文聖王

文聖王

 文聖王が擁立された。
 諱は慶膺、神武の王太子であり、母は貞繼夫人である(一説には定宗太后という)。

 八月。
 大赦した。
 次のように教を下した。
「淸海鎭大使の弓福は、かつて軍事によって神考を助け、先朝の巨賊を滅ぼした。その功烈は忘れることができるだろうか。そこで拜して鎭海將軍に任命し、同時に章服を賜うことにする。」

 二年、春正月。
 禮徵を上大等に、義琮を侍中に、良順を伊飡に任命した。

 自夏四月至六月、不雨。
 唐文宗は鴻臚寺に勑し、人質の子どもたちを送り出し、年齢が満ちた学生を帰国させた。どちらも一百五人である。

 冬。
 飢饉が起こった。

 三年、春。
 京都で疫病が起こった。
 一吉飡の弘弼が叛乱を謀ったが事が発覚し、海島に入って逃れた。これを捕まえようとしたが、捕獲できなかった。

 秋七月。
 唐武宗が勑を下した。
「帰国した新羅の官が以前に新羅に入った際、宣慰副使前充兗州都督府司馬賜緋魚袋の金雲卿を淄州長史に任命することで使者とした。
 王を開府儀同三司、檢校太尉使持節大都督雞林州諸軍事兼持節充寧海諸軍使上柱國新羅王に、妻朴氏を王妃に冊す。」

 四年、春三月。
 伊飡の魏昕の娘を納れて妃とした。

 五年、春正月。
 侍中の義琮が病気で罷免し、伊飡の良順が侍中となった。

 秋七月。
 五匹の虎が神宮園に入った。

 六年、春二月甲寅朔。
 日食があった。
 太白が鎭星を犯した。

 三月。
 京都に雹が降った。
 侍中の良順が引退し、大阿飡が金茹を侍中になった。

 秋八月。
 穴口鎭を置き、阿飡啓弘を鎭頭に任命した。

 七年、春三月。
 淸海鎭大使の弓福の娘を娶り、次妃にしようとしたが、朝臣が諫めた。
「夫婦の道は人の大倫です。
 だからこそ、夏は塗山によって興り、殷は㜪氏によって発展し、周は褒姒によって滅び、晉は驪姬によって乱れたのです。つまり、國の存亡とは、そこにあるもので、それでも謹まないべきでしょうか。現在、弓福は海島人なのです。その娘を王室に配すべきでしょうか。」
 王はそれに従った。

 冬十一月。
 雷が起こり、雪が降らなかった。

 十二月朔。
 三日連続で外出した。

 八年、春。
 淸海の弓福は、王が娘を納れなかったことを怨み、鎭を拠点にして叛乱した。
 朝廷は討伐しようとしたが、そこで不測の患が起こることを恐れ、これを放置しようとした。罪を赦すつもりはないとはいえ、どうするつもりかわからないことを憂慮したのである。
 当時、勇壮であると評判であった武州人の閻長なる者が告げに来た。
「朝廷は聴臣を寵愛しておりますが、わたくしは一卒も煩わせることなく、空拳を持って弓福を斬えい、そして献上しましょう。」
 王はそれに従った。
 閻長は国に叛乱を起こしたと嘘をつき、淸海に投降した。
 弓福は壮士を愛し、猜疑することなく上客として引き入れ、一緒にごちそうを食べながら歓楽を極めた。
 その酩酊に及んで弓福の劒を奪って斬り終え、その衆を召し、このことを説明すると、伏して動こうとしなかった。

 九年、春二月。
 平議の臨海二殿を重修した。

 夏四月。
 伊飡の良順、波珍飡興宗たちが叛乱し、誅に伏した。

 秋八月。
 王子を王太子に封じた。
 侍中の金茹が死去し、伊飡の魏昕は侍中となった。

 十年、春夏旱。
 侍中の魏昕が引退し、波珍飡の金啓明が侍中となった。

 冬十月。
 天から雷のような音が鳴った。

 十一年、春正月。
 上大等の禮徵が死去し、伊飡の義正が上大等となった。

 秋九月。
 伊飡金の貳大昕たちが叛乱し、誅に伏した。大阿飡の昕鄰も罪に緣坐した。

 十二年、春正月。
 土星が月に入った。
 京都で雨土、大風が木を抜いた。
 獄囚の殊死以下を赦した。

 十三年、春二月。
 淸海鎭を取りやめ、その人民を碧骨郡に移住させた。

 夏四月。
 霜が降った。
 入唐使の阿飡の元弘が仏経と仏牙を齎して来た。王は郊に出て歓迎した。

 十四年、春二月。
 波珍飡の眞亮が熊州都督となった。
 調府で火が起こった。

 秋七月。
 鳴鶴樓を重修した。

 冬十一月。
 王太子が死去した。

 十五年、夏六月。
 洪水が起こった。

 秋八月。
 西南の州郡に蝗が起こった。

 十七年、春二月。
 使者を出して西南の百姓を撫問させた。

 冬十二月。
 珍閣省災。
 土星が月に入った。

 十九年、秋九月。
 王が不慮の病となり、遺詔を降した。
「寡人はわずかながらの資質をもって崇高の位に就き、上に天帝の目にかかり罪を獲ることを恐れ、下に人心を失望させてしまいことを憂慮し、昼夜兢々して淵氷を涉るような気持ちであった。
 三事の大夫、百辟の卿士、左右の挾維に頼ることで、重器を墜さずにすんだ。
 現在、突然の疾疹に感染し、旬日に至り、ぼんやりとした意識の中、このまま死ぬ恐れがある。
 祖宗の大業を心に思えば、主をなくしてはならず、軍事国事のあらゆることは、片時もやめてはならない。
 顧みて舒弗邯の誼靖を心に思えば、先皇の令孫であり、寡人の叔父である。孝友明敏にして寬厚仁慈、久しく宰相として政務にあたり、王政を輔弼してきた。上には宗廟を祗奉せねばならず、下には蒼生を撫育せねばならぬ。ここで重負から解放され、この賢德に委ね、徳のある者に付託するのだ。さて、なにをまた恨むことがあるだろうか。
 いうまでもなく、生死始終は重大な事件のこと、寿命の長短は天命の常分である。逝く者は理に達さねばならず、存する者も哀しみ過ぎるようなことがあってはならない。かの汝ら多く士は、力と忠義を尽くし、死にゆくものも生きてゆくものも、禮に違うことがあってはならない。
 国内に布告し、朕の心のうちを明知せよ。」
 七日を越えて王は死去した。諡を文聖とし、孔雀趾に葬られた。


 

 戻る








≪白文≫
 文聖王立。
 諱慶膺、神武王太子、母貞繼夫人、一云定宗太后。

 八月。
 大赦。
 敎曰、
 淸海鎭大使弓福、嘗以兵助神考、滅先朝之巨賊、其功烈可忘耶。
 乃拜爲鎭海將軍、兼賜章服。

 二年、春正月。
 以禮徵爲上大等、義琮爲侍中、良順爲伊飡。

 自夏四月至六月、不雨。
 唐文宗勑鴻臚寺、放還質子及年滿合歸國學生、共一百五人。

 冬。
 饑。

 三年、春。
 京都疾疫。
 一吉飡弘弼謀叛、事發逃入海島、捕之不獲。

 秋七月。
 唐武宗勑、歸國新羅官、前入新羅、宣慰副使前充兗州都督府司馬賜緋魚袋金雲卿、可淄州長史、仍爲使。
 冊王爲開府儀同三司、檢校太尉使持節大都督雞林州諸軍事兼持節充寧海諸軍使上柱國新羅王、妻朴氏爲王妃。

 四年、春三月。
 納伊飡魏昕之女爲妃。

 五年、春正月。
 侍中義琮病免、伊飡良順爲侍中。

 秋七月。
 五虎入神宮園。

 六年、春二月甲寅朔。
 日有食之。
 太白犯鎭星。

 三月。
 京都雨雹。
 侍中良順退、大阿飡金茹爲侍中。

 秋八月。
 置穴口鎭、以阿飡啓弘爲鎭頭。

 七年、春三月。
 欲娶淸海鎭大使弓福女爲次妃、朝臣諫曰、
 夫婦之道、人之大倫也。
 故夏以塗山興、殷以㜪氏昌、周以褒姒滅、晉以驪姬亂。
 則國之存亡、於是乎在、其可不愼乎。
 今、弓福海島人也、其女豈可以配王室乎。
 王從之。

 冬十一月。
 雷、無雪。

 十二月朔。
 三日並出。

 八年、春。
 淸海弓福、怨王不納女、據鎭叛。
 朝廷將討之、則恐有不測之患、將置之、則罪不可赦、憂慮不知所圖。
 武州人閻長者、以勇壯聞於時、來告曰、
 朝廷幸聽臣、臣不煩一卒、持空拳、以斬弓福以獻。
 王從之。
 閻長佯叛國、投淸海。
 弓福愛壯士、無所猜疑、引爲上客、與之飮極歡。
 及其醉、奪弓福劒斬訖、召其衆說之、伏不敢動。

 九年、春二月。
 重修平議臨海二殿。

 夏四月。
 伊飡良順波珍飡興宗等叛、伏誅。

 秋八月。
 封王子爲王太子。
 侍中金茹卒、伊飡魏昕爲侍中。

 十年、春夏旱。
 侍中魏昕退、波珍飡金啓明爲侍中。

 冬十月。
 天有聲如雷。

 十一年、春正月。
 上大等禮徵卒、伊飡義正爲上大等。

 秋九月。
 伊飡金貳大昕等叛、伏誅、大阿飡昕鄰緣坐罪。

 十二年、春正月。
 土星入月。
 京都雨土、大風拔木。
 赦獄囚殊死已下。

 十三年、春二月。
 罷淸海鎭、徙其人於碧骨郡。

 夏四月。
 隕霜。
 入唐使阿飡元弘、齎佛經幷佛牙來、王出郊迎之。

 十四年、春二月。
 波珍飡眞亮爲熊州都督。
 調府火。

 秋七月。
 重修鳴鶴樓。

 冬十一月。
 王太子卒。

 十五年、夏六月。
 大水。

 秋八月。
 西南州郡、蝗。

 十七年、春二月。
 發使撫問西南百姓。

 冬十二月。
 珍閣省災。
 土星入月。

 十九年、秋九月。
 王不豫、降遺詔曰、
 寡人以眇末之資、處崇高之位、上恐獲罪於天鑑、下慮失望於人心、夙夜兢兢、若涉淵氷。
 賴三事大夫、百辟卿士、左右挾維、不墜重器。
 今者、忽染疾疹、至于旬日、怳惚之際、恐先朝露。
 惟祖宗之大業、不可以無主、軍國之萬機、不可以暫廢。
 顧惟舒弗邯誼靖、先皇之令孫、寡人之叔父、孝友明敏寬厚仁慈、久處台衡、挾贊王政、上可以祗奉宗廟、下可以撫育蒼生。
 爰釋重負、委之賢德、付託得人、夫復何恨。
 况生死始終、物之大期、壽夭脩短、命之常分。
 逝者可以達理、存者不必過哀。
 伊爾多士、竭力盡忠、送往事居、罔或違禮。
 布告國內、明知朕懷。
 越七日、王薨、諡曰文聖、葬于孔雀趾。



≪書き下し文≫
 文聖王立つ。
 諱は慶膺、神武の王太子、母は貞繼夫人、一に定宗太后と云ふ。

 八月。
 大赦す。
 敎に曰く、
 淸海鎭大使の弓福、嘗て兵を以て神考を助け、先朝の巨賊を滅ぼし、其の功烈は忘る可けむや。
 乃ち拜して鎭海將軍と爲し、兼ねて章服を賜ふ。

 二年、春正月。
 以て禮徵を上大等と爲しめ、義琮を侍中と爲しめ、良順を伊飡と爲せしむ。

 自夏四月至六月、不雨。
 唐文宗は鴻臚寺に勑し、放還の質子及び年滿合の歸國學生、共に一百五人たり。

 冬。
 饑ゆ。

 三年、春。
 京都疾疫す。
 一吉飡の弘弼、叛を謀るも事發して海島に逃れ入り、之れを捕ふるも獲ず。

 秋七月。
 唐武宗勑し、
 歸國の新羅官、前の新羅に入るとき、宣慰副使前充兗州都督府司馬賜緋魚袋の金雲卿に淄州長史を可(ゆる)し、仍りて使と爲す。
 王を冊して開府儀同三司、檢校太尉使持節大都督雞林州諸軍事兼持節充寧海諸軍使上柱國新羅王と爲しめ、妻朴氏を王妃と爲しむ。

 四年、春三月。
 伊飡の魏昕の女を納れて妃と爲す。

 五年、春正月。
 侍中の義琮病免し、伊飡の良順を侍中と爲す。

 秋七月。
 五虎、神宮園に入る。

 六年、春二月甲寅朔。
 日之れを食す有り。
 太白、鎭星を犯す。

 三月。
 京都に雨雹す。
 侍中の良順退き、大阿飡の金茹を侍中と爲す。

 秋八月。
 穴口鎭を置き、以て阿飡啓弘を鎭頭と爲せしむ。

 七年、春三月。
 淸海鎭大使の弓福の女(むすめ)を娶り次妃と爲さむと欲するも、朝臣諫めて曰く、
 夫婦の道は人の大倫なり。
 故に夏は塗山を以て興り、殷は㜪氏を以て昌し、周は褒姒を以て滅び、晉は驪姬を以て亂る。
 則ち國の存亡、是に於いてか在らむ、其の愼まざる可けむや。
 今、弓福は海島人なるや、其の女、豈に以て王室に配す可けむや、と。
 王之れに從ふ。

 冬十一月。
 雷、無雪。

 十二月朔。
 三日並び出る。

 八年、春。
 淸海の弓福、王の女を納れざることを怨み、鎭に據りて叛く。
 朝廷將に之れを討たむとするも、則ち不測の患を有らしむることを恐れ、將に之れを置かむとす。
 則ち罪赦す可からず、圖する所を知らざることを憂慮す。
 武州人の閻長なる者、勇壯を以て時に聞こえ、告げに來たりて曰く、
 朝廷は聽臣を幸(さいはひ)するも、臣は一卒も煩はず、空拳を持ち、以て弓福を斬りて以て獻ず、と。
 王之れに從ふ。
 閻長、叛國を佯(たくら)び、淸海に投ず。
 弓福は壯士を愛し、猜疑する所無し、引きて上客と爲し、之れと與に飮じ歡を極む。
 其の醉に及び、弓福の劒を奪ひ斬り訖え、其の衆を召して之れを說けば、伏して動くことを敢へてせず。

 九年、春二月。
 平議の臨海二殿を重修す。

 夏四月。
 伊飡の良順、波珍飡興宗等叛き、誅に伏す。

 秋八月。
 封じて王子を王太子と爲す。
 侍中の金茹卒し、伊飡の魏昕は侍中と爲る。

 十年、春夏旱。
 侍中魏昕退き、波珍飡の金啓明は侍中と爲る。

 冬十月。
 天に聲有ること雷の如し。

 十一年、春正月。
 上大等の禮徵卒し、伊飡の義正は上大等と爲る。

 秋九月。
 伊飡金の貳大昕等叛き、誅に伏し、大阿飡の昕鄰も罪に緣坐す。

 十二年、春正月。
 土星入月。
 京都雨土、大風木を拔く。
 獄囚の殊死已下を赦す。

 十三年、春二月。
 淸海鎭を罷め、其の人を碧骨郡に徙(うつ)す。

 夏四月。
 霜隕る。
 入唐使の阿飡の元弘、佛經幷びに佛牙を齎して來たり、王は郊に出て之れを迎ゆ。

 十四年、春二月。
 波珍飡の眞亮、熊州都督と爲る。
 調府に火あり。

 秋七月。
 鳴鶴樓を重修す。

 冬十一月。
 王太子卒す。

 十五年、夏六月。
 大水。

 秋八月。
 西南の州郡、蝗あり。

 十七年、春二月。
 使を發ちて西南の百姓を撫問せしむ。

 冬十二月。
 珍閣省災。
 土星、月に入る。

 十九年、秋九月。
 王の不豫、遺詔を降して曰く、
 寡人は眇末の資を以て崇高の位に處(お)り、上に天鑑に罪を獲ることを恐れ、下に人心を失望せしむることを慮り、夙夜兢兢とすること、淵氷を涉るが若し。
 三事の大夫、百辟の卿士、左右の挾維に賴り、重器を墜とさず。
 今者、忽として疾疹に染し、旬日に至り、怳惚の際、先朝の露を恐る。
 祖宗の大業を惟(おもむみ)れば、以て主を無からしむ可からず、軍國の萬機、以て暫廢す可からず。
 顧みて舒弗邯の誼靖を惟(おもむみ)れば、先皇の令孫、寡人の叔父、孝友明敏にして寬厚仁慈、久しく台衡に處(お)り、王政を挾贊し、上に以て宗廟を祗奉す可し、下に以て蒼生を撫育す可し。
 爰(ここ)に重負を釋(ゆる)し、之の賢德に委ね、得人に付託し、夫れ復た何を恨まむ。
 况や生死始終は物の大期、壽夭の脩短は命の常分なり。
 逝く者は以て理に達す可し、存する者は哀を過ぐることを必せず。
 伊(か)の爾(なんじ)ら多士、力を竭し忠を盡し、送往事居、禮に違ふこと或る罔(な)し。
 國內に布告し、朕の懷(こころのうち)を明知すべし、と。
 七日を越え、王薨じ、諡を文聖と曰ひ、孔雀趾に葬る。