景哀王が擁立された。
諱は魏膺、景明王の同母弟である。
元年、九月。
遣使して太祖に訪聘した。
冬十月。
神宮に親祀し、大赦した。
二年、冬十月。
高鬱府將軍の能文が太祖に投降した。
これを労い諭して帰らせ、その城をもって迫近させたのは、新羅王都であるが故である。
十一月。
後百濟主の甄萱が姪の眞虎を高麗の人質とした。
王はそれを聞いたが、使者が太祖に言った。
「甄萱は裏切りといつわりの多い奴です。和親してはなりません。」
太祖はそれに同意した。
三年、夏四月。
眞虎が突然死した。
「甄萱は高麗人が殺したせいだと考え、怒って兵を挙げ、熊津に進軍した。
太祖は壁を堅めて出撃しないよう諸城に命じた。
王は使者を派遣して言った。
「甄萱は盟に違って挙兵したのだ。天は助けるはずがない。もし大王が一鼓の威を振るえば、甄萱は必ず自ら破れることになるでしょう。」
太祖は使者に言った。
「私は甄萱を畏れているのではない。また悪が満ちて自らを死に導くだけだ。」
四年、春正月。
太祖が百濟に親征した。
王は兵を出してこれに助力した。
二月。
兵部侍郞の張芬等を後唐に派遣し、朝貢させた。
唐は張芬に檢校工部尙書を授け、副使兵部郞中の朴術洪に御史中丞を兼任させ、判官倉部員外郞の李忠式に侍御史を兼任させた。
三月。
皇龍寺の塔が搖れ動いて北に傾いた。
太祖は親(みずか)ら近品城を破った。
唐明宗が權知康州事の王逢規を懷化大將軍に任命した。
夏四月。
知康州事の王逢規と遣使の林彦が後唐に入って朝貢した。
明宗が召して中興殿で相対し、物を賜った。
康州所管突山等の四鄕が太祖に帰順した。
秋九月。
甄萱は高鬱府で我が軍を侵した。
王が救援を太祖に要請すると、将に勁兵一万を出して救援に向かうように命じたが、甄萱は増援の兵がまだ到着していないことから、冬十一月をもってすばやく王京に入った。
王と妃嬪宗戚は鮑石亭に遊んで宴娯していたので、賊兵の到来に気づかず、あわててすぐにどうしてよいかわからなかった。
王と妃は奔走して後宮に入り、宗戚と公卿大夫士の女は四散奔走して逃竄した。
その賊の捕虜となってしまった者は、貴賤なく皆が汗を流して驚愕し、地面に這いつくばりながら奴僕となりたいと懇願して逃げなかった。
こうして甄萱はその兵を放ち、公私の財物を剽掠して悉くを掠奪し、宮門から入り込んで居座り、そのまま左右に命じて王を捜索した。後宮にいた王と妃、妾数人を拘束し、軍中に送致した。
王に自殺するように迫り、王妃を強姦し、その部下を放ってその妃妾を乱暴した。
そこで王の族弟を立て、仮初に国事を統括させ、これを敬順王とした。
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