副す。
 定方は百濟王及び王族臣寮の九十三人、百姓一萬二千人を以て、泗沘より唐に乘廻す。
 金仁問と沙飡の儒敦、大奈麻中知等偕(とも)に行く。

 二十三日。
 百濟の餘賊は泗沘に入り、生きて降る人を掠らむと謀るも、留守の仁願は唐、羅人を出だし、之れを撃走す。
 賊は泗沘の南嶺に退上し、四五の柵を竪(た)て、屯聚して隙を伺ひ、城邑を抄掠す。
 百濟人叛きて應ずる者二十餘城。
 唐皇帝は左衛中郞將の王文度を遣り、熊津都督と爲す。

 二十八日。
 三年山城に至り、詔を傳へ、文度は東に面して立ち、大王は西に面して立つ。
 錫命の後、文度は宣物を以て王に授けむと欲するも、忽として疾(やまひ)作(おこ)り便ち死す。
 從者位を攝し事を畢(お)へる。

 十月九日。
 王は太子及び諸軍を率いて禮城を攻む。

 十八日。
 其の城を取り官守を置き、百濟二十餘城、震懼して皆降る。

 三十日。
 泗沘の南嶺の軍柵を攻め、斬首すること一千五百人。

 十一月一日。
 高句麗は七重城に侵攻し、軍主匹夫之れに死す。

 五日、王は雞灘に行渡し、王興寺岑城を攻め、七日に乃ち克ち、斬首すること七百人。

 二十二日。
 王百濟より論功に來、以て罽衿の卒の宣服、級飡と爲し、軍師の豆迭を高干と爲す。
 戰死せる儒史知、未知活、寶弘伊、屑儒等四人、職を有差に許す。
 百濟人員、並び才を量り任用し、佐平の忠常、常永、達率の自簡、位に一吉飡を授け、職に摠管を充(あ)て、恩率の武守、位に大奈麻を授け、職に大監を充て、恩率の仁守、位に大奈麻を授け、職に弟監を充つ。

 八年、春二月。
 百濟の殘賊、泗沘城を攻めに來たる。
 王は伊飡の品日に命じて大幢將軍と爲し、迎飡の文王、大阿飡の良圖、阿飡の忠常等を之れに副せしむ。
 迎飡の文忠を上州將軍と爲し、阿飡の眞王に之れを副せしむ。
 阿飡の義服を下州將軍と爲し、武欻、旭川等を南川大監と爲し、文品を誓幢將軍と爲し、義光を郞幢將軍と爲し、往かせ之れを救ふ。

 三月五日。
 中路に至り、品日は麾下の軍を分け、先行して、豆良尹、一に伊と作す、城南に往かせ、相ひ營地す。
 百濟人は陣を望むに整はず、猝(にわか)に出でて不意に急撃し、我が軍驚駭して潰北す。

 十二日。
 大軍古沙比城外に來屯し、豆良尹城に進攻し、一朔有六日するも、克たず。

 夏四月十九日。
 師を班(かえ)し、大幢誓幢先行し、下州軍は殿後(しんがり)をし、賓骨壤に至るも、百濟軍に遇ひ、相ひ鬪ひ敗退す。
 死者は小なしと雖も、兵械輜重甚だ多く失亡し、上州郞幢は角山にて賊に遇ひ、而りて進撃して之れに克ち、遂に百濟の屯堡に入り、斬獲すること二千級。
 王は軍の敗らるるを聞きて大いに驚き、將軍の金純、眞欽、天存、竹旨を遣り師を濟(すく)はせ救援せしむ。
 加尸兮津に至り、軍退き加召川に至るを聞き、乃ち還る。
 王は諸將の敗績を以て、罰を有差に論ず。

 五月九日、一に十一日と云ふ。
 高句麗將軍惱音信、 靺鞨將軍生偕と軍を合はせ、述川城を攻めに來たるも克たず。
 移りて北漢山城を攻め、抛車を列べて石を飛ばし、當たる所の屋をして輒ち壞せしめ、城主大舍の冬陁川、人をして鐵蒺藜を城外に擲せしめ、人馬行くに能はず、又た安養寺の廩廥を破り、其の材を輸(はこ)び、隨城壞處、即ち構へて樓櫓を爲し、絙網を結び、牛馬皮綿衣を懸け、内に弩砲を設して以て守る。
 時に城内只だ男女二千八百人有り、城主の冬陁川、能く少弱を激勵し、以て強大の賊に敵ふこと、凡そ二十餘日。
 然れども糧盡き力疲れ、至誠天に告げれば、忽として大星有り、賊營に落ち、又た雷雨は震を以てし、賊は疑懼して圍を解きて去る。
 王嘉(よろこ)び冬陁川を奬し、位を大奈麻に擢き、押督州を大耶に移し、以て阿飡宗貞を都督と爲す。

 六月。
 大官寺の井の水は血と爲り、金馬郡地に血の流ること廣五歩。
 王薨ず。
 諡(おくりな)を武烈と曰ひ、永敬寺の北に葬り、太宗に上號す。
 高宗は訃を聞き、哀を洛城門にて擧ぐ。

 三國史記、第五卷