美川王(一説には好壤王)の諱は乙弗(あるいは憂弗とも)、西川王の子の古鄒加咄固の子である。
ことの始まりは次のことである。
烽上王は弟の咄固に異心があると疑って殺したが、子の乙弗は害を恐れて出遁した。
最初は水室村人の陰牟の家に就いて雇われで働いた。
陰牟は乙弗が何者かも知らず、甚だしく酷使した。
その家は草の深い湿地の側で、蛙が鳴いていた。
夜には乙弗に瓦石を投げて使いをさせ、話すことを禁じた。
昼間は乙弗の木こりを見張り、休憩を許さなかった。
艱苦に耐え切れなくなった乙弗は、一年を一巡りする頃に、そこを去っていった。
今度は東村人再牟と塩を売った。
舟に乗って鴨渌に着き、塩を自分で背負って江東思收村の人家に寄った。
その家の老婆に塩を請われので、乙弗は一斗ほど計ってそれを渡した。
しかし再び老婆から塩を請わると、今度はもう渡さなかった。
その老婆はそれを恨み、こっそりと自分の靴を乙弗の塩の中に隠した。
乙弗はそれに気づかず、塩の桶を背負って道を登った。
老婆はそれを追いかけて捜索し、乙弗が靴を塩の中に隠したのだと嘘をついて鴨渌の宰に告訴した。
宰は乙弗に老婆の靴を返却させ、塩を取り上げ老婆に与え、むち打ちの刑に処して鴨渌から追放した。
こういう次第で、姿かたちはやつれ果て、着るものはほつれ破れ、人はそれを見て、それが王孫であるなどとは誰も気づかなかった。
この時、ちょうど國相の倉助利が王を廃した。
その後まず北部の祖弗や東部蕭友たちを派遣し、物色して山野で乙弗を見つけた。
沸流の河辺で一丈夫が船の上にいるのを見た。
顔かたちはやつれ果てていたが、その立ち振る舞いは非凡なものであった。
蕭友たちはあれが乙弗ではないかと疑い、そちらに就いて敬拜した。
「今の國王は無道ですので、國相と群臣が陰謀によって、それを廃そうとしています。
王孫は立ち振る舞いには無駄がなく、仁慈の心で人を愛しておられます。
ですので、祖先の業を継ぐべきです。
ゆえに遣臣たちは王孫を奉り、迎えたく思っております。」
乙弗は疑って言った、
「私はただの田舎ものだ。王孫などではない。」
そして、もっと詳しく話を聞かせてほしいと請うた。
蕭友たちは言った。
「今上は人心を失って久しい。
初めから国主となるには足りぬ人物だったのです。
ゆえに群臣は王孫にいたく王を勤めてほしいと望んでいるのです。
どうか疑わないで頂きたい。」
こうして乙弗を奉り、連れて帰って。
助利は喜び、烏陌南の家に連れてきたが、人に知らせなかった。
秋九月。
王侯山の陰で狩猟をし、國相の助利がそれに従った。
衆人に言った。
「私と心を同じくする者は、私に倣え。」
こうして蘆葉を冠に挿すと、衆人も皆がそれを揷した。
助利は衆人が心を皆同じくしているとわかり、遂に共同で王を廃し、それを別室に幽閉し、兵士たちに周囲を衛らせた。
こうして王孫を迎え、上璽綬けた。
王の即位である。
冬十月。
黃霧が四方に充満した。
十一月。
風が西北から来て、砂が飛び石を走らせること六日。
十二月。
星孛が東方に現れた。
三年、秋九月。
王が兵三万を率い、玄菟郡を侵略した。
八千人を捕虜にし、それを平壤に移住させた。
十二年、秋八月。
将軍を派遣して襲撃させ、遼東西安平を奪取した。
十四年、冬十月。
樂浪郡を侵略し、男女二千口余りを捕虜にした。
十五年、春正月。
王子の斯由を太子に擁立した。
秋九月。
帶方郡に南侵した。
十六年、春二月。
玄菟城を攻撃して破った。
甚だ多くを殺し、あるいは捕虜にした。
秋八月。
星孛が東北に現れた。
二十年、冬十二月。
晉平州刺使の崔毖が来奔してきた。
初め、崔毖がこっそりと我が国と段氏、宇文氏を説得し、慕容廆を共同で攻めさせ、三國は棘城に進攻した。
慕容廆は城門を閉ざして自らを守り、独りで牛や酒を宇文氏に持っていきねぎらった。
同盟国は宇文氏は慕容廆に味方し、自分たちの軍隊を引き返させようと謀っているのではないかと疑った。
宇文大人の悉獨官が言った。
「二国が帰ろうとも、我々は独りで奴らの首を取ってやる。」
慕容廆が子の慕容皝、長史の裴嶷、精鋭たちを共同で先鋒をあたらせ、自ら大軍を率いてそれに継いだ。
悉獨官は大敗を喫し、身ひとつで逃げ出すのが精一杯だった。
崔毖はそれを聞いて、兄の子である崔燾に棘城を詣でさせ、偽りの戦勝を祝賀した。
慕容廆がそこに軍隊を率いて接近したので、崔燾は懼れて服従した。
慕容廆は燾を遣いとして帰らせ、崔毖に伝えさせた。
「降服は上策、逃走は下策である。」
軍隊を引き連れてそれに服従した。
崔毖と数十騎は家を棄てて來奔したが、その衆はことごとく慕容廆に降服した。
慕容廆は子の慕容仁を遼東官府に任命し、市里を元通りに案堵した。
我が将如孥は于河城を拠点としたが、慕容廆は將軍張統を派遣し、急襲して捕虜にし、その衆千家余りも捕虜にし、于棘城に帰った。
王は何度も兵を派遣して遼東に侵攻したが、慕容廆は慕容翰と慕容仁を派遣し、それを討伐した。
王は盟を求めたが、慕容翰と慕容仁はそのまま帰還した。
二十一年、冬十二月。
遼東に遣兵して侵攻したが、慕容仁が抗戦してそれを破った。
三十一年。
後趙の石勒に遣使して、その楛矢をもたらした。
三十二年、春二月。
王が死去した。
美川の原に葬られ、號して曰く美川王、と。
三國史記 卷第十七
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