≪白文≫
東川王、或云東襄、諱憂位居、少名郊彘、山上王之子。
母酒桶村人、入為山上小后、史失其族姓。
前王十七年、立為太子、至是嗣位。
王性寬仁、王后欲試王心、候王出遊、使人截王路馬鬣。
王還曰、
馬無鬣可憐。
又令侍者進食時、陽覆羹於王衣、亦不怒。
二年、春二月。
王如卒本、祀始祖廟。
大赦。
三月、封于氏為王太后。
四年、秋七月。
國相高優婁卒、以于台明臨於漱為國相。
八年。
魏遣使和親。
秋九月。
太后于氏薨。
太后臨終遺言曰、
妾失行、將何面目見國壤於地下。
若群臣不忍擠於溝壑、則請葬我於山上王陵之側。
遂葬之如其言。
巫者曰、
國壤降於予曰、
昨見于氏歸于山上、不勝憤恚、遂與之戰。
退而思之、顔厚不忍見國人。
爾告於朝、遮我以物。
是用植松七重於陵前。
十年、春二月。
吳王孫權、遣使者胡衛通和。
王留其使、至秋七月、斬之、傳首於魏。
十一年。
遣使如魏、賀改年號。
是景初元年也。
十二年。
魏太傅司馬宣王率衆、討公孫淵。
王遣主簿大加、將兵千人助之。
十六年。
王遣將、襲破遼東西安平。
十七年、春正月。
立王子然弗為王太子、赦國內。
十九年、春三月。
東海人獻美女、王納之後宮。
冬十月。
出師侵新羅北邊。
二十年、秋八月。
魏遣幽州刺史毋丘儉、將萬人、出玄來侵。
王將步騎二萬人、逆戰於沸流水上、敗之、斬首三千餘級。
又引兵再戰於梁貊之谷、又敗之、斬獲三千餘人。
王謂諸將曰、
魏之大兵、反不如我之小兵。
毋丘儉者魏之名將、今日命在我掌握之中乎。
乃領鐵騎五千、進而擊之。
儉為方陣、決死而戰、我軍大潰、死者一萬八千餘人。
王以一千餘騎、奔鴨渌原。
冬十月。
儉攻陷丸都城、屠之。
乃遣將軍王頎、追王。
王奔南沃沮、至于竹嶺、軍士分散殆盡。
唯東部密友獨在側、謂王曰、
今追兵甚迫、勢不可脫。
臣請決死而禦之、王可遯矣。
遂募死士、與之赴敵力戰。
王、間行。
脫而去、依山谷、聚散卒自衛、謂曰、
若有能取密友者、厚賞之。
下部劉屋句前對曰、
臣試往焉。
遂於戰地、見密友伏地、乃負而至。
王枕之以股、久而乃蘇。
王間行轉輾、至南沃沮、魏軍追不止。
王計窮勢屈、不知所為。
東部人紐由進曰、
勢甚危迫、不可徒死。
臣有愚計、請以飲食往犒魏軍、因伺隙刺殺彼將。
若臣計得成、則王可奮擊決勝矣。
王曰、諾。
紐由入魏軍詐降曰、寡君獲罪於大國、逃至海濱、措躬無地、將以請降於陣前、歸死司寇、先遣小臣、致不腆之物、為從者羞。
魏將聞之、將受其降。
紐由隱刀食器、進前、拔刀刺魏將胸、與之俱死、魏軍遂亂。
王分軍為三道、急擊之、魏軍擾亂不能陳、遂自樂浪而退。
王復國論功、以密友、紐由為第一、賜密友巨谷、靑木谷、賜屋句鴨淥、杜訥河原以為食邑。
追贈紐由為九使者、又以其子多優為大使者。
是役也、魏將到肅愼南界、刻石紀功、又到丸都山、銘不耐城而歸。
初、其臣得來、見王侵叛中國、數諫、王不從。
得來嘆曰、
立見此地、將生蓬蒿。
遂不食而死。
毋丘儉令諸軍、不壞其墓、不伐其樹、得其妻子、皆放遣之。
括地志云、
不耐城卽國內城也、城累石為之。
此卽丸都山與國內城相接。
梁書、以司馬懿討公孫淵、王遣將、襲西安平、毋丘儉來侵。
通鑑、以得來諫王、為王位宮時事。
誤也。
二十一年、春二月。
王以丸都城經亂、不可復都、築平壤城、移民及廟社。
平壤者本仙人王儉之宅也。
或云王之都王儉。
二十二年、春二月。
新羅遣使結和。
秋九月。
王薨。
葬於柴原、號曰東川王。
國人懷其恩德、莫不哀傷。
近臣欲自殺以殉者衆、嗣王以為非禮、禁之。
至葬日、至墓自死者甚多。
國人伐柴、以覆其屍、遂名其地曰柴原。
≪書き下し文≫
東川王、或(あるいは)云く東襄、諱は憂位居、少名は郊彘、山上王の子なり。
母は酒桶村人、入りて山上小后と為すも、史は其の族姓を失す。
前王十七年、立ちて太子と為し、是れ位を嗣(つ)ぐに至る。
王の性は寬仁、王后は王の心を試さんと欲し、候王遊びに出でれば、人をして王の路馬(みちうま)の鬣(たてがみ)を截(き)らせしむ。
王還りて曰く、
馬鬣を無くすを憐む可し、と。
又た侍者の食を進む時、陽(わざと)王衣に羹(あつもの)を覆(かえ)させしむるも、亦た怒らず。
二年、春二月。
王卒本に如(ゆ)き、始祖廟を祀る。
大赦す。
三月。
于氏を封じて王太后と為す。
四年、秋七月。
國相高優婁卒す。
以て于台明臨於漱を國相と為す。
八年。
魏遣使して和親す。
秋九月。
太后于氏薨ず。
太后終りに臨み言(ことば)を遺して曰く、
妾(わらわ)行(おこない)を失せり。
將に何を面目して地下に於いて國壤と見(まみ)えむとするか。
若し群臣の溝壑(こうがく)に擠(お)つること忍ばざれば、則ち我を山上王陵の側に葬らむことを請む。
遂に之れを葬むるに其の言の如くす。
巫者曰く、
國壤予に降りて曰く、
昨(きのう)山上に歸する于氏に見えるも、憤恚に勝たず、遂に之れと戰ふ。
退きて之れを思ひ、顔厚國人と見えるに忍びず。
爾(しか)りて朝に於いて、物を以て我を遮(さえぎ)ることを告ぐ、と。
是れを用(もち)て陵前に松七重を植ゆ。
十年、春二月。
吳王孫權、使者胡衛を遣りて和を通ず。
王は其の使を留め、秋七月に至り、之れを斬り、首を魏に傳ふ。
十一年。
遣使して魏に如かせ、年號の改むるを賀(いわ)へり。
是れ景初元年なり。
十二年。
魏太傅司馬宣王衆を率い、公孫淵を討つ。
王は主簿大加將兵千人を遣り、之れを助く。
十六年。
王將を遣り、遼東西安平を襲ひ破る。
十七年、春正月。
王子然弗を立て王太子と為し、國內を赦す。
十九年、春三月。
東海人美女を獻じ、王之れを後宮に納む。
冬十月。
師を出だして新羅の北邊を侵す。
二十年、秋八月。
魏幽州刺史毋丘儉將萬人を遣り、玄(とおし)を出でて侵に來たり。
王は步騎二萬人を將(ひき)い、沸流水の上(ほとり)に逆戰し、之れを敗り、斬首すること三千餘級。
又た兵を引きて梁貊の谷に再戰し、又た之れを敗り、斬獲すること三千餘人。
王は諸將に謂ひて曰く、
魏の大兵、反すること我の小兵に如かず。
毋丘儉は魏の名將、今日命は我が掌握の中(うち)に在らんや、と。
乃ち鐵騎五千を領(おさ)め、進みて之れを擊つ。
儉は方陣を為し、死を決して戰ひ、我が軍大潰し、死者一萬八千餘人。
王一千餘騎を以て、鴨渌原に奔(はし)れり。
冬十月。
儉丸都城を攻め陷し、之れを屠る。
乃ち將軍王頎を遣り、王を追ふ。
王は南沃沮に奔り、于竹嶺に至るも、軍士分散殆盡す。
唯だ東部の密友獨り側に在り、王に謂ひて曰く、
今追兵甚だ迫り、勢脫する可からず。
臣は死を決して之れを禦することを請ふ。
王遯(に)ぐる可けんや。
遂に死士を募り、之れと與に敵力に赴き戰ふ。
王は間(ひそか)に行き、脫して去り、山谷に依り、散卒を聚めて自ら衛(まも)り、謂ひて曰く、
若し密友を取るに能ふ者有らば、之れを厚く賞す、と。
下部劉屋句前(すす)み對へて曰く、
臣焉れに往くことを試さむ、と。
遂に戰地に於いて、密友の地に伏すを見え、乃ち負ひて至る。
王之れを枕するに股を以てすれば、久しくして乃ち蘇る。
王間(ひそか)に行き轉輾(てんてん)とし、南沃沮に至るも、魏軍追ひて止らず。
王の計は窮して勢は屈し、為す所を知らず。
東部人の紐由進みて曰く、
勢甚だ危迫せるも、徒死する可からず。
臣に愚計有り、飲食を以て魏軍を犒(ねぎら)ひに往き、因りて隙を伺ひ彼の將を刺殺せむること請はむ。
若し臣の計成を得れば、則ち王奮擊決勝す可けんや。
王曰く、
諾。
紐由魏軍に入り詐(あざむ)き降りて曰く、
寡君は大國に罪を獲、逃げて海濱に至り、躬を措く地無し。
將に以て陣前に降らむと請へり。
死を司寇に歸し、先ず小臣を遣り、不腆の物を致し、從者を為して羞(は)ず。
魏將之れを聞き、將に其の降(くだる)を受く。
紐由刀を食器に隱し、前に進み、刀を拔き魏將の胸を刺し、之れと俱に死し、魏軍遂に亂る。
王は軍を分けて三道を為し、急ぎて之れを擊ち、魏軍擾亂陳(なら)ぶに能はず、遂に樂浪より而りて退く。
王國を復し功を論ふ。
以て密友、紐由を第一と為し、密友は巨谷、靑木谷を賜ふ。
屋句には鴨淥、杜訥河原を賜ひ、以て食邑と為す。
追贈して紐由を九使者と為し、又た以て其の子多優を大使者と為す。
是の役や、魏將は肅愼の南界に到り、石に紀功を刻み、又た丸都山に到り、不耐城と銘じて歸す。
初め、其の臣得來、王の中國を侵し叛くを見ゆ。
數(しばしば)諫むるも、王從はず。
得來嘆きて曰く、
此の地に立ちて見れば、將に蓬蒿を生えむとす。
遂に食はずして死す。
毋丘儉は諸軍をして、其の墓を壞すことをなからせしめ、其の樹を伐つことなからせしめ、其の妻子を得、皆放ち之れを遣る。
括地志に云く、
不耐城卽ち國內城なり。
城の累石を之れと為す。
此れ卽ち丸都山と國內城相ひ接す。
梁書、以て司馬懿の公孫淵を討ち、王は將を遣り、西安平を襲ひ、毋丘儉侵に來たる、と。
通鑑、以て得來の王を諫むるは、王位宮の時の事と為せり。
誤(あやまり)なり。
二十一年、春二月。
王は丸都城の亂を經ること以て、都と復す可からず。
平壤城を築き、民及び廟社を移す。
平壤は本(もともと)仙人王儉の宅(すみか)なり。
或(あるいは)云く、王の都王儉なり、と。
二十二年、春二月。
新羅遣使して和を結ぶ。
秋九月。
王薨ず。
柴原に葬られ、號して曰く東川王。
國人其の恩德を懷き、哀傷せざるもの莫し。
近臣自殺して以て殉ずることを欲する者衆(おお)し。
嗣王以為(おもへ)らく禮に非らざるとして、之れを禁ず。
葬日に至り、墓に至り自ら死せる者甚だ多し。
國人柴を伐り、以て其の屍を覆ひ、遂に其の地を名づけて曰く柴原、と。