新大王

新大王

 新大王の諱は伯固(固は一説には句と表記する)。
 太祖大王の末弟である。
 容貌は才知が群を抜き、性格は仁恕であった。
 かつて、次大王が無道であったため、臣民は懐かず付従わなかった。
 伯固は禍が起こって、自身に害が及ぶことを恐れ、山谷に逃亡した。
 次大王が弑殺されたため、左輔の菸支留と群公が協議し、人を派遣して伯固を迎えることにした。
 こうして菸支留は伯固に跪き、國璽を献上して言った。
「先君は不幸にも國を棄てられました。
 ご子息もいらっしゃいますが、国政を統括するには適任ではありません。
 天人の心とは至仁に帰するものです。
 謹みてここに首をおさげ致しましてあなた様を拜し、王尊位に即位なさられることを請います。」
 伯固は恐れ入って三度断った後、即位することにした。
 時に年七十七歲。

 二年、春正月。
 下令して言った。
「私は恐れ多くも王の肉親として生まれましたが、もともと君主にふさわしい徳を有しているわけではありません。
 政務に当たっては兄弟や友人から恩恵を及ぼそうとはしたものの、まったく我々の子孫のためになるものからかけ離れておりました。
 自分に害が及ぶことを恐れて安全なところに逃れ、皆から離れて逃げ出しました。
 凶訃を聞いて帰ってきたものの、ただ哀しみの声を上げることしかできなかった。
 どうして百姓の方々は喜んで私を王に推薦し、朝廷の方々は私に王位に就くことを勧められるのでしょうか。
 このように些末な誤りから、崇高なる地位に就いてしまったのです。
 心から安らかさは消え失せてしまい、まさに淵海を渡るような気持ちです。
 どうかこの恩義を推して遠くに及ぼし、皆様に与することで自らを新たにしたいと思います。
 国内に大赦を出しましょう。」

 国民はその赦令を聞いて、歓呼感激しない者はいなかった。
「なんと偉大なことか、新大王の恩徳とは!」

 当初、明臨答夫の難を受けて、次大王の太子であった鄒安は逃竄した。
 しかし、王位が継がれ赦令が出されたことを聞いたので、すぐに王門を詣でて告げた。
「さて、国に災禍があったにもかかわらず、私は死ぬことさえできなかった。
 山谷に逃れて、今しがた新政を聞いたところである。
 よって、私は敢えて自らの罪を告白することにしたのだ。
 もし大王が法に則り罪を定めるのであれば、私は市中で死骸を晒し者にされるだろう。
 そのように命じられるなら私は甘んじて受けるつもりだ。
 もし死刑になさらないとおっしゃられるのであれば、私は遠方に放逐されることになるだろう。
 そうされるというのであれば、これは生死肉骨の恵というものである。
 私の願うところであるが、敢えてそれを希望するわけではない。」

 王は鄒安に狗山瀨、婁豆谷の二所を賜り、讓國君に封じた。
 拜して答夫を國相に任命し、爵位を加えて沛者に任命した。
 內外兵馬を統括させ、梁貊部落の領主を兼務させた。
 左右輔を改めて國相としたのは、ここが始まりである。

 三年、秋九月。
 王が卒本に行き、始祖廟を祀った。

 冬十月。
 王が卒本から帰ってきた。

 四年。  漢玄菟郡太守の耿臨が侵攻し、我が軍を数百人殺した。
 王は自ら玄菟に属したいと乞うて降服した。

 五年。
 王が大加の優居、主簿の然人ら將兵を派遣し、玄菟太守公孫度を援助して富山賊を討伐した。

 八年、冬十一月。
 漢大が軍隊を出して我が国に向かってきた。
 王は群臣に戰守について誰か意見があるかと問うた。
 衆議は言った。
「漢兵は数が多いことを頼みにして我が国を軽んじております。
 もし戦に出なければ、連中は我々を怯えていると見なして、何度も来るようになるでしょう。
 しかし、我が国は険しい山と崖路に囲まれ、これは所謂「一人が関所に立てば、万人が当たることはできない」というものです。
 漢兵の数が多いといっても、我が国をどうすることができましょうか。
 軍隊を出して防御に当たりたく要請いたします。」

 答夫は言った。
 そうではない。
 漢は国力は大きく人民は多い。
 今から強兵を出して遠くで戦ったところで、その先鋒が届くことはない。
 更に言えば、「兵力が大きいものは戦うべきだが、兵力が少なければ守るべきである。」とは兵家の常である。
 現在、漢人は千里の道を糧を転がして来ているのだから、決して持久ができるわけではない。
 もし我が堅固な防壁で兵を出すことなく待っていれば、連中は必ず旬月を過ぎず、餓えに困って撤退するであろう。
 私がそこに勁兵を出して迫れば、それによって目標は達せられます。

 王はそれに同意して、嬰城を固く守った。
 漢人はそれに攻め込んだが勝つことができず、士卒が餓え始めたので引き返した。
 そこに答夫が数千騎を統帥して追撃し、坐原にて戦った。
 漢軍は大敗し、馬の一匹さえも帰ることはできなかった。
 王は大いに悦び、答夫に坐原及び質山を賜い、食邑とさせた。

 十二年、春正月。
 群臣が太子を擁立するように請願した。

 三月。
 王子の男武を擁立して王太子とした。

 十四年、冬十月丙子晦。
 日食が起こった。

 十五年、秋九月。
 國相の答夫夫が死去した。
 年は百十三歲。
 王は自ら臨終に際して慟し、朝七日それを続けた。
 こうして禮によって質山に葬られ、守墓が二十家を置かれた。

 冬十二月。
 王が死去し、故國谷に葬られた。
 號を新大王とした。

 

 

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≪白文≫
 新大王、諱伯固、固一作句、太祖大王之季弟。
 儀表英特、性仁恕。
 初、次大王無道、臣民不親附、恐有禍亂、害及於己、遂遯於山谷。
 及次大王被弑、左輔菸支留與群公議、遣人迎致。
 及至、菸支留跪獻國璽曰、
 先君不幸棄國、雖有子、不克有國家。
 夫天人之心、歸于至仁、謹拜稽首、請卽尊位。
 於是、俯伏三讓而後卽位。時年七十七歲。

 二年、春正月。
 下令曰、
 寡人生忝王親、本非君德、向屬友于之政、頗乖貽厥之謨。畏害難安、離群遠遯、洎聞凶訃、但極哀摧。
 豈謂百姓樂推、群公勸進。
 謬以眇末、據于崇高、不敢遑寧、如涉淵海。
 宜推恩而及遠、遂與衆而自新、可大赦國內。

 國人旣聞赦令、無不歡呼慶抃曰、
 大哉、新大王之德澤也。

 初、明臨答夫之難、次大王太子鄒安逃竄、及聞嗣王赦令、卽詣王門、告曰、
 嚮、國有災禍、臣不能死、遯于山谷、今聞新政、敢以罪告。
 若大王據法定罪、棄之市朝、惟命是聽、若賜以不死、放之遠方、則生死肉骨之惠也、臣所願也、非敢望也。
 王卽賜狗山瀨、婁豆谷二所、仍封為讓國君。
 拜答夫為國相、加爵為沛者、令知內外兵馬兼領梁貊部落。
 改左右輔為國相、始於此。

 三年、秋九月。
 王如卒本、祀始祖廟。

 冬十月。
 王至自卒本。

 四年。
 漢玄菟郡太守耿臨來侵、殺我軍數百人。
 王自降乞屬玄菟。

 五年。
 王遣大加優居、主簿然人等、將兵助玄菟太守公孫度、討富山賊。

 八年、冬十一月。
 漢以大兵嚮我。
 王問群臣、戰守孰便。
 衆議曰、
 漢兵恃衆輕我、若不出戰、彼以我為怯、數來。
 且我國山險而路隘、此所謂一夫當關、萬夫莫當者也。
 漢兵雖衆、無如我何、請出師禦之。

 答夫曰、
 不然。
 漢、國大民衆。
 今以强兵遠鬪、其鋒不可當也。
 而又兵衆者宜戰、兵少者宜守、兵家之常也。
 今漢人千里轉糧、不能持久。
 若我深溝高壘、淸野以待之、彼必不過旬月、饑困而歸。
 我以勁卒薄之、可以得志。

 王然之、嬰城固守。
 漢人攻之不克、士卒饑餓引還。
 答夫帥數千騎追之、戰於坐原、漢軍大敗、匹馬不反。
 王大悅、賜答夫坐原及質山、為食邑。

 十二年、春正月。
 群臣請立太子。

 三月。
 立王子男武為王太子。

 十四年、冬十月丙子晦。
 日有食之。

 十五年、秋九月。
 國相答夫夫卒、年百十三歲。
 王自臨慟、罷朝七日。
 乃以禮葬於質山、置守墓二十家。

 冬十二月。
 王薨、葬於故國谷。
 號為新大王。


≪書き下し文≫
 新大王、諱は伯固、固は一に句と作す、太祖大王の季弟なり。
 儀表は英特、性は仁恕。
 初め、次大王は無道にして、臣民親附せず。
 禍亂有り、害の己に及ぶことを恐れて、遂に山谷に遯(のが)る。
 次大王、弑を被むるに及び、左輔菸支留と與に群公は議し、人を遣りて迎致す。
 及至、菸支留跪きて國璽を獻じて曰く、
 先君は不幸にも國を棄つ、子有ると雖も、國家有るに克たず。
 夫れ天人の心、至仁に歸せり。
 謹みて稽首を拜し、尊位に卽すことを請へり。
 是に於いて、俯伏三讓して後に卽位す。
 時に年七十七歲。

 二年、春正月。
 下令して曰く、
 寡人は忝(おそれおおく)も王親に生ずるも、本は君德に非ず。
 友于の政に屬ずるに向かひ、頗る貽厥の謨に乖(もと)る。
 害を畏れて難安し、群を離れて遠く遯れ、凶訃を聞きて洎るも、但だ哀摧を極むるのみ。
 豈に百姓樂推を謂ひ、群公勸進せむ。
 以て眇末を謬(あやま)り、崇高に據り、敢へて遑寧(いとま)あらざるは、淵海を涉るが如し。
 宜しく恩を推して遠くに及ぼし、遂に衆に與して自ら新むるべし。
 國內に大赦する可し、と。

 國人旣に赦令を聞き、歡呼慶抃せざること無くして曰く、
 大なる哉、新大王の德澤なり、と。

 初め、明臨答夫の難、次大王太子鄒安逃竄し、王嗣ぎ赦令するを聞くに及び、卽ち王門を詣でて告げて曰く、
 嚮、國に災禍有れども、臣は死するに能はず、山谷に遯れ、今は新政を聞く。
 敢へて以て罪を告げん。
 若し大王法に據り罪を定むれば、之れ市朝に棄つ。
 惟の命是れ聽く。
 若し以て不死を賜れば、之れ遠方に放つ。
 則ち生死肉骨の惠ならんや、臣願ふ所なり、敢へて望むに非ざるなり。
 王卽ち狗山瀨、婁豆谷の二所を賜り、仍ち封じて讓國君と為す。
 拜して答夫を國相と為し、爵を加へて沛者と為し、令して內外兵馬を知(つかさど)らせ、梁貊部落の領をを兼ねる。
 左右輔を改めて國相と為すは、此に於いて始む。

 三年、秋九月。
 王卒本に如(ゆ)き、始祖廟を祀る。

 冬十月。
 王卒本より至る。

 四年。
 漢玄菟郡太守の耿臨侵に來たりて、我が軍を數百人殺す。
 王自ら玄菟に屬ずるを乞ひ降る。

 五年。
 王は大加優居、主簿然人等將兵を遣り、玄菟太守公孫度を助け、富山賊を討つ。

 八年、冬十一月。
 漢大兵を以て我に嚮(む)かふ。
 王群臣に戰守孰か便なるかと問ふ。
 衆議曰く、
 漢兵衆(おおき)を恃(はべ)りて我を輕(かろ)んず。
 若し戰(いくさ)に出ざれば、彼は以て我を怯と為し、數(しばしば)來たらん。
 且つ我が國は山險にして路隘、此れ所謂一夫關に當たれば萬夫當たるもの莫しなり。
 漢兵衆(おおし)と雖も、我を如何すること無し。
 師を出だして之れを禦せんと請む。

 答夫曰く、
 然らず。
 漢の國は大にして民は衆(おお)し。
 今强兵を以て遠く鬪へば、其の鋒當たる可からざるなり。
 而も又た兵衆き者は宜しく戰ふべし、兵少なき者宜しく守べし、兵家の常なり。
 今漢人は千里の糧を轉(ころ)がし、持久すること能はず。
 若し我が深溝高壘、淸野以て之れを待てば、彼は必ず旬月を過ぎず、饑困して歸せん。
 我勁卒を以て之れに薄(せま)れば、以て志を得る可し。

 王は之れを然りとし、嬰城を固く守る。
 漢人之れを攻むるも克たず、士卒は饑餓して引還す。
 答夫數千騎を帥(ひき)いて之れを追ひ、坐原に戰ひ、漢軍大敗し、匹馬も反らず。
 王は大いに悅び、答夫に坐原及び質山を賜ひ、食邑と為す。

 十二年、春正月。
 群臣太子を立るを請ふ。

 三月。
 王子男武を立て王太子と為す。

 十四年、冬十月丙子晦。
 日之れを食す有り。

 十五年、秋九月。
 國相答夫夫卒す、年は百十三歲。
 王自ら臨みて慟し、朝七日罷る。
 乃ち禮を以て質山に葬らる。
 守墓(はかもり)二十家を置く。

 冬十二月。
 王薨じ、故國谷に葬らる。
 號を新大王と為す。