神文王

神文王

 神文王が擁立された。
 諱は政明(明の字は日怊)、文武大王の長子である。
 母は慈儀(一説には義と表記する)王后である。
 妃は金氏、蘇判の欽突の娘である。
 王が太子であった時、嫁に入れた。
 久しく子がおらず、後坐父が乱を起こして宮を出た。
 文武王五年、太子に擁立され、ここに至って王位を継いだ。
 唐高宗は遣使して新羅王に冊立し、それによって先王の官爵を引き継いだ。

 元年、八月。
 拜して舒弗邯の眞福を上大等に任命した。

 八日。
 蘇判の金欽突、波珍飡の興元、大阿飡の眞功たちが謀叛を起こして誅に伏した。

 十三日。
 報德王は小兄首の德皆を遣使し、逆賊を平定したことを祝賀した。

 十六日。
 次のように下敎した。
「功績のある者を褒賞するのは、往年の聖人の良き規範であり、罪科のある者を誅するのは、先王の令典である。
 寡人の身体は矮小で、徳は少ないものであるが、崇高なる国家の基盤を引き継いで守ることになり、食事をすることもなくごちそうの味も忘れ、朝早くに起きて夜遅くに寝、股肱と共に邦家を安寧に導こうと願っていたが、喪に服す期間のうちに企図した反乱を京城で起こそうとする者がいた。
 賊の首魁であった欽突、興元、眞功どもは、官位の昇進に見合った才覚もなければ、職位の昇進に見合うほどの恩を実らせなかった。慎みを持つことに終始することもできずに富貴を保全し、不仁不義を尽くしながら、利益と権威を起こし、官僚を侮慢し、上下を欺いて侵してきた。日ごろから、その欲望を逞しくすること飽き足らず、その暴虐の心をほしいままにし、凶暴邪悪を招き入れて、卑近な小人物どもと交友を結び、内外に禍を通し、互いに同じく悪意を共有し、時を決して期日を定め、乱逆を遂行しようとした。
 寡人、上には天地の祐けに頼り、下には宗廟の霊を蒙り、欽突たちの悪は積まれ、罪は満ち、謀略は発露することになった。これ人神の共に遺棄するところ、この世界のすべてが連中を受け入れないことを意味する。義を犯して気風を毀損すること、これより甚しきものはない。
 これは兵衆を追って結集させることで、梟獍どもを除こうとしたが、ある者は山谷に逃竄し、ある者は闕庭に帰降した。こうして根掘り葉掘りと捜索を行い、この三、四日間で、首謀者たちをすべて収監し、既にそれらを誅して皆殺しにした。
 事はやむを得ぬとはいえ、士人を驚かせ、動揺させてしまったこと、これは憂愧を心に持ち、平生忘れることはできようもない。現在、既に妖徒どもを粛清し、遠近に虞いはなくなったので、集結した兵馬を速やかに放帰させることにする。
 四方に布告し、この意を知らしめよ。」

 二十八日。
 伊飡軍官を誅殺し、敎書を下した。
 上に仕えるにあたっての規範とは、忠を尽くすことを本とし、官に居するにあたっての義とは、二心を持たぬことを宗とする。
 兵部令伊飡軍官、班序によって、遂に上位にまで昇進したが、欠けたものを補い遺を拾うことができぬままに朝廷に清廉なる心を尽くし、命を授かりながら難を犯して死ぬことを忘れながら社稷に実直なる心を表してきた。
 つまり、賊臣の欽突たちと交友し、干渉し、その逆事を知りながら、すぐに告言することがなかった。既に憂国の心はなく、しかも公に殉じようとの志も絶えている。何をもって宰輔という重責に居位し、憲章の秩序を乱し、汚濁を垂れ流そうというのか。
 よって、これを衆勢とともに遺棄し、それによって後進に懲戒とせよ。軍官及び嫡子一人、自害すべし。
 遠近に布告し、共にこれを知らしめよ。」

 冬十月。
 侍衛監を罷免し、将軍六人を置いた。

 二年、春正月。
 神宮を自ら祀り、大赦した。

 夏四月。
 位に和府令二人を置し、選挙の事を掌握させた。

 五月。
 太白が月を犯した。

 六月。
 国学が立った。
 卿一人を置き、また工匠府監を一人、彩典監を一人置いた。

 三年、春二月。
 順知を中侍に任命した。
 一吉飡の金欽運の若い娘を嫁に入れ、夫人とした。
 先に伊飡の文穎、波珍飡の三光に指示を出して期日を定め、大阿飡智常に幣帛十五轝、米、酒、油、蜜、醤、豉、脯、醯、一百三十五轝、租一百五十車を納采させた。

 夏四月。
 平地に雪が積もること、深さ一尺。

 五月七日。
 伊飡の文穎が愷元をその邸宅に派遣し、夫人に冊した。
 その日は卯の時であったので、波珍飡の大常、孫文、阿飡の坐耶、吉叔等を派遣し、それぞれの妻娘とともに梁に向かわせると、沙梁二部の嫗それぞれ三十人が迎え入れた。
 夫人は車に乗って左右に侍従を侍らせ、官人と娘嫗は大いに盛り上がった。
 王宮の北門までたどり着くと、下車して内裏に入った。

 冬十月。
 報德王の安勝を召し出して蘇判に任命し、姓金氏を賜り、京都に留め、甲第良田を賜った。
 彗星が五車に出現した。

 四年、冬十月。
 昏から曙までに流星が縦横に流れた。

 十一月。
 金馬渚にいた安勝の族子の将軍大文が謀叛をしたが、事が発覚して誅に伏した。
 余人は大文の誅死を受けて、官吏を殺害し、邑を拠点にして叛いた。王は将士に討伐を命じたが、抗戦を受け、幢主の逼實がここで死んだ。
 その城を陥落すると、その地の人民を国南部の州郡に移住させ、その地を金馬郡とした。(大文は、悉伏とも云われる)

 五年春。
 再度完山州を置き、龍元を摠管に任命した。
 居列州を抜いて菁州を置くことで、始めて九州が整備され、大阿飡の福世を摠管に任命した。

 三月。
 西原に小京を置き、阿飡元泰を仕臣に任命した。
 南原に小京を置き、諸州郡の民戸を移住させ、そちらに分居させた。
 奉聖寺が完成した。

 夏四月。
 望德寺が完成した。

 六年、春正月。
 伊飡の大莊(一説には將と書く)を中侍に任命した。
 例作府卿二人を置いた。

 二月。
 石山、馬山、孤山、沙平に四縣を置いた。
 泗沘州を郡とし、熊川郡を州とした。
 發羅州を郡とし、武珍郡を州とした。
 遣使して唐に入らせ、禮記並びに文章を奏請した。
 則天が所司に吉凶要禮を書き写させ、併せて文舘詞林の中から、その詞の規範や戒めとなるものを採用し、五十卷に編成し、それを賜った。

 七年、春二月。
 元子が生まれた。
 この日は暗くぼんやりした天気で、大いに雷が起こっていた。

 三月。
 一善州を取りやめて、沙伐州を再度置き、波珍飡官長を摠管に任命した。

 夏四月。
 音聲署長を改めて卿に任命した。
 大臣を祖廟に派遣し、祭祀を執り行わせて言った。
「王の某(それがし)が稽首して再拜し、謹んで太祖大王、眞智大王、文興大王、太宗大王、文武大王の霊に申し上げます。某(それがし)の徳は軽薄なものでありますが、崇高なる国家の基盤を引き継ぎ、寝ても覚めても憂いを持ちながら勤めております。しかし、まだ安寧には至っておりません。
 宗廟に頼りを奉じ、乾坤陰陽を福が降るように護持し、四方の辺境に安寧をもたらし、百姓を和合に向かわせ、異域の来賓は船で宝物を運んで職貢に奉じ、刑罰を清廉にして訴訟が怒らないようにし、現在に至ります。
 それなのに近頃は、道は君主としての統治を喪失し、義は天のご照覧に乖離し、怪しき星が象を成し、火宿は輝きを失い、戦々慄々、深淵に墜ちるような心持ちです。
 謹んで使者と官者を派遣し、不腆の物を並べ、霊のいまするがごとく、敬虔に奉らせていただきます。
 伏して望みますことは、わずかばかりの誠を照らし出して察していただき、恩恤が眇末であることを憐れんでいただき、四時の候に順い、五事についてほしいままにすることなく、穀物が豊かに実り疫病が消え去り、衣食足りて禮義が備わり、裏も表も清らかに落着き、盗賊が消え失せ、後生の者たちに栄誉と豊穣を遺し、永らく福を受けること多からんことを。
 謹みて申し上げます。

 五月。
 文武の官僚それぞれに差を設けて田を教賜した。

 秋。
 沙伐、歃良の二州に城を築いた。

 八年、春正月。
 中侍の大莊が死去したので、伊飡の元師を中侍に任命した。

 二月。
 船府卿一人を加えた。

 九年、春正月。
 次のように下教した。 「内外の官への祿邑を取り上げ、毎年それぞれに応じた租を下賜し、それを今後の恒式(ルール)とする。」

 秋閏九月二十六日。
 獐山城に行幸した。
 西原京城を築いた。
 王が達句伐に都を移そうとしたが、まだ果たせていない。

 十年、春二月。
 中侍の元師が病気を理由に職を免じ、阿飡の仙元を中侍となった。

 冬十月。
 轉也山郡を置いた。

 十一年、春三月一日。
 王子理洪を太子に封じた。

 十三日。
 大赦した。
 沙火州が白雀を献上した。
 南原城を築いた。

 十二年、春。
 竹が枯れた。
 唐中宗が遣使し、口頭にて勅を下した。
「我が太宗文皇帝は、その功は神のごとし、徳は聖に至り、まさに千古を超えて傑出しておられる。ゆえに上僊なさられた折には、廟に太宗と號することになる。しかし、汝の国の先王金春秋が同じ號を銘じており、これは甚だしき僭越である。急いで改称せねばならぬ。」
 王と群臣が共同で議論し、返答した。
「小国の先王春秋の諡號は、偶然にも聖祖の廟號と互いに犯すことになってしまいました。これを改めよとの勅令に、臣は無理に従わないことはありません。
 しかしながら、先王の春秋について考えてみれば、非常に賢明で徳がありました。生前には良臣の金庾信を得、心を同じくして政治を執り、三韓を統一し、これを功業としないのであれば、功業と呼べるものは世に多くはないでしょう。逝去された際には、国中の臣民が哀慕に堪えず、追尊の號が聖祖と互いに犯すことに気づかなかったのです。
 今回、教勅をお聞きいたしましたところ、恐懼に堪えませんでしたが、伏して望みを申し上げれば、使臣が宮廷にお戻りになられた際には、このことについて上帝にお聞かせください。」
 その後、新たな別勅はなかった。

 秋七月。
 王が死去した。
 諡を神文といい、狼山東に葬られた。


 

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≪白文≫
 神文王立。
 諱政明、明之字日怊、文武大王長子也。
 母、慈儀、一作義、王后。
 妃、金氏、蘇判欽突之女。
 王爲太子時、納之。
 久而無子、後坐父作亂、出宮。
 文武王五年、立爲太子、至是繼位。
 唐高宗遣使冊立爲新羅王、仍襲先王官爵。

 元年、八月。
 拜舒弗邯眞福爲上大等。

 八日。
 蘇判金欽突、波珍飡興元、大阿飡眞功等、謀叛伏誅。

 十三日。
 報德王遣使小兄首德皆、賀平逆賊。

 十六日。
 下敎曰、
 賞有功者、往聖之良規、誅有罪者、先王之令典。
 寡人以眇躬涼德、嗣守崇基、廢食忘餐、晨興晏寢、庶與股肱、共寧邦家、豈圖縗絰之内、亂起京城。
 賊首欽突、興元、眞功等、位非才進、職實恩升。
 不能克愼始終、保全富貴、而乃不仁不義、作福作威、侮慢官寮、欺凌上下。
 比日、逞其無厭之志、肆其暴虐之心、招納凶邪、交結近竪、禍通内外、同惡相資、剋日定期、欲行亂逆。
 寡人、上賴天地之祐、下蒙宗廟之靈、欽突等惡積罪盈、所謀發露、此乃人神之所共棄、覆載之所不容、犯義傷風、莫斯爲甚。
 是以追集兵衆、欲除梟獍、或逃竄山谷、或歸降闕庭。
 然尋枝究葉、並已誅夷、三四日間、囚首蕩盡。
 事不獲已、驚動士人、憂愧之懷、豈忘旦夕。
 今既妖徒廓淸、遐邇無虞、所集兵馬、宜速放歸、布告四方、令知此意。

 二十八日。
 誅伊飡軍官、敎書曰、
 事上之規、盡忠爲本、居官之義、不二爲宗。
 兵部令伊飡軍官、因縁班序、遂升上位、不能拾遺補闕、效素節於朝廷、授命忘、表丹誠於社稷。
 乃與賊臣欽突等交渉、知其逆事、曾不告言、既無憂國之心、更絶徇公之志、何以重居宰輔、濫濁憲章。
 宜與衆棄、以懲後進。
 軍官及嫡子一人、可令自盡。
 布告遠近、使共知之。

 冬十月。
 罷侍衛監。
 置將軍六人。

 二年、春正月。
 親祀神宮、大赦。

 夏四月。
 置位和府令二人、掌選擧之事。

 五月。
 太白犯月。

 六月。
 立國學。
 置卿一人、又置工匠府監一人、彩典監一人。

 三年、春二月。
 以順知爲中侍。
 納一吉飡金欽運少女爲夫人。
 先差伊飡文穎、波珍飡三光定期、以大阿飡智常納采、幣帛十五轝、米、酒、油、蜜、醤、豉、脯、醯、一百三十五轝、租一百五十車。

 夏四月。
 平地雪深一尺。

 五月七日。
 遣伊飡文穎、愷元抵其宅、冊爲夫人。
 其日卯時、遣波珍飡大常、孫文、阿飡坐耶、吉叔等、各與妻娘及梁、沙梁二部嫗各三十人迎來。
 夫人乘車、左右侍從、官人及娘嫗甚盛。
 至王宮北門、下車入内。

 冬十月。
 徴報德王安勝爲蘇判、賜姓金氏、留京都、賜甲第良田。
 彗星出五車。

 四年、冬十月。
 自昏及曙、流星縱橫。

 十一月。
 安勝族子將軍大文、在金馬渚謀叛、事發伏誅。
 餘人見大文誅死、殺害官吏、據邑叛、王命將士討之、逆鬪、幢主逼實死之。
 陷其城、徙其人於國南州郡、以其地爲金馬郡。大文或云悉伏。

 五年春。
 復置完山州、以龍元爲摠管。
 挺居列州、以置菁州、始備九州、以大阿飡福世爲摠管。

 三月。
 置西原小京、以阿飡元泰爲仕臣。
 置南原小京、徙諸州郡民戸分居之。
 奉聖寺成。

 夏四月。
 望德寺成。

 六年、春正月。
 以伊飡大莊、一作將、爲中侍。
 置例作府卿二人。

 二月。
 置石山、馬山、孤山、沙平四縣。
 以泗沘州爲郡、熊川郡爲州。
 發羅州爲郡、武珍郡爲州。
 遣使入唐、奏請禮記并文章。
 則天令所司、寫吉凶要禮、并於文舘詞林、採其詞渉規誡者、勒成五十卷、賜之。

 七年、春二月。
 元子生。
 是日、陰沉昧暗、大雷電。

 三月。
 罷一善州、復置沙伐州、以波珍飡官長爲摠管。

 夏四月。
 改音聲署長爲卿。
 遣大臣於祖廟、致祭曰、
 王某稽首再拜、謹言太祖大王、眞智大王、文興大王、太宗大王、文武大王之靈。
 某以虚薄、嗣守崇基、寤寐憂勤、未遑寧處。
 奉賴宗廟、護持乾坤降福、四邊安靜、百姓雍和、異域來賓、航琛奉職、刑淸訟息、以至于今。
 比者、道喪君臨、義乖天鑒、怪星成象、火宿沈輝、戰戰慄慄、若墜淵谷。
 謹遣使某官某、奉陳不腆之物、以虔如在之靈。
 伏望、炤察微誠、矜恤眇末、以順四時之候、無愆五事之徴、禾稼豐而疫癘消、衣食足而禮義備、表裏淸謐、盜賊消亡、垂裕後昆、永膺多福。
 謹言。

 五月。
 敎賜文武官僚田有差。

 秋。
 築沙伐、歃良二州城。

 八年、春正月。
 中侍大莊卒、伊飡元師爲中侍。

 二月。
 加船府卿一人。

 九年、春正月。
 下敎、罷内外官祿邑、逐年賜租有差、以爲恒式。

 秋閏九月二十六日。
 幸獐山城。
 築西原京城。
 王欲移都達句伐、未果。

 十年、春二月。
 中侍元師病免、阿飡仙元爲中侍。

 冬十月。
 置轉也山郡。

 十一年、春三月一日。
 封王子理洪爲太子。

 十三日。
 大赦。
 沙火州獻白雀。
 築南原城。

 十二年、春。
 竹枯。
 唐中宗遣使、口勅曰、
 我太宗文皇帝、神功聖德、超出千古、故上僊之日、廟號太宗。
 汝國先王金春秋、與之同號、尤爲僭越、須急改稱。
 王與羣臣同議、對曰、
 小國先王春秋諡號、偶與聖祖廟號相犯、勅令改之、臣敢不惟命是從。
 然念先王春秋、頗有賢德、况生前得良臣金庾信、同心爲政、一統三韓、其爲功業、不爲不多。
 捐館之際、一國臣民、不勝哀慕、追尊之號、不覺與聖祖相犯。
今聞敎勅、不勝恐懼、伏望、使臣復命闕庭、以此上聞。
 後更無別勅。

 秋七月。
 王薨。
 諡曰神文、葬狼山東。



≪書き下し文≫
 神文王立つ。
 諱は政明、明の字日怊、文武大王の長子なり。
 母は慈儀、一に義と作す、王后なり。
 妃は金氏、蘇判欽突の女(むすめ)なり。
 王の太子を爲す時、之れを納る。
 久しくして子無し、後坐父は亂を作(おこ)し、宮を出ず。
 文武王五年、立ちて太子と爲り、是に至り位を繼ぐ。
 唐高宗は遣使して冊立し新羅王と爲し、仍りて先王の官爵を襲ふ。

 元年、八月。
 拜して舒弗邯の眞福を上大等と爲す。

 八日。
 蘇判の金欽突、波珍飡の興元、大阿飡の眞功等、謀叛して誅に伏す。

 十三日。
 報德王は小兄首の德皆を遣使し、逆賊を平げるを賀す。

 十六日。
 下敎して曰く、
 功有る者を賞するは、往聖の良規、罪有る者を誅するは、先王の令典なり。
 寡人は眇(ちい)さき躬にして涼(すくな)き德を以て崇基を嗣守し、食を廢し餐を忘れ、晨(はや)きに興きて晏(おそ)きに寢、股肱と共に邦家を寧さむと庶(こひねが)ふは、豈に縗絰の内を圖り、亂を京城に起せしめるにあらむ。
 賊首の欽突、興元、眞功等、位は才進に非ず、職は恩升に實らず。
 克く愼むに能はざることに始終し、富貴を保全し、而れども乃ち不仁不義、福を作し威を作し、官寮を侮慢し、上下を欺凌す。
 比日、其の無厭の志を逞し、其の暴虐の心を肆(ほしいまま)にし、凶邪を招き納め、近竪と交結し、内外に禍通し、惡を同じくし相ひ資し、日を剋し期を定め、亂逆を行はむと欲す。
 寡人、上には天地の祐を賴り、下には宗廟の靈を蒙り、欽突等の惡は積まれ罪は盈(み)ち、謀る所の發露せり、此れ乃ち人神の共に棄つる所、覆載の所は容れず、義を犯し風を傷し、斯く甚しきを爲すもの莫し。
 是れ以て兵衆を追集し、梟獍を除かんと欲し、或(あるもの)は山谷に逃竄し、或(あるもの)は闕庭に歸降す。
 然りて枝を尋ねて葉を究め、並びに已に誅して夷(みなごろし)とし、三四日間、首を囚へて蕩盡す。
 事は已むを獲ざるも、士人を驚動するは、憂愧の懷、豈に旦夕に忘れんや。
 今既に妖徒廓淸し、遐邇に虞無し、集する所の兵馬、宜しく速やかに放歸せしむべし。
 四方に布告し、此の意を知らしむ。

 二十八日。
 伊飡軍官を誅し、敎書に曰く、
 事上の規、忠を盡すを本と爲し、居官の義、不二を宗と爲す。
 兵部令伊飡軍官、班序に因縁し、遂に上位に升るも、補闕を拾遺すること能はず、朝廷に素節を效し、授命忘(※其犯難之死?)、社稷に丹誠を表す。
 乃ち賊臣の欽突等と交渉し、其の逆事を知るも、曾ち告言せず、既に憂國の心無し、更に徇公の志を絶つ、何を以て宰輔に重居し、憲章を濫濁せむ。
 宜しく衆と與に棄て、以て後進に懲すべし。
 軍官及び嫡子一人、自ら盡くせしむ可し。
 遠近に布告し、共に之れを知らしむ。

 冬十月。
 侍衛監を罷む。
 將軍六人を置く。

 二年、春正月。
 神宮に親ら祀り、大赦す。

 夏四月。
 位に和府令二人を置し、選擧の事を掌らせしむ。

 五月。
 太白、月を犯す。

 六月。
 國學を立つ。
 卿一人を置き、又た工匠府監を一人、彩典監を一人置く。

 三年、春二月。
 順知を以て中侍と爲す。
 一吉飡の金欽運の少女を納め夫人と爲す。
 先に伊飡の文穎、波珍飡の三光を差して期を定め、以て大阿飡智常に幣帛十五轝、米、酒、油、蜜、醤、豉、脯、醯、一百三十五轝、租一百五十車を納采せしむ。

 夏四月。
 平地の雪、深さ一尺。

 五月七日。
 伊飡の文穎、愷元を遣り其の宅に抵せしめ、冊して夫人と爲す。
 其の日は卯の時、波珍飡の大常、孫文、阿飡の坐耶、吉叔等を遣り、各(それぞれ)妻娘と與に梁に及ぼせしめ、沙梁二部の嫗各(それぞれ)三十人迎來す。
 夫人は車に乘り、左右侍從し、官人及び娘嫗甚だ盛なり。
 王宮の北門に至り、下車して内に入る。

 冬十月。
 報德王の安勝を徴して蘇判と爲し、姓金氏を賜り、京都に留め、甲第良田を賜ふ。
 彗星、五車に出ず。

 四年、冬十月。
 昏より曙に及び、流星縱橫す。

 十一月。
 安勝の族子の將軍大文、金馬渚に在り叛を謀るも、事發し誅に伏す。
 餘人は大文の誅死するを見、官吏を殺害し、邑に據りて叛くも、王は將士に命じて之れを討たせしめ、逆鬪し、幢主の逼實は之れに死す。
 其の城を陷し、其の人を國南の州郡に徙(うつ)し、其の地を以て金馬郡と爲す。大文、或は悉伏と云ふ。

 五年春。
 復た完山州を置き、以て龍元を摠管と爲す。
 居列州を挺(ぬ)き、菁州を置くを以て、九州に備へ始ね、以て大阿飡福世を摠管と爲す。

 三月。
 西原に小京を置き、以て阿飡元泰を仕臣と爲す。
 南原に小京を置き、諸州郡の民戸を徙(うつ)して之れに分居せしむ。
 奉聖寺成る。

 夏四月。
 望德寺成る。

 六年、春正月。
 以て伊飡大莊、一に將と作す、中侍と爲す。
 例作府卿二人を置く。

 二月。
 石山、馬山、孤山、沙平に四縣を置く。
 以て泗沘州を郡と爲し、熊川郡を州と爲す。
 發羅州を郡と爲し、武珍郡を州と爲す。
 遣使して唐に入らしめ、禮記并びに文章を奏請す。
 則天、所司に吉凶要禮を寫(かきうつ)せしめ、并せて文舘詞林に於いて、其の詞の規誡に渉る者を採り、五十卷を勒成し、之れを賜ふ。

 七年、春二月。
 元子生ず。
 是の日、陰沉昧暗、大いに雷電す。

 三月。
 一善州を罷め、復た沙伐州を置き、以て波珍飡官長を摠管と爲す。

 夏四月。
 音聲署長を改めて卿と爲す。
 大臣を祖廟に遣り、祭を致して曰く、
 王某稽首再拜、謹みて太祖大王、眞智大王、文興大王、太宗大王、文武大王の靈に言へり。
 某は虚薄を以て、崇基を嗣守し、寤(さ)めても寐(ね)ても憂ひ勤むるも、未だ遑寧は處せず。
 宗廟に賴るに奉じ、乾坤の福を降すを護持し、四邊を安靜せしめ、百姓を雍和せしめ、異域の來賓、琛を航(わた)して職に奉じ、刑を淸くせしめて訟を息せしめ、以て今に至らしむる。
 比者、道は君臨を喪ひ、義は天鑒に乖(もと)り、怪星は象を成し、火宿は輝を沈め、戰戰慄慄、淵谷に墜つるが若し。
 謹みて使某官某を遣り、奉りて不腆の物を陳(なら)べ、以て如在の靈に虔(つつし)む。
 伏して望むらくは、微かなる誠を炤察し、恤(めぐ)みの眇末なるを矜(あは)れみ、以て四時の候に順ひ、五事の徴(しるし)を愆(ほしいまま)にすること無く、禾稼は豐かにして疫癘は消え、衣食足りて禮義備はり、表裏は淸謐となり、盜賊は消亡し、後昆(のちのひと)に垂裕し、永らく多福を膺(う)けむことを。
 謹みて言(まふ)す。

 五月。
 文武の官僚に田を有差に敎賜す。

 秋。
 沙伐、歃良二州に城を築く。

 八年、春正月。
 中侍大莊卒し、伊飡の元師を中侍と爲す。

 二月。
 船府卿一人を加ふ。

 九年、春正月。
 下敎、内外の官祿邑を罷め、逐年に租を有差に賜ひ、以て恒式と爲さむ、と。

 秋閏九月二十六日。
 獐山城に幸(ゆ)く。
 西原京城を築く。
 王は都を達句伐に移さむと欲するも、未だ果たせず。

 十年、春二月。
 中侍の元師は病免し、阿飡の仙元を中侍と爲す。

 冬十月。
 轉也山郡を置く。

 十一年、春三月一日。
 王子理洪を封じて太子と爲す。

 十三日。
 大赦す。
 沙火州、白雀を獻ず。
 南原城を築く。

 十二年、春。
 竹枯れる。
 唐中宗遣使し、口勅して曰く、
 我が太宗文皇帝、神功聖德、千古に超出し、故に上僊の日、廟に太宗と號す。
 汝の國の先王金春秋、之と與に同じく號し、尤(すぐ)れて僭越を爲し、須く急ぎて改稱すべし、と。
 王と羣臣同じく議し、對へて曰く、
 小國の先王春秋の諡號、偶(たまたま)聖祖の廟號と相犯し、勅令して之れを改めせしめ、臣は敢へて惟命是從せず。
 然れども先王の春秋を念へば、頗る賢德有り、况や生前に良臣金庾信を得、心を同じくして政を爲し、三韓を一統し、其れ功業を爲すは、爲さざるは多からず。
 捐館の際、一國の臣民、哀慕に勝(た)へず、追尊の號、聖祖と相犯すを覺えず。
 今敎勅を聞かば、恐懼に勝(た)へざるも、伏して望む、使臣の闕庭に復命すれば、此れを以て上に聞せしめよ、と。
 後に更に別勅無し。

 秋七月。
 王薨ず。
 諡を神文と曰ひ、狼山東に葬らる。