文武王下

文武王下

 十一年、春正月。
 拜して伊飡の禮元を中侍に任命した。
 出兵して百濟に侵攻し、熊津の南で戦った。
 幢主の夫果がここで死んだ。
 靺鞨の兵が来て舌口城を包囲したが勝てず、これから撤退しようとするときに兵を出撃させてこれを撃ち、三百人余りを斬殺した。
 王は唐兵が百濟を求めて来ようとしていると聞いて、大阿飡の眞功、阿飡の■■を派遣し、■■兵(? 翻訳不能)甕浦を守らせた。
 白魚躍り入り■■■■■■■■■■一寸。(欠字にて翻訳不能)

 夏四月。
 興輪寺の南門に震があった。

 六月。
 将軍の竹旨たちに兵を率いさせて派遣し、百濟の加林城の稲を踏み越え、遂に唐軍と石城で戦い、五千三百級を斬首し、百濟の将軍二人と唐の果毅六人を捕縛した。

 秋七月二十六日。
 大唐摠管の薛仁貴が琳潤法師に起草させた文書を寄越した。
「行軍摠管の薛仁貴、書を新羅王に致す。
 清風は万里を駆け抜け、大海は三千に渡り、天命の期約により、それに遵って辺境に行くことになりました。
 にわかに魔が差し、辺境の城に武力を尽くし、孔子が子路を評した際の『片言』を忘れ去り、侯生の一諾を失われた、そのように承っております。
 兄を逆賊の首領とし、弟を忠臣とするのは、花びらの陰を遠くに離別させ、相思の月を空しく照らすのと同じです。噂話はそこかしこで興り、良民による歎詠が増すばかりです。
 先代の王は政府を開き、一国の運営を謀られましたが、百城は帰属と離反を繰り返し、西には百濟の侵略を畏れ、北には高麗の侵略を警戒しておられました。方千里の領地において、いくつもの場所で戦争が起こり、養蚕の女は桑の繁る時にも仕事ができず、農民は畑を耕す機序さえ失う有様で、年齢も耳順に達しようとする折、楡の木が生え茂る光景も日に日に侵されてゆき、そのことから航海の危険や高波の険しさも懼れず、中華との国境にては心を尽くされ、天門に額づき、感情を顕にしながらも、侵略の被害を明晰に論じておられましたので、それを聴いた者は悲しみに堪えませんでした。
 太宗文皇帝は天下に気雄し、宇宙に神王として君臨すること盤古の九変のようであり、巨霊の一掌と同じくございます。傾国を扶助され、弱者をお救いになられ、日に暇などありません。
 先君の哀願を聞き、その要請をお受け入れになられ、軽車駿馬、美衣上薬、一日の内にも頻繁に、公務にあらぬ私的な場においてさえ、格別の厚遇をなさいました。また恩を受けた後には、君命に答えて軍事を顕し、魚水に同じように契約し、金が石くれと違うことを明らかになさいました。
 鳳は千重に錠前をかけ、鶴は万戸の扉を閉ざすものですが、私たちはよき酒を酌み交わして家にも帰らず遊興に耽りました。宴席で笑いあったことは金銭には代えられぬものです。そのとき、軍事についても論じました。
 その時々で、あるときは声援を送り、またある時は兵を大挙し、水陸で先鋒となりました。この時、要塞の草が花と分かれ、星々が天上を覆いました。
 駐蹕の戦で文帝自ら行軍なさり、人を弔い人民の痛みに情けをかけたのは、義の深さゆえです。時が流れると山海は形を変わり果て、日と月は互いに入れ替わります。聖人も武帝に下り、王家も継承されるものです。巖葛は互いに身を寄せ合い、声塵が共に挙がれば、武器を洗って馬の肌を磨くのは、みな先人の志を遵守してのことです。
 数十年の外、中国は疲労し、ある時は財物を保管する国庫を開いてまで農民たちに日給を支払いました。蒼島の地のために黄圖の兵を起こしたことは、貴国にとっては有益ですが、貪国には無用なことです。それでも止まろうとしなかったのは、先君の信を失することを恐れたからです。
 現在は強寇が既に一掃され、人民の敵は自らの国を喪亡させ、士馬玉帛は王もお持ちのはずでしょう。
 心に応じようとしましたが身体が動かず、中外が互いに助け合い、鏑を溶かして化し、虚室を情をなせば、自然とその子孫に深謀を遺すことができ、王として子孫に安寧をもたらすことができれば、賢良なる史家たちの賞賛が休まることはないでしょう。
 現在の王は安然の基盤を取り去り、常道を守るための策を嫌がり、遠くは天命に乖り、近くは父の言を棄て、天の時を侮暴し、隣人との好を欺いて侵犯し、一隅の地、僻左の陬の民戸を率いて徴兵し、歳月を貫いて斧を振り回し、未亡人や未婚の女を農耕の労役に駆り立て、稚子に屯田させております。これでは守ろうにも支えるものはなく、進軍を拒むこともできません。
 得たはずものを失わさせ、存在する国を亡国に導き、大小は揃わず、順序から乖離しております。弾弓ボウガンを持ってそれを頼りに進んで枯れ井戸の危険に気付かない。蟬を捕えに歩いて黄雀の難に気付かない。このように王は状況を理解しておられないようです。
 先王の在りし日、早くから天からの慈しみを蒙っておられたのに、邪悪不正の心を持っておられることが判明し、披誠の禮をもって恩恵に預かりながら、己の私欲に従っておられる。天を貪って功績を得、苟しくも以前に恩恵を希望しておきながら、後になって叛逆を企図された。これは先君のなされたことの先にあるものではありません。その河への誓いとは、それが帯のようになったとしても変わらず、義を分かつのは、それが霜のようになっても変わらぬもので、例外などありません。君の命に違うのは不忠、父の心に背くことは不孝であり、その二名を一身に背負ったあなたに安寧はあり得ません。
 王の父子が一朝にして興隆したのは、それらに並んで天の情が遠く及んだからです。武力を連合し、州を並べて郡を連ね、遂に入り交じることになりました。これにしたがって、にわかにあなたは冊命を蒙り、拜して臣を称されました。経書を修めて詩禮に通暁しても、義を聞いても従わず、善を見ても軽んじるのであれば、縱橫の説を聞いて耳目の神経を煩わせ、高門の基盤を揺るがせ、鬼瞰の責を招くことになります。先君の盛業に奉じながら企図するところは異なり、国内では批判する臣下を潰し、国外には強大な軍陣を招くことが、果たして智でありましょうか。
 また高麗の安勝は年はまだ幼少であり、堀と城郭は残っておりますが、領民は半減しており、自分でもどちらに就けばいいのか迷いを抱いており、襟帯の重さに堪えられなくなっております。
 薜仁貴の樓船は軍艦の帆に風を浴び終え、旗を連ねて北岸を巡っておりますが、かつての傷弓の羽を憐れんで、まだ兵を乗りこませることは忍びなく思っている状態です。この状況で外部から援助を求めようとは、誤りはどれほどのものでありましょうか。皇帝の德澤は果てしなく、仁風は遠く注がれ、愛は日景と同じく、輝かしきこと春華のごとくあります。遠くの出来事を聞いても、にわかには信じられぬとして、この下臣に詳細を観測し、調査せよと命じられました。
 それなのに王は人に行かせて尋問をしようとしても、牛酒犒師をすることもなく、更には武具を雀陂に隠し、兵を江口に伏せ、林薄を匍匐し、萊丘に息をひそめて隠れております。自らの先鋒を潜伏させているからには、話し合いの気持ちがないと判断せざる得ません。
 大軍まだ出陣しておりませんが、遊撃隊はいくらか行かせ、海を望み江に浮かんでおります。魚は驚き鳥も逃げ出してしまいました。この状況にありながら、できることを探そうにも、迷い苦しみ、気も狂わんとする思いでしょう。さいわいにして、攻撃と止めることはできます。
 さて、大事を挙げる者は小利を貪ることなく、杖を高く節する者は英奇をもって寄るものです。
 あなたに鸞鳳が馴染むことなく、豺狼が懐くようであれば、高将軍の漢騎、李謹行の蕃兵、呉楚の棹歌、幽并の惡少が、四面から雲合し、舟を向下させ、険難によって守りを固め、地を開いて田を耕せば、これは王にとって致命的でしょう。
 王は労者の歌のように事を取りやめて頭を下げ、具体的に本件の由を論じ、こちらに明陳しなさい。
 薛仁貴は謹んで天子の御車の横に侍り、自ら委寄を承け、状況を記録して聞奏するので、事は必ず元通りになるでしょう。何を苦しみ怱怱とし、自らお互いが索擾することがあるしょうか。
 ああ、昔は忠義をなしていたのに、今はすっかり逆臣、吉に始まり凶に終わることを恨み、本を同じくしながら末を異するを怨みます。
 風は高くなり気は切迫し、葉は落ちて年悲し、山に憑き遠望すれば、傷の懷抱あり。
 王は機䎸淸明、風神爽秀であります。流謙の義をもって帰順し、順迪の心を持ち、先祖の祭祀を時節に則れば、家系が絶えることもありません。占拠を取りやめて天祐を受け入れることこそ、王の策です。
 嚴鋒の間、人を行かせ來往せしめ、今遣王所部僧琳潤書す、佇布一二。」

 大王は書を返報した。
「先王貞觀二十二年、入朝し、面して太宗文皇帝の『朕が今回高麗を討伐したのは、他でもなく我が新羅を憐れんでのことだ。両国に挟まれ、いつも侵陵を被り、安寧なる歳はない。』との恩勅を奉りました。山川土地を我々が貪っているのではありません。玉帛子女は我々が有しているのです。
 私は両国を平定し、平壤以南の百濟の土地並びに我が新羅に、永らく安逸を為そうと乞い願うと、計略を垂教され、軍期を賜られました。新羅の百姓は恩勅を事細かに聞き、人々は力を養い、家々は準備を整えました。大事が終わる前に文帝が先崩なされましたが、今帝が位を継承されたことで前恩もまた継承され、しきりに産み育てた父母の如き恩恵を蒙ること、これは往日のそれを超えるありました。兄弟から子に至るまで金紫を戴き、これぞ光栄寵愛寵の極み、遥か古から現在に至るまでなかったものです。粉骨砕身、煩雑な雑用であろうと力を尽くし、肝脳を原野に塗れさせ、万分の一でもご恩に報いたいと切望しました。
 顯慶五年に至り、聖上は先志がまだ果たされていないことに感じ、過日の遺業を成し遂げようと舟を出して将に命じ、大船団を出発させました。
 先王は年齢を重ねて力も弱まったことで行軍に堪えることができませんでしたが、前恩に追感し、無理をして界首までたどり着き、それがしを派遣して兵を率いさせ、大軍に応接させました。東西は唱和し、水陸が共同で進軍し、船兵も速やかに江口へ入りましたが、陸軍は既に大賊を破っており、両軍ともに王都に到ると、共同で一国を平定しました。平定以後、先王は遂に蘇大摠管が案を折衷させて共に漢兵一万を駐留させ、新羅もまた弟の仁泰を派遣して兵七千を率いさせ、同じく熊津に鎭守しました。
 大軍が撤退した後、賊臣の福信が江西で起こり、残賊どもを取り集め、府城を包囲して迫りました、先に外柵を破り、軍資をすべて奪い、府城を再び攻め、いくらかすると城が陥落しようとしておりました。また府城側近の四ヶ所で城を作って囲守し、こうして府城は出入さえできない状態になりました。それがしは兵を率いて赴くと、包囲を解き、しかも四面の賊城をすべて打ち破り、先にその危機を救い、再度糧食を運び、遂に一万の漢兵を虎吻の危難から逃れさせ、飢餓に陥って軍を留鎭させました。これによって、子供を取り替えてお互いに食べ合うようなことを起こさずに済んだのです。
 六年に至り、福信の徒党が次第に増加し、江東の地を侵攻して略取しました。熊津の漢兵一千が往き、賊徒を打ちましたが、賊の撃ち破られ、一人も帰ってこれませんでした。
 この敗北以来、熊津からの派兵要請が昼も夜もなく相次いでおりましたが、新羅には疫病が蔓延り、兵馬を徴発できませんでした。しかし、苦境の要請を断ることはできず、遂に多くの兵を派遣し、周留城の包囲に往かせました。賊は兵力が少数であることに気付き、そのまますぐに打ちに来ましたが、大いに兵馬を損なう結果となり、利を失して帰りました。南方の諸城は一時すべてが叛いて福信に服属し、福信は勝ちに乗じて再度府城を包囲し、そのため熊津の道は断たれ、塩や豉(みそ)が絶えたので、すぐに健康な者を募り、こっそりと道から塩を送り、その乏困を救いました。
 六月に至り、先王が死去すると、送葬を速やかに終えて服喪もまだ終わらないうちから、赴任に応じることこそできませんでしたが、勅旨して兵を出発させて北に向かわせました。含資道摠管の劉德敏たちが到着して勅を奉ると、新羅に平壤に軍糧を供給させました。
 この時、熊津の使者が来て府城が孤立と危機を詳細に述べられました。劉摠管とそれがしは公正に折衷案を立てようと話し合い、それがしは言いました。
「もし先に平壤に軍糧を送致すれば、そこで熊津の道を断たれる恐れがあります。熊津がもしその道を断たれれば、留鎭している漢兵は賊の手に入ることになるでしょう。」
 劉摠管は遂にそれがしと共同で相隨い、まず甕山城を攻撃しました。(一説には瓮山城と伝わる。)甕山を抜いた後、熊津で城を造り、熊津に道路を開通しました。
 十二月に至り、熊津の糧は尽きましたが、先に熊津に食糧を運搬すれば、勅旨と違う恐れがあり、もし平壤に送致すれば、そこで熊津は食糧を絶やす恐れがありました。別動隊として老兵や弱兵を熊津への運送に派遣した所以は、強健精兵を平壤に向かわせるための偽装工作でした。熊津への食糧の輸送では、進路上で降雪に遭遇し、人馬は悉くが死に、百人に一人も帰れませんでした。
 龍朔二年正月に至り、劉摠管は新羅の兩河道摠管金庾信たちと共同で平壤に軍糧を輸送しました。
 当時、陰雨の数か月にわたる風雪の極寒により、人馬は凍え死に、運搬していた兵糧を送致することはできませんでした。平壤の大軍もまた帰還しようとしており、新羅の兵馬も食糧が尽きたので、同様に帰ることにしました。兵士は飢えと寒さで手足は凍瘃し、路上で死んだ者は数え切れないほどでした。
 行軍して瓠瀘河にたどり着くと、高麗の兵馬が後に次いで乗り込んできたので、岸上に軍陣を並べました。新羅の兵士は長らく疲労と窮乏に陥っておりましたので、賊が遠くから乗り込んできたことに恐怖しましたが、賊がまだ河を渡る前に、先に河を渡って刃を交え、先鋒がしばらく交戦すると賊徒は瓦解したので、兵を集めて帰還することができました。
 この兵たちは家に到着しても、一月も経たないうちに熊津の府城がしきりに糧穀を求めたので、その前後に送致したものは数万斛余りにも及びました。南は熊津に運搬し、北は平壤に供給し、小国である新羅が両所に分供したことで、人力は疲を極め、牛馬は死に尽くし、田作は時を失し、年穀は稔ることなく、倉に貯蔵していた食糧は、漕運によって同様に尽き果て、新羅の百姓は草根を食べてもまだ食糧が足りないというのに、熊津の漢兵は食糧に余剰が出る有様でした。また漢兵は留鎭し、家から離れて日は長く、衣裳は破損し、着替えの服もありませんでしたが、新羅は百姓に行政指導をして、そのための服を送給させました。
 都護の劉仁願は遠い孤城を鎮守しておりましたが、四面のすべてが賊、いつも百濟の侵攻と包囲を受け、常に新羅によって解放の救援を蒙っておりました。一万の漢兵は四年間新羅で衣食しておりました。劉仁願以下、兵士以上、皮骨は漢の地に生まれたと言えども、血肉はともに新羅のものです。国家の恩沢には限りがないと言いますが、新羅が尽くした忠義もまた、同情に足るものと言えるでしょう。
 龍朔三年に至り、摠管の孫仁師は兵を率いて府城の救援に向かいましたが、新羅の兵馬もそこに共同で征伐に出兵させ、周留城の下まで行軍しました。
 この時、倭国の船兵が百濟の助力に来ました。倭の船は千艘、白沙に停泊し、百濟の精騎が岸上で船を守っておりました。
 新羅の驍騎は漢の先鋒として、最初に岸辺の陣を撃破し、周留は肝をつぶしてそのまますぐに降伏しました。
 南方が定まると軍を引き返して北伐しましたが、任存の一城が頑迷にも降服をしなかったので、両軍は力を合わせて、共同で一城を攻撃しましたが、守を固めて拒絶したので、撃ち破ることができませんでした。
 新羅はすぐに軍を引き返し、杜大夫は言いました。
「勅に準じれば、平定の後には、共同で互いに盟約を結ぶことになっておりますので、任存の一城がまだ降伏していませんが、すぐにお互い盟約を共に結んでください。」
 新羅の解釈で勅に準じれば、「平定されてその後に、共同で互いに盟約を結ぶことになっておりますが、任存がまだ降伏していないので、まだそれを平定としてはならない」であろうと考えます。また、百濟が姦計や詐欺などをいかなる形で行うかもわからず、いつ約束を覆すかわかったものではありません。現在は互いに共同で盟約をしているといっても、後になって噬臍の患が起こる恐れがあり、盟約を停止するように奏請しました。
 麟德元年に至り、再度厳勅を降し、盟約を結ばないことを責められ、人を熊嶺に派遣し、壇を築いて互いに共同で盟約を結び、盟約に則って、遂に両国の国教が定められました。盟約を結んだ事は、願ったことではありませんでしたが、敢えて勅に違おうとはしませんでした。
 また就利山に壇を築き、応答の勅を下して劉仁願を使者に遣わし、生贄の血を啜り合って互いに盟約を結び、山河の神に誓を立て、境界線を規定して封を立て、永き国境とし、百姓の居住ではそれぞれの産業が営みを再開しました。
 乾封二年に至り、大摠管の英國公が遼を征伐すると聞いて、それがしは漢城州に往き、派兵して国境際に集結させました。新羅の兵馬は単独では入ることができず、先に細作スパイを三度派遣し、船を相次いで派遣し、大軍の様子を密かに伺いました。細作スパイが戻ってくると言いました。
「大軍はまだ平壤に到着していません。」
 なので、高麗の七重城を攻撃して道路を開通し、大軍の到着を待っておりました。その城が徐々に落城に向かっていたその時、英公の使者であった江深が来て言いました。
「大摠管の処分を奉った。新羅の兵馬は城の攻撃を取りやめ、早急に平壤に赴き、すぐに兵糧を補給せよ。」
 遣令に基づいて合流に赴き、行群して水谷城までたどり着いたところで大軍は既に撤退したと聞き、新羅の兵馬はそのまますぐにそこを抜け出ることになりました。
 乾封三年に至り、大監の金寶嘉を派遣して海を渡らせ、英公の動向を受け取りました。処分を奉り、新羅の兵馬は平壤に赴き、集結しました。
 五月に至ると、劉右相が来て新羅の兵馬を出発させ、同じく平壤に赴かせました。それがしも漢城州に往き、兵馬を検査しました。
 この時、蕃漢の諸軍は虵水に総結集し、男建は兵を出撃させ、一挙に決戦しようとしておりました。新羅の兵馬は単独で先鋒を務め、先に大陣を破ったので、平壤の城中は鋒を挫かれ気を委縮させました。その後、英公は更に新羅の驍騎五百人を取り、先に城門に入り、遂に平壤を破り、勝利して大功を成し遂げました。
 ここで新羅の兵士たちは言い合いました。
「征伐から既に九年が過ぎ、人力の悉くを尽くして両国の平定に終始したが、累代の長望は今日にして成し遂げられた。必ず当国は尽忠の恩を蒙り、人は効力の賞を受けることになるだろう。」
 しかし、英公が口から漏らした言葉は次のようなものでした。
「新羅は前に行軍の期日に遅れたことだし、それについても考慮すべきであろうな。」
 新羅の兵士はこの言葉を聞いてしまったことで、更に恐懼を増してしまいました。
 また功績を立てた将軍たちが朝廷に並び入って記録を提出し、京下に到着した後、次のように言われました。
「今回の新羅の功績は、ないも同然である。」
 その将軍たちが帰国すると、百姓には更なる恐懼が加わりました。
 また卑列の城はもともと新羅のものでしたが、高麗を攻撃すること三十年余り、新羅はこの城を奪還し、百姓を移して配属し、官人を置いて守捉させたのに、またこの城を取り上げて高麗に還付させました。
 しかも新羅は百濟を平定してから高麗を平定するまで、忠を尽くし、力を尽くし、国家に叛くことがなかったのに、まだどのような罪があるというのかわかりませんが、一朝にして破棄されることになりました。
 このような濡れ衣を着せられてなお、最期まで叛逆の心はありませんでした。
 總章元年に至り、百濟は盟約を結ぶ場において、国境線を移して標を易え、田地を侵取し、我が国の奴婢を欺き、我が国の百姓を誘惑し、内地に隠蔽し、頻繁に返還を催促しましたが、結局返還しないままとなりました。
 また事情に詳しいものによれば、次のようにも言われております。
「国家は船艘を修理し、外に倭国の征伐を託しましたが、その実、新羅への攻撃をもくろんでいるのだ。」
 百姓はそれを聞くと、驚懼して安心できませんでした。
 また百濟の婦女を新羅漢城都督の朴都儒に嫁がせようとして、共謀して計略を立て、新羅の兵器を盗み取り、一州の地を襲撃しようとしていましたが、事が発覚したので、すぐに都儒を斬刑に処し、陰謀は成功しませんでした。
 咸亨元年六月に至り、高麗が謀叛し、漢官を皆殺しにしました。
 新羅はすぐに出兵しようとして、先に熊津に報告しました。
「高麗が謀反を起こしましたので、討伐しないわけにはいきません。あちらも私たちも帝臣であり、道理は凶賊を討つためにも出兵して共同で事に当たり、方針を折衷させるためにも、官人を派遣してこちらに来させ、互いに共同で計略を立てようではありませんか。」
 百濟司馬の禰軍がこちらに来たので、遂に共同で折衷的な方針を立てて言いました。
「出兵した後になってから我々とあなたがたが互いに疑心暗鬼に陥るかもしれないので、両陣営の官人を相互に人質として交換しましょう。」
 すぐに金儒敦と府城百濟主簿の首彌、長貴たちを派遣し、府に向かわせて人質交換について平論しました。百濟は人質交換を許可しましたが、城中では兵馬を集結させており、あちらの城下に到着すると、夜には攻撃をしかけて来ました。
 七月に至り、入朝使の金欽純たちがたどり着き、これから国境を定めようとしましたが、案図では百濟の旧地のすべてが割譲され、返還されておりました。黄河が帯となるでもなし、太山が礪となるでもなし、たかだか三四年の間に、一度与えたものを一度に奪われてしまい、新羅の百姓は皆が本望を失ってしまい、口々に言い合いました。
「新羅、百濟は累代の深讐、現在の百濟の状況を見れば、別に兼ねて自立した一国を立てるのと変わらないではないか。百年後には、子孫は必ず呑滅されることだろう。新羅は既に国家の州なのに、それを分断してふたつの国とするのはおかしい。願わくば、これらを一家として、長らく後の患いをなくしてほしいものだ。」
 去年九月、具体的に事情を記録し、使者を出して奏聞しましたが、海を漂流してしまし、帰ってきてしまいました。更に遣使を出しましたが、そのときも到達することはできず、この後、風は寒くなり波は激しくなり、まだ聞奏できておりません。
 そこに百濟が連絡を取り付け、新羅が反叛したと奏じました。
 しかし、新羅は前には貴臣の志を挫かれ、後に百濟からの中傷を受け、その進退について咎を受けながら、まだ忠誠を申しておりません。かのような讒言は以前から聖聽に及ばれておるようですが、ふたつとないの忠言がまだ一度も届いていないのです。
 使者の琳潤から辱書が届きました。これは摠管が承り、風波の危険を冒してまで海外に遠来なさいました。道理に基づいて接待しようと使者を出して郊迎し、その牛酒を尽くしております。遠い異国の城に住んでおりますので、まだ禮を尽くせておりません。時には迎接を欠くことがありますが、怪しまれないようにお願いします。
 摠管の来書を拝読させていただきましたところ、専ら新羅が既に叛逆したとされておりますが、この時点で本心ではありません。惕然として驚懼しております。自らの功夫を数えても、斯様に屈辱的な讒言を受けるでしょうし、口を閉ざして責を受けたとしても、不義として数えられるのでしょうから、今回受けた冤罪を簡略に述べ、無叛である録を具陳させていただきます。国家は一介の使者を降して元由を垂問しようともせず、すぐに数万の衆勢を派遣し、巣穴を傾覆させ、樓船で大海原を満たし、船首が江口に連なり、かの熊津での罪を数え、ここ新羅を討伐しようとしています。
 ああ、両国はまだ平定していない時は、指示命令のままに馬を駆って馬車を走らせ、現在は野獣が尽きたのに反して、烹宰の侵迫を受けております。賊残の百濟が雍齒の賞を受けているのに反して、漢に殉じた新羅は既に丁公の誅を受けました。大陽の輝きが光を廻さずとも、葵藿の本心は懐から日に向かっております。摠管は英雄の秀気を受け、将相の高材を抱き、七德を兼備し、九流を兼学しておられますから、恭しく天罰を執行しようとも、濫用して無実の罪を加えはしないでしょう。天兵を出撃させる前に、先に元由を問うてください。
 こちらの来書によって、敢えて不叛である旨を陳述致しました。摠管自らの商量を詳らかになさり、行状を具陳して申奏なさりますようにお願いします。
 林州大都督左衛大將軍開府儀同三司上柱國新羅王金法敏白。」
 所夫里州を置き、阿飡眞王を都督に任命した。

 九月。
 唐の将軍高侃たちが蕃兵四万を率いて平壤に到来し、濠を深くして塁を高く積み上げ、帶方を侵略した。

 冬十月六日。
 唐の漕船七十艘余りを攻撃し、郞將の鉗耳大侯と士卒百人余りを捕獲した。
 そこで水に沈んで死亡した者は、数え切れないほどであった。
 級飡の當千を功第一とし、沙飡の官位を授けた。

 十二年、春正月。
 王が将を派遣して百濟の古省城を攻めて、これに勝った。

 二月。
 百濟の加林城を攻めたが、勝てなかった。

 秋七月。
 唐将軍の高侃は兵一万を率い、李謹行は兵三万を率い、一時平壤に着くと、軍営を8つほど作り留屯し、八月には韓始城、馬邑城を攻め、これに勝ち、兵を進めたが、白水城の抵抗にあい、五百歩程度離れたところに軍営を作ったが、我が軍と高句麗軍が抗戦し、数千級を斬首した。
 高侃たちが退くと追撃して石門までたどり着き、そこで戰ったが、我が軍は敗績し、大阿飡の曉川、沙飡の義文、山世、阿飡の能申、豆善、一吉飡の安那含、良臣たちがここで死んだ。
 漢山州に晝長城を築いた。その周囲は四千三百六十歩である。

 九月。
 彗星が七つ、北方に出た。
 先に百濟が唐に訴えに往き、軍で我が国を侵攻するようにと要請したため、事態は急迫し、王は層状ができず、兵を出してこれを討伐した。
 これによって罪を大朝に獲、遂に級飡の原川、奈麻の邊山を派遣し、兵船郞將の鉗耳大侯、萊州司馬の王藝、本烈州長史の王益、熊州都督府司馬の禰軍、曾山司馬の法聰が軍士一百七十人の駐屯地に向かわせ、上表して罪を乞うた。
「わたくし某死罪、謹んで申し上げます。
 昔、わたくしは危急し、逆さづりにあったかのような事態でありましたが、遠方から救援の手を差し伸べて戴いたことから、屠滅を免がれることができました。
 身を粉にして骨を砕いてきましたが、まだ上様の大変なお恵みに報いるには足りません。首を砕いて跡形もなく風に消えたとしても、なぜ産み育てられたも同然のご慈悲に報いることができますでしょうか。
 それなのに、深讐の百濟は近臣の蕃を圧迫し、天兵に告げて引き連れることで、我が国を滅ぼして恥を雪ごうとしております。わたくしは破滅の危機に瀕し、自らの存続を求めようとしておりますが、不当にも凶逆の名を被り、遂に赦し難き罪を受けることになりました。
 わたくしは自身の意見をお伝えすることないままに、先に刑戮を受け、生きても逆命の臣の汚名を受け、死ねば背恩の鬼とさせられることを恐れております。謹みて事情を記録し、死の危険を冒してでも奏聞し、伏して少垂神聽、元由を炤審したいと願います。
 わたくしは前代以来、朝貢を絶やすことはありませんでしたが、最近は百濟のことで、再び職貢を欠かせる事態となり、遂に聖朝にお言葉を頂くことになりました。これは将軍に命じて我が罪を討伐し、死罪にしてなお余罪のある大罪なのでしょう。南山の竹でもわたくしの罪を書するに足らず、褒斜の林でもまだわたくしの枷を作るに足りぬことでしょう。宗社を池に沈め、わたくしの身体を八つ裂きにしたとしても、事情を聴取して天子様御自らの裁きであるならば、甘んじて戮をお受けしましょう。わたくしは棺と車の側におり、汚名を払うこともないまま、血の涙を流して朝を待ち、伏して刑命をお聞きします。
 伏して思いまするに、皇帝陛下、同じ日月の下にはありますが、受ける光というものは遮蔽や屈折されて照らされるもので、徳は乾坤に合致し、動植物はすべて育て養われ、好生の徳、遠くは困窮にまで及び、殺生を憎む仁愛の心は、ここ空を飛ぶ鳥や海を泳ぐ魚にまで及んでいます。もし、処断を大目に見てくださり、首と胴体とをおつなぎ頂ける御恩を被るのであれば、死の年も生の日となることでしょう。
 所望すべくもないことですが、敢えて心にされたところを、劒に伏する覚悟で申し上げました。
 謹みて原川等を派遣し、拜表して謝罪し、伏して勅旨をお聞きいたします。
 某頓首頓首、死罪死罪。」
 同時に貢物として銀三萬三千五百分、銅三萬三千分、針四百枚、牛黄百二十分、金百二十分、四十升綜布六匹、三十升布六十匹を進呈した。
 この歳、穀物の高騰が起こり、人民が飢えた。

 十三年、春正月。
 大星が皇龍寺と城の中間に隕ちた。
 拜して強首を沙飡に任命し、租二百石を歳時に賜った。

 二月。
 西兄山城を増築した。

 夏六月。
 虎が大宮庭に入ったので、これを殺した。

 秋七月一日。
 金庾信が死去した。
 阿飡の大吐が謀叛して唐に味方したが、事が漏洩して誅に伏し、妻子は賤民となった。

 八月。
 波珍飡の天光を中侍に任命した。
 沙熱山城を増築した。

 九月。
 國原城(古薍長城)、北兄山城、召文城、耳山城、首若州走壤城(一説には名を迭巖城)達含郡主岑城、居烈州萬興寺山城、歃良州骨爭峴城を築いた。
 王は大阿飡の徹川たちを派遣し、兵船一百艘を率いさせて西海に鎭めた。
 唐兵と靺鞨、契丹の兵が共同で国北部辺境を侵犯し、おおよそ九戦し、我が軍はこれに勝ち、二千級余りを斬首した。
 唐兵は瓠瀘、王逢の二河で溺れ、死者は数えられないほどであった。

 冬。
 唐兵が高句麗の牛岑城を攻め、これを降した。
 契丹、靺鞨の兵が大楊城、童子城を攻め、これを滅ぼした。
 外司正を州二人、郡一人ほど配置するようになった。
 かつて太宗王の百濟を滅ぼした際、守衛の兵士を罷免したが、ここで再びそれを配置した。

 十四年、春正月。
 入唐していた宿衛の大奈麻の德福傳が曆術を学んで帰国し、新しい暦法を改用した。
 王は高句麗の叛衆を受け入れ、また百濟の故地を拠点として、人をやってこれを守らせた。
 唐高宗は大いに怒り、詔を下して王の官爵を削り、京師にいた王弟の右驍衛員外大將軍臨海郡公の金仁問を擁立して立て新羅王に任命して帰国させ、左庶子同中書門下三品の劉仁軌を雞林道大摠管に任命し、衛尉卿の李弼、右領軍大將軍の李謹行をその副官とし、兵を発して討ちに来た。

 二月。
 宮内に池を堀り山を造り、花草を植えて、珍禽奇獸を養育した。

 秋七月。
 大風が皇龍寺の仏殿を毀した。

 八月。
 西兄山の下で大閲した。

 九月。
 義安法師を大書省に任命して、安勝を報德王に封じた。

 十年。
 安勝を高句麗王に封じた。今回、再封を受けた『報德』という言葉の意味はわからない。帰命したことを言っているのか、あるいは地名なのか。
 靈廟寺の前路に行幸して兵に閲し、阿飡の薛秀眞の六陣兵法を観覧した。

 十五年、春正月。
 銅鑄百司及び州郡印を頒布した。

 二月。
 劉仁軌が我が軍を七重城で破った。
 劉仁軌が兵を引いて帰還すると、詔を下して李謹行を安東鎭撫大使に任命し、経営権を奪い取った。
 そこで王は遣使して朝貢と謝罪をすると、帝はそれを赦し、王の官爵を戻した。
 金仁問は道中で帰還し、改めて臨海郡公に封じられた。
 こうして百濟の地を多く取ったので、遂に高句麗の国境南部に接触するまでを州郡とした。
 唐兵と契丹、靺鞨兵が侵攻してきたと聞き、九軍を出撃させてそれを待った。

 秋九月。
 薛仁貴が宿衛の学生であった風訓の父の金眞珠を本国で誅に伏し、風訓を引き連れて郷導をさせ、泉城を攻めてきた。
 我が国の将軍文訓たちが抗戦してこれに勝ち、一千四百級を斬首し、兵船四十艘を奪い取った。薛仁貴が包囲を解いて退走し、戦馬一千匹を得た。

 二十九日。
 李謹行、兵二十万を率いて買肖城に駐屯したが、我が軍はこれを撃退し、戦馬三万三百八十匹、それ以外の兵仗も同程度に得られた。
 遣使して唐に入らせ方物を貢いだ。
 縁安北河に關城を設け、また鐵關城を築いた。
 靺鞨が阿達城に侵入して劫掠し、城主の素那が抗戦したがここで死んだ。
 唐兵と契丹、靺鞨兵が到来し、七重城を包囲したが勝てなかった。
 小守の儒冬はここで死んだ。
 靺鞨がまた赤木城を包囲し、これを滅ぼした。縣令の脱起が百姓を率いて抗戦したが、力尽きて倶に死んだ。
 唐兵がまた石峴城を包囲し、これを抜いた。縣令の仙伯、悉毛たちは力戰したがここで死んだ。
 再度我が軍は唐兵と大小十八戦し、これらすべてに勝利し、六千四十七級を斬首し、戦馬二百匹を得た。

 十六年、春二月。
 高僧の義相、旨を奉り、浮石寺を創った。

 秋七月。
 彗星が北河積水の間に出た。長さ六七歩程度。
 唐兵が道臨城に攻め込み、これを抜いた。縣令の居尸知がここで死に、壤宮を作った。

 冬十一月。
 沙飡の施得は船兵を率いて、薛仁貴と所夫里州の伎伐浦で戦ったが敗績し、再度進撃して大小二十二の戦いを重ね、これに勝利し、四千級余りを斬首した。
 宰相の陳純は仕官を終えたいと乞うたが、これを認めず、几杖を賜った。

 十七年、春三月。
 講武殿の南門で射を観覧した。
 左司祿館を設置し始めた。
 所夫里州が白鷹を献上した。

 十八年、春正月。
 船府令を一員置き、船楫の事を掌握させた。
 左右理方府卿にそれぞれ一員を加えた。
 北原小京を置き、大阿飡の呉起にそれを守らせた。

 三月。
 拜して大阿飡の春長を中侍に任命した。

 夏四月。
 阿天訓を武珍州都督に任命した。

 五月。
 北原が羽翮に文様があり、脛に毛がある異鳥を献上した。

 十九年、春正月。
 中侍の春長を病で職を免じ、舒弗邯の天存を中侍に任命した。

 二月。
 使者を出して耽羅國を調略した。
 すこぶる極めて壮麗に宮闕を重修した。

 夏四月。
 熒惑が羽林を守った。

 六月。
 太白が月に入り、流星が參大星を犯した。

 秋八月。
 太白は月に入った。
 角干の天存が死去した。
 東宮を創造し、内外諸門の額號を定め始めた。
 四天王寺が建立された。
 南山城を増築した。

 二十年、春二月。
 拜して伊飡の金軍官を上大等に任命した。

 三月。
 金銀器及び雜綵百段を報德王の安勝に賜い、遂に王妹をこれの妻とした。(一説には迎湌の金義官の娘とも伝わる。)
 教書を下した。
「人倫の本は夫婦の攸先であり、王化の基、後継ぎを主とする。
 王の鵲巢には空白があり、雞鳴(よあけ)が心にあったことであろう。
 久しく内輔の儀がなく、永らく起家の業が欠けることは、あってはならぬことである。
 今は良辰吉日、旧来の憲章に率先して順い、寡人の妹女を配偶者とする。
 王よ、どうか共に心義を敦くし、宗廟に奉じ、子孫を反映させ、盤石を永らく豊かにしようではないか。
 なんとも盛況なることであるか、なんとも美しきことであろうか。」

 夏五月。
 高句麗王が大將軍の延武たちに上表させた。
「わたくし安勝申し上げます。
 大阿飡の金官長がいらっしゃいまして教旨を奉宣され、併せて教書を賜わられ、外生公を下邑内の主に任命なさり、そのために四月十五日をもってこちらに赴こうとしましたが、笑喜する心と恐懼する心とが交互に湧きあがり、どちらが本当の心なのか判断が付きません。
 竊かに帝女を嬀に降し、王姫を齊に往かせるとは、もともと聖德を揚げること、凡才に関知させることなどできないのでしょう。
 私はもともと庸流であり、行動にも能力にも計算はありませんでしたが、幸いにも昌運に巡り合いましたから、聖化を浴びることができましたので、格別の恩沢をお受けするたびに、それに報いようとはしましたが手立てがありませんでした。
 重ねて天寵を蒙り、此度の婚姻にて親族を降されましたこと、遂に華は咲き乱れ、慶びが表情に現れ、成徳を謹みてお受けいたす運びとなりました。
 吉月令辰のこと、弊館に帰ると、一億の日月を経ても遭い難き幸運を一朝にして獲ることができましたこと、これは望外のことではありましたが、喜びは思いがけぬところから出てくるものです。
 事実、私の父兄たちも、その恩賜をお受けしております。
 その先祖以下、この天寵をお喜びしております。
 私はまだ教旨を蒙っておりませんが、直接訪朝することは叶いませんが、この上ない歓びに任せることなく、謹んで臣下の大將軍太大兄延武を派遣し、表を奉ることでご報告いたします。」
 加耶郡を金官小京と置いた。

 二十一年、春正月朔。
 一日中、夜のように暗黒であった。
 沙飡の武仙が精兵三千を率いて比列忽の守備をした。
 右司祿館を置いた。

 夏五月、地震。
 流星が參大星を犯した。

 六月。
 天狗が坤方に落ちた。
 王が京城を新築しようとして浮屠の義相に質問すると次のように答えた。
「草野茅屋に住んだとしても、正道を行えば、福業は長く続くでしょう。苟もそうでなければ、人を労働に駆り立てて城を作ったとしても、利益はないでしょう。」
 こうして王は労役を取りやめた。

 秋七月一日。
 王が死去し、諡を文武とした。
 羣臣は遺言に従って東海口の大石の上に葬った。世間では、王は化して龍となったと言われており、その石を指して大王石と名付けた。
 詔を遺して曰く、
「わが生涯は紛紜と共にあり、時は戦争に当たった。
 西を征伐し、北に討伐し、勝利して国境線を定め、叛乱する者を討伐し、離反した者を呼び寄せ、遠近共に安んじ、上には宗廟から託された違勅を慰め、下には父子の宿敵に報い、追賞はその生死を問わず遍く施し、爵位を内外で統一した。
 兵戈を鑄して農器に変え、良民を仁と長寿に向かわせ、税金を軽くし、労役を少なくし、家に人手を供給し、民間を安堵させ、領土内から懸念を取り除いた。倉庫の穀物は丘山のように積まれ、獄舎は茂草となった。現世と幽世に恥ずべきことはなくなり、士人に負担もなくなったというべきである。
 自ら風霜を犯冒したことで、遂に持病を抱えるようになったが、しかも政務教化に憂労を重ねたことで、更に病をこじらせることになった。人生は過ぎ去っても名が遺ることは、古今一貫したことであり、これから大夜に帰ろうとも、何を恨むことがあろうか。
 太子は早くに蘊離して輝き、久しく皇太子の位に居していたが、上は群宰より下は庶寮に至るまで、死者を見送るにあたっての義に違うことなく、君主に仕えるにあたっての禮を欠くでないぞ。宗廟の主を長く空位としてはならない。太子は柩(ひつぎ)の前に即し、王位を継承し、立つがよい。
 そして山谷は変遷し、人代は推移する。呉王北山の墳にも金鳧の彩を見ることはできず、魏主西陵を望めども、ただ銅雀は名だけが残るのみ。かつて王権の政務を尽くした英傑も、ついに一封の土となり、樵牧(きこり)がその上で歌い、狐兎がその旁に巣穴をつくっている。いたずらに資財を費せば、悪評が書簡に記録されることになるだろうし、人力を空虚に労することがあれば、幽魂は救済されないだろう。
 冷静にこれを考えて見れば、死後には痛みを感じることもなく、それと同様に楽しみを感じることもできないのである。死後十日したら、そのまま庫門外庭で西国の礼式に則ってに火をもって焼葬せよ。服の軽重については通常のものと同様で、喪の制度は倹約に務めよ。
 その辺境の城の鎭遏や州縣の課税といった事について、必要でないものは廃止するがよい。律令格式について、不便なところがあれば、すぐに改めよ。
 遠近に布告する。この意を知らしめ、このように責任者は施行すべし。」

 三國史記、第七卷


 

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≪白文≫
 十一年、春正月。
 拜伊飡禮元爲中侍。
 發兵侵百濟、戰於熊津南。
 幢主夫果死之。
 靺鞨兵來圍舌口城、不克將退、出兵撃之、斬殺三百餘人。
 王聞唐兵欲來捄百濟、遣大阿飡眞功、阿飡■■、■■兵守甕浦。
 白魚躍入■■■■■■■■■■一寸。

 夏四月。
 震興輪寺南門。

 六月。
 遣將軍竹旨等、領兵踐百濟加林城禾、遂與唐兵戰於石城、斬首五千三百級、獲百濟將軍二人、唐果毅六人。

 秋七月二十六日。
 大唐摠管薛仁貴使琳潤法師寄書曰、
 行軍摠管薛仁貴致書新羅王。
 淸風萬里、大海三千、天命有期、行遵此境。
 奉承機心稍動、窮武邊城、去由也之片言、失侯生之一諾。
 兄爲逆首、弟作忠臣、遠分花蕚之陰、空照相思之月。
 興言彼此、良增歎詠。
 先王開府、謀猷一國、展轉百城、西畏百濟之侵、北警高麗之寇。
 地方千里、數處爭鋒、蠶女不及桑時、耘人失其疇序。
 年將耳順、楡景日侵、不懼船海之危、遠渉陽侯之險、瀝心華境、頓䫙天門、具陳孤弱、明論侵擾、情之所露、聽不勝悲。
 太宗文皇帝、氣雄天下、神王宇宙、若盤古之九變、同巨靈之一掌、扶傾救弱、日不暇給。
 哀納先君、矜收所請、輕車駿馬、美衣上藥、一日之内、頻遇殊私。
 亦既承恩、對揚軍事、契同魚水、明於金石。
 鳳鑰千重、鶴關萬戸、留連酒德、讌笑金除、叅論兵馬。
 分期聲援、一朝大擧、水陸交鋒。
 于時、塞草分花、楡星上莢。
 駐蹕之戰、文帝親行、吊人恤隱、義之深也。
 既而、山海異形、日月廻薄、聖人下武、王亦承家。
 巖葛因依、聲塵共擧、洗兵刷馬、咸遵先志。
 數十年外、中國疲勞、帑藏時開、飛蒭日給。
 以蒼島之地、起黄圖之兵、貴於有益、貪於無用。
 豈不知止、恐失先君之信也。
 今強寇已淸、讎人喪國、士馬玉帛、王亦有之。
 當應心膂不移、中外相輔、銷鏑而化、虚室爲情、自然貽厥孫謀、以燕翼子、良史之讚、豈不休哉。
 今王去安然之基、厭守常之策、遠乖天命、近棄父言、侮暴天時、侵欺鄰好、一隅之地、僻左之陬、率戸徴兵、連年擧斧、孀姫輓粟、稚子屯田。
 守無所支、進不能拒。
 以得裨喪、以存補亡、大小不侔、逆順乖敍、亦由持彈而往、暗於枯井之危、捕蟬而前、不知黄雀之難、此王之不知量也。
 先王在日、早蒙天睠、審懷險詖之心、假以披誠之禮、從己私欲、貪天至功、苟希前惠、圖爲後逆、此先君之不長者也。
 必其誓河若帶、義分如霜、違君之命不忠、背父之心非孝、一身二名、何以自寧。
 王之父子、一朝振立、此並天情遠及、威力相持、方州連郡、遂爲盤錯。
 從此、遽蒙冊命、拜以稱臣。
 坐治經書、備詳詩禮、聞義不從、見善而輕、聽縱橫之説、煩耳目之神、忽高門之基、延鬼瞰之責。
 先君盛業、奉而異圖、内潰疑臣、外招強陣、豈爲智也。
 又高麗安勝、年尚幼冲、遺壑殘郛、生人減半、自懷去就之疑、匪堪襟帶之重。
 仁貴樓船、竟翼風帆、連旗巡於北岸、矜其舊日傷弓之羽、未忍加兵、恃爲外援、斯何謬也。
 皇帝德澤無涯、仁風遠洎、愛同日景、炤若春華。
 遠聞消息、悄然不信、爰命下臣、來觀由委。
 而王不能行人相問、牛酒犒師、遂便隱甲雀陂、藏兵江口、蚑行林薄、喘息萊丘。
 潛生自㭀之鋒、而無相持之氣。
 大軍未出、游兵具行、望海浮江、魚驚鳥竄。
 以此形況、人事可求、沉迷猖惑、幸而知止。
 夫擧大事者、不貪小利、杖高節者、寄以英奇。
 必其鸞鳳不馴、豺狼有顧、高將軍之漢騎、李謹行之蕃兵、呉、楚棹歌、幽并惡少、四面雲合、方舟而下、依險築戍、闢地耕田、此王之膏肓也。
 王若勞者歌、事屈而頓申、具論所由、明陳彼此。
 仁貴夙陪大駕、親承委寄、録狀聞奏、事必昭蘇、何苦怱怱、自相縈擾。
 嗚呼、昔爲忠義、今乃逆臣、恨始吉而終凶、怨本同而末異。
 風高氣切、葉落年悲、憑山遠望、有傷懷抱。
 王以機䎸淸明、風神爽秀、歸以流謙之義、存於順迪之心、血食依時、茅苴不易、占休納祐、王之策也。
 嚴鋒之間、行人來往、今遣王所部僧琳潤書、佇布一二。
 大王報書云。
 先王貞觀二十二年、入朝、面奉太宗文皇帝恩勅。
 朕今伐高麗、非有他故、憐伱新羅、攝乎兩國、毎被侵陵、靡有寧歳。
 山川土地、非我所貪、玉帛子女、是我所有。
 我平定兩國、平壤已南百濟土地、並乞伱新羅、永爲安逸。
 垂以計會、賜以軍期。
 新羅百姓、具聞恩勅、人人畜力、家家待用。
 大事未終、文帝先崩、今帝踐祚、復繼前恩、頻蒙慈造、有踰往日。
 兄弟及兒、懷金拖紫、榮寵之極、夐古未有。
 粉身碎骨、望盡驅馳之用、肝腦塗原、仰報萬分之一。
 至顯慶五年、聖上感先志之未終、成曩日之遺緖、泛舟命將、大發船兵。
 先王年衰力弱、不堪行軍、追感前恩、勉強至於界首、遣某領兵、應接大軍。
 東西唱和、水陸倶進、船兵纔入江口、陸軍已破大賊。
 兩軍倶到王都、共平一國。
 平定已後、先王遂共蘇大摠管平章、留漢兵一萬、新羅亦遣弟仁泰、領兵七千、同鎭熊津。
 大軍廻後、賊臣福信、起於江西、取集餘燼、圍逼府城、先破外柵、摠奪軍資、復攻府城、幾將陷沒。
 又於府城側近四處、作城圍守、於此、府城不得出入。
 某領兵往赴解圍、四面賊城、並皆打破、先救其危、復運粮食、遂使一萬漢兵、免虎吻之危難、留鎭餓軍、無易子而相食。
 至六年、福信徒黨漸多、侵取江東之地、熊津漢兵一千、往打賊徒、被賊摧破、一人不歸。
 自敗已來、熊津請兵、日夕相繼。
 新羅多有疫病、不可徴發兵馬、苦請難違、遂發兵衆、往圍周留城。
 賊知兵小、遂即來打、大損兵馬、失利而歸。
 南方諸城、一時摠叛、並屬福信、福信乘勝、復圍府城。
 因即熊津道斷、絶於鹽豉、即募健兒、偸道送鹽、救其乏困。
 至六月、先王薨、送葬纔訖、喪服未除、不能應赴、勅旨發兵北歸。
 含資道摠管劉德敏等至、奉勅遣新羅供運平壤軍粮。
 此時、熊津使人來、具陳府城孤危。
 劉摠管與某平章自云、
 若先送平壤軍粮、即恐熊津道斷、熊津若其道斷、留鎭漢兵、即入賊手。
 劉摠管遂共某相隨、先打甕山城。一云瓮山城。
 既拔甕山、仍於熊津造城、開通熊津道路。
 至十二月、熊津粮盡。
先運熊津、恐違勅旨、若送平壤、即恐熊津絶粮。
 所以差遣老弱、運送熊津、強健精兵、擬向平壤。
 熊津送粮、路上逢雪、人馬死盡、百不一歸。
 至龍朔二年正月、劉摠管 共 新羅兩河道摠管金庾信 等、同送平壤軍粮。
 當時陰雨連月、風雪極寒、人馬凍死、所將兵粮、不能勝致。
 平壤大軍、又欲歸還。
 新羅兵馬、粮盡亦廻。
 兵士饑寒、手足凍瘃、路上死者、不可勝數。
 行至瓠瀘河、高麗兵馬、尋後來趂、岸上列陣。
 新羅兵士、疲乏日久、恐賊遠趂、賊未渡河、先渡交刃、前鋒暫交、賊徒瓦解、遂收兵歸來。
 此兵到家、未經一月、熊津府城、頻索種子、前後所送、數萬餘斛。
 南運熊津、北供平壤、蕞小新羅、分供兩所、人力疲極、牛馬死盡、田作失時、年穀不熟、所貯倉粮、漕運並盡、新羅百姓、草根猶自不足、熊津漢兵、粮食有餘。
又留鎭漢兵、離家日久、衣裳破壞、身無全褐。
 新羅勸課百姓、送給時服。
 都護劉仁願、遠鎭孤城、四面皆賊、恒被百濟侵圍、常蒙新羅解救。
 一萬漢兵、四年衣食新羅、仁願已下、兵士已上、皮骨雖生漢地、血肉倶是新羅。
 國家恩澤、雖復無涯、新羅效忠、亦足矜憫。
 至龍朔三年、摠管孫仁師領兵來救府城、新羅兵馬、亦發同征、行至周留城下。
 此時、倭國船兵、來助百濟、倭船千艘、停在白沙、百濟精騎、岸上守船。
 新羅驍騎、爲漢前鋒、先破岸陣、周留失膽、遂即降下。
 南方已定、廻軍北伐、任存一城、執迷不降。
 兩軍併力、共打一城、固守拒捍、不能打得。
 新羅即欲廻還、杜大夫云、
 準勅、既平已後、共相盟會、任存一城、雖未降下、即可共相盟誓。
 新羅以爲。
 準勅、旣平、已後、共相盟會、任存未降、不可以爲、旣平、又且百濟、姦詐百端、反覆不恒、今雖共相盟會、於後恐有噬臍之患、奏請停盟。
 至麟德元年、復降嚴勅、責不盟誓、即遣人於熊嶺、築壇共相盟會。
 仍於盟處、遂爲兩界。
 盟會之事、雖非所願、不敢違勅。
 又於就利山築壇、對勅使劉仁願、歃血相盟、山河爲誓、畫界立封、永爲疆界、百姓居住、各營産業。
 至乾封二年、聞大摠管英國公征遼、某往漢城州、遣兵集於界首。
 新羅兵馬、不可獨入、先遣細作三度、船相次發遣、覘候大軍。
 細作廻來、並云、
 大軍未到平壤。
 且打高麗七重城、開通道路、佇待大軍來至。
 其城垂垂欲破、英公使人江深來云。
 奉大摠管處分、新羅兵馬不須打城、早赴平壤、即給兵粮。
 遣令赴會、行至水谷城、聞大軍已廻、新羅兵馬、遂即抽來。
 至乾封三年、遣大監金寶嘉入海、取英公進止。
 奉處分、新羅兵馬、赴集平壤。
 至五月、劉右相來、發新羅兵馬、同赴平壤。
 某亦往漢城州、檢校兵馬。
 此時、蕃、漢諸軍、摠集虵水、男建出兵、欲決一戰。
 新羅兵馬、獨爲前鋒、先破大陣、平壤城中、挫鋒縮氣。
 於後、英公更取新羅驍騎五百人、先入城門、遂破平壤、克成大功。
 於此新羅兵士並云、
 自征伐已經九年、人力殫盡、終始平兩國、累代長望、今日乃成、必當國蒙盡忠之恩、人受効力之賞。
 英公漏云、
 新羅前失軍期、亦須計定。
 新羅兵士得聞此語、更增怕懼。
 又立功軍將、並録入朝、已到京下、即云、
 今新羅並無功。
 夫軍將歸來、百姓更加怕懼。
 又卑列之城、本是新羅、高麗打得三十餘年、新羅還得此城、移配百姓、置官守捉、又取此城、還與高麗。
且新羅自平百濟、迄定高麗、盡忠効力、不負國家、未知何罪、一朝遺棄。
 雖有如此寃枉、終無反叛之心。
至總章元年、百濟於盟會處、移封易標、侵取田地、詃我奴婢、誘我百姓、隱藏内地、頻從索取、至竟不還。
 又通消息云、
 國家修理船艘、外託征伐倭國、其實欲打新羅。
 百姓聞之、驚懼不安。
 又將百濟婦女、嫁與新羅漢城都督朴都儒、同謀合計、偸取新羅兵器、襲打一州之地、賴得事覺、即斬都儒、所謀不成。
 至咸亨元年六月、高麗謀叛、摠殺漢官。
新羅即欲發兵、先報熊津云、
 高麗既叛、不可不伐、彼此倶是帝臣、理須同討凶賊、發兵之事、須有平章、請遣官人來此、共相計會。
 百濟司馬禰軍來此、遂共平章云、
 發兵已後、即恐彼此相疑、宜令兩處官人、互相交質。
 即遣金儒敦及府城百濟主簿首彌、長貴等、向府平論交質之事。
 百濟雖許交質、城中仍集兵馬、到彼城下、夜即來打。
 至七月、入朝使金欽純等至、將畫界地、案圖披檢百濟舊地、摠令割還。
 黄河未帶、太山未礪、三四年間、一與一奪、新羅百姓、皆失本望、並云、
 新羅、百濟累代深讎、今見百濟形況、別當自立一國、百年已後、子孫必見呑滅。
 新羅既是國家之州、不可分爲兩國。
 願爲一家、長無後患。
 去年九月、具録事狀、發使奏聞、被漂却來。
 更發遣使、亦不能達。
 於後、風寒浪急、未及聞奏。
 百濟構架奏云、
 新羅反叛。
 新羅前失貴臣之志、後被百濟之譖、進退見咎、未申忠欵。
 似是之讒、日經聖聽、不貳之忠、曾無一達。
 使人琳潤至辱書、仰承摠管、犯冒風波、遠來海外、理須發使郊迎、致其牛酒、遠居異城、未獲致禮、時闕迎接、請不爲怪。
 披讀摠管來書、專以新羅已爲叛逆、既非本心、惕然驚懼。
 數自功夫、恐被斯辱之譏、緘口受責、亦入不弔之數、今略陳寃枉、具録無叛。
 國家不降一介之使、垂問元由。
 即遣數萬之衆、傾覆巢穴、樓船滿於滄海、艫舳連於江口、數彼熊津、伐此新羅。
 嗚呼。
 兩國未定平、蒙指蹤之驅馳、野獸今盡、反見烹宰之侵逼。
 賊殘百濟、反蒙雍齒之賞、殉漢新羅、已見丁公之誅。
 大陽之曜、雖不廻光、葵藿本心、猶懷向日。
 摠管禀英雄之秀氣、抱將相之高材、七德兼備、九流渉獵、恭行天罰、濫加非罪。
 天兵未出、先問元由。
 縁此來書、敢陳不叛、請摠管審自商量、具狀申奏。
 林州大都督左衛大將軍開府儀同三司上柱國新羅王金法敏白。
 置所夫里州、以阿飡眞王爲都督。

 九月。
 唐將軍高侃等、率蕃兵四萬到平壤、深溝高壘侵帶方。

 冬十月六日。
 撃唐漕船七十餘艘、捉郞將鉗耳大侯、士卒百餘人。
 其淪沒死者、不可勝數。
 級飡當千功第一、授位沙飡。

 十二年、春正月。
 王遣將攻百濟古省城、克之。

 二月。
 攻百濟加林城、不克。

 秋七月。
 唐將高侃[5]率兵一萬、李謹行率兵三萬、一時至平壤、作八營留屯。

 八月。
 攻韓始城、馬邑城、克之、進兵距白水城五百許歩作營、我兵與高句麗兵逆戰、斬首數千級。
 高侃等退、追至石門戰之、我兵敗績、大阿飡曉川、沙飡義文、山世、阿飡能申、豆善、一吉飡安那含、良臣等死之。
 築漢山州晝長城、周四千三百六十歩。

 九月。
 彗星七出北方。
 王以向者百濟往訴於唐、請兵侵我、事勢急迫、不獲申奏、出兵討之。
 由是、獲罪大朝、遂遣級飡原川、奈麻邊山、及所留兵船郞將鉗耳大侯、萊州司馬王藝、本烈州長史王益、熊州都督府司馬禰軍、曾山司馬法聰、軍士一百七十人、上表乞罪曰、
 臣某死罪謹言、昔臣危急、事若倒懸、遠蒙拯救、得免屠滅。
 粉身糜骨、未足上報鴻恩、碎首灰塵、何能仰酬慈造。
 然深讐百濟、逼近臣蕃、告引天兵、滅臣雪恥。
 臣忙破滅、自欲求存、枉被凶逆之名、遂入難赦之罪。
 臣恐事意未申、先從刑戮、生爲逆命之臣、死爲背恩之鬼、謹録事狀、冒死奏聞、伏願少垂神聽、炤審元由。
 臣前代已來、朝貢不絶、近爲百濟、再虧職貢、遂使聖朝出言、命將討臣之罪、死有餘刑。
 南山之竹、不足書臣之罪、褒斜之林、未足作臣之械。
 瀦池宗社、屠裂臣身、事聽勅裁、甘心受戮。
 臣櫬轝在側、泥首未乾、泣血待朝、伏聽刑命。
 伏惟、皇帝陛下、明同日月、容光並蒙曲炤、德合乾坤、動植咸被亭毒、好生之德、遠被昆蟲、惡殺之仁、爰流翔泳。
 儻降服捨之宥、賜全腰領之恩、雖死之年、猶生之日。
 非所希冀、敢陳所懷、不勝伏劒之志。
 謹遣原川等、拜表謝罪、伏聽勅旨。
 某頓首頓首、死罪死罪。
 兼進貢銀三萬三千五百分、銅三萬三千分、針四百枚、牛黄百二十分、金百二十分、四十升綜布六匹、三十升布六十匹。
 是歳、穀貴、人飢。

 十三年、春正月。
 大星隕皇龍寺、在城中間。
 拜強首爲沙飡、歳賜租二百石。

 二月。
 增築西兄山城。

 夏六月。
 虎入大宮庭、殺之。

 秋七月一日。
 庾信卒。
 阿飡大吐謀叛付唐、事泄伏誅、妻孥充賤。

 八月。
 以波珍飡天光爲中侍。
增築沙熱山城。

 九月。
 築國原城、古薍長城、北兄山城、召文城、耳山城、首若州走壤城、一名迭巖城、達含郡主岑城、居烈州萬興寺山城、歃良州骨爭峴城。
 王遣大阿飡徹川等、領兵船一百艘、鎭西海。
 唐兵與靺鞨、契丹兵來侵北邊、凡九戰、我兵克之、斬首二千餘級。
 唐兵溺瓠瀘、王逢二河、死者不可勝計。

 冬。
 唐兵攻高句麗牛岑城、降之。
 契丹、靺鞨兵攻大楊城、童子城、滅之。
 始置外司正、州二人、郡一人。
初、太宗王滅百濟、罷戍兵、至是復置。

 十四年、春正月。
 入唐宿衛大奈麻德福傳、學曆術還、改用新曆法。
 王納高句麗叛衆。
 又據百濟故地、使人守之。
 唐高宗大怒、詔削王官爵、王弟右驍衛員外大將軍臨海郡公仁問在京師、立以爲新羅王、使歸國、以左庶子同中書門下三品劉仁軌、爲雞林道大摠管、衛尉卿李弼、右領軍大將軍李謹行副之、發兵來討。

 二月。
 宮内穿池造山、種花草、養珍禽奇獸。

 秋七月。
 大風毀皇龍寺佛殿。

 八月。
 大閲於西兄山下。

 九月。
 命義安法師爲大書省、封安勝爲報德王。

 十年。
 封安勝高句麗王、今再封、不知報德之言、若歸命等耶、或地名耶。
 幸靈廟寺前路閲兵、觀阿飡薛秀眞六陣兵法。

 十五年、春正月。
 以銅鑄百司及州郡印、頒之。

 二月。
 劉仁軌破我兵於七重城。
 仁軌引兵還、詔以李謹行爲安東鎭撫大使、以經略之。
 王乃遣使、入貢且謝罪、帝赦之、復王官爵。
 金仁問中路而還、改封臨海郡公。
 然多取百濟地、遂抵高句麗南境爲州郡。
 聞唐兵與契丹、靺鞨兵來侵、出九軍、待之。

 秋九月。
 薛仁貴以宿衛學生風訓之父金眞珠、伏誅於本國、引風訓爲鄕導、來攻泉城。
 我將軍文訓等、逆戰勝之、斬首一千四百級、取兵船四十艘。
 仁貴解圍退走、得戰馬一千匹。

 二十九日。
 李謹行率兵二十萬、屯買肖城、我軍撃走之、得戰馬三萬三百八十匹、其餘兵仗、稱是。
 遣使入唐貢方物。
 縁安北河設關城、又築鐵關城。
 靺鞨入阿達城劫掠、城主素那逆戰死之。
 唐兵與契丹、靺鞨兵來、圍七重城、不克。
 小守儒冬死之。
 靺鞨又圍赤木城、滅之、縣令脱起率百姓、拒之、力竭倶死。
 唐兵又圍石峴城、拔之、縣令仙伯、悉毛等、力戰死之。
 又我兵與唐兵大小十八戰、皆勝之、斬首六千四十七級、得戰馬二百匹。

 十六年、春二月。
 高僧義相奉旨、創浮石寺。

 秋七月。
 彗星出北河、積水之間、長六七許歩。
 唐兵來攻道臨城、拔之、縣令居尸知死之、作壤宮。

 冬十一月。
 沙飡施得領船兵、與薛仁貴戰於所夫里州伎伐浦、敗績、又進大小二十二戰、克之、斬首四千餘級。
 宰相陳純乞致仕、不允、賜几杖。

 十七年、春三月。
 觀射於講武殿南門。
 始置左司祿館。
 所夫里州獻白鷹。

 十八年、春正月。
 置船府令一員、掌船楫事。
 加左右理方府卿各一員。
 置北原小京、以大阿飡呉起守之。

 三月。
 拜大阿飡春長爲中侍。

 夏四月。
 阿天訓爲武珍州都督。

 五月。
 北原獻異鳥、羽翮有文、脛有毛。

 十九年、春正月。
 中侍春長病免、舒弗邯天存爲中侍。

 二月。
 發使略耽羅國。
 重修宮闕、頗極壯麗。

 夏四月。
 熒惑守羽林。

 六月。
 太白入月、流星犯參大星。

 秋八月。
 太白入月。
 角干天存卒。
 創造東宮、始定内外諸門額號。
 四天王寺成。
 增築南山城。

 二十年、春二月。
 拜伊飡金軍官爲上大等。

 三月。
 以金銀器及雜綵百段、賜報德王安勝、遂以王妹妻之。一云迎湌金義官之女也。
 下敎書曰、
 人倫之本、夫婦攸先。
 王化之基、繼嗣爲主。
 王鵲巢位曠、雞鳴在心。
 不可久空内輔之儀、永闕起家之業。
 今良辰吉日、率順舊章、以寡人妹女爲伉儷、王宜共敦心義、式奉宗祧、克茂子孫、永豐盤石、豈不盛歟、豈不美歟。

 夏五月。
 高句麗王使大將軍延武等、上表曰、
 臣安勝言、大阿飡金官長至、奉宣敎旨、并賜敎書、以外生公、爲下邑内主、仍以四月十五日至此、喜懼交懷、罔知攸寘。
 竊以帝女降嬀、王姫適齊、本揚聖德、匪關凡才。
 臣本庸流、行能無算、幸逢昌運、沐浴聖化、毎荷殊澤、欲報無堦。
 重蒙天寵、降此姻親、遂即穠華表慶、肅雝成德。
 吉月令辰、言歸弊館、億載難遇、一朝獲申、事非望始、喜出意表。
 豈惟一二父兄、實受其賜。
 其自先祖已下、寔寵喜之。
 臣未蒙敎旨、不敢直朝、無任悅豫之至、謹遣臣大將軍太大兄延武、奉表以聞。
 加耶郡置金官小京。

 二十一年、春正月朔。
 終日黑暗如夜。
 沙飡武仙率精兵三千、以戍比列忽。
 置右司祿館。

 夏五月、地震。
 流星犯參大星。

 六月。
 天狗落坤方。
 王欲新京城、問浮屠義相、對曰、
 雖在草野茅屋、行正道、則福業長、苟爲不然、雖勞人作城、亦無所益。
 王乃止役。

 秋七月一日。
 王薨、諡曰文武。
 羣臣以遺言葬東海口大石上、俗傳、王化爲龍、仍指其石爲大王石。
 遺詔曰、
 寡人運屬紛紜、時當爭戰。
西征北討、克定疆封、伐叛招携、聿寧遐邇。
 上慰宗祧之遺顧、下報父子之宿寃、追賞遍於存亡、䟽爵均於内外。
 鑄兵戈爲農器、驅黎元於仁壽、薄賦省徭、家給人足、民間安堵、域内無虞。
 倉廩積於丘山、囹圄成於茂草、可謂無愧於幽顯、無負於士人。
 自犯冒風霜、遂成痼疾、憂勞政敎、更結沉痾。
 運往名存、古今一撥、奄歸大夜、何有恨焉。
 太子早蘊離輝、久居震位、上從羣宰、下至庶寮、送往之義勿違、事居之禮莫闕。
 宗廟之主、不可暫空、太子即於柩前、嗣立王位。
 且山谷遷貿、人代推移、呉王北山之墳、詎見金鳧之彩、魏主西陵之望、唯聞銅雀之名。
 昔日萬機之英、終成一封之土、樵牧歌其上、狐兎穴其旁。
 徒費資財、貽譏簡牘、空勞人力、莫濟幽魂。
 靜而思之、傷痛無已、如此之類、非所樂焉。
 屬纊之後十日、便於庫門外庭、依西國之式、以火燒葬。
 服輕重、自有常科、喪制度、務從儉約。
 其邊城鎭遏、及州縣課税、於事非要者、並宜量廢、律令格式、有不便者、即便改張、布告遠近。
 令知此意、主者施行。

 三國史記、第七卷



≪書き下し文≫
 十一年、春正月。
 拜して伊飡の禮元を中侍と爲す。
 兵を發して百濟を侵し、熊津の南に戰ふ。
 幢主の夫果、之れに死す。
 靺鞨の兵來たり舌口城を圍するも克たず、將に退かむとするとき、兵を出し之れを撃ち、斬殺すること三百餘人。
 王は唐兵の百濟を捄(もと)めて來たらむと欲するを聞き、大阿飡の眞功、阿飡の■■を遣り、■■兵(?)甕浦を守らせしむ。
 白魚躍り入り■■■■■■■■■■一寸。

 夏四月。
 興輪寺の南門を震はす。

 六月。
 將軍竹旨等を遣り、兵を領めせしめ百濟の加林城の禾を踐み、遂に唐兵と石城にて戰ひ、五千三百級を斬首し、百濟の將軍二人、唐の果毅六人を獲る。

 秋七月二十六日。
 大唐摠管の薛仁貴、琳潤法師をして書を寄こせしめて曰く、
 行軍摠管の薛仁貴、書を新羅王に致す。
 淸風萬里、大海三千、天命に期有り、此の境に行遵す。
 機心の稍動、武を邊城に窮め、由也の片言を去り、侯生の一諾を失すと奉承す。
 兄を逆首と爲し、弟を忠臣と作すは、花蕚の陰を遠分し、相思の月を空照す。
 言は彼此に興り、良は歎詠を增さむ。
 先王は府を開き、一國を謀猷し、百城を展轉し、西に百濟の侵を畏れ、北に高麗の寇を警す。
 地は方千里、數處に爭鋒し、蠶女は桑時に及ばず、耘人は其の疇序を失ふ。
 年將に耳順せむとし、楡景は日に侵たり、船海の危を懼れず、陽侯の險、華境に瀝心し、天門に頓䫙(ぬかづ)き、侵擾(おかしみだ)されて情の露す所を明らかに論ずれば、聽けば悲しみに勝へず。
 太宗文皇帝、天下に氣雄し、宇宙に神王たること、盤古の九變の若く、巨靈の一掌に同じ、傾を扶(たす)け弱きを救ひ、日に暇給なり。
 哀納先君、請ふ所を矜收(うけい)れ、輕車駿馬、美衣上藥、一日の内、頻(しきり)に殊私(ことなり)に遇す。
 亦た既に恩を承け、軍事を對揚し、契ること魚水に同じくし、金石に明らかにす。
 鳳は千重に鑰(かぎ)をかけ、鶴は萬の戸を關(か)け、酒德に留連し、讌笑金除、兵馬を叅論す。
 分期して聲援し、一朝に大擧し、水陸交(こもごも)鋒をす。
 時に于いて、塞の草は花と分かれ、楡星は上莢す。
 駐蹕の戰、文帝親(みずか)ら行き、人を吊(とむら)ひ恤隱するは、義の深なり。
 既にして、山海は形を異し、日月は廻薄し、聖人は武に下り、王亦た家を承く。
 巖葛は因依し、聲塵共に擧げ、兵を洗ひ馬を刷るは、咸(みな)先志に遵(したが)ふ。
 數十年の外、中國は疲勞し、帑藏は時に開き、蒭に日給を飛ばす。
 蒼島の地を以て、黄圖の兵を起こし、有益に貴し、無用に貪す。
 豈に止まることを知らむは、先君の信を失することを恐れればならむや。
 今の強寇已に淸らかたり、人の讎(あだ)は國を喪ぼし、士馬玉帛、王亦た之れ有らむ。
 當に心に應じんとするも膂は移らず、中外相ひ輔け、鏑を銷(と)かして化し、虚室を情と爲さば、自ずから然りて厥の孫に謀を貽せしめ、以て子に燕翼せしむれば、良史の讚、豈に休まらざるかな。
 今の王は安然の基を去り、守常の策を厭ひ、遠くは天命に乖り、近きは父の言を棄て、天の時を侮暴し、鄰好を侵欺し、一隅の地、僻左の陬、戸を率いて兵を徴し、連年に斧を擧げ、孀姫を粟に輓(もち)ひ、稚子に屯田せしむ。
 守は支える所無く、進は拒むに能はず。
 得を以て喪ぼせしめ、存を以て亡を補ひ、大小して侔(そろ)ふことなく、逆順して敍に乖り、亦た彈を持つに由りて往きて、枯井の危に暗し、蟬を捕へて前(すす)みて、黄雀の難を知らず、此れ王の量るを知らざるなり。
 先王の在りし日、早くに天睠を蒙るも、險詖の心を懷くを審らかにし、假るに披誠の禮を以てするも、己の私欲に從ひ、天を貪り功に至れば、苟しくも前惠を希ひ、後逆を爲さむと圖り、此れ先君の長ぜざる者なり。
 必ず其の河に誓ふこと帶の若し、義の分くること霜の如し、君の命に違ふは不忠、父の心に背くは孝に非らず、一身二名、何を以て自ら寧せむか。
 王の父子、一朝に振るい立ち、此れ並びに天情遠く及び、威力相ひ持し、州を方べ郡を連ね、遂に盤錯と爲る。
 此れに從ひ、冊命を遽蒙し、拜して以て臣を稱す。
 經書を坐治し、詩禮を備詳すれども、義を聞きて從はず、善を見て輕ずるは、縱橫の説を聽き、耳目の神を煩はず、高門の基を忽(ゆる)がせ、鬼瞰の責を延ぶ。
 先君の盛業、奉じて圖を異し、内に疑臣を潰し、外に強陣を招くは、豈に智と爲せむや。
 又た高麗の安勝、年は尚ほ幼冲、壑を遺し郛を殘し、生人は減半し、自ら去就の疑に懷き、襟帶の重に堪へるに匪ず。
 仁貴の樓船、風帆に翼するを竟(お)へ、旗を連ねて北岸を巡るも、其の舊日の傷弓の羽を矜(あはれ)み、未だ兵を加ふるを忍びず、恃して外援を爲し、斯れ何の謬(あやまり)ならむや。
 皇帝の德澤は涯無く、仁風は遠く洎ぎ、愛は日景に同じ、炤(かがや)かしきこと春華の若し。
 遠く消息を聞けば、悄然として信ぜず、爰に下臣に命じ、觀に來たりて委に由らせしむ。
 而れども王は人に行かせて相ひ問へども、牛酒犒師に能はず、遂に便ち甲を雀陂に隱し、兵を江口に藏し、林薄に蚑行し、萊丘に喘息せり。
 潛かに自㭀の鋒を生じ、而りて相持の氣を無からしむ。
 大軍未だ出ださざるも、游兵具行せしめ、海を望み江を浮かび、魚驚きて鳥竄(のが)る。
 此の形況を以て、人事は求むる可くも、沉迷猖惑し、幸(さひはひ)にして止むるを知る。
 夫れ大事を擧ぐる者、小利を貪らず、杖を高く節する者、英奇を以て寄る。
 必ず其の鸞鳳馴(なじ)まず、豺狼顧(なつく)有らば、高將軍の漢騎、李謹行の蕃兵、呉楚の棹歌、幽并の惡少、四面雲合し、舟を方(むか)はせて下らしめ、險に依り戍(まもり)を築き、地を闢き田を耕さば、此れ王の膏肓なり。
 王は勞者の歌の若く、事屈して頓申し、具(つぶさ)に由る所を論じ、彼の此に明陳すべし。
 仁貴は夙(つつし)みて大駕に陪(したが)ひ、親(みずか)ら委寄を承け、狀を録して聞奏し、事は必ず昭蘇す、何を苦しみ怱怱とし、自ら相ひ縈擾せむ。
 嗚呼、昔は忠義を爲すも、今は乃ち逆臣たり、吉に始まり凶に終はるを恨み、本を同じくして末を異するを怨む。
 風は高じ氣は切し、葉は落ちて年は悲し、山に憑き遠望すれば、傷の懷抱を有らしむ。
 王は機䎸淸明、風神爽秀を以て、歸するに流謙の義を以てし、順迪の心に存し、血食は時に依り、茅苴は易へず、占休納祐は、王の策なり。
 嚴鋒の間、人を行かせ來往せしめ、今遣王所部僧琳潤書す、佇布一二。
 大王は書を報ひて云ふ。
 先王貞觀二十二年、入朝し、面じて太宗文皇帝の恩勅を奉る。
 朕の今高麗を伐つは、他の故有るに非らず、伱(わ)が新羅を憐み、兩國に攝し、毎(つね)に侵陵を被り、寧歳を有らしむること靡し。
 山川土地、我の貪る所に非ず、玉帛子女、是れ我が有する所なり。
 我は兩國を平定し、平壤已南の百濟の土地、並びに伱(わ)が新羅に、永らく安逸を爲さむことを乞へり。
 垂るに計會を以てし、賜るに軍期を以てす。
 新羅の百姓、具(つぶさ)に恩勅を聞き、人人は力を畜(やしな)ひ、家家は用を待つ。
 大事未だ終らず、文帝の先崩、今帝の踐祚、前恩を復繼し、頻(しきり)に慈造(うみそだてる)を蒙ること、往日に踰(わた)る有り。
 兄弟及び兒、金を懷き紫を拖(ひ)き、榮寵の極、夐(はる)か古(いにしえ)にも未だ有らむ。
 身を粉にし骨を碎き、驅馳の用を盡し、肝腦を原に塗れさせ、萬分の一を仰報せむと望む。
 顯慶五年に至り、聖上は先志の未だ終らざるに感じ、曩日の遺緖を成し、舟を泛し將に命じ、大いに船兵を發す。
 先王は年衰へ力弱まり、行軍に堪へざるも、前恩に追感し、勉強して界首に至り、某を遣り兵を領めせしめ、大軍に應接す。
 東西は唱和し、水陸倶に進み、船兵纔(にはか)に江口に入るも、陸軍已に大賊を破る。
 兩軍倶に王都に到り、共に一國を平ぐ。
 平定已後、先王遂に蘇大摠管平章と共に、漢兵一萬を留め、新羅亦た弟の仁泰を遣り、兵七千を領めせしめ、同じく熊津に鎭す。
 大軍の廻る後、賊臣の福信、江西に起こり、餘燼を取り集め、府城を圍ひ逼り、先に外柵を破り、軍資を摠奪し、府城を復た攻め、幾(いくばく)して將に陷沒せむとす。
 又た府城側近の四處に於いて、城を作り圍守し、此に於いて、府城は出入を得ず。
 某は兵を領め往きて赴き圍を解き、四面の賊城、並びに皆打ち破り、先に其の危を救ひ、復た粮食を運び、遂に一萬漢兵をして虎吻の危難より免(のが)せしめ、餓軍を留鎭し、子を易へて相食むこと無からしむ。
 六年に至り、福信の徒黨は漸多し、江東の地を侵し取り、熊津の漢兵一千、往きて賊徒を打つも、賊の摧破を被り、一人歸らず。
 敗より已來、熊津は兵を請ふこと日夕相繼ぐ。
 新羅は多く疫病有り、兵馬を徴發す可からず、苦請は違ひ難い、遂に兵衆を發し、周留城を圍みに往く。
 賊は兵の小なるを知らず、遂に即ち打ちに來たるも、大いに兵馬を損ひ、利を失して歸す。
 南方の諸城、一時は摠べて叛き、並びに福信に屬し、福信は勝ちに乘じ、復た府城を圍む。
 即ち熊津道斷ち、鹽豉に絶するに因り、即ち健兒を募り、道を偸し鹽を送り、其の乏困を救ふ。
 六月に至り、先王薨じ、送葬を纔(にはか)に訖へ、喪服未だ除かず、應赴に能はざるも、勅旨して兵を發し北歸せしむ。
 含資道摠管の劉德敏等至り、勅を奉り新羅をして平壤に軍粮を供運せしむ。
 此の時、熊津の使人來たり、府城の孤危を具陳す。
 劉摠管と某平章して自ら云く、
 若し先に平壤に軍粮を送らば、即ち熊津の道斷つるを恐る、熊津若し其の道斷つれば、漢兵の留鎭、即ち賊の手に入らむ、と。
 劉摠管遂に某と共に相ひ隨ひ、先ず甕山城を打つ。一に瓮山城と云ふ。
 既に甕山を拔き、仍りて熊津に於いて城を造り、熊津に道路を開通す。
 十二月に至り、熊津の粮盡き、先に熊津に運べば、勅旨に違ふを恐れ、若し平壤に送らば、即ち熊津の粮を絶ゆるを恐る。
 差して老弱を遣り、熊津に運送せしむる所以、強健精兵は平壤に向はむと擬す。
 熊津の送粮、路上に雪に逢ひ、人馬死に盡し、百に歸するは一もなし。
 龍朔二年正月に至り、劉摠管は新羅の兩河道摠管金庾信等と共に同じく平壤に軍粮を送る。
 當時、陰雨は月を連ね、風雪の極寒、人馬は凍え死に、將いる所の兵粮、致すに勝へること能はず。
 平壤の大軍、又た歸還を欲す。
 新羅兵馬、粮盡きて亦た廻る。
 兵士饑寒し、手足凍瘃し、路上に死せる者、數へるに勝へる可からず。
 行きて瓠瀘河に至り、高麗の兵馬、後に尋(つ)いで趂きに來、岸上に陣を列ぶ。
 新羅の兵士、疲乏して日は久し、賊の遠趂を恐るるも、賊の未だ河を渡らず、先に渡り刃を交え、前鋒暫し交うれば、賊徒は瓦解し、遂に兵を收め歸來す。
 此の兵は家に到り、未だ一月を經ず、熊津の府城、頻(しきり)に種子を索(もと)め、前後の送る所は數萬餘斛なり。
 南は熊津に運び、北は平壤に供し、蕞小の新羅、兩所に分供し、人力は疲を極め、牛馬は死に盡し、田作は時を失し、年穀は熟(みの)らず、倉に貯する所の粮、漕運して並び盡き、新羅の百姓、草根猶ほ自らに足らざるも、熊津の漢兵、粮食に餘有り。
 又た漢兵は留鎭し、家から離れて日は久し、衣裳は破壞し、身に全褐無し。
 新羅は百姓に勸課し、時服を送給す。
 都護の劉仁願、遠く孤城に鎭し、四面皆賊、恒に百濟の侵圍を被り、常に新羅の解救を蒙る。
 一萬の漢兵、四年新羅に衣食し、仁願已下、兵士已上、皮骨は漢地に生まるると雖も、血肉は倶に是れ新羅なり。
 國家の恩澤、復た涯無し雖も、新羅の效忠、亦た矜憫に足れり。
 龍朔三年に至り、摠管の孫仁師は兵を領めて府城を救ひに來たり、新羅の兵馬、亦た同征に發し、行きて周留城の下に至る。
 此の時、倭國の船兵、百濟を助けに來たりて、倭船千艘、白沙に在りて停まり、百濟の精騎、岸上に船を守る。
 新羅の驍騎、漢の前鋒を爲し、先に岸陣を破り、周留は膽を失し、遂に即ち降下す。
 南方已に定まり、軍を廻して北伐し、任存の一城、迷を執り降らず。
 兩軍は力を併せ、共に一城を打つも、守を固め拒捍し、打得に能はず。
 新羅即ち廻還を欲し、杜大夫云く、
 勅に準じ、既に平げて已後、共に相ひ盟會し、任存の一城、未だ降下せざると雖も、即ち相ひ盟誓を共にする可し。
 新羅以爲らく。
 勅に準らへ、旣に平ぎ、已後、相ひ盟會を共にするも、任存未だ降らざれば、不以て旣に平ぐと爲す可からず、又た且つ百濟、姦詐は百端(さまざま)、反覆は恒ならず、今は相ひ盟會を共にすると雖も、後に於いて噬臍の患有るを恐れ、停盟を奏請す、と。
 麟德元年に至り、復た嚴勅を降し、盟誓せざるを責め、即ち人を熊嶺に遣り、壇を築き相ひ盟會を共にす。
 盟の處に仍り、遂に兩界を爲す。
 盟會の事、願ふ所に非ずと雖も、勅に違ふこと敢へてせず。
 又た就利山に於いて壇を築き、對勅して劉仁願を使し、血を歃り相ひ盟じ、山河に誓を爲し、界を畫し封を立て、永らく疆界を爲し、百姓の居住、各(おのおの)産業を營む。
 乾封二年に至り、大摠管の英國公の遼を征するを聞き、某は漢城州に往き、兵を遣り界首に集めせしむ。
 新羅の兵馬、獨り入る可からず、先ず細作を三度遣り、船は相ひ次ぎ發遣し、大軍を覘候(ひそかにうかが)ふ。
 細作は廻來し、並びに云く、
 大軍未だ平壤に到らず。
 且も高麗の七重城を打ち、道路を開通し、大軍の來至を佇待す。
 其の城垂垂と破を欲するも、英公の使人の江深來たりて云く。
 大摠管の處分を奉り、新羅兵馬は城を打つ須からず、早く平壤に赴き、即ち兵粮を給へ。
 遣令して會に赴かせしめ、行きて水谷城に至れば、大軍の已に廻るを聞き、新羅の兵馬、遂に即ち抽來せり。
 乾封三年に至り、大監の金寶嘉を遣り海に入らしめ、英公の進止を取る。
 處分を奉り、新羅の兵馬、平壤に赴集せしむ。
 五月に至り、劉右相來たり、新羅の兵馬を發し、同じく平壤に赴かせしむ。
 某は亦た漢城州に往き、兵馬を檢校す。
 此の時、蕃漢の諸軍、虵水に摠集し、男建は兵を出だし、一戰に決さむと欲す。
 新羅の兵馬、獨り前鋒を爲し、先に大陣を破り、平壤の城中、鋒を挫き氣を縮す。
 後に於いて、英公は更に新羅の驍騎五百人を取り、先に城門に入り、遂に平壤を破り、克ちて大功を成す。
 此に於いて新羅の兵士並びて云く、
 征伐より已に九年を經、人力殫(ことごと)く盡し、兩國の平するに終始し、累代の長望は今日乃ち成り、必ず當國は盡忠の恩を蒙り、人は効力の賞を受けむ、と。
 英公漏れ云く、
 新羅は前に軍期を失し、亦た須べからく定を計るべし、と。
 新羅の兵士は此の語を聞くを得、更に怕懼を增す。
 又た功立の軍將、並びに入朝を録し、已に京下に到るも、即ち云く、
 今の新羅、功無きに並ぶ、と。
 夫の軍將歸來すれば、百姓は更に怕懼を加ふ。
 又た卑列の城、本は是れ新羅なるも、高麗の打得すること三十餘年、新羅は此の城を還得し、百姓を移配し、官を置き守捉するも、又た此の城を取り、高麗に還與す。
 且つ新羅は百濟を平ぐより、高麗を定むる迄、忠を盡し力を効し、國家に負(そむ)くことなく、未だ何の罪をか知らず、一朝にして遺棄す。
 此の如き寃枉(ぬれぎぬ)有ると雖も、終に反叛の心無し。
 總章元年に至り、百濟は盟會の處に於いて、封を移し標を易へ、田地を侵取し、我が奴婢を詃(あざむ)き、我が百姓を誘ひ、内地に隱藏し、頻(しきり)に索取を從へ、竟(つひ)に還さざるに至る。
 又た通消息云く、
 國家は船艘を修理し、外に倭國を征伐することを託するも、其の實は新羅を打たむと欲す、と。
 百姓之れを聞き、驚懼して安ぜず。
 又た將に百濟婦女、新羅漢城都督朴都儒と嫁がむとし、同じく謀り計を合はせ、新羅の兵器を偸取し、一州の地を襲ひ打たむとするも、事覺するを得るに賴り、即ち都儒を斬り、謀る所成らず。
 咸亨元年六月に至り、高麗謀叛し、漢官を摠て殺す。
 新羅即ち發兵を欲し、先ず熊津に報じて云く、
 高麗既に叛き、伐せざる可からず、彼此倶に是れ帝臣なり、理は須べからく凶賊を討ち、兵を發する事を同じくし、須べからく平章有らば、官人を遣り此に來たらしめ、相ひ計會を共にするを請ふべし、と。
 百濟司馬の禰軍此に來たり、遂に平章を共にして云く、
 兵を發して已後、即ち彼の此に相ひ疑ふを恐れ、宜しく兩處の官人をして、互相に質を交わすべし、と。
 即ち金儒敦及び府城百濟主簿の首彌、長貴等を遣り、府に向かはせ交質の事を平論す。
 百濟は質を交えるを許すと雖も、城中は兵馬を集めるに仍り、彼の城下に到り、夜に即ち打ちに來たる。
 七月に至り、入朝使の金欽純等至り、將に界地を畫らむとし、案圖を百濟の舊地に披檢し、摠は割還せしむ。
 黄河未帶、太山未礪、三四年間、一與一奪、新羅の百姓、皆は本望を失し、並びに云く、
 新羅、百濟は累代の深讎、今百濟の形況を見れば、別當は自ら一國を立て、百年已後、子孫必ず呑滅を見(う)。
 新羅は既に是れ國家の州なり、分けて兩國を爲す可からず。
 願はくば一家を爲し、長らく後患を無からむ、と。
 去年九月、具(つぶさ)に事狀を録し、使を發して奏聞すれども、漂を被り來を却す。
 更に遣使を發すれども、亦た達するに能はず。
 後に於いて、風寒浪急、未だ聞奏に及ばず。
 百濟は架を構へて奏じて云く、
 新羅反叛す、と。
 新羅は前に貴臣の志を失し、後に百濟の譖を被り、進退は咎を見、未だ忠欵を申さず。
 似是の讒、日に聖聽を經るも、不貳の忠、曾て一達無し。
 使人の琳潤は辱書を至らしめ、摠管を仰承し、風波を犯冒し、海外に遠來し、理して須(ま)ち使を發して郊迎し、其の牛酒を致し、異城に遠居し、未だ禮を致すを獲ず、時に迎接を闕くも、怪を爲さざるを請へり。
 摠管の來書を披讀すれば、專ら新羅の已に叛逆を爲すを以てし、既に本心に非ず、惕然として驚懼す。
 數自功夫、斯辱の譏を被り、緘口受責し、亦た不弔の數に入るを恐れ、今寃枉(ぬれぎぬ)を略陳し、無叛を具録す。
 國家は一介の使を降し、元由を垂問するをせず。
 即ち數萬の衆を遣り、巢穴を傾覆せしめ、樓船を滄海に滿たし、艫舳を江口に連らね、彼の熊津を數へ、此新羅を伐たむ。
 嗚呼、兩國未だ定平せず、指蹤の驅馳を蒙り、野獸今盡きぬも、反りて烹宰の侵逼を見(う)く。
 賊殘百濟、反りて雍齒の賞を蒙り、殉漢の新羅、已に丁公の誅を見(う)く。
 大陽の曜、光を廻さずと雖も、葵藿本心、猶ほ懷は日に向かひけり。
 摠管は英雄の秀氣を禀(う)け、將相の高材を抱き、七德兼備し、九流渉獵し、恭しく天罰を行ふも、濫りに罪に非ざるを加ふ。
 天兵は未だ出ださず、先ず元由を問ふ。
 此の來書に縁れども、敢へて不叛を陳べざれば、摠管自らの商量を審にし、狀を具べ申奏せむと請ふ。
 林州大都督左衛大將軍開府儀同三司上柱國新羅王金法敏白。
 所夫里州を置き、以て阿飡眞王を都督と爲す。

 九月。
 唐將軍の高侃等、蕃兵四萬を率いて平壤に到り、溝を深め壘を高め帶方を侵す。

 冬十月六日。
 唐の漕船七十餘艘を撃ち、郞將の鉗耳大侯、士卒百餘人を捉ふ。
 其の淪沒死者、數ふるに勝へる可からず。
 級飡の當千に功第一、沙飡を授位す。

 十二年、春正月。
 王は將を遣り百濟の古省城を攻め、之れに克つ。

 二月。
 百濟の加林城を攻むるも、克たず。

 秋七月。
 唐將の高侃、兵一萬を率い、李謹行は兵三萬を率い、一時平壤に至り、八營を作し留屯す。

 八月。
 韓始城、馬邑城を攻め、之れに克ち、兵を進めて白水城を距がむとして五百許歩に營を作し、我が兵と高句麗兵逆戰し、數千級を斬首す。
 高侃等退けば、追ひて石門に至り之れと戰ふも、我が兵敗績し、大阿飡の曉川、沙飡の義文、山世、阿飡の能申、豆善、一吉飡の安那含、良臣等之れに死す。
 漢山州に晝長城を築く、周は四千三百六十歩。

 九月。
 彗星七つ北方に出ずる。
 王は向者(さき)に百濟の唐に訴へに往き、兵の我を侵さむとを請ふを以て、事勢は急迫、申奏を獲ず、兵を出して之れを討つ。
 是に由りて、罪を大朝に獲、遂に級飡の原川、奈麻の邊山を遣り、兵船郞將の鉗耳大侯、萊州司馬の王藝、本烈州長史の王益、熊州都督府司馬の禰軍、曾山司馬の法聰、軍士一百七十人の留むる所に及ぼし、上表して罪を乞ひて曰く、
 臣某死罪、謹みて言へり、昔臣は危急し、事は倒懸の若し、遠く拯救を蒙り、屠滅を免ずるを得。
 身を粉にして骨を糜(ついや)すも、未だ上報鴻恩に足らず、首を碎きて灰塵すれども、何ぞ慈造(うみそだてる)に仰酬(むく)いるに能はむ。
 然れども深讐の百濟、近臣の蕃を逼し、天兵に告げ引き、臣を滅して恥を雪がむとす。
 臣は破滅に忙し、自ら存することを求めんと欲し、枉(いたずら)に凶逆の名を被り、遂に赦すこと難きの罪に入る。
 臣は事意未だ申せずして、先に刑戮に從ひ、生くれば逆命の臣と爲り、死すれば背恩の鬼と爲るをを恐る。謹みて事狀を録し、死を冒し奏聞し、伏して少垂神聽、元由を炤審せむと願ふ。
 臣は前代已來、朝貢を絶たたず、近は百濟の爲り、再び職貢を虧(か)き、遂に聖朝をして言を出だせしめ、將に命じて臣の罪を討たせしめんとしても、死に餘刑有り。
 南山の竹、臣の罪を書するに足らず、褒斜の林、未だ臣の械(かせ)を作るに足らず。
 宗社を瀦池(ためいけ)とし、臣(わたし)の身(からだ)を屠裂し、事聽して勅裁すれば、甘心して戮を受けむ。
 臣の櫬轝は側に在り、泥首未だ乾かず、泣血して朝を待ち、伏して刑命を聽かむ。
 伏して惟ふに、皇帝陛下、同じ日月を明し、容光は蒙曲を並べて炤し、德は乾坤に合ひ、動植は咸く亭毒を被り、好生の德、遠くは昆蟲に被り、惡殺の仁、爰(ここ)に翔泳を流す。
 儻(も)し服捨の宥を降し、腰領を全ふするの恩を賜へば、死の年と雖も、猶ほ生の日たり。
 希冀の所に非ず、敢へて懷く所を陳べ、劒に伏するの志に勝へず。
 謹みて原川等を遣り、拜表して謝罪し、伏して勅旨を聽かむ。
 某頓首頓首、死罪死罪。
 兼ねて銀三萬三千五百分、銅三萬三千分、針四百枚、牛黄百二十分、金百二十分、四十升綜布六匹、三十升布六十匹を進貢す。
 是の歳、穀貴くなり、人飢ゆ。

 十三年、春正月。
 大星、皇龍寺、城の中間に在るに隕つ。
 拜して強首を沙飡と爲し、租二百石を歳賜す。

 二月。
 西兄山城を增築す。

 夏六月。
 虎、大宮庭に入るも、之れを殺す。

 秋七月一日。
 庾信卒す。
 阿飡の大吐、謀叛して唐に付するも、事は泄(も)れて誅に伏し、妻孥は賤に充(あ)つ。

 八月。
 以て波珍飡の天光を中侍と爲す。
 沙熱山城を增築す。

 九月。
 國原城、古薍長城、北兄山城、召文城、耳山城、首若州走壤城、一に迭巖城と名す、達含郡主岑城、居烈州萬興寺山城、歃良州骨爭峴城を築く。
 王は大阿飡の徹川等を遣り、兵船一百艘を領めせしめ、西海に鎭む。
 唐兵と靺鞨、契丹の兵北邊を侵しに來たりて、凡そ九戰、我が兵は之れに克ち、二千餘級を斬首す。
 唐兵は瓠瀘、王逢の二河に溺れ、死者は計ふるに勝へる可からず。

 冬。
 唐兵、高句麗の牛岑城を攻め、之れを降す。
 契丹、靺鞨の兵は大楊城、童子城を攻め、之れを滅ぼす。
 始めて外司正を置く。州二人、郡一人。
 初め、太宗王の百濟を滅し、戍兵を罷むも、是に至り置を復す。

 十四年、春正月。
 入唐して宿衛する大奈麻の德福傳、曆術を學びて還り、新曆法を改用す。
 王は高句麗の叛衆を納る。
 又た百濟の故地に據し、使人之れを守る。
 唐高宗大いに怒り、詔して王の官爵を削り、王弟の右驍衛員外大將軍臨海郡公の仁問京師に在り、立て以て新羅王と爲し、歸國せしめ、以て左庶子同中書門下三品の劉仁軌を雞林道大摠管と爲し、衛尉卿の李弼、右領軍大將軍の李謹行に之れを副せしめ、兵を發ち討ちに來たり。

 二月。
 宮内に池を穿ち山を造り、花草を種(う)え、珍禽奇獸を養ふ。

 秋七月。
 大風、皇龍寺の佛殿を毀す。

 八月。
 西兄山の下にて大閲す。

 九月。
 義安法師に命じて大書省と爲し、安勝を封じて報德王と爲す。

 十年。
 安勝を高句麗王に封じ、今の再封、報德の言を知らず、若しくは歸命とや、或(あるい)は地名ならむや。
 靈廟寺の前路に幸(ゆ)き兵を閲し、阿飡の薛秀眞の六陣兵法を觀ゆ。

 十五年、春正月。
 銅鑄百司及び州郡印を以て、之れを頒く。

 二月。
 劉仁軌、我が兵を七重城にて破る。
 仁軌は兵を引きて還り、詔して以て李謹行を安東鎭撫大使と爲し、經を以て之れを略す。
 王乃ち遣使し、入貢して且つ謝罪し、帝は之れを赦し、王の官爵を復せしむ。
 金仁問中路にして還り、改めて臨海郡公に封ず。
 然りて百濟の地を多く取り、遂に高句麗南境を抵して州郡と爲す。
 唐兵と契丹、靺鞨兵の侵しに來たるを聞き、九軍を出し、之れを待つ。

 秋九月。
 薛仁貴、宿衛の學生風訓の父の金眞珠を以て、本國に於いて誅に伏し、風訓を引きて鄕導と爲し、泉城を攻めに來たり。
 我が將軍文訓等、逆戰して之れに勝ち、一千四百級を斬首し、兵船四十艘を取る。
 仁貴は圍を解きて退走し、戰馬一千匹を得。

 二十九日。
 李謹行、兵二十萬を率い、買肖城に屯するも、我が軍之れを撃ち走り、戰馬三萬三百八十匹を得、其の餘の兵仗、是れを稱す。
 遣使して唐に入らせ方物を貢ぐ。
 縁安北河に關城を設け、又た鐵關城を築く。
 靺鞨、阿達城に入りて劫掠し、城主の素那は逆戰して之れに死す。
 唐兵と契丹、靺鞨兵來たり、七重城を圍むも、克たず。
 小守の儒冬は之れに死す。
 靺鞨又た赤木城を圍み、之れを滅し、縣令の脱起は百姓を率い、之れを拒み、力竭きて倶に死す。
 唐兵又た石峴城を圍み、之れを拔く、縣令の仙伯、悉毛等、力戰して之れに死す。
 又た我が兵は唐兵と大小十八戰し、皆之れに勝ち、六千四十七級を斬首し、戰馬二百匹を得。

 十六年、春二月。
 高僧の義相、旨を奉り、浮石寺を創る。

 秋七月。
 彗星、北河積水の間に出で、長さ六七許歩。
 唐兵、道臨城を攻めに來たりて之れを拔き、縣令の居尸知之れに死し、壤宮を作る。

 冬十一月。
 沙飡の施得は船兵を領め、薛仁貴と所夫里州の伎伐浦にて戰ふも、敗績し、又た大小二十二の戰を進め、之れに克ち、四千餘級を斬首す。
 宰相の陳純は仕を致さむと乞むも、允(みと)めず、几杖を賜ふ。

 十七年、春三月。
 講武殿の南門にて射を觀ゆ。
 始めて左司祿館を置く。
 所夫里州、白鷹を獻ず。

 十八年、春正月。
 船府令一員を置き、船楫の事を掌らせしむ。
 左右理方府卿各一員を加ふ。
 北原小京を置き、大阿飡の呉起を以て之れを守らせしむ。

 三月。
 拜して大阿飡の春長を中侍と爲す。

 夏四月。
 阿天訓を武珍州都督と爲す。

 五月。
 北原、異鳥を獻ず、羽翮に文有り、脛に毛有り。

 十九年、春正月。
 中侍の春長病免し、舒弗邯の天存を中侍と爲す。

 二月。
 使を發して耽羅國を略せしむ。
 宮闕を重修すること頗る極めて壯麗たり。

 夏四月。
 熒惑、羽林を守る。

 六月。
 太白は月に入り、流星は參大星を犯す。

 秋八月。
 太白は月に入る。
 角干の天存卒す。
 東宮を創造し、始めて内外諸門の額號を定む。
 四天王寺成る。
 南山城を增築す。

 二十年、春二月。
 拜して伊飡の金軍官を上大等と爲す。

 三月。
 金銀器及び雜綵百段を以て、報德王の安勝に賜ひ、遂に王妹を以て之れを妻る。一に迎湌の金義官の女と云ふなり。
 下敎書に曰く、
 人倫の本、夫婦の攸先。
 王化の基、繼嗣を主と爲す。
 王の鵲巢は曠に位するも、雞鳴は心に在り。
 久しく内輔の儀を空しくし、永く起家の業を闕くは不可なり。
 今、良辰吉日、舊章を率順し、以て寡人の妹女を伉儷と爲し、王は宜しく心義を共に敦くし、宗祧に式奉し、子孫を克茂し、永らく盤石を豐かにすべし。
 豈に盛にあらざるか、豈に美ならざるか。

 夏五月。
 高句麗王、大將軍延武等をして上表せしめ曰く、
 臣安勝言はふ、大阿飡の金官長至り、敎旨を奉宣し、并せて敎書を賜ひ、以て外生公を下邑内の主と爲し、仍りて四月十五日を以て此に至るも、喜懼交(こもごも)懷(こころに)し、攸寘を知ること罔(な)し。
 竊かに帝女を以て嬀に降し、王姫を齊に適かせしむるは、本は聖德を揚げ、凡才を關するに匪ず。
 臣は本(もともと)庸流、行能は無算なれども、幸(さひはひ)にも昌運に逢ひ、沐浴聖化し、殊澤を荷ぐ毎に、報ひむと欲する堦無し。
 重ねて天寵を蒙り、此の姻に親を降し、遂に即ち華は穠(しげ)り慶(よろこばしき)は表れ、成德を肅(つつし)み雝(いだ)く。
 吉月令辰、弊館に言歸すれば、億載すれども遇ひ難きに、一朝にして獲申し、事は望始に非ず、喜は意表に出ず。
 豈に惟一二父兄、實に其の賜を受く。
 其の先祖より已下、寔の寵之れを喜ぶ。
 臣は未だ敎旨を蒙らざるも、直朝を敢へてせず、悅豫の至を任ずること無し、謹しみて臣大將軍太大兄延武を遣り、表を奉り以て聞けり。
 加耶郡を金官小京と置く。

 二十一年、春正月朔。
 終日黑暗なること夜の如し。
 沙飡の武仙は精兵三千を率い、以て比列忽を戍(まも)る。
 右司祿館を置く。

 夏五月、地震。
 流星、參大星を犯す。

 六月。
 天狗、坤方に落つ。
 王、京城を新めむと欲し、浮屠の義相に問へば、對へて曰く、
 草野茅屋に在ると雖も、正道を行へば、則ち福業を長ずるも、苟しくも然らざると爲せば、人を勞して城を作せしめると雖も、亦た益する所無し。
 王乃ち役を止む。

 秋七月一日。
 王薨じ、諡を文武と曰ふ。
 羣臣は遺言を以て東海口大石上に葬り、俗に傳はるは、王は化して龍と爲り、仍りて其の石を指して大王石と爲す。
 詔を遺して曰く、
 寡人の運、紛紜に屬し、時は爭戰に當たる。
 西に征し北に討ち、疆封を克定し、叛(そむく)を伐ち携(はなる)を招き、遐邇を聿寧す。
 上に宗祧の遺顧を慰め、下に父子の宿寃に報ひ、追賞は存亡に遍くし、䟽爵は内外に均しくす。
 兵戈を鑄して農器と爲し、黎元を仁壽に驅り、賦を薄くし徭を省き、家に人足を給はしめ、民間を安堵せしめ、域内に虞を無からしめん。
 倉廩は丘山に積み、囹圄は茂草と成し、幽顯に愧無し、士人に負無しと謂ふ可し。
 自ら風霜を犯冒し、遂に痼疾を成すも、政敎に憂勞し、更に沉痾を結ぶ。
 運往きて名存(あ)り、古今一撥、奄(には)かに大夜に歸す、何の恨有らむや。
 太子は早く蘊離して輝き、久しく震位に居す、上は羣宰より、下は庶寮に至るまで、送往の義に違ふこと勿れ、事居の禮の闕くこと莫れ。
 宗廟の主、暫し空す可からず、太子は柩の前に即し、王位を嗣ぎて立つべし。
 且も山谷遷貿し、人代は推移し、呉王北山の墳、詎ぞ金鳧の彩を見ん、魏主西陵の望、唯だ銅雀の名を聞くのみ。
 昔日萬機の英、終に一封の土と成り、樵牧(きこり)は其の上に歌ひ、狐兎は其の旁に穴(すあな)とす。
 徒(いたずら)に資財を費せば、譏は簡牘に貽り、人力を空勞すれば、幽魂を濟ふこと莫し。
 靜にして之れを思へば、傷痛も已に無く、此の如きの類、樂しむ所に非ざらむ。
 屬纊の後十日、便(そのまま)庫門外庭にて西國の式に依り、火を以て燒葬せよ。
 服の輕重、自ら常科に有り、喪の制度、儉約に務め從へ。
 其の邊城の鎭遏、及び州縣の課税、事に於いて要に非ざる者、並びに宜しく量廢すべし、律令格式、不便なる者有らば、即ちに便(つ)いで改張すべし、遠近に布告す。
 此の意を知らしめ、主者は施行すべし。

 三國史記、第七卷