元聖王

元聖王

 元聖王が王位に就いた。
 諱は敬信、奈勿王十二世の孫である。
 母は朴氏繼烏夫人であり、妃は金氏、神述角干の娘である。
 当初、惠恭王の末年には叛臣が跋扈し、宣德の時に上大等となって君側の悪を除こうと先頭に立って唱えた。
 敬信はこれに預かり、乱を平げて功を遂げ、宣德の即位に即して上大等となった。
 宣德が死去した時、子がいなかった。
 群臣は議した後、王の族子の周元を擁立しようとした。
 周元は京から北に二十里のところで大雨に遭遇した。閼川水は溢れかえり、周元は渡れなかった。ある人が言った。
 人君が大位に即することは、固より人の謀ることではありません。今日の暴雨、これを天があらしめられたのは、周元が王位に就いてほしくないからです。現在の上大等である敬信は、前王の弟であり、德望はもとより高く、人君の身体を有しております。」
 そこで衆議は全会一致でこれを擁立し、位を継がせた。
 その後に雨が止むと、国民の皆が万歳と叫んだ。

 二月。
 高祖大阿飡法宣を玄聖大王に、曾祖伊飡義寬を神英大王に、祖伊飡魏文を興平大王に、考一吉飡孝讓を明德大王に、母の朴氏を昭文太后に追封し、子の仁謙を王太子に擁立した。
 聖德大王、開聖大王の二廟を毀し、それによって始祖大王、太宗大王、文武大王及び祖興平大王、考明德大王の五廟を建てた。
 文武百官爵を一級増やした。
 拜して伊飡兵部令の忠廉を上大等に任命し、伊飡の悌恭を侍中に任命した。
 悌恭が罷免され、伊飡の世強を侍中に任命した。

 三月。
 前妃の具足王后を外宮に出し、租三万四千石を賜った。
 浿江鎭が赤烏を進呈した。
 摠管を都督に改めた。

 二年、夏四月。
 国東部に雹が降り、桑や麥をすべて傷めた。
 金元全を派遣して唐に入らせ、方物を進奉させた。
 德宗が詔書を下した。
「新羅王金敬信に勅す。
 金元全が辿り着き、表と進奉なさったものをよくよく拝見させていたいた。
 卿は純粋で信義に篤く、志は貞純を頑なに守り、邦家に夙奉し、よく声教に遵じている。
 ここに撫して藩服し、皆が儒風を受け、禮法を創立し、封部は安寧に治まった。
 こうして誠を尽くして宮門に向かい、述職して欠かすことがなかった。
 いつも使臣を派遣し、ここに貢献を修め、果てしなく遠く広い大海原の道のりは悠長であったはずなのに、贈物を往来させ、率先して旧典に循じ、忠誠に力を尽くすこと、ますます明らかであること、非常に深く嘉歎しておる。
 朕は万方に君臨し、人民の父母となり、中より外に及び、軌を合わせ、文を同じくし、天地の間にある気に調和を一致させ、共に仁壽を達成している。
 卿は封地の内を保安し、蒼生の恤に勤め、永らく藩臣として海裔を安寧に導くがよい。
 今回は卿に羅錦綾綵等三十匹、衣一副、銀榼一口を賜うので、これが着いたらどうかそれを受け取ってほしい。
 妃に錦綵綾羅等二十匹、押金線繡羅裙衣一副、銀椀一。
 大宰相一人に、衣一副、銀椀一。
 次宰相二人に、各衣一副、銀椀各一。
 以上のように、卿は領受を分給してほしい。
 夏中の盛熱、卿の平素よりの清浄と平安、宰相以下、並びにこれを存問する。
 書によって伝えられることは決して多くはありません。」

 秋七月。
 旱魃が起こった。

 九月。
 王都の人民が餓え、粟三万三千二百四十石を出して賑給した。

 冬十月。
 再度、粟三万三千二百四十石を出して賑給した。
 大舍の武烏が兵法十五卷、花鈴圖二卷を献上し、それによって屈押縣(一説には屈岬縣と書く)令となった。
 三年、春二月。
 京都で地震が起こった。
 神宮を自ら祀った。
 大赦した。

 夏五月。
 太白が昼に現れた。

 秋七月。
 蝗が穀を害した。

 八月辛巳朔。
 日食があった。

 四年、春。
 讀書三品で身分を定め始めた。
 春秋左氏傳、若しくは禮記、若しくは文選を読み、その義によく通じ、同時に論語、孝經に明るい者を上とした。
 曲禮、論語、孝經を読む者を中とした。
 曲禮、孝經を読む者を下とした。
 若し五經、三史、諸子百家の書に博く通じた者は、超擢してこれを用いた。
 前祇は弓箭によって人を選んでいたが、ここでそれを改めた。

 秋。
 国西部で干魃が起こり蝗が現れ、盗賊が多くなったので、王は使者を出して安撫させた。

 五年、春正月甲辰朔。
 日食があった。
 漢山州の人民が餓え、それに粟を出して施した。

 秋七月。
 霜が降って穀物を傷めた。

 九月。
 子玉を楊根縣小守に任命したが、執事史の毛肖がした。
「子玉は文籍の出身ではないのだから、分憂の職を委ねるべきではない。」
 侍中は議して言った。
「文籍の出身ではないとしても、かつて大唐に入って学生となったのだから、これも用いるべきではないか。」
 王はそれに従った。

 本件について論じよう。
 それを学んだ後に道を聞き、道を聞いた後に、事の本末を明らかに知ることができる。
 だからこそ、学んだ後に仕えた者は、その事において、本を先にするので末は自ずと正しくなるのだ。
 譬えてみれば、綱を一つ持ち上げれば、それに従って万の網目がすべて正しくなるようなものである。
 学ばない者はこれに反し、事に先後があることを知らず、本末の序、ただまとまりがなく枝末に精神を疲弊させ、ある者は搾取をすることを利益とし、ある者は細かい詮索をいちいちすることで相高くし、国家を利して人民を安んじようとしていても、このように却ってそれらを害することになるのだ。
 だからこそ、學記の言は『務本』で終わるのだ。
 そして、書経でも「學ばざれば牆面し、事に蒞(のぞ)みて惟れ煩ふ」と言われている。
 つまり執事毛肖の一言は、万世の模範とすべきものであろう。

 六年、春正月。
 宗基を侍中に任命した。
 碧骨堤を増築し、全州等七州人を徴発し、労役をさせた。
 熊川州が赤い烏を進呈した。

 三月。
 一吉飡の伯魚を北国への使者に出した。
 大旱魃が起こった。

 夏四月。
 太白の辰星が東井に集まった。

 五月。
 粟を出して漢山熊川の二州の飢民に賑出した。

 七年、春正月。
 王太子が死去し、諡を惠忠とした。
 伊飡の悌恭が叛き、誅に伏した。
 熊川州向省大舍の妻が一度に三人の男を産んだ。

 冬十月。
 京都に雪が三尺積り、凍死する者があった。
 侍中の宗基を罷免し、大阿飡の俊邕を侍中にした。

 十二月。
 京都で地震が起こった。
 内省侍郞の金言を三重阿飡にした。

 八年、秋七月。
 遣使して唐に入らせ、美女金井蘭を献上した。
 その女、国一番の美人で身体からはよい香りが漂っていた。

 八月。
 王子の義英を太子に封じた。
 上大等の忠廉が死去し、伊飡の世強を上大等にした。
 侍中の俊邕が病気であることから罷免し、伊飡崇斌を侍中にした。

 冬十一月壬子朔。
 日食があった。

 九年、秋八月。
 大風が木を折り禾を伏した。
 奈麻の金惱が白雉を献上した。

 十年、春二月。
 地震が起こった。
 太子の義英が死去し、諡を憲平とした。
 侍中の崇斌を罷免し、迊湌の彦昇を侍中に任命した。

 秋七月。
 始めて奉恩寺を創立した。
 漢山州が白い烏を進呈した。
 望恩樓を宮西に起こした。

 十一年、春正月。
 惠忠太子の子の俊邕を太子に封じた。

 夏四月。
 旱魃が起こり、王自ら囚人を録した。
 六月になると雨が降った。

 秋八月。
 霜が降り穀物を害した。

 十二年、春。
 京都で飢饉と疫病が起こり、これに王は倉廩を出して賑恤した。

 夏四月。
 侍中の彦昇を兵部令に任命し、伊飡の智原を侍中に任命した。

 十三年、秋九月。
 国東部で蝗が穀物を害した。
 洪水で山が崩れた。
 侍中の智原を罷免し、阿飡の金三朝を侍中に任命した。

 十四年、春三月。
 宮南の樓橋にて災があった。
 望德寺の二塔がぶつかり合った。

 夏六月。
 旱魃が起こった。
 屈自郡の石南烏大舍の妻が、一度に三人の男と一人の女を産んだ。

 冬十二月二十九日。
 王が死去した。
 諡を元聖といい、遺命によって、柩を挙げて奉德寺の南で焼いた。
 唐書には、「貞元十四年、敬信死す」とあるが、通鑑には「貞元十六年、敬信死す」とある。本史によってこのことを考察するに、通鑑は誤りである。

 

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≪白文≫
 元聖王立。
 諱敬信、奈勿王十二世孫。
 母、朴氏繼烏夫人。
 妃、金氏、神述角干之女。
 初、惠恭王末年、叛臣跋扈、宣德時爲上大等、首唱除君側之惡。
 敬信預之、平亂有功、洎宣德即位、即爲上大等。
 及宣德薨、無子。
 群臣議後、欲立王之族子周元。
 周元宅於京北二十里、會大雨、閼川水漲、周元不得渡。
 或曰、
 即人君大位、固非人謀、今日暴雨、天其或者不欲立周元乎。
 今上大等敬信、前王之弟、德望素高、有人君之體。
 於是、衆議翕然、立之繼位。
 既而雨止、國人皆呼萬歳。

 二月。
 追封高祖大阿飡法宣爲玄聖大王、曾祖伊飡義寬爲神英大王、祖伊飡魏文爲興平大王、考一吉飡孝讓爲明德大王、母朴氏爲昭文太后、立子仁謙爲王太子。
 毀聖德大王、開聖大王二廟、以始祖大王、太宗大王、文武大王及祖興平大王、考明德大王爲五廟。
 增文武百官爵一級。
 拜伊飡兵部令忠廉爲上大等、伊飡悌恭爲侍中。
 悌恭免、伊飡世強爲侍中。

 三月。
 出前妃具足王后於外宮、賜租三萬四千石。
 浿江鎭進赤烏。
 改摠管爲都督。

 二年、夏四月。
 國東雨雹、桑麥皆傷。
 遣金元全入唐、進奉方物。
 德宗下詔書曰、
 勅新羅王金敬信。
 金元全至、省表及所進奉具悉。
 卿俗敦信義、志秉貞純、夙奉邦家、克遵聲敎。
 撫兹藩服、皆禀儒風、禮法興行、封部寧乂、而竭誠向闕、述職無虧。
 累遣使臣、聿修貢獻、雖溟渤遐廣、道路悠長、贄幣往來、率循舊典、忠効益著、嘉歎良深。
 朕君臨萬方、作人父母、自中及外、合軌同文、期致太和、共躋仁壽。
 卿宜保安封内、勤恤蒼生、永作藩臣、以寧海裔。
 今賜卿羅錦綾綵等三十匹、衣一副、銀榼一口、至宜領之。
 妃錦綵綾羅等二十匹、押金線繡羅裙衣一副、銀椀一。
 大宰相一人、衣一副、銀椀一。
 次宰相二人、各衣一副、銀椀各一。
 卿宜領受分給。
 夏中盛熱、卿比平安好、宰相已下、並存問之。
 遣書指不多及。

 秋七月。
 旱。

 九月。
 王都民饑、出粟三萬三千二百四十石以賑給之。

 冬十月。
 又出粟三萬三千石以給之。
 大舍武烏、獻兵法十五卷、花鈴圖二卷、授以屈押縣、一作屈岬縣、令。
 三年、春二月。
 京都地震。
 親祀神宮。
 大赦。

 夏五月。
 太白晝見。

 秋七月。
 蝗害穀。

 八月辛巳朔。
 日有食之。

 四年、春。
 始定讀書三品以出身。
 讀春秋左氏傳、若禮記、若文選、而能通其義、兼明論語、孝經者爲上。
 讀曲禮、論語、孝經者爲中。
 讀曲禮、孝經者爲下。
 若博通五經、三史、諸子百家書者、超擢用之。
 前祇以弓箭選人、至是改之。

 秋。
 國西旱蝗、多盜賊、王發使安撫之。

 五年、春正月甲辰朔。
 日有食之。
 漢山州民饑、出粟以賙之。

 秋七月。
 隕霜傷穀。

 九月。
 以子玉爲楊根縣小守、執事史毛肖駁言、  子玉不以文籍出身、不可委分憂之職。
 侍中議云、  雖不以文籍出身、曾入大唐爲學生、不亦可用耶。
 王從之。

 論曰、
 惟學焉然後聞道、惟聞道然後、灼知事之本末。
 故學而後仕者、其於事也、先本而末自正。
 譬如擧一綱、萬目從而皆正。
 不學者反此、不知事有先後、本末之序、但區區弊精神於枝末、或掊斂以爲利、或苛察以相高、雖欲利國安民、而反害之。
 是故、學記之言、終於務本、而書亦言、不學牆面、蒞事惟煩、則執事毛肖一言、可爲萬世之模範者焉。

 六年、春正月。
 以宗基爲侍中。
 增築碧骨堤、徴全州等七州人、興役。
 熊川州進赤烏。

 三月。
 以一吉飡伯魚使北國。
 大旱。

 夏四月。
 太白辰星、聚于東井。

 五月。
 出粟賑漢山、熊川二州饑民。

 七年、春正月。
 王太子卒、諡曰惠忠。
 伊飡悌恭叛、伏誅。
 熊川州向省大舍妻、一産三男。

 冬十月。
 京都雪三尺、人有凍死。
 侍中宗基免、大阿飡俊邕爲侍中。

 十二月。
 京都地震。
 内省侍郞金言爲三重阿飡。

 八年、秋七月。
 遣使入唐、獻美女金井蘭、其女國色身香。

 八月。
 封王子義英爲太子。
 上大等忠廉卒、伊飡世強爲上大等。
 侍中俊邕病免、伊飡崇斌爲侍中。

 冬十一月壬子朔。
 日有食之。

 九年、秋八月。
 大風折木偃禾、奈麻金惱獻白雉。

 十年、春二月。
 地震。
 太子義英卒、諡曰憲平。
 侍中崇斌免、以迊湌彦昇爲侍中。

 秋七月。
 始創奉恩寺。
 漢山州進白烏。
 起望恩樓於宮西。

 十一年、春正月。
 封惠忠太子之子俊邕爲太子。

 夏四月。
 旱、親録囚。
 至六月乃雨。

 秋八月。
 隕霜害穀。

 十二年、春。
 京都飢疫、王發倉廩賑恤之。

 夏四月。
 侍中彦昇爲兵部令、伊飡智原爲侍中。

 十三年、秋九月。
 國東、蝗害穀。
 大水山崩。
 侍中智原免、阿飡金三朝爲侍中。

 十四年、春三月。
 宮南樓橋災。
 望德寺二塔相撃。

 夏六月。
 旱。
 屈自郡石南烏大舍妻、一産三男一女。

 冬十二月二十九日。
 王薨。
 諡曰元聖、以遺命、擧柩燒於奉德寺南。
 唐書云、貞元十四年、敬信死。
 通鑑云、貞元十六年、敬信死。
 以本史考之、通鑑誤。



≪書き下し文≫
 元聖王立つ。
 諱は敬信、奈勿王十二世の孫なり。
 母は朴氏繼烏夫人なり。
 妃は金氏、神述角干の女なり。
 初め、惠恭王末年、叛臣跋扈し、宣德の時に上大等と爲り、君側の惡を除かむと首唱す。
 敬信之れに預り、亂を平げ功を有し、宣德の即位に洎(いた)り、即して上大等と爲る。
 宣德の薨ずるに及ぶも、子無し。
 群臣議して後、王の族子の周元を立てむと欲す。
 周元は京北二十里に宅し、大雨に會ひ、閼川水は漲り、周元は渡るを得ず。
 或(あるひと)曰く、
 人君の大位に即するは、固より人の謀るに非ず、今日の暴雨、天其れ或るは周元を立つることを欲せざるや。
 今上大等の敬信、前王の弟、德望素(もと)より高く、人君の體を有す。
 是に於いて、衆議翕然し、之れを立て位を繼ぐ。
 既にして雨止み、國人皆萬歳を呼(さけ)ぶ。

 二月。
 高祖大阿飡法宣を追封して玄聖大王と爲し、曾祖伊飡義寬を神英大王と爲し、祖伊飡魏文を興平大王と爲し、考一吉飡孝讓を明德大王と爲し、母の朴氏を昭文太后と爲し、子の仁謙を立てて王太子と爲す。
 聖德大王、開聖大王の二廟を毀し、以て始祖大王、太宗大王、文武大王及び祖興平大王、考明德大王の五廟を爲(つく)る。
 文武百官爵一級を增す。
 拜して伊飡兵部令の忠廉を上大等と爲し、伊飡の悌恭を侍中と爲す。
 悌恭免じ、伊飡の世強を侍中と爲す。

 三月。
 前妃具足王后を外宮に出し、租三萬四千石を賜ふ。
 浿江鎭、赤烏を進む。
 改めて摠管を都督と爲す。

 二年、夏四月。
 國東に雨雹、桑麥皆傷む。
 金元全を遣り唐に入らしめ、方物を進奉す。
 德宗、詔書を下して曰く、
 新羅王金敬信に勅す。
 金元全至り、表及び進奉する所の具の悉くを省ゆ。
 卿は俗敦信義、志秉貞純、邦家に夙奉し、克く聲敎に遵ふ。
 兹(ここ)に撫して藩服し、皆禀儒風、禮法興行、封部寧乂、而竭誠向闕、述職無虧。
 累(かさ)ねて使臣を遣り、聿(ここ)に貢獻を修め、溟渤遐廣、道路は悠長たると雖も、贄幣を往來せしめ、舊典に率循し、忠を効すること益(ますます)著たり、良深に嘉歎す。
 朕は萬方に君臨し、人の父母を作(な)し、中より外に及び、軌を合はせ文を同じくし、太和に期致し、共に仁壽に躋(のぼ)る。
 卿は宜しく封内を保安し、蒼生に恤することに勤め、永らく藩臣を作(な)し、以て海裔を寧するべし。
 今卿に羅錦綾綵等三十匹、衣一副、銀榼一口を賜ひ、至りて宜しく之れを領むるべし。
 妃に錦綵綾羅等二十匹、押金線繡羅裙衣一副、銀椀一。
 大宰相一人に、衣一副、銀椀一。
 次宰相二人に、各衣一副、銀椀各一。
 卿は宜しく領受して分給すべし。
 夏中の盛熱、卿は比平安好し、宰相已下、並びに之れを存問す。
 遣書の指すること多くに及ばず。

 秋七月。
 旱。

 九月。
 王都の民饑え、粟三萬三千二百四十石を出して以て之れに賑給せしむ。

 冬十月。
 又た粟三萬三千石を出して以て之れを給ふ。
 大舍武烏、兵法十五卷、花鈴圖二卷を獻じ、授けて以て屈押縣、一作屈岬縣、令とす。
 三年、春二月。
 京都地震。
 神宮を親祀す。
 大赦す。

 夏五月。
 太白、晝に見る。

 秋七月。
 蝗、穀を害す。

 八月辛巳朔。
 日之れを食する有り。

 四年、春。
 始めて讀書三品を定めて以て身を出だす。
 春秋左氏傳、若しくは禮記、若しくは文選を讀み、而りて能く其の義に通じ、兼ねて論語、孝經を明む者を上と爲す。
 曲禮、論語、孝經を讀む者を中と爲す。
 曲禮、孝經を讀む者を下と爲す。
 若し五經、三史、諸子百家の書に博く通ずる者、超擢して之れを用ふ。
 前祇は弓箭を以て人を選び、是に至り之れを改む。

 秋。
 國西に旱蝗、盜賊多たり、王は使を發して之れを安撫せり。

 五年、春正月甲辰朔。
 日之れを食する有り。
 漢山州の民饑え、粟を出して以て之れに賙(ほどこ)す。

 秋七月。
 隕霜して穀を傷む。

 九月。
 以て子玉を楊根縣小守と爲(す)るも、執事史の毛肖は駁言す、
 子玉は以て文籍の出身たらず、分憂の職を委ぬ可からず、と。
 侍中議して云く、
 以て文籍の出身たらずと雖も、曾て大唐に入り學生と爲る、亦た用ふ可からざるや。
 王之れに從ふ。

 論じて曰く、
 惟れ焉れを學び然る後に道を聞き、惟れ道を聞き然る後に、事の本末を灼(あきら)かに知る。
 故に學びて後に仕ふる者、其れ事に於けるや、本を先にして而りて末は自ずと正し。
 譬ふれば一綱を擧げて、萬目從ひて皆正しきが如し。
 學ばざる者は此れに反し、事に先後有るを知らず、本末の序、但だ區區として枝末に精神を弊し、或(あるもの)は掊斂して以て利を爲し、或(あるもの)は苛察して以て相高くし、國を利して民を安んずることを欲すると雖も、而るに反りて之れを害す。
 是の故に、學記の言、務本に終える。
 而るに書亦た言へるに、學ばざれば牆面し、事に蒞(のぞ)みて惟れ煩ふ、と。
 則ち執事毛肖の一言、萬世の模範と爲可き者か。

 六年、春正月。
 以て宗基を侍中と爲す。
 碧骨堤を增築し、全州等七州人を徴し、役を興す。
 熊川州進赤烏。

 三月。
 以て一吉飡の伯魚を北國に使はせしむ。
 大旱。

 夏四月。
 太白辰星、東井に聚ふ。

 五月。
 粟を出し漢山熊川の二州の饑民に賑す。

 七年、春正月。
 王太子卒し、諡して惠忠と曰ふ。
 伊飡の悌恭叛き、誅に伏す。
 熊川州向省大舍の妻、一(ひとたび)に三男を産ず。

 冬十月。
 京都に雪三尺、人に凍死するもの有り。
 侍中の宗基免じ、大阿飡の俊邕を侍中を爲す。

 十二月。
 京都地震。
 内省侍郞の金言を三重阿飡と爲す。

 八年、秋七月。
 遣使して唐に入らせしめ、美女金井蘭を獻ず。
 其の女、國色身香たり。

 八月。
 王子の義英を封じて太子と爲す。
 上大等の忠廉卒し、伊飡の世強を上大等と爲す。
 侍中の俊邕病免し、伊飡崇斌を侍中と爲す。

 冬十一月壬子朔。
 日之れを食する有り。

 九年、秋八月。
 大風木を折り禾を偃す。
 奈麻の金惱、白雉を獻ず。

 十年、春二月。
 地震。
 太子義英卒し、諡を憲平と曰ふ。
 侍中の崇斌免じ、以て迊湌の彦昇を侍中と爲す。

 秋七月。
 始めて奉恩寺を創る。
 漢山州、白烏を進む。
 望恩樓を宮西に起す。

 十一年、春正月。
 惠忠太子の子の俊邕を封じて太子と爲す。

 夏四月。
 旱、親(みずか)ら囚を録す。
 六月に至り乃ち雨(あめふ)る。

 秋八月。
 隕霜して穀を害す。

 十二年、春。
 京都飢疫し、王は倉廩を發して之れを賑恤す。

 夏四月。
 侍中の彦昇を兵部令と爲し、伊飡の智原を侍中と爲す。

 十三年、秋九月。
 國東、蝗穀を害す。
 大水山崩る。
 侍中の智原免じ、阿飡の金三朝を侍中と爲す。

 十四年、春三月。
 宮南の樓橋に災あり。
 望德寺の二塔相撃つ。

 夏六月。
 旱。
 屈自郡の石南烏大舍の妻、一(ひとたび)に三男一女を産む。

 冬十二月二十九日。
 王薨ず。
 諡を元聖と曰ひ、遺命を以て、柩を擧げて奉德寺南に於いて燒く。
 唐書に云く、貞元十四年、敬信死す、と。
 通鑑に云く、貞元十六年、敬信死す、と。
 本史を以て之れを考うるに、通鑑は誤りなり。