焚巣館 -三国史記 第二十四巻 古尒王-

古尒王



現代語訳
 古尒王は、蓋婁王の第二子である。仇首王が在位二十一年に薨去すると、長子の沙伴が王位を継いだが、しかし幼少であるから政治に携わることができず、肖古王の母の弟である古尒が即位した。

 三年(236年)冬十月、王が西の海の大島にて狩猟し、自らの手で鹿を四十匹ほど射った。

 五年(238年)春正月、太鼓や笛を用いて天地を祭った。
 二月、釜山にて田猟すること五十日にして帰った。
 夏四月、王宮の門柱に震があり、黄龍がその門から飛び出した。

 六年(239年)春正月から雨が降らず、夏五月になってようやく雨が降った。

 七年(240年)兵を派遣して新羅を侵した。
 夏四月、拝して眞忠を左將とし、内外と兵馬 いくさ の事を委任した。
 秋七月、石川で大閱 デモンストレーション をした。一組の鴈が川の ほとり から飛び立ち、それを王が射ると、すべて当たった。

 九年(242年)春二月、国の人々に命じ、稲田を南の沢に開拓させた。
 夏四月、叔父の質を右輔とした。持ち前の性質は忠実かつ剛毅で、事を謀れば過失がなかった。
 秋七月、西門から出て射撃を観た。

 十年(243年)春正月、大壇を設け、天地山川を祀った。

 十三年(246年)夏に大旱魃があり、麦が実らなかった。
 秋八月、魏の幽州刺史の毌丘倹が楽浪太守の劉茂、帯方太守の王遵と一緒に高句麗を討伐しようとしたが、王が虚に乗じて左将の眞忠を遣わせて楽浪の国境付近の民を襲撃して取り上げた。それを聞いた劉茂は怒り、王が侵攻と討伐をされるのではないかと恐れ、その民口を返還した。

 十四年(247年)春正月、天地を南の壇にて祭った。
 二月、拝して眞忠を右輔とし、眞勿を左将とし、兵馬 いくさ の事を委任した。

 十五年(248年)春夏、旱魃があった。
 冬、民が餓えたので、倉を開いて賑恤した。また、一年の租調を返還した。

 十六年(249年)春正月の甲午 きのえうま 、太白が月に重なった。

 二十二年(255年)秋九月、軍を出して新羅を侵して新羅の兵と槐谷の西で戦い、それを敗ってその将の翊宗を殺した。
 冬十月、兵を遣わせて新羅の烽山城を攻めたが勝てなかった。

 二十四年(257年)春正月、大旱魃があり、樹木がすべて枯れた。

 二十五年(258年)春、靺鞨の長の羅渴が良馬十匹を献上した。王は特別に使者をねぎらい、よってそれらを返還した。

 二十六年(259年)秋九月、靑紫の雲が樓閣のように宮の東に起こった。

 二十七年(260年)春正月、内臣佐平を置き、宣納の事を掌握させた。内頭佐平、庫蔵の事を掌握させた。内法佐平、礼儀の事を掌握させた。衛士佐平、宿衛兵の事を掌握させた。朝廷佐平、刑獄の事を掌握させた。兵官佐平、外の兵馬 いくさ の事を掌握させた。次いで達率、恩率、徳率、扞率、奈率及び将徳、施徳、固徳、季徳、対徳、文督、武督、佐軍、振武、克虞を置いた。六つの佐平は並んで一品、達率は二品、恩率は三品、徳率は四品、扞率は五品、奈率は六品、将徳は七品、施徳は八品、固徳は九品、季徳は十品、対徳は十一品、文督は十二品、武督は十三品、佐軍は十四品、振武は十五品、克虞は十六品である。
 二月、「六品以上は紫の服を着、銀の花で冠を飾り、十一品以上は緋色の服を着、十六品以上は青の服を着よ。」と いいつけ を下した。
 三月、王弟の優寿を内臣佐平とした。

 二十八年(261年)春正月初吉(新月)、王は紫の大袖と袍、青の錦袴、金の花で烏の羅冠を飾り、 しろ の皮帯、烏の なめしがわ の革履の服を着て、南堂に座って事を聴いた。
 二月、拝して眞可を内頭佐平とし、優豆を内法佐平とし、高寿を衛士佐平とし、昆奴を朝廷佐平とし、惟己を兵官佐平とした。
 三月、使者を新羅に遣わせて和睦を要請したが従わなかった。

 二十九年(262年)春正月、 いいつけ を下す官人の財貨を受け取り、あるいは盗んだ者はすべて、三倍の賄賂を取り上げ、終身の禁錮とする。

 三十三年(266年)秋八月、兵を派遣して新羅の烽山城を攻めさせた。城主の直宣は壮士二百人を率い、出撃してそれを敗った。

 三十六年(269年)秋九月、ほうき星が紫宮に現れた。

 三十九年(272年)冬十一月、兵を派遣して新羅を侵した。

 四十五年(278年)冬十月、出兵して新羅を攻め、槐谷城を包囲した。

 五十年(283年)秋九月、兵を派遣して新羅の国境付近の境界を侵した。

 五十三年(286年)春正月、使者を新羅に派遣して和睦を要請した。
 冬十一月、王は薨去した。

注記
(※1)沙伴  本書では、王としての事跡がほとんどないが、日本の氏族のルーツを纏めた9世紀の『新撰姓氏録』には『沙半王』の名が登場する。

(※2)釜山  現在の韓国慶尚南道の釜山広域市にあたる。

(※3)石川  どこか不明。

(※4)大閱 デモンストレーション  大規模な閱兵。

(※5)魏  三国時代における三つの王朝のひとつ。中原の三分の二を獲得した最大の王朝。

(※6)幽州刺史  幽州は中国北東部を占める州。刺史は前漢(紀元前206年から8年)においては中央から地方に派遣された査察官、その役割は後漢(25年から220年)には州の首長に変化した。

(※7)毌丘倹  魏の武将。高句麗の東川王が名指しで名将と評している。大いに武功を立てたが、後に叛乱を起こして誅殺される。

(※8)楽浪太守の劉茂、帯方太守の王遵  楽浪郡は、前漢の武帝が紀元前1世紀に朝鮮半島に置いた四郡の一つ。詳細な経緯は史記朝鮮伝にて。帯方郡は、後漢末期に設置された郡。紀元3世紀初頭に中国北東部に存在する遼東郡を治める太守の地位にあった公孫度は楽浪郡を併合した。その後、旧楽浪郡の南半分を割譲して息子の公孫康を太守に据えることで設置されたのが帯方郡である。現在の朝鮮国南西部から韓国北東部と推定される。太守は郡の首長。

(※9)太白が月に重なった。  太白は金星。金星食だろうか?

(※10)槐谷  現在の韓国忠清北道槐山郡に比定される。

(※11)烽山城  韓国慶尚北道栄州市とされる。

(※12)宣納  拝命と復命。命令の中心的業務。

(※13)庫蔵  国庫。穀物庫を主とし、財政を司る。

(※14)宿衛兵  警備の兵士。警察権。

(※15)烽山城  韓国慶尚北道栄州市とされる。

(※16)紫宮  紫宮垣のこと。天を3つに分割した三垣の中垣。

漢文
 古尒王、蓋婁王之第二子也。仇首王在位二十一年薨、長子沙伴嗣位、而幼少不能為政、肖古王母弟古尒卽位。

 三年、冬十月、王獵西海大島、手射四十鹿。

 五年、春正月、祭天地用鼓吹。二月、田於釜山、五旬乃返。夏四月、震王宮門柱、黃龍自其門飛出。

 六年、春正月、不雨、至夏五月、乃雨。

 七年、遣兵侵新羅。夏四月、拜眞忠為左將、委以內外兵馬事。秋七月、大閱於石川。雙鴈起於川上、王射之、皆中。

 九年、春二月、命國人、開稻田於南澤。夏四月、以叔父質為右輔。質性忠[4]毅、謀事無失。秋七月、出西門觀射。

 十年、春正月、設大壇、祀天地山川。

 十三年、夏大旱、無麥。秋八月、魏幽州刺史毌丘儉與樂浪太守劉茂、帶方太守王遵、伐高句麗、王乘虛、遣左將眞忠、襲取樂浪邊民、茂聞之怒、王恐見侵討、還其民口。

 十四年、春正月、祭天地於南壇。二月、拜眞忠為右輔、眞勿為左將、委以兵馬事。

 十五年、春夏、旱。冬、民饑、發倉賑恤、又復一年租調。

 十六年、春正月甲午、太白襲月。

 二十二年、秋九月、出師侵新羅、與羅兵戰於槐谷西、敗之、殺其將翊宗。冬十月、遣兵攻新羅烽山城、不克。

 二十四年、春正月、大旱、樹木皆枯。

 二十五年、春、靺鞨長羅渴獻良馬十匹、王優勞使者以還之。

 二十六年、秋九月、靑紫雲起宮東、如樓閣。

 二十七年、春正月、置內臣佐平、掌宣納事。內頭佐平、掌庫藏事。內法佐平、掌禮儀事。衛士佐平、掌宿衛兵事。朝廷佐平、掌刑獄事。兵官佐平、掌外兵馬事。又置達率、恩率、德率、扞率、奈率及將德、施德、固德、季德、對德、文督、武督、佐軍、振武、克虞。六佐平並一品、達率二品、恩率三品、德率四品、扞率五品、奈率六品、將德七品、施德八品、固德九品、季德十品、對德十一品、文督十二品、武督十三品、佐軍十四品、振武十五品、克虞十六品。二月、下令六品已上服紫、以銀花飾冠、十一品已上服緋、十六品已上服靑。三月、以王弟優壽為內臣佐平。

 二十八年、春正月初吉、王服紫大袖袍、靑錦袴、金花飾烏羅冠、素皮帶、烏韋革履、坐南堂聽事。二月、拜眞可為內頭佐平。優豆為內法佐平。高壽為衛士佐平。昆奴為朝廷佐平。惟己[6]為兵官佐平。三月、遣使新羅請和、不從。

 二十九年、春正月、下令、凡官人受財及盜者、三倍徵贓、禁錮終身。

 三十三年、秋八月、遣兵、攻新羅烽山城。城主直宣率壯士二百人、出擊敗之。

 三十六年、秋九月、星孛于紫宮。

 三十九年、冬十一月、遣兵侵新羅。

 四十五年、冬十月、出兵攻新羅、圍槐谷城。

 五十年、秋九月、遣兵侵新羅邊境。

 五十三年、春正月、遣使新羅請和。冬十一月、王薨。

書き下し文
 古尒の きみ 、蓋婁の きみ 第二 ふたりめ むすこ なり。仇首の きみ の位に すこと二十一年にして みまか れば、長子 をさご の沙伴は位を ぎたるも、而るに幼少 をさな きにして まつりごと を為すこと能はず、肖古の きみ の母の弟の古尒は くらひ きたり。

 三年、冬十月、 きみ は西の海の大島 おほしま り、 みづか 四十 よそつ の鹿を射ちたり。

 五年、春正月、天地 あめつち を祭るに つつみ ふゑ を用ちてす。
 二月、釜山に於いて り、五旬 いそか にして乃ち返る。
 夏四月、 きみ の宮の門の柱に なゐ あり、黃龍は其の門 り飛び出づ。

 六年、春正月、 あめふ らず、夏五月に至りて乃ち あめふ る。

 七年、 いくさ を遣はして新羅 しらき を侵す。
 夏四月、 さづ けて眞忠を左將 らしめ、以ちて內外 うちそと 兵馬 いくさ の事を委ゆ。
 秋七月、石川に於いて大閱 おほけみ す。 ふたつ の鴈は川の ほとり に於いて起こり、 きみ は之れを射てば、皆が あた る。

 九年、春二月、國の ひとびと みことのり し、稻田 いなだ を南の さは に於いて開かしむ。
 夏四月、以ちて叔父の質を右輔 らしむ。質性 たち ただ しく つよ く、事を謀らば あやま ち無し。
 秋七月、西の かど より出でて射つを觀ゆ。

 十年、春正月、大壇 おほもりつち を設け、天地 あめつち 山川 やまかは を祀りたり。

 十三年、夏に大いに ひでり あり、 むぎ 無し。
 秋八月、魏の幽州刺史の毌丘儉は樂浪太守の劉茂、帶方太守の王遵と與に高句麗を伐たむとし、 きみ は虛ろに乘りて、左將の眞忠を遣はして、樂浪の くにへ の民を襲ひ取り、茂は之れを聞きて怒り、 きみ は侵し討つを けたらむと恐れ、其の民口 たみ を還したり。

 十四年、春正月、天地 あめつち を南の もりつち に於いて祭る。
 二月、 さづ けて眞忠を右輔 らしめ、眞勿を左將 らしめ、以ちて兵馬 いくさ の事を委ぬ。

 十五年、春夏、 ひでり あり。
 冬、民は饑へ、倉を ひら きて賑恤 ふるま ひ、又た一年の租調 みつき もど す。

 十六年、春正月の甲午 きのえうま 、太白は月に かさ ぬ。

 二十二年、秋九月、 いくさ を出して新羅 しらき を侵し、 しらき いくさ と槐谷の西に於いて戰ひ、之れを敗り、其の いくさかしら の翊宗を殺したり。
 冬十月、 いくさ を遣はして新羅 しらき の烽山城を攻むるも克たず。

 二十四年、春正月、大いに ひでり あり、樹木は皆枯るる。

 二十五年、春、靺鞨の長の羅渴は良き馬十匹を たてまつ り、 きみ とりは 使者 つかひ ねぎら ひ以ちて之れを還す。

 二十六年、秋九月、靑紫 あほむらさき の雲は宮の東に起こること、樓閣 たかどの の如し。

 二十七年、春正月、內臣佐平を置き、宣納 みことのり の事を つかさど らしむ。內頭佐平、庫藏 くら の事を つかさど らしむ。內法佐平、禮儀 まつりごと の事を つかさど らしむ。衛士佐平、宿衛兵 たむろのいくさ の事を つかさど らしむ。朝廷佐平、刑獄 しをきとひとや の事を つかさど らしむ。兵官佐平、外の兵馬 いくさ の事を つかさど らしむ。又た達率、恩率、德率、扞率、奈率及び將德、施德、固德、季德、對德、文督、武督、佐軍、振武、克虞を置く。 むつ の佐平は並びて一品、達率は二品、恩率は三品、德率は四品、扞率は五品、奈率は六品、將德は七品、施德は八品、固德は九品、季德は十品、對德は十一品、文督は十二品、武督は十三品、佐軍は十四品、振武は十五品、克虞は十六品。
 二月、 いひつけ を下す。六品 かみ は紫を 、銀の花を以ちて冠を飾り、十一品 かみ あか 、十六品 かみ は靑を ゆ。
 三月、以ちて きみ をと の優壽を內臣佐平 らしむ。

 二十八年、春正月初吉、 きみ は紫の大袖と袍、靑の錦袴 にしきばかま 、金の花は烏の羅冠を飾り、 しろ の皮帶、烏の なめしがわ の革履を 、南の たかどの すは りて事を聽く。
 二月、 さづ けて眞可を內頭佐平 らしむ。優豆を內法佐平 らしむ。高壽を衛士佐平 らしむ。昆奴を朝廷佐平 らしむ。惟己を兵官佐平 らしむ。
 三月、使 つかひ 新羅 しらき に遣はして にき を請ひたるも從はず。

 二十九年、春正月、 いひつけ を下す。凡そ官人 つかさ たから を受くる及び盜む者は、三倍 みつまし かくり を徵し、身の終ゆるまで禁錮 とじこ む。

 三十三年、秋八月、 いくさ を遣りて新羅 しらき の烽山城を攻ましむ。城の あるぢ の直宣は壯士 ますらを 二百人 ふたほたり を率い、擊ちに出でて之れを敗る。

 三十六年、秋九月、星孛 ほうきほし は紫宮に り。

 三十九年、冬十一月、 いくさ を遣はして新羅 しらき を侵す。

 四十五年、冬十月、 いくさ を出だして新羅 しらき を攻め、槐谷城を圍みたり。

 五十年、秋九月、 いくさ を遣りて新羅 しらき くにへ さかひ を侵す。

 五十三年、春正月、使 つかひ 新羅 しらき に遣はして なき を請ふ。
 冬十一月、 きみ みまか れり。

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