閔哀王

閔哀王

 閔哀王が王位に就いた。姓は金氏、諱は明である。
 元聖大王の曾孫で、大阿飡忠恭の子である。
 官を累積して上大等となり、侍中の利弘と王に迫ってこれを殺し、自ら王に立った。
 考を宣康大王、母の朴氏貴寶夫人を宣懿太后と追諡し、妻の金氏を允容王后とした。
 拜して伊飡の金貴を上大等に任命し、阿飡の憲崇を侍中に任命した。

 二月。
 金陽が兵士を募集し、淸海鎭に入って祐徴に謁見した。
 淸海鎭にいた阿飡の祐徴は、金明の簒位を聞いて鎭大使弓福に言った。
「金明は君主を弑殺して自らが立ち、利弘は道理もなく我が父を殺した。共に天を戴くことはできない。願わくば、将軍の兵を指揮することで、君父の仇に報いんことを。
 弓福は言った。
「古人の言葉に『義を見てせざるは勇なきなり』という。
 私は庸劣ではあるが、仰せの通りに致しましょう。」
 こうして兵五千人を分け、その友の鄭年とともに言った。
「貴方様で鳴ければ、禍乱を平定できません。」

 冬十二月。
 金陽は平東將軍となり、閻長、張弁、鄭年、駱金、張建榮、李順行とともに軍を統べ、武州鐵冶縣まで辿り着き、王は大監の金敏周に軍を出動させて迎戦せしめ、駱金、李順行を派遣し、馬軍三千を突撃させ、ほとんどすべてを殺傷した。

 二年、春閏正月。
 昼夜兼行した。

 十九日。
 達伐の丘まで辿り着いた。
 王は兵の到着を聞いて、伊飡の大昕、大阿飡の允璘、嶷勛等に兵の将帥を命じ、それを拒ませた。
 再度一戦し、大勝利を収めたが、王軍の死者は半数を超えた。
 この時、王は西郊大樹の下におり、左右は皆が散り散りとなり、独りで立ってどうしてよいかわからなくなっていた。入月の遊宅まで奔走したが、兵士が探し出してこれを害した。
 群臣は禮をもってこれを葬り、諡を閔哀とした。

 

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≪白文≫
 閔哀王立、姓金氏、諱明。
 元聖大王之曾孫也、大阿飡忠恭之子。
 累官爲上大等、與侍中利弘、逼王殺之、自立爲王。
 追諡考爲宣康大王、母朴氏貴寶夫人爲宣懿太后、妻金氏爲允容王后。
 拜伊飡金貴爲上大等、阿飡憲崇爲侍中。

 二月。
 金陽募集兵士、入淸海鎭、謁祐徴。
 阿飡祐徴在淸海鎭、聞金明簒位、謂鎭大使弓福曰、
 金明弑君自立、利弘枉殺吾父、不可共戴天也、願仗將軍之兵、以報君父之讎。
 弓福曰、
 古人有言、見義不爲無勇、吾雖庸劣、唯命是從。
 遂分兵五千人、與其友鄭年曰、
 非子、不能平禍亂。

 冬十二月。
 金陽爲平東將軍、與閻長、張弁、鄭年、駱金、張建榮、李順行統軍、至武州鐵冶縣、王使大監金敏周、出軍迎戰、遣駱金、李順行、以馬軍三千突撃、殺傷殆盡。

 二年、春閏正月。
 晝夜兼行。

 十九日。
 至于達伐之丘。
 王聞兵至、命伊飡大昕、大阿飡允璘、嶷勛等、將兵拒之。
 又一戰、大克、王軍死者過半。
 時、王在西郊大樹之下、左右皆散、獨立不知所爲、奔入月遊宅、兵士尋而害之。
 羣臣以禮葬之、諡曰閔哀。


≪書き下し文≫

 閔哀王立つ。
 姓は金氏、諱は明。
 元聖大王の曾孫なりて、大阿飡忠恭の子なり。
 官を累(かさ)ねて上大等と爲り、侍中の利弘に與し、王に逼り之れを殺し、自ら立ちて王と爲る。
 追諡して考を宣康大王と爲し、母の朴氏貴寶夫人を宣懿太后と爲し、妻の金氏を允容王后と爲す。
 拜して伊飡の金貴を上大等と爲し、阿飡の憲崇を侍中と爲す。

 二月。
 金陽、兵士を募集し、淸海鎭に入り、祐徴に謁す。
 阿飡の祐徴、淸海鎭に在り、金明の簒位を聞き、鎭大使弓福に謂ひて曰く、
 金明は君を弑して自ら立ち、利弘は吾が父を枉殺す、共に天を戴く可からざるなり、願はくば將軍の兵に仗(よ)り、以て君父の讎に報ひむ。
 弓福曰く、
 古人に言有り、義を見て爲さざれば勇無きなり、と。
 吾は庸劣と雖も、唯命是れ從ふ、と。
 遂に兵五千人を分け、其の友の鄭年と與に曰く、
 子に非ざれば、禍亂を平ぐこと能はず、と。

 冬十二月。
 金陽は平東將軍と爲り、閻長、張弁、鄭年、駱金、張建榮、李順行と與に軍を統べ、武州鐵冶縣に至り、王は大監金敏周をして、軍を出だせしめ迎戰せしめ、駱金、李順行を遣り、馬軍三千を以て突撃せしめ、殆盡を殺傷せしむ。

 二年、春閏正月。
 晝夜兼行す。

 十九日。
 達伐の丘に至る。
 王は兵の至るを聞き、伊飡の大昕、大阿飡の允璘、嶷勛等に命じ、兵を將(ひき)いせしめ之れを拒ませしむ。
 又た一戰、大いに克つも、王軍の死者は半ばを過ぐ。
 時に王、西郊大樹の下に在り、左右皆散り、獨り立ちて爲す所を知らず、入月の遊宅に奔るも、兵士尋(お)ひて之れを害す。
 羣臣は禮を以て之れを葬り、諡して閔哀と曰ふ。