≪白文≫
腆支王、或云直支、梁書名映、阿莘之元子。
阿莘在位第三年、立為太子、六年出質於倭國。
十四年、王薨、王仲弟訓解攝政、以待太子還國、季弟碟禮殺訓解、自立爲王。
腆支在倭聞訃、哭泣請歸、倭王以兵士百人衛送。
旣至國界、漢城人解忠來告曰、
大王棄世、王弟碟禮殺兄自立王、願太子無輕入。
腆支留倭人自衛、依海島以待之、國人殺碟禮、迎腆支卽位。
妃、八須夫人、生子久尒辛。
二年、春正月。
王謁東明廟。
祭天地於南壇。
大赦。
二月。
遣使入晉朝貢。
秋九月。
以解忠為達率、賜漢城租一千石。
三年、春二月。
拜庶弟餘信為內臣佐平、解須爲內法佐平、解丘為兵官佐平、皆王戚也。
四年、春正月。
拜餘信為上佐平、委以軍國政事。
上佐平之職、始於此、若今之冢宰。
五年。
倭國遣使、送夜明珠。
王優禮待之。
十一年、夏五月甲申。
彗星見。
十二年。
東晉安帝遣使、冊命王、為使持節都督百濟諸軍事鎭東將軍百濟王。
十三年、春正月甲戌朔。
日有食之。
夏四月。
旱、民饑。
秋七月。
徵東北二部人年十五已上、築沙口城、使兵官佐平解丘監役。
十四年、夏。
遣使倭國、送白綿十匹。
十五年、春正月戊戌。
星孛于大微。
冬十月丁亥朔。
日有食之。
十六年、春三月。
王薨。
≪書き下し文≫
腆支王、或(あるいは)云く直支、梁書名映、阿莘の元子なり。
阿莘在位第三年、立ちて太子と為るも、六年に倭國に質として出る。
十四年、王薨じ、王仲弟の訓解攝政し、以て太子の還國を待つも、季弟の碟禮は訓解を殺し、自ら立ちて王と爲る。
腆支は倭に在り訃を聞き、哭泣して歸を請ひ、倭王兵士百人を以て衛送す。
旣に國界に至り、漢城人の解忠來たりて告げて曰く、
大王は世を棄つるも、王弟碟禮は兄を殺して自ら王に立つ、願はくば太子輕入すること無かれ、と。
腆支は倭人の自衛に留まり、海島に依りて以て之れを待つも、國人碟禮を殺し、腆支を迎へて卽位す。
妃は八須夫人、子の久尒辛を生ず。
二年、春正月。
王東明廟に謁す。
天地を南壇にて祭る。
大赦す。
二月。
遣使して晉に入り朝貢す。
秋九月。
以て解忠を達率と為し、漢城租一千石を賜ふ。
三年、春二月。
拜して庶弟の餘信を內臣佐平と為し、解須を內法佐平と爲し、解丘を兵官佐平と為す。
皆王戚なり。
四年、春正月。
拜して餘信を上佐平と為し、以て軍國政事を委ぬ。
上佐平の職、此に於いて始まり、今の冢宰が若(ごと)し。
五年。
倭國遣使し、夜明の珠を送る。
王優禮して之れを待す。
十一年、夏五月甲申。
彗星見(あらわ)る。
十二年。
東晉安帝遣使し、冊して王に命じ、使持節都督百濟諸軍事鎭東將軍百濟王と為す。
十三年、春正月甲戌朔。
日之れを食する有り。
夏四月。
旱、民饑ゆ。
秋七月。
東北二部人の年十五已上を徵(め)し、沙口城を築き、兵官佐平解丘をして監役せしむ。
十四年、夏。
倭國に遣使し、白綿十匹を送る。
十五年、春正月戊戌。
星孛、大微にあり。
冬十月丁亥朔。
日之れを食す有り。
十六年、春三月。
王薨ず。