故國原王

故國原王

 故國原王(一説には國罡上王)の諱は斯由である。(あるいは釗とも)
 美川王十五年、太子に擁立された。
 三十二年、春、王が死去し、即位した。

 二年、春二月。
 王卒本に行き、始祖廟を祀った。
 百姓を巡問し、老病に賑給をした。

 三月。
 卒本から到着した。

 四年、秋八月。
 平壤城を増築した。

 冬十二月。
 雪が降らなかった。

 五年、春正月。
 国の北に新城を築いた。

 秋七月。
 霜が降り穀物を食べられなくした。

 六年、春三月。
 大星西北に流れた。
 遣使して晉に行かせ、方物を貢いだ。

 九年。
 燕王の慕容皝が侵略に来て、兵は新城に及んだ。
 王が盟を交わそうと乞い、すぐに帰還した。

 十年。
 王が世子を派遣し、燕王皝に参内させた。

 十二年、春二月。
 丸都城を修復し、同時に國内城を築いた。

 秋八月。
 丸都城に移住した。

 冬十月。
 燕王の慕容皝が首都を龍城に遷した。
 立威將軍の慕容翰が請願した。
「まず高句麗を奪取し、次に宇文を滅ぼし、その後で中原を包囲しましょう。
 高句麗には二つの道がありますが、北道は平坦で開けておりますが、南道は険しく狹い。
 ですので、人々は北道から行こうとするでしょう。」
 慕容翰は続けた。
「当然の人情としての思考に囚われて計画を立てれば、必ず大軍を北道から行かせようと言い、北を重くみて南を軽んじることでしょう。
 王よ、どうぞ精鋭を統帥して、南道から高句麗を襲撃してください。
 このようにして不意を突けば、丸都など取るに足らないものです。
 別動隊として一群を派遣し、北道から出させれば、仮に道中でうまくいかないことがあろうとも、連中の腹心は既に潰しておりますから、四肢を動かすことさえできなくなるでしょう。」
 慕容皝はそれに従った。

 十一月。
 慕容皝は自ら勁兵四万を率いて南道から出た。
 慕容翰、慕容覇を先鋒に当たらせ、別動隊として長史王㝢たち、将兵一万五千を派遣して北道から出て侵攻した。
 王は弟の高武を派遣し、精兵五万を統帥させ、北道にて防衛に当たらせ、自らも羸兵を統帥して、南道に備えた。
 慕容翰たちがまず戦闘に当たり、そこへ慕容皝が大勢を率いてそこに継いだので、我が兵は大敗を喫した。
 左長史の韓壽が我が軍の将軍阿佛和度加を斬り、諸軍は勝ちに乗じて、遂に丸都に入り込んだ。
 王は単騎にて敗走し斷熊谷に入ったが、燕の将軍慕輿埿が追撃し、王母の周氏と王妃を捕えて帰国した。
 慕容會や王㝢たちは北道で戦い、皆敗没した。
 このために慕容皝はこれ以上の追撃はせず、遣使して王を招いたが、王は出てこなかった。
 慕容皝が帰還しようとすると、韓壽が言った。
 今回制圧した高句麗の地は、防衛には向いていません。
 現在、高句麗の主は逃亡し、人民は逃散し、山谷に潛伏し、大軍は既に解散状態です。
 しかし、必ずまた勢力をかき集め、その燃え残った火を再び燃え上がらせるでしょう。
 こうなれば、またしても我々にとって憂患となります。
 その父親の屍を奪い取り、その生母を捕えて帰り、高句麗の王が身を束ねて自ら帰服するのを待ってはいかがでしょうか。
 そうした後にそれらを返し、慰撫して恩信とするのが上策でしょう。
 慕容皝はそれに従った。
 燕軍は美川王の墓を暴き、その尸を奪い取り、その府庫にあった累世の宝物を収奪した。
 また、男女五万口余りを捕虜とし、その宮室を焼き払い、丸都城を毀して帰国した。

 十三年、春二月。
 王は弟を派遣して、臣下であると称して燕に入朝し、珍異千数をもって朝貢した。
 燕王皝はすぐにその父親の屍を返還したが、その母を留めて人質とした。

 秋七月。
 平壤東黃城に居を移した。
 城は現在の西京東にある木覓の山中にある。
 遣使して晉に行かせ朝貢させた。

 冬十一月。
 雪が五尺積もった。

 十五年、冬十月。
 燕王皝が慕容恪に攻撃させ、南蘇を抜いて、国境に駐留兵を置いて帰った。

 十九年。
 王は前東夷護軍の宋晃を燕に送った。
 燕王雋はそれを赦免し、更に活と名付け、拜して中尉に任命した。

 二十五年、春正月。
 王子丘夫を王太子に擁立した。

 冬十二月。
 王が遣使して燕に行かせ、質物貢物を納め、それによって母の返還を請願した。
 燕王雋はそれを許し、殿中將軍の刁龕を派遣して王母周氏を送らせ、帰国させた。
 これによって王は征東大將軍營州刺史に任命され、樂浪公に封ぜられ、王は元の位に戻った。

 三十九年、秋九月。
 王は兵二万をもって百濟を南伐し、雉壤にて戦ったが敗績した。

 四十年。
 秦王の猛が燕を討伐して破った。
 燕の大傅慕容評が高句麗に奔走したが、王はそれを捕えて秦に送った。

 四十一年、冬十月。
 百濟王が兵三万を統帥して、平壤城を攻め込んだ。
 王は軍隊を出撃させて防戦したが、流れ矢に当たってしまった。
 これが月二十三日のことで、王は死去した。
 故國の原に葬られた。
 百濟の蓋鹵王が魏に送った表には、「釗の首を梟斬す」とあるが、誤った辞である。
 

 

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≪白文≫
 故國原王、一云國罡上王、諱斯由。
 或云釗、美川王十五年、立爲太子。
 三十二年、春、王薨。
 即位。

 二年、春二月。
 王如卒本、祀始祖廟。
 巡問百姓、老病賑給。

 三月。
 至自卒本。

 四年、秋八月。
 增築平壤城。

 冬十二月。
 無雪。

 五年、春正月。
 築國北新城。

 秋七月。
 隕霜殺穀。

 六年、春三月。
 大星流西北。
 遣使如晉、貢方物。

 九年。
 燕王皝來侵、兵及新城。
 王乞盟、乃還。

 十年。
 王遣世子、朝於燕王皝。

 十二年、春二月。
 修葺丸都城、又築國内城。

 秋八月。
 移居丸都城。

 冬十月。
 燕王皝遷都龍城。
 立威將軍翰請、
 先取高句麗、後滅宇文、然後中原可圖。
 高句麗有二道、其北道平闊、南道險狹、衆欲從北道。
 翰曰、
 虜以常情料之、必謂大軍從北道、當重北而輕南。
 王宜帥銳兵、從南道擊之、出其不意、丸都不足取也。
 別遣偏師、出北道、縱有蹉跌、其腹心已潰、四支無能為也。
 皝從之。

 十一月。
 皝自將勁兵四萬、出南道。
 以慕容翰、慕容覇為前鋒、別遣長史王㝢等、將兵萬五千、出北道以來侵。
 王遣弟武、帥精兵五萬、拒北道、自帥羸兵、以備南道。
 慕容翰等先至戰、皝以大衆繼之、我兵大敗。
 左長史韓壽、斬我將阿佛和度加、諸軍乘勝、遂入丸都。
 王單騎走入斷熊谷、將軍慕輿埿、追獲王母周氏及王妃而歸。
 會、王㝢等戰於北道、皆敗沒。
 由是、皝不復窮追、遣使招王、王不出。
 皝將還、韓壽曰、
 高句麗之地、不可戍守。
 今、其主亡民散、潛伏山谷、大軍旣去、必復鳩聚、收其餘燼、猶足為患。
 請載其父尸、囚其生母而歸、俟其束身自歸、然後返之、撫以恩信、策之上也。
 皝從之。
 發美川王墓、載其尸、收其府庫累世之寶、虜男女五萬餘口、燒其宮室、毁丸都城而還。

 十三年、春二月。
 王遣其弟、稱臣入朝於燕、貢珍異以千數。
 燕王皝乃還其父尸、猶留其母為質。

 秋七月。
 移居平壤東黃城、城在今西京東木覓山中。
 遣使如晉朝貢。

 冬十一月。
 雪五尺。

 十五年、冬十月。
 燕王皝使慕容恪來攻、拔南蘇、置戍而還。

 十九年。
 王送前東夷護軍宋晃于燕。
 燕王雋赦之、更名曰活、拜為中尉。

 二十五年、春正月。
 立王子丘夫為王太子。

 冬十二月。
 王遣使詣燕、納質修貢、以請其母。
 燕王雋許之、遣殿中將軍刁龕、送王母周氏歸國。
 以王為征東大將軍營州刺史、封樂浪公、王如故。

 三十九年、秋九月。
 王以兵二萬、南伐百濟、戰於雉壤、敗績。

 四十年。
 秦王猛、伐燕破之。
 燕大傅慕容評來奔、王執送於秦。

 四十一年、冬十月。
 百濟王帥兵三萬、來攻平壤城。
 王出師拒之、為流矢所中。
 是月二十三日、薨。
 葬于故國之原。
 百濟蓋鹵王表魏曰、
梟斬釗首、過辭也。



≪書き下し文≫
 故國原王、一に云く國罡上王、諱は斯由なり。
或(あるいは)云く釗。
 美川王十五年、立てて太子と爲す。
 三十二年、春、王薨じ、即位す。

 二年、春二月。
 王卒本に如(ゆ)き、始祖廟を祀る。
 百姓を巡問し、老病賑給す。

 三月。
 卒本より至る。

 四年、秋八月。
 平壤城を增築す。

 冬十二月。
 雪無し。

 五年、春正月。
 國北新城を築く。

 秋七月。
 霜隕り穀を殺ぐ。

 六年、春三月。
 大星西北に流る。
 遣使して晉に如かせ、方物を貢ぐ。

 九年。
 燕王皝侵に來たりて、兵は新城に及ぶ。
 王盟を乞へば、乃ち還る。

 十年。
 王世子を遣り、燕王皝を朝せしむ。

 十二年、春二月。
 丸都城を修葺し、又た國内城を築く。

 秋八月。
 丸都城に移居す。

 冬十月。
 燕王皝都を龍城に遷す。
 立威將軍翰請ふ、
 先ず高句麗を取り、後に宇文を滅し、然る後に中原を圖ふ可し。
 高句麗に二道有り、其の北道は平闊、南道は險狹なれば、衆は北道に從ふことを欲す。
 翰曰く、
 常情を以て之れを料(おしはか)るに虜(とら)はれれば、必ず大軍北道に從ふと謂ひ、當に北を重しとして南を輕しとせむ。
 王宜しく銳兵を帥(す)べ、南道に從ひ之れを擊つべし。
 其の不意を出だし、丸都取るに足らざるなり。
 別に偏師を遣り、北道を出ださせ、縱ふに蹉跌に有れども、其の腹心已に潰(つい)え、四支は為すに能ふこと無きなり、と。
 皝之れに從ふ。

 十一月。
 皝自ら勁兵四萬を將(ひき)い、南道を出ずる。
 慕容翰、慕容覇を以て前鋒と為し、別に長史王㝢等、將兵萬五千を遣り、北道を出でて以て侵に來たる。
 王は弟の武を遣り、精兵五萬を帥(すべ)させ、北道を拒ませ、自ら羸兵を帥い、以て南道に備ふ。
 慕容翰等が先ず戰(いくさ)に至り、皝は大衆を以て之れを繼ぎ、我が兵大敗す。
 左長史の韓壽、我が將阿佛和度加を斬り、諸軍勝ちに乘じ、遂に丸都に入る。
 王は單騎にて走り斷熊谷に入り、將軍慕輿埿、追ひて王母周氏及び王妃を獲てして歸る。
 會、王㝢等は北道にて戰ひ、皆敗沒す。
 是れに由りて、皝は窮追を復さず、遣使して王を招くも、王出でず。
 皝將に還らむとすると、韓壽曰く、
 高句麗の地、戍守す可からず。
 今、其の主は亡(のが)れ民は散り、山谷に潛伏し、大軍旣に去り、必ず復た鳩聚し、其の餘燼を收め、猶ほ患すに足るがごとし。
 其の父尸を載き、其の生母を囚へて歸り、其の身を束ねて自ら歸するを俟たむと請ふ。
 然る後に之れを返し、撫して以て恩信とするは、策の上なり。
 皝之れに從ふ。
 美川王墓を發し、其の尸を載き、其の府庫累世の寶を收め、男女五萬餘口を虜にし、其の宮室を燒き、丸都城を毁して還る。

 十三年、春二月。
 王は其の弟を遣り、臣を稱して燕に入朝し、珍異を貢ぐに千數を以てす。
 燕王皝乃ち其の父尸を還し、猶ほ其の母を留めて質と為す。

 秋七月。
 平壤東黃城に移居す。
 城は今の西京東木覓山中に在り。
 遣使して晉に如かせ朝貢す。

 冬十一月。
 雪五尺。

 十五年、冬十月。
 燕王皝慕容恪をして攻に來たり、南蘇を拔き、戍(たむろ)を置きて還る。

 十九年。
 王前東夷護軍宋晃を燕に送る。
 燕王雋は之れを赦し、更に名づけて曰く活、拜して中尉と為す。

 二十五年、春正月。
 王子丘夫を立て王太子と為す。

 冬十二月。
 王遣使して燕に詣(いた)らせ、質を納めて貢を修め、以て其の母を請ふ。
 燕王雋之れを許し、殿中將軍刁龕を遣り、王母周氏を送らせ歸國せしむ。
 以て王は征東大將軍營州刺史と為り、樂浪公に封ぜられ、王故(もと)に如し。

 三十九年、秋九月。
 王兵二萬を以て、百濟を南伐し、雉壤に戰ひ、敗績す。

 四十年。
 秦王猛、燕を伐ち之れを破る。
 燕大傅慕容評奔に來たるも、王は執りて秦に送る。

 四十一年、冬十月。
 百濟王兵三萬を帥べて、平壤城を攻めに來たる。
 王は師を出だして之れを拒むも、流矢の中(あた)る所と為る。
 是れ月二十三日、薨ず。
 故國の原に葬むらる。
 百濟の蓋鹵王魏に表じて曰く、
釗の首を梟斬す、過辭なり。