長壽王

長壽王

 長壽王の諱は巨連(ひとつには璉とも記述される)開土王の元子である。
 体格はずば抜けて大きく、その心意気は豪快で勇猛であった。
 開土王十八年、太子に擁立された。
 二十二年、王が死去したので即位した。

 元年。
 長史高翼を派遣し、晉に入らせ表を奉り、赭や白馬を献上した。
 安帝王を高句麗王楽浪郡公に封じた。

 二年、秋八月。
 異鳥が王宮に集った。

 冬十月。
 王蛇川の原で狩りをして、白獐を捕獲した。

 十二月。
 王都にて雪が五尺積もった。

 七年、夏五月。
 国東部にて大洪水が起こり、王は遣使して存問した。

 十二年、春二月。
 新羅が遣使して聘問を修めたので、王はそれを特に厚く慰労した。

 秋九月。
 大豊作の年だったので、王は群臣と宮殿で宴を開いた。

 十三年。
 遣使して魏に貢ぎに行かせた。

 十五年。
 都を平壤に移した。

 二十三年、夏六月。
 王が遣使して魏に入り朝貢し、同時に國諱を請うた。
 世祖嘉はその忠誠を歓び、皇統と諱を記録させてそれを与えた。
 員外散騎侍郞李敖を派遣し、拜して王を都督遼海諸軍事征東將軍領護東夷中郞將遼東郡開國公高句麗王とした。

 秋。
 王は遣使して魏に入り謝恩した。
 魏人が幾度となく燕を伐ち、燕には日々危機が迫っていた。
 燕王馮弘は言った。
「もし緊急事態となれば、東の高句麗を頼り、その後に挙兵しようではないか。」
 隠密に尚書陽伊を派遣し、我が国に迎えるように請願した。

 二十四年。
 燕王が遣使して魏に入貢し、人質となった子を返還するように請願した。
 魏主はそれを許さず、兵を挙げて討伐しようとして、遣使して告諭に來た。

 夏四月。
 魏が燕の白狼城を攻め、これに勝った。
 王は将軍の葛盧、孟光を派遣し、数万の軍勢を率いさせ、陽伊を通じて和龍に到来し、燕王を迎えた。
 葛盧、孟光は城に入り、軍に命じて破れた服を脱がせ、燕の武庫の精仗を奪取し、それを恩給としてふるまい、大いに城中を掠奪した。

 五月。
 燕王が龍城を率いていると、民戸が東に移住させられ、宮殿が焼かれ、火が10日してようやく消えるのを見た。
 婦人に鎧兜を被らせて中に待機させ、陽伊等勒精兵を外に待機させた。
 葛盧、孟光が騎兵の殿後(しんがり)を統帥し、そのまま前後八十里余りを進軍した。
 魏主はそれを聞き、散騎常侍封撥來を派遣し、燕王を送らせた。
 王は遣使して魏に入らせて表を奉り、これから馮弘に与すると宣言し、ともに王化を奉った。
 魏主は王が違えたことをもって詔を出し、これを攻撃すべしと提議し、隴右騎卒を発そうとしたが、劉絜、樂平、王丕たちに諫められ、それを取りやめた。

 二十五年、春二月。
 遣使して魏に入らせ朝貢した。

 二十六年、春三月。
 事の初めは、燕王弘が遼東に到来したことである。
 王は遣使してそれを労って言った。
「龍城王の馮君、こうして野次の通りになられたわけですな。
 士馬が慰労いたします。
 馮弘は悔しく思い怒りを持ったが、それを抑制してその場は譲った。
 王は馮弘を平郭に処することにし、北豊を経由してそちらに行かせることにした。
 燕王馮弘はもともと我が国を侮っていたが、政刑賞罰は馮弘の統治する北燕よりも上回っていた。
 王はすぐに近臣の者を奪い取り、その太子王仁を取り上げて人質にした。
 馮弘はそれを怨み、遣使して宋に行かせ、上表して迎えるように請願した。
 宋太祖は使者の王白駒たちを派遣して迎えさせ、我が国に資送させた。
 王は馮弘を南に向かわせたくないと思い、将軍の孫漱、高仇等を派遣し、馮弘とその子孫十人余りを北豊にて殺した。
 白駒たちは自身の指揮する七千人余りを統帥し、孫漱と高仇を襲撃して、高仇を殺し、孫漱を生け捕りにした。
 王は白駒たちが独断で許可を得ずに殺したとして、遣使してそれを逮捕して宋に送った。
 宋の太祖は国が遠いからということで、その意に違おうとはせず、白駒たちを獄に下したが、すぐにそれを釈放した。

 二十七年、冬十一月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 十二月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 三十八年。
 新羅人が国境に待機した将軍を襲撃して殺した。
 王は怒り、挙兵して討伐しようとしたが、羅王が遣使して謝罪したの、ただちに取りやめた。

 四十二年、秋七月。
 遣兵して新羅の国境北部を侵攻した。

 四十三年。
 遣使して宋に入らせ朝貢させた。

 五十年、春三月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 五十一年。
 宋世祖孝武皇帝が王を策して車騎大將軍開府儀同三司とした。

 五十三二年、春二月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 五十四年、春三月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。
 魏文明太后、顯祖の後宮の六宮の人数がまだ埋まっていなかったので、王にそれを伝え、娘を提供させた。
 王は表を奉って伝えた。
「私の娘は既に嫁に出ております。
 弟の娘をそちらにお出しして要請に応じようかと思いますが、それでよろしいでしょうか。」
 こうして安樂王眞、尚書李敷たちを派遣し、国境に到着して幣を送った。
 ある者が王に勧めて言った。
「魏は昔、燕と婚姻してまもなくそれを討伐しました。
 それは行人がつぶさにその順境と逆境とを察知したがためです。
 これこそ”殷鑑遠からず”というもので、あちらに適当な言い訳を並べて婚姻を拒否しましょう。」
 こうして王は上書し、その娘が死んだと称した。
 魏はそれが嘘ではないのかと疑い、また假散騎常侍程駿を派遣し、それを切責した。
 こうして、もし女が死んだと判断されれば、更に宗族の淑女を選定して送ることを聞き入れた。
 王は言った。
「もし天子が私の過去の過ちをご寛恕なさるというのであれば、謹んで詔に奉らせていただきます。」
 しかし、顯祖が崩御したため、それは取りやめになった。

 五十五年、春二月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 五十六年、春二月。
 王は靺鞨兵一万で新羅の悉直州城を攻め取った。

 夏四月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 五十七年、春二月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 秋八月。
 百濟兵が南鄙に侵入した。

 五十八年、春二月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 五十九年、秋九月。
 民奴久たちが奔走して魏に降り、それぞれに田宅を賜った。
 これが魏高祖延興元年のことである。

 六十年、春二月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 秋七月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。
 これ以後、魏への貢献は倍に増え、その報賜もまた次第に増加していった。

 六十一年、春二月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 秋八月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 六十二年、春三月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 秋七月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 六十三年、春二月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 秋八月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 九月。
 王が兵三万を統帥し、百濟に侵攻した。  王が首都とする漢城を陥落させ、その王扶餘慶を殺し、男女八千を捕虜にして帰った。

 六十四年、春二月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 秋七月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 九月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 六十五年、春二月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 秋九月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 六十六年。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。
 百濟燕信投に來たる。

 六十七年、春三月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 秋九月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 六十八年、夏四月。
 南齊太祖の蕭道成、王を策して驃騎大將軍とした。
 王は餘奴たちを遣使し、南齊に朝聘しさせようとしたが、魏光州人が海中で餘奴たちを捕え、門中に送った。
 魏高祖は詔りを出して王を責めた。
「道成は自らの君主を弑殺し、ひそかに江左を號した。
 朕はまさに旧邦における国の興滅を欲し、劉氏の絶たれた世を継ごうとしているのだ。
 してみれば、お前は越境して外交し、遠く簒賊と通じておる。
 これが藩臣として節義を守っているといえるだろうか。
 今回の一過でお前の旧款をなかったことにするつもりはない。
 よって、そのまま藩に餘奴たちを送還する。
 その恩を感じ、自らの過ちを思うというのであれば、敬奉して法を厳守し、自らの領地を安んじておれば、その後のことはその評判を聞いて決めようではないか。」

 六十九年。
 遣使して南齊に朝貢した。

 七十二年、冬十月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。
 時に、魏人が我が国の精強であるということで、諸国の使者の邸宅を設置するにあたって、齊の使者を第一とし、我が国の使者をそれに次がせた。

 七十三年、夏五月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 冬十月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 七十四年、夏四月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 七十五年、夏五月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 七十六年、春二月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 夏四月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 秋閏八月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 七十七年、春二月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 夏六月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 秋九月。
 遣兵して新羅の国教北部に侵攻し、狐山城を陥落した。

 冬十月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 七十八年、秋七月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 九月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 七十九年、夏五月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 秋九月。
 遣使して魏に入らせ朝貢させた。

 冬十二月。
 王が死去した。
 年九十八歲、長壽王と號した。
 魏孝文がそれを聞いて、簡素な委貌を制し、深衣を纏い、東郊にて哀悼の意を表した。
 謁者僕射李安上を派遣し、車騎大將軍太傅遼東郡開國公高句麗王を策贈し、諡を康とした。

 三國史記 卷第十八

 

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≪白文≫
 長壽王、諱巨連、一作璉、開土王之元子也。
 體貌魁傑、志氣豪邁。
 開土王十八年、立為太子。
 二十二年、王薨、卽位。

 元年。
 遣長史高翼、入晉奉表、獻赭白馬。
 安帝封王高句麗王楽浪郡公。

 二年、秋八月。
 異鳥集王宮。

 冬十月。
 王畋于蛇川之原、獲白獐。

 十二月。
 王都、雪五尺。

 七年、夏五月。
 國東大水、王遣使存問。

 十二年、春二月。
 新羅遣使修聘、王勞慰之特厚。

 秋九月。
 大有年、王宴群臣於宮。

 十三年、遣使如魏貢。
 十五年、移都平壤。
 二十三年、夏六月。
 王遣使入魏朝貢、且請國諱。
 世祖嘉其誠款、使錄帝系及諱以與之。
 遣員外散騎侍郞李敖、拜王為都督遼海諸軍事征東將軍領護東夷中郞將遼東郡開國公高句麗王。

 秋。
 王遣使入魏謝恩。
 魏人數伐燕、燕日危蹙。
 燕王馮弘曰、
 若事急、且東依高句麗、以圖後擧。
 密遣尚書陽伊、請迎於我。

 二十四年。
 燕王遣使入貢于魏、請送侍子。
 魏主不許、將擧兵討之、遣使來告諭。

 夏四月。
 魏攻燕白狼城、克之。
 王遣將葛盧、孟光、將衆數萬、隨陽伊至和龍、迎燕王。
 葛盧、孟光入城、命軍脫弊褐、取燕武庫精仗、以給之、大掠城中。

 五月。
 燕王率龍城見戶東徙、焚宮殿、火一旬不滅。
 令婦人被甲居中、陽伊等勒精兵居外、葛盧、孟光帥騎殿後、方軌而進、前後八十餘里。
 魏主聞之、遣散騎常侍封撥來、令送燕王。
 王遣使入魏奉表、稱當與馮弘、俱奉王化。
 魏主以王違詔、議擊之、將發隴右騎卒、劉絜、樂平、王丕等諫之、乃止。

 二十五年、春二月。
 遣使入魏朝貢。

 二十六年、春三月。
 初、燕王弘至遼東。
 王遣使勞之曰、
 龍城王馮君、爰適野次、士馬勞乎。
 弘慙怒、稱制讓之。
 王處之平郭、尋徙北豊。
 弘素侮我、政刑賞罰、猶如其國。
 王乃奪其侍人、取其太子王仁為質。
 弘怨之、遣使如宋、上表求迎。
 宋太祖遣使者王白駒等迎之、幷令我資送。
 王不欲使弘南來、遣將孫漱、高仇等、殺弘于北豊、幷其子孫十餘人。
 白駒等帥所領七千餘人、掩討漱、仇、殺仇、生擒漱。
 王以白駒等專殺、遣使執送之。
 太祖以遠國、不欲違其意、下白駒等獄、已而原之。

 二十七年、冬十一月。
 遣使入魏朝貢。

 十二月。
 遣使入魏朝貢。

 三十八年。
 新羅人襲殺邊將。
 王怒、將擧兵討之、羅王遣使謝罪、乃止。

 四十二年、秋七月。
 遣兵侵新羅北邊。

 四十三年。
 遣使入宋朝貢。

 五十年、春三月。
 遣使入魏朝貢。

 五十一年。
 宋世祖孝武皇帝策王為車騎大將軍開府儀同三司。

 五十三二年、春二月。
 遣使入魏朝貢。

 五十四年、春三月。
 遣使して魏に入り朝貢す。
 魏文明太后、以顯祖六宮未備、敎王令薦其女。
 王奉表云、
 女已出嫁。
 求以弟女應之、許焉、乃遣安樂王眞、尚書李敷等、至境送幣。
 或勸王曰、
 魏昔與燕婚姻、旣而伐之、由行人具知其夷險故也。
 殷鑑不遠、宜以方便辭之。
 王遂上書、稱女死。
 魏疑其矯詐、又遣假散騎常侍程駿、切責之、
 若女審死者、聽更選宗淑。
 王云、
 若天子恕其前愆、謹當奉詔。
 會、顯祖崩、乃止。

 五十五年、春二月。
 遣使入魏朝貢。

 五十六年、春二月。
 王以靺鞨兵一萬、攻取新羅悉直州城。

 夏四月。
 遣使入魏朝貢。

 五十七年、春二月。
 遣使入魏朝貢。

 秋八月。
 百濟兵侵入南鄙。

 五十八年、春二月。
 遣使入魏朝貢。

 五十九年、秋九月。
 民奴久等奔降於魏、各賜田宅。
 是魏高祖延興元年也。

 六十年、春二月。
 遣使入魏朝貢。
 秋七月。
 遣使入魏朝貢。
 自此已後、貢獻倍前、其報賜、亦稍加焉。

 六十一年、春二月。
 遣使入魏朝貢。

 秋八月。
 遣使入魏朝貢。

 六十二年、春三月。
 遣使入魏朝貢。

 秋七月。
 遣使入魏朝貢。
 遣使入宋朝貢。

 六十三年、春二月。
 遣使入魏朝貢。

 秋八月。
 遣使入魏朝貢。

 九月。
 王帥兵三萬、侵百濟、陷王所都漢城、殺其王扶餘慶、虜男女八千而歸。

 六十四年、春二月。
 遣使入魏朝貢。

 秋七月。
 遣使入魏朝貢。

 九月。
 遣使入魏朝貢。

 六十五年、春二月。
 遣使入魏朝貢。

 秋九月。
 遣使入魏朝貢。

 六十六年。
 遣使入宋朝貢。
 百濟燕信來投。

 六十七年、春三月。
 遣使入魏朝貢。

 秋九月。
 遣使入魏朝貢。

 六十八年、夏四月。
 南齊太祖蕭道成、策王為驃騎大將軍。
 王遣使餘奴等、朝聘南齊、魏光州人、於海中得餘奴等、送闕。
 魏高祖詔責王曰、
 道成親弑其君、竊號江左。
 朕方欲興滅國於舊邦、繼絶世於劉氏、而卿越境外交、遠通簒賊、豈是藩臣守節之義。
 今不以一過掩卿舊款、卽送還藩、其感恩思愆、祗承明憲、輯寧所部、動靜以聞。

 六十九年。
 遣使南齊朝貢。

 七十二年、冬十月。
 遣使入魏朝貢。
 時、魏人謂我方强、置諸國使邸、齊使第一、我使者次之。

 七十三年、夏五月。
 遣使入魏朝貢。

 冬十月。
 遣使入魏朝貢。

 七十四年、夏四月。
 遣使入魏朝貢。

 七十五年、夏五月。
 遣使入魏朝貢。

 七十六年、春二月。
 遣使入魏朝貢。

 夏四月。
 遣使入魏朝貢。

 秋閏八月。
 遣使入魏朝貢。

 七十七年、春二月。
 遣使入魏朝貢。

 夏六月。
 遣使入魏朝貢。

 秋九月。
 遣兵侵新羅北邊、陷狐山城。

 冬十月。
 遣使入魏朝貢。

 七十八年、秋七月。
 遣使入魏朝貢。

 九月。
 遣使入魏朝貢。

 七十九年、夏五月。
 遣使入魏朝貢。

 秋九月。
 遣使入魏朝貢。

 冬十二月。
 王薨。
 年九十八歲、號長壽王。
 魏孝文聞之、制素委貌、布深衣、擧哀於東郊。
 遣謁者僕射李安上、策贈車騎大將軍太傅遼東郡開國公高句麗王、諡曰康。

 三國史記 卷第十八


≪書き下し文≫
 長壽王、諱は巨連、一に璉と作す、開土王の元子なり。
 體貌は魁傑、志氣は豪邁なり。
 開土王十八年、立ちて太子と為す。
 二十二年、王薨じ、卽位す。

 元年。
 長史高翼を遣り、晉に入り表を奉り、赭白馬を獻ず。
 安帝王を高句麗王楽浪郡公に封ず。

 二年、秋八月。
 異鳥王宮に集る。

 冬十月。
 王蛇川の原に畋(か)り、白獐を獲。

 十二月。
 王都、雪五尺。

 七年、夏五月。
 國東に大水、王遣使して存問す。

 十二年、春二月。
 新羅遣使して聘を修め、王之れを勞慰すること特に厚し。

 秋九月。
 大有年、王群臣と宮にて宴す。

 十三年、遣使して魏に如かせ貢ぐ。
 十五年、都を平壤に移す。

 二十三年、夏六月。
 王遣使して魏に入り朝貢し、且つ國諱を請ふ。
 世祖嘉其の誠を款び、帝系及び諱を錄せしめて以て之れを與ふ。
 員外散騎侍郞李敖を遣り、拜して王を都督遼海諸軍事征東將軍領護東夷中郞將遼東郡開國公高句麗王と為す。

 秋。
 王遣使して魏に入り謝恩す。
 魏人數(しばしば)燕を伐り、燕は日に危を蹙(きわ)まる。
 燕王馮弘曰く、
 若し事を急がば、且に東は高句麗に依り、以て後擧を圖らむとす。
 密かに尚書陽伊を遣り、我に迎ふることを請ふ。

 二十四年。
 燕王遣使して魏に入貢し、侍子を送ることを請ふ。
 魏主許さず、將に兵を擧げて之れを討たんとし、遣使して告諭に來たる。

 夏四月。
 魏燕の白狼城を攻め、之れに克つ。
 王は將の葛盧、孟光を遣り、衆數萬を將いせしめ、陽伊に隨ひ和龍に至り、燕王を迎ふ。
 葛盧、孟光入城し、軍に命じて弊褐を脫がせ、燕の武庫の精仗を取り、以て之れを給ひ、大いに城中を掠る。

 五月。
 燕王龍城を率い、戶の東に徙(うつ)り、宮殿を焚き、火一旬して滅するを見る。
 婦人をして甲を被らせ中に居らせしめ、陽伊等勒精兵は外に居し、葛盧、孟光騎の殿後を帥い、方軌して進むこと前後八十餘里。
 魏主之れを聞き、散騎常侍封撥來を遣り、燕王を送らせしむ。
 王遣使して魏に入らせ表を奉り、當に馮弘に與せんと稱して、俱に王化を奉る。
 魏主王の違ふを以て詔し、之れを擊つことを議し、將に隴右騎卒を發さんとすれば、劉絜、樂平、王丕等之れを諫め、乃ち止む。

 二十五年、春二月。
 遣使して魏に入らせ朝貢す。

 二十六年、春三月。
 初め、燕王弘遼東に至る。
 王遣使して之れを勞ひて曰く、
 龍城王の馮君、爰(ここにおいて)野次に適し、士馬勞へり。
 弘慙怒するも、稱制して之れを讓る。
 王之れを平郭に處し、北豊を尋徙す。
 弘素は我を侮るも、政刑賞罰、猶ほ其の國に如くがごとし。
 王乃ち其の侍人を奪ひ、其の太子王仁を取りて質と為す。
 弘之れを怨み、遣使して宋に如かせ、上表して迎を求む。
 宋太祖使者王白駒等を遣り之れを迎へ、幷びに我に資送せしむ。
 王は弘を南來せしむることを欲さず、將の孫漱、高仇等を遣り、弘、幷びに其の子孫十餘人を北豊にて殺す。
 白駒等領(おさ)むる所の七千餘人を帥い、漱仇を掩討し、仇を殺し、漱を生擒(いけどり)にす。
 王は白駒等を以て專殺とし、遣使して執り之れを送る。
 太祖國の遠なるを以て、其の意に違ふことを欲せず、白駒等に獄を下すも、已にして之れを原(ゆる)す。

 二十七年、冬十一月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 十二月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 三十八年。
 新羅人邊將を襲ひ殺す。
 王怒り、將に兵を擧げ之れを討たんとするも、羅王遣使して謝罪し、乃ち止む。

 四十二年、秋七月。
 遣兵して新羅の北邊を侵す。

 四十三年。
 遣使して宋に入り朝貢す。

 五十年、春三月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 五十一年。
 宋世祖孝武皇帝王を策して車騎大將軍開府儀同三司と為す。

 五十三二年、春二月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 五十四年、春三月。
 遣使して魏に入り朝貢す。
 魏文明太后、以て顯祖の六宮未だ備はらず、王に敎へて其の女を薦ませしむる。
 王は表を奉りて云く、
 女已に嫁に出ず。
 弟の女を以て之れに應ずと求むるを許さんか。
 乃ち安樂王眞、尚書李敷等を遣り、境に至り幣を送る。
 或(あるもの)王に勸めて曰く、
 魏は昔燕と婚姻し、旣にして之れを伐つ。  由りて行人具さに其の夷險を知るが故なり。
 殷鑑遠からず、宜しく以て方に之れを便辭すべし、と。
 王遂に上書し、女の死を稱す。
 魏は其の矯詐を疑ひ、又た假散騎常侍程駿を遣り、之れを切責す。
 若し女を死者と審すれば、更に宗淑を選ぶと聽く。
 王云く、
 若し天子其の前愆を恕さば、謹みて當に詔に奉らむ。
 顯祖崩るるに會ひ、乃ち止む。

 五十五年、春二月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 五十六年、春二月。
 王は靺鞨兵一萬を以て、新羅の悉直州城を攻め取る。

 夏四月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 五十七年、春二月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 秋八月。
 百濟兵南鄙に侵入す。

 五十八年、春二月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 五十九年、秋九月。
 民奴久等奔りて魏に降り、各(おのおの)田宅を賜はる。
 是れ魏高祖延興元年なり。

 六十年、春二月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 秋七月。
 遣使して魏に入り朝貢す。
 此より已後、貢獻倍を前み、其の報賜、亦た稍(ようや)く加はらんや。

 六十一年、春二月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 秋八月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 六十二年、春三月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 秋七月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 六十三年、春二月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 秋八月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 九月。
 王兵三萬を帥(す)べ、百濟を侵し、王の都する所の漢城を陷し、其の王扶餘慶を殺し、男女八千を虜にして歸る。

 六十四年、春二月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 秋七月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 九月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 六十五年、春二月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 秋九月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 六十六年。
 遣使して魏に入り朝貢す。
 百濟燕信投に來たる。

 六十七年、春三月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 秋九月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 六十八年、夏四月。
 南齊太祖の蕭道成、王を策して驃騎大將軍と為す。
 王は餘奴等を遣使し、南齊に朝聘し、魏光州人、海中に於いて餘奴等を得、闕に送る。
 魏高祖詔りて王を責めて曰く、
 道成親(みずか)ら其の君を弑し、竊かに江左を號す。
 朕方(まさ)に舊邦に於ける國の興滅を欲し、劉氏に於ける絶世を繼がんとす。
 而るに卿は越境して外交し、遠くは簒賊と通ずるは、豈に是れ藩臣守節の義ならむ。
 今一過を以て卿の舊款を掩(おお)ふことをせず、卽ち藩に送還す。
 其の恩を感じ愆(あやまち)を思ひ、祗承明憲し、部する所を輯寧すれば、動靜聞を以てす。

 六十九年。
 遣使して南齊に朝貢す。

 七十二年、冬十月。
 遣使して魏に入り朝貢す。
 時に、魏人我の方强を謂ひ、諸國使邸を置き、齊使を第一とし、我が使者之れに次ぐ。

 七十三年、夏五月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 冬十月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 七十四年、夏四月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 七十五年、夏五月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 七十六年、春二月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 夏四月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 秋閏八月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 七十七年、春二月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 夏六月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 秋九月。
 遣兵して新羅の北邊を侵し、狐山城を陷す。

 冬十月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 七十八年、秋七月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 九月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 七十九年、夏五月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 秋九月。
 遣使して魏に入り朝貢す。

 冬十二月。
 王薨ず。
 年九十八歲、長壽王と號す。
 魏孝文之れを聞き、素の委貌を制し、深衣を布き、哀を東郊に擧ぐる。
 謁者僕射李安上を遣り、車騎大將軍太傅遼東郡開國公高句麗王を策贈し、諡を曰く康、と。

 三國史記 卷第十八