≪白文≫
六年、春二月。
太宗將復行師、朝議以為、
高句麗依山為城、不可猝拔。
前大駕親征、國人不得耕種、所克之城、實收其穀、繼以旱災、民太半乏食。
今若數遣偏師、更迭擾其疆場、使彼疲於奔命、釋耒入堡、數年之間、千里蕭條、則人心自離、鴨淥之北、可不戰而取矣。
帝從之、以左武衛大將軍牛進達、為靑丘道行軍大摠管、右武衛將軍李海岸副之、發兵萬餘人、乘樓舡、自萊州、泛海而入、又以太子詹事李世勣、為遼東道行軍大摠管、右武衛將軍孫貳朗等副之、將兵三千人、因營州都督府兵、自新城道入。
兩軍、皆選習水善戰者、配之。
夏五月。
李世勣軍既度遼、歷南蘇等數城、皆背城拒戰、世勣擊破之、焚其羅郭而還。
秋七月。
牛進達、李海岸入我境、凡百餘戰、攻石城拔之、進至積利城下。
我兵萬餘人出戰、李海岸擊克之、我軍死者二千級。
八月。
太宗勅宋州刺史王波利等、發江南十二州工人、造大數百艘、欲以伐我。
冬十二月。
王使第二子莫離支任武、入謝罪、帝許之。
七年、春正月。
遣使入唐朝貢。
帝詔右武衛大將軍薛萬徹、為靑丘道行軍大摠管、右衛將軍裴行方副之、將兵三萬餘人、及樓舡戰艦、自萊州、泛海來擊。
夏四月。
烏胡鎭將古神感、將兵浮海來擊、遇我步騎五千、戰於易山、破之。
其夜、我軍萬餘人、襲神感舡、神感伏發、乃敗。
六月。
帝謂我困弊、議以明年發三十萬衆、一擧滅之。
或以為大軍東征、須備經歲之糧、非畜乘所能載、宜具是舟艦、為水轉。
隋末劒南、獨無寇盜、屬者遼東之役、劒南復不預及。
其百姓富庶、宜使之造舟艦。
帝從之。
秋七月。
王都女産子、一身兩頭。
太宗遣左領左右府長史強偉於劒南道、伐木造舟艦。
大者或長百尺、其廣半之。
別遣使行水道、自巫峽、抵江、楊、趣萊州。
九月。
群獐渡河西走、群狼向西行、三日不絶。
太宗遣將軍薛萬徹等來伐。
渡海入鴨淥、至泊灼城南四十里、止營。
泊灼城主所夫孫、帥步騎萬餘、拒之、萬徹遣右衛將軍裴行方、領步卒及諸軍乘之、我兵潰。
行方等進兵圍之、泊灼城因山設險、阻鴨淥水以爲固、攻之不拔。
我將高文、率烏骨、安地諸城兵三萬餘人、來援、分置兩陣、萬徹分軍以當之、我軍敗潰。
帝又詔萊州刺史李道裕、轉糧及器械、貯於烏胡島、將欲大擧。
八年、夏四月。
唐太宗崩。
遺詔罷遼東之役。
論曰、
初、太宗有事於遼東也、諫者非一。
又自安市旋軍之後、自以不能成功、深悔之。
歎曰、
若使魏徵在、不使我有此行也。
及其將復伐也、司空房玄齡病中上表、諫以為、
老子曰、知足不辱、知止不殆。
陛下威名功德、旣云足矣、拓地開疆、亦可止矣。
且陛下每決一重囚、必令三復五奏、進素膳、止音樂者、重人命也。
今驅無罪之士卒、委之鋒刃之下、使肝腦塗地、獨不足憫乎。
嚮使高句麗違失臣節、誅之可也、侵擾百姓、滅之可也、他日能為中國患、除之可也。
今無此三條、而坐煩中國、内爲前代雪恥、外爲新羅報讎、豈非所存者小、所損者大乎。
願陛下許高句麗自新、焚凌波之舡、罷應募之衆。
自然華夷慶賴、遠肅邇安。
梁公將死之言、
諄諄若此、而帝不從、思欲丘墟東域而自快、死而後已。
史論曰、
好大喜功、勤勒兵於遠者。
非此之謂乎。
柳公權小說曰、
駐蹕之役、高句麗與靺鞨合軍、方四十里、太宗望之、有懼色。
又曰、
六軍為高句麗所乘、殆將不振。
候者告英公之麾、黑旗被圍、帝大恐。
雖終於自脫、而危懼如彼、而新舊書及司馬公通鑑、不言者、豈非為國諱之者乎。
九年、夏六月。
盤龍寺普德和尚、以國家奉道、不信佛法、南移完山孤大山。
秋七月。
霜雹害穀、民饑。
十一年、春正月。
遣使入唐朝貢。
十三年、夏四月。
人或言、
於馬嶺上、見神人、曰、汝君臣、奢侈無度、敗亡無日矣。
冬十月。
王遣將安固出師、及靺鞨兵、擊契丹。
松漠都督李窟哥禦之、大敗我軍於新城。
十四年、春正月。
先是、我與百濟、靺鞨、侵新羅北境、取三十三城、新羅王金春秋、遣使於唐求援。
三月。
高宗遣營州都督名振、左右[2]衛中郞將蘇定方、將兵來擊。
夏五月。
程名振等、渡遼水。
吾人見其兵少、開門度貴端水、逆戰。
名振等奮擊、大克之、殺獲千餘人、焚其外郭及村落而歸。
十五年、夏五月。
王都雨鐵。
冬十二月。
遣使入唐、賀冊皇太子。
十七年、夏六月。
唐營州都督兼東夷都護程名振、右領軍中郞將薛仁貴、將兵來攻、不能克。
十八年、秋九月。
九虎一時入城食人、捕之不獲。
冬十一月。
唐右領軍中郞將薛仁貴等、與我將溫沙門、戰於橫山、破之。
十九年、秋七月。
平壤河水血色、凡三日。
冬十一月。
唐左驍衛大將軍契苾何力、為浿江道行軍大摠管、左武衛大將軍蘇定方、為遼東道行軍大摠管、左驍衛將軍劉伯英、為平壤道行軍大摠管、蒲州刺史程名振、為鏤方道摠管、將兵分道來擊。
十年、春正月。
唐募河南、北、淮南六十七州兵、得四萬四千餘人、詣平壤、鏤方行營、又以鴻臚卿蕭嗣業、為扶餘道行軍摠管、帥回紇等諸部兵、詣平壤。
夏四月。
以任雅相、為浿江道行軍摠管、契苾何力、為遼東道行軍摠管、蘇定方、為平壤道行軍摠管、與蕭嗣業及諸胡兵凡三十五軍、水陸分道並進。
帝欲自將大軍、蔚州刺史李君球立言、
高句麗小國、何至傾中國事之有。
如高句麗旣滅、必發兵以守。
小發則威不振、多發則人不安、是天下疲於轉戍。
臣謂、
征之未如勿征、滅之未如勿滅。
亦會武后諫、帝乃止。
夏五月。
王遣將軍惱音信、領靺鞨衆、圍新羅北漢山城、浹旬不解、新羅餉道絶、城中危懼。
忽有大星落於我營、又雷雨震擊、惱音信等、疑駭別引退。
秋八月。
蘇定方破我軍於浿江、奪馬邑山、遂圍平壤城。
九月。
蓋蘇文遣其子男生、以精兵數萬、守鴨淥、諸軍不得渡。
契苾何力至、値氷大合、何力引衆乘氷渡水、鼓噪而進、我軍潰奔。
何力追數十里、殺三萬人。
餘衆悉降、男生僅以身免。
會、有詔班師、乃還。
二十一年、春正月。
唐左驍衛將軍白州刺史沃沮道摠管龐孝泰、與蓋蘇文戰於蛇水之上、擧軍沒、與其子十三人、皆戰死。
蘇定方圍平壤、會大雪、解而退。
凡前後之行、皆無大功而退。
二十五年。
王遣太子福男、新唐書云男福、入唐、侍祠泰山。
蓋蘇文死、長子男生代為莫離支。
初、知國政、出巡諸城、使其弟男建、男産、留知後事。
或謂二弟曰、
男生惡二弟之逼、意欲除之、不如先為計。
二弟初未之信。
又有告男生者、曰、
二弟恐兄還奪其權、欲拒兄不納。
男生潛遣所親、往平壤伺之。
二弟收掩得之、乃以王命召男生、男生不敢歸。
男建自為莫離支、發兵討之。
男生走據國內城、使其子獻誠、詣唐求哀。
六月。
高宗命左驍衛大將軍契苾何力、帥兵應接之、男生脫身奔唐。
秋八月。
王以男建為莫離支、兼知內外兵馬事。
九月。
帝詔男生、授特進遼東都督兼平壤道安撫大使、封玄菟郡公。
冬十二月。
高宗以李勣、為遼東道行軍大摠管兼安撫大使、以司列少常伯安陸、郝處俊副之。
龐同善、契苾何力、並爲遼東道行軍副大摠管兼安撫大使。
其水陸諸軍摠管、并轉糧使竇義、獨孤卿雲、郭待封等、並受勣處分。
河北諸州租賦、悉詣遼東、給軍用。
二十六年、秋九月。
李勣拔新城、使契苾何力守之。
勣初渡遼、謂諸將曰、
新城、高句麗西邊要害、不先得之、餘城未易取也。
遂攻之。
城人師夫仇等、縛城主、開門降。
勣引兵進擊、一十六城皆下。
龐同善、高侃尚在新城、泉男建遣兵襲其營、左武衛將軍薛仁貴、擊破之。
侃進至金山、與我軍戰敗。
我軍乘勝逐北、薛仁貴引兵橫擊之、殺我軍五萬餘人、拔南蘇、木氐、蒼嵒三城、與泉男生軍合。
郭待封以水軍、自別道、趣平壤。
勣遣別將馮師本、載糧仗以資之、師本舡破失期、待封軍中飢窘。
欲作書與勣、恐為他所得、知其虛實、乃作離合詩、以與勣。
勣怒曰、
軍事方急、何以詩為。
必斬之。
行軍管記通事舍人元萬頃、為釋其義、勣乃更遣糧仗赴之。
萬頃作檄文曰、
不知守鴨淥之險。
泉男建報曰、
謹聞命矣。
即移兵據鴨淥津、唐兵不得度。
高宗聞之、流萬頃於嶺南。
郝處俊在安市城下、未及成列、我軍三萬掩至、軍中大駭。
郝處俊據胡床、方食乾糒、簡精銳、擊敗之。
二十七年、春正月。
以右相劉仁軌、為遼東道副大摠管、郝處俊、金仁問副之。
二月。
李勣等、拔我扶餘城。
薛仁貴旣破我軍於金山、乘勝、將三千人、將攻扶餘城、諸將以其兵少、止之。
仁貴曰、
兵不必多、顧用之何如耳。
遂為前鋒以進、與我軍戰、勝之、殺獲我軍、遂拔扶餘城、扶餘州中四十餘城、皆請服。
侍御史賈言忠奉使、自遼東還。
帝問、
軍中云何。
對曰、
必克。
昔、先帝問罪、所以不得志者、虜未有釁也。
諺曰、軍無媒、中道回。
今男生兄弟鬩狠為我嚮導、虜之情僞、我盡知之、將忠士力、臣故曰必克。
且高句麗秘記曰、不及九百年、當有八十大將、滅之。
高氏自漢有國、今九百年、勣年八十矣。
虜仍荐饑、人相掠賣、地震裂、狼狐入城、穴於門、人心危駭、是行不再擧矣。
泉男建復遣兵五萬人、救扶餘城、與李勣等、遇於薛賀水、合戰敗、死者三萬餘人。
勣進攻大行城。
夏四月、彗星見於畢、昴之間。
唐許敬宗曰、
彗見東北、高句麗將滅之兆也。
秋九月。
李勣拔平壤。
勣旣克大行城、諸軍出他道者、皆與勣會、進至鴨淥柵。
我軍拒戰、勣等敗之、追奔二百餘里、拔辱夷城、諸城遁逃及降者、相繼。
契苾何力先引兵、至平壤城下、勣軍繼之、圍平壤月餘。
王藏遣泉男産、帥首領九十八人、持白幡、詣勣降、勣以禮接之。
泉男建猶閉門拒守、頻遣兵出戰、皆敗。
男建以軍事委浮圖信誠。
信誠與小將烏沙、饒苗等、密遣人詣勣、請為內應。
後五日、信誠開門、勣縱兵登城、鼓噪焚城。
男建自刺不死。
執王及男建等。
冬十月。
李勣將還、高宗命、
先以王等獻于昭陵、具軍容、奏凱歌、入京師、獻于大廟。
十二月。
帝受俘于含元殿。
以王政非己出、赦以為司平太常伯員外同正、以泉男産為司宰少卿、僧信誠為銀靑光祿大夫、泉男生為右衛大將軍。
李勣已下、封賞有差、泉男建流黔州。
分五部、百七十六城、六十九萬餘戶、為九都督府、四十二州、百縣、置安東都護府於平壤、以統之。
擢我將帥有功者、為都督、刺史、縣令、與華人叅理。
以右威衛大將軍薛仁貴、檢校安東都護、摠兵二萬人、以鎭撫之。
是高宗摠章元年戊辰歲也。
二年、己巳二月。
王之庶子安勝、率四千餘戶、投新羅。
夏四月。
高宗移二萬八千三百戶於江、淮之南、及山南、京西諸州空曠之地。
至咸亨元年庚午歲、夏四月、劒牟岑欲興復國家、叛唐、立王外孫安舜、羅紀作勝、為主。
唐高宗遣大將軍高侃、為東州道行軍摠管、發兵討之。
安舜殺劒牟岑、奔新羅。
二年辛未歲、秋七月。
高侃破餘衆於安市城。
三年壬申歲、十二月。
高侃與我餘衆、戰于白水山、破之。
新羅遣兵救我、高侃擊克之、虜獲二千人。
四年癸酉歲、夏閏五月。
燕山道摠管大將軍李謹行、破我人於瓠瀘河、俘獲數千人。
餘衆皆奔新羅。
儀鳳二年丁丑歲、春二月。
以降王為遼東州都督、封朝鮮王、遣歸遼東、安輯餘衆。
東人先在諸州者、皆遣與王俱歸、仍移安東都護府於新城、以統之。
王至遼東、謀叛、潛與靺鞨通。
開耀元年。
召還卬州、以永淳初死。
贈衛尉卿、詔送至京師、頡利墓左、樹碑其阡、散徙其人於河南、隴右諸州。
貧者留安東城傍舊城、往往沒於新羅、餘衆散入靺鞨及突厥。
高氏君長遂絶。
垂拱二年。
以降王孫寶元、為朝鮮郡王、至聖曆初、進左鷹揚衛大將軍、更封忠誠國王、使統安東舊部、不行。
明年、以降王子德武、為安東都督、後稍自國、至元和十三年、遣使入唐、獻樂工。
論曰、
玄菟、樂浪、本朝鮮之地、箕子所封。
箕子敎其民、以禮義、田蠶、織作、設禁八條。
是以其民不相盜、無門戶之閉、婦人貞信不淫、飮食以籩豆、此仁賢之化也。
而又天性柔順、異於三方。
故孔子悼道不行、欲浮桴於海以居之、有以也夫。
然而易之、爻、二多譽、四多懼、近也。
高句麗自秦、漢之後、介在中國東北隅、其北隣、皆天子有司、亂世則英雄特起、僭竊名位者也、可謂居多懼之地、而無謙巽之意、侵其封場以讐之、入其郡縣以居之。
是故兵連禍結、略無寧歲。
及其東遷、値隋、唐之一統、而猶拒詔命以不順、囚王人於土室。
其頑然不畏如此、故屢致問罪之師。
雖或有時設奇以陷大軍、而終於王降、國滅而後止。
然觀始末、當其上下和、衆庶睦、雖大國、不能以取之、及其不義於國、不仁於民、以興衆怨、則崩潰而不自振。
故孟子曰、天時、地利、不如人和。
左氏曰、國之興也、以福、其亡也、以禍。
國之興也、視民如傷、是其福也、其亡也、以民為土芥、是其禍也。
有味哉、斯言也。
夫然則凡有國家者、縱暴吏之驅迫、强宗之聚斂、以失人心、雖欲理而不亂、存而不亡、又何異强酒而惡醉者乎。
三國史記 卷第二十二
≪書き下し文≫
六年、春二月。
太宗將に行師を復せしめんとすれば、朝議以為(おもへ)らく、
高句麗は山に依りて城を為し、猝(にわか)に拔く可からず。
大駕を前(すす)めて親征するも、國人は耕種を得ず、克する所の城、其の穀を實收し、繼ぐに旱災を以てし、民は太るも半ばは食を乏む。
今若し數(いくばく)の偏師を遣り、更に其の疆場を迭(たがひ)に擾(はら)へば、彼をして奔命に疲せしむ。耒を釋(はな)し堡(とりで)に入らせ、數年の間、千里の蕭條をせしむれば、則ち人心自ずから離る。鴨淥の北、戰はずして取る可きなり。
帝之れに從ひ、以て左武衛大將軍牛進達を靑丘道行軍大摠管と為し、右武衛將軍李海岸を之れに副せしめ、兵萬餘人を發(はな)ち、樓舡に乘らせしめ、萊州より海を泛りて入らせしめ、又た以て太子詹事李世勣を遼東道行軍大摠管と為し、右武衛將軍孫貳朗等に之れを副せしめ、兵三千人を將いせしめ、營州都督府兵に因り、新城より道入す。
兩軍、皆水に習ひ善く戰ふ者を選び、之れに配す。
夏五月。
李世勣軍既に遼に度り、南蘇等數城を歷(へ)て、皆背城は拒戰するも、世勣之れを擊破し、其の羅郭を焚きて還る。
秋七月。
牛進達、李海岸は我が境に入り、凡そ百餘戰し、石城を攻めて之れを拔き、進みて積利城下に至る。
我が兵萬餘人は戰に出ずるも、李海岸は之れに擊ち克ち、我が軍の死者二千級。
八月。
太宗は宋州刺史王波利等に勅し、江南十二州の工人を發し、大數百艘を造らせ、我を伐たむと以てせむと欲す。
冬十二月。
王は第二子の莫離支任武をして謝罪に入らせしめ、帝之れを許す。
七年、春正月。
遣使して唐に入らせ朝貢す。
帝は詔して右武衛大將軍薛萬徹を靑丘道行軍大摠管と為し、右衛將軍裴行方に之れを副せしめ、兵三萬餘人及び樓舡戰艦を將いせしめ、萊州より海を泛り擊ちに來らせしむ。
夏四月。
烏胡鎭將の古神感、兵を將いて海に浮かび擊ちに來たり、我が步騎五千と遇ひ、易山にて戰ひ、之れを破る。
其の夜、我が軍萬餘人、神感の舡を襲ふも、神感の伏發し、乃ち敗る。
六月。
帝は我が困弊を謂ひ、明年を以て三十萬衆を發し、一擧に之れを滅ぼさむと議す。
或(あるひと)以為(おもへ)らく、大軍東征、須べからく經歲の糧を備ふべし、畜乘りて能く載す所非ず、宜しく是の舟艦に具へ、水轉を為すべし、と。
隋末の劒南、獨り寇盜無し、屬する者の遼東の役、劒南復た預及せず。
其の百姓富庶、宜しく之れをして舟艦を造せしむるべし。
帝は之れに從ふ。
秋七月。
王都の女、一身兩頭の子を産む。
太宗は左領左右府長史の強偉を劒南道に遣り、木を伐ち舟艦を造らせしむ。
大なる者、或(あるもの)は長百尺、其の廣は之れの半ばとす。
別に遣使して水道を行き、巫峽、抵江、楊より、萊州に趣く。
九月。
群獐は河を渡りて西に走り、群狼は西に向かひて行き、三日絶たず。
太宗、將軍の薛萬徹等を遣り伐ちに來たり。
海を渡り鴨淥に入り、泊灼城の南四十里に至らしめ、營に止む。
泊灼城主の所夫孫、步騎萬餘を帥い、之れを拒むも、萬徹は右衛將軍裴行方を遣り、步卒及び諸軍を領(おさ)めせしめて之れに乘じ、我が兵潰(つい)ゆ。
行方等は兵を進めて之れを圍むも、泊灼城は山に因り險を設し、鴨淥水を阻みて以て固を爲し、之れを攻むるも拔かず。
我が將高文、烏骨を率い、安地諸城の兵三萬餘人、援に來たり、兩陣に分置するも、萬徹軍を分けて以て之れに當たり、我が軍敗潰す。
帝又た萊州刺史李道裕に詔し、糧及び器械を轉ばせ、烏胡島に貯めせしめ、將に大擧を欲さむとす。
八年、夏四月。
唐の太宗崩る。
遺詔して遼東の役を罷(や)む。
論じて曰く、
初め、太宗は遼東に事有るや、諫むる者は一に非ず。
又た安市より軍を旋(かへ)す後、自ずから以て成功に能はず、之れを深く悔ゆ。
歎じて曰く、
若し魏徵をして在らせしめれば、我をして此の行を有ることなからしむるなり、と。
其の將に復た伐たむとするに及ぶや、司空の房玄齡は病中に上表し、諫めて以為らく、
老子曰く、足るを知れば辱られず、止むるを知れば殆(あや)ふからず。
陛下の威名功德、旣に足ると云へり、地を拓き疆を開き、亦た止む可し。
且も陛下は一重の囚を決する每に、必ず三復五奏せしめ、素膳を進め、音樂する者を止めさせ、人命を重んずるなり。
今や無罪の士卒を驅り、之れを鋒刃の下に委ね、肝腦をして地を塗らせしめ、獨り憫むに足らざらんや。
嚮(さき)に高句麗をして臣節を違失せしめ、之れを誅するは可なり。百姓を侵擾(をかしみだ)し、之れを滅すは可なり。他日に能く中國の患を為し、之れを除くは可なり。
今や此の三條無し、而れども坐して中國を煩はし、内には前代の雪恥と爲し、外には新羅の報讎と爲す。豈に存する所の者は小、損する所の者は大に非ざらむや。
陛下に高句麗の自ら新たにすることを許し、凌波の舡を焚き、應募の衆を罷むことを願ふ。
自ら華夷の慶賴を然とし、遠は肅して邇きは安んず。
梁公將に之れに死さむとして諄諄と言ふは、此くの若し、と。
而れども帝從ふことなし、丘墟の東域を欲さむと思ひて自ら快び、死して後に已む。
史論に曰く、
大を好み功を喜び、勒兵を遠者に勤む、と。
此れ之れを謂ふに非ざるなり。
柳公權小說に曰く、
駐蹕の役、高句麗と靺鞨は軍を合せ、方四十里、太宗之れを望み、懼色有り、と。
又た曰く、
六軍は高句麗の乘する所と為り、殆(おほかた)の將は振ぜず。
候者、英公の麾は黑旗に圍を被ると告げ、帝大いに恐る、と。
自ら脫するに終えたと雖も、而りて危懼すること彼の如し、而るに新舊の書及び司馬公の通鑑、不言なるは、豈に國の為に之れを諱するに非らんや。
九年、夏六月。
盤龍寺の普德和尚、國家の道に奉じて、佛法を信ぜざるを以て、完山の孤大山に南移す。
秋七月。
霜雹穀を害し、民饑ゆ。
十一年、春正月。
遣使して唐に入らせ朝貢す。
十三年、夏四月。
人或言、
於馬嶺の上、神人を見ゆ、曰く、汝の君臣、奢侈にして度すること無し、敗亡に日無きかな。
冬十月。
王は將安固を遣りて出師せしめ、靺鞨兵に及ぼし、契丹を擊つ。
松漠都督の李窟哥は之れを禦し、我が軍を新城にて大いに敗る。
十四年、春正月。
先ず是れ、我と百濟、靺鞨、新羅の北境を侵し、三十三城を取るも、新羅王の金春秋、唐に遣使して援(たすけ)を求む。
三月。
高宗は營州都督の名振を遣り、左右衛中郞將の蘇定方、兵を將いて擊ちに來たる。
夏五月。
程名振等、遼水を渡る。
吾人其の兵の少なしを見、門を開き貴端水を度り、逆戰す。
名振等奮擊し、大いに之れに克ち、殺獲すること千餘人、其の外郭及び村落を焚きて歸る。
十五年、夏五月。
王都に鐵の雨(あめふ)る。
冬十二月。
遣使して唐に入らせ、皇太子の冊するを賀す。
十七年、夏六月。
唐營州都督兼東夷都護の程名振、右領軍中郞將の薛仁貴、兵を將いて攻めに來たり、克つに能はず。
十八年、秋九月。
九虎一時城に入り人を食らひ、之れを捕へむとするも獲ず。
冬十一月。
唐右領軍中郞將薛仁貴等、我が將の溫沙門と橫山にて戰ひ、之れを破る。
十九年、秋七月。
平壤の河水、血色すること凡そ三日。
冬十一月。
唐左驍衛大將軍契苾何力を浿江道行軍大摠管と為し、左武衛大將軍蘇定方を遼東道行軍大摠管と為し、左驍衛將軍劉伯英を平壤道行軍大摠管と為し、蒲州刺史程名振を鏤方道摠管と為し、兵を將いせしめ道を分けて擊ちに來たる。
十年、春正月。
唐は河南、北、淮南六十七州に兵を募り、四萬四千餘人を得、平壤、鏤方の行營に詣(まい)り、又た以て鴻臚卿蕭嗣業を扶餘道行軍摠管と為し、帥回紇等の諸部兵、平壤に詣(まい)る。
夏四月。
以て任雅相を浿江道行軍摠管と為し、契苾何力を遼東道行軍摠管と為し、蘇定方を平壤道行軍摠管と為し、與蕭嗣業及び諸胡兵凡そ三十五軍、水陸は道を分けて並びて進む。
帝は自ら大軍を將いんと欲するも、蔚州刺史の李君球立ちて言はく、
高句麗は小國、何ぞ中國を傾けて之れを事とすること有るに至らむ。
如し高句麗は旣に滅べば、必ず兵を發ち以て守る。
小發すれば則ち威は振るはず、多發てば則ち人安ぜず、是れ天下を轉戍に疲せしむ。
臣謂はく、之れを征するは未だ征すること勿きに如かず、之れを滅ぼすは未だ滅ぶこと勿きに如かず、と。
亦た武后の諫むるに會し、帝乃ち止む。
夏五月。
王は將軍惱音信を遣り、靺鞨の衆を領めしめ、新羅の北漢山城を圍み、旬(とおか)を浹(ひとめぐり)するも解かず、新羅の餉道絶ち、城中危懼す。
忽として大星の我が營に落つること有り、又た雷雨震擊し、惱音信等、駭別を疑ひ引き退く。
秋八月。
蘇定方は我が軍を浿江にて破り、馬邑山を奪ひ、遂に平壤城を圍む。
九月。
蓋蘇文は其の子の男生を遣り、精兵數萬を以て、鴨淥を守らせしめ、諸軍渡るを得ず。
契苾何力至り、値氷大いに合ひ、何力は衆を引き氷に乘り水を渡り、鼓噪して進み、我が軍潰奔す。
何力は數十里を追ひ、三萬人を殺す。
餘衆悉く降り、男生僅かに身を以て免ず。
會(たまたま)、師を班させしむるとの詔有り、乃ち還る。
二十一年、春正月。
唐左驍衛將軍白州刺史沃沮道摠管龐孝泰、蓋蘇文と蛇水の上にて戰ひ、軍沒を擧げ、其の子十三人と皆戰死す。
蘇定方は平壤を圍むも、大雪に會し、解きて退く。
凡そ前後の行、皆大功無くして退く。
二十五年。
王は太子福男を遣り、新唐書に男福と云ふ、唐に入らせ、泰山を祠(まつ)るに侍らせしむ。
蓋蘇文死し、長子の男生を代はりに莫離支と為す。
初め、國政を知(つかさど)り、諸城に出巡し、其の弟の男建、男産をして、後の事を留知せしむ。
或(あるひと)二弟に謂ひて曰く、
男生は二弟の逼を惡(にく)み、意(こころ)には之れを除かむと欲す、計を為すことを先にするに如かず。
二弟は初め未だ之れ信ずることなし。
又た男生に告げる者有りて曰く、
二弟は兄の其の權を還奪するを恐れ、兄を拒み納れざらむと欲す。
男生は親する所に潛遣し、平壤に往かせしめ之れを伺はせしむ。
二弟は收掩して之れを得、乃ち王命を以て男生を召すも、男生歸するを敢へてせず。
男建自ら莫離支と為り、兵を發ち之れを討つ。
男生は走りて國內城に據し、其の子の獻誠をして唐を詣らせしめ哀(あはれみ)を求む。
六月。
高宗は左驍衛大將軍契苾何力に命じ、兵を帥いせしめ之れに應接せしむれば、男生身を脫して唐に奔る。
秋八月。
王は男建を以て莫離支と為し、內外兵馬の事を兼知せしむ。
九月。
帝は男生に詔し、特進遼東都督兼平壤道安撫大使を授け、玄菟郡公に封ぜしむ。
冬十二月。
高宗は以て李勣を遼東道行軍大摠管兼安撫大使と為し、以て司列少常伯安陸、郝處俊に之れを副せしむ。
龐同善、契苾何力、並べて遼東道行軍副大摠管兼安撫大使と爲す。
其の水陸の諸軍摠管、并轉糧使竇義、獨孤卿雲、郭待封等、並びて勣に處分を受く。
河北諸州の租賦、悉く遼東に詣り、軍用を給ふ。
二十六年、秋九月。
李勣は新城を拔き、契苾何力をして之れを守らせしむ。
勣は初め遼を渡り、諸將に謂ひて曰く、
新城、高句麗西邊の要害たり、先に之れを得ずして、餘城未だ取るを易からざるなり。
遂に之れを攻む。
城人の師夫仇等、城主を縛り、門を開き降る。
勣は兵を引き進擊し、一十六城皆下る。
龐同善、高侃尚ほ新城に在り、泉男建兵を遣り其の營を襲はしむるも、左武衛將軍の薛仁貴、之れを擊ち破る。
侃は進みて金山に至り、我が軍と戰ひて敗る。
我が軍は勝ちに乘じて北に逐(お)ひ、薛仁貴は兵を引き之れを橫擊し、我が軍の五萬餘人を殺し、南蘇、木氐、蒼嵒の三城を拔き、泉男生の軍と合ふ。
郭待封は水軍を以て、自ら道を別け、平壤に趣く。
勣は別將の馮師本を遣り、糧仗を載せて以て之れを資さしめ、師本の舡は破れて期を失ひ、待封の軍は飢窘に中(あた)る。
書を勣と與に作さむと欲するも、他の得る所と為るを恐れ、其の虛實を知らしめんとし、乃ち離合詩を作し、以て勣に與す。
勣怒りて曰く、
軍事の方急、何を以て詩為さむ。
必ず之れを斬らむ。
行軍管記通事舍人の元萬頃、其の義を釋するを為し、勣は乃ち更に糧仗を遣り之れに赴かせしむ。
萬頃は檄文を作して曰く、
守鴨淥の險を知らず、と。
泉男建報せて曰く、
謹みて命を聞けり、と。
即ち兵を移し鴨淥津に據り、唐兵は度るを得ず。
高宗之れを聞き、萬頃を嶺南に流す。
郝處俊は安市城下に在り、未だ成列せざるに及び、我が軍三萬は掩(ひそ)かに至り、軍中大いに駭(みだ)る。
郝處俊は胡床に據り、方に乾糒を食さむとするも、精銳を簡(えら)び、之れを擊ち敗る。
二十七年、春正月。
以て右相劉仁軌を遼東道副大摠管と為し、郝處俊、金仁問に之れを副せしむ。
二月。
李勣等、我が扶餘城を拔く。
薛仁貴旣に我が軍を金山にて破り、勝ちに乘じ、三千人を將い、將に扶餘城を攻めんとし、諸將は其の兵の少なきを以て之れを止む。
仁貴曰く、
兵は多を必せず、之れを顧用するを何如とするのみ。
遂に前鋒を為して以て進み、我が軍と戰ひ、之れに勝ち、我が軍を殺獲し、遂に扶餘城を拔き、扶餘州中の四十餘城、皆が服を請ふ。
侍御史賈言忠は使を奉じ、遼東より還る。
帝問ふ、
軍中何を云ふか。
對へて曰く、
必ず克つ。
昔、先帝は罪を問ひ、志を得ざる所以の者、虜は未だ釁すること有らむなり。
諺に曰く、軍に媒(なかだち)無ければ、中道に回(かへ)す。
今の男生兄弟、狠と鬩ひて我が嚮導を為し、虜の情僞、我は之れを盡知し、忠士の力を將い、臣は故に必ず克つと曰ふ。
且も高句麗秘記に曰く、九百年に及ばず、八十大將有るに當たり、之れを滅さむ、と。
高氏は漢より國を有らせ、今や九百年、勣は年八十なり。
虜は荐饑に仍り、人は相ひ掠賣し、地は震裂し、狼狐は城に入り、門に穴あき、人心は危駭し、是れ行きて擧を再びせざるかな。
泉男建復た兵五萬人を遣り、扶餘城を救はしむるも、李勣等と薛賀水に遇ひ、合戰して敗れ、死者三萬餘人。
勣は大行城に進攻す。
夏四月。
彗星、畢昴の間に見(あらは)る。
唐許敬宗曰く、
彗の東北に見るは、高句麗將に滅びんとするの兆なり。
秋九月。
李勣、平壤を拔く。
勣は旣に大行城に克ち、諸軍の他道に出ずる者、皆が勣と會し、進みて鴨淥柵に至る。
我が軍拒戰するも、勣等之れを敗り、追奔すること二百餘里、辱夷城を拔き、諸城の遁逃及び降る者、相繼ぐ。
契苾何力は先に兵を引き、平壤城下に至り、勣軍之れに繼ぎ、平壤を圍むこと月餘り。
王藏は泉男産を遣り、首領九十八人を帥いせしめ、白幡を持するも、勣に詣りて降り、勣は禮を以て之れを接す。
泉男建猶ほ門を閉ざし守を拒み、頻(しきり)に兵を遣り戰に出ずるも、皆敗れる。
男建は以て軍事を浮圖の信誠に委ぬ。
信誠と小將の烏沙、饒苗等、密かに人を遣り勣に詣らせ、內應を為さむと請へり。
後五日、信誠は門を開き、勣は兵を縱(はな)ちて城を登り、鼓噪して城を焚く。
男建自ら刺するも死なず。
王及び男建等を執る。
冬十月。
李勣將に還らむとすれば、高宗命ず、
先ず王等を以て昭陵に獻じ、軍容を具(そな)へ、凱歌を奏で、京師に入り、大廟に獻ぜよ、と。
十二月。
帝、含元殿に受俘す。
王政の己に出ずるに非ずを以て、赦して以て司平太常伯員外同正と為し、以て泉男産を司宰少卿と為し、僧の信誠を銀靑光祿大夫と為し、泉男生を右衛大將軍と為す。
李勣已下、有差に封賞し、泉男建を黔州に流す。
五部、百七十六城、六十九萬餘戶を分け、九都督府、四十二州、百縣と為し、安東都護府を平壤に置き、以て之れを統べる。
我が將帥の功有る者を擢ち、都督、刺史、縣令と為し、華人と與に理に叅る。
以て右威衛大將軍薛仁貴、安東都護に檢校せしめ、摠兵二萬人、以て之れに鎭撫せしむ。
是れ高宗摠章元年戊辰の歲なり。
二年、己巳二月。
王の庶子安勝、四千餘戶を率い、新羅に投ず。
夏四月。
高宗は二萬八千三百戶を江淮の南及び山南に移し、西諸州空曠の地を京とす。
咸亨元年庚午歲に至り、夏四月、劒牟岑國家を興復せむと欲し、唐に叛き、王に外孫の安舜を立て、羅紀に勝と作す、主と為す。
唐高宗は大將軍の高侃を遣り、東州道行軍摠管と為し、兵を發ち之れを討たせしむ。
安舜は劒牟岑を殺し、新羅に奔る。
二年辛未歲、秋七月。
高侃は餘衆を安市城にて破る。
三年壬申歲、十二月。
高侃と我が餘衆、白水山にて戰ひ、之れを破る。
新羅は兵を遣り我を救ふも、高侃は之れに擊ち克ち、虜獲すること二千人。
四年癸酉歲、夏閏五月。
燕山道摠管の大將軍李謹行、我が人を瓠瀘河にて破り、俘獲すること數千人。
餘衆皆が新羅に奔る。
儀鳳二年丁丑歲、春二月。
王の降るを以て遼東州都督と為し、朝鮮王に封じ、遼東に遣歸せしめ、餘衆を安輯せしむ。
東人の先に諸州に在る者、皆が王に與せしめて俱に歸せしめ、仍りて安東都護府を新城に移し、以て之れを統べる。
王は遼東に至り、叛を謀り、潛かに靺鞨と通ず。
開耀元年。
卬州に召還し、永淳初を以て死す。
衛尉卿を贈り、詔をして送り、京師に至らせしめ、頡利の墓の左、樹碑其阡、其の人を河南、隴右諸州に散徙せしむ。
貧者は安東城の傍の舊城に留め、往往にして新羅に沒し、餘衆は靺鞨及び突厥に散入す。
高氏の君長、遂に絶つ。
垂拱二年。
王孫の寶元を降るを以て、朝鮮郡王と為し、聖曆初に至り、左鷹揚衛大將軍に進め、更に忠誠國王に封じ、統安東舊部に使するも、行かず。
明年、王子の德武に降るを以て、安東都督と為し、後に自國を稍くし、元和十三年に至り、遣使して唐に入らせしめ、樂工を獻ず。
論じて曰く、
玄菟、樂浪は本(もともと)朝鮮の地、箕子の封ずる所たり。
箕子は其の民に、禮義、田蠶、織作を以て敎え、禁八條を設く。
是を以て其の民相ひ盜まず、門戶の閉を無からしめ、婦人は貞信不淫たらしめ、飮食は籩豆を以てす、此れ仁賢の化なり。
而るに又た天性柔順、三方と異なる。
故に孔子は道の行はれざるを悼み、海に桴を浮して以て之れに居まはむと欲するは、以(ゆえ)有るならむ。
然るに而して易の爻、二は譽(ほまれ)多く、四は懼れ多し、近きなり。
高句麗は秦漢の後より、中國の東北の隅に介在し、其の北に隣し、皆天子の有司、亂世なれば則ち英雄特起し、僭竊に位を名づくる者なれども、居するに多懼の地と謂ふ可し、而るに謙巽の意を無く、其の封場を侵して以て之れに讐し、其の郡縣に入りて以て之れに居す。
是の故に兵を連ねて禍を結び、寧歲を略無せしむ。
其の東遷に及び、隋唐の一統に値し、而れども猶ほ詔命を拒みて以て順(したが)はず、王人を土室に囚ふ。
其の頑然不畏たること此の如くして、故に屢(しばしば)問罪の師を致す。
或(あるいは)時有らば奇を設して以て大軍を陷とすと雖も、而りて王の降るに於いて終り、國滅びて後に止む。
然りて始末を觀れば、當に其の上下を和さむとし、衆庶睦まじくせむとすれば、大國と雖も、之れを取るを以てするに能はず、其の國に不義たり、民に不仁たるに及び、以て衆の怨を興し、則ち崩潰して自振せず。
故に孟子は、天の時、地の利、人の和に如かざると曰ふ。
左氏に曰く、國の興るや、福を以てし、其の亡ぶや、禍を以てす。
國の興るや、民を視ること傷むが如し、是れ其れ福なり。
其の亡ぶや、民を以て土芥と為し、是れ其れ禍なり。
味を有するかな、斯く言なるや。
夫れ然らば則ち凡そ國家を有らしむる者、暴吏の驅迫を縱(ゆる)し、宗の聚斂を强いて以て人心を失し、理して不亂を欲すると雖も、存して亡ばざるは、又た何ぞ酒を强いて惡醉ひする者と異ならむや。
三國史記 卷第二十二