嬰陽王

嬰陽王

 嬰陽王(一説には平陽)の諱は元(一説には大元)、平原王の長子である。
 その人柄は俊爽で、世を救い人民を安らぐことを自らの任務とした。
 平原王在位七年、太子に擁立された。
 三十二年、王が死去し、太子が即位した。
 隋文帝は遣使して王を拜し、上開府儀同三司、襲爵遼東郡公に任命し、衣一襲を賜った。

 二年、春正月。
 遣使して隋に入らせて表を奉り、謝恩進奉し、自らを王に封じるように要請した。
 帝はそれを許した。

 三月。
 策封して高句麗王に任命し、それによって車服を賜った。

 夏五月。
 遣使して謝恩した。

 三年、春正月。
 遣使して隋に入らせ朝貢した。

 八年、夏五月。
 遣使して隋に入らせ朝貢した。

 九年、春二月。
 王は靺鞨の衆一万人余りを率いて遼西、營州に侵攻したが、それを摠管韋冲が撃退した。
 それを聞いた隋文帝は大いに怒り、漢王諒と王世積を元帥に任命し、水陸両軍併せて三十万人で討伐に向かわせた。

 夏六月。
 帝が詔を下して王の官爵を剥ぎ取った。
 漢王諒軍が出撃して渝關に臨んだが、大雨に遭遇してしまい、兵糧の補給が継続できず、軍中の食糧が欠乏してしまい、疫病が蔓延してしまったので引き返した。
 周羅睺自ら東へ海を渡り、平壤城に趣いたが、こちらも風に遭遇し、多くの船が漂没してしまった。

 秋九月。
 軍が帰還し、死者は十八、九人ほどであった。
 王はまた恐懼し、遣使して謝罪し、上表して『遼東糞土臣某』と称した。
 このため帝は軍事行動を取り止め、(官職等の)王の待遇を初めの通りに戻した。
 百濟王の昌が遣使して表を奉り、軍導をさせてほしいと請願した。
 帝は次のように詔を下した。
「諭説によって高句麗は自ら罪に服したので、朕は既にそれを赦した。
 もはや討伐する必要はない。」
 その使者を厚遇して百済に派遣した。
 王はその事を知って、百濟の国境を侵掠した。

 十一年、春正月。
 遣使して隋に入らせ朝貢した。
 次のような詔が下った。
「太學博士の李文眞よ、古史を約して新集五卷に編集せよ。」
 国が初めて文字を用い始めたとき、人々の事柄を一百巻の書物に記し、これを『留記』と名づけたが、ここに至って刪修された。

 十四年、秋八月。
 王が将軍高勝を派遣し、新羅北の漢山城に攻め込んだ。
 羅王は兵を率いて漢水を通過し、城中では太鼓を打ち鳴らして騒ぎ立て、互いに応じた。
 高勝は敵国の兵数が多く、自軍が寡兵であると恐れ、勝つことなく撤退した。

 十八年。
 事の始まりは、煬帝が東突厥の啓民のテントに行幸したことである。
 ちょうど我が国の使者が啓民の所におり、そこでばったりと出くわしてしまった。
 啓民はそれを敢えて隠そうとせず、その使者と一緒に帝と面会した。
 黃門侍郞の裴矩が帝に説いた。
「高句麗はもともと箕子の封地であり、漢晋も皆が郡縣としておりました。
 現在の高句麗は臣下ではなく、別れて異域となり、先帝もそれを久しく征伐しようとしておりました。
 ただ楊諒が不肖であったために、軍隊を出撃させても功がなかっただけのことです。
 それなのに、陛下の時に当たっては、その領土を取り上げようとさえしませんでした。
 それで本当によかったのでしょうか。
 これによって冠帯の境は、遂に蛮族どもの巣窟となってしまったのです。
 今その使者は、自ら啓民と会見し、国を挙げて教化に従っております。
 連中の恐怖に乗じ、使者を脅して入朝させるべきです。」
 帝はその言葉に従い、牛弘に勅命を出し、その旨を宣べた。
「朕は啓民が誠の心から国に奉じていることから、自らその帳を訪問したのだ。
 明年には涿郡にも往くつもりである。
 お前は帰国して即日、お前の王に伝えよ。
 早く来朝せよ。
 自ら疑ったり懼れたりするな。
 啓民のような態度こそが、存育の禮の手本である。
 もしお前が来朝しないのであれば、啓民に大軍を将帥させ、お前の領土に往巡させる。」
 王は恐懼し、藩禮をまったく欠かせてしまった。
 こうして帝はそれを討伐しようとした。
 啓民は突厥の可汗である。

 夏五月。
 軍隊を派遣して百濟の松山城に攻め込んだが、下すことができなかった。
 群を移動させて石頭城を襲い、男女三千を捕虜にして帰還した。

 十九年、春二月。
 将に命じて新羅の国境北を襲撃し、八千人を捕虜を獲た。

 夏四月。
 新羅の牛鳴山城を抜いた。

 二十二年、春二月。
 煬帝が高句麗を討伐せよとの詔を下した。

 夏四月。
 天子行幸の車が涿郡の臨朔宮に到着し、四方の兵が皆涿郡に集まった。

 二十三年、春正月壬午。
 帝が詔を下した。
「高句麗の小醜どもは迷昏にして恭順せず、渤海から碣石の間に崇聚し、遼濊の境に荐食している。
 再三に渡る漢魏の誅戮によって連中の巣穴は暫しの間は傾き、乱れ、離れ、幾度となく根絶に追い込もうとしてきたが、その度に種を落として還集してきた。
 こうして往年のように川や藪に集まり、その種をまき散らして繁殖し、今やその地の潤いを枯渇させようとしている。
 かの中華の地を振り返ってみれば、連中をそこから断絶した夷類としていたから、いつまでも長らく悪が稔り続け、既に満ち溢れようとしている。
 しかし、天道は悪事を為すものに禍をもたらし、滅亡の徵(しるし)は既に兆しを見せておる。
 常を乱れて徳を敗れ、その状況を看過すべきでないにもかかわらず、あろうことか連中は邪悪で覆いかぶせ、姦(よこしま)に懐いてきた。
 日程の都合がつかないと言うばかりで、文書ばかりは幾度となく寄越すが、未だ嘗て面会せず、朝貢の禮に自ら赴けとの通達を受け入れはしなかった。
 亡叛の徒を誘い入ること際限を知らず、国の辺境に満ち溢れ、頻繁に国境の見張台の手を煩わせている。
 関所に置かれた警告の拍子木が鳴り響かない日はなく、そのために生人たちが職を失うほどであった。
 昔も討伐に向かうことはあったが、すでに天網に漏れ、前禽の戮を緩めて反省の機会をくれてやり、服従した後の誅殺は取り止めてやった。
 それなのに、かつての恩に懐くこともなく、それを翻して長らく悪を為し、契丹と徒党を兼ねるに及び、海峡の駐屯兵を虐殺し、靺鞨の服を摸倣し、遼西に侵略した。
 また靑丘の表(新羅)は職貢を欠かすことなく修め、碧海の濱(百済)も同じく天子の統治を受けていたが、遂にそれらの貢物を強奪し、その往来の妨害を再開した。
 虐殺は罪なき者に及び、誠実なものであっても禍に遭う。
 輶車奉使がここ海東に辿り着き、旌節の駅地からの途上で高句麗の藩境を経由しようとすれば、その道路を擁塞する。
 王と人とを断絶し、君主の心に仕えようとしない。
 これが臣下の為すべき礼であろうか。
 これを耐え忍ぶことができるというのであれば、他に容認できることがあるだろうか。
 しかも法令は苛酷、税の取り立ては煩雑で重い。
 大臣や豪族は悉く国家権力を握り、朋党ばかりを周囲に侍らせ、それを慣例としている。
 市場のように財貨を収賄し、無実の者が訴え出ることもない。
 歳月を重ねるごとに災凶は重くなり、人民の家屋には餓死者が並び、兵戈が止むことはなく、労役には期限がなく、力を轉輸に尽くされ、その身を溝壑(どぶ)に沈め、百姓はその苦しみを愁う。
 こんなことに誰が従うことができるというのだ。
 これまで境内にて哀惶してきたが、もはやその弊害を見過ごすことなどできない。
 首を回して国内に顔を向ければ、それぞれが性命のあるべき様に懐き、髪の黄色い老人から歯の生えたばかりの幼児まで、悉くが酷く惨たらしいとの歎声を興した。
 習俗を省みて風習を観察すれば、ここ幽州朔州に登り、人を弔い、罪を問い、再び駕御して俟つ必要はない。
 ここにおいて、朕自ら六師を統べ、九伐を用申し、迫りくる危機を救う。
 天意に協従し、この穢れ切った盗賊どもを滅ぼし、先帝の立てられた計略を引き継ぎ、乗り越えようではないか。
 今こそ軍律を授けて啓行し、軍麾の路程を分け、渤海を覆って雷撃の如く進撃し、扶餘を経由して電撃的な掃討戦に出る。
 兵戈を並べ、甲鎧を点検せよ。
 軍旅を天に誓い、その後に行軍するのだ。
 軍令は三度繰り返し、五度繰り返し復唱させよ。
 勝利を確実にして後に戦え。」
 左十二軍は、鏤方、長岑、溟海、蓋馬、建安、南蘇、遼東、玄菟、扶餘、朝鮮、沃沮、樂浪等の道から行軍した。
 右十二軍は、黏蟬、含資、渾彌、臨屯、候城、提奚、踏頓、肅愼、碣石、東暆、帶方、襄平等の道から行軍した。
 その途上に人馬が絶え間なく続き、それらすべてが平壤に結集した。
 凡そ一百十三万三千八百人を號して二百万、その軍糧を輸送する者はその倍に登る。
 南桑乾水の畔で土地神を祀り、上帝を臨朔宮南に米と犬の生贄を供えて祀り、馬祖を薊城の北に祭った。
 帝は自ら指令を授け、軍ごとの上将、亜将はそれぞれ一人、騎兵四十隊、隊は百人で構成され、十隊を団とした。
 步卒八十隊、分けて四団を形成し、団にそれぞれ偏将を一人設置した。
 その鎧胄、纓拂、旗旛は、団ごとにに色が異なる。
 日に一軍を派遣し、互いに四十里の間隔を空け、軍営を連ねて漸進し、最後の一軍は四十日目に出発し、それがすべてである。
 首尾を互いに継続させ、鼓角を互いに聞き、掲げられた旌旗は九百六十里に亘った。
 御営内は十二衛、三臺、五省、九寺を合わせ、内外、前後、左右の六軍に分割して従え、その後に出発し、これまた隊列は八十里に亘った。
 これほどまでに盛況なる出軍は、近年なかったことである。

 二月。
 帝は軍を御し、進軍して遼水に到着すると、衆軍を統会し、河水に臨んで大陣を立てた。
 我が軍は河水を阻んで抗守し、隋兵はそれを渉ることができなかった。
 帝は工部尚書の宇文愷に命じ、浮き橋を三道、遼水の西岸に造らせた。
 もう少しで完成というところで、橋を引いて東岸に趣こうとしたが、短くて対岸には一丈余り届かなかった。
 我が兵は大挙してそちらに押し寄せたが、隋兵の強く勇ましい者たちは、争って河水に赴いて接戦した。
 我が兵は高所に登ってそれを弓矢で撃ったので、隋兵は岸に登ることができずに多くの者が死んだ。
 麥鐵杖が対岸に飛び移ったが、錢士雄や孟金叉たちと共に皆が戦死したので、そのままま兵を収めて橋を引き、再び西岸に戻った。
 更に少府監の何稠に命じて橋を接がせ、二日にして完成した。
 諸軍は相次いで進軍に継ぎ、東岸に大挙して戦った。
 我が兵大いに敗れ、死者は一万を超えた。
 諸軍は勝ちに乗じて進軍し、遼東城を包囲した。
 これは漢の襄平城のことである。
 天子が行幸のために乗る車は遼に到着し、詔を下して天下を赦し、刑部尚書衛文昇たちに命じて遼左の人民を慰撫し、十年分の租税を免除させ、郡縣を建置し、相に管轄させ統治させることにした。

 夏五月。
 初め、隋の諸将が東に下ろうとすると、帝はそれを戒めて言った。
「凡そ軍事の進止について、皆がどうすべきかを上奏して聞き、その報を待つようにせよ。
 専断してはならぬぞ。」
 遼東は頻繁に戦に出たが、不利であったため籠城して固守することにした。
 帝は諸軍に命じてそれを攻めさせ、同時に諸将に勅を下した。
「高句麗がもし降服するのであれば、撫してそれを受け入れよ。
 兵を放ってはならぬぞ。」
 遼東城がまさに陥落しようとすると、城中の人々が降服したいと請願したいと言うので、諸将はその旨を上奏し、機に乗じて攻め込もうとは敢えてせず、先に上奏に馳せさせた。
 帝からの報が届く頃には、城中の防御はまた準備を終えており、隋は出兵に随って防戦するしかなかった。
 このようなことが再三に渡って続いたが、帝は最後までそれに気付かず、直前にして城は結局下らなかった。

 六月己未。
 帝は遼東城の南に行幸し、その城池の形勢を観察し、それによって諸將を召し、それらに詰責して言った。
「公らは自ら高い官職にあり、また代々続いてきた家柄に恃みながら、暗愚と臆病によって我を接待したいというのか?
 都に在りし日もそうであった。
 公らは皆が我が来訪することを願わず、詐病を見破られることを恐れるばかりであっただろう。
 我が今ここに来たのも、正に公らの所為を観、公輩を斬刑に処したいと思ってのことだ。
 公は今、死を畏れるそぶりをみせているが、力を尽くすことを承諾する者はいない。
 ということは、やはり我が公を殺さないとでも言うのだろうか?」
 諸将は悉く戦慄して顔色を失った。
 こうして帝城の西數里に停留し、六合城を御したが、我が国の諸城は堅守して下らなかった。
 左翊衛将軍の來護兒は江淮水軍の統帥して舳艫数百里を海に浮かべた。
 先に浿水から進入し、平壤から六十里で我が軍と遭遇し、進擊して大いにこれを破った。
 來護兒は勝ちに乗じてその城に赴こうとしたが、副摠管の周法尚がそれを制止し、諸軍が到着するのを待ってから一緒に進軍するように請願した。
 來護兒はそれを聞かず、精甲数万を選抜して、城下まで直行した。
 我が将は羅郭内空寺の中に兵を伏せたまま、兵を出撃させて來護兒と戦い、敗走を偽った。
 來護兒はそれを追いかけて城内に入り、兵を放って戦利品を奪い取って掠奪を始め、部隊の隊列を元に戻さなかった。
 そこに伏兵を発し、來護兒は大敗を喫し、なんとか獲られることを免れ、士卒のうち帰還できた者は数千人ほどもいなかった。
 我が軍が追跡して船着場までたどり着くと、周法尚が戦陣を整えて待機していたので、我が軍はそこから撤退した。
 來護兒は兵を引いて海浦に帰還して駐屯し、再度滞留して諸軍に応接するようなことは敢えてしなかった。
 左翊衛大將軍宇文述は扶餘道に出陣した。
 右翊衛大將軍于仲文は樂浪道に出陣した。
 左驍衛大將軍荊元恒は遼東道に出陣した。
 右翊衛大將軍薛世雄は沃沮道に出陣した。
 右屯衛將軍辛世雄は玄菟道に出陣した。
 右禦衛將軍張瑾は襄平道に出陣した。
 右武侯將軍趙孝才は碣石道に出陣した。
 涿郡太守檢校左武衛將軍崔弘昇は遂城道に出陣した。
 檢校右禦衛虎賁郞將衛文昇は增地道に出陣した。
 皆が鴨綠水の西にて会した。
 宇文述たちの兵は、瀘河と懷遠の二鎭から人馬皆に百日の糧を配給し、また排甲、槍矟並びに衣資、戎具、火幕を波及されたが、人別に三石以上の体積があり、あまりに重くて耐えられる者がいなかった。
 軍中に下令された。
「米粟を遺棄する者は斬刑に処す」
 士卒は皆、幕下に穴を掘ってこれを埋め、やっとのことで行軍したが道半ばで、軍糧は既に尽きようとしていた。
 王は大臣の乙支文德を派遣し、その軍営を訪問させ。偽りの降服をさせた。
 実は虚実が見抜かれようとしており、于仲文は先んじて内密にその旨を奉った。
「もし王と文德に会いに来るものがあれば、必ずそれを捕えます。」
 于仲文がこれを捕えようとしたその時、尚書右丞劉士龍が慰撫使として固くそれを止めた。
 于仲文は遂にそれを聞き入れ、乙支文德を帰還させたが、直前になってそれを悔い、人を遣って乙支文德に偽って言った。
「追加で言いたいことがあるので、再度こちらに来い。」
 乙支文德はそれを顧みず、鴨綠水を渡って去っていった。
 于仲文と宇文述たちは、とっくに乙支文德を見失っており、内心気が気でなかった。
 宇文述は軍糧が尽きたことを理由に帰還しようとした。
 于仲文は精鋭でもって文德を追撃し、それによって功績を得たとすべきだと議を立てたが、宇文述は固くそれを止めた。
 于仲文は怒った。
「将軍十万の衆に恃みながら、小賊さえも撃ち破ることができなかったとなれば、いかなる顔をして帝にお会いすればよいのか。
 それに私は今回の行軍で、固より功績がないのである。
 なぜならば、古の良将で成功できた者は、軍中の事について、決裁権を一人で掌握していた。
 今回の行群では人それぞれに心があった。
 どうやってこれで敵に勝てばよいのだ?」
 この時、帝は于仲文に計画があるということで、諸軍にその指揮下に入るように取り計らっていたので、このような言葉が出たのである。
 そういうわけで、宇文述たちはやむを得ずしてそれに従い、諸将と水を渡り乙支文德を追いかけた。
 乙支文德は宇文述の軍士の顔色を見て餓えた様子だと判断し、ゆえにそれを疲弊させようとして、戦っては離脱を繰り返した。
 宇文述は一日のうちに七回戦ってすべて勝利し、既ににわかの勝ちを恃みとし、再度群議を迫り、そこで遂に東に進軍して薩水を渡り、平壤城から三十里の山に軍営を立てた。
 乙支文德は再度遣使して偽りの降服を申し出て、宇文述に言った。
「もし軍を撤退させるのであれば、そのまま王に奉り、朝には国もとに行こうと思います。」
 宇文述の士卒は疲弊しており、再度戦うことはできなかったし、平壤城は堅固であり、すぐに抜くことは困難であると判断し、遂にその詐術に乗って帰還した。
 宇文述たちは方陣を立てて行軍したが、我が軍は四面から鈔撃し、宇文述たちは戦いつつ行軍した。

 秋七月。
 薩水に到着し、軍は半ばまで渡ったが、我が軍が後方からその後軍を撃ち、右屯衛将軍の辛世雄が戦死した。
 ここでついに、諸軍はともに潰え、それを止めることはできなかった。
 将士は奔還し、一日一夜で鴨綠水にたどり着き、四百五十里を逃げ延びた。
 将軍天水王仁恭が殿(しんがり)を務め、我が軍を擊ってこれを斥けた。
 來護兒や宇文述たちが敗北したと聞いて、また引き還した。
 ただ衛文昇の一軍だけが単独で無事であった。
 当初は、九軍で遼に到着した者は凡そ三十万五千人であったが、遼東城に帰還することができたのは、たったの二千七百人だけであった。
 貯えた器械は巨万を数えたが、失亡して使い尽くしてしまった。
 帝は大いに怒り、鎖に宇文述たちを繋ぎ、癸卯に引き還した。

 始まりは百濟王の璋が遣使して高句麗を討伐してほしいと請願したことである。
 帝はそれに我が国の動静を偵察させたが、璋は我が国と密かに内通していたのである。
 隋軍が出撃しようとすると、璋はその臣下の國智牟を使者に出し、隋に入り出軍の時期を奏請した。
 帝は大いに歓んで、厚く賞賜を加え、尚書起部郞席律を派遣して百濟を訪問させ、その日時を報告した。
 隋軍が遼に渡るに及ぶと、百濟は再び境上に兵を厳戒し、隋に力添えをすると声明を出したが、実は隋と高句麗の両方に曖昧な態度を取っていた。

 結局、今回の大行軍で隋がしたことといえば、遼水西で我が国の武厲邏を抜き、遼東郡と通定鎭を置いただけであった。

 二十四年、春正月。
 帝天下に詔を下して徴兵し、涿郡に集め、募った人民を驍果とし、遼東の古城を修復し、そこに軍糧を貯蔵した。

 二月。
 帝が侍臣に言った。
「高句麗の小虜どもは、上国を侮り、まったくもって傲慢である。
 今、海を抜き山を移してでも、成果が欲しい。
 まして小虜どもについてはなおさらのことである。」
 こうして再度の代わって討伐することを合議にかけた。
 左光祿大夫の郭榮がそれを諫めた。
「戎狄が禮を失する程度のことは、臣下が問題とすることです。
 千鈞の弩は鼷鼠の撃ち込むものではありません。
 どうして自ら万乗を辱め、小寇に対抗しようというのでしょう。」
 帝はそれを聞き入れなかった。

 夏四月。
 天子が行幸のために乗る車が遼に渡り、宇文述と楊義臣を派遣して、平壤に赴かせた。
 王仁恭は扶餘道から出陣し、進軍して新城に到着した。
 我が兵数万が抗戦したが、仁恭は勁騎一千を統帥し、それを擊破した。
 我が軍は籠城して固守した。
 帝は諸将に命じて遼東を攻めさせ、それぞれの裁量で適時適当に事に当たるようにすることを認めた。
 飛樓、橦、雲梯によって、地道と四面から共同で、昼夜休みなく進軍した。
 我が国は臨機応変にそれに抗い、二十日余り抜かれなかった。
 主客の死者は甚だ多い。
 衝梯の竿は長さ十五丈、驍果の沈光がその端に昇り、城に臨んで我が軍と戦い、短い武器を用いた接近戦で十数人を殺した。
 我が軍が競ってそれを擊ったが、そこから墜落しても地面に落ちる前に、たまたま竿から垂れた大繩にしがみつき、沈光は再度よじ登った。
 帝はそれを傍観してその壮健を讃え、その場で拜して朝散大夫に任命した。
 遼東城は久しく下らず、帝は布袋を百万口余りを製造させ、その中に一杯に土を入れ、それを積んで魚梁の大道に築かせようとした。
 広さ三十步、高さは城と等しく、戦士をそれに登らせて攻城戦を展開した。
 また八輪樓車を作り、その高さは城より上をゆき、魚梁の道を挟んで城内を俯瞰してそこから射撃を行おうとした。
 満を持して攻め込まんとして指示し、城内に危機が迫りつつあった。
 そこにたまたま楊玄感が謀叛を起こしたとの文書が到着し、帝は大いに恐懼した。
 また達官の子弟は皆楊玄感のところにいると聞き、ますますそれを憂慮した。
 兵部侍郞の斛斯政は、平素から楊玄感と仲が良かったので、内心気が気ではなく、我が国に来奔した。
 帝は夜、密かに諸将を召し、軍を引き上げさせた。
 積み上げられた軍資器械攻具は丘山のようであった。
 軍営や防御壁、テントなどそのままで、衆軍は内心ビクビクと怯えきっていた。
 二度と部隊が分集することはなく、バラバラに諸道へ分散した。
 我が軍は即座にそれに気づいたが、それでも敢えて外に出ようとはせず、ただ城内で太鼓を打ち鳴らして騒ぎ立てるにとどまった。
 翌日の正午を過ぎてから、ようやく隋軍のいた方角に向かって外に出たが、それでもまだ撤退が詐謀ではないかと疑った。
 二日経ってから数千の兵を出して追跡すると、隋軍の衆は畏れ、こちらに迫ろうともせず、ずっと八、九十里程度の距離をとり続けた。
 遼水に到着しようとしたその時、先で御営がそれを渡り終えたとわかったが、それでも後軍は迫ろうとはしなかった。
 この時、後軍として数万人がぐずぐずとその場に留まっていたので、我が軍はそれを追跡して鈔撃し、数千人を殺して物資や財物を奪い取った。

 二十五年、春二月。
 帝は百寮に詔を下し、高句麗を討伐しようと提議したが、数日経っても誰も何も言おうとはしなかった。
 詔を下して再度天下から徴兵をさせ、百道同時に進軍した。

 秋七月。
 それに続いて天子が行幸のために乗る車が懷遠鎭まで辿り着いた。
 時既に天下は乱れ、徴兵された兵たちの多くが規定された日程までに辿り着くことはできず、我が国もまた困弊していた。
 來護兒は卑奢城に到着したので、我が兵が抗戦した。
 來護兒がそれを攻撃して勝利し、そのまま平壤に赴こうとした。
 王は懼れ、遣使して降服を乞い、それに際して斛斯政を囚送した。
 帝は大いに悦び、使持節を派遣し、來護兒を召して帰還した。

 八月。
 帝が懷遠鎭から軍隊を引き揚げた。

 冬十月。
 帝が西京に帰還し、我が使者と斛斯政を伴って大廟に告げ、王を入朝するようにと徴発したが、王は結局それに従わなかった。
 将帥に厳裝させて勅を下し、更に後に挙兵しようと計画していたが、結局その行軍が果たされることはなかった。

 二十九年、秋九月。
 王が死去し、號を嬰陽王とした。

 

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≪白文≫
 嬰陽王、一云平陽、諱元、一云大元、平原王長子也。
 風神俊爽、以濟世安民自任。
 平原王在位七年、立為太子。
 三十二年、王薨、太子卽位。
 隋文帝遣使拜王、為上開府儀同三司、襲爵遼東郡公、賜衣一襲。

 二年、春正月。
 遣使入隋、奉表謝恩進奉、因請封王、帝許之。

 三月。
 策封為高句麗王、仍賜車服。

 夏五月。
 遣使謝恩。

 三年、春正月。
 遣使入隋朝貢。

 八年、夏五月。
 遣使入隋朝貢。

 九年、春二月。
 王率靺鞨之衆萬餘、侵遼西、營州摠管韋冲撃退之。
 隋文帝聞而大怒、命漢王諒、王世積並爲元帥、將水陸三十萬來伐。

 夏六月。
 帝下詔黜王官爵。
 漢王諒軍出臨渝關、値水潦、餽轉不繼、軍中乏食、復遇疾疫。
 周羅睺自東泛海、趣平壤城、亦遭風、舡多漂沒。

 秋九月。
 師還、死者十八九。
 王亦恐懼、遣使謝罪、上表稱遼東糞土臣某。
 帝於是罷兵、待之如初。
 百濟王昌遣使奉表、請為軍導。
 帝下詔、
 諭以高句麗服罪、朕已赦之、不可致伐。
 厚其使而遣之。
 王知其事、侵掠百濟之境。

 十一年、春正月。
 遣使入隋朝貢。
 詔、
 太學博士李文眞、約古史為新集五卷。
 國初始用文字時、有人記事一百卷、名曰留記、至是刪修。

 十四年、秋八月。
 王遣將軍高勝、攻新羅北漢山城。
 羅王率兵、過漢水、城中鼓噪相應。  勝以彼衆我寡、恐不克而退。

 十八年。
 初、煬帝之幸啓民帳也、我使者在啓民所。
 啓民不敢隱、與之見帝。
 黃門侍郞裴矩說帝曰、
 高句麗本箕子所封之地、漢、晋皆為郡縣。
 今乃不臣、別為異域、先帝欲征之久矣。
 但楊諒不肖、師出無功。
 當陛下之時、安可不取、使冠帶之境、遂為蠻貊之鄕乎。
 今其使者、親見啓民擧國從化、可因其恐懼、脅使入朝。
 帝從之、勑牛弘宣旨曰、
 朕以啓民誠心奉國、故親至其帳、明年當往涿郡。
 爾還日語爾王、宜早來朝、勿自疑懼、存育之禮、當如啓民、苟或不朝、將帥啓民、往巡彼土。
 王懼、藩禮頗闕、帝將討之。
 啓民、突厥可汗也。

 夏五月。
 遣師攻百濟松山城、不下、移襲石頭城、虜男女三千而還。

 十九年、春二月。
 命將襲新羅北境、虜獲八千人。

 夏四月。
 拔新羅牛鳴山城。

 二十二年、春二月。
 煬帝下詔、討高句麗。

 夏四月。
 車駕至涿郡之臨朔宮、四方兵皆集涿郡。

 二十三年、春正月壬午。
 帝下詔曰、
 高句麗小醜、迷昏不恭、崇聚渤、碣之間、荐食遼、濊之境。
 雖復漢、魏誅戮、巢穴暫傾、亂離多阻、種落還集。
 萃川藪於往代、播寔繁以汔今。
 睠彼華壤、翦爲夷類、歷年永久、惡稔旣盈。
 天道禍淫、亡徵已兆。
 亂常敗德、非可勝圖、掩慝懷姦。
 唯曰日不足、移告之嚴、未嘗面受、朝覲之禮、莫肯躬親。
 誘納亡叛、不知紀極、充斥邊垂、亟勞烽候。
 關柝以之不靜、生人為之廢業。
 在昔薄伐、已漏天網、旣緩前禽之戮、未卽後服之誅、曾不懷恩、翻爲長惡、乃兼契丹之黨、虔劉海戍、習靺鞨之服、侵軼遼西。
 又靑丘之表、咸修職貢、碧海之濱、同稟正朔、遂復敓攘琛賮、遏絶往來。
 虐及弗辜、誠而遇禍。
 輶車奉使、爰曁海東、旌節所次、途經藩境、而擁塞道路、拒絶王人、無事君之心、豈為臣之禮。
 此而可忍、孰不可容。
 且法令苛酷、賦斂煩重、强臣豪族、咸執國鈞、朋黨比周、以之成俗。
 賄貨如市、寃枉莫申。
 重以仍歲災凶、比屋饑饉、兵戈不息、徭役無期、力竭轉輸、身塡溝壑、百姓愁苦。
 爰誰適從。
 境內哀惶、不勝其弊。
 廻首面內、各懷性命之圖、黃髮稚齒、咸興酷毒之歎。
 省俗觀風、爰屆幽朔、弔人問罪、無俟再駕。
 於是、親摠六師、用申九伐、拯厥阽危。
 協從天意、殄玆逋穢、剋嗣先謨。
 今宜授律啓行、分麾届路、掩渤海而雷震、歷扶餘以電掃。
 比戈按甲誓旅而後行、三先五申、必勝而後戰。
 左十二軍、出鏤方、長岑、溟海、蓋馬、建安、南蘇、遼東、玄菟、扶餘、朝鮮、沃沮、樂浪等道。
 右十二軍、出黏蟬、含資、渾彌、臨屯、候城、提奚、踏頓、肅愼、碣石、東暆、帶方、襄平等道。
 絡繹引途、摠集平壤。
 凡一百十三萬三千八百人、號二百萬。
 其餽輸者倍之。
 宜社於南桑乾水上、類上帝於臨朔宮南、祭馬祖於薊城北。
 帝親授節度、每軍上將、亞將各一人、騎兵四十隊。
 隊百人、十隊為團。
 步卒八十隊、分為四團、團各有偏將一人、其鎧胄、纓拂、旗旛、每團異色。
 日遣一軍、相去四十里、連營漸進、終四十日發、乃盡。
 首尾相繼、鼓角相聞、旌旗亘九百六十里。
 御營內、合十二衛、三臺、五省、九寺、分隸內外、前後、左右六軍、次後發、又亘八十里。
 近古出師之盛、未之有也。

 二月。
 帝御師進至遼水、衆軍摠會、臨水為大陣。
 我兵阻水拒守、隋兵不得濟。
 帝命工部尚書宇文愷、造浮橋三道於遼水西岸、旣成、引橋趣東岸、短不及岸丈餘。
 我兵大至、隋兵驍勇者、爭赴水接戰、我兵乘高擊之、隋兵不得登岸、死者甚衆。
 麥鐵杖躍登岸、與錢士雄、孟金叉等、皆戰死、乃斂兵引橋、復就西岸。
 更命少府監何稠接橋、二日而成。
 諸軍相次繼進、大戰于東岸。
 我兵大敗、死者萬計。
 諸軍乘勝、進圍遼東城、則漢之襄平城也。
 車駕到度遼、下詔赦天下、命刑部尚書衛文昇等、撫遼左之民、給復十年、建置郡縣、以相統攝。

 夏五月。
 初、隋諸將之東下也、帝戒之曰、
 凡軍事進止、皆須奏聞待報、無得專擅。
 遼東數出戰不利、乃嬰城固守。
帝命諸軍攻之、又勅諸將、高句麗若降、則宜撫納、不得縱兵。
 遼東城將陷、城中人輒言請降、諸將奉旨、不敢赴機、先令馳奏。
 比報至、城中守禦亦備、隋隨出拒戰。
 如此再三、帝終不悟、旣而城久不下。
 六月己未、帝幸遼東城南、觀其城池形勢、因召諸將、詰責之曰、
 公等自以官高、又恃家世、欲以暗懦待我邪。
 在都之日、公等皆不願我來、恐見病敗耳。
 我今來此、正欲觀公等所為、斬公輩爾。
 公今畏死、莫肯盡力、謂我不能殺公邪。
 諸將咸戰懼失色。
 帝因留止城西數里、御六合城、我諸城堅守不下。
 左翊衛將軍來護兒、帥江、淮水軍、舳艫數百里、浮海先進入自浿水、去平壤六十里。
 與我軍相遇、進擊大破之。
 護兒欲乘勝趣其城、副摠管周法尚止之、請俟諸軍至俱進。
 護兒不聽、簡精甲數萬、直造城下。
 我將伏兵於羅郭內空寺中、出兵與護兒戰、而僞敗。
 護兒逐之入城、縱兵俘掠、無復部伍。
伏兵發、護兒大敗、僅而獲免、士卒還者、不過數千人。
 我軍追至舡所、周法尚整陣待之、我軍乃退。
 護兒引兵還屯海浦、不敢復留應接諸軍。
 左翊衛大將軍宇文述、出扶餘道。
 右翊衛大將軍于仲文、出樂浪道。
 左驍衛大將軍荊元恒、出遼東道。
 右翊衛大將軍薛世雄、出沃沮道。
 右屯衛將軍辛世雄、出玄菟道。
 右禦衛將軍張瑾、出襄平道。
 右武侯將軍趙孝才、出碣石道。
 涿郡太守檢校左武衛將軍崔弘昇、出遂城道。
 檢校右禦衛虎賁郞將衛文昇、出增地道。
 皆會於鴨綠水西。
 述等兵、自瀘河、懷遠二鎭、人馬皆給百日糧、又給排甲、槍矟并衣資、戎具、火幕、人別三石已上、重莫能勝致。
 下令軍中、
 遺棄米粟者斬。
 士卒皆於幕下、掘坑埋之、纔行及中路糧已將盡。
 王遣大臣乙支文德、詣其營詐降、實欲觀虛實。
 于仲文先奉密旨、
 若遇王及文德來者、必擒之。
 仲文將執之、尚書右丞劉士龍、為慰撫使、固止之。
 仲文遂聽、文德還、旣而悔之、遣人紿文德曰、
 更欲有言、可復來。
 文德不顧、濟鴨綠水而去。
 仲文與述等、旣失文德、內不自安。
 述以糧盡欲還。
 仲文議以精銳追文德、可以有功、述固止之。
 仲文怒曰、
 將軍仗十萬之衆、不能破小賊、何顔以見帝。
 且仲文此行、固知無功。
 何則、古之良將、能成功者、軍中之事、決在一人。
 今人各有心、何以勝敵。
 時、帝以仲文有計劃、令諸軍諮稟節度、故有此言。
由是、述等不得已而從之、與諸將、渡水追文德。
 文德見述軍士有饑色、故欲疲之、每戰輒走。
 述一日之中、七戰皆捷、旣恃驟勝、又逼群議、於是、遂進東濟薩水、去平壤城三十里、因山為營。
 文德復遣使詐降、請於述曰、
 若旋師者、當奉王、朝行在所。
 述見士卒疲弊、不可復戰、又平壤城險固、度難猝拔、遂因其詐而還。
述等為方陣而行、我軍四面鈔撃、述等且戰且行。

 秋七月。
 至薩水、軍半濟、我軍自後擊其後軍、右屯衛將軍辛世雄戰死。
 於是、諸軍俱潰、不可禁止。
將士奔還、一日一夜、至鴨綠水、行四百五十里。
 將軍天水王仁恭為殿、擊我軍却之。
來護兒聞述等敗、亦引還。
 唯衛文昇一軍獨全。

 初、九軍到度遼、凡三十萬五千、及還至遼東城、唯二千七百人、資儲器械巨萬計、失亡蕩盡。
 帝大怒、鎖繋述等、癸卯引還。
 初、百濟王璋遣使、請討高句麗。
帝使之覘我動靜、璋內與我潛通。
隋軍將出、璋使其臣國智牟、入隋請師期。
 帝大悅、厚加賞賜、遣尚書起部郞席律、詣百濟、告以期會。
 及隋軍渡遼、百濟亦嚴兵境上、聲言助隋、實持兩端。
 是行也、唯於遼水西、拔我武厲邏、置遼東郡及通定鎭而已。

 二十四年、春正月。
 帝詔徵天下兵、集涿郡、募民為驍果、修遼東古城、以貯軍糧。

 二月。
 帝謂侍臣曰、
 高句麗小虜、侮慢上國。
 今、拔海移山、猶望克果、况此虜乎。
 乃復議代伐。
 左光祿大夫郭榮諫曰、
 戎狄失禮、臣下之事。
 千鈞之弩、不為鼷鼠發機。
 奈何親辱萬乘、以敵小寇乎。
 帝不聽。

 夏四月。
 車駕度遼、遣宇文述與楊義臣、趣平壤。
王仁恭出扶餘道、進軍至新城。
 我兵數萬拒戰、仁恭帥勁騎一千、擊破之。
我軍嬰城固守。
 帝命諸將攻遼東、聽以便宜從事。
 飛樓橦、雲梯、地道、四面俱進、晝夜不息。
 我應變拒之、二十餘日不拔。
主客死者甚衆。
 衝梯竿長十五丈、驍果沈光升其端、臨城與我軍戰、短兵接殺十數人。
 我軍競擊之、而墜未及地、適遇竿有垂絙、光接而復上。
 帝望見壯之、卽拜朝散大夫。
 遼東城久不下、帝遣造布囊百餘萬口、滿貯士土、欲積為魚梁大道、闊三十步、高與城齊、使戰士登而攻之。
 又作八輪樓車、高出於城、夾魚梁道、欲俯射城內。
 指期將攻、城內危蹙。
 會、楊玄感叛書至、帝大懼。
 又聞達官子弟皆在玄感所、益憂之。
 兵部侍郞斛斯政、素與玄感善、內不自安、來奔。
 帝夜密召諸將、使引軍還。
 軍資器械攻具、積如丘山、營壘帳幕、案堵不動、衆心恟懼、無復部分、諸道分散。
 我軍卽時覺之、然不敢出、但於城內鼓噪。
 至來日午時、方漸出外、猶疑隋軍詐之。
 經二日、乃出數千兵追躡、畏隋軍之衆、不敢逼、常相去八九十里。
 將至遼水、知御營畢度、乃敢逼後軍。
 時、後軍猶數萬人、我軍隨而鈔撃、殺略數千人。

 二十五年、春二月。
 帝詔百寮、議伐高句麗、數日無敢言者。
 詔復徵天下兵、百道俱進。
 秋七月。
 車駕次懷遠鎭。
 時、天下已亂、所徵兵多失期不至、吾國亦困弊。
 來護兒至卑奢城、我兵逆戰。
 護兒擊克之、將趣平壤。
 王懼、遣使乞降、因囚送斛斯政。
帝大悅、遣使持節、召護兒還。

 八月。
 帝自懷遠鎭班師。

 冬十月。
 帝還西京、以我使者及斛斯政、告大廟、仍徵王入朝、王竟不從。
 勅將帥嚴裝、更圖後擧、竟不果行。

 二十九年、秋九月。
 王薨、號曰嬰陽王。



≪書き下し文≫
 嬰陽王、一に云く平陽、諱は元、一に云く大元、平原王の長子なり。
 風神俊爽、世を濟(すく)ひ民を安ぐを以て自ら任ず。
 平原王在位七年、立ちて太子と為す。
 三十二年、王薨じ、太子卽位す。
 隋文帝遣使して王を拜し、上開府儀同三司、襲爵遼東郡公と為し、衣一襲を賜ふ。

 二年、春正月。
 遣使して隋に入らせ、表を奉りて謝恩し、進奉して因りて王に封ぜむことを請ひ、帝之れを許す。

 三月。
 策封して高句麗王と為し、仍ち車服を賜ふ。

 夏五月。
 遣使して謝恩す。

 三年、春正月。
 遣使して隋に入らせ朝貢す。

 八年、夏五月。
 遣使して隋に入らせ朝貢す。

 九年、春二月。
 王靺鞨の衆萬餘を率い、遼西、營州を侵するも、摠管韋冲撃ちて之れを退く。
 隋文帝聞きて大いに怒り、漢王諒、王世積に命じて並びに元帥と爲し、將に水陸三十萬伐ちに來たる。

 夏六月。
 帝詔を下して王の官爵を黜(しりぞ)く。
 漢王諒軍出でて渝關に臨むも、水潦に値(あ)ひ、餽轉繼がず、軍中に食乏しく、疾疫に遇ふに復す。
 周羅睺自ら東へ海を泛(わた)り、平壤城に趣くも、亦た風に遭ひ、舡(ふね)漂沒すること多し。

 秋九月。
 師還り、死者十八九。
 王亦た恐懼し、遣使して謝罪し、上表して遼東糞土臣某を稱す。
 帝は是に於いて兵を罷(や)め、之れを待ちて初めの如しとす。
 百濟王昌遣使して表を奉り、軍導を為さむと請ふ。
 帝詔を下す、
 諭して以て高句麗罪に服し、朕已(すで)に之れを赦し、伐を致す可からず。
 其の使を厚くして之れを遣る。
 王其の事を知り、百濟の境を侵掠す。

 十一年、春正月。
 遣使して隋に入らせ朝貢す。
 詔、
 太學博士李文眞、古史を約して新集五卷を為せ。
 國初めて文字を用ふるを始むる時、人の事を一百卷記すこと有り、名づけて曰く留記、是に至り刪修す。

 十四年、秋八月。
 王將軍高勝を遣り、新羅北漢山城を攻む。
 羅王兵を率い、漢水を過ぎ、城中鼓噪して相ひ應ず。
 勝は彼は衆(おお)く我は寡(すくな)しを以て、恐れて克たずして退く。

 十八年。
 初め、煬帝の啓民の帳に幸(ゆ)くや、我が使者啓民の所に在り。
 啓民隱すことを敢へてせず、之れと與(とも)に帝に見(まみ)ゆ。
 黃門侍郞裴矩帝に說きて曰く、
 高句麗は本(もともと)箕子の之れを封ずる所の地、漢晋皆郡縣と為す。
 今乃ち臣にあらず、別れて異域と為し、先帝之れを征さむと欲すること久しきかな。
 但だ楊諒不肖にして、師出でて功無し。
 陛下の時に當たり、安ぞ取らざるを可とせむ。
 冠帶の境をして、遂に蠻貊(えびす)の鄕(さと)為(た)らしむ。
 今其の使者、親(みずか)ら啓民と見(まみ)えて國を擧げて化に從ふ、其の恐懼に因り、使を脅して入朝せしむ可し。
 帝之れに從ひ、牛弘に勑して旨を宣(の)べて曰く、
 朕は啓民の誠心奉國を以てし、故に親(みずか)ら其の帳に至り、明年當(まさ)に涿郡に往かむとす。
 爾は還日、爾の王に語れ。
 宜しく早く來朝すべし、自ら疑ひ懼るること勿れ。
 存育の禮、當に啓民の如し。
 苟(いやしく)も或いは朝ざれば、啓民を將帥し、彼の土に往巡せしむ、と。
 王懼れ、藩禮頗る闕(か)く。
 帝將に之れを討たむとす。
 啓民、突厥可汗なり。

 夏五月。
 師を遣り百濟の松山城を攻むるも、下せず、移りて石頭城を襲ひ、男女三千を虜にして還る。

 十九年、春二月。
 將に命じて新羅の北境を襲ひ、虜獲すること八千人。

 夏四月。
 新羅の牛鳴山城を拔く。

 二十二年、春二月。
 煬帝詔を下し、高句麗を討たせしむ。

 夏四月。
 車駕、涿郡の臨朔宮に至り、四方兵皆涿郡に集まる。

 二十三年、春正月壬午。
 帝詔を下して曰く、
 高句麗小醜、迷昏にして恭(した)はず、渤碣の間に崇聚し、遼濊の境に荐食す。
 復(ふたた)び漢魏誅戮し、巢穴暫し傾き、亂れ離れ阻むこと多しと雖も、種落ちて還り集ふ。
 往代に川藪に萃(つど)ひ、寔(こ)れを播(まきちら)して繁(しげ)り以て今を汔(つ)くす。
 彼の華壤を睠(かえりみ)て、翦(た)ちて夷類と爲すは、歷年永久、惡稔(みの)りて旣に盈(み)つる。
 天道の禍淫、亡(ほろび)の徵(しるし)は已に兆す。
 常を亂して德を敗り、圖に勝へる可きに非ざれども、慝(よこしま)を掩(おお)ひ姦(よこしま)に懷く。
 唯だ日の不足と曰ひ、移告の嚴、未だ嘗て面受せず、朝覲の禮、躬に親(みずか)ら肯ふこと莫し。
 亡叛を誘ひ納(い)れ、紀極(かぎり)を知らず、邊垂(くにのはて)に充斥(みちあふ)れ、亟(しばしば)烽候に勞(つと)める。
 關柝之れを以て靜ならず、生人之の為に廢業す。
 昔に薄伐在るも、已に天網に漏れ、旣に前禽の戮を緩め、未だ後服の誅に卽せず、曾(かつ)て恩に懷かず、翻りて長惡を爲し、契丹の黨と兼ねるに乃(およ)び、海戍を虔劉し、靺鞨の服に習ひ、遼西を侵軼す。
 又た靑丘の表、咸()く職貢を修め、碧海の濱、正朔を同じく稟け、遂に復た琛賮を敓攘し、往來を遏絶す。
 虐すること辜(つみ)弗(な)きに及び、誠にして禍に遇ふ。
 輶車奉使、爰(ここ)海東に曁(およ)び、旌節の次く所、途(みち)に藩境を經(へ)れば、而して道路を擁塞す。
 王人を拒絶し、君の心に事ふること無し。
 豈に臣の禮を為さむ。
 此れにして忍ぶ可ければ、孰か容る可からず。
 且つ法令は苛酷、賦斂は煩重、强臣豪族、咸(ことごと)く國鈞を執り、朋黨(ともがら)比周し、之れを以て俗を成す。
 賄貨すること市の如し、寃枉(ぬれぎぬ)申すこと莫し。
 歲を仍(かさ)ね災凶を以て重くし、屋に饑饉を比(なら)べ、兵戈息(や)まず、徭役すること期(かぎり)無く、力を轉輸に竭くし、身を溝壑(どぶ)に塡め、百姓苦を愁ふ。
 爰(ここ)に誰か適從するか。
 境內に哀惶するも、其の弊に勝(た)へず。
 首を廻(まわ)して內に面すれば、各(おのおの)性命の圖に懷き、黃髮稚齒、咸(ことごと)く酷毒の歎を興す。
 俗(ならひ)を省みて風(ならはし)を觀、爰(ここ)幽朔に屆(のぼ)り、人を弔ひ罪を問ひ、再駕を俟つこと無し。
 是に於いて、親(みずか)ら六師を摠べ、九伐を用申し、厥の阽危を拯(すく)ふ。
 天意に協從し、玆(こ)の逋穢を殄(ほろ)ぼし、先謨を剋(よ)く嗣ぐ。
 今宜しく律を授け啓行し、麾を届路に分け、渤海を掩(おお)いて雷震し、扶餘を歷(へ)て以て電掃す。
 戈を比(なら)べて甲を按(しら)べ旅を誓ひて後に行け。
 三先五申し、勝ちを必して後に戰へ。
 左十二軍、鏤方、長岑、溟海、蓋馬、建安、南蘇、遼東、玄菟、扶餘、朝鮮、沃沮、樂浪等の道に出ずる。
 右十二軍、黏蟬、含資、渾彌、臨屯、候城、提奚、踏頓、肅愼、碣石、東暆、帶方、襄平等の道に出ずる。
 絡繹引途し、平壤に摠集す。
 凡そ一百十三萬三千八百人、號して二百萬、其の餽輸の者之れを倍にす。
 南桑乾水上に宜社し、上帝を臨朔宮の南に類し、馬祖を薊城北に祭る。
 帝親(みずか)ら節度を授け、每軍の上將、亞將各(おのおの)一人、騎兵四十隊、隊は百人、十隊を團と為す。
 步卒八十隊、分けて四團を為し、團は各(おのおの)偏將一人有り、其の鎧胄、纓拂、旗旛、團每(ごと)に色異なる。
 日に一軍を遣り、相ひ去ること四十里、營を連ねて漸進し、終に四十日にして發し、乃ち盡く。
 首尾相ひ繼ぎ、鼓角相ひ聞き、旌旗は九百六十里に亘(わた)る。
 御營內、十二衛、三臺、五省、九寺を合はせ、內外、前後、左右の六軍に分隸し、次の後に發し、又た八十里に亘る。
 近古の出師の盛、未だ之れ有らざるなり。

 二月。
 帝は師を御し、進みて遼水に至り、衆軍摠會し、水に臨みて大陣を為す。
 我が兵阻水にて拒守し、隋兵濟(わた)るを得ず。
 帝は工部尚書宇文愷に命じ、浮き橋を三道、遼水西岸に造らす。
 旣に成さば、橋を引き東岸に趣くも、短にして岸に丈餘及ばず。
 我が兵大いに至るも、隋兵の驍勇の者、爭ひて水に赴き接戰す。
 我が兵高に乘り之れを擊ち、隋兵岸に登るを得ず、死する者甚だ衆(おお)し。
 麥鐵杖躍びて岸に登り、錢士雄、孟金叉等と與に皆戰死し、乃ち兵を斂(おさ)めて橋を引き、復た西岸に就く。
 更に少府監何稠に命じて橋を接がせしめ、二日にして成る。
 諸軍相ひ次いで繼進し、大いに東岸にて戰ふ。
 我が兵大いに敗れ、死者萬を計(かぞ)える。
 諸軍勝ちに乘じ、進みて遼東城を圍む。
 則ち漢の襄平城なり。
 車駕遼に到りて度(わた)し、詔を下して天下を赦し、刑部尚書衛文昇等に命じ、遼左の民を撫し、復た十年給ひ、郡縣を建置し、相を以て統攝せしむ。

 夏五月。
 初め、隋の諸將の東に下るや、帝之れを戒めて曰く、
 凡そ軍事の進止、皆須べからく奏聞して報を待ち、專擅を得ること無かれ。
 遼東數(しばしば)戰に出ずるも不利にして、乃ち嬰城固守す。
 帝諸軍に命じて之れを攻めさせ、又た諸將に勅す。
 高句麗若し降れば、則ち宜しく撫して納(い)るべし。
 兵を縱(はな)つを得ず、と。
 遼東城將に陷ちむとし、城中の人輒ち降らむと請ふと言ひ、諸將旨を奉り、機に赴むことを敢へてせず、先ず奏に馳ぜさせしむ。
 報を至る比(ころ)、城中守禦亦た備はり、隋は出に隨ひ拒戰す。
 此の如きこと再三にして、帝終に悟らず、旣にして城久しく下らず。
    六月己未。  帝遼東城の南に幸(ゆ)き、其の城池の形勢を觀、因りて諸將を召し、之れを詰責して曰く、
 公等自ら官高を以てし、又た家世に恃み、暗懦を以て我れを待たむと欲するか。
 都に在りし日、公等は皆我が來たるを願はず、病を見て敗るを恐るるのみ。
 我今此に來たるは、正に公等の所為を觀、公輩を斬らむと欲するのみ。
 公の今死を畏れ、力を盡くすことを肯ふもの莫きは、我の公を殺すこと能はざると謂ふか。
 諸將咸(ことごと)く戰懼して色を失す。
 帝因りて城の西數里に留止し、六合城を御するも、我が諸城は堅守して下らず。
 左翊衛將軍來護兒、江淮水軍の帥(す)べ、舳艫數百里をして、海に浮かびて先に浿水より進入し、平壤を去ること六十里。
 我が軍と相遇し、進擊して大いに之れを破る。
 護兒勝ちに乘じて其の城に趣かむと欲するも、副摠管周法尚之れを止め、諸軍の至るを俟ちて俱に進むことを請ふ。
 護兒聽かず、精甲數萬を簡(えら)び、直に城下に造(いた)る。
 我が將羅郭內空寺中に兵を伏せ、兵を出だして護兒と戰ひ、而りて僞りて敗す。
 護兒之れを逐(お)ひて城に入り、兵を縱(はな)ち俘掠し、部伍を復すこと無し。
 伏兵を發して、護兒大いに敗れ、僅かにして獲を免れ、士卒の還る者、數千人を過ぎず。
 我が軍追ひて舡(ふね)の所に至り、周法尚陣を整へて之れを待つ、我が軍乃ち退く。
 護兒兵を引きて海浦に還り屯(たむろ)し、復た留まりて諸軍に應接することを敢へてせず。
 左翊衛大將軍宇文述、扶餘道に出る。
 右翊衛大將軍于仲文、樂浪道に出る。
 左驍衛大將軍荊元恒、遼東道に出る。
 右翊衛大將軍薛世雄、沃沮道に出る。
 右屯衛將軍辛世雄、玄菟道に出る。
 右禦衛將軍張瑾、襄平道に出る。
 右武侯將軍趙孝才、碣石道に出る。
 涿郡太守檢校左武衛將軍崔弘昇、遂城道に出る。
 檢校右禦衛虎賁郞將衛文昇、增地道に出る。
 皆鴨綠水の西に會す。
 述等兵、瀘河、懷遠の二鎭より、人馬は皆百日の糧を給ひ、又た排甲、槍矟并びに衣資、戎具、火幕を給ひ、人別に三石已上、重に勝(た)へるに能ふもの莫しに致る。
 軍中に下令す、
 米粟を遺棄する者は斬る、と。
 士卒は皆、幕下に坑(あな)を掘り之れを埋め、纔行して中路に及び、糧は已に將に盡きぬとす。
 王大臣乙支文德を遣り、其の營に詣(いた)らせ詐降するも、實は虛實を觀ぬと欲す。
 于仲文先ず密かに旨を奉る、
 若し王及び文德に遇ひに來たる者あらば、必ず之れを擒(とら)むとす。
 仲文將に之れを執らむとし、尚書右丞劉士龍、慰撫使を為し、固く之れを止む。
 仲文遂に聽き、文德還るも、旣にして之れを悔ひ、人を遣り文德に紿(いつは)りて曰く、
 更に言有るを欲し、復た來たる可し、と。
 文德顧みず、鴨綠水を濟りて去る。
 仲文と述等、旣に文德を失し、內に自ら安んぜず。
 述糧の盡きるを以て還らむと欲す。
 仲文精銳を以て文德を追ひ、以て功有るとす可しと議するも、述固く之れを止むる。
 仲文怒りて曰く、
 將軍十萬の衆に仗(よ)り、小賊を破ること能はざれば、何の顔を以て帝に見ゆか。
 且つ仲文此の行、固より功無しを知る。
 何となれば則ち、古の良將、成功に能ふ者、軍中の事、決は一人に在り。
 今人各(おのおの)心有り、何を以て敵に勝つとせむ、と。
 時に帝、仲文に計劃有るを以て、諸軍に諮稟節度せしめ、故に此の言有り。
 是に由りて、述等已むを得ずして之れに從ひ、諸將と水を渡り文德を追ふ。
 文德述の軍士に饑色有るを見、故に之れを疲するを欲し、戰ふ每に輒ち走る。
 述は一日の中、七戰して皆捷(か)ち、旣に驟(にわ)かの勝ちを恃み、又た群議を逼り、是に於いて、遂に東に進み薩水を濟り、平壤城を去ること三十里、山に因りて營を為す。
 文德復た遣使して詐降す、述に請ひて曰く、
 若し師を旋(かえ)す者あらば、當に王に奉り、朝在所に行かむとす。
 述は士卒の疲弊し、復た戰ふ可からず、又た平壤城は險固にして、猝(にわ)かに拔くこと度し難しと見て、遂に其の詐に因りて還る。
 述等方陣を為して行き、我が軍四面鈔撃し、述等且つ戰ひ且つ行く。

 秋七月。
 薩水に至り、軍は半ば濟るも、我が軍後より其の後軍を擊ち、右屯衛將軍辛世雄戰死す。
 是に於いて、諸軍俱に潰え、禁止す可からず。
 將士奔還し、一日一夜、鴨綠水に至り、四百五十里を行(くだ)る。
 將軍天水王仁恭殿(しんがり)を為し、我が軍を擊ちて之れを却(しりぞ)く。
 來護兒述等の敗を聞き、亦た引き還す。
 唯だ衛文昇の一軍のみ獨り全うす。

 初め、九軍遼に到り度るは、凡そ三十萬五千、遼東城に還り至るに及ぶは、唯だ二千七百人のみ。
 資し儲(たくわ)へた器械は巨萬を計(かぞ)へるも、失亡し蕩盡す。
 帝大いに怒り、鎖に述等を繋ぎ、癸卯に引き還す。

 初め、百濟王璋遣使し、高句麗を討たむと請ふ。
 帝之れをして我が動靜を覘(うかが)はせしむも、璋は我と內に潛通す。
 隋軍將に出でむとし、璋は其の臣國智牟を使はせ、隋に入り師期せむと請ふ。
 帝大いに悅び、厚く賞賜を加へ、尚書起部郞席律を遣り、百濟に詣らせ、期會を以て告ぐ。
 隋軍遼に渡るに及び、百濟亦た境上に嚴兵し、隋を助くと聲言するも、實は兩端を持す。
 是の行なるや、唯だ遼水西に於いて、我が武厲邏を拔き、遼東郡及び通定鎭を置くのみ。

 二十四年、春正月。
 帝詔して天下に兵を徵(め)し、涿郡を集め、募民を驍果と為し、遼東の古城を修め、以て軍糧を貯ふ。

 二月。
 帝侍臣に謂ひて曰く、
 高句麗の小虜、上國を侮(あなど)り慢(おこた)る。
 今、海を拔き山を移し、猶ほ克果を望むがごとし、况や此の虜をや。
 乃ち復た代伐を議す。
 左光祿大夫郭榮諫めて曰く、
 戎狄禮を失するは、臣下の事なり。
 千鈞の弩、鼷鼠の發機を為さず。
 奈何(いか)にして親(みずか)ら萬乘を辱め、以て小寇に敵ふか。
 帝聽かず。

 夏四月。
 車駕遼を度(わた)り、宇文述と楊義臣を遣り、平壤に趣く。
 王仁恭は扶餘道に出、進軍して新城に至る。
 我が兵數萬拒戰するも、仁恭は勁騎一千を帥べ、之れを擊破す。
 我が軍嬰城固守す。
 帝は諸將に命じて遼東を攻め、便宜從事を以て聽く。
 飛樓橦、雲梯、地道、四面俱に進み、晝夜息まず。
 我は變に應じて之れを拒み、二十餘日拔かず。
 主客の死者甚だ衆し。
 衝梯の竿は長さ十五丈、驍果沈光其の端に升(のぼ)り、城に臨み我が軍と戰ひ、短兵接して十數人を殺す。
 我が軍競ひて之れを擊ち、而れども墜つること未だ地に及ばず、適遇(たまたま)竿に垂れる絙(おおなわ)有り、光接して復た上(のぼ)る。
 帝望み見て之れを壯(いさましき)とし、卽ち朝散大夫に拜す。
 遼東城久しく下らず、帝遣りて布囊を百餘萬口造り、士土を滿貯し、積みて魚梁の大道を為さむと欲し、闊(ひろ)さ三十步、高さ城と齊(ひと)しく、戰士をして登らしめて之れを攻む。
 又た八輪樓車を作り、高さは城を出で、魚梁道を夾(はさ)み、城內を俯(うつむ)き射たむと欲す。
 期して將に攻むると指し、城內に危蹙(さしせま)る。
 會(たまたま)、楊玄感の叛の書至り、帝大いに懼る。
 又た達官子弟皆玄感の所に在るを聞き、益(ますます)之れを憂ふ。
 兵部侍郞斛斯政、素(もともと)玄感と善(よ)みし、內に自ら安ずることなく、奔(はしり)に來たる。
 帝夜に密かに諸將を召し、引軍をして還させしむ。
 軍資器械攻具、積むこと丘山の如し。
 營壘帳幕、案堵して動かず、衆心恟懼し、復た部分かるること無く、諸道分散す。
 我が軍卽時之れを覺り、然りて出を敢へてせず、但だ城內に於いて鼓噪す。
 來日午時に至り、方に漸く外に出でむとするも、猶ほ隋軍之れを詐するを疑ふ。
 二日經て、乃ち數千の兵を出だして追躡すれば、隋軍の衆畏れ、逼ることを敢へてせず、常に相ひ去ること八九十里。
 將に遼水に至らむとし、御營の度(たく)を畢えるを知り、乃ち敢へて後軍に逼らず。
 時に後軍、數萬人を猶(ためら)ひ、我が軍隨ひて鈔撃し、殺略すること數千人。

 二十五年、春二月。
 帝百寮に詔して、高句麗を伐たむと議し、數日するも敢へて言ふ者無し。
 詔して復た天下に兵を徵し、百道俱に進む。

 秋七月。
 車駕に懷遠鎭次ぐ。
 時に天下已に亂れ、徵す所の兵期を失して至らざること多く、吾が國亦た困弊す。
 來護兒は卑奢城に至り、我が兵逆戰す。
 護兒之れを擊ちて克ち、將に平壤に趣かむとす。
 王懼れ、遣使して降を乞ひ、因りて斛斯政を囚送す。
 帝大いに悅び、使持節を遣り、護兒を召して還る。

 八月。
 帝懷遠鎭より師を班(かえ)す。

 冬十月。
 帝西京に還り、我が使者及び斛斯政を以て、大廟に告げ、仍ち王を徵(め)して入朝せしむるも、王竟(つい)に從はず。
 將帥嚴裝せしめて勅し、更に後擧を圖らむとするも、竟(つひ)に行(おこなひ)を果たさず。

 二十九年、秋九月。
 王薨じ、號を嬰陽王と曰ふ。