敬順王

敬順王

 敬順王が擁立された。
 金氏、諱は傅。文聖大王の裔孫、孝宗伊湌の子、母は桂娥太后である。
 甄萱が即位させられ、前王の屍を挙げて西堂に殯(もがり)をし、群下と上に慟哭した。
 謚を景哀とし、南山の蟹目嶺に葬った。
 太祖が遣使して弔った。

 元年、十一月。
 考を神興大王、母を王大后と追尊した。

 十二月。
 甄萱が大木郡を侵して田野に積まれた収穫物を焼き尽くした。

 二年、春正月。
 髙麗の將の金相が草八城の賊の興宗と戦ったが、勝つことなくそこで死んだ。

 夏五月。
 康州の將軍の有文が甄萱に降った。

 六月。
 地震が起こった。

 秋八月。
 甄萱が將軍官昕に陽山での築城を命じたが、太祖は命旨城將軍の王忠に兵を率いてこうげきするように命じ、これを逃走させた。
 甄萱は進軍して大耶城下に駐屯し、軍士を分けて派遣し、大木郡の禾稼を刈り取った。

 冬十月。
 甄萱が武谷城を攻め陥した。

 三年、夏六月。
 天笁国の三藏摩睺羅が髙麗に抵した。

 秋七月。
 甄萱が義城府城を攻めた。
 髙麗將の洪述が戦に出たが、勝たずしてそこで死んだ。
 順州將軍の元逢が甄萱に降った。
 それを聞いた太祖は怒りを感じたが、元逢の前功をもってこれを宥め、伹攺順州を縣とした。

 冬十月。
 甄萱が加恩縣を包囲したが勝つことなく帰った。

 四年、春正月。
 載巖城將軍の善弼が髙麗に降った。
 太祖は厚禮して接待し、尚父と称した。
 事の始まりは太祖が新羅とよしみを通じようとしたときのこと、善弼がそれを引いて先導したのである。ここに至って降ることになった。
 功績があり、しかも老年であることを心に思ったため、これを寵褒したのである。
 太祖は甄萱と古昌郡の甁山の下(ふもと)で戦い、大いに勝利して、甚だ多くを殺害あるいは捕虜にした。
 その永安、河曲、直明、松生等三十余りの郡縣が相次いで太祖に降った。

 二月。
 太祖が遣使して勝利を報告すると、王は聘の報いを兼ねて相㑹を要請した。

 秋九月。
 国東部の㳂海州郡の部落が悉く太祖に降った。

 五年、春二月。
 太祖は五十余りの騎を率いて京畿に入って密かに謁見した。
 王と百官は郊迎し、宮に入って相対し、つぶさに情禮を尽くした。
 宴を臨海殿で開いて酒盛りをし、王は言った。
「私は天祐を受けられず、禍乱を積むことになりました。
 甄萱はほしいままに不義を行い、我が国家を喪ぼし、この痛みをどうすればいいのでしょうか。」
 こうして泫然として涙を流し、左右に嗚咽しない者はいなかった。太祖もまた涙を流して慰藉し、これによって数十日留まって駕を廻し、王は見送りに穴城まで辿り着くと、堂弟の裕廉を人質として駕に随伴させた。
 太祖麾下の軍士は肅正で、秋毫を犯すことなく、都人士女は互いに慶び合って言った。
「昔、甄氏が来たときは豺や虎に遭遇したようであったが、今の王公のご来訪は父母と会うがようである。」

 秋八月。
 太祖は遣使して王に錦彩、鞍馬を遺し、群僚將士にも布帛をそれぞれ別に賜った。

 六年、春正月。
 地震が起こった。

 夏四月。
 便執事侍郎の金昢、副使司賔卿李儒を唐に派遣して朝貢させた。

 七年。
 唐の明宗が髙麗に遣使して錫命した。

 八年、秋九月。
 老人星が現れた。
 運州界の三十余りの郡縣が太祖に降った。

 九年、冬十月。
 王は四方の土地が悉く他の所有となり、国は弱くなり勢力が孤立していることをもって自ら安ずることはできないとし、群臣と下謀し、国土を挙げて太祖に降ることにした。
 群臣の議では、あるものは賛成し、あるものは反対した。
 王子は言った。
「国の存亡には必ず天命があります。ひたすら忠臣義士と合して民心を収合し、力尽きて後に已むものです。一千年の社稷をもって一度のことで軽々しく人に与えてよいものでしょうか。」
 王は言った。
「孤が危ぶんでいるのはこのようなことだ。勢力を全うすることはできない。
 既に強くなることもできず、同時に弱くなることもできない。無辜の民に肝脳を地に塗れさせるのは、私には耐えられぬことである。」
 こうして侍郞の金封休に書簡を渡し、太祖に降伏を請うた。
 王子は哭泣して王の元を去り、まっすぐに皆骨山に帰った。巖に依って家屋とし、麻衣を着て草を食べ、その身を終えた。

 十一月。
 太祖は王の書簡を受け、大相の王鐵たちに送って迎え入れた。
 王は百寮を率いて王都から出発し、太祖に帰順した。香車寶馬は三十里余りに渡って連なり、道路は塡咽し、観る者が群がって垣根のようであった。
 太祖は郊迎に出でて労うと、宮東甲第一區を賜わり、長女の樂浪公主をその妻とした。

 十二月。
 正丞公に封じた。位は太子の上である。給祿は一千石、侍從員將を皆錄してこれを用いた。新羅を慶州と改め、公の食邑とした。
 新羅が降った当初のこと、太祖は甚だ喜び、これを厚禮をもって接待した後、使者を出して告げた。
「今回、王は国をもって寡人に与えましたが、その為に大いに賞賜しましょう。願わくば、宗室と婚姻によって、永らく甥舅の好を結びませんか。」
 答えて言った。
「我が伯父の億廉匝干は、大耶郡の知事をしておりました。その娘は德容雙美であり、この者でなければ内政に備えることはできませんよ。」
 太祖は遂にこれを取って子を生み、これが顯宗の考として安宗と追封された。
 景宗獻和大王に至り、正承公女を聘し、納れて王妃とし、そのため正承公を尚父令に封じた。
 公は大宋興國四三年戊寅に至り、死去すると、諡を敬順とされた。(一説には孝哀という。)
 新羅國は始祖よりここに至るまでを分けて三代とする。
「初代から眞德に至るまでの二十八王、これを上代という。
 武烈から惠恭に至るまでの八王、これを中代という。
 宣德より敬順に至るまでの二十王、これを下代という。

 


 本件について論じよう。
 新羅の朴氏、昔氏はいずれも卵から生まれた。
 金氏は天に従って金の櫃に入って降った、あるいは金車に乘っていたともいう。
 これは非常に詭怪な話であり、信じることはできない。
 しかしながら、世俗の人々が互いに伝え合い、これを事実としている。
 政和中、我が朝は尚書の李資諒を宋に派遣し、朝貢させた。
 わたくし富軾も書記としての任に預かり、輔として随行した。
 佑神神舘に詣でると、一堂に設けられた女仙像を拝観した。
 舘伴學士の王黼は言った。
「これは貴国の神様ですよ。あなたがたはご存じですか?」
 続けて言った。
「古の帝室に夫なくして孕んだ女がおりまして、人に疑われることになりました。こうして海を渡ることになり、辰韓に辿り着いてから子を生み、これが海東の始主となり、帝女は地仙となり、いつまでも仙桃山に住み続けました。それがその像です。」
 わたくしがまた大宋國信使の王襄の祭東神聖母文を見れば、『娠賢肇邦』の句があった。つまり東神則ち仙桃山を司る神聖の者である。
 そうであるとはいえ、その子がいつ王になったかはわからず、現在は原初に遡ることができるのみである。
 上にある者とは、それが己の為には倹約し、それが人の為には寛大に、それが官を設ければ簡略に、それが事を行うならば簡潔に。至誠をもって中国に仕え、海を越え山を越え、朝聘の使は相続いて絶やすことなく、常に子弟を派遣し、朝を造って宿衛し、入学して講習し、ここに聖賢の風化を代を重ねて引き継ぎ、鴻荒の俗を改革し、禮義の邦となった。
 また王師の威霊に憑き、百濟、高句麗を平定し、その地を取ってこれを郡縣とした。盛況というべきであろう。
 しかしながら浮屠の法を奉り、その弊害に気付かなかった。閭里を使役してその塔廟を並べることになり、平民たちは僧人の服に逃れ、兵農は浸小し、こうして国家は日に日に衰えていった。このように乱れて亡われなかった国がどれほどあるだろうか。
 この時のこともそうである。景哀がこれに荒んだ快楽によって参加し、宮人左右ともども、外出して鮑石亭で遊び、酒を置いて宴会を開き、甄萱が来ていることにも気付かなかった。これでは『門外の韓擒虎、樓頭の張麗華』と異なることがないではないか。
 敬順の太祖に帰命したことについては、やむを得ないことであったとはいえ、また喜ばしきことである。
 懸命になって戦守して死に向かわせることで王師に抗い、力屈して勢力を追い詰めることになれば、必ずその宗族を転覆させ、害は無辜の民に及ぶことになる。
 こうしてこのように告命を待たず、府庫籍郡縣に封じ、これに帰順した。これによって朝廷による功績も、生民への德も甚だ大きなものであった。
 昔、錢氏は吳越を宋に入れ、それを蘇子瞻は忠臣と呼んだが、現在の新羅の功徳は、これを遥かに凌いでいる。
 我が太祖は、妃嬪の数は多く、その子孫もまた増え広がっている。
 こうして顯宗は新羅外孫から宝位に即し、この後に継統する者は、皆がその子孫である。これが陰徳の報いでなければ、なんであろうか。

 

 戻る








≪白文≫
 敬順王立。
 金氏諱傅、文聖大王之裔孫孝宗伊湌之子也。
 母、桂娥太后。
爲甄萱所舉即位、舉前王屍、殯於西堂、與羣下慟哭上。
 謚曰景哀。
 葬南山、蟹目嶺。
 太祖遣使弔。

 元年、十一月。
 追尊考爲神興大王母爲王大后。

 十二月。
 甄萱侵大木郡燒盡田野積聚。

 二年、春正月。
 髙麗將金相與草八城賊興宗戰、不克死之。

 夏五月。
 康州將軍有文降於甄萱。

 六月。
 地震。

 秋八月。
 甄萱命將軍官昕築城於陽山、太祖命命旨城將軍王忠率兵擊走之。
 甄萱進屯於大耶城下、分遣軍士、芟取大木郡禾稼。

 冬十月。
 甄萱攻䧟武谷城。

 三年、夏六月。
 天笁國、三藏摩睺羅抵髙麗。

 秋七月。
 甄萱攻義城府城。
 髙麗將洪述出戰、不克死之。
 順州將軍元逢降於甄萱。
 太祖聞之、怒然以元逢前㓛、宥之、伹攺順州爲縣。

 冬十月。
 甄萱圍加恩縣不克而歸。

 四年、春正月。
 載巖城將軍善弼降髙麗。
 太祖厚禮待之、稱爲尚父。
 初、太祖將通好新羅善弼引噵之、至是降也。
 念其有㓛且老、故寵褒之。
 太祖與甄萱戰古昌郡甁山之下、大捷、殺虜甚衆。
 其永安、河曲、直明、松生等三十餘郡縣相次降於太祖。

 二月。
 太祖遣使告捷、王報聘兼請相㑹。

 秋九月。
 國東㳂海州郡部落、盡降於太祖。

 五年、春二月。
 太祖率五十餘騎至京畿逋謁。
 王與百官郊迎、入宮相對、曲盡情禮。
 置宴於臨海殿、酒酣、王言曰、
 吾以不天、寖致禍亂。
 甄萱恣行不義、喪我國家、何痛如之。
 因泫然涕泣、左右無不嗚咽、太祖亦流涕慰藉。
 因留數旬廻駕、王送至穴城、以堂弟裕廉為質、隨駕焉。
 太祖麾下軍士肅正、不犯秋毫、都人士女相慶曰、
 昔甄氏之來也、如逢豺虎。
 今王公之至也、如見父母。

 秋八月。
 太祖遣使、遺王以錦彩、鞍馬、幷賜群僚將士布帛、有差。

 六年、春正月。
 地震。

 夏四月。
 遣便執事侍郎金昢、副使司賔卿李儒、入唐朝貢。

 七年。
 唐明宗遣使髙麗、錫命。

 八年、秋九月。
 老人星見。
 運州界三十餘郡縣降於太祖。

 九年、冬十月。
 王以四方土地、盡為他有、國弱勢孤、不能自安、乃與群下謀、擧土降太祖。
 群臣之議、或以為可、或以為不可。
 王子曰、
 國之存亡、必有天命、只合與忠臣義士、收合民心、自固力盡而後已、豈宜以一千年社稷、一旦輕以與人。
 王曰、
 孤危若此、勢不能全。
 旣不能强、又不能弱、至使無辜之民、肝腦塗地、吾所不能忍也。
 乃使侍郞金封休、齎書請降於太祖。
 王子哭泣辭王、徑歸皆骨山。
 倚巖為屋、麻衣草食、以終其身。

 十一月。
 太祖受王書、送大相王鐵等迎之。
 王率百寮、發自王都、歸于太祖。
 香車寶馬、連亘三十餘里、道路塡咽、觀者如堵。
 太祖出郊迎勞、賜宮東甲第一區、以長女樂浪公主妻之。

 十二月。
 封為正丞公、位在太子之上、給祿一千石、侍從員將、皆錄用之。
 改新羅為慶州、以為公之食邑。
 初、新羅之降也、太祖甚喜、旣待之以厚禮、使告曰、
 今王以國與寡人、其為賜大矣。
 願結昏於宗室、以永甥舅之好。
 答曰、
 我伯父億廉匝干、知大耶郡事、其女子德容雙美、非是、無以備內政。
 太祖遂取之生子、是顯宗之考、追封為安宗。
 至景宗獻和大王、聘正承公女、納為王妃、仍封正承公為尚父令。
 公至大宋興國四三年戊寅、薨、諡曰敬順。一云孝哀。
 新羅國自始祖至此、分爲三代。
 自初至眞德二十八王、謂之上代。
 自武烈至惠恭八王、謂之中代。
 自宣德至敬順二十王、謂之下代云。
 論曰、
 新羅朴氏、昔氏皆自卵生。
 金氏從天入金櫃而降、或云乘金車、此尤詭怪不可信。
 然世俗相傳、為之實事。
 政和中、我朝遣尚書李資諒、入宋朝貢。
 臣富軾以文翰之任、輔行。
 詣佑神神舘、見一堂設女仙像。
 舘伴學士王黼曰、
 此貴國之神、公等知之乎。
 遂言曰、
 古有帝室之女、不夫而孕、為人所疑。
 乃泛海抵辰韓生子、為海東始主、帝女為地仙、長在仙桃山、此其像也。
 臣又見大宋國信使王襄祭東神聖母文、有娠賢肇邦之句、乃知東神則仙桃山神聖者也。
 然而不知其子王於何時、今但原厥初。
 在上者、其為己也儉、其為人也寬、其設官也略、其行事也簡、以至誠事中國、梯航朝聘之使、相續不絶、常遣子弟、造朝而宿衛、入學而講習、于以襲聖賢之風化、革鴻荒之俗、為禮義之邦。
 又憑王師之威靈、平百濟、高句麗、取其地郡縣之、可謂盛矣。
 而奉浮屠之法、不知其弊、至使閭里、比其塔廟、齊民逃於緇褐、兵農浸小、而國家日衰、則幾何其不亂且亡也哉。
 於是時也、景哀加之以荒樂、與宮人左右、出遊鮑石亭、置酒燕衎、不知甄萱之至、與夫門外韓擒虎、樓頭張麗華、無以異矣。
 若敬順之歸命太祖、雖非獲已、亦可嘉矣。
 向若力戰守死、以抗王師、至於力屈勢窮、則必覆其宗族、害及于無辜之民。
 而乃不待告命、封府庫籍郡縣、以歸之、其有功於朝廷、有德於生民、甚大。
 昔、錢氏以吳、越入宋、蘇子瞻謂之忠臣、今新羅功德、過於彼遠矣。
 我太祖、妃嬪衆多、其子孫亦繁衍、而顯宗自新羅外孫、卽寶位、此後繼統者、皆其子孫、豈非陰德之報者歟。



≪書き下し文≫
 敬順王立つ。
 金氏、諱は傅、文聖大王の裔孫、孝宗伊湌の子なり。
 母は桂娥太后。
 甄萱の即位を舉ぐる所と爲り、前王の屍を舉げ、西堂に殯し、羣下と上に慟哭す。
 謚を景哀と曰ふ。
 南山の蟹目嶺に葬る。
 太祖、遣使して弔せしむ。

 元年、十一月。
 追尊して考を神興大王と爲らしめ、母を王大后と爲らしむ。

 十二月。
 甄萱、大木郡を侵して田野の積聚を燒き盡くす。

 二年、春正月。
 髙麗の將の金相、草八城の賊の興宗と戰ひ、克たずして之に死す。

 夏五月。
 康州の將軍の有文、甄萱に降る。

 六月。
 地震。

 秋八月。
 甄萱、將軍官昕に命じて陽山に築城せしむるも、太祖は命旨城將軍の王忠に命じて兵を率いせしめて擊たせて之れを走らせしむ。
 甄萱、進みて大耶城下に屯(たむろ)し、分けて軍士を遣り、大木郡の禾稼を芟り取る。

 冬十月。
 甄萱、武谷城を攻め䧟とす。

 三年、夏六月。
 天笁國、三藏摩睺羅、髙麗に抵す。

 秋七月。
 甄萱、義城府城を攻む。
 髙麗將の洪述は戰に出ずるも、克たずして之れに死す。
 順州將軍の元逢、甄萱に降る。
 太祖之れを聞き、怒然とするも元逢の前㓛を以て之れを宥め、伹攺順州を縣と爲す。

 冬十月。
 甄萱、加恩縣を圍むも克たずして歸す。

 四年、春正月。
 載巖城將軍の善弼、髙麗に降る。
 太祖、厚禮して之れを待し、稱して尚父と爲す。
 初め、太祖將に好を通じむとして新羅の善弼之れを引きて噵く、是に至り降るなり。
 其の有㓛且つ老を念(おも)ひ、故に之れを寵褒す。
 太祖、甄萱と古昌郡の甁山の下に戰ひ、大いに捷(か)ち、殺虜すること甚だ衆(おお)し。
 其の永安、河曲、直明、松生等三十餘郡縣、相ひ次いで太祖に降る。

 二月。
 太祖、遣使して捷(か)ちを告げ、王は聘に報ひて兼ねて相㑹を請へり。

 秋九月。
 國東の㳂海州郡の部落、盡く太祖に降る。

 五年、春二月。
 太祖、五十餘の騎を率いて京畿に至り逋(ひそ)かに謁す。
 王と百官郊迎し、宮に入り相對し、曲(つぶさ)に情禮を盡す。
 宴を臨海殿に置き、酒酣(さかもり)をし、王言ひて曰く、
 吾は以て天(てんのたすくるところにあら)ず、禍亂を寖(つも)り致す。
 甄萱は恣(ほしいまま)に不義を行ひ、我が國家を喪ぼし、痛するは之れ何如せむ。
 因りて泫然として涕泣し、左右に嗚咽せざる無し、太祖亦た涕を流して慰藉す。
 因りて數旬留まりて駕を廻し、王送りて穴城に至り、堂弟の裕廉を以て質と為し、駕に隨へり。
 太祖麾下の軍士は肅正、秋毫を犯さず、都人士女相ひ慶びて曰く、
 昔甄氏の來たるや、豺虎に逢ふが如し。
 今の王公の至るや、父母に見えるが如し、と。

 秋八月。
 太祖遣使し、王に遺すに錦彩、鞍馬を以てし、幷びに群僚將士に布帛を有差に賜へり。

 六年、春正月。
 地震。

 夏四月。
 便執事侍郎の金昢、副使司賔卿李儒を遣り、唐に入らしめて朝貢せしむ。

 七年。
 唐の明宗、髙麗に遣使し、錫命す。

 八年、秋九月。
 老人星見(あらは)る。
 運州界三十餘郡縣、太祖に降る。

 九年、冬十月。
 王、四方の土地、盡く他の有(もちもの)と為り、國弱く勢孤するを以て、自ら安ずること能はず、乃ち群と下謀し、土を擧げて太祖に降る。
 群臣の議、或は以て可と為し、或は以て不可と為す。
 王子曰く、
 國の存亡、必ず天命有り、只だ忠臣義士と合ひ、民心を收合し、自ら固より力盡くして後に已む、豈に宜しく一千年の社稷を以て、一旦輕以て人に與せむ。
 王曰く、
 孤の危は此の若し、勢は全うするに能はず。
 旣に强に能はざりて、又た弱に能はず、無辜を民して肝腦を地に塗れせしむるに至るは、吾の忍ぶに能はざる所なり、と。
 乃ち侍郞の金封休をして書を齎し、太祖に降を請へり。
 王子、哭泣して王を辭し、徑(まっすぐ)に皆骨山に歸す。
 巖に倚り屋と為し、麻衣草食し、以て其の身を終ゆ。

 十一月。
 太祖は王書を受け、大相王鐵等に送り之れを迎ゆ。
 王は百寮を率い、王都より發し、太祖に歸す。
 香車寶馬、三十餘里に連なり亘り、道路は塡咽し、觀る者は堵(かきね)の如し。
 太祖は郊迎に出でて勞ひ、宮東甲第一區を賜ひ、長女の樂浪公主を以て之れを妻とせり。

 十二月。
 封じて正丞公と為し、位は太子の上に在り、給祿一千石、侍從員將、皆錄して之れを用ゆ。
 新羅を改めて慶州と為し、以て公の食邑と為す。
 初め、新羅の降るや、太祖甚だ喜び、旣に之れを待ちて以て厚禮し、使して告げて曰く、
 今、王の國を以て寡人に與し、其の為に賜は大ならむや。
 願はくば宗室に昏を結び、以て永らく甥舅の好ならむ、と。
 答へて曰く、
 我が伯父の億廉匝干、大耶郡の事を知(つかさど)り、其の女子は德容雙美、是れに非ざれば、以て內政に備ふるもの無し。
 太祖遂に之れを取り子を生み、是れ顯宗の考、追封して安宗と為す。
 景宗獻和大王に至り、正承公女を聘し、納れて王妃と為し、仍りて正承公を封じて尚父令と為す。
 公は大宋興國四三年戊寅に至り、薨じ、諡を敬順と曰ふ。一に孝哀と云ふ。
 新羅國は始祖より此に至り、分かれて三代と爲る。
 初より眞德に至る二十八王、之れを上代と謂ふ。
 武烈より惠恭に至る八王、之れを中代と謂ふ。
 宣德より敬順に至る二十王、之れを下代と謂ふ云。
 論じて曰く、
 新羅の朴氏、昔氏、皆卵より生ず。
 金氏は天に從ひ金櫃に入りて降り、或(あるいは)金車に乘ると云ふ。
 此れ尤る詭怪にして信ずる可からず。
 然れども世俗相ひ傳へ、之れを實事と為す。
 政和中、我が朝は尚書の李資諒を遣り、宋に入らせ朝貢せしむ。
 臣富軾は文翰の任を以て、輔して行く。
 佑神神舘に詣(まひ)り、一堂の女仙像を設くに見ゆ。
 舘伴學士の王黼曰く、
 此れ貴國の神、公等は之れを知らむや。
 遂に言ひて曰く、
 古に帝室の女有り、夫なくして孕み、人の疑ふ所と為る。
 乃ち海を泛り辰韓に抵して子を生み、海東の始主と為り、帝女は地仙と為り、長らく仙桃山に在り、此れ其の像なり、と。
 臣は又た大宋國信使の王襄の祭東神聖母文を見れば、娠賢肇邦の句有り、乃ち東神則ち仙桃山を知(つかさど)る神聖の者なり。
 然るに而れども其の子の何時に王たるを知らず、今は但だ厥初を原(たず)ぬるのみ。
 上に在る者、其れ己の為なるや儉、其の人の為なるや寬、其の官を設くるや略、其の事を行ふや簡、至誠を以て中國に事へ、梯航朝聘の使、相ひ續きて絶へず、常に子弟を遣り、朝を造りて宿衛し、入學して講習し、于して以て聖賢の風化を襲ひ、鴻荒の俗を革め、禮義の邦と為る。
 又た王師の威靈に憑き、百濟、高句麗を平げ、其の地を取りて之れを郡縣とし、盛と謂ふ可きかな。
 而れども浮屠の法を奉り、其の弊を知らず、閭里を使して其の塔廟を比(なら)ぶに至り、齊民は緇褐に逃れ、兵農は浸小し、而りて國家は日に衰うは、則ち幾何(いくら)か其れ亂且つ亡にあらずや。
 是の時に於けるや、景哀之れを加ふるに荒樂を以てし、宮人左右と與に、出でて鮑石亭に遊び、酒を置きて燕衎し、甄萱の至るを知らず、夫れ門外の韓擒虎、樓頭の張麗華と異を以てすること無からむや。
 敬順の太祖に歸命するが若きは、已むを獲ざると雖も、亦た嘉(よろこ)ぶ可きかな。
 若力に戰守の死に向かひ、以て王師に抗ひ、力屈して勢窮するに至れば、則ち必ず其の宗族は覆り、害は無辜の民に及ぶ。
 而りて乃ち告命を待たず、府庫籍郡縣に封じ、以て之れに歸し、其れ朝廷に功有り、生民に德有り、甚だ大なり。
 昔、錢氏は以て吳越を宋に入らしめ、蘇子瞻は之れを忠臣と謂ひ、今の新羅の功德、彼の遠に過ぐ。
 我が太祖、妃嬪衆多(かずおおし)、其の子孫亦た繁衍たり。
 而りて顯宗は新羅外孫より寶位に卽し、此の後に繼統する者、皆其の子孫、豈に陰德の報なる者に非ざらむか。