平原王

平原王

 平原王(あるいは平崗上好王とも)の諱は陽成(隋唐書には湯と記されている)、陽原王の長子である。
 膽力があり、騎射が得意であった。
 陽原王在位十三年、太子として擁立された。
 十五年、王が死去し、太子として即位した。

 二年、春二月。
 北齊の廢帝が王を封じ、使持節領東夷校尉遼東郡公高句麗王とした。
 王卒本に行幸し、始祖廟を祀った。

 三月。
 王が卒本から到着し、その経路にあった州郡の獄囚を、二死を除いて皆釈放した。

 三年、夏四月。
 異鳥が宮庭に集まった。

 六月。
 大洪水が起こった。

 冬十一月。
 遣使して陳に入らせ朝貢した。

 四年、春二月。
 陳文帝が詔を下して王に寧東將軍の位を授けた。

 五年、夏。
 大旱魃が起こったので、王は常膳を減らし、山川に祈禱した。

 六年。
 遣使して北齊に入らせ朝貢した。

 七年、春正月。
 王子元を太子に擁立した。
 遣使して北齊に入らせ朝貢した。

 八年、冬十二月。
 遣使して陳に入らせ朝貢した。

 十二年、冬十一月。
 遣使して陳に入らせ朝貢した。

 十三年、春二月。
 遣使して陳に入らせ朝貢した。

 秋七月。
 王が河の原で狩りをし、五旬して帰った。

 八月。
 宮室を重修した。
 蝗が発生し旱魃が起こったので、労役を免じた。

 十五年。
 遣使して北齊に入らせ朝貢した。

 十六年、春正月。
 遣使して陳に入らせ朝貢した。

 十九年。
 王が遣使して周に入らせ朝貢し、周高祖は拜して王を開府儀同三司大將軍遼東郡開國公高句麗王とした。

 二十三年、春二月晦。
 隕石が雨のように降った。

 秋七月。
 霜雹が穀物を食べられなくした。

 冬十月。
 人民が飢えたので、王が巡行して撫恤した。

 十二月。
 遣使して隋に入らせ朝貢した。
 高祖が王に大將軍遼東郡公の位を授けた。

 二十四年、春正月。
 遣使して隋に入らせ朝貢した。

 冬十一月。
 遣使して隋に入らせ朝貢した。

 二十五年、春正月。
 遣使して隋に入らせ朝貢した。

 二月。
 次のように下令した。
「不急の事を減らし、使者を郡邑に発して農桑を勤しませよ。」

 夏四月。
 遣使して隋に入らせ朝貢した。

 冬。
 遣使して隋に入らせ朝貢した。

 二十六年春。
 遣使して隋に入らせ朝貢した。

 夏四月。
 隋文帝が我が使者を大興殿に招いて宴を開いた。

 二十七年、冬十二月。
 遣使して陳に入らせ朝貢した。

 二十八年。
 首都を長安城に移した。

 三十二年。
 王は陳が滅亡したと聞き、大いに懼れ、兵を治めて穀物を積み、抗戦の策を為した。
 隋の高祖が王に璽書を賜り、それについて責めた。
「藩として随っているとお前は言っているが、誠節をまだ尽くしてはおらん。」
 かつ次のように言った。
「そちらの一方、地は狭く人は少ないものであるが、今もし王がいなくなれば、そこに誰も置かないというわけにはいかない。
 結局は新しく官属を選び、そちらに就かせ安撫することになるであろう。
 もし王が心を綺麗に洗い流しておこないを変え、天朝の憲章から外れないようにすれば、それは朕の良臣に違いなく、何の苦労をしてまで才徳兼備の者をわざわざ別に派遣することがあるだろうか。
 王は遼水の広さを、なぜ長江のように言うのだろうか。
 高句麗の人は陳國より多いだろうか、少ないだろうか。
 朕がもし寛容でなれば、王の前科前歴を責め、一将軍に命じて討伐に向かわせることなど、どれほど容易いことであろうか。
 お前が天朝に殷勤を示したかどうか、まだ明らかではない。
 朕は王自らそれを改めることを許すのみ。」
 王はその書を見て震えあがり、すぐに表を奉り陳謝しようとしたが、果たせないまま在位三十二年の冬十月、王は死去した。
 號は平原王である。
 これが開皇十年のことである。
 隋書及び通鑑には、高祖が璽書を開皇十七年に賜ったと書いているが、誤りである。

 

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≪白文≫
 平原王、或云平崗上好王、諱陽成、隋唐書作湯、陽原王長子。
 有膽力、善騎射。
 陽原王在位十三年、立為太子。
 十五年、王薨、太子卽位。

 二年、春二月。
 北齊廢帝封王、為使持節領東夷校尉遼東郡公高句麗王。
 王幸卒本、祀始祖廟。

 三月。
 王至自卒本、所經州郡、獄囚除二死、皆原之。

 三年、夏四月。
 異鳥集宮庭。

 六月。
 大水。
 冬十一月。
 遣使入陳朝貢。

 四年、春二月。
 陳文帝詔授王寧東將軍。
 五年、夏。
 大旱、王減常膳、祈禱山川。

 六年。
 遣使入北齊朝貢。

 七年、春正月。
 立王子元為太子。
 遣使入北齊朝貢。

 八年、冬十二月。
 遣使入陳朝貢。

 十二年、冬十一月。
 遣使入陳朝貢。

 十三年、春二月。
 遣使入陳朝貢。

 秋七月。
 王畋於河之原、五旬而返。

 八月。
 重修宮室、蝗旱、罷役。

 十五年。
 遣使入北齊朝貢。

 十六年、春正月。
 遣使入陳朝貢。

 十九年。
 王遣使入周朝貢、周高祖拜王為開府儀同三司大將軍遼東郡開國公高句麗王。

 二十三年、春二月晦。
 星隕如雨。

 秋七月。
 霜雹殺穀。

 冬十月。
 民饑、王巡行撫恤。

 十二月。
 遣使入隋朝貢、高祖授王大將軍遼東郡公。

 二十四年、春正月。
 遣使入隋朝貢。

 冬十一月。
 遣使入隋朝貢。

 二十五年、春正月。
 遣使入隋朝貢。

 二月。
 下令、
 減不急之事、發使郡邑勸農桑。

 夏四月。
 遣使入隋朝貢。

 冬。
 遣使入隋朝貢。

 二十六年春。
 遣使入隋朝貢。

 夏四月。
 隋文帝宴我使者於大興殿。

 二十七年、冬十二月。
 遣使入陳朝貢。

 二十八年。
 移都長安城。

 三十二年。
 王聞陳亡、大懼、治兵積穀、為拒守之策。
 隋高祖賜王璽書、責以、
 雖稱藩附、誠節未盡。
 且曰、
 彼之一方、雖地狹人少、今若黜王、不可虛置、終須更選官屬、就彼安撫。
 王若洒心易行、率由憲章、卽是朕之良臣、何勞別遣才彦。
 王謂遼水之廣、何如長江。
 高句麗之人、多少陳國。
 朕若不存含育、責王前愆、命一將軍、何待多力。
 殷勤曉未示、許王自新耳。
 王得書惶恐、將奉表陳謝而未果、王在位三十二年、冬十月、薨。
 號曰平原王。
 是開皇十年。
 隋書及通鑑書、高祖賜璽書於開皇十七年、誤也。


≪書き下し文≫
 平原王、或(あるいは)云く平崗上好王、諱は陽成、隋唐書湯と作す、陽原王の長子なり。
 膽力有り、善く騎射す。
 陽原王在位十三年、立ちて太子と為す。
 十五年、王薨じ、太子卽位す。

 二年、春二月。
 北齊廢帝王を封じ、使持節領東夷校尉遼東郡公高句麗王と為す。
 王卒本に幸(ゆ)き、始祖廟を祀る。

 三月。
 王卒本より至り、經る所の州郡、獄囚二死を除き、皆之れを原(はな)つ。

 三年、夏四月。
 異鳥宮庭に集(たか)る。

 六月。
 大水。

 冬十一月。
 遣使して陳に入らせ朝貢す。

 四年、春二月。
 陳文帝詔て王に寧東將軍を授く。

 五年、夏。
 大旱、王常膳を減らし、山川に祈禱す。

 六年。
 遣使して北齊に入らせ朝貢す。

 七年、春正月。
 王子元を立て太子と為す。
 遣使して北齊に入らせ朝貢す。

 八年、冬十二月。
 遣使して陳に入らせ朝貢す。

 十二年、冬十一月。
 遣使して陳に入らせ朝貢す。

 十三年、春二月。
 遣使して陳に入らせ朝貢す。

 秋七月。
 王河の原にて畋(か)り、五旬して返る。

 八月。
 宮室を重修し、蝗旱、役を罷ず。

 十五年。
 遣使して北齊に入らせ朝貢す。

 十六年、春正月。
 遣使して陳に入らせ朝貢す。

 十九年。
 王遣使して周に入らせ朝貢し、周高祖拜して王を開府儀同三司大將軍遼東郡開國公高句麗王と為す。

 二十三年、春二月晦。
 星隕ること雨の如し。

 秋七月。
 霜雹穀を殺す。

 冬十月。
 民饑え、王巡行して撫恤す。

 十二月。
 遣使して隋に入らせ朝貢し、高祖王に大將軍遼東郡公を授く。

 二十四年、春正月。
 遣使して隋に入らせ朝貢す。

 冬十一月。
 遣使して隋に入らせ朝貢す。

 二十五年、春正月。
 遣使して隋に入らせ朝貢す。

 二月。
 下令、
 不急の事を減らし、使を郡邑に發して農桑を勸む。

 夏四月。
 遣使して隋に入らせ朝貢す。

 冬。
 遣使して隋に入らせ朝貢す。

 二十六年春。
 遣使して隋に入らせ朝貢す。

 夏四月。
 隋文帝我が使者に大興殿に於いて宴す。

 二十七年、冬十二月。
 遣使して陳に入らせ朝貢す。

 二十八年。
 都を長安城に移す。

 三十二年。
 王陳の亡ぶを聞き、大いに懼れ、兵を治めて穀を積み、拒守の策を為す。
 隋高祖王璽書を賜り、以を責し、
 藩附を稱すると雖も、誠節未だ盡くさず、と。
 且つ曰く、
 彼の一方、地狹く人少しと雖も、今若し王を黜(しりぞ)けば、置を虛す可からず、終に須べからく更に官屬を選び、彼に就かせて安撫すべし。
 王若し心を洒(すす)ぎ行(おこなひ)を易え、憲章に率由すれば、卽ち是れ朕の良臣、何を勞ひて別に才彦を遣らむか。
 王遼水の廣を、何ぞ長江の如くに謂ふか。
 高句麗の人、陳國と多少なるか。
 朕若し含育存(あ)らざれば、王の前愆を責め、一將軍に命じ、何の多力を待たむか。
 殷勤を曉に未だ示さず、王自ら新むるを許すのみ、と。
 王書を得て惶恐し、將に表を奉り陳謝せむとするも未だ果たせず、王在位三十二年、冬十月、薨ず。
 號を曰く平原王、と。
 是れ開皇十年。
 隋書及び通鑑、高祖賜璽書於開皇十七年と書くも、誤りなり。