焚巣館 -三国史記 第十五巻 訖解尼師今-

太祖大王



現代語訳
 太祖大王、〈あるいは国祖王とも伝わる。〉 いみな は宮、小名は於漱、琉璃王の息子の古鄒加の再思の息子である。母の太后は扶餘人である。慕本王は薨去したが、太子が不肖であったので、社稷の主には不足だとして、国の人は宮を迎え入れ、後継に立てた。王は生まれながらにして目を開いて視力があり、幼少から立ち振る舞いが立派であった。年齢が七歳であることから、太后は大王の玉座の後ろに簾を垂らし、その中に座って政務を執った。

 三年、春二月、遼西に十の城を築き、漢兵に備えた。
 秋八月、国の南で いなご が穀物を害した。

 四年、秋七月、東沃沮を ち、その土地を取って城邑とした。国境の開拓は、東は大海まで至り、南は薩水まで至った。

 七年、夏四月、王は孤岸淵に行って魚を観た。釣りをして赤い はね の白魚を手に入れた。
 秋七月、京都 みやこ に洪水があり、民の家屋が流され、水没した。

 十年、秋八月、東で狩猟をして白鹿を手に入れた。国の南で飛蝗 いなご が穀物を害した。

 十六年、秋八月、曷思王の孫の都頭が国ごと降伏しに来た。都頭を于台にした。
 冬十月、雷があった。

 二十年、春二月、貫那部の沛者の達賈を派遣して藻那を ち、その王を捕虜にした。
 夏四月、京都 みやこ に旱魃があった。

 二十二年、冬十月、王は桓那部の沛者の薛儒を派遣して朱那を ち、その王子の乙音を捕虜とし、古鄒加にした。

 二十五年、冬十月、扶餘からの使者が三つの角を持つ鹿、長い尾を持つ兎を謙譲しに来た。王はこれらが瑞物だと考え、大赦した。
 十一月、京都 みやこ に雪が降り、三尺ほど積もった。

 四十六年、春三月、王は東の柵城を巡った。柵城の西の罽山までたどり着くと、白鹿を獲た。柵城にたどり着いてから、群臣と一緒に酒宴を開き、柵城の守衛の吏員に差をつけて物段を賜った。こうして功績を岩に記録し、そのまま還った。
 冬十月、王が柵城から帰ってきた。

 五十年、秋八月、使者を遣わせて柵城を安撫した。

 五十三年、春正月、扶餘の使者が虎を献上した。体長は二丈、毛の色は非常に明るく、しっぽがなかった。王は将を派遣して漢の遼東に入らせると、六縣で掠奪した。太守の耿夔が兵を出して防ぎ、王の軍は大敗した。
 秋九月、耿夔が貊人を擊ち破った。

 五十五年、秋九月、王が質山の南側で狩猟し、紫の のろ を獲た。
 冬十月、東海谷守が朱豹を献上した。尾の長さは九尺。

 五十六年、春に大旱魃があり、夏になると大地が赤くなった。民が飢饉に陥り、王は蔵を開いて賑恤させた。

 五十七年、春正月、使者を漢に遣わせ、安帝の元服を祝賀した。

 五十九年、使者を漢に遣わせ、地方の産物を貢献し、玄菟に属したいと求めた。〈通鑑には、「この年の三月、高句麗王の宮は穢貊を伴って玄菟を おか した。」とある。ある時には、属したいと求め、ある時には おか したのだろうか、ただの一文字の誤りであるのか、よくわからない。〉

 六十二年、春三月、日食があった。
 秋八月、王が南海を巡守した。
 冬十月、南海から帰ってきた。

 六十四年、春三月、日食があった。
 冬十二月、雪が降って五尺ほど積もった。

 六十六年、春二月、地震があった。
 夏六月、王が穢貊を伴って漢の玄菟を襲い、華麗城を攻めた。
 秋七月、 いなご と雹が穀物を害した。
 八月、所司に命じ、賢人、良人、孝行な者、従順な者を推挙させ、妻を失った男、夫を失った女、親のない子、子のいない老人と、老いて自分で生活できない者を訪問させ、衣服と食糧を配給させた。

 六十九年、春、漢の幽州刺史の馮煥、玄菟太守の姚光、遼東太守の蔡風が兵を引き連れて侵しに来て、撃って穢貊の渠帥 かしら を殺し、兵馬と財物を獲り尽くした。そこで王は弟の遂成を派遣し、兵二千人余りを統領させ、馮煥や姚光等に抗わせた。遂成は使者を遣わせて降伏を偽り、それを馮煥等は信じた。そこで遂成は険難の地を拠点であることをもって大軍を遮断し、ひそかに三千人を派遣して玄菟、遼東の二郡を攻めさせ、その城郭を焼き払い、二千人以上を殺害あるいは虜獲した。
 夏四月、王は鮮卑八千人を伴い、遼隧縣に向かって攻めた。遼東太守の蔡風は、兵を引き連れて新昌に出たが、戦いの中で没した。兵曹掾の龍端と兵馬掾の公孫が身をもって蔡諷を護り、ともに戦場で死没し、死者は百人以上であった。
 冬十月、王が扶餘に行幸し、太后廟を祀った。百姓のうち窮困する者の安否を確認し、差をつけて物資を賜った。粛慎の使者が紫の狐の皮衣と白鷹、白馬を献上しに来たので、王は宴を開いてねぎらい、彼らを遣わせた。
 十一月、王が扶餘から帰ってきた。王は遂成に軍事と国政を統帥させた。
 十二月、王が馬韓、穢貊一万騎余りを率いて進み、玄菟城を包囲した。扶餘王が息子の尉仇台を遣わせて兵二万を統領させ、漢兵と力を併せて防戦し、我が軍は大敗した。

 七十年、王が馬韓、穢貊を伴って遼東を侵すと、扶餘王が兵を遣わせて救援し、これを破った。〈馬韓は百済の温祚王二十七年をもって滅んだが、今回は高句麗王とともに行軍しているのは、滅んでから復興したということだろうか?〉

 七十一年、冬十月、沛者の穆度婁を左輔とし、高福章を右輔とし、遂成と共同で政事に参与させた。

 七十二年、秋九月の庚申 かのえさる の晦 みそか 、日食があった。
 冬十月、使者を遣わせて漢に入らせ、朝貢した。
 十一月、京都 みやこ に地震があった。

 八十年、秋七月、遂成が倭山で狩猟し、左右とともに宴を開いていた。そこで貫那の于台の彌儒、桓那の于台の菸支留、沸流那の皀衣の陽神等がこっそりと遂成に言った。
「慕本王が薨去されてからのことですが、太子が不肖であったので、群寮は王子の再思を立てようとしましたが、再思は老いたことを理由に息子に譲られたのは、兄が老いていれば弟に(王位を)及ばせるべきだと考えてのことでしょう。今の王はとっくに老いているのに、(王位を)譲ろうという意も示さず、我が子のことばかりを考えておられます。」遂成は言った。「継承権が必ず嫡子にあるのは、天下の常道であるぞ。今でこそ王は老いておられるが、嫡子がおられるのだ。わざわざ分不相応の非望をうかがうことがあるか!」彌儒は言った。「弟が賢明であるから兄の後継ぎとなるのは、太古からよくあることです。殿下よ、疑念を持たれるな。」ここで左輔沛者の穆度婁は、遂成に異心があることに気づき、疾病を称して出仕しなくなった。

 八十六年、春三月、遂成が質山の南側で狩猟し、七日しても帰らず、度を外して享楽に耽っていた。秋七月にも、また箕丘で狩猟し、五日してようやく帰ってきた。彼の弟の伯固が諫めて、「『災禍と幸福が自ら手引きしてくれることはない。人から招き寄せられるのみである。』今のあなたは王の弟という親類であるがゆえに百寮の首領となり、既に官位は極まっておられます。功績も多大なものです。ですから、どうか忠義を心に懐き、礼節と謙譲によって己私たることを克服なされ、上は王と徳に同じくし、下は民の心を得られよ。そうした後にこそ富と貴位は自身から離れず、禍乱が起こることもなくなるのです。今でこそ、(禍乱は)ここには出現しておりませんが、だからといって享楽をむさぼり、憂いを忘れるようであれば、気づかぬうちに足下に危険を招き寄せてしまいますぞ。」と言ったが、「おおよそ人の情というものは、誰であろうと富裕と貴位にあって歓喜と享楽とを求めない者などおらんだろうが! それなのに、それを得る者は万に一人もおらぬ。今の俺は享楽を得る権勢にありながら、それなのにしたいことを欲しいがままにできぬのだ。そんなことが聴き入れられるか!」と答え、そのまま従わなかった。

 九十年、秋九月、丸都に地震があった。王は夜に夢を見た。とある豹が虎の尾を齧って断ち切ったのである。目覚めてその吉凶を問うと、ある人は言った。
「虎とは、百獸の長にございます。豹とは、その同類のうちの小さいものです。その意味とは、王の一族が、大王の後裔の者を絶とうと謀っている……といったところでしょうか。」
 王は満足せず、右輔の高福章に「私は昨夜、夢を見たのだが、占者の言葉はこのようであった。これはどうすればよいのだろうか。」と言うと、「不善を起こさなければ、吉は変じて凶となり、善を起こせば、災いは転じて福となるものです。今の大王は我が家のように国家を憂い、我が子のように民を愛でておられます。小さな異変があったからといって、そのことでなぜ傷ついておられるのですか。」と答えた。

 九十四年、秋七月、遂成が倭山の ふもと で狩猟し、左右に言った。「大王は年老いても死なず、俺もすっかり老境に差しかかろうとしている。もう待つことはできない。どうかこれだけは左右の者にお願いしたい。私のために、このことを計画してくれないだろうか。」左右はどちらも、「敬服してご命令に従いましょう。」と言った。そこにとある者がひとり進み出でて言った。
「さきほど王子に不吉なお言葉がございましたな。それなのに左右の者は、正直に諫めることができず、どちらも『敬してご命令に従いましょう』などと言いなりになっておられることは、姦悪かつ阿諛であると評価すべきでしょう。私は正直にお言葉したく思いますが、まだ御尊意をお伺いしておりませんでしたな。」
 遂成は言った。
「そなたが正直に言うことができるなら、妙薬や石針ともなりましょう。なぜそれを疑うことがありましょうか。」
 その人は答えて言った。
「今の大王は賢明であり、内外に異心はありませぬ。あなたには功績があると言っても、群下の姦悪と阿諛の者たちを率いて、明哲なる君上を廃そうと謀っておられる。これは単衣のボロ衣をもって一万鈞の重りに繫ぎ、引きずり下ろそうとすることにどこが違いはありますか? 愚かな連中を更生させたところで、それでもまだ十分でないことはわかるでしょう。もし王子が計画を改めて心を入れ替え、孝心と従順とによって君上に仕えれば、大王も王子の善性に深く気付かれ、必ず恭しき心を持つことでしょうが、そうでなければ、すぐにでも災禍は降りかかることでしょう。」
 遂成はよく思わず、左右も彼の率直な言葉を妬み、遂成に「王子は大王が年老いておられるから、国家の権威が危ぶまれることを恐れ、後のことを図ろうとしているというのに、こやつは斯様に妄言しておる。我等は、このことが漏洩して患いとなることを恐れるばかりです。さあさあ、あの者を殺して口を封じましょう。」と讒言したので、遂成もそれに従った。
 秋八月、王が将を派遣して漢の遼東の西の安平縣を襲い、帯方郡令を殺し、掠奪して楽浪太守の妻子を手に入れた。
 冬十月、右輔の高福章が王に「遂成が叛こうとしております。どうか先に奴を誅殺しましょう。」と言ったが、王は言った。
「私も年老いたものだな……。遂成は国家に功績があり、私は王位を禅譲することにした。そなたよ、心配することはない。」
 高福章は、「遂成の為人 ひととなり は、残忍な不仁 ひとでなし です。今日に大王の禅譲を受ければ、明日には大王の子孫を殺害するでしょう。大王は不仁 ひとでなし の弟に恩恵を与えようとするばかりで、無辜の子孫に憂患を残そうとしていることがわかっておられないのか!? 願わくば大王よ、よくよくこのことを熟考されたい。」と言ったが、王は聞き入れなかった。
 十二月、王が遂成に言った。
「私はもう老いた。王としての政務を取り仕切ることはできない。天の暦数はそなたの身に備わっている。ましてやお前は国内の政治に参与し、外には軍事 いくさ を統帥し、久しく社稷の功がある。これこそが臣民の望みであり、私の忖度を満たすものなのだ。ふさわしい人を得たと言わねばなるまい。そなたよ、さあ王に即位し、永遠の繁栄を育むがよい!」
 こうして王位を禅譲すると、別宮に引退して大祖大王と称された。
〈後漢書には、「安帝の建光元年に高句麗王の高宮は死に、息子の遂成が立った。玄菟太守の姚光は言葉を上奏し、彼の喪にあたって兵を起こし、これを擊とうとした。議会の者は皆が許可したが、尚書の陳忠は言った。「高宮は以前も狡猾に立ち回り、姚光は討伐できませんでした。死に際してそれを擊つのも、義に悖ります。どうか吊問を遣わせて、以前の罪を責譲することで、赦して誅を加えることなく、その後の善を取りましょう。」安帝がそれに従うと、明年には遂成が漢に生口を返還した。」と伝わっているが、海東古記を参照すると、「高句麗の国祖王の高宮は、漢の建武二十九年以後、癸丑 みずのとうし に即位したが、この時の年齢は七歲であり、国母が摂政となった。孝桓帝の本初元年の丙戌 ひのえいぬ になると、王位から退いて母の弟の遂成に譲った。この時の高宮の年齢は一百歲、在位九十四年である。」とある。つまり建光元年とは、まさしく宮の在位第六十九年のことである。漢書の記録に則すと、海東古記と齟齬が起こる。お互いが符合しない。しかし、漢の史書の記録が誤っていることがあろうか?〉

注記
(※1)太祖大王、〈あるいは国祖王とも伝わる。〉諱(いみな)は宮、小名は於漱
 後漢書東夷伝や魏志韓伝では、諱の宮の名で登場する。

(※2)古鄒加
 高句麗の官職名。地方の長官と推定される。新羅始祖の朴赫居世の号は『居西干』であったが、これと音通する。新羅本紀第一巻では、居西干について、「辰韓語における王、あるいは貴人(居西干、辰言王。或云呼貴人之稱。)」と説明している。

(※3)再思
 高句麗本紀第十三巻の東明王紀において、朱蒙と出会った三賢者のうちのひとりと同名。

(※4)扶餘
 高句麗より北方に存在していた部族。

(※5)社稷
 社は土地を司る神、稷は穀物を司る神。社稷は国家の祭祀、転じて国家そのものをいう。

(※6)太后は大王の玉座の後ろに簾を垂らし、その中に座って政務を執った。
 原文では「垂簾聽政」となっている。太后が君主の政治を代理することの慣用表現であり、ここではそのまま訳しているが、太祖大王の母親が実際に玉座の後ろですだれを垂らしていたのかは不明である。かつて、漢王朝の創始者の劉邦の妻であった呂皇后が、夫の死後に政治を専横した際、傀儡となる幼い王を立て、その後ろですだれを垂らして顔を隠し、王の意志に見立てて自ら政治を執っていた故事に由来する。

(※7)遼西
 中国東北地方の遼河以西地域。漢王朝の遼西郡に準じると思われる。本文では、高句麗が当時は支配していたことが表現されている。

(※8)東沃沮
 朝鮮半島北東部から中東部に割拠した部族。詳細は後漢書東夷伝にて。

(※9)薩水
 現在の清川江。朝鮮国の慈江道の狼林山脈の水源から平安北道、平安南道の境を経て黄海に流れる。

(※10)孤岸淵
 どこか不明。

(※11)赤い翅(はね)の白魚
 翅は主に虫の羽を指す語であるが鳥の羽を指すこともあり、どのような形状かは判然としない。

(※12)白鹿
 中国における聖獣。その到来は、君主が賢明で政治が清廉であることを示す。また、不老長寿の象徴でもある。この年間では二度にわたって白鹿が捕えられる。太祖大王の長寿を象徴する怪異だろうか。

(※13)曷思
 どこか不明。朝鮮国と中国の国境である鴨緑江の北側か、あるいは中国北東部の渤海湾一帯とする説がある。

(※14)貫那部
 魏志高句麗伝に紹介される高句麗五部のうちのひとつ、「灌奴部」に比定される。

(※15)沛者
 高句麗の官名。魏志高句麗伝にも名が登場し、「相加」「對盧」「沛者」「古雛加」「主簿」「優台丞」「使者」「皁衣先人」と並べられている。同書において「對盧があれば沛者を置かず、沛者があれば對盧を置かない。」とされていることから、近い役職だったことが推測される。また、本文における沛者は部の名前を冠しており、王弟と政権奪取の陰謀を企てていることから、各部に属する上位の存在、ひいては部ごとの首長であるとも推測できる。

(※16)藻那
 満州地域にあったと推測される。

(※17)桓那部
 高句麗に存在していた部。高句麗五部のうち順奴部に比定されることもある。

(※18)朱那
 現在の中国と朝鮮国の国境に存在する鴨緑江の流域にあったとされる。

(※19)柵城
 中国北東部に存在したと考えられる。後の渤海国の領土。

(※20)罽山
 どこか不明。

(※21)遼東
 大陸北東部に存在する郡。本書に描かれる後漢末から三国時代にかけては公孫氏が主に支配し、東夷諸国との交易を牛耳った。後漢から魏に王朝が移ってからしばらくすると、当時の遼東太守であった公孫淵が燕王を名乗って独立し、王朝に反旗を翻したが、司馬懿によって攻め滅ぼされた。

(※22)太守
 漢王朝における郡の首長。

(※23)貊人
 古代中国北東部から朝鮮半島北辺部にかけて居住していた部族。隣接していた濊とよく一からげに扱われ、朝鮮半島に居住する東夷諸部族として濊貊とも称される。

(※24)質山
 どこか不明。

(※25)紫の獐(のろ)、朱豹
 三国史記に白獐は吉兆として頻出するが、紫獐はここでしか登場しない。朱豹もここでのみ登場する。

(※26)東海谷守
 よくわからない。

(※27)大地が赤くなった。
 深刻な旱魃の表現。『説苑』や『論衡』に「晉國大旱,赤地(晋国で大旱魃が起こり、大地が赤くなった。)」「晉國大旱,赤地三年,平公癃病。(晋国で大旱魃が起こり、三年にわたって大地が赤くなったので、平公は衰弱して病気になった。)」という表現が登場する。

(※28)安帝
 後漢の6代皇帝。13歳にて即位したため、ここに元服の記事がある。父親の劉慶は、もともと3代章帝の皇太子として皇位継承権を有していたが、讒言によって失脚する。ただし、次に皇太子となった4代和帝とは親密な関係にあり、劉慶と安帝は厚遇され、和帝の皇太子であった5代殤帝が即位後わずか半年で死去したため、安帝が即位することになった。

(※29)元服
 貴族男性の成人の儀礼。成人用の礼服を初めて着用する。前近代の日本では14歳で元服を迎えたが、中国では20歳前後。

(※30)玄菟
 漢の武帝が朝鮮遠征の後に設置した四郡のひとつ。位置は正確にわかっていないが、朝鮮半島よりもやや北部に位置していたとされる。

(※31)通鑑
 北宋の司馬光が著した編年体の歴史書『資治通鑑』のこと。1084年に成立。紀元前403年から959年までの歴史。

(※32)穢貊
 ※23を参照。

(※33)華麗城
 濊が治めていた県。楽浪郡に属す。

(※34)幽州刺史
 幽州は、夏王朝(紀元前2100年ころから紀元前1600年ころ)に定められたとされる地域区分『九州』のひとつ。北方に存在すると記され、伝統的には燕国と同一視される。

(※35)王は弟の遂成を派遣し、
 後漢書東夷伝や魏志韓伝などの中国史書での遂成は、宮(太祖大王)の息子とされている。

(※36)鮮卑
 モンゴル東部の騎馬民族『東胡』の生き残り。

(※37)遼隧縣
 現在の中国海城市南西部。

(※38)新昌
 現在の中国中華人民共和国浙江省紹興市新昌県。

(※39)兵曹掾、兵馬掾
 兵部の属官。

(※40)尉仇台
 魏志扶余伝において、扶余王として登場する。また、温祚王紀には東明王(朱蒙)の息子の名に仇台が登場する。

(※41)〈馬韓は百済の温祚王二十七年をもって滅んだが、今回は高句麗王とともに行軍しているのは、滅んでから復興したということだろうか?〉
 本書では、百済本紀第一巻の温祚王紀で馬韓が滅亡したと記されている。しかし、これは後漢書や魏志韓伝といった中国の史書とは、決定的に時代が合わない。

(※42)倭山
 どこか不明。

(※43)貫那の于台、桓那の于台、沸流那の皀衣
  魏志高句麗伝に紹介される高句麗五部のうち、貫那は『灌奴部』、桓那は『順奴部』、沸流那は『涓奴部』に比定される。于台は優台とも表記され、皀衣とともに高句麗の官名。

(※44)箕丘
 どこか不明。

(※45)彼の弟の伯固
 後漢書東夷伝や魏志高句麗伝での伯固は、遂成の息子とされている。

(※46)『災禍と幸福が自ら手引きしてくれることはない。人に招き寄せられるのみである。』
 春秋左氏伝襄公二十三年からの引用。魯の貴族である季武子の家臣であった閔子馬の言葉から。季武子には正妻に子がおらず、庶子に後を継がせることになった。庶子のうちで年長だった公弥が本来は後継ぎになる予定であったが、季武子は別に悼子という庶子をかわいがっており、そちらを後継ぎにし、公弥には馬小屋の管理を命じた。いやになった公弥は、仕事をまじめにしなかったが、そこに現れた閔子馬が彼に忠告した。その時の言葉が、これである。彼に説得されて心を入れ替えた公鉏は真面目に仕事をするようになり、後に季孫氏の本家よりも裕福になるとともに、魯公直属の左宰となった。原文では、『禍福無門、惟人所召』となっている。ここでは『門』を「てびき」と訓じ、「無門」を「自ら手引きしてくれることはない」とやや意訳している。『門』は入口を指す語であり、最初は「いりぐち」と訓ずるつもりであったが、これでは不足だと感じた。文の構造から、『門』と『人所召』が対義となっているはずである。『人所召』は、『所』が受動態を表わしていると解し、「人に召さるる所」と訓ずる。よって、『門』は「人に召されること」と対になる語でなくてはならない。学研漢和大辞典を引いてみると、「門」の第二義に「やっとのことで通れる狭い程度のせまい入口。転じて、最初の手引き。」としている。訓はこれに倣う。訳には十分反映されていないが、ここでの含意としては、災禍や幸福は自分から「こちらにくれば幸福あるいは災禍に見舞われる」といったサインを出すことなく、知らぬ間に自分から招き寄せてしまうものだという、「気づかぬうちに」を強調する意だと解釈すれば、通りがよく本文の意とも合致する。

(※47)己私たることを克服
 原文では、「克己」。論語の顔淵篇の一節。これについては、つたない解釈であるが私の過去の論語解釈を参照していただければうれしい。

(※48)丸都
 現在の中国の吉林省集安、鴨緑江中流の通溝平野にある。

(※49)安平縣
 現在の中国河北省中南部にある。

(※50)帯方郡令
 帯方郡令は、後漢末期に設置された郡。3世紀初頭に中国北東部に存在する遼東郡を治める太守の地位にあった公孫度は、漢の武帝が紀元前1世紀に設置した楽浪郡を併合した。その後、旧楽浪郡の南半分を割譲して息子の公孫康を太守に据えることで設置されたのが帯方郡である。現在の朝鮮国南西部から韓国北東部と推定される。郡令は太守の属官。

(※51)楽浪太守
 楽浪は、漢の武帝が朝鮮半島に置いた直轄地である四郡の一つである楽浪郡。詳細な経緯は史記朝鮮伝にて。太守は中華王朝から任じられた郡の長官。

(※52)天の暦数はそなたの身に備わっている。
 論語堯曰篇の「天之暦数、在汝躬」から。

(※53)後漢書
 南朝宋の范曄が記した歴史書。後漢王朝の歴史を記している。

(※54)海東古記
 朝鮮三国時代に在世した新羅の歴史家である金大問が記したとされる史書。海東とは朝鮮半島の別称であり、本文に引用された内容からも、おそらく新羅のみならず、高句麗の歴史も記されていた。

(※55)孝桓帝
 後漢11代皇帝。桓帝とも。即位当時の後漢王朝は梁冀という外戚(皇后の親族)に専横され、孝桓帝も梁冀によって毒殺された10代質帝の代わりに傀儡として立てられたが、孝桓帝は皇帝の権力を回復させるため、侍従の宦官(陰茎を切られた宮廷官僚)の協力を得て梁冀らの外戚を粛清した。こうして桓帝は、宦官に対して養子を取ることを認める等、これまでにない権利を許容した。この時に養子を取った宦官として有名なのは、曹操の祖父の曹騰である。ところが、今度は宦官が発言力を強め、従来の士大夫(通常の官僚、豪族、文人)との対立が発生し、そこで宦官を批判する者を宮廷から追放する党錮の禁と呼ばれる弾圧がおこなわれ、ますます宦官への不満は膨れ上がり、しかも宮廷外の人士が増えたことから、孝桓帝の死後に黄巾の乱と呼ばれる大反乱や州郡といった行政区の長官たちが軍を従えて自立する群雄割拠の時代に至り、後漢王朝は滅亡する。このことから、孝桓帝はその次の12代霊帝とともに、後漢を滅亡に導いた存在だと伝統的に認識され、たとえば魏志倭人伝の『桓霊之間』という語も、その時間としての期間を表現するとともに、「後漢王朝が混乱に至っている期間」という含意がある。

漢文
 太祖大王、〈或云國祖王。〉諱宮、小名於漱、琉璃王子古鄒加再思之子也。母太后、扶餘人也。慕本王薨、太子不肖、不足以主社稷、國人迎宮繼立。王生而開目能視、幼而岐嶷。以年七歳、太后垂簾聽政。

 三年、春二月、築遼西十城、以備漢兵。秋八月、國南蝗害穀。

 四年、秋七月、伐東沃沮、取其土地爲城邑、拓境東至滄海、南至薩水。

 七年、夏四月、王如孤岸淵觀魚、釣得赤翅白魚。秋七月、京都大水、漂沒民屋。

 十年、秋八月、東獵得白鹿。國南飛蝗害穀。

 十六年、秋八月、曷思王孫都頭、以國來降。以都頭爲于台。冬十月、雷。

 二十年、春二月、遣貫那部沛者達賈、伐藻那、虜其王。夏四月、京都旱。

 二十二年、冬十月、王遣桓那部沛者薛儒、伐朱那、虜其王子乙音、為古鄒加。

 二十五年、冬十月、扶餘使來、獻三角鹿、長尾兎、王以為瑞物、大赦。十一月、京都、雪三尺。

 四十六年、春三月、王東巡柵城、至柵城西罽山、獲白鹿。及至柵城、與群臣宴飲、賜柵城守吏物段有差、遂紀功於岩、乃還。冬十月、王至自柵城。

 五十年、秋八月、遣使安撫柵城。

 五十三年、春正月、扶餘使來、獻虎、長丈二、毛色甚明而無尾。王遣將入漢遼東、奪掠六縣。太守耿夔出兵拒之、王軍大敗。秋九月、耿夔擊破貊人。

 五十五年、秋九月、王獵質山陽、獲紫獐。冬十月、東海谷守獻朱豹、尾長九尺。

 五十六年、春大旱、至夏赤地。民饑、王發使賑恤。

 五十七年、春正月、遣使如漢、賀安帝加元服。

 五十九年、遣使如漢、貢獻方物、求屬玄菟。〈通鑑言、是年三月、麗王宮與穢貊、寇玄菟。不知或求屬或寇耶、抑一誤耶。〉

 六十二年、春三月、日有食之。秋八月、王巡守南海。冬十月、至自南海。

 六十四年、春三月、日有食之。冬十二月、雪五尺。

 六十六年、春二月、地震。夏六月、王與穢貊襲漢玄菟、攻華麗城。秋七月、蝗雹、害穀。八月、命所司、擧賢良孝順、問鰥寡孤獨及老不能自存者、給衣食。

 六十九年、春、漢幽州刺史馮煥、玄菟太守姚光、遼東太守蔡風、將兵來侵、擊殺穢貊渠帥、盡獲兵馬財物。王乃遣弟遂成、領兵二千餘人、逆煥、光等。遂成遣使詐降、煥等信之。遂成因據險以遮大軍、潛遣三千人、攻玄菟、遼東二郡、焚其城郭、殺獲二千餘人。夏四月、王與鮮卑八千人、往攻遼隧縣 遼東太守蔡風、將兵出於新昌、戰沒。兵曹掾龍端、兵馬掾公孫、以身扞諷、倶歿於陣、死者百餘人。冬十月、王幸扶餘、祀太后廟。存問百姓窮困者、賜物有差。肅愼使來、獻紫狐裘及白鷹、白馬、王宴勞以遣之。十一月、王至自扶餘。王以遂成統軍國事。十二月、王率馬韓、穢貊一萬餘騎、進圍玄菟城。扶餘王遣子尉仇台、領兵二萬、與漢兵幷力拒戰、我軍大敗。

 七十年、王與馬韓、穢貊侵遼東、扶餘王遣兵救破之。〈馬韓以百濟溫祚王二十七年、滅、今與麗王行兵者、盖滅而復興者歟。〉

 七十一年、冬十月、以沛者穆度婁為左輔、高福章為右輔、令與遂成參政事。

 七十二年、秋九月庚申晦、日有食之。冬十月、遣使入漢朝貢。十一月、京都地震。

 八十年、秋七月、遂成獵於倭山、與左右宴。於是、貫那于台彌儒、桓那于台菸支留、沸流那皀衣陽神等等、陰謂遂成曰、初、慕本之薨也、太子不肖、群寮欲立王子再思、再思以老讓子者、欲使兄老弟及。今王旣已老矣、而無讓意、惟吾子計之。遂成曰、承襲必嫡、天下之常道也。王今雖老、有嫡子在、豈敢覬覦乎。彌儒曰、以弟之賢、承兄之後、古亦有之、子其勿疑。於是、左輔沛者穆度婁、知遂成有異心、稱疾不仕。

 八十六年、春三月、遂成獵於質陽、七日不歸、戱樂無度。秋七月、又獵箕丘、五日乃反。其弟伯固諫曰、禍福無門、惟人所召。今子以王弟之親、為百寮之首、位已極矣、功亦盛矣。宜以忠義存心、禮讓克己、上同王德、下得民心。然後富貴不離於身、而禍亂不作矣。今不出於此、而貪樂忘憂、竊為足下危之。答曰、凡人之情、誰不欲富貴而歡樂者哉、而得之者、萬無一耳。今吾居可樂之勢、而不能肆志、將焉用哉。遂不從。

 九十年、秋九月、丸都地震。王夜夢、一豹齧斷虎尾。覺而問其吉凶、或曰、虎者、百獸之長。豹者、同類而小者也。意者王之族類、殆有謀絶大王之後者乎。王不悅、謂右輔高福章曰、我昨夢有所見、占者之言如此、為之奈何。答曰、作不善、則吉變為凶。作善、則災反為福。今大王憂國如家、愛民如子、雖有小異、庸何傷乎。

 九十四年、秋七月、遂成獵於倭山之下、謂左右曰、大王老而不死、吾齒卽將暮矣、不可待也。惟願左右、為我計之。左右皆曰、敬從命矣。於是、一人獨進曰、向、王子有不祥之言、而左右不能直諫、皆曰敬從命者、可謂姦且諛矣。吾欲直言、未知尊意如何。遂成曰、子能直言、藥石也、何疑之有。其人對曰、今大王之賢、內外無異心、子雖有功、率群下姦諛之人、謀廢明上、此何異將以單縷、繫萬鈞之重而倒曳乎。雖復愚人、猶知其不可也。若王子改圖易慮、孝順事上、則大王深知王子之善、必有揖讓之心、不然則禍將及也。遂成不悅。左右妬其直、讒於遂成曰、王子以大王年老、恐國祚之危、欲為後圖、此人妄言如此、我等惟恐漏洩、以致患也、宜殺以滅口。遂成從之。秋八月、王遣將、襲漢遼東西安平縣、殺帶方令、掠得樂浪大守太守妻子。冬十月、右輔高福章言於王曰、遂成將叛、請先誅之。王曰、吾旣老矣、遂成有功於國、吾將禪位、子無煩慮。福章曰、遂成之為人也、忍而不仁。今日受大王之禪、則明日害大王之子孫。大王但知施惠於不仁之弟、不知貽患於無辜之子孫乎、願大王熟計之。王不聽。十二月、王謂遂成曰、吾旣老、倦於萬機。天之曆數在汝躬、況汝內參國政、外摠軍事、久有社稷之功、允塞臣民之望、吾所付託、可謂得人。汝其卽位、永孚于休。乃禪位、退老於別宮、稱為大祖大王。〈後漢書云、安帝建光元年、高句麗王宮死、子遂成立。玄菟太守姚光上言、欲因其喪、發兵擊之。議者皆以為可許。尚書陳忠曰、宮前桀黠、光不能討、死而擊之、非義也。宜遣吊問、因責讓前罪、赦不加誅、取其後善。安帝從之。明年、遂成還漢生口。案海東古記、高句麗國祖王高宮以後漢建武二十九年、癸丑即位、時年七歲、國母攝政。至孝桓帝本初元年丙戌、遜位讓母弟遂成、時、宮年一百歲、在位九十四年、則建光元年、是宮在位第六十九年。則漢書所記、與古記抵捂不相符合。豈漢書所記誤耶。〉

書き下し文
 太祖大王 おほおやのおほきみ 、〈 あるふみ 國祖 くにのおや おほきみ と云ふ。〉 いみな は宮、小名 をさなな は於漱、琉璃の おほきみ むすこ の古鄒加の再思の むすこ なり。母の太后 おほきさき は扶餘の人なり。慕本の おほきみ みまか り、太子 みこ 不肖 おろか にして、以ちて社稷 おほもとを あるぢ するに足らず、國の ひとびと は宮を迎へ、繼ぎて立つる。 おほきみ は生まれながらにして目を開きて能く視、幼くして岐嶷 いこよか たり。 よはひ 七歳 ななつ なるを以ちて、太后 おほきさき すだれ を垂らして まつりごと を聽く。

 三年、春二月、遼西に十城を築き、以ちて漢兵 からのいくさ に備へたり。
 秋八月、國の南に いなご いひ そこな ひたり。

 四年、秋七月、東沃沮を ち、其の土地 つち を取りて城邑と爲す。 くに を拓くこと東は おほ いなる海まで至り、南は薩の かは まで至る。

 七年、夏四月、 おほきみ は孤岸淵に きて魚を觀、釣りて赤き はね の白き魚を得たり。  秋七月、京都 みやこ 大水 おほみづ あり、民の いへ を漂ひ しづ む。

 十年、秋八月、東に獵りて白き鹿を得たり。國の南に飛蝗 いなご いひ そこな ひたり。

 十六年、秋八月、曷思の きみ みま の都頭は、國を以ちて降りに來たり。都頭を以ちて于台と爲す。
 冬十月、 いかづち あり。

 二十年、春二月、貫那部の沛者の達賈を遣はして、藻那を ち、其の きみ とりこ にす。
 夏四月、京都 みやこ ひでり あり。

 二十二年、冬十月、 おほきみ は桓那部の沛者の薛儒を遣はして、朱那を ちて其の王子 みこ の乙音を とりこ にし、古鄒加と為す。

 二十五年、冬十月、扶餘の使 つかひ は、三角 みつの の鹿、長尾 ながを の兎を たてまつ りに來たり。 おほきみ は以ちて瑞物 みづもの おも ひ、大いに赦したり。
 十一月、京都 みやこ ゆきふ ること三尺 みさし

 四十六年、春三月、 おほきみ は東に柵城を巡り、柵城の西の罽山に至り、白き鹿を獲たり。柵城に至るに及び、群臣 もろをみ とも 宴飲 うたげ し、柵城の守りの つかさ に物段を賜ふこと差有り、遂に いさを いは しる し、 すなは ち還る。
 冬十月、 おほきみ は柵城 り至る。

 五十年、秋八月、使 つかひ を遣はして柵城を安撫 なぐさ む。

 五十三年、春正月、扶餘の使 つかひ は、虎を たてまつ る。 みのたけ 丈二 ふたたけ 、毛の色は と明るくして尾無し。 おほきみ いくさかしら を遣はして漢の遼東に入らしめ、六縣 むつのあがた を奪ひ掠りたり。太守の耿夔は兵を をこ して之れを ふせ がしめ、 おほきみ いくさ は大いに敗るる。  秋九月、耿夔は擊ちて貊の人を破る。

 五十五年、秋九月、 おほきみ は質山の ひなた に獵り、紫の のろ を獲たり。  冬十月、東海谷の守は あか の豹を たてまつり りたり。尾の たけ 九尺 ここのさし

 五十六年、春に大いに ひでり あり、夏に至りて地を赤くす。民は饑え、 おほきみ くらひら きて賑恤 ふるま ひせ使 む。

 五十七年、春正月、使 つかひ を遣はして漢に如かしめ、安帝の元服 うひかぶり を加ふるを いは ひたり。

 五十九年、 つかひ を遣はして漢に かしめ、 ところ みつき 貢獻 たてまつ らしめ、玄菟に きたるを求む。〈通鑑に まを さく、是年 ことし の三月、麗の きみ の宮は穢貊と とも に玄菟を をか す。 あるとき きたるを求め、 あるとき をか したるか、 そもそ ひとつ の誤りか知らず。〉

 六十二年、春三月、日之れを むこと有り。
 秋八月、 おほきみ は南の海を巡り守る。
 冬十月、南の海 り至る。

 六十四年、春三月、日之れを食むこと有り。
 冬十二月、 ゆきふ ること五尺 いつさし

 六十六年、春二月、地震 なゐ あり。
 夏六月、 おほきみ は穢貊と とも に漢の玄菟を襲ひ、華麗の城を攻む。
 秋七月、 いなご ひさめ いひ そこな ひたり。
 八月、所司 つかさ みことのり し、 かしこきひと よきひと おやおもひのひと すなをたるひと を擧げせしめ、鰥寡 やもめ 孤獨 よるべなし 及び老ひて能く自ら るにあらざる者を おとづ れせしめ、 ころも いひ を給ひたり。

 六十九年、春、漢の幽州刺史の馮煥、玄菟太守の姚光、遼東太守の蔡風、 いくさひと ひき いて侵しに來たり、擊ちて穢貊の渠帥 かしら を殺し、兵馬 いくさ 財物 たから を獲り盡くしたり。 おほきみ すなは ち弟の遂成を遣はして、兵二千餘人 いくさひとふたちたりあまり をさ めせしめ、煥と光等に あらが はせしむ。遂成は使 つかひ を遣はして降るを いつは り、煥等は之れを まこと とす。遂成は因りて けはしき り、以ちて大軍 おほいくさ さへぎ り、 ひそ かに三千人 みちたり を遣はして、玄菟、遼東の二郡 ふたつのこほり を攻め、其の城郭 しろのくるは き、殺し とら ふること二千餘人 ふたちたりあまり
 夏四月、 おほきみ は鮮卑の八千人 やちたり とも に、往きて遼隧の あがた を攻む。遼東太守の蔡風は、 いくさ ひき いて新昌に出づるも、戰ひて す。兵曹掾の龍端と兵馬掾の公孫は、身を以ちて諷を まも り、 とも いくさのところ に於いて歿 に、死する者は百餘人 ももたりあまり 。  冬十月、 おほきみ は扶餘に みゆき し、太后 おほきさき みたまや を祀りたり。百姓 たみ 窮困 ゆる者を存問 たず ね、物を賜はること差有り。肅愼 みしはせ 使 つかひ 、紫の狐の かはごろも 及び白き鷹、白き馬を たてまつ りに來、 おほきみ うたげ して ねぎら ひ、以ちて之れを遣はしむ。
 十一月、 おほきみ は扶餘 り至る。 おほきみ は遂成を以ちて いくさ まつりごと の事を統べせしむ。
 十二月、 おほきみ は馬韓、穢貊の一萬餘 ひとよろづたりあまり うまいくさ を率ゐ、進みて玄菟城を圍む。扶餘の きみ むすこ の尉仇台を遣はして、兵二萬 いくさひとふたよろづたり をさ めせしめ、漢兵 からいくさ とも に力を あは せて ふせ ぎ戰ひ、我が いくさ は大いに敗るる。

 七十年、 おほきみ は馬韓、穢貊と とも に遼東を侵し、扶餘の きみ いくさ を遣はして救はしめ、之れを破る。〈馬韓は百濟の溫祚の きみ の二十七年を以ちて滅びたるも、今は麗の きみ とも いくさ を行かしむ 、盖し滅び、而りて た興りたる こと なるか。〉

 七十一年、冬十月、以ちて沛者の穆度婁を左輔 らしめ、高福章を右輔 らしめ、 いひつけ して遂成と とも 政事 まつりごと あづ からしむ。

 七十二年、秋九月の庚申 かのえさる みそか 、日之れを食むこと有り。
 冬十月、使 つかひ を遣はして漢に入らしめ朝貢 たてまつ らせしむ。
 十一月、京都 みやこ 地震 なゐ あり。

 八十年、秋七月、遂成は倭山に於いて りし、左右 すけ とも うたげ す。是に於いて、貫那の于台の彌儒、桓那の于台の菸支留、沸流那の皀衣の陽神等等は、 ひそ かに遂成に謂ひて曰く、初め、慕本の みまか るや、太子 みこ 不肖 さかしからず もろもろ つかさ 王子 みこ の再思を立てむと おも ひたるも、再思は老ひたるを以ちて むすこ に讓りたる こと は、兄の老ひたるを使 て弟の及ばせしめむと おも ひたればなり。今の きみ 旣已 すで に老ひたらむ。而れども讓らむとする こころ も無く、 吾子 わがこ のみ之れを計らむとす、と。遂成曰く、承け かさ ぬるの必ず よつぎ たるは、天下 あめのした つね たる のり なり。 きみ は今は老ひたると雖も、 よつぎ むすこ 在る有り、豈に敢へて覬覦 うかが ひたるか、と。彌儒曰く、弟の賢しきを以ちて、兄の後を承ぐは、古にも亦た之れ有り、 との よ、其れ疑ふこと勿れ、と。是に於いて、左輔沛者の穆度婁は、遂成に異心 ふたごころ 有るを知り、 やまひ ひて仕へず。

 八十六年、春三月、遂成は質の ひなた に於いて りし、七日 なのか にして歸らず、戱れ樂しむこと無度 なみはずれ たり。秋七月、又た箕丘に りし、五日 いつか にして やうや かへ る。其の弟の伯固は諫めて曰く、 わざはひ さいはひ てびき 無く、 だ人に召さるる所たるのみ。今の子は きみ をと たるが ちかき を以ちて、百寮 もものつかさ かしら と為り、位は已に極まりたらむ。 いさを も亦た盛りたらむ。宜しく忠義 よろしき を以ちて心を らしめ、禮讓 ゆず りて己に克ち、上は きみ の德に同じくし、下は民の心を得るべし。然る後に富むと貴きは身より離れず、而りて禍亂 わざはひ をこ らざらむ。今は此に出でざるも、而りて樂を貪り憂ひを忘らば、 ひそ かに足の下に つく りて之れを危ぶまむ、と。答へて曰く、凡そ人の こころ たれ をか富み たふと きにして よろこ び樂しみたる こと を欲さざる かな 。而れども之れを得る者は、 よろづ ひとつ も無かるのみ。今の は樂しむ可きが ありさま し、而れども こころざし ほしいまま にすること能はざりき。 まさ いずくに ぞ用ひむとしたる かな 、と。遂に從はず。

 九十年、秋九月、丸都に地震 なゐ あり。 きみ は夜に ゆめみ たるに、 ひとつ の豹は虎の尾を齧り斷たむ。 めて其の吉凶 よしあし を問へば、 あるひと 曰く、虎たる者、 あらゆる 獸の をさ たり。豹たる者、同じ ともがら にして小さき者なり。 こころ は王の族類 うから おほかた 大王の しりへ の者を絶たむと謀ること有りや、と。 きみ よろこ ばず、右輔の高福章に謂ひて曰く、我は きのう の夢に見る所有り、占ふ者の ことば は此の如し。之れの為すは奈何 いか に、と。答へて曰く、不善を作さざれば、則ち吉は變はりて凶と為る。善を作さば、則ち わざはひ は反りて さいはひ と為る。今の大王 おほきみ は國を憂ふること家の如くし、民を づること子の如くす。小異 をあた 有ると雖も、 ちて何ぞ傷みたるか、と。

 九十四年、秋七月、遂成は倭山の ふもと に於いて獵り、左右 すけ に謂ひて曰く、大王 おほきみ は老ひたりて死なず、吾の齒は卽ち將に暮れむとせむ。待つ可からざるなり。 左右 すけ に願はくば、我が為に之れを計らむことを、と。左右 すけ いず れも曰く、敬ひて みことのり に從はむ、と。是に於いて、 ひとり の人の獨り進みて曰く、 さき 王子 みこ 不祥 さちならざる ことば 有り、而れども左右 すけ は直く諫むること能はず、皆が曰敬從命 いひなり の者なるは、 よこしま へつらひ と謂ふ可きならむ。 なほ ことば せむと おも ひたるも、未だ みこと こころ 如何 いか なるかを知らず、と。遂成曰く、 そち なほ ことば をするに能ふは、藥石 いしばり なり。何の之れを疑ふこと有らむ。其の人は こた へて曰く、今の大王 おほきみ さか しきは、內外 うちそと 異心 ふたごころ 無く、 きみ いさを ちたると雖も、群下 もろしも よこしま にして へつらひ の人を率い、 あか しき おかみ てむと謀るは、此れ何の將に ひとへ ぼろ を以ちて、 ひとよろす 鈞の重しに繫ぎ、而りて倒曳 ひきおろ さむとすると異ならむや。愚かなる人を たすると雖も、猶ほ其の不可 よろしからず なるを知るなり。若し王子 みこ の圖りを改めて こころ を易へ、孝順 つつまし おかみ つか ふれば、則ち大王 おほきみ も深く王子 みこ よろしき を知り、必ず揖讓 ゐやゐや しきの心を ち、然らざれば則ち わざはひ まさ に及ばむとするなり。遂成は よろこ ばず。左右 すけ も其の なほ きを妬み、遂成に そし りて曰く、王子 みこ 大王 おほきみ の年老ひたるを以ちて、國祚 くに の危うきを恐れ、後の はかりごと を為さむと おも ひたるも、此の人は妄りに言ふこと此の如し。我等 われら 漏洩 れて、以ちて うれ ひを致さむことを恐るるのみなり。宜しく殺して以ちて口を滅さむ、と。遂成は之れに從ふ。秋八月、 きみ いくさかしら を遣はし、漢の遼東の西の安平縣を襲ひ、帶方の かしら を殺し、掠りて樂浪太守の妻子 つまご を得。冬十月、右輔の高福章は王に まを して曰く、遂成は將に叛かむとす。請ふ、先に之れを ころ さむことを、と。 きみ 曰く、 は旣に老ひたるかな。遂成は國に いさを 有り、吾は將に くらひ ゆず らむとす。 そち よ、煩ひ おも ふこと無かれ、と。福章曰く、遂成の為人 ひととなり や、 むご きにして不仁 ひとでなし 今日 けふ 大王 おほきみ ゆず るを受くれば、則ち明日 あした 大王 おほきみ 子孫 みま ころ さむ。大王 おほきみ は但だ不仁 ひとでなし の弟に施惠 めぐ むのみを知りて、無辜 つみなき 子孫 みま うれひ のこ すを知らざるか。願はくば大王 おほきみ よ、 く之れを計るべし、と。 おほきみ は聽かず。十二月、 おほきみ は遂成に謂ひて曰く、 は旣に老ひ、 よろづ つとめ に倦みたり。 あめ 曆數 さだめ に在り。 いはむ は內に國政 まつりごと あづか り、外に軍事 いくさ べ、久しく社稷 おほもとを いさを 有り、 まこと をみ たみ のぞみ さづ け託す所を たし、人を得たと謂ふ可し。 よ、其れ くらひ き、永く さいはひ はぐく むべし、と。乃ち くらひ ゆず り、別つ宮に退き老ひ、 びて大祖 おほおや 大王 おほきみ と為す。〈後漢書に云く、安帝の建光の元年 はぢめどし 、高句麗の きみ の宮は死に、 むすこ の遂成立つ。玄菟太守の姚光は ことば たてまつ り、其の喪に因りて、 いくさ をこ して之れを擊たむと おも ふ。議者 はかりひと は皆が以ちて可許 よろしき と為す。尚書の陳忠曰く、宮は さき 桀黠 わるかし き、光は討つこと能はず。死にて之れを擊つも、義に非ざるなり。宜しく吊問 とむらひ を遣はせて、因りて さき の罪を責讓 とが め、赦して つみ を加へず、其の後の よろ しきを取るべし、と。安帝は之れに從ふ。明くる年に、遂成は漢に生口 しもべ を還す。海東 わたつみのひがし 古記 ふることふみ かへりみ れば、高句麗の國祖 くにのおや きみ の高宮は漢の建武二十九年 よち 癸丑 みずのとうし くらひ くも、時に よはひ 七歲 ななつ 、國つ母は まつりごと らむ。孝桓帝の本初の元年 はぢめどし 丙戌 ひのえいぬ に至り、 くらひ へりくだ りて母の弟の遂成に ゆず る。時に宮は よはひ 一百歲 ももとせ くらひ すこと九十四年 ここのそあまりよつ 、則ち建光の元年 はぢめどし 、是れ宮の くらひ すこと第六十九年 むそあまりここのつ 。漢書の記す所に らば、古記 ふることふみ 抵捂 もど きて相ひ符合 あは さすことなし。豈に漢書の記す所の誤りならむや。〉

大守太守→太守

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