故國川王

故國川王

 故國川王(あるいは國襄とも)、諱は男武(あるいは伊夷模とも)。
 新大王伯固の第二子である。

 伯固が死去したが、長子の拔奇が不肖であったために、国民は共同で伊夷謨を擁立して王位に就かせた。
 漢獻帝建安初、拔奇は兄でありながら王位を得られなかったことを怨み、涓奴部の将軍それぞれの下戶三万口余りとともに、公孫康に投降して沸流水のほとりに帰還した。
 王は身長九尺、容姿は雄偉、力は鼎を担ぐことができた。
 事に臨めば人の意見を聞いて判断し、寛容さと猛々しさが中庸を得ていた。

 二年、春二月。
 妃于氏を擁立して王后とした。
 后は椽那部于素の娘である。

 秋九月。
 王が卒本に行き、始祖廟を祀った。

 四年、春三月甲寅夜。
 赤氣が太微を蛇のように貫いた。

 秋七月。
 大微に星孛が流れた。

 六年。
 漢遼東太守の興師が我が国を討伐しに来た。
 王は王子の罽須を派遣して抗戦させたが、勝てなかった。
 王自ら精騎を率いて往き、漢軍と坐原に戰って敗北させた。
 斬った首が山のように積まれた。

 八年、夏四月乙卯。
 熒惑守心。

 五月壬辰晦。
 日食が起こった。

 十二年、秋九月。
 京都に雪が六尺積もった。
 中畏大夫沛者畀留、評者左可慮はどちらも王后の親戚であり、国家の権柄を執っていた。
 その子弟もそうであるが、権勢を頼みにして贅沢の限りを尽くした。
 更には他人の子女を掠め取り、他人の畑や邸宅を奪い、国民はこれを怨み憤った。
 それを聞いた王、怒ってそれを誅そうとした。
 こうして左可慮たちは四椽那と共に謀反を企むようになった。

 十三年、夏四月。
 左可慮らの聚衆が王都に攻め込んだ。
 王は畿內の兵馬を徴発して、それを平定した。
 そして、下令して言った。
「最近は、恩寵から官位を授かった者も、位に見合う徳に邁進することなく、害毒を百姓に垂れ流し、我が王家を揺るがしている。
 これは私の不明の致すところである。
 汝ら四郡それぞれ、身分の低い者から賢良を挙げよ。」
 ここで四部は共に東都の晏留を推挙した。
 王はそれを徴発し、それによって国政を委任した。
 晏留は王に言った。
「わたくしめは凡庸で愚昧な者であり、固より大政に参画するに足るものではありません。
 西鴨淥谷の左勿村に乙巴素という者がおります。
 琉璃王の大臣乙素の孫で、性格は剛毅、智慮は淵深ですが、世に用いられることなく、畑を耕して自活しております。
 大王がもし国を見事に治めようというのであれば、その人に頼らなければ、とても無理な事業でしょう。」
 王は遣使し、謙虚な言葉で礼を重くして聘問し、拜して中畏大夫に任命し、爵位を与えて于台として言った。
「私はかたじけなくも先王の業績を受け継ぎ、臣民の上に処することになりましたが、德は薄く才覚も優れておりませんので、未だに国を立派に治めることができません。
 先生は自らの能力を隠し、明哲なる智を暗中に置かれ、窮乏して久しく在野におられました。
 今回、私はあなたを捨てがたく思い、幡然として来訪させていただいたのです。
 これは私一人の幸運にありません。
 社稷生民の幸福にございます。
 教えを承ることどうかお願いいたしまして、その盡心を公共へと向けていただければと思います。」
 巴素の意向としては国に仕えたいと思っていたが、受けた官位の職分からしてみれば、とても国家を立派に治める事業に就けるとは思えなかった。
 そのため次のように答えた。
「私の愚鈍なる才覚では、あなたの厳命にふさわしくありません。
 願わくば大王、賢良を選び、その者に高官を授け、それによって大業成してください。」
 王はその意を察知し、これまで与えた官位を除いて國相に任命し、政事を司るように命じた。
 これによって、朝臣國戚は巴素の新参者を朝廷に招いては旧臣を蔑ろにすると口々に言い合い、これを思い煩った。
 王がそこに居合わせたので、そのことを巴素に教えた。
「貴賤というものはないものだな。
 苟も國相に從わない者は王族だけだ。」
 巴素はその場を退きて人に告げた。
「時に逢わなければ隠遁し、時に逢えば仕える。これが士の常というものだ。
 今上は私に厚意をもって遇したのだから、今度は旧臣の皆さんが隠遁を検討してはどうだろうか。」
 こうして巴素は心を誠にして國に奉じ、政治教導を明らかにし、賞罰を濫用することなかった。
 こうして人民を安んじたので、国の內外に大過が起こることはなくなった。

 冬十月。
 王は晏留に言った。、
「もし君の一言がなければ、私は巴素を得て共に国を立派に治めることなどできなかった。
 現在の諸々の業績は、元はといえば君の功績だ。」
 こうして拝して大使者に任命した。

 本件について論じよう。
 古の先哲や王が賢者と相対するにあたっては、それを立てれば自由な裁量を与え、それを用いれば惑いはしないものである。
 たとえば、殷高宗の傅說、蜀先主の孔明、秦苻堅の王猛などがそうである。
 そうした後、賢位に就かせ、十分に職分を与えれば、政治教導は明達を修め、国家を保つことができるのだ。
 今回、王が下した決断は、巴素を辺境から抜擢し、人々の言葉に心を乱されることなく百官の上に置き、更にそれを推挙した者まで賞賛した。
 先王の法を得たと評価すべきだろう。

 十六年、秋七月。
 霜が降って穀物を食べられなくした。
 民が餓えたので、倉を開いて穀物を給わった。

 冬十月。
 質陽で狩りをしていると、路に坐して泣きわめく者がいた。
「なにを泣きわめいているのか。」
「私はは貧窮し、いつも雇われ者として働き母を養っていたのです。
 しかし、今年は作物が実らなかったので、雇ってくれるところがないのです。
 僅かな食べ物さえ手にすることができませんので、泣くしかないではないですか。」
 王は言った。
「ああ、私は人民の父母であるはずなのに。
 人民をしてこのような極限に陥らせているのは、私の罪だ。」
 その者に衣食を渡して慰撫した。
 こうして內外の役人に命じ、博く鰥寡孤獨老病貧乏といった自活できない物を訪問して救済した。
 また役人に命じ、毎年春三月から秋七月にかけて官穀を徴出し、それによって百姓それぞれの家の人数に合わせて賑貸し、冬十月に還納させる制度を整備した。
 これを『恒式』といい、內外大いに喜んだ。

 十九年。
 中國にて大乱が起こり、甚だ多くの漢人が乱を避けて投降しに来た。
 漢獻帝建安二年のことである。

 夏五月。
 王が死去した。
 故國川原に葬られ、號を故國川王とした。

 

 

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≪白文≫
 故國川王、或云國襄。
 諱男武、或云伊夷模。
 新大王伯固之第二子。

 伯固薨、國人以長子拔奇不肖、共立伊夷謨為王。
 漢獻帝建安初、拔奇怨為兄而不得立、與涓、各將下戶三萬餘口、詣公孫康降、還住沸流水上。
 王身長九尺、姿表雄偉、力能扛鼎、蒞事聽斷、寬猛得中。

 二年、春二月。
 立妃于氏為王后。
 后、椽那部于素之女也。

 秋九月。
 王如卒本、祀始祖廟。

 四年、春三月甲寅夜。  赤氣貫於太微、如蛇。

 秋七月。
 星孛于大微。

 六年。
 漢遼東太守興師、伐我。
 王遣王子罽須拒之、不克。
 王親帥精騎往、與漢軍戰於坐原、敗之。
 斬首山積。

 八年、夏四月乙卯。
 熒惑守心。

 五月壬辰晦。
 日有食之。

 十二年、秋九月。
 京都雪六尺。
 中畏大夫沛者畀留、評者左可慮、皆以王后親戚、執國權柄。
 其子弟幷恃勢驕侈、掠人子女、奪人田宅、國人怨憤。
 王聞之、怒欲誅之。
 左可慮等與四椽那謀叛。

 十三年、夏四月。
 左可慮等聚衆、攻王都。
 王徵畿內兵馬、平之。
 遂下令曰近者、官以寵授、位非德進、毒流百姓、動我王家、此寡人不明所致也。
 令汝四郡、各擧賢良在下者。
 於是、四部共擧東都晏留。
 王徵之、委以國政。
 晏留言於王曰、
 微臣庸愚、固不足以參大政。
 西鴨淥谷左勿村乙巴素者、琉璃王大臣乙素之孫也、性質剛毅、智慮淵深、不見用於世、力田自給。
 大王若欲理國、非此人則不可。
 王遣使、以卑辭重禮聘之、拜中畏大夫、加爵為于台、謂曰、
 孤叨承先業、處臣民之上、德薄才短、未濟於理。
 先生藏用晦明、窮處草澤者久矣、今不我棄、幡然而來、非獨孤之喜幸、社稷生民之福也。
 請安承敎、公其盡心。
 巴素意雖許國、謂所受職不足以濟事。
 乃對曰、
 臣之駑蹇、不敢當嚴命、願大王、選賢良、授高官、以成大業。
 王知其意、乃除為國相、令知政事。
 於是、朝臣國戚、謂素以新閒舊、疾之。
 王有敎曰、
 無貴賤、苟不從國相者、族之。
 素退而告人曰、
 不逢時則隱、逢時則仕、士之常也。
 今上待我以厚意、其可復念舊隱乎。
 乃以至誠奉國、明政敎、愼賞罰、人民以安、內外無事。

 冬十月。
 王謂晏留曰、
 若無子之一言、孤不能得巴素以共理。
 今庶績之凝、子之功也。
 乃拜為大使者。

 論曰、
 古先哲王之於賢者也、立之無方、用之不惑、若殷高宗之傅說、蜀先主之孔明、秦苻堅之王猛、然後賢在位、能在職、政敎修明而國家可保。
 今王決然獨斷、拔巴素於海濱、不撓衆口、置之百官之上、而又賞其擧者、可謂得先王之法矣。

 十六年、秋七月。
 墮隕霜殺穀。
 民饑、開倉賑給。

 冬十月。
 畋于質陽、路見坐而哭者。
 問、
 何以哭為。
 對曰、
 臣貧窮、常以傭力養母。
 今歲不登、無所傭作、不能得升斗之食、是以哭耳。
 王曰、
 嗟乎。
 孤為民父母、使民至於此極、孤之罪也。
 給衣食以存撫之。
 仍命內外所司、博問鰥寡孤獨老病貧乏不能自存者、救恤之、命有司、每年自春三月至秋七月、出官穀、以百姓家口多小、賑貸有差、至冬十月還納、以為恒式、內外大悅。

 十九年。
 中國大亂、漢人避亂來投者甚多、是漢獻帝建安二年也。

 夏五月。
 王薨。
 葬于故國川原、號為故國川王。


≪書き下し文≫
 故國川王、或云く國襄。
 諱は男武、或云く伊夷模。
 新大王伯固の第二子なり。

 伯固薨じ、國人長子拔奇の不肖なるを以て、共に伊夷謨を立てて王と為す。
 漢獻帝建安初、拔奇は兄にして立を得ざると為るを怨み、涓と與し、各將下戶三萬餘口、公孫康を詣でて降り、沸流水の上に還住(かえりすま)ふ。
 王身長九尺、姿表は雄偉、力は鼎を扛(かつ)ぐに能ひ、事に蒞みては聽きて斷じ、寬猛は中を得る。

 二年、春二月。
 妃于氏を立てて王后と為す。
 后は椽那部于素の女なり。

 秋九月。
 王卒本に如(ゆ)き、始祖廟を祀る。

 四年、春三月甲寅夜。
 赤氣太微に於いて貫くこと、蛇の如し。

 秋七月。
 星孛于大微。

 六年。
 漢遼東太守興師、我を伐つ。
 王は王子罽須を遣りて之れを拒むも、克たず。
 王親(みずか)ら精騎を帥いて往き、漢軍と坐原に戰ひ、之れを敗る。
 斬首すること山積めり。

 八年、夏四月乙卯。
 熒惑守心。

 五月壬辰晦。
 日之れを食す有り。

 十二年、秋九月。
 京都雪六尺。
 中畏大夫沛者畀留、評者左可慮、皆以て王后の親戚、國の權柄を執る。
 其の子弟幷せて勢に恃り侈に驕り、人の子女を掠り、人の田宅を奪ひ、國人怨み憤る。
 王之れを聞き、怒りて之れを誅さんと欲す。
 左可慮等は四椽那と與に叛を謀る。

 十三年、夏四月。
 左可慮等聚衆、王都を攻む。
 王は畿內の兵馬を徵(め)し、之れを平(たいら)ぐ。
 遂に下令して曰く、
 近者、官の寵授を以てするは、位德進に非ず、毒百姓に流れ、我が王家を動す。
 此れ寡人の不明の致す所なり。
 汝四郡に各(おのおの)下に在る賢良者を擧げよと令す。
 是に於いて、四部共に東都の晏留を擧ぐ。
 王之れを徵し、以て國政を委ぬ。
 晏留王に言ひて曰く、
 微臣は庸愚にして、固より以て大政に參ずるに足らず。
 西鴨淥谷左勿村乙巴素なる者、琉璃王の大臣乙素の孫なれば、性質は剛毅、智慮は淵深、世に用ひらること見えず、田に
力し自給す。
 大王若し理國を欲すれば、此の人に非ざれば則ち可ならず。
 王遣使し、辭(ことば)を卑(ひく)く禮を重くして以て之れを聘(たず)ね、拜して中畏大夫、爵を加へて于台と為し、謂ひて曰く、
 孤は叨(かたじけなく)も先業を承り、臣民の上に處するも、德は薄く才は短く、未だ理に濟(わた)らず。
 先生は用を藏(かく)り明を晦(つごも)り、窮して草澤の者に處すること久きなり。
 今我は棄てず、幡然として來たり。
 獨孤の喜幸に非らず、社稷生民の福(さいわい)なり。
 敎を承ること請安し、其の盡心を公にせり、と。
 巴素の意(こころ)は國を許すと雖も、職を受くる所を謂へば、以て事を濟(わた)すに足らず。
 乃ち對へて曰く、
 臣の駑蹇、敢へて嚴命に當たらず。
 願はくば大王、賢良を選び、高官を授け、以て大業成さん。
 王其の意を知り、乃ち除き國相と為し、政事を知ることを令す。
 是に於いて、朝臣國戚、素の新を以て舊を閒することを謂ひ、之れを疾(や)む。
 王有り敎へて曰く、
 貴賤無し。
 苟しくも國相に從はざる者、族之。
 素退きて人に告げて曰く、
 時に逢はざれば則ち隱(かく)れ、時に逢へば則ち仕ふ、士の常なり。
 今上は我に厚意を以て待し、其れ復た舊の隱る念ふ可きか。
 乃ち以て至誠奉國、政敎を明かにし、賞罰を愼み、人民以て安んじ、內外に事無し。

 冬十月。
 王晏留に謂ひて曰く、
 若し子の一言無くば、孤は巴素を得て以て理を共にすること能はず。
 今庶績の凝、子の功なり。
 乃ち拜して大使者と為す。

 論じて曰く、
 古の先哲王の賢者に於けるや、之れを立てて方無く、之れを用ふれば惑はざるは、殷高宗の傅說、蜀先主の孔明、秦苻堅の王猛の若し。
 然る後に賢位に在り、職在るに能へば、政敎は明を修めて國家保つ可し。
 今王決然獨斷、巴素を海濱に於いて拔き、衆口に撓(みだ)されず、之れを百官の上に置き、而りて又た其の擧者を賞す。
 先王の法を得たと謂ふ可きなり。

 十六年、秋七月。
 霜墮隕し穀を殺ぐ。
 民饑ゆ、倉を開き賑給す。

 冬十月。
 質陽に畋(か)る。
 路に坐して哭する者を見ゆ。
 問ふ、
 何を以て哭を為すか。
 對へて曰く、
 臣は貧窮し、常に傭力を以て母を養ふ。
 今歲登らず、傭作する所無し。
 升斗の食を得ること能はず、是れ以て哭くのみ。
 王曰く、
 嗟乎、孤は民の父母を為せり。
 民をして此の極に至らしむるは、孤の罪なり。
 衣食を給ひ以て存し之れを撫す。
 仍ち內外所司に命じ、博く鰥寡孤獨老病貧乏自ら存するに能はざる者を問ひ、之れを救恤す。
 有司に命じ、每年春三月より秋七月に至り、官穀を出だし、以て百姓家口の多小、有差に賑貸し、冬十月に至れば還納せしむ。
 以て恒式と為し、內外大いに悅ぶ。

 十九年。
 中國大いに亂れ、漢人亂を避けて投に來たる者、甚だ多し。
 是れ漢獻帝建安二年なり。

 夏五月。
 王薨ず。
 故國川原に葬られ、號を故國川王と為す。