責稽王(靑稽とも言われている)は古尒王の息子である。
身長は大きく、志氣は雄傑であった。
古尒が死去して即位した。
王は丁夫を徴発し、慰禮城を修繕した。
高句麗が帶方の討伐に向かったので、帶方が我が国に救援を要請した。
その前の話である。
王は帶方の王女寶菓を娶り夫人としていた。
「帶方は我が舅甥の国であり、その要請に副わないことなどできない。」
だから、このように言ったのである。
こうして出師し、帶方を救援した。
高句麗は百済を怨んだ。
王は高句麗からの侵寇を憂慮し、阿且城と蛇城を修繕してそれに備えたのである。
【二年】[春正月]
東明廟に謁見した。
【十三年】
[秋九月]
漢と貊人が来侵した。
王が出陣して防衛にあたるも、敵兵に害されて死去した。
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