景明王

景明王

 景明王が擁立された。
 諱は昇英、神德王の太子である。
 母は義成王后である。

 元年、八月。
 拜して王弟伊飡の魏膺を上大等に任命し、大阿飡の裕廉を侍中に任命した。

 二年、春二月。
 一吉飡の玄昇が叛乱を起こしたが、誅に伏した。

 夏六月。
 弓裔麾下の人心が突然変わり、太祖を推戴した。
 弓裔が出奔し、下民に殺された。
 太祖が即位し、称元した。

 秋七月。
 尙州の賊帥の阿玆盖が遣使して太祖に降った。

 三年。
 四天王寺の塑像が手に持っていた弓の弦が自ら絶たれ、壁画の狗子が吠えるような声をあげた。
 上大等の金成を角飡に任命し、侍中の彦邕を沙飡に任命した。
 我が太祖が都を松岳郡に移した。

 四年、春正月。
 王と太祖が聘を交えて好を修めた。

 二月。
 康州の將軍閏雄が太祖に降った。

 冬十月。
 後百濟主の甄萱が步騎一万を率い、大耶城を攻め陷とし、進禮に進軍した。
 王は阿飡の金律を派遣し、太祖に救援を求めた。
 太祖は軍隊を出動させて救援しようと命じ、それを聞いた萱はすぐに去った。

 五年、春正月。
 金律が王に告げた。
「わたくしは往年、高麗に使者を奉っておりますが、麗王はわたくしに質問しました。
 新羅には三つの宝――丈六尊像、九層塔、それと聖帶――があると聞いた。
 像と塔は現在も存しているが、聖帶が今もまだあるか知っているだろうか、と。
 わたくしはそれに答えることができませんでした。」
 それを聞いた王は群臣に質問した。
「聖帶とは、何の宝物だろうか。」
 それを知っている者はいなかった。
 時に皇龍寺には年齢九十歳を過ぎた僧がいて、それが言った。
「私はかつてこのように聞いた。
 寶帶は眞平大王が着用していたもので、歷代これを伝え、南庫に保管したという。」
 王は遂に庫を開かせたが、見つけることができなかった。擇日の齋祭に及んでから、その後にそれを見つけることができた。
 それは金玉があしらわれ、甚だ長く、常人ではない人を束ねるものであった。

 本件について論じよう。
 古では明堂に坐し、伝国の璽を執り、九鼎を列し、それが帝王の盛事であるとされてきた。
 しかしながら、韓公はこれを論じて言った。
「天人の心に帰し、太平の基を興すのは、決して三器にできることではない。」
 三器を立て、それを重しとすること、これは誇者の言葉であろう。
 これら新羅の三宝と呼ばれるものは言うまでもなく、また人の為の贅沢によって出てきただけで、これがどうして国家の為になることだとすべきだろうか。
 孟子は言った。
「諸侯の三つの宝、それは土地、人民、政事である。」
 楚書にいう。
「楚国には宝とするものはない。ただ善こそが宝である。」
 このように、これを内に行うには、一国を善くすることで足り、これを外に推すには、四海に恩沢を広めることで足りる。
 またどうして外物によって足るをいうのだろうか。
 太祖は新羅人が説いたことを聞いてそれを質問しただけだ。
 それを尚ぶべきであるとしたわけではないのだ。

 二月。
 靺鞨の別部であった達姑の衆勢が辺境北部を侵略しに来た。
 この時、太祖の将であった堅權鎭朔州が騎兵を率いて攻撃し、これを大いに破り、馬の一匹さえも帰さなかった。
 王は喜んで遣使して書を移し、太祖に感謝した。

 夏四月。
 京都の大風が樹を抜いた。

 秋八月。
 蝗と旱魃が起こった。

 六年、春正月。
 下枝城將軍の元逢、溟州將軍の順式が太祖に降った。
 太祖はその帰順を心に思い、元逢の本城を順州とし、順式に王の姓を賜った。
 この月、眞寶城の將軍洪述が太祖に降った。

 七年、秋七月。
 命旨城將軍の城達、京山府將軍の良文たちが太祖に降った。
 王は倉部侍郞の金樂、錄事叅軍の金幼卿を派遣し、後唐に訪朝させて方物を貢がせた。
 莊宗は物をそれぞれ別に賜った。

 八年、春正月。
 後唐に遣使して朝貢させた。
 泉州節度使の王逢規もまた遣使して方物を貢がせた。

 夏六月。
 朝散大夫倉部侍郞の金岳を派遣し、後唐に入らせて朝貢させ、莊宗は朝議大夫試衛尉卿を授けた。

 秋八月。
 王が死去した。
 諡を景明とし、黃福寺の北に葬られた。
 太祖は遣使して弔祭させた。

 

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≪白文≫
 景明王立。
 諱昇英、神德王之太子。
 母、義成王后。

 元年、八月。
 拜王弟伊飡魏膺爲上大等、大阿飡裕廉爲侍中。

 二年、春二月。
 一吉飡玄昇叛、伏誅。

 夏六月。
 弓裔麾下人心忽變、推戴太祖。
 弓裔出奔、爲下所殺。
 太祖卽位、稱元。

 秋七月。
 尙州賊帥阿玆盖、遣使降於太祖。

 三年。
 四天王寺塑像所執弓弦自絶、壁畫狗子有聲、若吠者。
 以上大等金成爲角飡、侍中彦邕爲沙飡。
 我太祖移都松岳郡。

 四年、春正月。
 王與太祖交聘修好。

 二月。
 康州將軍閏雄、降於太祖。

 冬十月。
 後百濟主甄萱、率步騎一萬、攻陷大耶城、進軍於進禮。
 王遣阿飡金律求援於太祖。
 太祖命將出師救之、萱聞乃去。

 五年、春正月。
 金律告王曰、
 臣往年奉使高麗、麗王問臣曰、
 聞新羅有三寶、所謂丈六尊像、九層塔幷聖帶也。
 像塔猶存、不知聖帶今猶在耶。
 臣不能答。
 王聞之、問羣臣曰、
 聖帶是何寶物耶。
 無能知者。
 時有皇龍寺僧、年過九十者曰、
 予嘗聞之。
 寶帶是眞平大王所服也、歷代傳之、藏在南庫。
 王遂令開庫、不能得見、乃以擇日齋祭、然後見之。
 其粧以金玉、甚長、非常人所可束也。

 論曰、
 古者坐明堂、執傳國璽、列九鼎、其若帝王之盛事者也。
 而韓公論之曰、
 歸天人之心、興太平之基、決非三器之所能也。
 竪三器而爲重者、其誇者之詞耶。
 况此新羅所謂三寶、亦出於人爲之侈而已、爲國家、何須此耶。
 孟子曰、
 諸侯之寶三。
 土地、人民、政事。
 楚書曰、
 楚國無以爲寶、惟善以爲寶。
 若此者、行之於內、足以善一國、推之於外、足以澤四海。
 又何外物之足云哉。
 太祖聞羅人之說而問之耳、非以爲可尙者也。

 二月。
 靺鞨別部達姑衆、來寇北邊。
 時、太祖將堅權鎭朔州、率騎擊大破之、匹馬不還。
 王喜、遣使移書、謝於太祖。

 夏四月。
 京都大風拔樹。

 秋八月。
 蝗旱。

 六年、春正月。
 下枝城將軍元逢、溟州將軍順式、降於太祖。
 太祖念其歸順、以元逢本城爲順州、賜順式姓曰王。
 是月、眞寶城將軍洪述、降於太祖。

 七年、秋七月。
 命旨城將軍城達、京山府將軍良文等、降於太祖。
 王遣倉部侍郞金樂、錄事叅軍金幼卿、朝後唐貢方物。
 莊宗賜物有差。

 八年、春正月。
 遣使入後唐朝貢。
泉州節度使王逢規、亦遣使貢方物。

 夏六月。
 遣朝散大夫倉部侍郞金岳、入後唐朝貢、莊宗授朝議大夫試衛尉卿。

 秋八月。
 王薨。
 諡曰景明、葬于黃福寺北。
 太祖遣使弔祭。



≪書き下し文≫
 景明王立つ。
 諱は昇英、神德王の太子なり。
 母は義成王后なり。

 元年、八月。
 拜して王弟伊飡の魏膺を上大等と爲らしめ、大阿飡の裕廉を侍中と爲らしむ。

 二年、春二月。
 一吉飡の玄昇叛くも、誅に伏す。

 夏六月。
 弓裔麾下の人心忽として變じ、太祖を推戴す。
 弓裔出奔し、下の殺す所と爲る。
 太祖卽位し、稱元す。

 秋七月。
 尙州の賊帥阿玆盖、遣使して太祖に降る。

 三年。
 四天王寺の塑像の執る所の弓弦、自ら絶ち、壁畫の狗子に聲有り、吠ゆる者が若し。
 以て上大等の金成を角飡と爲らしめ、侍中の彦邕を沙飡と爲らしむ。
 我が太祖、都を松岳郡に移す。

 四年、春正月。
 王と太祖、聘を交えて好を修む。

 二月。
 康州の將軍閏雄、太祖に降る。

 冬十月。
 後百濟主の甄萱、步騎一萬を率い、大耶城を攻め陷し、進禮に進軍す。
 王は阿飡の金律を遣り太祖に求援せしむ。
 太祖は將に出師して之れを救はむことを命じ、萱聞きて乃ち去る。

 五年、春正月。
 金律、王に告げて曰く、
 臣は往年、高麗に使するを奉り、麗王は臣に問ひて曰く、
 新羅に三寶有るを聞けり、所謂丈六尊像、九層塔幷びに聖帶なり。
 像塔は猶ほ存す、聖帶の今猶ほ在らむを知らむや、と。
 臣は答ふること能はず。
 王之れを聞き、羣臣に問ひて曰く、
 聖帶是れ何の寶物や、と。
 能く知る者無し。
 時に皇龍寺僧、年は九十を過ぐる者有りて曰く、
 予嘗て之れを聞けり。
 寶帶是れ眞平大王の服する所なるや、歷代之れを傳へ、藏りて南庫に在り。
 王遂に庫を開かせしめるも、見を得るに能はず、以て擇日の齋祭に乃(およ)び、然る後に之れを見ゆ。
 其れ粧するに金玉を以てし、甚だ長く、非常の人の束ぬる可き所なり。

 論じて曰く、
 古者は明堂に坐し、傳國の璽を執り、九鼎を列し、其れ帝王の盛事なる者が若きなり。
 而れどもに韓公は之れを論じて曰く、
 天人の心に歸し、太平の基を興すは、決して三器の能ふ所に非ざるなり、と。
 三器を竪てて重しと爲す者、其れ誇者の詞か。
 况や此れ新羅の所謂三寶、亦た人爲の侈に出るのみ、國家の爲、何須(なんすれ)ぞ此れならむや。
 孟子曰く、
 諸侯の寶三。
 土地、人民、政事、と。
 楚書に曰く、
 楚國に以て寶と爲す無し、惟だ善以て寶と爲す、と。
 此の若きは、之れを內に行ひ、一國を善くするを以て足り、之れを外に推すは、四海を澤するを以て足れり。
 又た何ぞ外物の足の云へるかな。
 太祖、羅人の說を聞きて之れを問ふのみ。
 以て尙ぶ可き者と爲すに非ざるなり。

 二月。
 靺鞨別部達姑衆、北邊を寇しに來たり。
 時に太祖將の堅權鎭朔州、騎を率いて擊ちて大いに之れを破り、匹馬も還らず。
 王喜び、遣使して書を移せしめ、太祖に謝す。

 夏四月。
 京都の大風、樹を拔く。

 秋八月。
 蝗旱。

 六年、春正月。
 下枝城將軍の元逢、溟州將軍の順式、太祖に降る。
 太祖、其の歸順を念(おも)ひ、以て元逢の本城を順州と爲し、順式に姓を賜ひて王と曰ふ。
 是の月、眞寶城の將軍洪述、太祖に降る。

 七年、秋七月。
 命旨城將軍城達、京山府將軍良文等、太祖に降る。
 王、倉部侍郞の金樂、錄事叅軍の金幼卿を遣り、後唐に朝せしめて方物を貢がせしむ。
 莊宗、物を有差に賜へり。

 八年、春正月。
 遣使して後唐に入らせ朝貢せしむ。
 泉州節度使の王逢規、亦た遣使して方物を貢がせしむ。

 夏六月。
 朝散大夫倉部侍郞の金岳を遣り、後唐に入らしめて朝貢せしめ、莊宗は朝議大夫試衛尉卿を授く。

 秋八月。
 王薨ず。
 諡を景明と曰ひ、黃福寺の北に葬らる。
 太祖、遣使して弔祭せしむ。