寶藏王上

寶藏王上

 王の諱は藏(あるいは寶藏とも)であるが、国を失ったため諡(おくりな)はない。建武王の弟、大陽王の子である。建武王の在位第二十五年に蓋蘇文がこれを弑殺し、藏を擁立して王位を継がせた。
 新羅が百濟を討伐しようと謀り、金春秋を派遣して出軍を乞うたが、それに従わなかった。

 二年、春正月。
 父を封じて王とした。
 遣使して唐に入らせ朝貢した。

 三月。
 蘇文が王に告げた。
「三教は譬えるなら鼎足のようなもので、一つも欠けてはなりません。現在、儒教と仏教とは並んで興隆してますが、道教はまだ隆盛ではありません。これでは天下の道術者を備えているとは言えないでしょう。伏してお願いしまするに、唐に遣使し、道教を求めて国民に訓じるように要請致します。」
 大王は深くそれに同意し、表を奉り請願を陳情すると、太宗は道士の叔達たち八人を派遣し、ともに老子道德經を賜った。王は喜び、僧寺を取ってそれを道観にした。

 閏六月。
 唐の太宗が言った。
「淵蓋蘇文は主君を弑殺し、国政を専横しています。こんなことはまったく耐え忍ぶことができません。そして、今日の兵力をもってすれば、これを取るなど確かに難なきことでしょう。しかし、百姓に煩労させたくないので、私は契丹と靺鞨にこれを攪乱させようと思うのですが、いかがでしょうか。」
 長孫無忌が言った。
「蘇文は自らの罪が重大なものであることを知っており、大国に討伐されることを恐れ、厳格な守備を設けております。陛下がしばらくこの件を心に隠して辛抱されれば、奴は安心し、必ず更に驕り昂り気を緩めるでしょう。こうしていよいよその悪をほしいままにすれば、その後でこれを討伐したとしても、遅くはありませんよ。」
 帝は言った。
「それがよいでしょう。」
 使持節を派遣し、正しく礼式を整えて冊命し、詔を下した。
「遠国を懐ける規範は、先王の定められた令典で、先世を継承する義は、歴代よりの古き章典です。
 高句麗國王の藏は気量があり明敏で、見識は高く正しきことを詳(つまびらか)にし、禮敎を早くに習い、德義は広く知れ渡っております。
 これより先代の藩業を継承し、誠款を第一としなさい。ここに先例に倣い、爵命を与えて上柱國遼東郡王高句麗王に任命します。」

 秋九月。
 新羅が唐に遣使して言った。
「百濟が我が国の四十城余りを攻め取り、再び高句麗と軍隊を集結させ、入朝の路を絶とうと謀っております。どうか軍事による救援をお願いします。」

 十五日。
 夜が明るく月が見えなかった。
 衆星が西に流れた。

 三年、春正月。
 遣使して唐に入らせ朝貢した。
 帝は司農丞相の里玄奬に命じ、璽書を持たせて王に賜って言った。
「新羅は国家に自らの身命を捧げており、朝貢を欠かせたことがありません。あなたも百濟も、どちらも戦争をおやめください。もしこれ以上、相手を攻めるようなことがあれば、明年に軍を出撃させ、あなたの国を擊つことにします。」
 玄奬が入境すると、既に蓋蘇文は兵を率いて新羅を擊ち、そのふたつの城を破っていた。王の使者がそれを呼び戻すと、すぐに帰還した。
 玄奬が新羅に侵攻するのをやめるようにと諭したが、蓋蘇文は玄奬に言った。
「我が国と新羅、怨み対立して既に久しい。かつて、隋人が我が国に入寇した際、新羅がその隙に乗じて、我が領土五百里を奪い、その城邑をすべて占拠しているのだ。我々自らの手で奪い取った領土を我々に取り返せないとなれば、今後とも取り返せないのではないかと兵たちも恐れておる。」
 玄奬は言った。
「過ぎたことを論じたところで、それを巻き戻すことはできません。遼東の諸城は、もともとすべて中国の郡縣であったのに、現在の中国はもうそのことについて言ってはいないではないですか。高句麗がどうして故地を求める必然性がありましょう。」
 結局、莫離支は従わず、玄奬が帰還すると詳細にその状況を伝えた。
 太宗は言った。
「蓋蘇文は主君を弑殺し、その大臣を害し、その人民に残虐をおこない、今また我が詔命に違い、隣国を侵暴しております。こうなれば討伐しないわけにはいきません。」

 秋七月。
 帝が出兵しようとして洪饒江の三州に勅した。
「四百艘の船を造り、軍糧をそれに載せなさい。」
 營州都督張儉たちを派遣し、幽營二州の都督の兵と契丹、奚、靺鞨を統帥させ、まず遼東を擊ち、それによってその勢を観た。大理卿の韋挺を餽輸使に任命し、河北諸州から皆が挺節度を受け、それぞれの裁量で適時適当に事に当たるようにすることを認めた。また少卿の蕭銳に命じ、河南諸州の糧を輸送させ、海に入らせた。

 九月。
 莫離支が白金を唐に貢いだ。
 楮遂良が言った。
「莫離支は主君を弑殺した以上、九夷にいられる所などありません。今まさに奴を討とうというときに、その金を納めてしまうのは、収賄の類と見なさざるを得ません。それを受け取るべきではないと私は進言いたします。」
 帝はそれに従った。
 また、使者が言った。
「莫離支は官吏五十人を派遣し、宿衛に入らせました。」
 帝は怒り、使者に言った、
「あなたがたは皆高武に仕え、官爵もあったでしょう。それなのに莫離支が弑逆して、あなた方はその復讐もできていません。今更あのような者のために遊説して大国を欺こうとは、あなたがたは大罪にかけられることになりますよ!」
 こうして悉くがその道理に頷いた。

 冬十月。
 平壤に赤色の雨が降った。
 帝は自らが討伐に向かうつもりで長安の耆老を召し出して労った、
「遼東はかつて中国の領地でありました。それなのに莫離支は自らの主君を賊殺し、朕は自らそちらに行き、これを除こうとしております。ですので、父老にお約束いたしましょう。あなたの子孫のうち私の行軍に従う者には、私の手でよく恩賞致します。ご心配なさらないでください。」
 こうして厚く布粟を賜った。
 群臣皆が帝に行かないように勧めたが、帝は言った。
「本を去って末に趣く、高を捨て下を取る、近を離れて遠くに行く……これらの三つが不祥であることくらい私だってわかっております。その通り、確かに高句麗の討伐は、このようなことです。
 しかし、蓋蘇文は君主を弑殺し、また大臣を殺戮して好き放題し、一国の人民が首を伸ばして救済を待っておられるのですよ。異論を唱える者には、まだそれがよくわかっていないだけでしょう。」
 こうして、北には粟を營州に輸送し、東には粟を古大人城に備蓄した。

 十一月。
 帝が洛陽に到着した。
 前宜州刺史の鄭天璹は既に出仕しており、帝はその者がかつて隋の煬帝に従軍して高句麗の討伐を経験していることから、召して当時の行軍について聴き、それを質問した。
 鄭天璹は答えた。
「遼東の道は遠く、軍糧の運送は険難の地が阻みます。それに東夷はよく城を守り、そうそう下すことなんてできませんよ。」
 帝は言った。
「今回の行軍は、隋のそれの比ではありません。公よ、ただお聞き入れ戴きたく思います。」
 刑部尚書の張亮を平壤道行軍の大摠管に任命し、江州、淮州、嶺州、硤州の兵四万、長安と洛陽から募った士三千、戦艦五百艘を統帥させ、東州より海を渡って平壤に向かわせ、また太子の詹事左衛率李世勣を遼東道行軍の大摠管に任命し、步騎六万及び蘭河の二州と降胡を統帥させ、こちらは遼東に向かわせた。両軍は勢力を合わせ、幽州に大集結した。
 行軍摠管の姜行本と少監丘行淹を派遣し、まず衆士に監督させ、梯衝を安羅山にて製造させた。この時点で、遠近の勇士の応募と攻城のための器械は、数え切れぬほどとなり、帝はそのすべてを自ら損益を加え、その便易を図った。
 また自らの手で天下に詔諭した。
「高句麗の蓋蘇文は主君を弑殺し、人民を虐げ、これを耐え忍ぶ情がありましょうか。今から幽州と薊州を巡幸し、遼州と碣州に罪を問いたいと思います。行軍中の軍営では、浪費をなさらないように。」
 更に言った。
「昔、隋の煬帝は自らの下民に残虐にあたり、高句麗王はその人民を仁愛しました。思乱の軍によって安和の衆を擊ったので、成功できなかったのです。現在、必勝の道を略言すれば、次の五つと言えるでしょう。
 一に、大をもって小を擊つ。
 二に、順をもって逆を討つ。
 三に、理をもって乱に乗ず。
 四に、逸をもって労に敵う。
 五に、悦をもって怨に当たる。
 どうして我々が勝てないと憂うことがありましょうか。
 天下万民に布告致します。疑懼されることはありません。」
 こうして、野営の備具のほとんどが持ち出された。
 諸軍及び新羅、百濟、奚、契丹に詔を下し、道を分けてそれらを攻撃に向かわせた。

 四年、春正月。
 李世勣の軍が幽州に到着した。

 三月。
 帝が定州に到着すると、侍臣に言った。
「遼東はもともと中国の地です。隋は四度の出軍をしましたが、その地を得ることはできませんでした。朕は今、東征してかの地を中国とし、子弟の仇に報いようと思います。高句麗はただ君父の恥辱を濯ぐのみです。
 現在、世界は隅々に至るまで大いに定まり、ただ高句麗だけがまだ平定されていません。だからこそ、朕は老いる前に士大夫の余力を用い、かの地を取りたいと思います。」
 帝は定州を出発し、自ら弓矢を身に着け、自分の手で雨具を鞍の後ろに結びつけた。
 李世勣の軍は柳城を出発し、多勢で陣形を張って懷遠鎭に出撃させるように見せかけ、軍隊を潜伏させて北の甬道に向かわせ、我が国の不意を突こうとした。

 夏四月。
 世勣が通定から遼水を渡って玄菟に到着すると、我が国の城邑は大いに驚き、皆が門を閉ざして自らを守った。
 副大摠管の江夏王道宗が兵数千を率いて新城に到着すると、折衝都尉曹の三良が十騎余りを引き連れて、直接城門を圧伏した。城中の者たちは驚懼し、誰もそこから出ようとしなかった。
 營州都督の張儉が胡兵を率いて先鋒となり、遼水を渡って進軍した。建安城に押し寄せ、我が軍を撃破し、数千人を殺した。
 李世勣と江夏王の道宗は盖牟城を攻め、これを抜き、一二万人と糧十万石を奪い取り、その地を盖州とした。
 張亮は舟師を統帥し、東萊から海を渡り、卑沙城を襲撃した。城は四面が懸絶し、ただ西門だけ登ることができた。程名振は兵を引き連れて夜に到着し、副摠管の王大度が先に登った。

 五月。
 城が陥落し、男女八千口が没収された。
 李世勣は進軍して遼東の城下にたどり着き、帝は遼の沢にたどり着いた。しかし、泥濘(ぬかるみ)が二百里あまり続き、人馬が通ることはできない。そこで將作大匠の閻立德が土をばら撒いて橋を作り、軍は留まることなく行軍し、澤の東に渡った。
 王は新城を出発して國內城の步騎四万が遼東を救援した。江夏王の道宗は四千騎を率いてそれに抵抗した。軍中の皆が、深い溝と高い石塁に頼った方がよいとして、そのため天子が行幸するための車が到着するまで待機しようと考えたが、道宗は言った。
「賊は数の多さに恃んで我が心胆を軽んじ、遠征で疲労している。つまり、ここで攻撃すれば必ず破ることができる。今まさに路を清めて乗輿を待てば、更なる賊を君父の御前に遺すことになるぞ!」
 都尉馬文擧が言った。
「強敵と闘わずして、どうやって壮士であることを証明できようぞ!」
 馬を鞭打って奔擊し、向かうところ皆がそれに従い、衆心はようやく安んじられた。
 合戦が始まって行軍すると、摠管の張君乂が退走したので、唐兵は敗れ軍勢を挫かれた。道宗はバラバラに逃散した兵卒を集め、高所に登って我が国の軍陣が乱れているのを傍観し、驍騎数千とともに突撃した。李世勣は兵を引いてこれを助けた。我が軍大敗し、死者は千人余りである。
 帝は遼水を渡ると橋を撤去し、士卒の心を堅め、馬首山に駐軍した。江夏王道宗に労を賜り、馬文擧を中郞將に超拜し、張君乂を斬刑にした。
 帝は自ら数百騎を率い、遼東の城下に到着すると、士卒が土を背負って塹を埋めているのを見ると、その一番重いものをより分け、自分で馬上に持って運んだ。すると、従官は争って土を背負って城下に置くようになった。
 李世勣が遼東城を攻め、昼夜休むことなく十二日が経過した。帝は精兵を引いてそれに合流し、その城を数百里にわたって包囲して鼓噪し、その声が天地を震わせた。
 城には朱蒙の祠があり、祠には鎖かたびらと鋭利な銛矛が供えられていた。それらは前燕の治世の頃に天から降ったものだと妄言されていた。包囲網が差し迫ってくると、美女を飾り立てて女神として崇め奉った。
 巫女は言った。
「朱蒙は悦んでおられます。城は必ず完うすることでしょう。」
 李勣はいくつもの砲車を並列し、それで大石を飛ばすと、三百步先まで飛来して当たるところは悉くが押し潰された。城の者たちは皆をして木を積み上げて高樓を建て、それに大繩で網を結びつけて大石を防ごうとしたが、なんの効果もなかった。衝車を城壁にぶつけると、城屋までもが一気に粉砕された。
 この時、百濟は金髹鎧を献上していた。また、玄金を文鎧とし、士はそれを身に着けて従軍した。帝と李勣が出会ったとき、その甲は光り、眩しいほど日に照らされた。
 南風が強くなると、帝は銳卒を派遣して衝車の竿の先に登らせ、その西南の高樓を燃やさせた。火は城中まで延焼し、その隙をついて将士に指揮して城に登らせた。我が軍は力戦したが勝てず、死者は一万人余りに上った。勝兵一万人余り、男女四万口、糧五十万石が奪われ、その城は遼州となった。
 李世勣は白崖城の西南に進攻し、帝はその西北に臨んだ。城主の孫伐音は潜かに腹心を派遣して降服を要請し、城に臨んて刀鉞を投げ、文書を提出した。
「私めは降服しようと願ってはいるのですが、城中に従わない者がいるのです。」
 帝は唐の幟(のぼり)をその使者に渡して言った。
「本当に降服するというのであれば、これを城上に立てなさい。」
 孫代音が幟を立てると、城中の人は唐兵が既に城の上に登っているのだと思い込み、皆がこれに従った。
 帝が遼東で勝利したことで、白巖城も降服を請うたが、その後になって悔いて取りやめにした。帝はそのように反故にされたことに怒り、軍中に令を下した。
「この城を得れば、人や物をすべて戦士の恩賞にしましょう。」
 李世勣は帝に会見し、これからその城の降服を受け入れようとしていることについて、甲士数十人を伴って請願した。
「士卒が争って矢石の飛び交う危険を冒し、その死を顧みないのは、捕虜や戦利品を貪りたいがためです。今まさに城を陥落しようとしているというのに、どうして今更その降服を受け入れ、戦士の心を削ごうというのですか。」
 帝は馬を下りて謝罪した。
「将軍のおっしゃられておられることはまったくその通りです。ですが、兵を放って人を殺し、その妻や娘を虜にするなど、朕は耐えられないのです。将軍の麾下で功績がある者については、朕の庫物からそれらを恩賞致しますので、それによってこの一城に関しては賄っていただきたいと将軍にお願い申し上げます。」
 こうして李世勣は退いた。城中の男女一万口余りを得たが、川に臨んで幕屋を設け、その降服を受け入れると、そのままそれらに食を賜り、八十歳以上の者には帛を別に賜った。他の城の兵のうち白巖にいた者は、慰労と諭説を尽くして当面の食糧を給い、それらの自由に任せて解放した。
 その前のこと、遼東城の長史は部下に殺されてしまい、その省事がその妻子を匿い、白巖に奔走した。帝はその者に義があるを憐み、帛五匹を賜い、長史に任命して靈輿を造り、それを平壤に帰らせた。白巖城を巖州とし、孫代音を刺史に任命した。
 始め、莫離支は加尸城に七百人を派遣し、蓋牟城を脅しかけたが、李世勣は悉くそれらを虜にした。その人は従軍したいと自ら請い、付き随おうとしたので、帝は言った。
「あなたの家は皆加尸にあるでしょう。もしあなたが我が軍として戦えば、莫離支はあなたの妻子を殺すに違いありません。一人の力を得て、そのために一家を滅すなど、私にら耐えられない。」
 皆に下賜を与えて解放し、盖牟城を蓋州とした。
 帝は安市城にたどり着くと、進軍して攻め込んだ。北部耨薩の高延壽と南部耨薩の高惠眞は、我が軍と靺鞨兵十五万を統帥し、安市城を救援した。帝は侍臣に言った。
「今、高延壽に立てられる策は三つあるでしょう。
 兵を直前まで引いて安市城に連ね、石塁を立てて高山の険難を頼りとし、城中の粟を食糧としながら、靺鞨たちを出兵させて我が軍の牛馬を掠奪すれば、それを攻めてもすぐには下すことができず、帰ろうとすれば泥濘に阻まれ、その場にいながらにして我が軍を困らせる、これが上策です。
 城中の者たちと抜け出て、それらと共に宵に遁走する、これが中策です。
 知力も能力もそこまで至らず、我が軍と戦いに来る、これが下策です。
 さて、あなた方もよくあちらをご覧ください。彼らは必ず下策に出ます。かの者たちが捕縛される有様が、既に私の目の中には浮かんでおります。」
 高齢で経験豊富な高正義は時の對盧で、それが延壽に言った。
「秦王は内部には群雄を討ち滅ぼし、外には戎狄を服従させ、独立して帝となった……まさに命世の才である。今回はそれらを根拠として海内の衆を挙げて攻め込んできおった。敵うはずもなかろう。
 わしが計略を立てるとすれば……兵を待機させて戦わず、できるだけ長く持久戦に持ち込み、細かに兵を分けて奇襲に派遣し、その糧道を断つのが最もよいじゃろう。糧食が尽きて戦を続けることができなくなっても、帰路は失われている……こうすれば勝つことができる。」
 高延壽はそれに従わず、軍を引いて、安市城から四十里まで直進した。
 帝はそれらが低徊してこちらまで辿り着かないのではないかと考え、大将軍の阿史那社尒に突厥千騎を率いさせ、それを誘い込むように命じた。
 兵は交戦を始めると逃走を偽装した。高延壽は言った。
「まったくもって与し易し。」
 これに乗じて競って進軍し、安市城の東南八里まで辿り着くと、山に依拠して陣を立てた。
 帝が諸将の皆を召して計略を問うと、長孫無忌が答えた。
「私は『敵に臨んで戦いにあたれば、まずは必ず士卒の情を観察せよ。』と聞いております。私が適行しながら諸営を経て、士卒と会って高句麗が来たことを知らせると、皆が刀を抜いて旆を結び、表情は喜色に満ちておりました。これは必勝の兵にございます。陛下は戴冠される以前より、御自ら行陣なさり、奇策を講じて勝利を制してきたのは大体において、どれも聖上より授かった謀略、諸将はその成算を奉っていたに過ぎません。今日の件でも、陛下の指示に従いたいと乞いたく思います。」
 帝は笑った。
「あなた方がそのように譲られると言うのなら、朕があなた方のために戦略を立てることにしましょう。」
 こうして無忌たちを伴って数百騎を従え、高所に登って望み、山川の形勢から伏兵を置ける場所や出入りのできる場所を観察した。
 我が軍は靺鞨と兵を合わせて長さ四十里に亘る戦陣を立てた。
 帝はそれを望むと顔色に懼れを見せたが、江夏王道宗が言った。
「高句麗は国を傾けてまで王軍に抵抗しており、そのため平壤の守備は必ずや弱っておりましょう。
 願わくば私に精卒五千をお貸しいただき、その根本を覆してしまえば、数十萬の衆は戦わずして降服することになります。」
 帝はそれに応じず、高延壽を騙すために遣使した。
「我々はあなたの国の強臣がその主君を弑殺したので罪を問うために来て抗戦することになりましたが、これは我が本心ではありません。あなたの国に越境すると芻粟を得ることができなかったので、あなたの国の城をいくつか奪い取らざる得ませんでしたが、再度あなたの国が臣下の礼を修目るのであれば、失った職位や土地を元に戻しましょう。」
 高延壽はそれを信じ、設備を復せず。
 帝は夜に新羅の文武王を召して計略を立て、李世勣には步騎一万五千を率いて西嶺に陣を立てるように命じ、長孫無忌と牛進達には、精兵一万一千を率いて奇兵を結成し、山北から狹谷に出撃してその後側に就くよう命じた。帝は自ら步騎四千を率いて鼓角と旗幟を隠して山を登った。
 帝は諸軍に勅を下し、鼓角を聞かせ、一斉に出撃して奮闘し、これによって朝堂の側に戸張を幕して降服者を受け入れるよう役人に命じた。
 この夜、流星が高延壽の軍営に墜ちた。
 次の日の朝、高延壽たちは李世勣の軍が小勢で孤立しているのを見て、兵に勒を下して戰おうとした。
 帝は無忌軍が塵起するを望み見て、鼓角を作り、旗幟を揚げるように命じ、諸軍を鼓噪させて並んで進軍した。
 高延壽たちは恐懼し、それを抑え込むために兵を分けようとしたが、その戦陣は既に乱れていた。
 ちょうどその時、雷電が落ち、龍門人の薛仁貴が奇妙な服を顕示して大声で叫びながら戦陣を陥落させた。薛仁貴の向かうところ敵なし、我が軍はそれに蹴散らされた。
 大軍がそれに乗じ、我が軍は大潰した。死者三十二万人余り。
 帝は薛仁貴との会見に望み、遊擊將軍に任命した。
 高延壽たちは残った衆を率いて、山に依拠して自らを固守した。
 帝は諸軍にそれを包囲するように命じ、長孫無忌は悉く橋梁を撤収し、その帰路を断った。
 高延壽と高惠眞はその余衆三万六千八百人を率いて降服を請願し、軍門に入って拜礼して身を伏せ、命乞いをした。
 帝は耨薩以下官長三千五百人を中国の内地に遷し、残りの皆を従わせ、平壤に還らせた。靺鞨の三千三百人を収容し、その悉くを穴に埋め、馬五万匹、牛五万頭、明光鎧一万領、器械稱是などを獲得した。更には、行幸した山を駐驆山と名付けた。こうして高延壽を鴻臚卿に任命し、高惠眞を司農卿に任命した。
 帝は白巖に勝利すると李世勣に言った。
「私は『安市城は険難の地にあり兵は精強、その城主の村は才覚があり勇猛、しかし莫離支の乱にも城守は服せず、莫離支がそれを攻撃したが、下すことができなかった。今回の侵攻によって、ようやく莫離支の味方になった』と聞きました。
 翻って建安の兵は弱くて軍糧もすくない。もしその不意を突いて攻め込めば、必ず勝つことができるでしょう。あなたは先に建安を攻めてください。建安を下せば、安市は我が腹中にあるも同然です。これが兵法に謂われる『城に攻めざる所の者有り』です。」
 李世勣は答えた。
「建安は南にあり、安市は北にあります。そして、我が軍の糧は皆遼東にあります。今安市を越えて建安を攻めれば、麗人は我が糧道を断ってしまえば、どうすればよろしいのでしょう。先に安市に攻めた方がよいです。安市を下した後は、鼓行して建安を奪取するのみです。」
 帝は言った。
「あなたを将軍に任命したのです。どうしてあなたの策を用いないことがありましょうか。我が事を誤ることのないようにしてください。」
 李世勣はこうして安市に攻め込んだ。
 安市人は帝の旗蓋を望遠すると、すぐに城に登って出陣の太鼓を打ち鳴らしたので、帝は怒った。すると李世勣が、落城の日には男子全員を穴埋めにしたいと申し出た。
 安市人はそれを聞きてますます堅く守り、攻め込んでも長らく陥落しなかった。
 高延壽と高惠眞が帝に請願した。
 わたくしめはとっくに大国に身を委ねておりますゆえ、そちらに忠誠を誓って敢えて献策をしないなどということはありません。天子が早期に大功を成し、わたくしめも妻子と相見えたいと思うばかりでございます。
 安市人は自分たちの家を顧みて惜しみ、人々が自ら戦に参加しておりますので、まだまだすぐ簡単に陥落させることなどできません。そこでこれから、わたくしめが高句麗十数万の衆を率い、その旗が潰敗するのを望遠させ、国民の肝を破ります。
 烏骨城の耨薩は老人で、堅守することなどできません。兵を移してそちらに臨み、朝に着けば夕べには勝てるでしょう。その余衆が道中の小城に当たれば、必ずその流れを見ただけで奔潰します。こうした後にその資糧を収奪し、太鼓を打ち鳴らしながら前進すれば、平壤は必ず守備しきれません。」
 また群臣も言った。
「張亮の兵は沙城におり、それを召喚して、二晩も宿営すれば辿り着くことができるでしょう。高句麗の恐怖に乗じ、力を併せて烏骨城を抜き、鸭渌水を渡れば、直ちに平壤を奪取して、今回の挙兵は終わりです。」
 帝がまさにそれに従おうとしたが、長孫無忌独りだけが思案した。
「天子の親征は諸将のそれと異なり、危に乗じてまぐれ当たりの幸運を望むものではありません。現在の建安と新城の虜衆は、まだ十万人を超えます。烏骨に向かい、皆が我が後を追いかけるより、先に安市を破った方がよいでしょう。まずは建安を取り、然る後に長馬を駆けてして進軍してこそ、万全の策だと言えます。
 帝はそれを取り止め、諸将は急いで安市に攻め込んだ。帝は城中から雞や彘の声を聞き、李世勣に言った。
「城を包囲して随分と久しいですが、城中からの煙や火は、日に日にすくなくなってきました。それなのに今、鷄や彘が非常に騒がしく鳴いています。これは士が饗宴を開いているに間違いありません。夜に出撃して我が軍を襲撃しようとしているのです。兵に厳戒させ、それに備えさせてください。」
 その夜、我が軍の数百人が城にしがみ付きながら下り立った。帝はそれを聞いて自ら城下に就き、兵を招集して急擊した。我が軍の死者は数十人、残りの軍は退走した。
 江夏王の道宗が衆を監督して土山を城の東南隅に築き、その城に侵迫した。城中もまたその城高を増築し、それに抵抗した。
 士卒は当番を分けて交代しながら日に六七回交戦した。衝車と礮石がその樓堞を壊し、城中の人々は木柵を立て、その欠けたところを塞いだ。道宗がその時に足を負傷し、帝が自らそれを針で縫った。
 山を築くには昼夜休むことなく約六十日、土功には五万人を用いた。山頂は城より数丈も高く、下に城中を臨んだ。
 道宗は果毅の傅伏愛に兵を率いさせて山頂に駐屯させ、それによって敵に備えた。山が崩れて城を圧迫し、城は倒壊したが、ちょうどその時、傅伏愛は私事で自らの持ち場を離れていた。我が軍の数百人は城の欠部に従って出戦し、遂に據土山を奪って塹を掘ってそれを守備した。
 帝は怒り、傅伏愛を斬刑に処して晒しものとした。諸将にそれを攻めるように命じたが、三日経っても勝てなかった。道宗が裸足で旗下を訪ね、罪を請うたが帝は言った。
「あなたの罪は死罪に相当します。
 ただ、朕は漢の武帝が王恢を殺したことをもって、秦の穆公が孟明を用いたことに如かないと考えます。それに、盖牟を破ったという遼東での功積があります。ですので、あなたを特別に赦すだけです。」
 帝は遼左が早くも寒くなり、草は枯れて川が凍結したために、士馬を長期的に滞留させるのは困難だと判断し、しかも糧食が尽きようとしていたので、軍を引き返させるように勅を下した。
 先に遼州と盖州の二州の戸口を抜き出して遼州を渡らせ、そのまま安市の城下に兵の威光を示しながら周囲を一回りすると、城中の皆が退いて出撃できなかった。城主が城を登って言葉を告げて拝礼すると、帝はその固守を高く評価し、縑を百疋を賜い、よく君に仕えるようにと励ました。
 李世勣と道宗に步騎四万を率いて殿をするように命じ、遼東に着くと遼水を渡ったが、遼州の沢は泥沼になっていたので、車馬を通せなかった。長孫無忌に一万人を率いるように命じ、草を刈らせて道を埋めさせ、水の深い場所には、車を用いて梁を架け、帝自ら馬の鞍鞘に薪にして、その労役を助けた。

 冬十月。
 帝は蒲溝にたどり着くと馬を駐留させ、道を埋める工事を監督した。諸軍は渤錯水を渡ったが、暴風が吹き荒れ雪が降り注ぎ、士卒は沾濕して死者も多く、勅を下して道で火を燃やしてそれを待った。
 今回の遠征では、おおよそ玄菟、橫山、盖牟、磨米、遼東、白岩、卑沙、夾谷、銀山、後黃の十城を抜き、遼州、盖州、岩州の三州の戸口を移住させ、中国に入れたのは七万人であった。高延壽は自ら降服した後、いつも憤歎し、ついに憂死してしまったが、高惠眞は結局長安までたどり着いた。
 新城、建安、駐蹕での三つの大戦では、我が軍と唐の兵馬、ともに死亡者は非常に多かった。
 それなのに帝は成功することができなかったので、深くそれを後悔して嘆じた。
「魏徵がもし生きておれば、私にこのような行軍をさせなかったであろう。」

 本件について論じよう。
 唐の太宗は聖明にして不世出の君主である。世の戦乱を収めるにあたっては古の聖人である殷湯王や周武王に比するべきであり、道理に基づいた正しき統治を行うにあたっては周の成王や康王に匹敵するもので。用兵に際して奇策を出せば際限がなく、向かうところ敵無しであった。
 それなのに東征の功は安市の敗北で挫かれた。してみればその城主は、豪傑であり非常の者と謂うべきであろう。それなのに史官はその姓名を失した。これは楊子の言うところの「齊魯の大臣、史官はその名を失す。」と異なることがないではないか。まったくもって惜しむべきことである。

 五年、春二月。
 太宗は京師に帰還すると、李靖に言った。
「私は天下の衆を率いたのに、小夷に挫かれてしまいました。一体どうしてでしょうか。」
 李靖は言った。
「それは道宗が理解しておられるでしょう。」
 振り返って帝が道宗に問うと、駐蹕にいた時、虚に乗じて平壤を奪取しようと言ったことについて、それを詳細に説明した。
 帝は悵然とした。
「あの時は慌ただしかったので、私はまったくそのことを憶えていません。」

 夏五月。
 王と莫離支の蓋金が遣使して謝罪し、併せてふたりの美女を献上したが、帝はそれを還し、使者に言った。
「色欲は人が重視するところですが、それでも彼女たちが親戚を元を去ったことによる感傷を憫れんでみれば、私は受け取ることができません。」

 東明王母の塑像が三日間、血の涙を流した。

 遡ってみれば、これから帝が中国に帰還しようとしていた時、帝は弓服を盖蘇文に下賜したが、それを受け取って誤ることもなく、しかもそのまま、ますます驕り高ぶり好き放題にふるまった。
 遣使して表を奉ったとはいえ、その言葉はどれも口から出まかせを並べ立て、しかも唐の使者を傲慢に待遇し、常にその隙を窺うばかりであった。頻繁に新羅を攻めるなと勅令したが、侵凌を止めることもない。
 太宗はその朝貢を受け取るなと詔を下し、更に合議をして、盖蘇文を討つことにした。

 三國史記 卷第二十一

 

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≪白文≫
三國史記
卷二十一 高句麗本紀 第九

寶藏王上

 王、諱藏、或云寶藏、以失國故無諡。
 建武王弟大陽王之子也。
 建武王在位第二十五年、蓋蘇文弑之、立藏繼位。
 新羅謀伐百濟、遣金春秋乞師、不從。

 二年、春正月。
 封父為王。
 遣使入唐朝貢。

 三月。
 蘇文告王曰、
 三敎譬如鼎足、闕一不可。
 今儒釋並興、而道敎未盛、非所謂備天下之道術者也。
 伏請遣使於唐、求道敎以訓國人。
 大王深然之、奉表陳請。
 太宗遣道士叔達等八人、兼賜老子道德經。
 王喜、取僧寺館之。

 閏六月。
 唐太宗曰、
 蓋蘇文弑其君、而專國政、誠不可忍。
 以今日兵力、取之不難、但不欲勞百姓、吾欲使契丹、靺鞨擾之、何如。
 長孫無忌曰、
 蘇文自知罪大、畏大國之討、嚴設守備。
 陛下姑為之隱忍、彼得以自安、必更驕惰、愈肆其惡、然後討之、未晚也。
 帝曰、
 善。
 遣使持節備禮冊命、詔曰、
 懷遠之規、前王令典、繼世之義、列代舊章。
 高句麗國王藏、器懷昭敏、識宇詳正、早習禮敎、德義有聞。
 肇承藩業、誠款先著、宜加爵命、允玆故實、可上柱國遼東郡王高句麗王。

 秋九月。
 新羅遣使於唐言、
 百濟攻取我四十餘城、復與高句麗連兵、謀絶入朝之路。
 乞兵救援。

 十五日。
 夜明不見月。
 衆星西流。

 三年、春正月。
 遣使入唐朝貢。
 帝命司農丞相里玄奬、賚璽書賜王曰、
 新羅委質國家、朝貢不乏、爾與百濟、各宜戢兵。
 若更攻之、明年發兵、擊爾國矣。
 玄奬入境、蓋蘇文已將兵擊新羅、破其兩城。
 王使召之、乃還。
 玄奬諭以勿侵新羅、蓋蘇文謂玄奬曰、
 我與新羅、怨隙已久。
 往者、隋人入寇、新羅乘釁、奪我地五百里、其城邑皆據有之。
 自非歸我侵地、兵恐未能已。
 玄奬曰、
 旣往之事、焉可追論。
 今遼東諸城、本皆中國郡縣、中國尚且不言、高句麗豈得必求故地。
 莫離支竟不從。
 玄奬還、具言其狀。
 太宗曰、
 蓋蘇文弑其君、賊其大臣、殘虐其民、今又違我詔命、侵暴鄰國、不可以不討。

 秋七月。
 帝將出兵、勅、
 洪、饒、江三州、造四百艘、以載軍糧。
 遣營州都督張儉等、帥幽、營二都督兵、及契丹、奚、靺鞨、先擊遼東、以觀其勢。
 以大理卿韋挺、爲餽輸使、自河北諸州、皆受挺節度、聽以便宜從事。
 又命少卿蕭銳、轉河南諸州糧入海。

 九月。
 莫離支貢白金於唐。
 楮遂良曰、
 莫離支弑其君、九夷所不容。
 今將討之、而納其金、此郜鼎之類也、臣謂不可受。
 帝從之。
 使者又言、
 莫離支遣官五十、入宿衛。
 帝怒謂使者曰、
 汝曹皆事高武、有官爵、莫離支弑逆、汝曹不能復讎、今更為之遊說、以欺大國、罪孰大焉。
 悉以屬大理。

 冬十月。
 平壤雨色赤。
 帝欲自將討之、召長安耆老、勞曰、
 遼東、故中國地、而莫離支賊殺其主、朕將自行經略之。
 故與父老約、子若孫從我行者、我能拊循之、無容恤也。
 則厚賜布粟。
 群臣皆勸帝毋行。
 帝曰、
 吾知之矣、去本以趣末、捨高以取下、釋近而之遠、三者為不祥、伐高句麗、是也。
 然蓋蘇文弑君、又戮大臣以逞、一國之人、延頸待救、議者顧未亮耳。
 於是、北輸粟營州、東儲粟古大人城。

 十一月。
 帝至洛陽。
 前宜州刺史鄭天璹、已致仕、帝以其嘗從隋煬帝伐高句麗、召詣行在問之。
 對曰、
 遼東道遠、糧轉艱阻、東夷善守城、不可猝下。
 帝曰、
 今日非隋之比、公但聽之。
 以刑部尚書張亮、為平壤道行軍大摠管、帥江、淮、嶺、硤兵四萬、長安、洛陽募士三千、戰艦五百艘、自東州泛海、趣平壤。
 又以太子詹事左衛率李世勣、為遼東道行軍大摠管、帥步騎六萬、及蘭、河二州降胡、趣遼東。
 兩軍合勢、大集於幽州。
 遣行軍摠管姜行本、少監丘行淹、先督衆士、造梯衝於安羅山。
 時、遠近勇士應募、及獻攻城器械者、不可勝數。
 帝皆親加損益、取其便易。
 又手詔諭天下、
 以高句麗蓋蘇文、弑主虐民、情何可忍。
 今欲巡幸幽薊、問罪遼碣。
 所過營頓、無為勞費。
 且言、
 昔、隋煬帝殘暴其下、高句麗王、仁愛其民。
 以思亂之軍、擊安和之衆、故不能成功。
 今略言必勝之道有五、
 一曰、以大擊小。
 二曰、以順討逆。
 三曰、以理乘亂。
 四曰、以逸敵勞。
 五曰、以悅當怨。
 何憂不克。
 布告元元、勿為疑懼。
 於是、凡頓舍供備之具、減者太半。
 詔諸軍及新羅、百濟、奚、契丹、分道擊之。

 四年、春正月。
 李世勣軍、至幽州。

 三月。
 帝至定州、謂侍臣曰、
 遼東本中國之地、隋氏四出師、而不能得。
 朕今東征、欲爲中國、報子弟之讎、高句麗雪君父之恥耳。
 且方隅大定、唯此未平、故及朕之未老、用士大夫餘力、以取之。
 帝發定州、親佩弓矢、手結雨衣於鞍後。
 李世勣軍發柳城、多張形勢、若出懷遠鎭者、而潛師北趣甬道、出我不意。

 夏四月。
 世勣自通定、濟遼水、至玄菟、我城邑大駭、皆閉門自守。
 副大摠管江夏王道宗、將兵數千、至新城、折衝都尉曹三良、引十餘騎、直壓城門、城中驚懼、無敢出者。
 營州都督張儉、將胡兵為前鋒、進度遼水、趨建安城、破我兵、殺數千人。
 李世勣、江夏王道宗、攻盖牟城、拔之、獲一二萬人、糧十萬石、以其地為盖州。
 張亮帥舟師、自東萊度海、襲卑沙城。
城四面懸絶、惟西門可上。
 程名振引兵夜至、副摠管王大度先登。

 五月。
 城陷、男女八千口沒焉。
 李世勣進至遼東城下。
 帝至遼澤、泥淖二百餘里、人馬不可通。
 將作大匠閻立德、布土作橋、軍不留行、度澤東。
 王發新城、國內城步騎四萬、救遼東。
 江夏王道宗、將四千騎逆之、軍中皆以為衆寡懸絶、不若深溝高壘、以待車駕之至。
 道宗曰、
 賊恃衆有輕我心、遠來疲頓、擊之必敗。
 當淸路以待乘輿、乃更以賊遺君父乎。
 都尉馬文擧曰、
 不遇勍敵、何以顯壯士。
 策馬奔擊、所向皆靡。
 衆心稍安、旣合戰、行軍摠管張君乂退走、唐兵敗衄。
 道宗收散卒、登高而望見、我軍陣亂、與驍騎數千衝之。
 李世勣引兵助之、我軍大敗、死者千餘人。
 帝度遼水、撤橋以堅士卒之心、軍於馬首山。
 勞賜江夏王道宗、超拜馬文擧中郞將、斬張君乂。
 帝自將數百騎、至遼東城下、見士卒負土塡塹、帝分其尤重者、於馬上持之、從官爭負土置城下。
 李世勣攻遼東城、晝夜不息、旬有二日。
 帝引精兵會之、圍其城數百里、鼓噪聲振天地。
 城有朱蒙祠、祠有鎖甲銛矛。
 妄言前燕世天所降。
 方圍急、飾美女以婦神、巫言、
 朱蒙悅、城必完。
 勣列砲車、飛大石過三百步、所當輒潰。
 吾人積木為樓、結絙網、不能拒、以衝車撞陴屋碎之。
 時、百濟上金髹鎧、又以玄金爲文鎧、士被以從。
 帝與勣會、甲光炫日。
 南風急、帝遣銳卒、登衝竿之末、熱其西南樓。
 火延燒城中、因揮將士登城。
 我軍力戰不克、死者萬餘人。
 見捉勝兵萬餘人、男女四萬口、糧五十萬石、以其城為遼州。
 李世勣進攻白崖城西南、帝臨其西北。
 城主孫伐音、潛遣腹心請降、臨城投刀鉞爲信、曰、
 奴願降、城中有不從者。
 帝以唐幟與其使曰、
 必降者、宜立之城上。
 代音立幟、城中人以為唐兵已登城、皆從之。
 帝之克遼東也、白巖城請降、旣而中悔。
 帝怒其反覆、令軍中曰、
 得城、當悉以人物、賞戰士。
 李世勣見帝將受其降、帥甲士數十人、請曰、
 士卒所以爭冒矢石、不顧其死者、貪虜獲耳。
 今城垂拔、奈何更受其降、孤戰士之心。
 帝下馬謝曰、
 將軍言是也。
 然縱兵殺人、而虜其妻孥、朕所不忍。
 將軍麾下有功者、朕以庫物賞之、庶因將軍贖此一城。
 世勣乃退、得城中男女萬餘口、臨水設幄、受其降、仍賜之食、八十已上、賜帛有差。
 他城之兵在白巖者、悉慰諭給糧仗、任其所之。
 先是、遼東城長史、為部下所殺、其省事奉其妻子、奔白巖。
 帝憐其有義、賜帛五匹、為長史造靈輿、歸之平壤。
 以白巖城為巖州、以孫代音為刺史。
 初、莫離支遣加尸城七百人、戍蓋牟城、李世勣盡虜之。
 其人請從軍自效。
 帝曰、
 汝家皆在加尸、汝為我戰、莫離支必殺汝妻子。
 得一人之力、而滅一家、吾不忍也。
 皆稟賜遣之。
 以盖牟城為蓋州。
 帝至安市城、進兵攻之。
 北部耨薩高延壽、南部耨薩高惠眞、帥我軍及靺鞨兵十五萬、救安市。
 帝謂侍臣曰、
 今為延壽策有三。
 引兵直前、連安市城為壘、據高山之險、食城中之粟、縱靺鞨掠吾牛馬、攻之不可猝下、欲歸則泥潦爲阻、坐困吾軍、上策也。
 拔城中之衆、與之宵遯、中策也。
 不度智能、來與吾戰、下策也。
 卿曹觀之、彼必出下策、成擒在吾目中矣。
 時、對盧高正義年老習事、謂延壽曰、
 秦王内芟羣雄、外服戎狄、獨立為帝、此命世之才。
 今據擧海內之衆而來、不可敵也。
 為吾計者、莫若頓兵不戰、曠日持久、分遣奇兵、斷其糧道。
 糧食旣盡、求戰不得、欲歸無路、乃可勝。
 延壽不從、引軍直進、去安市城四十里。
 帝恐其低徊不至、命大將軍阿史那社尒、將突厥千騎以誘之。
 兵始交而僞走、延壽曰、
 易與耳。
 競進乘之、至安市城東南八里、依山而陣。
 帝悉召諸將問計。
 長孫無忌對曰、
 臣聞、臨敵將戰、必先觀士卒之情。
 臣適行經諸營、見士卒聞高句麗至、皆拔刀結旆、喜形於色。
 此必勝之兵也。
 陛下未冠、身親行陣。
 凡出奇制勝、皆上稟聖謀、諸將奉成筭耳。
 今日之事、乞陛下指蹤。
 帝笑曰、
 諸公以此見讓、朕當為諸公商度。
 乃與無忌等、從數百騎、乘高望之、觀山川形勢、可以伏兵及出入之所。
 我軍與靺鞨合兵為陣、長四十里。
 帝望之、有懼色。
 江夏王道宗曰、
 高句麗傾國以拒王師、平壤之守必弱。
 願假臣精卒五千、覆其本根、則數十萬之衆、可不戰而降。
 帝不應。
 遣使紿延壽曰、
 我以爾國强臣弑其主、故來問罪、至於交戰、非吾本心。
 入爾境、芻粟不給、故取爾數城、俟爾國修臣禮、則所失必復矣。
 延壽信之、不復設備。
 帝夜召文武計事、命李世勣將步騎萬五千、陣於西嶺、長孫無忌、牛進達、將精兵萬一千、為奇兵、自山北出於狹谷、以衝其後、帝自將步騎四千、挾鼓角、偃旗幟、登山。
 帝勅諸軍、聞鼓角、齊出奮擊。
 因命有司、張受降幕於朝堂之側。
 是夜、流星墜延壽營。
 旦日、延壽等、獨見李世勣軍小、勒兵欲戰。
 帝望見無忌軍塵起、命作鼓角、擧旗幟、諸軍鼓噪並進。
 延壽等懼、欲分兵禦之、而其陣已亂。
 會、有雷電、龍門人薛仁貴、著奇服、大呼陷陣、所向無敵、我軍披靡。
 大軍乘之、我軍大潰、死者三二萬餘人。
 帝望見仁貴、拜遊擊將軍。
 延壽等將餘衆、依山自固。
 帝命諸軍圍之、長孫無忌悉撤橋梁、斷其歸路。
 延壽、惠眞、帥其衆三萬六千八百人、請降、入軍門、拜伏請命。
 帝簡耨薩已下官長三千五百人遷之內地、餘皆縱之、使還平壤、收靺鞨三千三百人、悉坑之。
 獲馬五萬匹、牛五萬頭、明光鎧萬領、它器械稱是。
 更名所幸山、曰駐驆山。
以高延壽爲鴻臚卿、高惠眞為司農卿。
 帝之克白巖也、謂李世勣曰、
 吾聞、安市城險而兵精、其城主村材勇、莫離支之亂、城守不服、莫離支擊之、不能下、因而與之。
 建安兵弱而糧小、若出其不意、攻之必克。
 公可先攻建安、建安下、則安市在吾腹中。
 此兵法所謂'城有所不攻者'也。
 對曰、
 建安在南、安市在北、吾軍糧皆在遼東。
 今踰安市、而攻建安、若麗人斷吾糧道、將若之何。
 不如先攻安市、安市下、則鼓行而取建安耳。
 帝曰、
 以公為將、安得不用公策、勿誤吾事。
 世勣遂攻安市。
 安市人望見帝旗蓋、輒乘城鼓噪、帝怒。
 世勣請克城之日、男子皆坑之。
 安市人聞之、益堅守、攻久不下。
 高延壽、高惠眞請於帝曰、
 奴旣委身大國、不敢不獻其誠。
 欲天子早成大功、奴得與妻子相見。
 安市人顧惜其家、人自為戰、未易猝拔。
 今、奴以高句麗十餘萬衆、望旗沮潰、國人膽破。
 烏骨城耨薩老耄、不能堅守、移兵臨之、朝至夕克、其餘當道小城、必望風奔潰。
 然後收其資糧、鼓行而前、平壤必不守矣。
 羣臣亦言、
 張亮兵在沙城、召之、信宿可至。
 乘高句麗忷懼、倂力拔烏骨城、度鸭渌水、直取平壤、在此擧矣。
 帝將從之、獨長孫無忌以為天子親征、異於諸將、不可乘危徼幸、今建安、新城之虜衆、猶十萬、若向烏骨、皆躡吾後、不如先破安市、取建安、然後長驅而進、此萬全之策也。
 帝乃止。
 諸將急攻安市。
 帝聞城中雞彘聲、謂世勣曰、
 圍城積久、城中烟火日微、今鷄彘甚喧、此必饗士、欲夜出襲我、宜嚴兵備之。
 是夜、我軍數百人、縋城而下。
 帝聞之、自至城下、召兵急擊。
 我軍死者數十人、餘軍退走。
 江夏王道宗、督衆築土山於城東南隅、侵逼其城。
 城中亦增高其城、以拒之。
 士卒分番、交戰日六七合。
 衝車、礮石、壞其樓堞、城中隨立木柵、以塞其缺。
 道宗傷是足、帝親為之針。
 築山、晝夜不息、凡六旬、用功五十萬。
 山頂去城數丈、下臨城中。
 道宗使果毅傅伏愛、將兵屯山頂、以備敵。
 山頹壓城、城崩。
 會、伏愛私離所部、我軍數百人、從城缺出戰、遂奪據土山、塹而守之。
 帝怒、斬伏愛以徇、命諸將攻之、三日不能克。
 道宗徒跣詣旗下、請罪。
 帝曰、
 汝罪當死、但朕以漢武殺王恢、不如秦穆用孟明、且有破盖牟、遼東之功、故特赦汝耳。
 帝以遼左早寒、草枯水凍、士馬難久留、且糧食將盡、勅班師。
 先拔遼、盖二州戶口、度遼、乃耀兵於安市城下而旋、城中皆屛跡不出。
 城主登城拜辭、帝嘉其固守、賜縑百疋、以勵事君。
 命世勣、道宗、將步騎四萬為殿、至遼東度遼水。
 遼澤泥潦、車馬不通。
 命無忌、將萬人、翦草塡道、水深處、以車為梁、帝自薪於馬鞘、以助役。

 冬十月。
 帝至蒲溝駐馬、督塡道。
 諸軍度渤錯水、暴風雪、士卒沾濕多死者。
 勅燃火於道以待之。
 凡拔玄菟、橫山、盖牟、磨米、遼東、白岩、卑沙、夾谷、銀山、後黃十城、徙遼、盖、岩三州戶口、入中國者七萬人。
 高延壽自降後、常憤歎、尋以憂死、惠眞竟至長安。
 新城、建安、駐蹕三大戰、我軍及唐兵馬死亡者、甚衆。
 帝以不能成功、深悔之。
 嘆曰、
 魏徵若在、不使我有是行也。

 論曰、
 唐太宗、聖明不世出之君。
 除亂比於湯、武、致理幾於成、康。
 至於用兵之際、出奇無窮、所向無敵。
 而東征之功、敗於安市、則其城主、可謂豪傑非常者矣。
 而史失其姓名、與楊子所云、
 齊、魯大臣、史失其名。
 無異。
 甚可惜也。

 五年、春二月。
 太宗還京師、謂李靖曰、
 吾以天下之衆、困於小夷、何也。
 靖曰、
 此、道宗所解。
 帝顧問道宗、具陳、在駐蹕時、乘虛取平壤之言。
 帝悵然曰、
 當時悤悤、吾不憶也。

 夏五月。
 王及莫離支蓋金、遣使謝罪、幷獻二美女。
 帝還之、謂使者曰、
 色者人所重、然憫其去親戚以傷乃心、我不取也。
 東明王母塑像、泣血三日。
 初、帝將還、帝以弓服賜盖蘇文、受之不謝、而又益驕恣。
 雖遣使奉表、其言率皆詭誕、又待唐使者倨傲、常窺伺邊隙。
 屢勅令不攻新羅、而侵凌不止。
 太宗詔勿受其朝貢、更議討之。

 三國史記 卷第二十一
≪書き下し文≫
三國史記
卷二十一 高句麗本紀 第九

寶藏王上

 王、諱は藏、或(あるいは)寶藏と云ひ、國を失するを以て故に諡(おくりな)無し。
 建武王の弟大陽王の子なり。
 建武王の在位第二十五年、蓋蘇文之れを弑(しい)し、藏を立て位を繼ぐ。
 新羅百濟を伐たむと謀り、金春秋を遣りて師を乞ふも、從はず。

 二年、春正月。
 父を封じて王と為す。
 遣使して唐に入らせ朝貢す。

 三月。
 蘇文王に告げて曰く、
 三敎は譬ふれば鼎足の如し。
 一を闕(か)くるは可ならず。
 今、儒釋は並び興るも、而るに道敎未だ盛(さかん)ならず、天下の道術者を備(ととの)ふると謂へる所に非らざるなり。
 伏して唐に遣使せしめ、道敎を求めて以て國人を訓(おし)へむことをを請へり、と。
 大王深く之れを然りとし、表を奉り請(たのみ)を陳(の)ぶ。
 太宗は道士叔達等八人を遣り、兼ねて老子道德經を賜へり。
 王喜び、僧寺を取りて之れを館す。

 閏六月。
 唐の太宗曰く、
 蓋蘇文は其の君を弑(しい)し、而りて國政を專(もっぱら)にし、誠に忍ぶ可からず。
 今日の兵力を以て之れを取るは難にあらず。
 但し百姓を勞(いたつ)くことを欲せず、吾は契丹、靺鞨をして之れを擾(みだ)さむと欲す、何如(いかん)、と。
 長孫無忌曰く、
 蘇文自ら罪の大いなるを知り、大國の討を畏れ、嚴しく守備を設す。
 陛下姑(しばら)く之れに隱忍を為さば、彼は以て自安を得、必ず更に驕惰たり。
 愈(いよいよ)其の惡を肆(ほしいまま)にし、然る後に之れを討てども、未だ晚(おそ)からざるなり、と。
 帝曰く、
 善(よし)、と。
 使持節を遣り禮を備(ととの)へて冊命し、詔(みことのり)して曰く、
 懷遠の規、前王の令典たり。
 繼世の義、列代の舊(ふる)き章(おきて)たり。
 高句麗國王の藏、器(うつわ)は懷(したは)しく昭敏、識は宇(たか)く正を詳(つまびらか)にし、禮敎を早く習ひ、德義に聞(ほまれ)有り。
 肇(ここ)に藩業を承(う)け、誠款は先著たり。
 宜しく爵命を加へ、玆(ここ)に故實を允(ゆる)し、上柱國遼東郡王高句麗王を可(ゆる)す、と。

 秋九月。
 新羅唐に遣使して言ふ。
 百濟我が四十餘城を攻め取り、復(ま)た高句麗と兵を連ね、入朝の路を絶たむと謀る。
 兵の救援を乞ふ、と。

 十五日。
 夜明らかにして月見えず。
 衆星西に流る。

 三年、春正月。
 遣使して唐に入らせ朝貢す。
 帝は司農丞相の里玄奬に命じ、璽書を賚(たま)ひ王に賜ひて曰く、
 新羅は國家に委質し、朝貢乏(か)くことなし。
 爾(なんじ)と百濟、各(おのおの)宜しく兵を戢(や)むべし。
 若し更に之れを攻むれば、明年に兵を發(はな)ち、爾の國を擊つ、と。
 玄奬入境すれば、蓋蘇文已に兵を將(ひき)いて新羅を擊ち、其の兩城を破る。
 王使之れを召して、乃ち還る。
 玄奬諭して以て新羅を侵すこと勿からしめむとするも、蓋蘇文玄奬に謂ひて曰く、
 我と新羅、怨(うらみ)隙(ひびわれ)ること已に久し。
 往者(かつて)、隋人入寇す。
 新羅釁(すき)に乘じ、我が地五百里を奪ひ、其の城邑皆據(よ)ること之れ有り。
 自ら侵地を我に歸するに非ざれば、兵未だ能はざるを恐るのみ。
 玄奬曰く、
 旣往の事、焉ぞ論を追ふ可きか。
 今の遼東の諸城、本(もともと)皆中國の郡縣なれども、中國尚ほ且つ言はず。
 高句麗豈に必ず故地を求むるを得るや。
 莫離支竟に從はず。
 玄奬還り、具(つぶさ)に其の狀を言ふ。
 太宗曰く、
 蓋蘇文其の君を弑し、其の大臣を賊し、其の民を殘虐し、今又た我が詔命に違ひ、鄰國を侵暴す。
 以て討たざる可からず、と。

 秋七月。
 帝將に兵を出ださむとして洪饒江の三州に勅す。
 四百艘を造り、以て軍糧を載く、と。
 營州都督張儉等を遣り、幽營二都督の兵及び契丹、奚、靺鞨を帥いせしめ、先ず遼東を擊ち、以て其の勢を觀ゆ。
 大理卿韋挺を以て、餽輸使と爲し、河北諸州より、皆挺節度を受け、便宜從事を以て聽(ゆる)す。
 又た少卿蕭銳に命じ、河南諸州の糧を轉(はこ)ばせ海に入らせしむ。

 九月。
 莫離支白金を唐に貢ぐ。
 楮遂良曰く、
 莫離支其の君を弑し、九夷の容らざる所なり。
 今將に之れを討たむとするとき、而りて其の金を納むるは、此れ郜鼎の類なり。
 臣受くる可からずと謂ふ、と。
 帝之れに從ふ。
 使者又た言ふ。
 莫離支は官五十を遣り、宿衛に入らせしむ、と。
 帝怒りて使者に謂ひて曰く、
 汝曹皆高武に事へ、官爵有り。
 莫離支弑逆するも、汝曹復讎に能はず。
 今更之の為に遊說し、以て大國を欺くは、罪孰ること大なるぞ、と。
 悉く以て大理に屬す。

 冬十月。
 平壤の雨色赤し。
 帝自ら將に之れを討たむと欲し、長安の耆老を召し、勞ひて曰く、
 遼東、故(ふる)くは中國の地、而れども莫離支其の主を賊殺し、朕は將に自ら經(みち)を行き之れを略さむ。
 故に父老と約す。
 子若孫の我の行くに從ふ者、我の之れを能く拊循す。
 容恤すること無かれ、と。
 則ち厚く布粟を賜ふ。
 群臣皆帝に行くこと毋(なか)れと勸む。
 帝曰く、
 吾之れを知れり。
 本を去るを以て末に趣き、高を捨て以て下を取るは、近を釋(はな)れて遠きに之(ゆ)く、三者を不祥と為す。
 高句麗を伐つは、是れなり。
 然れども蓋蘇文君を弑し、又た大臣を戮するに逞を以てし、一國の人、頸を延ばして救(すくひ)を待ち、議者は顧みて未だ亮(わか)らざるのみ。
 是に於いて、北は粟を營州に輸し、東は粟を古大人城に儲(たくわ)ゆ。

 十一月。
 帝洛陽に至る。
 前宜州刺史の鄭天璹、已に仕を致し、帝其の嘗て隋の煬帝に從ひ高句麗を伐つを以て、召して行在るを詣(たず)ね之れを問ふ。
 對へて曰く、
 遼東の道は遠く、糧轉(はこ)ぶに艱(けわしき)阻む、東夷善く城を守り、猝(にわか)に下す可からず。
 帝曰く、
 今日、隋の比に非ず。
 公但だ之れを聽け。
 刑部尚書張亮を以て、平壤道行軍の大摠管と為し、江、淮、嶺、硤兵四萬、長安、洛陽募士三千、戰艦五百艘を帥(す)べさせ、東州より海を泛(わた)り、平壤に趣むかせしむ。
 又た太子詹事左衛率李世勣を以て、遼東道行軍の大摠管と為し、步騎六萬及び蘭河の二州と降胡を帥べさせ、遼東に趣かせしむ。
 兩軍勢を合はせ、大いに幽州に集ふ。
 行軍摠管姜行本、少監丘行淹を遣り、先ず衆士を督(みは)らせ、梯衝を安羅山にて造らしむ。
 時に遠近の勇士の應募及び攻城に獻ずる器械の者、數に勝へる可からず、と。
 帝皆親(みずか)ら損益を加へ、其の便易を取る。
 又た手(てずから)天下に詔諭し、
 以て高句麗蓋蘇文、主を弑し民を虐し、情何を忍ぶ可きか。
 今幽薊を巡幸し、遼碣を問罪するを欲す。
 營頓の過ぐる所、勞費を為すこと無かれ、と。
 且つ言ふ、
 昔、隋の煬帝は其の下を殘暴し、高句麗王、其の民を仁愛す。
 思亂の軍を以て、安和の衆を擊つ、故に成功に能はず。
 今必勝の道を略言して五(いつつ)有り、
 一に曰、大を以て小を擊つ。
 二に曰く、順を以て逆を討つ。
 三に曰く、理を以て亂に乘ず。
 四に曰く、逸を以て勞に敵ふ。
 五に曰く、悅を以て怨に當たる。
 何を克たざるを憂ふか。
 布告元元、疑懼を為すこと勿れ。
 是に於いて、凡そ頓舍供備の具、減る者太半す。
 諸軍及び新羅、百濟、奚、契丹に詔(みことのり)をし、道を分けて之れを擊つ。

 四年、春正月。
 李世勣の軍、幽州に至る。

 三月。
 帝は定州に至り、侍臣に謂ひて曰く、
 遼東は本(もともと)中國の地、隋氏は四(よたび)出師し、而れども得るに能はず。
 朕は今東征し、中國と爲し、子弟の讎に報いむと欲す。
 高句麗は君父の恥を雪(すす)ぐのみ。
 且に方隅大いに定まり、唯だ此れ未だ平めざるのみ。
 故に朕の未だ老ひざるに及び、士大夫の餘力を用ひて、以て之れを取らむ。
 帝は定州を發し、親(みずか)ら弓矢を佩(は)き、手(てずから)雨衣を鞍後に結ぶ。
 李世勣の軍は柳城を發し、形勢を多く張ること、懷遠鎭を出だすが若くし、而りて師を潛めて北は甬道に趣き、我が不意に出ず。

 夏四月。
 世勣、通定より遼水を濟りて玄菟に至る。
 我が城邑大いに駭(おどろ)き、皆が門を閉ざして自ら守る。
 副大摠管の江夏王道宗、兵數千を將い、新城に至り、折衝都尉曹の三良は十餘騎を引き、直に城門を壓し、城中驚懼し、敢へて出ずる者無し。
 營州都督の張儉、胡兵を將(ひき)いて前鋒と為し、進みて遼水を度り、建安城に趨(はし)り、我が兵を破り、殺すこと數千人。
 李世勣、江夏王道宗、盖牟城を攻め、之れを拔き、一二萬人、糧十萬石を獲、以て其の地を盖州と為す。
 張亮は舟師を帥い、東萊より海を度(わた)り、卑沙城を襲ふ。
 城の四面は懸絶し、惟だ西門のみ上る可し。
 程名振兵を引きて夜至り、副摠管の王大度先に登る。

 五月。
 城陷ち、男女八千口沒せり。
 李世勣進みて遼東の城下に至る。
 帝は遼の澤に至る。
 泥淖は二百餘里、人馬通る可からず。
 將作大匠の閻立德、土を布(ま)きて橋を作(おこ)し、軍は留らず行き、澤の東に度る。
 王は新城を發し、國內城の步騎四萬、遼東を救ふ。
 江夏王の道宗、四千騎を將いて之れに逆ふ。
 軍中の皆が以為(おもへ)らく衆寡懸絶、深溝高壘に若かず、以て車駕の至を待たむとす。
 道宗曰く、
 賊は衆を恃り我が心を輕ずる有り、遠來して疲頓し、之れを擊たば必ず敗る。
 當に路を淸めて以て乘輿を待たば、乃ち更に賊を以て君父に遺さむか。
 都尉馬文擧曰く、
 勍敵に遇はずして、何を以て壯士を顯さむや、と。
 馬を策(むちう)ち奔擊し、向ふ所皆が靡(したが)ふ。
 衆心稍(ようや)く安じ、旣に合戰し、行軍して摠管の張君乂退走し、唐兵敗れ衄(くじ)く。
 道宗散卒を收め、高きに登りて我の軍陣亂るるを望み見て、驍騎數千と之れを衝(あ)たる。
 李世勣兵を引きて之れを助け、我が軍大敗し、死者千餘人。
 帝は遼水を度り、橋を撤きて以て士卒の心を堅め、馬首山に於いて軍せり。
 江夏王道宗を勞ひ賜ひ、馬文擧を中郞將に超拜し、張君乂を斬る。
 帝自ら數百騎を將い、遼東の城下に至り、士卒の土塡塹を負ふを見、帝其の尤重なる者を分け、馬上に於いて之れを持てば、從官爭ひて土を負ひて城下に置く。
 李世勣遼東城を攻め、晝夜息(や)まざること旬有二日。
 帝は精兵を引きて之れに會し、其の城を圍むこと數百里、鼓噪して聲は天地を振るう。
 城に朱蒙の祠有り、祠に鎖甲銛矛有り。
 前燕の世に天の降る所と妄言す。
 方(まさ)に圍むこと急にして、美女を飾りて以て婦神す。
 巫言はく、
 朱蒙悅び、城必ず完うす、と。
 勣は砲車を列べ、大石を飛ばし過ぐること三百步、當たる所輒ち潰る。
 吾人木を積み樓を為し、絙網を結ぶも、拒むこと能はず、衝車を以て陴(しろのかべ)に撞(ぶつ)け屋之れを碎(くだ)く。
 時に百濟は金髹鎧を上(ささ)げ、又た玄金を以て文鎧と爲し、士被りて以て從ふ。
 帝と勣會し、甲光は炫日す。
 南風急ぎ、帝銳卒を遣り、衝竿の末に登り、其の西南の樓を熱す。
 火は城中に延燒し、因りて將士を揮して城を登らせしむ。
 我が軍力戰するも克たず、死者は萬餘人。
 勝兵萬餘人、男女四萬口、糧五十萬石捉はれ、以て其の城を遼州と為す。
 李世勣は白崖城の西南に進攻し、帝は其の西北に臨む。
 城主の孫伐音、潛かに腹心を遣りて降を請ひ、城に臨みて刀鉞を投げ信を爲して曰く、
 奴は降らむと願ふも、城中に從はざる者有り、と。
 帝唐の幟(のぼり)を以て其の使に與して曰く、
 必ず降る者、宜しく之れを城上に立つるべし。
 代音は幟を立て、城中の人以為(おもへ)らく唐兵已に城に登れりとし、皆之れに從ふ。
 帝の遼東に克つるや、白巖城降(くだる)を請ひ、旣して悔に中(あた)る。
 帝は其の反覆に怒り、軍中に令して曰く、
 城を得れば、當に人物を以て、戰士に賞するを悉くさむ。
 李世勣は帝に見え將に其の降を受けむとし、甲士數十人を帥べ、請ひて曰く、
 士卒爭ひて矢石を冒し、其の死するを顧みざる所以の者、虜獲を貪るのみ。
 今城垂(まさ)に拔かむとするも、奈何して更に其の降を受け、戰士の心を孤するか、と。
 帝馬を下りて謝して曰く、
 將軍の言は是なり。
 然れども兵を縱(はな)ちて人を殺し、而りて其の妻孥を虜(とりこ)とするは、朕の忍ばざる所なり。
 將軍の麾下に功有る者、朕は庫物を以て之れを賞し、因りて將軍の此の一城を贖ふくことを庶(こひねが)ふ。
 世勣乃ち退き、城中の男女萬餘口を得るも、水に臨み幄を設け、其の降を受ければ、仍ち之れに食を賜ひ、八十已上に帛を有差に賜ふ。
 他城の兵に白巖に在る者、慰諭を悉くして糧仗を給ひ、其の之れをする所を任す。
 先ず是れ、遼東城の長史、部下に殺さるる所と為り、其の省事は其の妻子を奉り、白巖に奔(はし)る。
 帝は其の義有るを憐み、帛五匹を賜ひ、長史と為して靈輿を造り、之れを平壤に歸せり。
 白巖城を以て巖州と為し、孫代音を以て刺史と為す。
 初め、莫離支は加尸城に七百人を遣り、蓋牟城を戍するも、李世勣盡く之れを虜とす。
 其の人從軍を請ひ自ら效(なら)ふ。
 帝曰く、
 汝の家は皆加尸に在り、汝は我が戰を為さば、莫離支必ず汝の妻子を殺さむ。
 一人の力を得、而りて一家を滅ぼすは、吾忍ばざるなり。
 皆賜を稟(う)け之れを遣る。
 盖牟城を以て蓋州と為す。
 帝は安市城に至り、兵を進めて之れを攻む。
 北部耨薩高延壽、南部耨薩高惠眞、我が軍及び靺鞨兵十五萬を帥べ、安市を救ふ。
 帝は侍臣に謂ひて曰く、
 今延壽の策を為すは三有り。
 兵を直前に引き、安市城に連ねて壘を為し、高山の險に據り、城中の粟を食し、靺鞨を縱ち吾が牛馬を掠り、之れを攻むるも猝(にわか)に下る可からず、歸を欲さば則ち泥潦は阻を爲し、坐して吾軍を困らせるは、上策なり。
 城中の衆を拔き、之れと與に宵に遯(のが)るは、中策なり。
 智能度らず、吾と戰ひに來たるは、下策なり。
 卿曹之れを觀れば、彼は必ず下策に出る。
 擒と成ること吾が目の中に在らむ、と。
 時に對盧高正義は年老いて事を習ひ、延壽に謂ひて曰く、
 秦王内には羣雄を芟し、外には戎狄を服し、獨り立ちて帝と為すは、此れ命世の才。
 今據りて海內の衆を擧げて來たり、敵ふ可からざるなり。
 吾の計を為すは、頓兵戰はず、曠日持久し、奇兵を分遣し、其の糧道を斷つに若くもの莫し。
 糧食旣に盡き、戰を求むるを得ず、歸を欲するも路無し、乃ち勝つ可し、と。
 延壽從はず、軍を引きて直進し、安市城を去ること四十里。
 帝其の低徊して至らざるを恐れ、大將軍阿史那社尒に命じ、突厥千騎を將いせしめ以て之れを誘ふ。
 兵交を始めて走を僞り、延壽曰く、
 與し易きのみ、と。
 競ひて進み之れに乘し、安市城の東南八里に至り、山に依りて陣す。
 帝悉く諸將を召して計を問ふ。
 長孫無忌對へて曰く、
 臣聞けり、敵に臨みて將に戰はむとすれば、必ず先ず士卒の情を觀よ、と。
 臣は適行するに諸營を經、士卒を見て高句麗の至るを聞けば、皆刀を拔き旆を結び、色に於いて喜形す。
 此れ必勝の兵なり。
 陛下未だ冠せずして、身親(みずか)ら行陣す。
 凡そ奇に出でて勝ちを制するは、皆上稟聖謀、諸將は成筭を奉るのみ。
 今日の事、陛下の指蹤を乞はむ。
 帝笑ひて曰く、
 諸公此れを以て讓られむとすれば、朕當に諸公の商度を為さむとせむ。
 乃ち無忌等と與し、數百騎を從へ、高に乘りて之れを望み、山川の形勢、以て伏兵及び出入の所にす可きを觀ゆ。
 我が軍靺鞨と兵を合はせ陣を為し、長さ四十里。
 帝之れを望み、懼色有り。
 江夏王道宗曰く、
 高句麗は國を傾けて以て王の師を拒み、平壤の守必ず弱し。
 願はくば臣に精卒五千を假し、其の本根を覆さば、則ち數十萬の衆、戰はずして降る可し、と。
 帝應じず。
 遣使して延壽に紿(だま)して曰く、
 我は爾の國の强臣其の主を弑するを以て、故に罪を問はむと來たり、交戰に至るも、吾の本心に非ず。
 爾の境に入り、芻粟給はず、故に爾の數城を取るも、俟た爾の國の臣禮を修むれば、則ち失する所を必ず復せむ。
 延壽之れを信じ、設備を復せず。
 帝は夜に文武を召して事を計り、李世勣に命じて步騎萬五千を將いせしめ、西嶺に陣し、長孫無忌、牛進達、精兵萬一千を將い、奇兵を為し、山北より狹谷に出で、以て其の後に衝(あ)たり、帝自ら步騎四千を將い、鼓角を挾み、旗幟を偃(ふ)し、山を登る。
 帝は諸軍に勅し、鼓角を聞かせ、齊出して奮擊す。
 因りて有司に命じ、張に降を受けせしめ、朝堂の側に幕す。
 是の夜、流星延壽の營に墜つ。
 旦日、延壽等、獨り李世勣の軍の小なるを見、兵を勒して戰はむと欲す。
 帝は無忌軍の塵起するを望み見て、命じて鼓角を作させ、旗幟を擧げさせ、諸軍鼓噪して並び進む。
 延壽等懼れ、兵を分けて之れを禦さむと欲し、而れども其そ陣已に亂る。
 會(たまたま)、雷電有り、龍門人の薛仁貴、奇服を著し、大いに呼(さけ)びて陣を陷し、向ふ所敵無し、我が軍披靡す。
 大軍之れに乘じ、我が軍大いに潰し、死者三二萬餘人。
 帝仁貴を望み見て、遊擊將軍と拜す。
 延壽等餘衆を將い、山に依りて自ら固す。
 帝諸軍に命じて之れを圍み、長孫無忌は悉く橋梁を撤き、其の歸路を斷つ。
 延壽、惠眞、其の衆三萬六千八百人を帥べ、降を請ひ、軍門に入り、拜して伏し命を請へり。
 帝は耨薩已下官長三千五百人を簡びて之れを內地に遷し、餘皆之れに縱(したが)ひ、平壤に還らせしめ、靺鞨三千三百人を收め、悉く之れを坑(あなうめ)にす。
 馬五萬匹、牛五萬頭、明光鎧萬領、它器械稱是を獲。
 更に山の幸く所を名づけて曰く駐驆山。
 以て高延壽を鴻臚卿と爲し、高惠眞を司農卿と為す。
 帝の白巖に克つるや、李世勣に謂ひて曰く、
 吾れ聞けり、
 安市城は險にして兵精、其の城主の村は材にして勇、莫離支の亂、城守は服せず、莫離支之れを擊つも、下すこと能はず、因りて之れに與す、と。
 建安の兵は弱くして糧小、若し其の不意を出ずれば、之れを攻めて必ず克つ。
 公は先ず建安を攻むる可し。
 建安下れば、則ち安市は吾が腹中に在り。
 此れ兵法の謂ふ所の城に攻めざる所の者有りなり。
 對へて曰く、
 建安は南に在り、安市は北に在り、吾が軍糧皆遼東に在り。
 今安市を踰へ、而りて建安を攻め、若し麗人は吾が糧道を斷たば、將に之れを若何とせむ。
 先に安市に攻むるに如かず。
 安市下せば、則ち鼓行して建安を取るのみ。
 帝曰く、
 公を以て將と為す。
 安ぞ公の策を用ひざるを得む。
 吾が事を誤ること勿れ、と。
 世勣遂に安市を攻む。
 安市人は帝の旗蓋を望み見れば、輒ち城に乘りて鼓噪す。
 帝怒り、世勣は克城の日、男子皆之れを坑(あなうめ)にせむと請ふ。
 安市人之れを聞き、益(ますます)堅く守り、攻むること久しくして下らず。
 高延壽、高惠眞帝に請ひて曰く、
 奴は旣に身を大國に委ぬ、其の誠に獻じざるを敢へてせざり。
 天子の早成大功し、奴は妻子と相見えむことを得むと欲す。
 安市人は其の家を顧みて惜み、人自ら戰を為し、未だ易く猝(にわか)に拔けず。
 今、奴は高句麗の十餘萬衆を以て、旗の沮潰を望み、國人の膽を破る。
 烏骨城の耨薩の老耄、堅守に能はず、兵を移して之れに臨み、朝に至り夕に克ち、其の餘は道の小城に當たり、必ず風を望み奔潰す。
 然る後に其の資糧を收め、鼓行して前(すす)めば、平壤は必ず守らざり。
 羣臣亦た言はく、
 張亮の兵は沙城に在り、之れを召し、信宿して至る可し。
 高句麗の忷懼に乘じ、力を倂せ烏骨城を拔き、鸭渌水を度り、直ちに平壤を取り、此に擧在らむ。
 帝將に之れに從はむとするも、獨り長孫無忌以為らく、
 天子の親征、諸將に異なり、危に乘じて徼幸する可からず。
 今の建安、新城の虜衆、猶ほ十萬。
 若し烏骨に向かひ、皆が吾が後を躡(お)ふは、先に安市を破るに如かず。
 建安を取り、然る後に長驅して進むは、此れ萬全の策なり。
 帝乃ち止む。
 諸將急ぎて安市を攻む。
 帝城中の雞彘の聲を聞き、世勣に謂ひて曰く、
 城を圍みて積久するも、城中の烟火は日に微かなり。
 今鷄彘甚だ喧し、此れ必ず士を饗(もてな)し、夜に出でて我れを襲はむと欲す。
 宜しく兵を嚴め之れに備ふべし、と。
 是の夜、我が軍數百人、城に縋りて下る。
 帝之れを聞き、自ら城下に至り、兵を召して急擊す。
 我が軍死者數十人、餘軍は退走す。
 江夏王の道宗、衆を督(ひき)いて土山を城の東南隅に築き、其の城に侵逼す。
 城中亦た其の城を增高し、以て之れを拒む。
 士卒分番し、交戰すること日に六七合。
 衝車、礮石、其の樓堞を壞し、城中は立木柵に隨ひ、以て其の缺を塞ぐ。
 道宗是れ足を傷し、帝親(みずか)ら之の針を為す。
 山を築き、晝夜息まず、凡そ六旬、功五十萬を用ふ。
 山の頂は城を去ること數丈、下に城中を臨む。
 道宗は果毅傅伏愛をして、兵を將せしめ山頂に屯し、以て敵に備ふ。
 山頹れ城を壓し、城崩る。
 會(たまたま)、伏愛私(わたくしごと)にて部する所を離れ、我が軍數百人、城の缺くるに從ひて出戰し、遂に據土山を奪ひ、塹(ほりをつく)りて之れを守る。
 帝怒り、伏愛を斬て以て徇(しらし)め、諸將に命じて之れを攻むるも、三日克つこと能はず。
 道宗は徒跣して旗下に詣(いた)り、罪を請へり。
 帝曰く、
 汝の罪は死に當る。
 但し朕は漢武の王恢の殺すを以て、秦穆の孟明を用ふるに如かざるす。
 且つ盖牟を破る遼東の功有り。
 故に汝を特赦するのみ、と。
 帝は遼左の早寒、草枯水凍を以て、士馬の久しく留むるを難しとし、且つ糧食將に盡きむとし、師を班(かえ)さむと勅す。
 先ず遼盖の二州の戶口を拔き、遼に度り、乃ち安市城の下に耀兵して旋(かえ)り、城中の皆が屛跡して出でず。
 城主は城を登りて辭を拜し、帝は其の固守を嘉(よろこ)び、縑百疋を賜ひ、以て君に事ふることを勵む。
 世勣、道宗に命じ、步騎四萬を將いせしめて殿と為し、遼東に至り遼水を度る。
 遼澤は泥潦(にわたず)み、車馬通らず。
 無忌に命じて、萬人を將いせしめ、草を翦(た)ち道を塡(う)め、水の深き處、車を以て梁を為し、帝自ら馬鞘に薪し、以て役を助く。

 冬十月。
 帝は蒲溝に至り馬を駐(と)め、塡道を督す。
 諸軍は渤錯水を度るも、暴風雪、士卒沾濕して死する者多し。
 勅して道に於いて火を燃やし以て之れを待す。
 凡そ玄菟、橫山、盖牟、磨米、遼東、白岩、卑沙、夾谷、銀山、後黃の十城を拔き、遼盖岩の三州の戶口を徙り、中國に入る者七萬人。
 高延壽自ら降る後、常に憤歎し、尋(つ)ぎて以て憂死し、惠眞竟(つい)に長安に至る。
 新城、建安、駐蹕の三(みっつ)の大戰、我が軍及び唐の兵馬の死亡者、甚だ衆(おお)し。
 帝以て成功に能はず、深く之れを悔ゆ。
 嘆きて曰く、
 魏徵若し在らば、我に是の行有らしめず。

 論じて曰く、
 唐の太宗、聖明にして不世出の君たり。
 亂を除くは湯武に比し、理を致すは成康に幾す。
 用兵の際に至れば、奇を出だすこと窮まり無し、向かふ所敵無し。
 而れども東征の功、安市に於いて敗れ、則ち其の城主、豪傑非常の者と謂ふ可し。
 而れども史は其の姓名を失し、楊子の云ふ所、
 齊魯の大臣、史は其の名を失す。
 と異ること無し。
 甚だ惜しむ可けむや。

 五年、春二月。
 太宗は京師に還り、李靖に謂ひて曰く、
 吾は天下の衆を以て、小夷に困る、何ぞや。
 靖曰く、
 此れ道宗の解する所たり。
 帝顧みて道宗に問へば、駐蹕に在る時、虛に乘じて平壤を取らむとの言を具(つぶさ)に陳(の)ぶ。
 帝悵然として曰く、
 當時悤悤たり、吾憶へざるなり、と。

 夏五月。
 王及び莫離支蓋金、遣使して謝罪し、幷せて二(ふたり)の美女を獻ず。
 帝之れを還し、使者に謂ひて曰く、
 色は人の重んずる所、然れども其の親戚を去りて以て傷するの心を憫れみ、我は取らざるなり、と。

 東明王母の塑像、泣血すること三日。
 初め、帝の將に還らむとするとき、帝は弓服を以て盖蘇文に賜るも、之れを受けて謝らず、而りに又た益(ますます)驕り恣(ほしいまま)にす。
 遣使して表を奉ると雖も、其の言は皆詭誕(うそ)を率い、又た唐の使者を待つに倨傲し、常に邊隙(すき)を窺伺(うかが)ふ。
 屢(しばしば)不攻新羅と勅令し、而れども侵凌止まず。
 太宗は其の朝貢を受くること勿れと詔をして、更に議して之れを討たむとす。

 三國史記 卷第二十一