現代語訳 | |
太祖大王、〈あるいは国祖王とも伝わる。〉
三年、春二月、遼西に十の城を築き、漢兵に備えた。
四年、秋七月、東沃沮を
七年、夏四月、王は孤岸淵に行って魚を観た。釣りをして赤い
十年、秋八月、東で狩猟をして白鹿を手に入れた。国の南で
十六年、秋八月、曷思王の孫の都頭が国ごと降伏しに来た。都頭を于台にした。
二十年、春二月、貫那部の沛者の達賈を派遣して藻那を
二十二年、冬十月、王は桓那部の沛者の薛儒を派遣して朱那を
二十五年、冬十月、扶餘からの使者が三つの角を持つ鹿、長い尾を持つ兎を謙譲しに来た。王はこれらが瑞物だと考え、大赦した。
四十六年、春三月、王は東の柵城を巡った。柵城の西の罽山までたどり着くと、白鹿を獲た。柵城にたどり着いてから、群臣と一緒に酒宴を開き、柵城の守衛の吏員に差をつけて物段を賜った。こうして功績を岩に記録し、そのまま還った。 五十年、秋八月、使者を遣わせて柵城を安撫した。
五十三年、春正月、扶餘の使者が虎を献上した。体長は二丈、毛の色は非常に明るく、しっぽがなかった。王は将を派遣して漢の遼東に入らせると、六縣で掠奪した。太守の耿夔が兵を出して防ぎ、王の軍は大敗した。
五十五年、秋九月、王が質山の南側で狩猟し、紫の 五十六年、春に大旱魃があり、夏になると大地が赤くなった。民が飢饉に陥り、王は蔵を開いて賑恤させた。 五十七年、春正月、使者を漢に遣わせ、安帝の元服を祝賀した。
五十九年、使者を漢に遣わせ、地方の産物を貢献し、玄菟に属したいと求めた。〈通鑑には、「この年の三月、高句麗王の宮は穢貊を伴って玄菟を
六十二年、春三月、日食があった。
六十四年、春三月、日食があった。
六十六年、春二月、地震があった。
六十九年、春、漢の幽州刺史の馮煥、玄菟太守の姚光、遼東太守の蔡風が兵を引き連れて侵しに来て、撃って穢貊の 七十年、王が馬韓、穢貊を伴って遼東を侵すと、扶餘王が兵を遣わせて救援し、これを破った。〈馬韓は百済の温祚王二十七年をもって滅んだが、今回は高句麗王とともに行軍しているのは、滅んでから復興したということだろうか?〉 七十一年、冬十月、沛者の穆度婁を左輔とし、高福章を右輔とし、遂成と共同で政事に参与させた。
七十二年、秋九月の
八十年、秋七月、遂成が倭山で狩猟し、左右とともに宴を開いていた。そこで貫那の于台の彌儒、桓那の于台の菸支留、沸流那の皀衣の陽神等がこっそりと遂成に言った。 八十六年、春三月、遂成が質山の南側で狩猟し、七日しても帰らず、度を外して享楽に耽っていた。秋七月にも、また箕丘で狩猟し、五日してようやく帰ってきた。彼の弟の伯固が諫めて、「『災禍と幸福が自ら手引きしてくれることはない。人から招き寄せられるのみである。』今のあなたは王の弟という親類であるがゆえに百寮の首領となり、既に官位は極まっておられます。功績も多大なものです。ですから、どうか忠義を心に懐き、礼節と謙譲によって己私たることを克服なされ、上は王と徳に同じくし、下は民の心を得られよ。そうした後にこそ富と貴位は自身から離れず、禍乱が起こることもなくなるのです。今でこそ、(禍乱は)ここには出現しておりませんが、だからといって享楽をむさぼり、憂いを忘れるようであれば、気づかぬうちに足下に危険を招き寄せてしまいますぞ。」と言ったが、「おおよそ人の情というものは、誰であろうと富裕と貴位にあって歓喜と享楽とを求めない者などおらんだろうが! それなのに、それを得る者は万に一人もおらぬ。今の俺は享楽を得る権勢にありながら、それなのにしたいことを欲しいがままにできぬのだ。そんなことが聴き入れられるか!」と答え、そのまま従わなかった。
九十年、秋九月、丸都に地震があった。王は夜に夢を見た。とある豹が虎の尾を齧って断ち切ったのである。目覚めてその吉凶を問うと、ある人は言った。
九十四年、秋七月、遂成が倭山の |
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注記 | |
(※1)太祖大王、〈あるいは国祖王とも伝わる。〉諱(いみな)は宮、小名は於漱 後漢書東夷伝や魏志韓伝では、諱の宮の名で登場する。
(※2)古鄒加
(※3)再思
(※4)扶餘
(※5)社稷
(※6)太后は大王の玉座の後ろに簾を垂らし、その中に座って政務を執った。
(※7)遼西
(※8)東沃沮
(※9)薩水
(※10)孤岸淵
(※11)赤い翅(はね)の白魚
(※12)白鹿
(※13)曷思
(※14)貫那部
(※15)沛者
(※16)藻那
(※17)桓那部
(※18)朱那
(※19)柵城
(※20)罽山
(※21)遼東
(※22)太守
(※23)貊人
(※24)質山
(※25)紫の獐(のろ)、朱豹
(※26)東海谷守
(※27)大地が赤くなった。
(※28)安帝
(※29)元服
(※30)玄菟
(※31)通鑑
(※32)穢貊
(※33)華麗城
(※34)幽州刺史
(※35)王は弟の遂成を派遣し、
(※36)鮮卑
(※37)遼隧縣
(※38)新昌
(※39)兵曹掾、兵馬掾
(※40)尉仇台
(※41)〈馬韓は百済の温祚王二十七年をもって滅んだが、今回は高句麗王とともに行軍しているのは、滅んでから復興したということだろうか?〉
(※42)倭山
(※43)貫那の于台、桓那の于台、沸流那の皀衣
(※44)箕丘
(※45)彼の弟の伯固
(※46)『災禍と幸福が自ら手引きしてくれることはない。人に招き寄せられるのみである。』
(※47)己私たることを克服
(※48)丸都
(※49)安平縣
(※50)帯方郡令
(※51)楽浪太守
(※52)天の暦数はそなたの身に備わっている。
(※53)後漢書
(※54)海東古記
(※55)孝桓帝
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漢文 | |
太祖大王、〈或云國祖王。〉諱宮、小名於漱、琉璃王子古鄒加再思之子也。母太后、扶餘人也。慕本王薨、太子不肖、不足以主社稷、國人迎宮繼立。王生而開目能視、幼而岐嶷。以年七歳、太后垂簾聽政。
三年、春二月、築遼西十城、以備漢兵。秋八月、國南蝗害穀。 四年、秋七月、伐東沃沮、取其土地爲城邑、拓境東至滄海、南至薩水。 七年、夏四月、王如孤岸淵觀魚、釣得赤翅白魚。秋七月、京都大水、漂沒民屋。 十年、秋八月、東獵得白鹿。國南飛蝗害穀。 十六年、秋八月、曷思王孫都頭、以國來降。以都頭爲于台。冬十月、雷。 二十年、春二月、遣貫那部沛者達賈、伐藻那、虜其王。夏四月、京都旱。 二十二年、冬十月、王遣桓那部沛者薛儒、伐朱那、虜其王子乙音、為古鄒加。 二十五年、冬十月、扶餘使來、獻三角鹿、長尾兎、王以為瑞物、大赦。十一月、京都、雪三尺。 四十六年、春三月、王東巡柵城、至柵城西罽山、獲白鹿。及至柵城、與群臣宴飲、賜柵城守吏物段有差、遂紀功於岩、乃還。冬十月、王至自柵城。 五十年、秋八月、遣使安撫柵城。 五十三年、春正月、扶餘使來、獻虎、長丈二、毛色甚明而無尾。王遣將入漢遼東、奪掠六縣。太守耿夔出兵拒之、王軍大敗。秋九月、耿夔擊破貊人。 五十五年、秋九月、王獵質山陽、獲紫獐。冬十月、東海谷守獻朱豹、尾長九尺。 五十六年、春大旱、至夏赤地。民饑、王發使賑恤。 五十七年、春正月、遣使如漢、賀安帝加元服。 五十九年、遣使如漢、貢獻方物、求屬玄菟。〈通鑑言、是年三月、麗王宮與穢貊、寇玄菟。不知或求屬或寇耶、抑一誤耶。〉 六十二年、春三月、日有食之。秋八月、王巡守南海。冬十月、至自南海。 六十四年、春三月、日有食之。冬十二月、雪五尺。 六十六年、春二月、地震。夏六月、王與穢貊襲漢玄菟、攻華麗城。秋七月、蝗雹、害穀。八月、命所司、擧賢良孝順、問鰥寡孤獨及老不能自存者、給衣食。 六十九年、春、漢幽州刺史馮煥、玄菟太守姚光、遼東太守蔡風、將兵來侵、擊殺穢貊渠帥、盡獲兵馬財物。王乃遣弟遂成、領兵二千餘人、逆煥、光等。遂成遣使詐降、煥等信之。遂成因據險以遮大軍、潛遣三千人、攻玄菟、遼東二郡、焚其城郭、殺獲二千餘人。夏四月、王與鮮卑八千人、往攻遼隧縣 遼東太守蔡風、將兵出於新昌、戰沒。兵曹掾龍端、兵馬掾公孫、以身扞諷、倶歿於陣、死者百餘人。冬十月、王幸扶餘、祀太后廟。存問百姓窮困者、賜物有差。肅愼使來、獻紫狐裘及白鷹、白馬、王宴勞以遣之。十一月、王至自扶餘。王以遂成統軍國事。十二月、王率馬韓、穢貊一萬餘騎、進圍玄菟城。扶餘王遣子尉仇台、領兵二萬、與漢兵幷力拒戰、我軍大敗。 七十年、王與馬韓、穢貊侵遼東、扶餘王遣兵救破之。〈馬韓以百濟溫祚王二十七年、滅、今與麗王行兵者、盖滅而復興者歟。〉 七十一年、冬十月、以沛者穆度婁為左輔、高福章為右輔、令與遂成參政事。 七十二年、秋九月庚申晦、日有食之。冬十月、遣使入漢朝貢。十一月、京都地震。 八十年、秋七月、遂成獵於倭山、與左右宴。於是、貫那于台彌儒、桓那于台菸支留、沸流那皀衣陽神等等、陰謂遂成曰、初、慕本之薨也、太子不肖、群寮欲立王子再思、再思以老讓子者、欲使兄老弟及。今王旣已老矣、而無讓意、惟吾子計之。遂成曰、承襲必嫡、天下之常道也。王今雖老、有嫡子在、豈敢覬覦乎。彌儒曰、以弟之賢、承兄之後、古亦有之、子其勿疑。於是、左輔沛者穆度婁、知遂成有異心、稱疾不仕。 八十六年、春三月、遂成獵於質陽、七日不歸、戱樂無度。秋七月、又獵箕丘、五日乃反。其弟伯固諫曰、禍福無門、惟人所召。今子以王弟之親、為百寮之首、位已極矣、功亦盛矣。宜以忠義存心、禮讓克己、上同王德、下得民心。然後富貴不離於身、而禍亂不作矣。今不出於此、而貪樂忘憂、竊為足下危之。答曰、凡人之情、誰不欲富貴而歡樂者哉、而得之者、萬無一耳。今吾居可樂之勢、而不能肆志、將焉用哉。遂不從。 九十年、秋九月、丸都地震。王夜夢、一豹齧斷虎尾。覺而問其吉凶、或曰、虎者、百獸之長。豹者、同類而小者也。意者王之族類、殆有謀絶大王之後者乎。王不悅、謂右輔高福章曰、我昨夢有所見、占者之言如此、為之奈何。答曰、作不善、則吉變為凶。作善、則災反為福。今大王憂國如家、愛民如子、雖有小異、庸何傷乎。 九十四年、秋七月、遂成獵於倭山之下、謂左右曰、大王老而不死、吾齒卽將暮矣、不可待也。惟願左右、為我計之。左右皆曰、敬從命矣。於是、一人獨進曰、向、王子有不祥之言、而左右不能直諫、皆曰敬從命者、可謂姦且諛矣。吾欲直言、未知尊意如何。遂成曰、子能直言、藥石也、何疑之有。其人對曰、今大王之賢、內外無異心、子雖有功、率群下姦諛之人、謀廢明上、此何異將以單縷、繫萬鈞之重而倒曳乎。雖復愚人、猶知其不可也。若王子改圖易慮、孝順事上、則大王深知王子之善、必有揖讓之心、不然則禍將及也。遂成不悅。左右妬其直、讒於遂成曰、王子以大王年老、恐國祚之危、欲為後圖、此人妄言如此、我等惟恐漏洩、以致患也、宜殺以滅口。遂成從之。秋八月、王遣將、襲漢遼東西安平縣、殺帶方令、掠得樂浪大守太守妻子。冬十月、右輔高福章言於王曰、遂成將叛、請先誅之。王曰、吾旣老矣、遂成有功於國、吾將禪位、子無煩慮。福章曰、遂成之為人也、忍而不仁。今日受大王之禪、則明日害大王之子孫。大王但知施惠於不仁之弟、不知貽患於無辜之子孫乎、願大王熟計之。王不聽。十二月、王謂遂成曰、吾旣老、倦於萬機。天之曆數在汝躬、況汝內參國政、外摠軍事、久有社稷之功、允塞臣民之望、吾所付託、可謂得人。汝其卽位、永孚于休。乃禪位、退老於別宮、稱為大祖大王。〈後漢書云、安帝建光元年、高句麗王宮死、子遂成立。玄菟太守姚光上言、欲因其喪、發兵擊之。議者皆以為可許。尚書陳忠曰、宮前桀黠、光不能討、死而擊之、非義也。宜遣吊問、因責讓前罪、赦不加誅、取其後善。安帝從之。明年、遂成還漢生口。案海東古記、高句麗國祖王高宮以後漢建武二十九年、癸丑即位、時年七歲、國母攝政。至孝桓帝本初元年丙戌、遜位讓母弟遂成、時、宮年一百歲、在位九十四年、則建光元年、是宮在位第六十九年。則漢書所記、與古記抵捂不相符合。豈漢書所記誤耶。〉 |
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書き下し文 | |
三年、春二月、遼西に十城を築き、以ちて
四年、秋七月、東沃沮を
七年、夏四月、
十年、秋八月、東に獵りて白き鹿を得たり。國の南に
十六年、秋八月、曷思の
二十年、春二月、貫那部の沛者の達賈を遣はして、藻那を
二十二年、冬十月、
二十五年、冬十月、扶餘の
四十六年、春三月、
五十年、秋八月、
五十三年、春正月、扶餘の
五十五年、秋九月、
五十六年、春に大いに
五十七年、春正月、
五十九年、
六十二年、春三月、日之れを
六十四年、春三月、日之れを食むこと有り。
六十六年、春二月、
六十九年、春、漢の幽州刺史の馮煥、玄菟太守の姚光、遼東太守の蔡風、
七十年、
七十一年、冬十月、以ちて沛者の穆度婁を左輔
七十二年、秋九月の
八十年、秋七月、遂成は倭山に於いて
八十六年、春三月、遂成は質の
九十年、秋九月、丸都に
九十四年、秋七月、遂成は倭山の 大守太守→太守 |