≪白文≫
新大王、諱伯固、固一作句、太祖大王之季弟。
儀表英特、性仁恕。
初、次大王無道、臣民不親附、恐有禍亂、害及於己、遂遯於山谷。
及次大王被弑、左輔菸支留與群公議、遣人迎致。
及至、菸支留跪獻國璽曰、
先君不幸棄國、雖有子、不克有國家。
夫天人之心、歸于至仁、謹拜稽首、請卽尊位。
於是、俯伏三讓而後卽位。時年七十七歲。
二年、春正月。
下令曰、
寡人生忝王親、本非君德、向屬友于之政、頗乖貽厥之謨。畏害難安、離群遠遯、洎聞凶訃、但極哀摧。
豈謂百姓樂推、群公勸進。
謬以眇末、據于崇高、不敢遑寧、如涉淵海。
宜推恩而及遠、遂與衆而自新、可大赦國內。
國人旣聞赦令、無不歡呼慶抃曰、
大哉、新大王之德澤也。
初、明臨答夫之難、次大王太子鄒安逃竄、及聞嗣王赦令、卽詣王門、告曰、
嚮、國有災禍、臣不能死、遯于山谷、今聞新政、敢以罪告。
若大王據法定罪、棄之市朝、惟命是聽、若賜以不死、放之遠方、則生死肉骨之惠也、臣所願也、非敢望也。
王卽賜狗山瀨、婁豆谷二所、仍封為讓國君。
拜答夫為國相、加爵為沛者、令知內外兵馬兼領梁貊部落。
改左右輔為國相、始於此。
三年、秋九月。
王如卒本、祀始祖廟。
冬十月。
王至自卒本。
四年。
漢玄菟郡太守耿臨來侵、殺我軍數百人。
王自降乞屬玄菟。
五年。
王遣大加優居、主簿然人等、將兵助玄菟太守公孫度、討富山賊。
八年、冬十一月。
漢以大兵嚮我。
王問群臣、戰守孰便。
衆議曰、
漢兵恃衆輕我、若不出戰、彼以我為怯、數來。
且我國山險而路隘、此所謂一夫當關、萬夫莫當者也。
漢兵雖衆、無如我何、請出師禦之。
答夫曰、
不然。
漢、國大民衆。
今以强兵遠鬪、其鋒不可當也。
而又兵衆者宜戰、兵少者宜守、兵家之常也。
今漢人千里轉糧、不能持久。
若我深溝高壘、淸野以待之、彼必不過旬月、饑困而歸。
我以勁卒薄之、可以得志。
王然之、嬰城固守。
漢人攻之不克、士卒饑餓引還。
答夫帥數千騎追之、戰於坐原、漢軍大敗、匹馬不反。
王大悅、賜答夫坐原及質山、為食邑。
十二年、春正月。
群臣請立太子。
三月。
立王子男武為王太子。
十四年、冬十月丙子晦。
日有食之。
十五年、秋九月。
國相答夫夫卒、年百十三歲。
王自臨慟、罷朝七日。
乃以禮葬於質山、置守墓二十家。
冬十二月。
王薨、葬於故國谷。
號為新大王。
≪書き下し文≫
新大王、諱は伯固、固は一に句と作す、太祖大王の季弟なり。
儀表は英特、性は仁恕。
初め、次大王は無道にして、臣民親附せず。
禍亂有り、害の己に及ぶことを恐れて、遂に山谷に遯(のが)る。
次大王、弑を被むるに及び、左輔菸支留と與に群公は議し、人を遣りて迎致す。
及至、菸支留跪きて國璽を獻じて曰く、
先君は不幸にも國を棄つ、子有ると雖も、國家有るに克たず。
夫れ天人の心、至仁に歸せり。
謹みて稽首を拜し、尊位に卽すことを請へり。
是に於いて、俯伏三讓して後に卽位す。
時に年七十七歲。
二年、春正月。
下令して曰く、
寡人は忝(おそれおおく)も王親に生ずるも、本は君德に非ず。
友于の政に屬ずるに向かひ、頗る貽厥の謨に乖(もと)る。
害を畏れて難安し、群を離れて遠く遯れ、凶訃を聞きて洎るも、但だ哀摧を極むるのみ。
豈に百姓樂推を謂ひ、群公勸進せむ。
以て眇末を謬(あやま)り、崇高に據り、敢へて遑寧(いとま)あらざるは、淵海を涉るが如し。
宜しく恩を推して遠くに及ぼし、遂に衆に與して自ら新むるべし。
國內に大赦する可し、と。
國人旣に赦令を聞き、歡呼慶抃せざること無くして曰く、
大なる哉、新大王の德澤なり、と。
初め、明臨答夫の難、次大王太子鄒安逃竄し、王嗣ぎ赦令するを聞くに及び、卽ち王門を詣でて告げて曰く、
嚮、國に災禍有れども、臣は死するに能はず、山谷に遯れ、今は新政を聞く。
敢へて以て罪を告げん。
若し大王法に據り罪を定むれば、之れ市朝に棄つ。
惟の命是れ聽く。
若し以て不死を賜れば、之れ遠方に放つ。
則ち生死肉骨の惠ならんや、臣願ふ所なり、敢へて望むに非ざるなり。
王卽ち狗山瀨、婁豆谷の二所を賜り、仍ち封じて讓國君と為す。
拜して答夫を國相と為し、爵を加へて沛者と為し、令して內外兵馬を知(つかさど)らせ、梁貊部落の領をを兼ねる。
左右輔を改めて國相と為すは、此に於いて始む。
三年、秋九月。
王卒本に如(ゆ)き、始祖廟を祀る。
冬十月。
王卒本より至る。
四年。
漢玄菟郡太守の耿臨侵に來たりて、我が軍を數百人殺す。
王自ら玄菟に屬ずるを乞ひ降る。
五年。
王は大加優居、主簿然人等將兵を遣り、玄菟太守公孫度を助け、富山賊を討つ。
八年、冬十一月。
漢大兵を以て我に嚮(む)かふ。
王群臣に戰守孰か便なるかと問ふ。
衆議曰く、
漢兵衆(おおき)を恃(はべ)りて我を輕(かろ)んず。
若し戰(いくさ)に出ざれば、彼は以て我を怯と為し、數(しばしば)來たらん。
且つ我が國は山險にして路隘、此れ所謂一夫關に當たれば萬夫當たるもの莫しなり。
漢兵衆(おおし)と雖も、我を如何すること無し。
師を出だして之れを禦せんと請む。
答夫曰く、
然らず。
漢の國は大にして民は衆(おお)し。
今强兵を以て遠く鬪へば、其の鋒當たる可からざるなり。
而も又た兵衆き者は宜しく戰ふべし、兵少なき者宜しく守べし、兵家の常なり。
今漢人は千里の糧を轉(ころ)がし、持久すること能はず。
若し我が深溝高壘、淸野以て之れを待てば、彼は必ず旬月を過ぎず、饑困して歸せん。
我勁卒を以て之れに薄(せま)れば、以て志を得る可し。
王は之れを然りとし、嬰城を固く守る。
漢人之れを攻むるも克たず、士卒は饑餓して引還す。
答夫數千騎を帥(ひき)いて之れを追ひ、坐原に戰ひ、漢軍大敗し、匹馬も反らず。
王は大いに悅び、答夫に坐原及び質山を賜ひ、食邑と為す。
十二年、春正月。
群臣太子を立るを請ふ。
三月。
王子男武を立て王太子と為す。
十四年、冬十月丙子晦。
日之れを食す有り。
十五年、秋九月。
國相答夫夫卒す、年は百十三歲。
王自ら臨みて慟し、朝七日罷る。
乃ち禮を以て質山に葬らる。
守墓(はかもり)二十家を置く。
冬十二月。
王薨じ、故國谷に葬らる。
號を新大王と為す。