近仇首王(一説によれば諱須)は近肖古王の子である。
以前、高句麗國の岡王である斯由が來侵したときのことである。
近肖古王は太子を派遣して防戦に当たらせ、半乞壤に到着して闘おうとしていた時のことであった。
高句麗人の斯紀は、もともと百濟人であったが、誤って國馬の蹄を傷つけてしまったので、罪を恐れて高句麗に出奔していた。
ここへきて百済に還来し、太子に告げて言った。
「あちらの兵力は多勢といっても、どれも疑兵(ダミー)を配備しているだけです。
軍人の中でも驍勇な者は赤旗を掲げた連中だけ。
もし先にそれらを撃ち破れば、残りは戦わずして自壊するでしょう。」
太子はそれに従って、進撃してこれを大敗させ、退却する者を追いかけて北に向かい、水谷城の西北まで至った。
将軍の莫古解が諫めて言った。
「かつて道家の言を聞いたことがあります。
"足るを知れば辱られず、止まるを知れば殆うからず"と。
現在、我々は多を得たところです。
これ以上の多をもとめる必要があるでしょうか。」
太子はそれを善しとして、進軍を留めた。
そこに石を積んで目印を立て、その上に登って左右を顧みて言った。
「今日より後、我々はここに再び至り、今度こそ高句麗に勝利しようではないか。」
その地にはひび割れた石があり、若馬の蹄にもひび割れた者があったので、他の人たちは現在に至るまで、太子を馬迹と呼んだ。
近肖古が在位すること三十年に死去し、近仇首王が即位した。
【二年】
王舅の眞高道を內臣佐平に任命し、政事を委任した。
[冬十一月]
高句麗が北鄙に来侵した。
【三年】
[冬十月]
王の将兵三万、高句麗の平壤城を侵略した。
[十一月]
高句麗來侵がした。
【五年】
[春三月]
朝晉に遣使した。
その使者は海上で悪風に遭遇し、到達できずに帰還した。
[夏四月]
一日中雨が降った。
【六年】
大疫が起こった。
[夏五月]
地が裂けた。
深さは五丈、横幅は三丈、三日してふさがった。
【八年】
[春]
六月まで雨が降らなかった。
人民は餓え、我が子を売りに出す者まで現れたので、王は官庁の穀物を出してまかなうことにした。
【十年】
[春二月]
日が暈を三重に被った。
宮中の大樹が自ら抜けた。
[夏四月]
王が死去した。
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