廣開土王

廣開土王

 廣開土王、諱は談德、故國壤王の子である。
 生まれながらに雄壮な偉丈夫で、飛びぬけた才気と信念を志していた。
 故國壤王三年、太子に擁立された。
 八年、王薨じ、太子に即位した。

 秋七月。
 百濟に南伐し、十城を抜いた。

 九月。
 契丹に北伐し、男女五百口を捕虜とした。
 同時に本国に招諭し、民口一万を没収して帰った。

 冬十月。
 百濟の關彌城を攻め陷した。
 その城は四面が険しい山や海に囲まれていたが、王は軍を七つに分け、攻擊すること二十日、こうして抜いた。

 二年、秋八月。
 百濟が南国境付近に侵攻したが、将軍に命じてはねのけた。
 九つの寺を平壤に創設した。

 三年、秋七月。
 百濟が侵攻してきた。
 王は精騎五千を率い、抗戦して敗退させ、残りの残賊は夜に紛れて敗走した。

 八月。
 国南部に七城を築き、百濟の寇に備えた。

 四年、秋八月。
 王が百濟と浿水の畔で戦い、大敗させて八千級余りを捕虜とした。

 九年、春正月。
 王が遣使して燕に入らせ、朝貢させた。

 二月。
 燕王盛は我が王を禮慢であるとして、自ら兵三万を率いて襲撃した。
 驃騎大將軍慕容熙を先鋒とし、新城、南蘇二城を抜いて、七百里余りの土地を開拓して五千戶余りを移住させて帰った。

 十一年。
 王が兵を派遣して宿軍を攻め、燕の平州刺史慕容歸は城を棄てて逃走した。

 十三年、冬十一月。
 軍隊を出撃して燕に侵攻した。

 十四年、春正月。
 燕王熙が遼東城へ攻めに来た。
 まさに城が陥落しようというとき、燕王熙は将士に命じた。
「まだ城内まで攻め入るでない。
 その城を刪除し、朕と皇后が神輿に乗って入城するのを待て。」
 これによって、城内は守備を固めることができたので、燕の兵卒たちは勝つことなく帰った。

 十五年、秋七月。
 蝗が発生し、旱魃が起こった。

 冬十二月。
 燕王熙が契丹を襲うため、陘北まで行ったが、契丹の大軍に恐怖し、帰ろうとした。
 こうして輜重を棄て、軽兵で我が国を襲った。
 燕軍は三千里余りを行軍していたので、士馬は疲弊し、凍える者もいて、死者は路にあふれた。
 我が木底城を攻めたが、勝つことなく帰った。

 十六年、春二月。
 宮闕を増修した。

 十七年、春三月。
 北燕に遣使し、同時に北燕と高句麗が宗族であることを確認し、北燕王雲は侍御史の李拔を派遣してそれを報せた。
 雲の祖父は高和という句麗の親属であり、自ら高陽氏の苗裔と名乗った。
 高を氏とするのはそのためである。
 それが慕容寶の太子となったのは、高雲が武芸で東宮に侍していたので、慕容寶はそれを自らの子とし、慕容氏の姓を賜ったことからである。

 十八年、夏四月。
 王子の巨連を太子に擁立した。

 秋七月。
 國東の禿山等六城を築き、平壤に民戶を移した。

 八月。
 王が南巡した。

 二十二年、冬十月。
 王が死去した。
 廣開土王と號された。

 

 戻る








≪白文≫
 廣開土王、諱談德、故國壤王之子。
 生而雄偉、有倜儻之志。
 故國壤王三年、立為太子。
 八年、王薨、太子卽位。

 秋七月。
 南伐百濟、拔十城。

 九月。
 北伐契丹、虜男女五百口、又招諭本國陷沒民口一萬而歸。

 冬十月。
 攻陷百濟關彌城。
 其城四面峭絶、海水環繞、王分軍七道、攻擊二十日、乃拔。

 二年、秋八月。
 百濟侵南邊、命將拒之。
 創九寺於平壤。

 三年、秋七月。
 百濟來侵。
王率精騎五千、逆擊敗之、餘寇夜走。

 八月。
 築國南七城、以備百濟之寇。

 四年、秋八月。
 王與百濟、戰於浿水之上、大敗之、虜獲八千餘級。

 九年、春正月。
 王遣使入燕朝貢。

 二月。
 燕王盛、以我王禮慢、自將兵三萬襲之。
 以驃騎大將軍慕容熙、為前鋒、拔新城、南蘇二城、拓地七百餘里、徙五千餘戶而還。

 十一年。
 王遣兵攻宿軍、燕平州刺史慕容歸、棄城走。

 十三年、冬十一月。
 出師侵燕。

 十四年、春正月。
 燕王熙來攻遼東城。
 且陷、熙命將士、  毋得先登、俟剗平其城、朕與皇后、乘轝而入。
 由是、城中得嚴備、卒不克而還。

 十五年、秋七月。
 蝗、旱。

 冬十二月。
 燕王熙襲契丹、至陘北、畏契丹之衆、欲還。
 遂棄輜重、輕兵襲我。
 燕軍行三千餘里、士馬疲凍、死者屬路。
 攻我木底城、不克而還。

 十六年、春二月。
 增修宮闕。

 十七年、春三月。
 遣使北燕、且叙宗族、北燕王雲、遣侍御史李拔報之。
 雲祖父高和、句麗之支屬、自云高陽氏之苗裔、故以高為氏焉。
 慕容寶之為太子、雲以武藝、侍東宮、寶子之、賜姓慕容氏。

 十八年、夏四月。
 立王子巨連、為太子。

 秋七月。
 築國東禿山等六城、移平壤民戶。

 八月。
 王南巡。

 二十二年、冬十月。
 王薨。
 號為廣開土王。



≪書き下し文≫
 廣開土王、諱は談德、故國壤王の子なり。
 生じて雄偉、倜儻の志有り。
 故國壤王三年、立ちて太子と為す。
 八年、王薨じ、太子卽位す。

 秋七月。
 百濟に南伐し、十城を拔く。

 九月。
 契丹に北伐し、男女五百口を虜にし、又た本國に招諭し民口一萬を陷沒して歸す。

 冬十月。
 百濟の關彌城を攻め陷す。
 其の城四面峭絶し、海水環繞するも、王軍を七道に分け、攻擊すること二十日、乃ち拔く。

 二年、秋八月。
 百濟南邊を侵すも、將に命じて之れを拒む。
 九寺を平壤に創る。

 三年、秋七月。
 百濟侵に來たる。
 王は精騎五千を率い、逆擊して之れを敗り、餘寇は夜走す。

 八月。
 國の南に七城を築き、以て百濟の寇に備ふ。

 四年、秋八月。
 王百濟と浿水の上(ほとり)に戰ひ、大いに之れを敗り、虜獲すること八千餘級。

 九年、春正月。
 王遣使して燕に入り朝貢す。

 二月。
 燕王盛、我が王の禮慢を以て、自ら兵三萬を將いて之れを襲ふ。
 驃騎大將軍慕容熙を以て、前鋒と為し、新城、南蘇二城を拔き、地七百餘里を拓き、五千餘戶を徙(うつ)して還る。

 十一年。
 王兵を遣り宿軍を攻め、燕平州刺史慕容歸、城を棄て走る。

 十三年、冬十一月。
 師を出だして燕を侵す。

 十四年、春正月。
 燕王熙遼東城に攻に來たり。
 且に陷るとして、熙は將士に命ず。
 先登を得ること毋かれ。
 其の城を剗平するを俟ち、朕と皇后、轝に乘じて入る。
 是れに由りて、城中は嚴備を得、卒は克たずして還る。

 十五年、秋七月。
 蝗、旱。

 冬十二月。
 燕王熙契丹を襲ひ、陘北に至るも、契丹の衆を畏れ、還らむと欲す。
 遂に輜重を棄て、輕兵我を襲ふ。
 燕軍三千餘里を行き、士馬は疲凍し、死者は路に屬す。
 我が木底城を攻むるも、克たずして還る。

 十六年、春二月。
 宮闕を增修す。

 十七年、春三月。
 北燕に遣使し、且つ宗族を叙し、北燕王の雲、侍御史李拔を遣り之れを報(しら)しむる。
 雲の祖父高和、句麗の支屬、自ら高陽氏の苗裔と云ひ、故に高を以て氏と為せり。
 慕容寶の太子と為すは、雲は武藝を以てし、東宮に侍り、寶之れを子とし、姓慕容氏を賜ふ。

 十八年、夏四月。
 王子の巨連を立て、太子と為す。

 秋七月。
 國東の禿山等六城を築き、平壤に民戶を移す。

 八月。
 王南巡す。

 二十二年、冬十月。
 王薨ず。
 號して廣開土王と為す。