現代語訳 | |
古尒王は、蓋婁王の第二子である。仇首王が在位二十一年に薨去すると、長子の沙伴が王位を継いだが、しかし幼少であるから政治に携わることができず、肖古王の母の弟である古尒が即位した。
三年(236年)冬十月、王が西の海の大島にて狩猟し、自らの手で鹿を四十匹ほど射った。
五年(238年)春正月、太鼓や笛を用いて天地を祭った。 六年(239年)春正月から雨が降らず、夏五月になってようやく雨が降った。
七年(240年)兵を派遣して新羅を侵した。
九年(242年)春二月、国の人々に命じ、稲田を南の沢に開拓させた。 十年(243年)春正月、大壇を設け、天地山川を祀った。
十三年(246年)夏に大旱魃があり、麦が実らなかった。
十四年(247年)春正月、天地を南の壇にて祭った。
十五年(248年)春夏、旱魃があった。
十六年(249年)春正月の
二十二年(255年)秋九月、軍を出して新羅を侵して新羅の兵と槐谷の西で戦い、それを敗ってその将の翊宗を殺した。 二十四年(257年)春正月、大旱魃があり、樹木がすべて枯れた。 二十五年(258年)春、靺鞨の長の羅渴が良馬十匹を献上した。王は特別に使者をねぎらい、よってそれらを返還した。 二十六年(259年)秋九月、靑紫の雲が樓閣のように宮の東に起こった。
二十七年(260年)春正月、内臣佐平を置き、宣納の事を掌握させた。内頭佐平、庫蔵の事を掌握させた。内法佐平、礼儀の事を掌握させた。衛士佐平、宿衛兵の事を掌握させた。朝廷佐平、刑獄の事を掌握させた。兵官佐平、外の
二十八年(261年)春正月初吉(新月)、王は紫の大袖と袍、青の錦袴、金の花で烏の羅冠を飾り、
二十九年(262年)春正月、 三十三年(266年)秋八月、兵を派遣して新羅の烽山城を攻めさせた。城主の直宣は壮士二百人を率い、出撃してそれを敗った。 三十六年(269年)秋九月、ほうき星が紫宮に現れた。 三十九年(272年)冬十一月、兵を派遣して新羅を侵した。 四十五年(278年)冬十月、出兵して新羅を攻め、槐谷城を包囲した。 五十年(283年)秋九月、兵を派遣して新羅の国境付近の境界を侵した。
五十三年(286年)春正月、使者を新羅に派遣して和睦を要請した。
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注記 | |
(※1)貴須 日本書紀に貴須王という表記は登場するが、これは近仇首王(在位375年から384年)を指す。
(※2)赤峴城
(※3)沙道城
(※4)獐山城
(※5)漢水
(※6)
(※7)牛頭鎭
(※8)熊谷
(※9)一吉飡
(※10)烽山
(※11)寒泉
(※12)牛谷 |
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漢文 | |
仇首王、〈或云貴須。〉肖古王之長子、身長七尺、威儀秀異。肖古在位四十九年薨、卽位。
三年、秋八月、靺鞨來圍赤峴城、城主固拒、賊退歸。王帥勁騎八百、追之、戰沙道城下、破之、殺獲甚衆。 四年、春二月、設二柵於沙道城側、東西相去十里、分赤峴城卒、戍之。 五年、王遣兵圍新羅獐山城、羅王親帥兵、擊之、我軍敗績。 七年、冬十月、王城西門火。靺鞨寇北邊、遣兵拒之。 八年、夏五月、國東大水、山崩四十餘所。六月戊辰晦、日有食之。秋八月、大閱於漢水之西。 九年、春二月、命有司修隄防。三月、下令勸農事。夏六月、王都雨魚。冬十月、遣兵入新羅牛頭鎭、抄掠民戶。羅將忠萱領兵五千、逆戰於熊谷、大敗、單騎而遁。十一月、庚申晦、日有食之。 十一年、秋七月、新羅一吉飡連珍來侵、我軍逆戰於烽山下、不克。冬十月、太白晝見。 十四年、春三月、雨雹。夏四月、大旱、王祈東明廟、乃雨。 十六年、冬十月、王田於寒泉。十一月、大疫。靺鞨入牛谷界、奪掠人物。王遣精兵三百、拒之。賊伏兵夾擊、我軍大敗。 十八年、夏四月、雨雹、大如栗、鳥雀中者死。 二十一年、王薨。 |
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書き下し文 | |
仇首の
三年、秋八月、靺鞨は來たりて赤峴城を圍むも、城の
四年、春二月、
五年、
七年、冬十月、
八年、夏五月、國の東に
九年、春二月、
十一年、秋七月、
十四年、春三月、
十六年、冬十月、
十八年、夏四月、
二十一年、 |