寶藏王下

寶藏王下

 六年、春二月。
 太宗は再度行軍をしようとすると、朝議では次のような意見が出た。
「高句麗は山に依って城を建て、すぐには抜くことができません。天子の乗る車に乗って親征しても、国民は耕種を得ることもできず、制圧した城からその穀物を徴収しても、旱災が相次ぐことになれば、人民には肥える者もありますが、半数は食糧を欠乏させるでしょう。
 もし、今から何度も少数の手勢の軍を派遣し、更には国境線上で両国が入れ替わり立ち代わりに排撃し合っていれば、人民たちは王命に奔走させられるばかりで疲弊してしまうでしょう。農具を手放させて城塞に入らせ、何年もの間、千里も離れたところに隔離されるのですから、人心も自ずから離れてしまうことでしょう。鴨淥の北は戦うことなく奪取すべきです。」
 帝はそれに従い、左武衛大將軍牛進達を靑丘道行軍大摠管に任命し、右武衛將軍李海岸をその副官とし、一万人余りを出兵させて、樓舡に搭乗させ、萊州から海を渡らせて入国させた。また太子詹事李世勣を遼東道行軍大摠管に任命し、右武衛將軍の孫貳朗たちをその副官とし、兵三千人を率いさせて、營州都督府の兵によって新城から道入した。
 両軍には皆から水戦に慣れてよく闘える者を選抜し、それらを配属した。

 夏五月。
 李世勣軍は既に遼に渡り、南蘇等の数城を経由し、皆背城が抗戦したが、李世勣がそれを擊破し、その羅郭を焼いて帰還した。

 秋七月。
 牛進達と李海岸が我が国の国境に入り、およそ百回余り戦ったが、石城に攻め込んでそれを抜き、進撃して積利城の下まで辿り着いた。我が兵の一万人余りが出戦したが、李海岸はそれに擊ち勝ち、我が軍は二千級の死者を出した。

 八月。
 太宗は宋州刺史王波利たちに勅を下し、江南十二州の工人を徴発し、大数で百隻を造船させた。我が国の討伐に用いるためである。

 冬十二月。
 王が第二子の莫離支の任武に謝罪のために入国させると、帝はそれを許した。

 七年、春正月。
 遣使して唐に入らせ朝貢させた。
 帝は右武衛大將軍薛萬徹を靑丘道行軍大摠管に任命し、右衛將軍裴行方にその副官をさせ、兵三万人余りと樓舡戰艦を将帥させ、萊州より海を渡って撃破しに来たるべしとの詔を下した。

 夏四月。
 烏胡鎭將の古神感が兵を将帥し、海を渡って攻撃に来た。我が国の步騎五千と遭遇すると、易山で戦闘してこれを破った。
 その夜に我が軍一万人余りが古神感の舡を襲撃したが、古神感の伏兵が放たれ、ここに敗れた。

 六月。
 帝は我が国が困弊していると言い、明年を以て三十万の衆勢を出発させ、一挙にこれを滅ぼそうと議したが、ある者が言った。
「大軍の東征では、年を跨いで賄えるだけの食糧を備えなくてはなりませんが、家畜を乗せようにも、それを搭載できる船がありません。こうした機能の舟艦に備えてから、水戦に転じるべきでしょう。
 隋末に劒南だけは寇盜の被害を受けませんでした。そこに属していた者たちは、遼東の役の際も、劒南が参与してません。その百姓は富豪も庶民も関係なく、そこの者たちに舟艦を製造させるべきです。」
 帝はそれに従った。

 秋七月。
 王都の女がひとつの身体に二つの頭を持った子を産んだ。
 太宗は左領左右府長史の強偉を劒南道に派遣し、木を伐採させて舟艦を造らせた。大きいものには、全長百尺、横幅はそれ半分に及ぶものもあった。
 別に遣使して水道を行かせ、巫峽、抵江、楊から萊州に赴かせた。

 九月。
 群獐が河を渡って西に走り、群狼が西に向かって行った。それらは三日間、絶えることなく走り続けた。
 太宗は将軍の薛萬徹たちを派遣して討伐に来させた。海を渡って鴨淥に入り、泊灼城の南四十里まで辿り着くと、軍営に止まった。
 泊灼城主の所夫孫は步騎一万余りを統帥し、それらに抗戦したが、薛萬徹は右衛將軍の裴行方を派遣し、步卒と諸軍を率いてこれに乗じ、我が兵は潰えた。
 裴行方等は兵を進め、それを包囲したが、泊灼城は山に恃んで険路を設け、鴨淥水によって路を阻み、守りを固めたので、それを攻めても抜けなかった。
 我が国の将軍高文は烏骨を率い、安地諸城から三万人余りの兵が援軍に来た。これらを両軍陣に分置したが、薛萬徹は軍を分けてこれらに当たり、我が軍は敗潰した。
 帝はまた萊州刺史の李道裕に詔を下し、糧と器械を輸送させて烏胡島に貯蔵させ、大軍の挙兵を行おうとした。

 八年、夏四月。
 唐の太宗が崩御した。
 遺詔にて遼東の役を取り止めにした。

 本件について論じよう。
 もともと太宗が遼東の事にあたろうとしたとき、諫めた者は一人どころではなかった。また安市から軍を撤収した後、自ら出陣したのに成功できず、それを深く後悔し、歎じて言った。
「もし魏徵を生き残らせることができたなら、私にこの行軍をさせなかったでしょうに。」
 それがまた討伐に向かおうとするに及ぶと、司空の房玄齡は病中にありながら上表し、諫めて次のように伝えた。
「老子は『足るを知れば辱られず、止むるを知ればあやふからず。』と言っております。陛下の威名功徳は、既に足ると言えるでしょう。大地を開拓し、国領を広げてきましたが、もはや止まるべきです。
 しかも陛下は重罪の囚ひとりに判決を下すごとに、必ず三復五奏させ、蔬食を進め、音楽を演奏する者を止めさせるほどに人命を重んじておりました。それなのに、現在では無罪の士卒を駆り立て、それらの者たちを鋒刃の下に委ね、肝脳を地に塗れさせております。これだけでも憫むに足らぬものがありましょうか。
 先に高句麗の臣節に過失があったことから、それを誅するのはよいでしょう。百姓を侵辱したことから、それを滅ぼすのもよいでしょう。いつかの日に中国に患をもたらすとのことから、それを除くのもよいでしょう。
 しかし、現状はこの三つの条件に当てはまっておりません。これは坐して中国を煩わせていることに他ならず、内には前代の恥を晴らすことだと言い、外には新羅への復讐をするとこだと言っておりますが、なんと小さいことで大きな損をしようとしていることでしょう。
 どうか陛下、高句麗が自ら更生することを許し、凌波の舡を焼き払い、応募して集めた兵衆を罷免して下さい。そうすれば、自然と華夷の秩序は再生され、遠国は襟を正し、近国は安んじられることでしょう。梁公が死の直前まで繰り返し言ってきたことは、それはこのことです。」
 それなのに帝はそれに従うこともなく、丘墟の東域なんぞを欲しがっては自らの愉悦に溺れ、死んだ後になって取り止めになった。
 史論には「大きな功績を焦って求め、軍を率いて遠くに向かう」と言われているが、これは本件と違うことがあるだろうか。
 柳公權の小說には、「駐蹕の役では、高句麗と靺鞨は軍を連合させ、方四十里、太宗はそれを望み見て、顔に恐懼の色が表れた。」とあり、また「六軍は高句麗に乗じられ、ほとんどの将軍は活躍できなかった。斥候から英公の麾下が黒旗に包囲されたとの報告を受け、帝は大いに恐怖した。」ともいわれている。
 自力で脱することができたとはいえ、このように危懼したのである。してみれば、新旧の唐書と司馬公の通鑑にて、このことについて言及がされていないのは、国のためにこのことを忌諱としたのではないだろうか。

 九年、夏六月。
 盤龍寺の普德和尚は、国家が道教に奉じて仏法を信じないことから、南へ向かって完山の孤大山に移住した。

 秋七月。
 霜雹が穀物を害したので、人民が餓えた。

 十一年、春正月。
 遣使して唐に入らせ朝貢した。

 十三年、夏四月。
 ある人の言によれば、於馬嶺の上に神人が現れ、「汝の君臣は奢侈に限度がない。滅亡まで日はないぞ。」と言ったとのことである。

 冬十月。
 王は将軍の安固を派遣して出師させ、靺鞨兵を伴わせて、契丹を擊たせた。
 松漠都督の李窟哥がそれをこれを防いだが、新城で我が軍を大いに敗った。

 十四年、春正月。
 まず我が国が百濟、靺鞨、新羅の国境北部を侵略したので、三十三城を略取すると、新羅王の金春秋が唐に遣使して援助を求めた。

 三月。
 高宗は營州都督の名振を派遣し、左右衛中郞將の蘇定方が兵を將いて擊ちに来た。

 夏五月。
 程名振たちが遼水を渡った。
 吾人がその兵が少ないと見て、門を開いて貴端水を渡って抗戦した。
 名振たち奮擊して大いに勝利し、千人余りを殺害あるいは捕虜にし、その外郭と村落を焼き払って帰った。

 十五年、夏五月。
 王都に鐵の雨が降った。

 冬十二月。
 遣使して唐に入らせ、皇太子の冊を祝賀した。

 十七年、夏六月。
 唐營州都督兼東夷都護の程名振、右領軍中郞將の薛仁貴が兵を将帥して攻めに来たが、勝てなかった。

 十八年、秋九月。
 九匹の虎が一時城に入って人を食べた。それを捕獲しようとしたが、できなかった。

 冬十一月。
 唐右領軍中郞將薛仁貴たちが我が将軍の溫沙門と橫山で戦闘し、それを破った。

 十九年、秋七月。
 およそ三日、平壤の河水が血色に染まった。

 冬十一月。
 唐左驍衛大將軍契苾何力を浿江道行軍大摠管に任命し、左武衛大將軍蘇定方を遼東道行軍大摠管に任命し、左驍衛將軍劉伯英を平壤道行軍大摠管に任命し、蒲州刺史程名振を鏤方道摠管に任命し、兵を将帥させて道を分け、攻撃に来た。

 十年、春正月。
 唐は河南、北、淮南の六十七州から兵を募り、四万四千人余りを得、平壤と鏤方の行営に参上させ、また鴻臚卿蕭嗣業を扶餘道行軍摠管に任命し、帥回紇等諸部兵を平壤に参上させた。

 夏四月。
 任雅相を浿江道行軍摠管に任命し、契苾何力を遼東道行軍摠管に任命し、蘇定方を平壤道行軍摠管に任命し、與蕭嗣業および諸胡兵およそ三十五軍、水軍と陸軍は道を分け、並進した。
 帝は自ら大軍を将帥しようとしたが、蔚州刺史の李君球が立言した。
「高句麗は小国です。なぜ中國を傾けてまでそれを事とすることになったのでしょうか。もし高句麗が滅ぶことになれば、出兵させて守る必要があるでしょう。
 小勢を出兵させれば威厳は失われますし、多勢を出兵させれば人民は安心しません。こうして天下を兵の移動に疲弊させることになります。
 私の意見としては、これを征伐するよりも征伐を取り止める方がよい、これを滅ぼすよりも滅ぼさないうちに取り止める方がよい、と考えます。
 また則天武后も諫めたので、帝はそこで取り止めた。

 夏五月。
 王は将軍の惱音信を派遣し、靺鞨の衆勢を率いさせて、新羅の北漢山城を包囲し、十日間ほどそれを解除せず、新羅の補給路を絶ったので、城中は危懼した。
 突如、大きな星が我が軍営に落ち、また雷雨が震擊したので、惱音信たちは軍が恐怖によって散解するのではないかと引き返した。

 秋八月。
 蘇定方が我が軍を浿江にて破り、馬邑山を奪い取り、遂に平壤城を包囲した。

 九月。
 蓋蘇文は子の男生を派遣し、精兵数万をもって鴨淥を守備させ、諸軍は渡ることができなかった。
 契苾何力が到着すると、川に氷がしっかりと張っていた。契苾何力は衆勢を引き連れて氷に乗って河水を渡り、太鼓を打ち鳴らして進軍し、我が軍は潰奔した。
 契苾何力は数十里を追いかけ、三万人を殺した。
 余衆が悉く投降したが、男生はなんとか身ひとつで逃げ出した。
 ちょうどその時、軍を引き上げよとの詔が下ったので、帰還することにした。

 二十一年、春正月。
 唐左驍衛將軍白州刺史沃沮道摠管の龐孝泰が蓋蘇文と蛇水のほとりで戦って全滅し、その子十三人と皆が戦死した。
 蘇定方は平壤を包囲したが、大雪に遭遇したので、解除して撤退した。
 おおよそ前後の行軍では、皆が大功なく撤退した。

 二十五年。
 王は太子福男を派遣し(新唐書には男福と伝わっている)、唐に入らせ、泰山にて祠に侍らせた。
 蓋蘇文が死ぬと長子の男生が代わって莫離支となった。
 国政を司り始めた当初、諸城に出巡し、その弟の男建、男産に後の事を留知させていた。
 ある者が二人の弟に言った。
「男生は二人の弟が切迫するのではないかと憎み、心のうちでは排除しようと企んでおります。先にこちらが計略を立てた方がよいでしょう。」
 二人の弟は最初、それを信じなかった。
 また男生にも告諭する者がいた。
「二人の弟は、兄が権力を還奪するのではないかと恐れ、兄を拒んで入城させないようにしようとしています。」
 男生は懇親の者をこっそりと派遣し、平壤に往かせて様子を伺わせたが、二人の弟はそれを捕縛し、王命によって男生を召し出したが、男生は帰ろうとしなかった。
 男建は自ら莫離支となり、兵を放って討伐に向かわせた。
 男生は逃走し、國內城を拠点とし、その子の獻誠を唐に参朝させ、哀れみを求めた。

 六月。
 高宗は左驍衛大將軍の契苾何力に兵を統帥してそれに応接するように命じた。男生は身一つで脱して唐に奔走した。

 秋八月。
 王は男建を莫離支に任命し、內外兵馬の事を兼知させた。

 九月。
 帝は男生に詔を下し、特進遼東都督兼平壤道安撫大使の職位を授け、玄菟郡公に封じた。

 冬十二月。
 高宗は李勣を遼東道行軍大摠管兼安撫大使に任命し、司列少常伯安陸、郝處俊を副官とした。
 龐同善、契苾何力を並べて遼東道行軍副大摠管兼安撫大使に任命した。
 その水陸の諸軍摠管、并轉糧使竇義、獨孤卿雲、郭待封たちは、並んで李勣の指揮下に入った。
 河北諸州の租賦は悉くが遼東に送られ、軍用として供給された。

 二十六年、秋九月。
 李勣が新城を拔き、契苾何力に守備をさせた。
 李勣は当初、遼を渡って諸将に言った。
「新城は高句麗の西部辺境の要害である。これを先に得なければ、残りの城で容易にとることはできない。」
 こうして、そちらに攻め込んだ。
 城人の師夫仇は城主を縛りつけ、門を開いて降伏した。
 李勣が兵を引いて進擊すると、一十六城は皆下った。
 龐同善、高侃はまだ新城にいた。泉男建は兵を派遣してその軍営を襲撃させたが、左武衛將軍の薛仁貴がこれを擊ち破った。
 高侃は金山まで進撃したが、我が軍と戦って敗れた。
 我が軍は勝ちに乗じて北に追いかけ、薛仁貴は兵を引き連れてそれを横から攻撃し、我が軍の五万人余りを殺し、南蘇、木氐、蒼嵒の三城を抜いて泉男生の軍と合戦した。
 郭待封は水軍をもって自ら別動隊とし、平壤に赴いた。
 李勣は別将の馮師本を派遣し、糧仗を載せてそちらに援助したが、馮師本の船が破損たために期日内に輸送ができなかった。
 郭待封の軍は飢餓に陥ってしまい、李勣に向けて文書を作成しようとしたが、他の者にそれが読まれてしまうのではないのかと恐れ、その現状を報告するための離合詩を作り、李勣に送った。
 李勣は怒って言った。
「軍事の緊急事態にありながら、なぜ詩なんぞを作っておるのか! 必ずこいつを叩き斬ってやる。」
 行軍管記通事舍人の元萬頃は、その義を解釈し、李勣はすぐに新たに糧仗を渡すために人を派遣し、そちらに赴かせた。
 元萬頃は「守鴨淥の險を知らず」との檄文を作成したが、泉男建は「謹みて命を聞けり」と返報し、すぐに兵を移して鴨淥津を拠点とし、唐兵は渡ることができなかった。
 それを聞いた高宗は、元萬頃を嶺南に流罪とした。
 安市城下にいた郝處俊がまだ隊列を成していないところ、密かに我が軍三万が到来したので、軍中は大いに乱れた。
 郝處俊は胡床を拠点とし、乾糒を食べようとしたところであったが、精銳を選抜し、これを擊ち敗った。

 二十七年、春正月。
 右相劉仁軌を遼東道副大摠管に任命し、郝處俊、金仁問にその副将をさせた。

 二月。
 李勣たちが我が国の扶餘城を抜いた。薛仁貴は既に我が軍を金山で撃破し、勝ちに乗じて三千人を将帥し、扶餘城を攻めようとしていた。諸将はその兵が少なかったためにそれを取り止めた。
 薛仁貴は言った。
「兵は多い必要はない。その運用をどうするかだけだ。」
 こうして前鋒として進撃し、我が軍と戦ってこれに勝ち、我が軍を殺害あるいは捕獲し、遂に扶餘城を抜くと、扶餘州中の四十城余りの皆が降服したいと願い出た。
 侍御史の賈言忠が使者を奉り、遼東から帰還すると、帝は「軍中では何と言っているか」質問したので、「必ず勝利します。」と答えた。
「昔、先帝が罪を問うたのに志を得なかった理由は、敵国がまだ仲違いをしていなかったからです。諺に『軍に仲立ちをしてくれるものがなければ、途上で帰還せよ』とありますが、今回の男生兄弟は狠と闘って我々の嚮導をし、敵国の状況は我々に悉くが知り尽くされ、忠士は力を存分に振るわせております。ですから、臣は必ず勝利すると言ったのです。
 しかも高句麗秘記には『九百年に及ぶことなく、八十の大將に当たり、これを滅ぼす』とあります。高氏は漢以来の国家を存続させてきましたが、現在で九百年、李勣は御年八十歳です。
 敵国は飢饉を重ねることで人民は互いに掠奪が横行し、地は震裂し、狼狐が城に入り、門に穴があき、人心は危駭しております。この通り、二度と挙兵の必要はないでしょう。」
 泉男建が兵五万人を再度派遣し、扶餘城を救援させたが、李勣たちと薛賀水で遭遇し、合戦して敗れた。死者三万人余り。李勣は大行城に進攻した。

 夏四月。
 彗星が畢昴の間に現れた。
 唐の許敬宗が言った。
「彗星の東北に現れるのは、高句麗が滅びようとする兆候だ。」

 秋九月。
 李勣が平壤を抜いた。
 李勣は既に大行城に勝利し、他道から出撃した諸軍の者も、全員が李勣と会し、進軍して鴨淥柵まで辿り着いた。
 我が軍が抗戦したが李勣たちはそれを敗り、追撃して奔奔すること二百里余り、辱夷城を抜き、諸城から遁逃や降服する者が相継いだ。
 契苾何力が先に兵を引き連れて平壤城下に辿り着くと、李勣軍はそれに継続し、平壤をひと月余り包囲した。
 王の藏は泉男産を派遣し、首領九十八人を統帥させて、白幡で持ちこたえさせたが、李勣のもとに降参し、李勣は禮をもってこれに接した。
 泉男建はそれでも門を閉ざし守備を拒み、頻繁に兵を派遣して出陣したが、皆が敗れた。
 男建は軍事を浮圖の信誠に委任したが、信誠と小將の烏沙、饒苗たちは、密かに人を派遣して李勣のもとに参じ、内応したいと要請した。
 五日後、信誠が門を開くと李勣は兵を放って城を登らせ、太古を叩きならして城を焼いた。
 男建は自刃したが死ねなかったので、王や男建たちがそれを捕らえた。

 冬十月。
 李勣が帰還しようとすると高宗が命じた。
「まず王たちを昭陵に献上せよ。軍容を備えて凱歌を奏で、京師に入って大廟に献上すべし。」

 十二月。
 帝、含元殿にて受俘した。
 王は政治が自己によって為されたものではないことから赦免され、司平太常伯員外同正に任命された。泉男産を司宰少卿に任命し、僧の信誠を銀靑光祿大夫に任命し、泉男生を右衛大將軍に任命した。
 李勣以下には、それとは別に封賞し、泉男建は黔州に流罪となった。
 五部、百七十六城、六十九万戶余りを分割して九都督府、四十二州、百縣とし、安東都護府を平壤に置いてそれを統制した。
 我が国の将帥のうち功績がある者を選抜し、都督、刺史、縣令とし、華人とともに政治に参画することになった
 右威衛大將軍の薛仁貴、安東都護に検校し、兵二万人を総括させて鎭撫させた。
 これは高宗摠章元年戊辰の歳である。

 二年、己巳二月。
 王の庶子の安勝が四千戶余りを率い、新羅に投降した。

 夏四月。
 高宗は二万八千三百戶を江淮の南と山南に移住させ、西諸州にある空白の地を京とした。
 咸亨元年庚午歲に至り、夏四月、劒牟岑が国家を復興したいとして唐に叛き、王として外孫の安舜を擁立し(羅紀には勝と書かれる)、それを主とした。
 唐高宗は大將軍の高侃を派遣し、東州道行軍摠管に任命し、兵を放って討伐に向かわせた。
 安舜は劒牟岑を殺し、新羅に奔奔した。

 二年辛未歲、秋七月。
 高侃が余衆を安市城で撃破した。

 三年壬申歲、十二月。
 高侃と我が国の余衆が白水山で戦い、これを破った。
 新羅は兵を派遣して我が国を救援したが、高侃はこれに擊ち勝ち、二千人を虜獲した。

 四年癸酉歲、夏閏五月。
 燕山道摠管の大將軍李謹行が我が国の人を瓠瀘河で撃破し、数千人を俘獲した。
 余衆の皆が新羅に奔走した。

 儀鳳二年丁丑歲、春二月。
 王が降服したので遼東州都督に任命し、朝鮮王に封じ、遼東に遣帰させ、余衆を安輯させた。
 先に諸州にいた東人たちは、皆に王と同伴させて帰らせ、それによって安東都護府を新城に移し、それを統括した。
 王は遼東まで辿り着くと叛乱を謀り、密かに靺鞨と通じた。

 開耀元年。
 卬州に召還され、永淳初に死んだ。
 衛尉卿を追贈され、京師まで送るよう詔が下された。頡利の墓の左の墓所に樹碑を建てられ、その属人は河南、隴右の諸州に散り散りに移住させられた。
 貧者は安東城の傍の旧城に駐留させ、徐々に新羅へ亡命し、残りの衆は靺鞨と突厥に散り散りに入国した。
 高氏の君長は、遂に絶たれた。

 垂拱二年。
 王孫の寶元に代が降り、朝鮮郡王に任命した。聖曆初に至り、左鷹揚衛大將軍の位を進呈し、更に忠誠國王に封じられ、安東の旧部の統治を命じられたが、そちらには行かなかった。
 明年、王子の德武に代が降ったので、安東都督に任命した。後高句麗という国がようやく元和十三年に至り、遣使して唐に入らせ、樂工を献上した。

 本件について論じよう。  玄菟、樂浪はもともと朝鮮の地で、箕子が封じられた地である。
 箕子はその人民に、禮義、田蠶、織作を教育し、禁八條を設けさせた。
 こうしてその人民は互いに盗みをせず、門戸を締めることもなくなり、婦人は貞信不淫となり、飲食は籩豆を用いるようになった。これが仁賢の教化である。
 しかも、天性は柔順、三方とは異なる。
 だからこそ、孔子は正しい統治が行われないことを悼み、海に筏を浮かべてそちらに住もうとしたことも、ゆえなきことではないのだ。
 然るに易の爻には、「二はほまれ多く、四は懼れ多し、近きなり。」とある。
 高句麗は秦漢の後から中国の東北隅に介在し、その北に隣接し、皆が天子の有司、乱世であれば英雄が特起し、僭主として位を名乗る者があったが、これは居住するには懼れ多き地と言うべきだろう。だからこそ、謙遜するつもりもなく、その国境を侵して仇を生み、その郡縣に入ってそこを住処とした。
 このために兵を連ねて禍を結び、安寧なる歳をなくしてしまったのである。
 その東遷に及んで隋唐の統一に当たったが、それでも詔命を拒んで順うこともなく、王の使者を土室に囚えた。
 このように頑然不畏であったがために、罪を問われて軍を送られ、一時は奇策を設けて大軍を陥れることもできたが、結局は王が降伏することになり、国が滅んだ後で止んだ。
 このような始末を観れば、その上下に和をもたらそうとし、衆庶と睦まじくしようとするなら、大国であろうと、それを取り上げることはできない。
 しかし、その運営が国家に不義、人民に不仁であれば、衆人に怨みを湧き立たせることになり、自壊して国勢も失われるであろう。
 だからこそ孟子は、「天の時も地の利も、人の和に如かず」と言ったのだ。
 左氏に「国家は福によって興り、それは禍によって滅亡する。国家は人民の痛みを己の痛みとして視ることによって興る。これが福である。それは人民を土くれやゴミくずのように扱うことで滅亡する。これが禍である。」とあるが、なんとも味わい深いことだろうか、この言葉は!
 それならば、おおよそ国家の存在というものは、横暴な役人に脅迫をけしかけ、宗主が無理やり重税を取り立てることで人心を失い、人民が道理にかなった統治を求めて乱世が去ることを欲しているのに、国家を存して滅ぼさないのであれば、これは酒を強要して悪酔いさせる輩と何が違うというのだろうか?

 三國史記 卷第二十二

 

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≪白文≫
 六年、春二月。
 太宗將復行師、朝議以為、
 高句麗依山為城、不可猝拔。
 前大駕親征、國人不得耕種、所克之城、實收其穀、繼以旱災、民太半乏食。
 今若數遣偏師、更迭擾其疆場、使彼疲於奔命、釋耒入堡、數年之間、千里蕭條、則人心自離、鴨淥之北、可不戰而取矣。
 帝從之、以左武衛大將軍牛進達、為靑丘道行軍大摠管、右武衛將軍李海岸副之、發兵萬餘人、乘樓舡、自萊州、泛海而入、又以太子詹事李世勣、為遼東道行軍大摠管、右武衛將軍孫貳朗等副之、將兵三千人、因營州都督府兵、自新城道入。
 兩軍、皆選習水善戰者、配之。

 夏五月。
 李世勣軍既度遼、歷南蘇等數城、皆背城拒戰、世勣擊破之、焚其羅郭而還。

 秋七月。
牛進達、李海岸入我境、凡百餘戰、攻石城拔之、進至積利城下。
我兵萬餘人出戰、李海岸擊克之、我軍死者二千級。

 八月。
 太宗勅宋州刺史王波利等、發江南十二州工人、造大數百艘、欲以伐我。

 冬十二月。
 王使第二子莫離支任武、入謝罪、帝許之。

 七年、春正月。
 遣使入唐朝貢。
 帝詔右武衛大將軍薛萬徹、為靑丘道行軍大摠管、右衛將軍裴行方副之、將兵三萬餘人、及樓舡戰艦、自萊州、泛海來擊。

 夏四月。
 烏胡鎭將古神感、將兵浮海來擊、遇我步騎五千、戰於易山、破之。
 其夜、我軍萬餘人、襲神感舡、神感伏發、乃敗。

 六月。
 帝謂我困弊、議以明年發三十萬衆、一擧滅之。
 或以為大軍東征、須備經歲之糧、非畜乘所能載、宜具是舟艦、為水轉。
 隋末劒南、獨無寇盜、屬者遼東之役、劒南復不預及。
 其百姓富庶、宜使之造舟艦。
 帝從之。

 秋七月。
 王都女産子、一身兩頭。
 太宗遣左領左右府長史強偉於劒南道、伐木造舟艦。
 大者或長百尺、其廣半之。
 別遣使行水道、自巫峽、抵江、楊、趣萊州。

 九月。
 群獐渡河西走、群狼向西行、三日不絶。
 太宗遣將軍薛萬徹等來伐。
 渡海入鴨淥、至泊灼城南四十里、止營。
 泊灼城主所夫孫、帥步騎萬餘、拒之、萬徹遣右衛將軍裴行方、領步卒及諸軍乘之、我兵潰。
 行方等進兵圍之、泊灼城因山設險、阻鴨淥水以爲固、攻之不拔。
 我將高文、率烏骨、安地諸城兵三萬餘人、來援、分置兩陣、萬徹分軍以當之、我軍敗潰。
 帝又詔萊州刺史李道裕、轉糧及器械、貯於烏胡島、將欲大擧。

 八年、夏四月。
 唐太宗崩。
 遺詔罷遼東之役。

 論曰、
 初、太宗有事於遼東也、諫者非一。
 又自安市旋軍之後、自以不能成功、深悔之。
 歎曰、
 若使魏徵在、不使我有此行也。
 及其將復伐也、司空房玄齡病中上表、諫以為、
 老子曰、知足不辱、知止不殆。
 陛下威名功德、旣云足矣、拓地開疆、亦可止矣。
 且陛下每決一重囚、必令三復五奏、進素膳、止音樂者、重人命也。
 今驅無罪之士卒、委之鋒刃之下、使肝腦塗地、獨不足憫乎。
 嚮使高句麗違失臣節、誅之可也、侵擾百姓、滅之可也、他日能為中國患、除之可也。
 今無此三條、而坐煩中國、内爲前代雪恥、外爲新羅報讎、豈非所存者小、所損者大乎。
 願陛下許高句麗自新、焚凌波之舡、罷應募之衆。
 自然華夷慶賴、遠肅邇安。
 梁公將死之言、
 諄諄若此、而帝不從、思欲丘墟東域而自快、死而後已。
 史論曰、
 好大喜功、勤勒兵於遠者。
 非此之謂乎。
 柳公權小說曰、
 駐蹕之役、高句麗與靺鞨合軍、方四十里、太宗望之、有懼色。
 又曰、
 六軍為高句麗所乘、殆將不振。
 候者告英公之麾、黑旗被圍、帝大恐。
 雖終於自脫、而危懼如彼、而新舊書及司馬公通鑑、不言者、豈非為國諱之者乎。

 九年、夏六月。
 盤龍寺普德和尚、以國家奉道、不信佛法、南移完山孤大山。
 秋七月。
 霜雹害穀、民饑。

 十一年、春正月。
 遣使入唐朝貢。

 十三年、夏四月。
 人或言、
 於馬嶺上、見神人、曰、汝君臣、奢侈無度、敗亡無日矣。

 冬十月。
 王遣將安固出師、及靺鞨兵、擊契丹。
 松漠都督李窟哥禦之、大敗我軍於新城。

 十四年、春正月。
 先是、我與百濟、靺鞨、侵新羅北境、取三十三城、新羅王金春秋、遣使於唐求援。
 三月。
高宗遣營州都督名振、左右[2]衛中郞將蘇定方、將兵來擊。

 夏五月。
 程名振等、渡遼水。
 吾人見其兵少、開門度貴端水、逆戰。
 名振等奮擊、大克之、殺獲千餘人、焚其外郭及村落而歸。

 十五年、夏五月。
 王都雨鐵。

 冬十二月。
 遣使入唐、賀冊皇太子。

 十七年、夏六月。
 唐營州都督兼東夷都護程名振、右領軍中郞將薛仁貴、將兵來攻、不能克。

 十八年、秋九月。
 九虎一時入城食人、捕之不獲。

 冬十一月。
 唐右領軍中郞將薛仁貴等、與我將溫沙門、戰於橫山、破之。

 十九年、秋七月。
 平壤河水血色、凡三日。

 冬十一月。
 唐左驍衛大將軍契苾何力、為浿江道行軍大摠管、左武衛大將軍蘇定方、為遼東道行軍大摠管、左驍衛將軍劉伯英、為平壤道行軍大摠管、蒲州刺史程名振、為鏤方道摠管、將兵分道來擊。

 十年、春正月。
 唐募河南、北、淮南六十七州兵、得四萬四千餘人、詣平壤、鏤方行營、又以鴻臚卿蕭嗣業、為扶餘道行軍摠管、帥回紇等諸部兵、詣平壤。

 夏四月。
 以任雅相、為浿江道行軍摠管、契苾何力、為遼東道行軍摠管、蘇定方、為平壤道行軍摠管、與蕭嗣業及諸胡兵凡三十五軍、水陸分道並進。
 帝欲自將大軍、蔚州刺史李君球立言、
 高句麗小國、何至傾中國事之有。
 如高句麗旣滅、必發兵以守。
 小發則威不振、多發則人不安、是天下疲於轉戍。
 臣謂、
 征之未如勿征、滅之未如勿滅。
 亦會武后諫、帝乃止。

 夏五月。
 王遣將軍惱音信、領靺鞨衆、圍新羅北漢山城、浹旬不解、新羅餉道絶、城中危懼。
 忽有大星落於我營、又雷雨震擊、惱音信等、疑駭別引退。

 秋八月。
 蘇定方破我軍於浿江、奪馬邑山、遂圍平壤城。

 九月。
 蓋蘇文遣其子男生、以精兵數萬、守鴨淥、諸軍不得渡。
 契苾何力至、値氷大合、何力引衆乘氷渡水、鼓噪而進、我軍潰奔。
 何力追數十里、殺三萬人。
 餘衆悉降、男生僅以身免。
 會、有詔班師、乃還。

 二十一年、春正月。
 唐左驍衛將軍白州刺史沃沮道摠管龐孝泰、與蓋蘇文戰於蛇水之上、擧軍沒、與其子十三人、皆戰死。
 蘇定方圍平壤、會大雪、解而退。
凡前後之行、皆無大功而退。

 二十五年。
 王遣太子福男、新唐書云男福、入唐、侍祠泰山。
 蓋蘇文死、長子男生代為莫離支。
 初、知國政、出巡諸城、使其弟男建、男産、留知後事。
 或謂二弟曰、
 男生惡二弟之逼、意欲除之、不如先為計。
 二弟初未之信。
 又有告男生者、曰、
 二弟恐兄還奪其權、欲拒兄不納。
 男生潛遣所親、往平壤伺之。
二弟收掩得之、乃以王命召男生、男生不敢歸。
 男建自為莫離支、發兵討之。
 男生走據國內城、使其子獻誠、詣唐求哀。

 六月。
 高宗命左驍衛大將軍契苾何力、帥兵應接之、男生脫身奔唐。

 秋八月。
 王以男建為莫離支、兼知內外兵馬事。

 九月。
 帝詔男生、授特進遼東都督兼平壤道安撫大使、封玄菟郡公。

 冬十二月。
 高宗以李勣、為遼東道行軍大摠管兼安撫大使、以司列少常伯安陸、郝處俊副之。
 龐同善、契苾何力、並爲遼東道行軍副大摠管兼安撫大使。
 其水陸諸軍摠管、并轉糧使竇義、獨孤卿雲、郭待封等、並受勣處分。
 河北諸州租賦、悉詣遼東、給軍用。

 二十六年、秋九月。
 李勣拔新城、使契苾何力守之。
 勣初渡遼、謂諸將曰、
 新城、高句麗西邊要害、不先得之、餘城未易取也。
 遂攻之。
 城人師夫仇等、縛城主、開門降。
 勣引兵進擊、一十六城皆下。
 龐同善、高侃尚在新城、泉男建遣兵襲其營、左武衛將軍薛仁貴、擊破之。
 侃進至金山、與我軍戰敗。
 我軍乘勝逐北、薛仁貴引兵橫擊之、殺我軍五萬餘人、拔南蘇、木氐、蒼嵒三城、與泉男生軍合。
 郭待封以水軍、自別道、趣平壤。
勣遣別將馮師本、載糧仗以資之、師本舡破失期、待封軍中飢窘。
 欲作書與勣、恐為他所得、知其虛實、乃作離合詩、以與勣。
 勣怒曰、
 軍事方急、何以詩為。
 必斬之。
 行軍管記通事舍人元萬頃、為釋其義、勣乃更遣糧仗赴之。
 萬頃作檄文曰、
 不知守鴨淥之險。
 泉男建報曰、
 謹聞命矣。
 即移兵據鴨淥津、唐兵不得度。
 高宗聞之、流萬頃於嶺南。
郝處俊在安市城下、未及成列、我軍三萬掩至、軍中大駭。
 郝處俊據胡床、方食乾糒、簡精銳、擊敗之。

 二十七年、春正月。
 以右相劉仁軌、為遼東道副大摠管、郝處俊、金仁問副之。

 二月。
 李勣等、拔我扶餘城。
 薛仁貴旣破我軍於金山、乘勝、將三千人、將攻扶餘城、諸將以其兵少、止之。
 仁貴曰、
 兵不必多、顧用之何如耳。
 遂為前鋒以進、與我軍戰、勝之、殺獲我軍、遂拔扶餘城、扶餘州中四十餘城、皆請服。
 侍御史賈言忠奉使、自遼東還。
 帝問、
 軍中云何。
 對曰、
 必克。
 昔、先帝問罪、所以不得志者、虜未有釁也。
 諺曰、軍無媒、中道回。
 今男生兄弟鬩狠為我嚮導、虜之情僞、我盡知之、將忠士力、臣故曰必克。
 且高句麗秘記曰、不及九百年、當有八十大將、滅之。
 高氏自漢有國、今九百年、勣年八十矣。
 虜仍荐饑、人相掠賣、地震裂、狼狐入城、穴於門、人心危駭、是行不再擧矣。
 泉男建復遣兵五萬人、救扶餘城、與李勣等、遇於薛賀水、合戰敗、死者三萬餘人。
 勣進攻大行城。

 夏四月、彗星見於畢、昴之間。
 唐許敬宗曰、
 彗見東北、高句麗將滅之兆也。

 秋九月。
 李勣拔平壤。
 勣旣克大行城、諸軍出他道者、皆與勣會、進至鴨淥柵。
 我軍拒戰、勣等敗之、追奔二百餘里、拔辱夷城、諸城遁逃及降者、相繼。
契苾何力先引兵、至平壤城下、勣軍繼之、圍平壤月餘。
 王藏遣泉男産、帥首領九十八人、持白幡、詣勣降、勣以禮接之。
 泉男建猶閉門拒守、頻遣兵出戰、皆敗。
 男建以軍事委浮圖信誠。
 信誠與小將烏沙、饒苗等、密遣人詣勣、請為內應。
 後五日、信誠開門、勣縱兵登城、鼓噪焚城。
 男建自刺不死。
 執王及男建等。

 冬十月。
 李勣將還、高宗命、
 先以王等獻于昭陵、具軍容、奏凱歌、入京師、獻于大廟。

 十二月。
 帝受俘于含元殿。
 以王政非己出、赦以為司平太常伯員外同正、以泉男産為司宰少卿、僧信誠為銀靑光祿大夫、泉男生為右衛大將軍。
 李勣已下、封賞有差、泉男建流黔州。
 分五部、百七十六城、六十九萬餘戶、為九都督府、四十二州、百縣、置安東都護府於平壤、以統之。
 擢我將帥有功者、為都督、刺史、縣令、與華人叅理。
 以右威衛大將軍薛仁貴、檢校安東都護、摠兵二萬人、以鎭撫之。
 是高宗摠章元年戊辰歲也。

 二年、己巳二月。
 王之庶子安勝、率四千餘戶、投新羅。

 夏四月。
 高宗移二萬八千三百戶於江、淮之南、及山南、京西諸州空曠之地。
 至咸亨元年庚午歲、夏四月、劒牟岑欲興復國家、叛唐、立王外孫安舜、羅紀作勝、為主。
 唐高宗遣大將軍高侃、為東州道行軍摠管、發兵討之。
安舜殺劒牟岑、奔新羅。

 二年辛未歲、秋七月。
 高侃破餘衆於安市城。

 三年壬申歲、十二月。
 高侃與我餘衆、戰于白水山、破之。
 新羅遣兵救我、高侃擊克之、虜獲二千人。

 四年癸酉歲、夏閏五月。
 燕山道摠管大將軍李謹行、破我人於瓠瀘河、俘獲數千人。
 餘衆皆奔新羅。

 儀鳳二年丁丑歲、春二月。
 以降王為遼東州都督、封朝鮮王、遣歸遼東、安輯餘衆。
 東人先在諸州者、皆遣與王俱歸、仍移安東都護府於新城、以統之。
 王至遼東、謀叛、潛與靺鞨通。

 開耀元年。
 召還卬州、以永淳初死。
 贈衛尉卿、詔送至京師、頡利墓左、樹碑其阡、散徙其人於河南、隴右諸州。
 貧者留安東城傍舊城、往往沒於新羅、餘衆散入靺鞨及突厥。
 高氏君長遂絶。

 垂拱二年。
 以降王孫寶元、為朝鮮郡王、至聖曆初、進左鷹揚衛大將軍、更封忠誠國王、使統安東舊部、不行。
 明年、以降王子德武、為安東都督、後稍自國、至元和十三年、遣使入唐、獻樂工。

 論曰、  玄菟、樂浪、本朝鮮之地、箕子所封。
 箕子敎其民、以禮義、田蠶、織作、設禁八條。
 是以其民不相盜、無門戶之閉、婦人貞信不淫、飮食以籩豆、此仁賢之化也。
 而又天性柔順、異於三方。
 故孔子悼道不行、欲浮桴於海以居之、有以也夫。
 然而易之、爻、二多譽、四多懼、近也。
 高句麗自秦、漢之後、介在中國東北隅、其北隣、皆天子有司、亂世則英雄特起、僭竊名位者也、可謂居多懼之地、而無謙巽之意、侵其封場以讐之、入其郡縣以居之。
 是故兵連禍結、略無寧歲。
 及其東遷、値隋、唐之一統、而猶拒詔命以不順、囚王人於土室。
 其頑然不畏如此、故屢致問罪之師。
 雖或有時設奇以陷大軍、而終於王降、國滅而後止。
 然觀始末、當其上下和、衆庶睦、雖大國、不能以取之、及其不義於國、不仁於民、以興衆怨、則崩潰而不自振。
 故孟子曰、天時、地利、不如人和。
 左氏曰、國之興也、以福、其亡也、以禍。
國之興也、視民如傷、是其福也、其亡也、以民為土芥、是其禍也。
 有味哉、斯言也。
 夫然則凡有國家者、縱暴吏之驅迫、强宗之聚斂、以失人心、雖欲理而不亂、存而不亡、又何異强酒而惡醉者乎。

 三國史記 卷第二十二
≪書き下し文≫
 六年、春二月。
 太宗將に行師を復せしめんとすれば、朝議以為(おもへ)らく、
 高句麗は山に依りて城を為し、猝(にわか)に拔く可からず。
 大駕を前(すす)めて親征するも、國人は耕種を得ず、克する所の城、其の穀を實收し、繼ぐに旱災を以てし、民は太るも半ばは食を乏む。
 今若し數(いくばく)の偏師を遣り、更に其の疆場を迭(たがひ)に擾(はら)へば、彼をして奔命に疲せしむ。耒を釋(はな)し堡(とりで)に入らせ、數年の間、千里の蕭條をせしむれば、則ち人心自ずから離る。鴨淥の北、戰はずして取る可きなり。
 帝之れに從ひ、以て左武衛大將軍牛進達を靑丘道行軍大摠管と為し、右武衛將軍李海岸を之れに副せしめ、兵萬餘人を發(はな)ち、樓舡に乘らせしめ、萊州より海を泛りて入らせしめ、又た以て太子詹事李世勣を遼東道行軍大摠管と為し、右武衛將軍孫貳朗等に之れを副せしめ、兵三千人を將いせしめ、營州都督府兵に因り、新城より道入す。
 兩軍、皆水に習ひ善く戰ふ者を選び、之れに配す。

 夏五月。
 李世勣軍既に遼に度り、南蘇等數城を歷(へ)て、皆背城は拒戰するも、世勣之れを擊破し、其の羅郭を焚きて還る。

 秋七月。
 牛進達、李海岸は我が境に入り、凡そ百餘戰し、石城を攻めて之れを拔き、進みて積利城下に至る。
 我が兵萬餘人は戰に出ずるも、李海岸は之れに擊ち克ち、我が軍の死者二千級。

 八月。
 太宗は宋州刺史王波利等に勅し、江南十二州の工人を發し、大數百艘を造らせ、我を伐たむと以てせむと欲す。

 冬十二月。
 王は第二子の莫離支任武をして謝罪に入らせしめ、帝之れを許す。

 七年、春正月。
 遣使して唐に入らせ朝貢す。
 帝は詔して右武衛大將軍薛萬徹を靑丘道行軍大摠管と為し、右衛將軍裴行方に之れを副せしめ、兵三萬餘人及び樓舡戰艦を將いせしめ、萊州より海を泛り擊ちに來らせしむ。

 夏四月。
 烏胡鎭將の古神感、兵を將いて海に浮かび擊ちに來たり、我が步騎五千と遇ひ、易山にて戰ひ、之れを破る。
 其の夜、我が軍萬餘人、神感の舡を襲ふも、神感の伏發し、乃ち敗る。

 六月。
 帝は我が困弊を謂ひ、明年を以て三十萬衆を發し、一擧に之れを滅ぼさむと議す。
 或(あるひと)以為(おもへ)らく、大軍東征、須べからく經歲の糧を備ふべし、畜乘りて能く載す所非ず、宜しく是の舟艦に具へ、水轉を為すべし、と。
 隋末の劒南、獨り寇盜無し、屬する者の遼東の役、劒南復た預及せず。  其の百姓富庶、宜しく之れをして舟艦を造せしむるべし。
 帝は之れに從ふ。

 秋七月。
 王都の女、一身兩頭の子を産む。
 太宗は左領左右府長史の強偉を劒南道に遣り、木を伐ち舟艦を造らせしむ。
 大なる者、或(あるもの)は長百尺、其の廣は之れの半ばとす。
 別に遣使して水道を行き、巫峽、抵江、楊より、萊州に趣く。

 九月。
 群獐は河を渡りて西に走り、群狼は西に向かひて行き、三日絶たず。
 太宗、將軍の薛萬徹等を遣り伐ちに來たり。
 海を渡り鴨淥に入り、泊灼城の南四十里に至らしめ、營に止む。
 泊灼城主の所夫孫、步騎萬餘を帥い、之れを拒むも、萬徹は右衛將軍裴行方を遣り、步卒及び諸軍を領(おさ)めせしめて之れに乘じ、我が兵潰(つい)ゆ。
 行方等は兵を進めて之れを圍むも、泊灼城は山に因り險を設し、鴨淥水を阻みて以て固を爲し、之れを攻むるも拔かず。
 我が將高文、烏骨を率い、安地諸城の兵三萬餘人、援に來たり、兩陣に分置するも、萬徹軍を分けて以て之れに當たり、我が軍敗潰す。
 帝又た萊州刺史李道裕に詔し、糧及び器械を轉ばせ、烏胡島に貯めせしめ、將に大擧を欲さむとす。

 八年、夏四月。
 唐の太宗崩る。
 遺詔して遼東の役を罷(や)む。

 論じて曰く、
 初め、太宗は遼東に事有るや、諫むる者は一に非ず。
 又た安市より軍を旋(かへ)す後、自ずから以て成功に能はず、之れを深く悔ゆ。
 歎じて曰く、
 若し魏徵をして在らせしめれば、我をして此の行を有ることなからしむるなり、と。
 其の將に復た伐たむとするに及ぶや、司空の房玄齡は病中に上表し、諫めて以為らく、
 老子曰く、足るを知れば辱られず、止むるを知れば殆(あや)ふからず。
 陛下の威名功德、旣に足ると云へり、地を拓き疆を開き、亦た止む可し。
 且も陛下は一重の囚を決する每に、必ず三復五奏せしめ、素膳を進め、音樂する者を止めさせ、人命を重んずるなり。
 今や無罪の士卒を驅り、之れを鋒刃の下に委ね、肝腦をして地を塗らせしめ、獨り憫むに足らざらんや。
 嚮(さき)に高句麗をして臣節を違失せしめ、之れを誅するは可なり。百姓を侵擾(をかしみだ)し、之れを滅すは可なり。他日に能く中國の患を為し、之れを除くは可なり。
 今や此の三條無し、而れども坐して中國を煩はし、内には前代の雪恥と爲し、外には新羅の報讎と爲す。豈に存する所の者は小、損する所の者は大に非ざらむや。
 陛下に高句麗の自ら新たにすることを許し、凌波の舡を焚き、應募の衆を罷むことを願ふ。
 自ら華夷の慶賴を然とし、遠は肅して邇きは安んず。
 梁公將に之れに死さむとして諄諄と言ふは、此くの若し、と。
 而れども帝從ふことなし、丘墟の東域を欲さむと思ひて自ら快び、死して後に已む。
 史論に曰く、
 大を好み功を喜び、勒兵を遠者に勤む、と。
 此れ之れを謂ふに非ざるなり。
 柳公權小說に曰く、
 駐蹕の役、高句麗と靺鞨は軍を合せ、方四十里、太宗之れを望み、懼色有り、と。
 又た曰く、
 六軍は高句麗の乘する所と為り、殆(おほかた)の將は振ぜず。
 候者、英公の麾は黑旗に圍を被ると告げ、帝大いに恐る、と。
 自ら脫するに終えたと雖も、而りて危懼すること彼の如し、而るに新舊の書及び司馬公の通鑑、不言なるは、豈に國の為に之れを諱するに非らんや。

 九年、夏六月。
 盤龍寺の普德和尚、國家の道に奉じて、佛法を信ぜざるを以て、完山の孤大山に南移す。

 秋七月。
 霜雹穀を害し、民饑ゆ。

 十一年、春正月。
 遣使して唐に入らせ朝貢す。

 十三年、夏四月。
 人或言、
 於馬嶺の上、神人を見ゆ、曰く、汝の君臣、奢侈にして度すること無し、敗亡に日無きかな。

 冬十月。
 王は將安固を遣りて出師せしめ、靺鞨兵に及ぼし、契丹を擊つ。
 松漠都督の李窟哥は之れを禦し、我が軍を新城にて大いに敗る。

 十四年、春正月。
 先ず是れ、我と百濟、靺鞨、新羅の北境を侵し、三十三城を取るも、新羅王の金春秋、唐に遣使して援(たすけ)を求む。

 三月。
 高宗は營州都督の名振を遣り、左右衛中郞將の蘇定方、兵を將いて擊ちに來たる。

 夏五月。
 程名振等、遼水を渡る。
 吾人其の兵の少なしを見、門を開き貴端水を度り、逆戰す。
 名振等奮擊し、大いに之れに克ち、殺獲すること千餘人、其の外郭及び村落を焚きて歸る。

 十五年、夏五月。
 王都に鐵の雨(あめふ)る。

 冬十二月。
 遣使して唐に入らせ、皇太子の冊するを賀す。

 十七年、夏六月。
 唐營州都督兼東夷都護の程名振、右領軍中郞將の薛仁貴、兵を將いて攻めに來たり、克つに能はず。

 十八年、秋九月。
 九虎一時城に入り人を食らひ、之れを捕へむとするも獲ず。

 冬十一月。
 唐右領軍中郞將薛仁貴等、我が將の溫沙門と橫山にて戰ひ、之れを破る。

 十九年、秋七月。
 平壤の河水、血色すること凡そ三日。

 冬十一月。
 唐左驍衛大將軍契苾何力を浿江道行軍大摠管と為し、左武衛大將軍蘇定方を遼東道行軍大摠管と為し、左驍衛將軍劉伯英を平壤道行軍大摠管と為し、蒲州刺史程名振を鏤方道摠管と為し、兵を將いせしめ道を分けて擊ちに來たる。

 十年、春正月。
 唐は河南、北、淮南六十七州に兵を募り、四萬四千餘人を得、平壤、鏤方の行營に詣(まい)り、又た以て鴻臚卿蕭嗣業を扶餘道行軍摠管と為し、帥回紇等の諸部兵、平壤に詣(まい)る。

 夏四月。
 以て任雅相を浿江道行軍摠管と為し、契苾何力を遼東道行軍摠管と為し、蘇定方を平壤道行軍摠管と為し、與蕭嗣業及び諸胡兵凡そ三十五軍、水陸は道を分けて並びて進む。
 帝は自ら大軍を將いんと欲するも、蔚州刺史の李君球立ちて言はく、
 高句麗は小國、何ぞ中國を傾けて之れを事とすること有るに至らむ。
 如し高句麗は旣に滅べば、必ず兵を發ち以て守る。
 小發すれば則ち威は振るはず、多發てば則ち人安ぜず、是れ天下を轉戍に疲せしむ。
 臣謂はく、之れを征するは未だ征すること勿きに如かず、之れを滅ぼすは未だ滅ぶこと勿きに如かず、と。
 亦た武后の諫むるに會し、帝乃ち止む。

 夏五月。
 王は將軍惱音信を遣り、靺鞨の衆を領めしめ、新羅の北漢山城を圍み、旬(とおか)を浹(ひとめぐり)するも解かず、新羅の餉道絶ち、城中危懼す。
 忽として大星の我が營に落つること有り、又た雷雨震擊し、惱音信等、駭別を疑ひ引き退く。

 秋八月。
 蘇定方は我が軍を浿江にて破り、馬邑山を奪ひ、遂に平壤城を圍む。

 九月。
 蓋蘇文は其の子の男生を遣り、精兵數萬を以て、鴨淥を守らせしめ、諸軍渡るを得ず。
 契苾何力至り、値氷大いに合ひ、何力は衆を引き氷に乘り水を渡り、鼓噪して進み、我が軍潰奔す。
 何力は數十里を追ひ、三萬人を殺す。
 餘衆悉く降り、男生僅かに身を以て免ず。
 會(たまたま)、師を班させしむるとの詔有り、乃ち還る。

 二十一年、春正月。
 唐左驍衛將軍白州刺史沃沮道摠管龐孝泰、蓋蘇文と蛇水の上にて戰ひ、軍沒を擧げ、其の子十三人と皆戰死す。
 蘇定方は平壤を圍むも、大雪に會し、解きて退く。
 凡そ前後の行、皆大功無くして退く。

 二十五年。
 王は太子福男を遣り、新唐書に男福と云ふ、唐に入らせ、泰山を祠(まつ)るに侍らせしむ。
 蓋蘇文死し、長子の男生を代はりに莫離支と為す。
 初め、國政を知(つかさど)り、諸城に出巡し、其の弟の男建、男産をして、後の事を留知せしむ。
 或(あるひと)二弟に謂ひて曰く、
 男生は二弟の逼を惡(にく)み、意(こころ)には之れを除かむと欲す、計を為すことを先にするに如かず。
 二弟は初め未だ之れ信ずることなし。
 又た男生に告げる者有りて曰く、
 二弟は兄の其の權を還奪するを恐れ、兄を拒み納れざらむと欲す。
 男生は親する所に潛遣し、平壤に往かせしめ之れを伺はせしむ。
 二弟は收掩して之れを得、乃ち王命を以て男生を召すも、男生歸するを敢へてせず。
 男建自ら莫離支と為り、兵を發ち之れを討つ。
 男生は走りて國內城に據し、其の子の獻誠をして唐を詣らせしめ哀(あはれみ)を求む。

 六月。
 高宗は左驍衛大將軍契苾何力に命じ、兵を帥いせしめ之れに應接せしむれば、男生身を脫して唐に奔る。

 秋八月。
 王は男建を以て莫離支と為し、內外兵馬の事を兼知せしむ。

 九月。
 帝は男生に詔し、特進遼東都督兼平壤道安撫大使を授け、玄菟郡公に封ぜしむ。

 冬十二月。
 高宗は以て李勣を遼東道行軍大摠管兼安撫大使と為し、以て司列少常伯安陸、郝處俊に之れを副せしむ。
 龐同善、契苾何力、並べて遼東道行軍副大摠管兼安撫大使と爲す。
 其の水陸の諸軍摠管、并轉糧使竇義、獨孤卿雲、郭待封等、並びて勣に處分を受く。
 河北諸州の租賦、悉く遼東に詣り、軍用を給ふ。

 二十六年、秋九月。
 李勣は新城を拔き、契苾何力をして之れを守らせしむ。
 勣は初め遼を渡り、諸將に謂ひて曰く、
 新城、高句麗西邊の要害たり、先に之れを得ずして、餘城未だ取るを易からざるなり。
 遂に之れを攻む。
 城人の師夫仇等、城主を縛り、門を開き降る。
 勣は兵を引き進擊し、一十六城皆下る。
 龐同善、高侃尚ほ新城に在り、泉男建兵を遣り其の營を襲はしむるも、左武衛將軍の薛仁貴、之れを擊ち破る。
 侃は進みて金山に至り、我が軍と戰ひて敗る。
 我が軍は勝ちに乘じて北に逐(お)ひ、薛仁貴は兵を引き之れを橫擊し、我が軍の五萬餘人を殺し、南蘇、木氐、蒼嵒の三城を拔き、泉男生の軍と合ふ。
 郭待封は水軍を以て、自ら道を別け、平壤に趣く。
 勣は別將の馮師本を遣り、糧仗を載せて以て之れを資さしめ、師本の舡は破れて期を失ひ、待封の軍は飢窘に中(あた)る。
 書を勣と與に作さむと欲するも、他の得る所と為るを恐れ、其の虛實を知らしめんとし、乃ち離合詩を作し、以て勣に與す。
 勣怒りて曰く、
 軍事の方急、何を以て詩為さむ。
 必ず之れを斬らむ。
 行軍管記通事舍人の元萬頃、其の義を釋するを為し、勣は乃ち更に糧仗を遣り之れに赴かせしむ。
 萬頃は檄文を作して曰く、
 守鴨淥の險を知らず、と。
 泉男建報せて曰く、
 謹みて命を聞けり、と。
 即ち兵を移し鴨淥津に據り、唐兵は度るを得ず。
 高宗之れを聞き、萬頃を嶺南に流す。
 郝處俊は安市城下に在り、未だ成列せざるに及び、我が軍三萬は掩(ひそ)かに至り、軍中大いに駭(みだ)る。
 郝處俊は胡床に據り、方に乾糒を食さむとするも、精銳を簡(えら)び、之れを擊ち敗る。

 二十七年、春正月。
 以て右相劉仁軌を遼東道副大摠管と為し、郝處俊、金仁問に之れを副せしむ。

 二月。
 李勣等、我が扶餘城を拔く。
 薛仁貴旣に我が軍を金山にて破り、勝ちに乘じ、三千人を將い、將に扶餘城を攻めんとし、諸將は其の兵の少なきを以て之れを止む。
 仁貴曰く、
 兵は多を必せず、之れを顧用するを何如とするのみ。
 遂に前鋒を為して以て進み、我が軍と戰ひ、之れに勝ち、我が軍を殺獲し、遂に扶餘城を拔き、扶餘州中の四十餘城、皆が服を請ふ。
 侍御史賈言忠は使を奉じ、遼東より還る。
 帝問ふ、
 軍中何を云ふか。
 對へて曰く、
 必ず克つ。
 昔、先帝は罪を問ひ、志を得ざる所以の者、虜は未だ釁すること有らむなり。
 諺に曰く、軍に媒(なかだち)無ければ、中道に回(かへ)す。
 今の男生兄弟、狠と鬩ひて我が嚮導を為し、虜の情僞、我は之れを盡知し、忠士の力を將い、臣は故に必ず克つと曰ふ。
 且も高句麗秘記に曰く、九百年に及ばず、八十大將有るに當たり、之れを滅さむ、と。
 高氏は漢より國を有らせ、今や九百年、勣は年八十なり。
 虜は荐饑に仍り、人は相ひ掠賣し、地は震裂し、狼狐は城に入り、門に穴あき、人心は危駭し、是れ行きて擧を再びせざるかな。
 泉男建復た兵五萬人を遣り、扶餘城を救はしむるも、李勣等と薛賀水に遇ひ、合戰して敗れ、死者三萬餘人。
 勣は大行城に進攻す。

 夏四月。
 彗星、畢昴の間に見(あらは)る。
 唐許敬宗曰く、
 彗の東北に見るは、高句麗將に滅びんとするの兆なり。

 秋九月。
 李勣、平壤を拔く。
 勣は旣に大行城に克ち、諸軍の他道に出ずる者、皆が勣と會し、進みて鴨淥柵に至る。
 我が軍拒戰するも、勣等之れを敗り、追奔すること二百餘里、辱夷城を拔き、諸城の遁逃及び降る者、相繼ぐ。
 契苾何力は先に兵を引き、平壤城下に至り、勣軍之れに繼ぎ、平壤を圍むこと月餘り。
 王藏は泉男産を遣り、首領九十八人を帥いせしめ、白幡を持するも、勣に詣りて降り、勣は禮を以て之れを接す。
 泉男建猶ほ門を閉ざし守を拒み、頻(しきり)に兵を遣り戰に出ずるも、皆敗れる。
 男建は以て軍事を浮圖の信誠に委ぬ。
 信誠と小將の烏沙、饒苗等、密かに人を遣り勣に詣らせ、內應を為さむと請へり。
 後五日、信誠は門を開き、勣は兵を縱(はな)ちて城を登り、鼓噪して城を焚く。
 男建自ら刺するも死なず。
 王及び男建等を執る。

 冬十月。
 李勣將に還らむとすれば、高宗命ず、
 先ず王等を以て昭陵に獻じ、軍容を具(そな)へ、凱歌を奏で、京師に入り、大廟に獻ぜよ、と。

 十二月。
 帝、含元殿に受俘す。
 王政の己に出ずるに非ずを以て、赦して以て司平太常伯員外同正と為し、以て泉男産を司宰少卿と為し、僧の信誠を銀靑光祿大夫と為し、泉男生を右衛大將軍と為す。
 李勣已下、有差に封賞し、泉男建を黔州に流す。
 五部、百七十六城、六十九萬餘戶を分け、九都督府、四十二州、百縣と為し、安東都護府を平壤に置き、以て之れを統べる。
 我が將帥の功有る者を擢ち、都督、刺史、縣令と為し、華人と與に理に叅る。
 以て右威衛大將軍薛仁貴、安東都護に檢校せしめ、摠兵二萬人、以て之れに鎭撫せしむ。
 是れ高宗摠章元年戊辰の歲なり。

 二年、己巳二月。
 王の庶子安勝、四千餘戶を率い、新羅に投ず。

 夏四月。
 高宗は二萬八千三百戶を江淮の南及び山南に移し、西諸州空曠の地を京とす。
 咸亨元年庚午歲に至り、夏四月、劒牟岑國家を興復せむと欲し、唐に叛き、王に外孫の安舜を立て、羅紀に勝と作す、主と為す。
 唐高宗は大將軍の高侃を遣り、東州道行軍摠管と為し、兵を發ち之れを討たせしむ。
 安舜は劒牟岑を殺し、新羅に奔る。

 二年辛未歲、秋七月。
 高侃は餘衆を安市城にて破る。

 三年壬申歲、十二月。
 高侃と我が餘衆、白水山にて戰ひ、之れを破る。
 新羅は兵を遣り我を救ふも、高侃は之れに擊ち克ち、虜獲すること二千人。

 四年癸酉歲、夏閏五月。
 燕山道摠管の大將軍李謹行、我が人を瓠瀘河にて破り、俘獲すること數千人。
 餘衆皆が新羅に奔る。

 儀鳳二年丁丑歲、春二月。
 王の降るを以て遼東州都督と為し、朝鮮王に封じ、遼東に遣歸せしめ、餘衆を安輯せしむ。
 東人の先に諸州に在る者、皆が王に與せしめて俱に歸せしめ、仍りて安東都護府を新城に移し、以て之れを統べる。
 王は遼東に至り、叛を謀り、潛かに靺鞨と通ず。

 開耀元年。
 卬州に召還し、永淳初を以て死す。
 衛尉卿を贈り、詔をして送り、京師に至らせしめ、頡利の墓の左、樹碑其阡、其の人を河南、隴右諸州に散徙せしむ。
 貧者は安東城の傍の舊城に留め、往往にして新羅に沒し、餘衆は靺鞨及び突厥に散入す。
 高氏の君長、遂に絶つ。

 垂拱二年。
 王孫の寶元を降るを以て、朝鮮郡王と為し、聖曆初に至り、左鷹揚衛大將軍に進め、更に忠誠國王に封じ、統安東舊部に使するも、行かず。
 明年、王子の德武に降るを以て、安東都督と為し、後に自國を稍くし、元和十三年に至り、遣使して唐に入らせしめ、樂工を獻ず。

 論じて曰く、  玄菟、樂浪は本(もともと)朝鮮の地、箕子の封ずる所たり。
 箕子は其の民に、禮義、田蠶、織作を以て敎え、禁八條を設く。
 是を以て其の民相ひ盜まず、門戶の閉を無からしめ、婦人は貞信不淫たらしめ、飮食は籩豆を以てす、此れ仁賢の化なり。
 而るに又た天性柔順、三方と異なる。
 故に孔子は道の行はれざるを悼み、海に桴を浮して以て之れに居まはむと欲するは、以(ゆえ)有るならむ。
 然るに而して易の爻、二は譽(ほまれ)多く、四は懼れ多し、近きなり。
 高句麗は秦漢の後より、中國の東北の隅に介在し、其の北に隣し、皆天子の有司、亂世なれば則ち英雄特起し、僭竊に位を名づくる者なれども、居するに多懼の地と謂ふ可し、而るに謙巽の意を無く、其の封場を侵して以て之れに讐し、其の郡縣に入りて以て之れに居す。
 是の故に兵を連ねて禍を結び、寧歲を略無せしむ。
 其の東遷に及び、隋唐の一統に値し、而れども猶ほ詔命を拒みて以て順(したが)はず、王人を土室に囚ふ。
 其の頑然不畏たること此の如くして、故に屢(しばしば)問罪の師を致す。
 或(あるいは)時有らば奇を設して以て大軍を陷とすと雖も、而りて王の降るに於いて終り、國滅びて後に止む。
 然りて始末を觀れば、當に其の上下を和さむとし、衆庶睦まじくせむとすれば、大國と雖も、之れを取るを以てするに能はず、其の國に不義たり、民に不仁たるに及び、以て衆の怨を興し、則ち崩潰して自振せず。
 故に孟子は、天の時、地の利、人の和に如かざると曰ふ。
 左氏に曰く、國の興るや、福を以てし、其の亡ぶや、禍を以てす。
 國の興るや、民を視ること傷むが如し、是れ其れ福なり。
 其の亡ぶや、民を以て土芥と為し、是れ其れ禍なり。
 味を有するかな、斯く言なるや。
 夫れ然らば則ち凡そ國家を有らしむる者、暴吏の驅迫を縱(ゆる)し、宗の聚斂を强いて以て人心を失し、理して不亂を欲すると雖も、存して亡ばざるは、又た何ぞ酒を强いて惡醉ひする者と異ならむや。

 三國史記 卷第二十二