慕本王、諱は解憂(一説には解愛婁とも言われている)。 大武神王の元子である。
閔中王が死去し、後を継いで即位した。
その人となりは残虐で道理に悖る"人でなし"で、国事など心にもなく、百姓は彼を怨んだ。
【元年】
[秋八月]
大洪水で山崩れが二十餘所で起こった。
[冬十月]
王子の翊を擁立して王太子とした。
【二年】
[春]
将軍を派遣し、漢北平、漁陽、上谷、太原を襲撃した。
その後、遼東太守の祭事を、情け深く誠実な態度で待ち、再度和睦を結ぶことになった。
[三月]
暴風が吹き荒れ、樹を抜いた。
[夏四月]
霜が降り、雨雹が降った。
[秋八月]
使者を出して國内の餓えた人民に賑恤した。
【四年】
王の暴虐は日に日に増していき、座るときはいつも人を椅子にして座り、寝転ぶときは人を枕にした。
それに対して動揺する者がいれば容赦なく殺し、臣下の中に諫言する者があれば、弓矢でそれを射殺した。
【六年】
[冬十一月]
杜魯が自らの君主を弑殺した。杜魯は慕本人である。
もともと彼は王の側近として左右に侍していたが、いつか王に殺されるのではないかと恐れ、ついには泣き出してしまった。
ある人が彼に問うた。
「あなたのような偉丈夫ともあろうものが、どうして泣くのだ。」
ふと、古人の言葉を思い出した。
「私をいたわればあなたは君主、私をいたぶればあなたは仇讐」
今、王は暴虐の限りを尽くして人を殺している――つまり、百姓の仇讐。(※1)
かくして杜魯はそれを企図し、刀を隠して王前に進む。
王は一歩引き、二歩引くと、その場にへたり込んでしまった。
杜魯は刀を抜き、"それ"を害した。
"それ"は慕本原に葬られ、慕本王と號された。
※1 『私をいたわればあなたは君主、私をいたぶればあなたは仇讐』
原文は「撫我則后、虐我則讎(我を撫すれば則ち后、我を虐すれば則ち讎)」であり、書経・周書泰誓下の引用。典拠は、周武王が殷紂王を討伐する際に周兵に向けた演説の一部。
そこでも本文と同様に古人の言葉として述べられている。(古人有言曰、撫我則后、虐我則仇)
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