榮留王

榮留王

 榮留王の諱は建武(一説には成)、嬰陽王の異母弟である。
 嬰陽在位二十九年に死去し、即位した。

 二年、春二月。
 遣使して唐に行かせ朝貢した。

 夏四月。
 王が卒本に行幸し、始祖廟を祀った。

 五月。
 王が卒本から帰還した。

 四年、秋七月。
 遣使して唐に行かせ朝貢した。

 五年。
 遣使して唐に行かせ朝貢した。
 唐の高祖は隋末にここで戦士が多く戦没したことに感じ入り、王に詔書を賜った。
「朕は宝命を恭しくお受けし、国土の果てに君臨し、ただ三霊に順い、万国を懐柔し、普く天の下に情を均しく撫して育み、日月の照らし出す所を悉く穏やかに治めております。
 王は遼左を管轄して統治し、代々藩服として居し、天子の統治を受ければ、遠くまで職貢に遵おうと思われているようですね。
 だからこそ、使者を派遣し、山を越えて川を涉り、誠実な態度を執るとして広く知らしめられていること、朕は甚だ喜ばしく思います。
 今まさに、宇宙のすべては安らかに鎮まり、四海は清らかに治まっております。
 諸侯より王朝に奉げるべき玉帛は既に納められ、その道路に塞ぐ者はおらず、まさに糸と糸とを集めて絡め合うように仲睦まじきことであり、永く敦く相互に聘問して友好を結び、それぞれの国境線を保つことができれば、これ以上に美しきことがあるでしょうか。
 ただ隋朝の末期には、戦が数多く連なり、多くの困難が待ち構えておりました。
 戦によって攻撃された地域は、いずれもその民衆を失い、遂に骨肉が乖離し、一家は分断されてしまいました。
 多くの歳月を経ておりますので、夫婦が離れ離れになったことの怨曠は申しません。
 ただ、現在の二国は和を通じ、義に阻異するものはありません。
 こちらの国土に在留した高句麗人たちがおりました。
 こちらは既に彼らを追跡して集め、それらを尋ねてすぐにそちらへ遣送致しました。
 あなたの処にも、こちらの国民であった者がいるはずです。
 王よ、それらの者を解放して帰国させ、撫育に向けて務めを尽くし、共に仁恕の道を弘めようではありませんか。」
 こうして、華人を悉く探し集めて送り出した。
 その数は一万人余りに及ぶ。
 高祖は大いに喜んだ。

 六年、冬十二月。
 遣使して唐に行かせ朝貢した。

 七年、春二月。
 王が遣使して唐に行かせ、暦法を共有したいと請願した。
 刑部尚書の沈叔安を派遣し、策して王を上柱國遼東郡公高句麗國王に任命した。
 道士に天尊像及び道法を齎すように命じ、老子を講義するために往かせた。
 王と国民たちがそれを聴講した。

 冬十二月。
 遣使して唐に入らせ朝貢した。

 八年。
 遣使して唐に入らせ、仏老の教法を学びたいと求めた。
 帝はそれを許可した。

 九年。
 新羅と百濟が唐に遣使して、上言した。
「高句麗は道を閉ざし、使者が訪朝できません。
 それに、頻繁に侵掠しているのです。」
 帝は散騎侍郞の朱子奢と持節を派遣し、講和するように説諭した。
 王は表を奉って謝罪し、二国との和平を請うた。

 十一年、秋九月。
 遣使して唐に入らせ、太宗の突厥頡利可汗を捕えたことを祝賀し、併せて封域図を献上した。

 十二年、秋八月。
 新羅の将軍金庾信が東の国境付近に侵攻し、娘臂城を破った。

 九月。
 遣使して唐に入らせ朝貢した。

 十四年。
 唐廣州司馬長孫師を派遣し、隋の戦士の骸骨を埋めるに臨み、これを祭り、当時の京観が立てられていた所を毀した。

 春二月。
 王が衆人を動員して長城を築き、東北は扶餘城から東西南は海まで千里余り、凡そ一十六年で工程を終えた。

 二十一年、冬十月。
 新羅の北邊七重城に侵攻した。
 新羅の将軍閼川がこれに抗戦し、七重城の外で戦い、我が軍は敗退した。

 二十三年、春二月。
 世子の桓權を派遣し、唐に入らせ朝貢した。
 太宗は労慰し、特に厚く下賜品を賜った。
 王は子弟を派遣して唐に入らせ、入国して学びたいと要請した。

 秋九月。
 日光が失われたが、三日すると再び明るくなった。

 二十四年。
 我が国の太子が入朝したことについて、帝は職方郞中陳大德を派遣してその労に答えさせた。
 陳大德が入境し、城邑に到着したところで、官守の者に綾綺を厚く贈って言った。
「実は私、平素より山水を愛好しておりまして……ここによき処があれば、私はそれを観覧したいと思うのですが。」
 官守の者は歓んで陳大德を導き、各地を巡り歩いて至らざる所はなかった。
 このようにして、陳大德はその国の細かい経路や地理に至るまでを悉く知り尽くしてしまった。
 隋末に従軍してこの地に留まった華人と面会し、その者たちの為に親戚の存亡を伝えると、人々は涙を流した。
 そのため、男女が至る所で道を挟んでこれを見た。
 王は盛んに兵衛たちに戦陣を立てさせ、使者に引見させた。
 陳大德は使者として国に潜入することで、その虚実を偵察しようとしていたのであるが、誰もそれを知らなかった。
 陳大德が帰国するとその内容を上奏し、帝は喜んだ。
 大德は帝に言った。
 あの国は高昌が滅亡したと聞いて大いに懼れているようで、接待役のもてなしは例年より格別のものでした。
 帝は言った。
「高句麗はもともと四郡地のみであった。
 私は兵卒数万を発して遼東を攻めれば、奴らは必ず国を傾けてでもそれを救援するであろう。
 そこに別動隊として戦船軍を派遣し、東萊に出撃させ、海道から平壤に急襲し、水陸の勢を合わせれば、高句麗など難なく略取できるはずである。
 ただし現在はまだ山東の州縣が疲弊し、その復旧を終えておらぬ。
 私はそちらに労をかけたくないというだけのことだ。

 二十五年、春正月。
 遣使して唐に入らせ朝貢した。
 王は東部大人の蓋蘇文に命じ、長城の労役を監督させた。

 冬十月。
 蓋蘇文が王を弑殺した。

 十一月。
 太宗は王の死を聞き、苑中にて哀悼を挙げ、物三百段を贈ると詔を下し、使持節を派遣して吊祭した。

 三國史記 卷第二十

 

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≪白文≫
 榮留王、諱建武、一云成、嬰陽王異母弟也。
 嬰陽在位二十九年薨。
 即位。

 二年、春二月。
 遣使如唐朝貢。

 夏四月。
 王幸卒本、祀始祖廟。

 五月。
 王至自卒本。

 四年、秋七月。
 遣使如唐朝貢。

 五年。
 遣使如唐朝貢。
 唐高祖感隋末戰士多陷於此、賜王詔書曰、
 朕恭膺寶命、君臨率土、祗順三靈、懷柔萬國、普天之下、情均撫字、日月所炤、咸使乂安。
 王統攝遼左、世居藩服、思稟正朔、遠循職貢。
 故遣使者、跋涉山川、申布誠懇、朕甚嘉焉。
 方今、六合寧晏、四海淸平、玉帛旣通、道路無壅、方申緝輯睦、永敦聘好、各保疆場、豈非盛美。
 但隋氏季年、連兵構難、攻戰之所、各失其泯氓、遂使骨肉乖離、室家分析、多歷年歲、怨曠不申。
 今、二國通和、義無阻異。
 在此所有高句麗人等、已令追括、尋卽遣送、彼處所有此國人者、王可放還、務盡撫育之方、共弘仁恕之道。
 於是、悉搜括華人以送之、數至萬餘。
 高祖大喜。

 六年、冬十二月。
 遣使如唐朝貢。

 七年、春二月。
 王遣使如唐、請班曆。
 遣刑部尚書沈叔安、策王為上柱國遼東郡公高句麗國王。
 命道士、以天尊像及道法、往為之講老子、王及國人聽之。

 冬十二月。
 遣使入唐朝貢。

 八年。
 王遣人入唐、求學佛、老敎法、帝許之。

 九年。
 新羅、百濟遣使於唐、上言、
 高句麗閉道、使不得朝、又屢相侵掠。
 帝遣散騎侍郞朱子奢、持節諭和。
王奉表謝罪、請與二國平。

 十一年、秋九月。
 遣使入唐、賀太宗擒突厥頡利可汗、兼上封域圖。

 十二年、秋八月。
 新羅將軍金庾信、來侵東邊、破娘臂城。

 九月。
 遣使入唐朝貢。

 十四年。
 唐遣廣州司馬長孫師、臨瘞隋戰士骸骨、祭之、毁當時所立京觀。

 春二月。
 王動衆築長城、東北自扶餘城、東西南至海千有餘里、凡一十六年畢功。

 二十一年、冬十月。
 侵新羅北邊七重城。
新羅將軍閼川逆之、戰於七重城外、我兵敗衂。

 二十三年、春二月。
 遣世子桓權、入唐朝貢。
 太宗勞慰、賜賚之特厚。
 王遣子弟入唐、請入國學。

 秋九月。
 日無光、經三日復明。

 二十四年。
 帝以我太子入朝、遣職方郞中陳大德答勞。
 大德入境、所至城邑、以綾綺厚餉官守者曰、
 吾雅好山水、此有勝處、吾欲觀之。
 守者喜導之、遊歷無所不至。
 由是、悉得其纖曲。
 見華人隋末從軍沒留者、為道親戚存亡、人人垂涕、故所至士女夾道觀之。
 王盛陳兵衛、引見使者。
 大德因奉使覘國虚實、吾人不知。
 大德還奏、帝悅。
 大德言於帝曰、
 其國聞高昌亡、大懼、館候之勤、加於常數。
 帝曰、
 高句麗本四郡地耳。
 吾發卒數萬、攻遼東、彼必傾國救之。
 別遣舟師出東萊、自海道趨平壤、水陸合勢、取之不難。
 但山東州縣、凋瘵未復、吾不欲勞之耳。

 二十五年、春正月。
 遣使入唐朝貢。
 王命東部大人蓋蘇文、監長城之役。

 冬十月。
 蓋蘇文弑王。

 十一月。
 太宗聞王死、擧哀於苑中、詔贈物三百段、遣使持節吊祭。

 三國史記 卷第二十


≪書き下し文≫
 榮留王、諱は建武、一に云く成、嬰陽王の異母弟なり。
 嬰陽在位二十九年薨じ、即位す。

 二年、春二月。
 遣使して唐に如(ゆ)き朝貢す。

 夏四月。
 王卒本に幸(ゆ)き、始祖廟を祀る。

 五月。
 王卒本より至る。

 四年、秋七月。
 遣使して唐に如き朝貢す。

 五年。
 遣使して唐に如き朝貢す。
 唐高祖隋末に此に於いて戰士の多く陷るを感じ、王に詔書を賜りて曰く、
 朕は寶命を恭(うやうや)しく膺(う)け、率土に君臨し、祗(ただ)三靈に順(したが)ひ、萬國を懷柔し、普(あまね)く天の下、情均しく撫して字(はぐく)み、日月の炤する所、咸(ことごと)く乂安せしむ。
 王は遼左を統攝し、世(よよ)藩服に居し、正朔を稟(う)ければ、遠く職貢に循(したが)ふことを思ふ。
 故に使者を遣り、山川を跋(ふ)み涉(わた)り、誠懇を申布しること、朕は甚だ嘉(よろこ)ばしきかな。
 方(まさ)に今、六合寧晏、四海淸平、玉帛旣に通じ、道路に壅ぐもの無く、方(まさ)に緝輯として睦まじきと申し、永く敦く聘好し、各(おのおの)疆場を保たば、豈に美を盛にすること非ざらむ。
 但だ隋氏季年、連兵構難、攻戰之所、各(おのおの)其の泯氓を失し、遂に骨肉の乖離をして、室家を分析せしむるも、年歲多く歷(へ)て、怨曠申さず。
 今、二國に和を通じ、義に阻異すること無し。
 此に所有する高句麗人等在り、已に追ひ括めせしめ、尋ねて卽ち遣送す。
 彼の處に所有する此の國人の者、王放ちて還し、撫育の方に務め盡し、共に仁恕の道を弘む可し。
 是に於いて、悉く華人を搜し括めて以て之れを送り、數は萬餘に至る。
 高祖大いに喜ぶ。

 六年、冬十二月。
 遣使して唐に如き朝貢す。

 七年、春二月。
 王遣使して唐に如かせ、曆を班(かえ)さむと請ふ。
 刑部尚書沈叔安を遣り、策して王を上柱國遼東郡公高句麗國王と為す。
 道士に命じ、天尊像及び道法を以て之れを老子を講ずる為に往かせしめ、王及び國人之れを聽く。

 冬十二月。
 遣使して唐に入らせ朝貢す。

 八年。
 遣使して唐に入らせ、佛老の敎法を學ぶを求め、帝之れを許す。

 九年。
 新羅、百濟唐に遣使し、上言す。
 高句麗は道を閉ざし、使は朝するを得ず、又た屢(しばしば)相ひ侵掠す。
 帝は散騎侍郞朱子奢、持節を遣り和を諭せしむ。
 王表を奉りて謝罪し、二國と平を請ふ。

 十一年、秋九月。
 遣使して唐に入らせ、太宗の突厥頡利可汗を擒(とら)ふるを賀(いわ)ひ、兼ねて封域圖を上(ささ)ぐ。

 十二年、秋八月。
 新羅將軍金庾信、東の邊を侵しに來たり、娘臂城を破る。

 九月。
 遣使して唐に入らせ朝貢す。

 十四年。
 唐廣州司馬長孫師を遣り、隋の戰士の骸骨を瘞(うず)めるに臨み、之れを祭り、當時の京觀を立てる所を毁す。

 春二月。
 王衆を動かし長城を築き、東北は扶餘城より、東西南は海に至り千有餘里、凡そ一十六年にして功を畢(お)える。

 二十一年、冬十月。
 新羅の北邊七重城を侵す。
 新羅將軍閼川之れに逆ひ、七重城の外に戰ひ、我が兵敗衂す。

 二十三年、春二月。
 世子の桓權を遣り、唐に入らせ朝貢す。
 太宗勞慰し、之れに賚を賜ること特に厚し。
 王は子弟を遣り唐に入らせ、國に入りて學ぶを請ふ。

 秋九月。
 日に光無く、三日を經て復た明らかなり。

 二十四年。
 帝我が太子の入朝するを以て、職方郞中陳大德を遣り勞に答へせしむ。
 大德は入境し、城邑に至る所、綾綺を以て厚く官守の者に餉(おく)りて曰く、
 吾は山水を雅好し、此に勝(よ)き處有らば、吾之れを觀むと欲す。
 守者喜びて之れを導き、遊歷して至らざる所無し。
 是に由りて、悉く其の纖曲を得。
 華人の隋末に從軍して沒留する者に見(まみ)え、為に親戚の存亡を道(い)へば、人人涕を垂らす。
 故に士女の至る所、道を夾(はさ)みて之れを觀ゆ。
 王盛んに兵衛を陳(なら)べ、使者に引見す。
 大德使を奉るに因り、國の虚實を覘(うかが)ふも、吾人知らず。
 大德還りて奏し、帝悅ぶ。
 大德帝に言ひて曰く、
 其の國、高昌亡ぶを聞き、大いに懼れ、館候の勤、常數に加ふ、と。
 帝曰く、
 高句麗は本(もともと)四郡地のみ。
 吾卒數萬を發(はな)ち、遼東を攻めれば、彼は必ず國を傾け之れを救ふ。
 別に舟師を遣り東萊に出させ、海道より平壤に趨(はし)り、水陸勢を合はせれば、之れを取るに難にあらず。
 但し山東州縣、凋瘵未だ復せず、吾之れを勞することを欲せざるのみ。

 二十五年、春正月。
 遣使して唐に入らせ朝貢す。
 王は東部大人の蓋蘇文に命じ、長城の役を監せしむ。

 冬十月。
 蓋蘇文王を弑す。

 十一月。
 太宗王の死を聞き、哀を苑中にて擧げ、詔して贈物三百段、使持節を遣りて吊祭す。

 三國史記 卷第二十