憲德王

憲德王

 憲德王が擁立された。
 諱は彦昇、昭聖王の同母弟である。
 元聖王六年、大唐に奉使し、大阿飡を受位した。
 七年、逆臣を誅し、迎飡となった。
 十年に侍中となり、十一年には伊飡であることから宰相となった。
 十二年に兵部令となった。
 哀莊王元年に角干となり、二年に御龍省私臣となり、間もなく上大等となり、ここに至って即位した。
 妃は貴勝夫人、禮英角干の娘である。
 伊飡の金崇斌を上大等に任命した。

 秋八月。
 大赦した。
 伊飡の金昌南たちを唐に派遣し、哀を告げた。
 憲宗は職方員外郞攝御史中丞崔廷を派遣し、その質子の金士信を副官に任命し、持節吊祭させ、王を開府儀同三司、檢校太尉、持節大都督鷄林州諸軍事兼持節充寧海軍使上柱國新羅王に冊立した。
 妻の貞氏を妃に冊した。
 大宰相の金崇斌等三人に門戟を賜った。
(王妃は禮英角干の娘だと考えられ、現在の貞氏といわれているが、詳しくはわからない。)

 二年、春正月。
 波珍飡亮宗を侍中に任命した。
 河西州に赤烏を進呈した。

 二月。
 王が神宮を親祀した。
 使者を出して国内の隄防を修繕させた。

 秋七月。
 流星が紫微に入った。
 西原京が白雉を進呈した。

 冬十月。
 王子の金憲章を唐に派遣し、金銀仏像や仏經などを献上させ、上言して順宗の祈福をした。
 流星が王良に入った。

 三年、春正月。
 侍中亮宗が病であることから罷免し、伊飡の元興を侍中とした。

 二月。
 伊飡の雄元を完山州の都督に任命した。

 夏四月。
 御平議殿での聴政を始めた。

 四年春。
 均貞を侍中に任命し、伊飡の忠永が七十歳になったことから几杖を賜った。

 秋九月。
 級飡の崇正を派遣し、北国への使者とした。

 五年、春正月。
 伊飡の憲昌を武珍州の都督に任命した。

 二月。
 始祖廟に謁したが、玄德門に火事があった。

 六年、春三月。
 群臣に崇禮殿での宴会を開いた。樂は極まり、王が鼓を叩き琴を奏で、伊飡の忠榮が舞を起こした。

 夏五月。
 國西に大水、使者を出して經水州郡の人民を撫問させ、一年の租調を返還した。

 秋八月。
 京都に風霧が起こり、夜のようであった。
 武珍州都督の憲昌、入りて侍中と爲る。

 冬十月。
 黔牟大舍の妻、一度に三人の男児を産んだ。

 七年、春正月。
 唐に遣使して参朝させた。
 憲宗は引き入れて会見し、宴会を開いてそれぞれ別に下賜をした。

 夏五月。
 雪が下った。

 秋八月己亥朔。
 日食が起こった。
 西邊州郡で大飢饉が起こり、盗賊が蜂起し、軍を出して討伐平定をした。
 大星が翼と軫の間に出た。庚を指す芒の長さは六尺程度、広さ二寸程度である。

 八年、春正月。
 侍中の憲昌が出朝して菁州の都督となり、璋は戻朝して侍中となった。
 この年は荒れ、人民は飢え、抵浙東の食を求める者は一百七十人である。
 漢山州の唐恩郡、石の長さ十尺、広さ八尺、高さ三尺五寸、自ら一百歩余り移動した。

 夏六月。
 望德寺二塔が戦った。

 九年、春正月。
 伊飡の金忠恭を侍中に任命した。

 夏五月。
 雨が降らず、遍く山川に祈り、秋七月になると、ようやく雨が降った。

 冬十月。
 飢死する者が多く、敎州郡が倉穀を出して存恤した。
 王子の金張廉を唐に派遣し、朝貢させた。

 十年、夏六月癸丑朔。
 日食が起こった。

 十一年、春正月。
 伊飡の眞元の年七十になったことから、几杖を賜った。
 伊飡の憲貞は病気で行くことができず、年はまだ七十ではなかったが、金飾紫檀杖を賜った。

 二月。
 上大等の金崇斌が死去し、伊飡の金秀宗が上大等になった。

 三月。
 草賊が遍く起こり、諸州郡の都督太守に命じ、それらを捕捉させた。

 秋七月。
 唐鄆州節度使の李師道が叛いた。
 憲宗は討平しようとし、詔を下して楊州節度使の趙恭を派遣し、我が国の兵馬を徴発した。王は勅旨を奉じ、順天軍將軍の金雄元に甲兵三萬を率いるように命じ、これに助力させた。

 十二年、春夏。
 旱魃。

 冬。
 飢饉が起こった。

 十一月。
 唐に遣使して朝貢させた。
 穆宗が召して麟德殿で会見し、宴会を開いてそれぞれ別に下賜をした。

 十三年、春。
 人民が餓え、子孫を売って生計を立てた。

 夏四月。
 侍中の金忠恭が死去し、伊飡の永恭が侍中となった。
 菁州都督の憲昌を熊川州都督に改めた。

 秋七月。
 浿江南川の二石が戦った。

 冬十二月二十九日。
 大雷があった。

 十四年、春正月。
 母弟の秀宗を副君に任命し、月池宮に入らせた。
 (秀宗はあるいは秀升ともいう。)

 二月。
 雪が五尺積もり、樹木が枯れた。

 三月。
 熊川州都督の憲昌が父の周元を王とすることができなかったため、叛乱を起こし、国を長安と號た。建元慶雲元年、武珍、完山、菁、沙伐の四州の都督を脅し、國原、西原、金官の仕臣及び諸郡縣の守令を自己の所属とした。
 菁州都督の向榮が脱出して推火郡まで走ったので、漢山、牛頭、歃良、浿江、北原等は先に憲昌の逆謀を知り、兵を挙げて自らを守った。

 十八日、完山長史の崔雄、阿飡正連の子の令忠等を助け、王京に遁走してこのことを告げると、王はすぐに崔雄に級飡、速含郡の太守令忠に級飡の位を授け、そのまま員將八人を差し向け、王都八方を守り、その後に軍隊を出動させた。
 一吉飡の張雄が先に出発し、迎飡の衛恭や波珍飡の悌凌がそれに継続し、伊飡の均貞、迎飡の雄元、大阿飡の祐徴等、三軍を掌握して征伐に向かった。角干の忠恭、迎飡の允膺、蚊火は關門の守備にあたった。
 明基、安樂の二人がそれぞれ従軍を請い、明基は徒衆とともに黄山に赴き、安樂は施彌知鎭に赴いた。
 そこで憲昌はその将を派遣し、要路を拠点にして待機した。
 張雄は賊兵に道冬峴で遭遇すると、これを撃ち敗った。
 衛恭、悌凌は張雄と軍を合流させ、三年山城に攻め込んで、これに勝利し、兵を俗離山に進め、賊兵を撃ち滅ぼした。
 均貞等は賊と黄山で戦い、これを滅ぼした。
 諸軍共に熊津に到り、賊と大いに戰い、数え切れぬほどを斬殺あるいは捕虜とした。
 憲昌はなんとか身を逃し、城に入って守りを固めた。
 諸軍が包囲して攻めること浹旬、城がまさに陥落しようとするとき、逃げられないと理解した憲昌は、自ら死んだ。従者は首と身を断ち、それぞれを隠した。
 城の陥落に及び、その身を古塚で手に入れ、これを誅し、宗族党与を殺戮すること凡そ二百三十九人。その民を解放した。
 後に論功し、それぞれ別に爵賞した。
 阿飡の祿眞に大阿飡を授位したが、辞退して受けなかった。
 歃良州屈自郡が賊に近かったが乱に与さなかったことをもって、七年(の租税)を返還した。
 これ以前のこと、菁州太守の廳事の南の池中に異鳥がいた。
 身長五尺、色は黒く、頭は五歳程度の児童のようで、喙は長さ一尺五寸、目は人嗉のようで、五升程度の器を受けたがようであったが、三日で死んだ。これは憲昌の敗亡する兆であった。
 角干忠恭の娘の貞嬌を聘し、太子妃とした。
 浿江山の谷間、顚木は蘖(ひこばえ)に生じ、一夜にして高さ十三尺、周囲は四尺七寸となった。

 夏四月十三日。
 月の色が血のようであった。

 秋七月十二日。
 日に黒暈があり、南北を指した。

 冬十二月。
 柱弼を唐に派遣して朝貢させた。

 十五年、春正月五日。
 西原京に天に従って墮ちた蟲がいた。

 九日。
 白、黑、赤の三種の蟲がいた。降りしきる雪を冒して進むことができたが、陽を受けると止まった。
 元順、平原の二人の角干が七十歳で老を告げ、几杖を賜った。

 二月。
 水城郡を唐恩郡に併合した。

 夏四月十二日。
 流星が天市に起こり、帝座を犯し、天市東北、織女、王良を過ぎ、閣道で三方向に分かれ、撃鼓のような音がして消滅した。

 秋七月。
 雪が降った。

 十七年、春正月。
 憲昌の子の梵文が高達の山賊、壽神等百人余りと共同で謀叛し、都を平壤に立てようとして北漢山城を攻めた。
 都督の聰明が兵を率い、これを捕えて殺した。
 (平壤は現在の楊州である。太祖は莊義寺齋文の所有する『高麗舊壤平壤名山の句』を製作した。

 三月。
 武珍州の馬彌知縣の女性が二頭二身四臂の児童を産んだ。産んだ時、天が大雷を下した。

 夏五月。
 王子の金昕を唐に派遣して朝貢させ、そのまま奏言した。
「先に滞在していた大学生の崔利貞、金叔貞、朴季業等を蕃に送り出して帰国させるように要請しておりましたが、そこで新たに金允夫、金立之、朴亮之等一十二人を朝廷に赴かせるように要請し、宿衛に留まらせて國子監に配し、業を習わせ、鴻臚寺による食糧の給資を要求します。」
 これに従った。

 秋。
 歃良州が白馬を献上した。
 牛頭州の大楊管郡の黄知奈麻の妻が一度に二男二女を産み、租一百石を賜わった。

 十八年、秋七月。
 牛岑太守の白永に命じ、漢山北諸州郡人一万を徴発させて浿江長城三百里を築かせた。

 冬十月。
 王が死去し、諡は憲德、泉林寺の北に葬られた。
 古記には「在位十八年、寶曆二年丙午四月に死去した」と伝わり、新唐書には「長慶寶曆の間、羅王の彦昇が死去した」と伝わる。しかしながら、資理通鑑と舊唐書では、どれも「大和五年に死去した」と伝える。
 どうしてこれを誤りすることになるか。

 

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≪白文≫
 憲德王立。
 諱彦昇、昭聖王同母弟也。
 元聖王六年、奉使大唐、受位大阿飡。
 七年、誅逆臣、爲迎飡。
 十年爲侍中、十一年、以伊飡爲宰相。
 十二年爲兵部令。
 哀莊王元年爲角干、二年爲御龍省私臣、未幾爲上大等、至是、即位。
 妃、貴勝夫人、禮英角干女也。
 以伊飡金崇斌爲上大等。

 秋八月。
 大赦。
 遣伊飡金昌南等、入唐告哀。
 憲宗遣職方員外郞攝御史中丞崔廷、以其質子金士信副之、持節吊祭、冊立王爲開府儀同三司、檢校太尉、持節大都督鷄林州諸軍事兼持節充寧海軍使上柱國新羅王。
 冊妻貞氏爲妃。
賜大宰相金崇斌等三人門戟。
 按、王妃、禮英角干女也、今云貞氏、未詳。

 二年、春正月。
 以波珍飡亮宗爲侍中。
 河西州進赤烏。

 二月。
 王親祀神宮。
 發使修葺國内隄防。

 秋七月。
 流星入紫微。
 西原京進白雉。

 冬十月。
 遣王子金憲章入唐、獻金銀佛像及佛經等、上言、爲順宗祈福。
 流星入王良。

 三年、春正月。
 侍中亮宗以病免、伊飡元興爲侍中。

 二月。
 以伊飡雄元、爲完山州都督。

 夏四月。
 始御平議殿聽政。

 四年春。
 以均貞爲侍中、以伊飡忠永年七十、賜几杖。

 秋九月。
 遣級飡崇正使北國。

 五年、春正月。
 以伊飡憲昌爲武珍州都督。

 二月。
 謁始祖廟、玄德門火。

 六年、春三月。
 宴羣臣於崇禮殿、樂極、王鼓琴、伊飡忠榮起舞。

 夏五月。
 國西大水、發使撫問經水州郡人民、復一年租調。

 秋八月。
 京都風霧如夜。
 武珍州都督憲昌、入爲侍中。

 冬十月。
 黔牟大舍妻、一産三男。

 七年、春正月。
 遣使朝唐、憲宗引見、宴賜有差。

 夏五月。
 下雪。

 秋八月己亥朔。
 日有食之。
 西邊州郡大飢、盜賊蜂起、出軍討平之。
 大星出翼、軫間、指庚、芒長六許尺、廣二許寸。

 八年、春正月。
 侍中憲昌出爲菁州都督、璋如爲侍中。
 年荒民飢、抵浙東求食者一百七十人。
 漢山州唐恩郡、石長十尺、廣八尺、高三尺五寸、自移一百餘歩。

 夏六月。
 望德寺二塔戰。

 九年、春正月。
 以伊飡金忠恭爲侍中。

 夏五月。
 不雨、遍祈山川、至秋七月、乃雨。

 冬十月。
 人多飢死、敎州郡發倉穀存恤。
 遣王子金張廉、入唐朝貢。

 十年、夏六月癸丑朔。
 日有食之。

 十一年、春正月。
 以伊飡眞元年七十、賜几杖。
 以伊飡憲貞、病不能行、年未七十、賜金飾紫檀杖。

 二月。
 上大等金崇斌卒、伊飡金秀宗爲上大等。

 三月。
 草賊遍起、命諸州郡都督太守、捕捉之。

 秋七月。
 唐鄆州節度使李師道叛。
 憲宗將欲討平、詔遣楊州節度使趙恭、徴發我兵馬、王奉勅旨、命順天軍將軍金雄元、率甲兵三萬以助之。

 十二年、春夏旱。
 冬飢。

 十一月。
 遣使入唐朝貢、穆宗召見麟德殿、宴賜有差。

 十三年、春。
 民饑、賣子孫自活。

 夏四月。
 侍中金忠恭卒、伊飡永恭爲侍中、菁州都督憲昌、改爲熊川州都督。

 秋七月。
 浿江南川二石戰。

 冬十二月二十九日。
 大雷。

 十四年、春正月。
 以母弟秀宗爲副君、入月池宮、秀宗或云秀升。

 二月。
 雪五尺、樹木枯。

 三月。
 熊川州都督憲昌、以父周元不得爲王、反叛、國號長安、建元慶雲元年、脅武珍、完山、菁、沙伐四州都督、國原、西原、金官仕臣及諸郡縣守令、以爲己屬。
 菁州都督向榮、脱身走推火郡、漢山、牛頭、歃良、浿江、北原等、先知憲昌逆謀、擧兵自守。

 十八日、完山長史崔雄、助阿飡正連之子令忠等、遁走王京告之、王即授崔雄位級飡、速含郡太守、令忠位級飡、遂差員將八人、守王都八方、然後出師。
 一吉飡張雄先發、迎飡衛恭、波珍飡悌凌繼之、伊飡均貞、迎飡雄元、大阿飡祐徴等、掌三軍徂征。
 角干忠恭、迎飡允膺、守蚊火關門。
明基、安樂二郞、各請從軍、明基與徒衆赴黄山、安樂赴施彌知鎭。
 於是、憲昌遣其將、據要路以待。
 張雄遇賊兵於道冬峴、撃敗之。
 衛恭、悌凌、合張雄軍、攻三年山城、克之、進兵俗離山、撃賊兵滅之。
 均貞等與賊戰黄山、滅之。
 諸軍共到熊津、與賊大戰、斬獲不可勝計。
 憲昌僅以身免、入城固守。
 諸軍圍攻浹旬、城將陷、憲昌知不免、自死。
 從者斷首與身、各藏。
 及城陷、得其身於古塚、誅之、戮宗族黨與、凡二百三十九人、縱其民。
 後、論功爵賞有差。
 阿飡祿眞授位大阿飡、辭不受。
 以歃良州屈自郡近賊、不汙於亂、復七年。
 先是、菁州太守廳事南、池中有異鳥、身長五尺、色黑、頭如五歳許兒、喙長一尺五寸、目如人嗉、如受五升許器、三日而死、憲昌敗亡兆也。
 聘角干忠恭之女貞嬌、爲太子妃。
 浿江山谷間、顚木生蘖、一夜高十三尺、圍四尺七寸。

 夏四月十三日。
 月色如血。

 秋七月十二日。
 日有黑暈、指南北。

 冬十二月。
 遣柱弼入唐朝貢。

 十五年、春正月五日。
 西原京、有蟲從天而墮。

 九日。
 有白、黑、赤三種蟲、冒雪能行、見陽而止。
 元順、平原二角干、七十告老、賜几杖。

 二月。
 合水城郡、唐恩郡。

 夏四月十二日。
 流星起天市、犯帝座、過天市東北垣、織女、王良、至閣道分爲三、聲如撃鼓而滅。

 秋七月。
 雪。

 十七年、春正月。
 憲昌子梵文、與高達山賊、壽神等百餘人、同謀叛、欲立都於平壤、攻北漢山城。
 都督聰明、率兵捕殺之。
 平壤、今楊州也、太祖製莊義寺齋文有高麗舊壤平壤名山之句。

 三月。
 武珍州馬彌知縣女人産兒、二頭二身四臂、産時天大雷。

 夏五月。
 遣王子金昕入唐朝貢、遂奏言、  先在大學生、崔利貞、金叔貞、朴季業等、請放還蕃、其新赴朝金允夫、金立之、朴亮之等一十二人、請留宿衛、仍請配國子監習業、鴻臚寺給資粮。
 從之。

 秋。
 歃良州獻白馬。
 牛頭州大楊管郡黄知奈麻妻、一産二男二女、賜租一百石。

 十八年、秋七月。
 命牛岑太守白永、徴漢山北諸州郡人一萬、築浿江長城三百里。

 冬十月。
 王薨、諡曰憲德、葬于泉林寺北。
 古記云、在位十八年、寶曆二年丙午四月卒。
 新唐書云、長慶寶曆間、羅王彦昇卒。
 而資理通鑑及舊唐書皆云、大和五年卒。
 豈其誤耶。


≪書き下し文≫

 憲德王立つ。
 諱は彦昇、昭聖王の同母弟なり。
 元聖王六年、大唐に奉使し、大阿飡を受位す。
 七年、逆臣を誅し、迎飡と爲る。
 十年に侍中と爲り、十一年、以て伊飡を宰相と爲す。
 十二年に兵部令と爲る。
 哀莊王元年に角干と爲り、二年に御龍省私臣と爲り、未だ幾あらず上大等と爲り、是に至り、即位す。
 妃は貴勝夫人、禮英角干の女なり。
 以て伊飡の金崇斌を上大等と爲す。

 秋八月。
 大赦。
 伊飡の金昌南等を遣り、唐に入らせ哀を告ぐ。
 憲宗は職方員外郞攝御史中丞崔廷を遣り、以て其の質子の金士信に之れを副せしめ、持節吊祭せしめ、王に冊立して開府儀同三司、檢校太尉、持節大都督鷄林州諸軍事兼持節充寧海軍使上柱國新羅王と爲す。
 冊妻貞氏を妃と爲す。
 大宰相の金崇斌等三人に門戟を賜ふ。
 按ずるに、王妃は禮英角干女なり、今は貞氏と云ふも、未詳たり。

 二年、春正月。
 以て波珍飡亮宗を侍中と爲す。
 河西州、赤烏を進む。

 二月。
 王、神宮を親祀す。
 使を發して國内の隄防を修葺せしむ。

 秋七月。
 流星、紫微に入る。
 西原京、白雉を進む。

 冬十月。
 王子の金憲章を遣り唐に入らせしめ、金銀佛像及び佛經等を獻ぜしめ、上言し、順宗の祈福を爲す。
 流星、王良に入る。

 三年、春正月。
 侍中亮宗、病を以て免じ、伊飡の元興を侍中と爲す。

 二月。
 以て伊飡の雄元、完山州の都督と爲す。

 夏四月。
 御平議殿の聽政を始む。

 四年春。
 以て均貞を侍中と爲し、伊飡の忠永の年七十なるを以て、几杖を賜へり。

 秋九月。
 級飡の崇正を遣り北國に使せしむ。

 五年、春正月。
 以て伊飡の憲昌を武珍州の都督と爲す。

 二月。
 始祖廟に謁するも、玄德門に火あり。

 六年、春三月。
 羣臣を崇禮殿に於いて宴せしめ、樂極まり、王は鼓琴し、伊飡の忠榮は舞を起こす。

 夏五月。
 國西に大水、使を發して經水州郡の人民を撫問せしめ、一年の租調を復す。

 秋八月。
 京都に風霧すること夜の如し。
 武珍州都督の憲昌、入りて侍中と爲る。

 冬十月。
 黔牟大舍の妻、一(ひとたび)に三男を産む。

 七年、春正月。
 遣使して唐に朝すれば、憲宗引き見、宴して有差に賜ふ。

 夏五月。
 下雪。

 秋八月己亥朔。
 日之れを食する有り。
 西邊州郡大飢し、盜賊蜂起し、軍を出して討ちて之れを平ぐ。
 大星、翼軫の間に出、庚を指す芒の長さ六許尺、廣さ二許寸。

 八年、春正月。
 侍中の憲昌、出でて菁州の都督と爲り、璋如(ゆ)きて侍中と爲る。
 年荒れ民飢え、抵浙東の食を求むる者、一百七十人。
 漢山州の唐恩郡、石の長さ十尺、廣さ八尺、高さ三尺五寸、自ら移ること一百餘歩。

 夏六月。
 望德寺二塔戰ふ。

 九年、春正月。
 以て伊飡の金忠恭を侍中と爲す。

 夏五月。
 雨(あめふ)らず、遍く山川に祈り、秋七月に至り、乃ち雨(あめふ)る。

 冬十月。
 人多く飢死にし、敎州郡は倉穀を發して存恤す。
 王子の金張廉を遣り、唐に入らせ朝貢せしむ。

 十年、夏六月癸丑朔。
 日之れを食する有り。

 十一年、春正月。
 伊飡の眞元の年七十なるを以て、几杖を賜ふ。
 以て伊飡の憲貞、病みて行くこと能はず、年未だ七十ならざるも、金飾紫檀杖を賜ふ。

 二月。
 上大等の金崇斌卒し、伊飡の金秀宗を上大等と爲す。

 三月。
 草賊遍く起き、諸州郡の都督太守に命じ、之れを捕捉せしむ。

 秋七月。
 唐鄆州節度使の李師道叛く。
 憲宗將に討平せむと欲し、詔して楊州節度使趙恭を遣り、我が兵馬を徴發し、王は勅旨を奉じ、順天軍將軍の金雄元に命じ、甲兵三萬を率せしめて以て之れを助けせしむ。

 十二年、春夏。
 旱。
 冬飢ゆ。

 十一月。
 遣使して唐に入らせ朝貢せしめ、穆宗召して麟德殿にて見え、宴して有差に賜ふ。

 十三年、春。
 民饑え、子孫を賣り自活す。

 夏四月。
 侍中の金忠恭卒し、伊飡の永恭を侍中と爲し、菁州都督の憲昌、改めて熊川州都督と爲す。

 秋七月。
 浿江南川の二石戰ふ。

 冬十二月二十九日。
 大雷。

 十四年、春正月。
 以て母弟の秀宗を副君と爲し、月池宮に入らしむ。
 秀宗は或(あるいは)秀升と云ふ。

 二月。
 雪五尺、樹木枯る。

 三月。
 熊川州都督の憲昌、父の周元を以て王と爲すことを得ず、反叛し、國を長安と號し、建元慶雲元年、武珍、完山、菁、沙伐の四州の都督を脅し、國原、西原、金官の仕臣及び諸郡縣の守令、以て己の屬と爲す。
 菁州都督の向榮、身を脱して推火郡に走り、漢山、牛頭、歃良、浿江、北原等、先に憲昌の逆謀を知り、兵を擧げて自ら守る。

 十八日、完山長史の崔雄、阿飡正連の子の令忠等を助け、王京に遁走して之れを告げ、王即ち崔雄に位級飡、速含郡の太守、令忠に位級飡を授け、遂に員將八人を差し、王都八方を守り、然る後に出師す。
 一吉飡の張雄先に發し、迎飡の衛恭、波珍飡の悌凌之れに繼ぎ、伊飡の均貞、迎飡の雄元、大阿飡の祐徴等、三軍を掌(つかさど)り征に徂(ゆ)く。
 角干の忠恭、迎飡の允膺、蚊火關門を守る。
 明基、安樂の二郞、各(おのおの)從軍を請ひ、明基は徒衆と黄山に赴き、安樂は施彌知鎭に赴く。
 是に於いて、憲昌は其の將を遣り、要路に據りて以て待す。
 張雄は賊兵に道冬峴に於いて遇ひ、之れを撃ち敗る。
 衛恭、悌凌は張雄の軍と合ひ、三年山城を攻め、之れに克ち、兵を俗離山に進め、賊兵を撃ち之れを滅ぼす。
 均貞等は賊と黄山にて戰ひ、之れを滅ぼす。
 諸軍共に熊津に到り、賊と大いに戰ひ、斬獲すること計に勝(た)える可からず。
 憲昌僅かに身を以て免じ、城に入り守りを固む。
 諸軍は圍みて攻むること浹旬、城將に陷ちむとし、憲昌免れざるを知り、自ら死す。
 從者は首と身を斷ち、各(おのおの)藏る。
 城の陷に及び、其の身を古塚にて得て、之れを誅し、宗族黨與を戮すること、凡そ二百三十九人、其の民を縱つ。
 後に論功して有差に爵賞す。
 阿飡の祿眞に大阿飡を授位するも、辭して受けず。
 歃良州屈自郡の賊に近かれども、亂に汙(けが)れざるを以て、復七年。
 是れに先じて、菁州太守廳事南、池中に異鳥有り。
 身長五尺、色黑、頭は五歳許兒の如し、喙は長さ一尺五寸、目は人嗉の如し、五升許の器を受くるが如し、三日にして死するは、憲昌の敗亡する兆なり。
 角干忠恭の女の貞嬌を聘(たず)ね、太子妃と爲す。
 浿江山の谷間、顚木は蘖(ひこばえ)に生じ、一夜にして高さ十三尺、圍は四尺七寸。

 夏四月十三日。
 月の色は血の如し。

 秋七月十二日。
 日に黑暈有り、南北を指す。

 冬十二月。
 柱弼を遣り唐に入らせ朝貢せしむ。

 十五年、春正月五日。
 西原京に蟲有り天に從ひて墮つ。

 九日。
 白、黑、赤の三種の蟲有り、雪を冒し能く行き、陽を見(う)けて止まる。
 元順、平原の二角干、七十に老を告げ、几杖を賜ふ。

 二月。
 水城郡を唐恩郡に合す。

 夏四月十二日。
 流星、天市に起こり、帝座を犯し、天市東北、織女、王良を過ぎ、閣道に至り分かれて三を爲し、聲すること撃鼓の如くして滅す。

 秋七月。
 雪。

 十七年、春正月。
 憲昌の子の梵文、高達の山賊、壽神等百餘人と與に、謀叛を同じくし、都を平壤に立てむと欲して、北漢山城を攻む。
 都督の聰明、兵を率いて之れを捕へて殺す。
 平壤は今の楊州なり、太祖は莊義寺齋文の有する高麗舊壤平壤名山の句を製る。

 三月。
 武珍州の馬彌知縣の女人、兒を産むこと、二頭二身四臂、産む時に天は大雷す。

 夏五月。
 王子の金昕を遣り唐に入らせ朝貢せしめ、遂に奏言す、
 先に大學生、崔利貞、金叔貞、朴季業等在り、蕃に放ち還さむことを請ひ、其の新たに朝に金允夫、金立之、朴亮之等一十二人を赴かせしめ、宿衛に留まらむことを請ひ、仍りて國子監に配し業を習はせしめ、鴻臚寺の粮を給資することを請はむ、と。
 之れに從ふ。

 秋。
 歃良州、白馬を獻ず。
 牛頭州の大楊管郡の黄知奈麻の妻、一(ひとたび)に二男二女を産み、租一百石を賜はる。

 十八年、秋七月。
 牛岑太守の白永に命じ、漢山北諸州郡人一萬を徴し、浿江長城三百里を築かせしむ。

 冬十月。
 王薨じ、諡を憲德と曰ひ、泉林寺の北に葬る。
 古記に云く、在位十八年、寶曆二年丙午四月に卒す、と。
 新唐書に云く、長慶寶曆の間、羅王の彦昇卒す、と。
 而れども資理通鑑及び舊唐書皆云く、大和五年に卒す、と。
 豈に其れ誤りとせむか。