≪白文≫
太宗武烈王立、諱春秋、眞智王子伊飡龍春、一云龍樹、之子也。
唐書以爲眞德之弟、誤也。
母、天明夫人、眞平王女。
妃、文明夫人、舒玄角飡女也。
王儀表英偉、幼有濟世志。
事眞德、位歴伊飡、唐帝授以特進。
及眞德薨、羣臣請閼川伊飡攝政。
閼川固讓曰、
臣老矣、無德行可稱、今之德望崇重、莫若春秋公、實可謂濟世英傑矣。
遂奉爲王、春秋三讓、不得已而就位。
元年、夏四月。
追封王考爲文興大王、母爲文貞太后。
大赦。
五月。
命理方府令良首等、詳酌律令、修定理方府格六十餘條。
唐遣使持節備禮、冊命爲開府儀同三司新羅王。
王遣使入唐表謝。
二年、春正月。
拜伊飡金剛爲上大等、波珍飡文忠爲中侍。
高句麗與百濟、靺鞨連兵、侵軼我北境、取三十三城。
王遣使入唐求援。
三月。
唐遣營州都督程名振、左右衛中郞將蘇定方、發兵撃高句麗。
立元子法敏爲太子、庶子文汪[1]爲伊飡、老旦爲海飡、仁泰爲角飡、智鏡、愷元各爲伊飡。
冬十月。
牛首州獻白鹿。
屈弗郡進白猪、一首二身八足。
王女智照、下嫁大角飡庾信。
立鼓樓月城内。
三年。
金仁問自唐歸、遂任軍主、監築獐山城。
秋七月。
遣子左武衛將軍文王朝唐。
四年、秋七月。
一善郡大水、溺死者三百餘人。
東吐含山地燃、三年而滅。
興輪寺門自壞。
■■■北巖崩碎爲米、食之如陳倉米。
五年、春正月。
中侍文忠改爲伊飡、文王爲中侍。
三月。
王以何瑟羅地連靺鞨、人不能安、罷京爲州、置都督以鎭之。
又以悉直爲北鎭。
六年、夏四月。
百濟頻犯境、王將伐之、遣使入唐乞師。
秋八月。
以阿飡眞珠爲兵部令。
九月。
何瑟羅州進白鳥。
公州基郡江中、大魚出死、長百尺、食者死。
冬十月。
王坐朝、以請兵於唐不報、憂形於色。
忽有人於王前、若先臣長春、罷郞者。
言曰、
臣雖枯骨、猶有報國之心、昨到大唐、認得皇帝命大將軍蘇定方等、領兵以來年五月。
來伐百濟、以大王勤佇如此、故控告。
言畢而滅。
王大驚異之、厚賞兩家子孫、仍命所司、創漢山州莊義寺、以資冥福。
七年、春正月。
上大等金剛卒。
拜伊飡金庾信爲上大等。
三月。
唐高宗命左武衛大將軍蘇定方、爲神丘道行軍大摠管、金仁問爲副大摠管、帥左驍衛將軍劉伯英等水陸十三萬军、以伐百濟、勅王爲嵎夷道行軍摠管、使將兵、爲之聲援。
夏五月二十六日。
王與庾信、眞珠、天存等、領兵出京。
六月十八日。
次南川停。
定方發自萊州、舳艫千里、隨流東下。
二十一日、王遣太子法敏、領兵船一百艘、迎定方於德物島。
定方謂法敏曰、
吾欲以七月十日至百濟南、與大王兵會、屠破義慈都城。
法敏曰、
大王立待大軍、如聞大將軍來、必蓐食而至。
定方喜、還遣法敏、徴新羅兵馬。
法敏至、言定方軍勢甚盛、王喜不自勝。
又命太子與大將軍庾信、將軍品日、欽春、或作、純、等、率精兵五萬、應之、王次今突城。
秋七月九日。
庾信等進軍於黄山之原、百濟將軍階伯、擁兵而至、先據嶮、設三營以待。
庾信等、分軍爲三道、四戰不利、士卒力竭。
將軍欽純謂子盤屈曰、
爲臣莫若忠、爲子莫若孝、見危致命、忠孝兩全。
盤屈曰、
謹聞命矣。
乃入陣、力戰死。
左將軍品日、喚子官状、一云官昌、立於馬前、指諸將曰、
吾兒年纔十六、志氣頗勇、今日之役、能爲三軍標的乎。
官状曰、
唯。
以甲馬單槍、徑赴敵陣、爲賊所擒、生致階伯。
階伯俾脱胄、愛其少且勇、不忍加害、乃嘆曰、
新羅不可敵也、少年尚如此、況壯士乎。
乃許生還。
官状告父曰、
吾入敵中、不能斬將搴旗者、非畏死也。
言訖、以手掬井水飮之、更向敵陣疾鬪。
階伯擒斬首、繋馬鞍以送之。
品日執其首、流血濕袂。
曰、
吾兒面目如生、能死於王事、幸矣。
三軍見之、慷慨有死志、鼓噪進撃、百濟衆大敗、階伯死之、虜佐平忠常、常永等二十餘人。
是日、定方與副摠管金仁問等、到伎伐浦、遇百濟兵、逆撃大敗之。
庾信等至唐營、定方以庾信等後期、將斬新羅督軍金文穎、或作、永、於軍門。
庾信言於衆曰、
大將軍不見黄山之役、將以後期爲罪。
吾不能無罪而受辱、必先與唐軍決戰、然後破百濟。
乃杖鉞軍門、怒髮如植、其腰間寶劒、自躍出鞘。
定方右將董寶亮、躡足曰、
新羅兵將有變也。
定方乃釋文穎之罪。
百濟王子、使佐平覺伽、移書於唐將軍、哀乞退兵。
十二日。
唐、羅軍■■■圍義慈都城、進於所夫里之原。
定方有所忌不能前、庾信説之、
二軍勇敢、四道齊振。
百濟王子、又使上佐平致饔餼豐腆、定方却之。
王庶子躬與佐平六人、詣前乞罪、又揮之謂。
十三日、義慈率左右、夜遁走、保熊津城、義慈子隆與大佐平千福等、出降。
法敏跪隆於馬前、唾面罵曰、
向者、汝父枉殺我妹、埋之獄中、使我二十年間、痛心疾首、今日汝命在吾手中。
隆伏地無言。
十八日。
義慈率太子及熊津方領軍等、自熊津城來降。
王聞義慈降。
二十九日。
自今突城至所夫里城、遣弟監天福、露布於大唐。
八月二日。
大置酒勞將士、王與定方及諸將、坐於堂上、坐義慈及子隆於堂下、或使義慈行酒、百濟佐平等羣臣、莫不鳴咽流涕。
是日、捕斬毛尺。
毛尺本新羅人、亡入百濟、與大耶城黔日同謀陷城、故斬之。
又捉黔日、數曰、
汝在大耶城、與毛尺謀、引百濟之兵、燒亡倉庫、令一城乏食致敗、罪一也。
逼殺品釋夫妻、罪二也。
與百濟來攻本國、罪三也。
以四支解、投其尸於江水。
百濟餘賊、據南岑、貞峴、■■■城、又佐平正武聚衆、屯豆尸原嶽、抄掠唐、羅人。
二十六日。
攻任存大柵、兵多地嶮、不能克、但攻破小柵。
九月三日。
郞將劉仁願、以兵一萬人、留鎭泗沘城、王子仁泰與沙飡日原、級飡吉那、以兵七千副之。
定方以百濟王及王族臣寮九十三人、百姓一萬二千人、自泗沘乘廻唐。
金仁問與沙飡儒敦、大奈麻中知等偕行。
二十三日。
百濟餘賊入泗沘、謀掠生降人、留守仁願出唐、羅人、撃走之。
賊退上泗沘南嶺、竪四五柵、屯聚伺隙、抄掠城邑、百濟人叛而應者二十餘城。
唐皇帝遣左衛中郞將王文度、爲熊津都督。
二十八日。
至三年山城、傳詔、文度面東立、大王面西立。
錫命後、文度欲以宣物授王、忽疾作便死。
從者攝位畢事。
十月九日。
王率太子及諸軍攻𠇍禮城。
十八日。
取其城置官守、百濟二十餘城、震懼皆降。
三十日。
攻泗沘南嶺軍柵、斬首一千五百人。
十一月一日。
高句麗侵攻七重城、軍主匹夫死之。
五日、王行渡雞灘、攻王興寺岑城、七日乃克、斬首七百人。
二十二日。
王來自百濟論功、以罽衿卒、宣服、爲級飡、軍師豆迭爲高干。
戰死儒史知、未知活、寶弘伊、屑儒等四人、許職有差。
百濟人員、並量才任用、佐平忠常、常永、達率自簡、授位一吉飡、充職摠管、恩率武守、授位大奈麻、充職大監、恩率仁守、授位大奈麻、充職弟監。
八年、春二月。
百濟殘賊、來攻泗沘城。
王命伊飡品日爲大幢將軍、迎飡文王、大阿飡良圖、阿飡忠常等副之。
迎飡文忠爲上州將軍、阿飡眞王副之。
阿飡義服爲下州將軍、武欻、旭川等爲南川大監、文品爲誓幢將軍、義光爲郞幢將軍、往救之。
三月五日。
至中路、品日分麾下軍、先行、往豆良尹、一作伊、城南、相營地。
百濟人望陣不整、猝出急撃不意、我軍驚駭潰北。
十二日。
大軍來屯古沙比城外、進攻豆良尹城 一朔有六日、不克。
夏四月十九日。
班師、大幢誓幢先行、下州軍殿後、至賓骨壤、遇百濟軍、相鬪敗退。
死者雖小、失亡兵械輜重甚多、上州郞幢遇賊於角山、而進撃克之、遂入百濟屯堡、斬獲二千級。
王聞軍敗大驚、遣將軍金純、眞欽、天存、竹旨濟師救援。
至加尸兮津、聞軍退至加召川、乃還。
王以諸將敗績、論罰有差。
五月九日。、一云十一日、高句麗將軍惱音信、與靺鞨將軍生偕合軍、來攻述川城、不克。
移攻北漢山城、列抛車飛石、所當陴屋輒壞、城主大舍冬陁川、使人擲鐵蒺藜於城外、人馬不能行、又破安養寺廩廥、輸其材、隨城壞處、即構爲樓櫓、結絙網、懸牛馬皮綿衣、内設弩砲以守。
時、城内只有男女二千八百人、城主冬陁川、能激勵少弱、以敵強大之賊、凡二十餘日。
然糧盡力疲、至誠告天、忽有大星、落於賊營、又雷雨以震、賊疑懼解圍而去。
王嘉奬冬陁川、擢位大奈麻、移押督州於大耶、以阿飡宗貞爲都督。
六月。
大官寺井水爲血、金馬郡地流血廣五歩。
王薨。
諡曰武烈、葬永敬寺北、上號太宗。
高宗聞訃、擧哀於洛城門。
三國史記、第五卷
≪書き下し文≫
太宗武烈王立つ。
諱は春秋、眞智王の子の伊飡の龍春、一に龍樹と云ふ、の子なり。
唐書以て眞德の弟と爲すは誤りなり。
母は天明夫人、眞平王の女たり。
妃は文明夫人、舒玄角飡の女なり。
王は儀表英偉、幼に濟世の志有り。
眞德に事へ、伊飡に位歴し、唐帝授くるに特進を以てす。
眞德の薨ずるに及び、羣臣閼川伊飡の攝政を請へり。
閼川固く讓りて曰く、
臣は老ひたるかな。
德行に稱する可きは無く、今の德望崇重、春秋公に若くもの莫く、實に濟世英傑と謂ふ可けむや。
遂に奉り王と爲し、春秋三たび讓るも、已むを得ずして位に就く。
元年、夏四月。
王考を追封して文興大王と爲し、母を文貞太后と爲す。
大赦す。
五月。
理方府の令良首等に命じ、律令を詳酌せしめ、理方府の格六十餘條を修定す。
唐は使持節を遣り禮を備はせしめ、冊命して開府儀同三司新羅王と爲す。
王は遣使して唐に入らせ謝を表す。
二年、春正月。
拜して伊飡の金剛を上大等と爲し、波珍飡の文忠を中侍と爲す。
高句麗と百濟、靺鞨と兵を連ね、我が北境を侵軼し、三十三城を取る。
王は遣使して唐に入り援を求む。
三月。
唐は營州都督の程名振、左右衛中郞將の蘇定方を遣り、兵を發(はな)ちて高句麗を撃つ。
元子の法敏を立て太子と爲し、庶子の文汪を伊飡と爲し、老旦を海飡と爲し、仁泰を角飡と爲し、智鏡、愷元を各(それぞれ)伊飡と爲す。
冬十月。
牛首州白鹿を獻ず。
屈弗郡一首二身八足の白猪を進む。
王女の智照、大角飡の庾信に下嫁す。
鼓樓を月城内に立つる。
三年。
金仁問唐より歸し、遂に軍主を任じ、獐山城を築くこと監す。
秋七月。
子左武衛將軍文王を遣り唐に朝す。
四年、秋七月。
一善郡に大水、溺死する者三百餘人。
東吐含山の地燃え、三年して滅す。
興輪寺の門自ら壞る。
■■■北巖崩碎し米を爲し、之れを食へば陳倉米の如し。
五年、春正月。
中侍の文忠を改めて伊飡と爲し、文王を中侍と爲す。
三月。
王は何瑟羅の地の靺鞨に連ぬるを以て人安ずるに能はず、罷京を州と爲し、都督を置きて以て之れを鎭む。
又た悉直を以て北鎭と爲す。
六年、夏四月。
百濟頻(しばしば)境を犯し、王將に之れを伐たむとし、遣使して唐に入らせ師を乞ふ。
秋八月。
阿飡眞珠を以て兵部令と爲す。
九月。
何瑟羅州白鳥を進む。
公州基郡の江の中、大魚出でて死に、長さ百尺、食ふ者は死す。
冬十月。
王は朝に坐して以て唐に兵を請ふも報(しらせ)なく、色に憂形す。
忽として人王前に有り、先臣の長春、罷郞の者が若し。
言ひて曰く、
臣は骨を枯らすと雖も、猶ほ報國の心有り、昨に大唐に到り、皇帝は大將軍蘇定方等に命じ、兵を領むるに來年五月を以てするを得るを認む。
百濟を伐ちに來たり、以て大王の勤佇すること此の如し、故に控告す。
言ひ畢(お)へて滅す。
王大いに驚ろき之れを異とし、厚く兩家の子孫に賞し、仍りて所司に命じ、漢山州に莊義寺を創り、以て冥福に資す。
七年、春正月。
上大等の金剛卒す。
拜して伊飡の金庾信を上大等と爲す。
三月。
唐高宗は左武衛大將軍の蘇定方に命じ、神丘道行軍大摠管と爲し、金仁問を副大摠管と爲し、左驍衛將軍の劉伯英等水陸十三萬军を帥いせしめ、以て百濟を伐ち、王に勅して嵎夷道行軍摠管と爲し、將兵をして之れを爲さむと聲援す。
夏五月二十六日。
王と庾信、眞珠、天存等、兵を領めて京を出ず。
六月十八日。
次ぎて南川に停むる。
定方は萊州より發し、千里を舳艫し、流れに隨ひ東下す。
二十一日。
王は太子の法敏を遣り、兵船一百艘を領めせしめ、定方を德物島にて迎ふ。
定方は法敏に謂ひて曰く、
吾は七月十日を以て百濟の南に至り、大王の兵と會し、義慈の都城を屠破せむと欲す。
法敏曰く、
大王立ちて大軍を待つ。
如し大將軍の來たるを聞かば、必ず蓐食して至る。
定方喜び、法敏を還遣し、新羅の兵馬を徴(め)す。
法敏至り、定方の軍勢甚だ盛なるを言へば、王喜び自ら勝(た)へず。
又た太子と大將軍庾信、將軍の品日、欽春、或は純と作す、等に命じ、精兵五萬を率いせしめ、之れに應じ、王は今突城に次ぐ。
秋七月九日。
庾信等は黄山の原に進軍すれば、百濟將軍の階伯、兵を擁して至り、先に嶮に據り、三營を設けて以て待す。
庾信等、軍を分けて三道を爲し、四戰するも利あらず、士卒力竭(つ)く。
將軍の欽純は子の盤屈に謂ひて曰く、
臣を爲すこと忠に若くもの莫く、子を爲すこと孝に若くもの莫く、危を見て命を致せば、忠孝の兩(いずれ)も全うす、と。
盤屈曰く、
謹みて命を聞けり。
乃ち陣に入り、力戰して死す。
左將軍の品日、子の官状、一に云く官昌を喚(よ)び、馬の前に立ち、諸將を指して曰く、
吾が兒(こ)の年は纔(わず)か十六、志氣は頗る勇まし、今日の役、三軍の標的を爲すに能へむか。
官状曰く、
唯。
甲馬單槍を以て、敵陣に徑き(ゆ)赴くも、賊の擒はるる所と爲り、階伯に生致す。
階伯は胄を脱がせ、其の少(わかく)且つ勇(いさまし)きを愛(おし)み、加害するを忍びず、乃ち嘆きて曰く、
新羅の敵ふ可からざるや、少年尚ほ此の如し、況や壯士をや。
乃ち生還を許す。
官状は父に告げて曰く、
吾は敵中に入り、將搴旗の者を斬ること能はずも、死を畏るるに非ざるなり。
言訖し、手を以て井の水を掬ひ之れを飮み、更に敵陣に向ひ疾鬪す。
階伯擒へて斬首し、馬の鞍に繋ぎて以て之れを送る。
品日其の首を執れば、流血は袂を濕(しめ)らす。
曰く、
吾が兒の面目は生の如し、王事に能く死せるは幸(さいわい)かな。
三軍は之れを見、慷慨に死志有り、鼓噪して進撃し、百濟の衆は大敗し、階伯之れに死し、佐平の忠常、常永等二十餘人を虜ふ。
是の日、定方と副摠管金仁問等、伎伐浦に到り、百濟兵に遇ひ、逆撃して之れを大いに敗る。
庾信等は唐營に至るも、定方は庾信等の後に期するを以て、將に新羅督軍の金文穎、或は永と作す、を軍門に於いて斬らむとす。
庾信は衆に言ひて曰く、
大將軍は黄山の役に見えず、將に後に期するを以て罪と爲す。
吾は無罪に能はずして辱を受く。
必ず先に唐軍と決戰し、然る後に百濟を破らむ。
乃ち軍門に鉞を杖にし、怒髮は植の如し、其の腰間の寶劒、自ら躍り鞘を出ずる。
定方右將の董寶亮、躡足して曰く、
新羅兵將に變らむや。
定方乃ち文穎の罪を釋(ゆる)す。
百濟の王子、佐平の覺伽をして、書を唐の將軍に移し、退兵を哀乞す。
十二日。
唐、羅軍■■■義慈都城を圍み、所夫里の原のに進む。
定方は忌む所有り前(すす)むに能はず、庾信は之れに、二軍の勇敢、四道齊振と説く。
百濟の王子、又た上佐平をして饔餼豐腆を致すも、定方之れを却(かえ)す。
王の庶子の躬は佐平六人と前に詣でて罪を乞ふも、又た之れを揮す。
十三日と謂ひ、義慈は左右を率い、夜に遁走し、熊津城を保ち、義慈の子の隆と大佐平千福等、出でて降る。
法敏は隆に馬前にて跪し、面に唾して罵りて曰く、
向者(さきほど)、汝の父は我が妹を枉殺し、之れを獄中に埋め、我が二十年間をして、心を痛め首を疾せしむるも、今日汝の命吾が手中に在り。
隆は地に伏して言(ことば)無し。
十八日。
義慈は太子及び熊津方領軍等を率いて、熊津城より降りに來たる。
王は義慈の降を聞く。
二十九日。
今突城より所夫里城に至り、弟監天福を遣り、大唐に露布せしむ。
八月二日。
大いに酒を置き將士を勞ひ、王と定方及び諸將、堂上に坐し、義慈及び子の隆は堂下に坐し、或(あるもの)は義慈をして酒に行かせしめ、百濟佐平等の羣臣、鳴咽して涕を流さざるものは莫し。
是の日、毛尺を捕へて斬る。
毛尺は本(もともと)新羅人、百濟に亡入し、大耶城の黔日と同じく謀り城を陷し、故に之れを斬る。
又た黔日を捉へ、數へて曰く、
汝は大耶城に在り、毛尺と謀り、百濟の兵を引き、倉庫を燒亡し、一城をして食を乏しめ敗を致す、罪の一なり。
品釋夫妻を逼殺す、罪の二なり。
百濟と本國を攻めに來たり、罪の三なり。
以て四支を解き、其の尸を江水に投ぐ。
百濟の餘賊、南岑、貞峴、■■■城に據り、又た佐平の正武は衆を聚め、豆尸原嶽に屯し、唐、羅人を抄掠す。
二十六日。
任存の大柵を攻むるも、兵多く地嶮(けわ)し、克つこと能はず、但し小柵は攻め破る。
九月三日。
郞將の劉仁願、兵一萬人を以て、留まり泗沘城を鎭め、王子の仁泰と沙飡の日原、級飡の吉那、兵七千を以て之れに副す。
定方は百濟王及び王族臣寮の九十三人、百姓一萬二千人を以て、泗沘より唐に乘廻す。
金仁問と沙飡の儒敦、大奈麻中知等偕(とも)に行く。
二十三日。
百濟の餘賊は泗沘に入り、生きて降る人を掠らむと謀るも、留守の仁願は唐、羅人を出だし、之れを撃走す。
賊は泗沘の南嶺に退上し、四五の柵を竪(た)て、屯聚して隙を伺ひ、城邑を抄掠す。
百濟人叛きて應ずる者二十餘城。
唐皇帝は左衛中郞將の王文度を遣り、熊津都督と爲す。
二十八日。
三年山城に至り、詔を傳へ、文度は東に面して立ち、大王は西に面して立つ。
錫命の後、文度は宣物を以て王に授けむと欲するも、忽として疾(やまひ)作(おこ)り便ち死す。
從者位を攝し事を畢(お)へる。
十月九日。
王は太子及び諸軍を率いて禮城を攻む。
十八日。
其の城を取り官守を置き、百濟二十餘城、震懼して皆降る。
三十日。
泗沘の南嶺の軍柵を攻め、斬首すること一千五百人。
十一月一日。
高句麗は七重城に侵攻し、軍主匹夫之れに死す。
五日、王は雞灘に行渡し、王興寺岑城を攻め、七日に乃ち克ち、斬首すること七百人。
二十二日。
王百濟より論功に來、以て罽衿の卒の宣服、級飡と爲し、軍師の豆迭を高干と爲す。
戰死せる儒史知、未知活、寶弘伊、屑儒等四人、職を有差に許す。
百濟人員、並び才を量り任用し、佐平の忠常、常永、達率の自簡、位に一吉飡を授け、職に摠管を充(あ)て、恩率の武守、位に大奈麻を授け、職に大監を充て、恩率の仁守、位に大奈麻を授け、職に弟監を充つ。
八年、春二月。
百濟の殘賊、泗沘城を攻めに來たる。
王は伊飡の品日に命じて大幢將軍と爲し、迎飡の文王、大阿飡の良圖、阿飡の忠常等を之れに副せしむ。
迎飡の文忠を上州將軍と爲し、阿飡の眞王に之れを副せしむ。
阿飡の義服を下州將軍と爲し、武欻、旭川等を南川大監と爲し、文品を誓幢將軍と爲し、義光を郞幢將軍と爲し、往かせ之れを救ふ。
三月五日。
中路に至り、品日は麾下の軍を分け、先行して、豆良尹、一に伊と作す、城南に往かせ、相ひ營地す。
百濟人は陣を望むに整はず、猝(にわか)に出でて不意に急撃し、我が軍驚駭して潰北す。
十二日。
大軍古沙比城外に來屯し、豆良尹城に進攻し、一朔有六日するも、克たず。
夏四月十九日。
師を班(かえ)し、大幢誓幢先行し、下州軍は殿後(しんがり)をし、賓骨壤に至るも、百濟軍に遇ひ、相ひ鬪ひ敗退す。
死者は小なしと雖も、兵械輜重甚だ多く失亡し、上州郞幢は角山にて賊に遇ひ、而りて進撃して之れに克ち、遂に百濟の屯堡に入り、斬獲すること二千級。
王は軍の敗らるるを聞きて大いに驚き、將軍の金純、眞欽、天存、竹旨を遣り師を濟(すく)はせ救援せしむ。
加尸兮津に至り、軍退き加召川に至るを聞き、乃ち還る。
王は諸將の敗績を以て、罰を有差に論ず。
五月九日、一に十一日と云ふ。
高句麗將軍惱音信、 靺鞨將軍生偕と軍を合はせ、述川城を攻めに來たるも克たず。
移りて北漢山城を攻め、抛車を列べて石を飛ばし、當たる所の屋をして輒ち壞せしめ、城主大舍の冬陁川、人をして鐵蒺藜を城外に擲せしめ、人馬行くに能はず、又た安養寺の廩廥を破り、其の材を輸(はこ)び、隨城壞處、即ち構へて樓櫓を爲し、絙網を結び、牛馬皮綿衣を懸け、内に弩砲を設して以て守る。
時に城内只だ男女二千八百人有り、城主の冬陁川、能く少弱を激勵し、以て強大の賊に敵ふこと、凡そ二十餘日。
然れども糧盡き力疲れ、至誠天に告げれば、忽として大星有り、賊營に落ち、又た雷雨は震を以てし、賊は疑懼して圍を解きて去る。
王嘉(よろこ)び冬陁川を奬し、位を大奈麻に擢き、押督州を大耶に移し、以て阿飡宗貞を都督と爲す。
六月。
大官寺の井の水は血と爲り、金馬郡地に血の流ること廣五歩。
王薨ず。
諡(おくりな)を武烈と曰ひ、永敬寺の北に葬り、太宗に上號す。
高宗は訃を聞き、哀を洛城門にて擧ぐ。
三國史記、第五卷