蓋鹵王(あるいは近蓋婁とも)の諱は慶司、毗有王の長子である。
毗有の在位二十九年、死去に際して王位を継いだ。
十四年、冬十月癸酉朔。
日食が起こった。
十五年、秋八月。
将軍を派遣して高句麗の南鄙に侵攻した。
冬十月。
雙峴城を修復し、大柵を靑木嶺に設けた。
北漢山城の士卒を分けて守衛にあたらせた。
十八年。
朝魏に遣使して上表した。
「私は東の果てに建国をしましたが、豺狼が王朝までの経路を塞ぎ、代々王朝の教化を受けてまいりましたが、藩として王朝に奉じることができませんでした。
雲の向こうの王朝を羨望し、馳せ参じようとの想いは極まっておりましたが、よい風が吹くことは決して多くはありません。
伏して惟だ皇帝陛下、天恵に協和しておりましたが、あなた様を仰ぎたいとの情に耐えることができませんでした。
謹みて私署の冠軍將軍、駙馬都尉弗斯侯長史餘禮、龍驤將軍帶方太守司馬張茂等を派遣し、舫(もやい)を海に投げて波を阻み、苦海の経路を捜索し、自然の命運に託し、万一の偶然に頼んで漕ぎだしました。
神祇の垂感を懇願したことで、皇帝の靈気が天を覆ったのか、なんとか天庭に達することができました。
私の志を宣暢させていただければ、早朝にそれを聞き夕べに死没しようとも、永きに恨みを残すことはありません。
次のようにも上奏した。
我々と高句麗は何れも夫餘を出自としており、先世の時には篤く旧款を崇めておりました。
しかし、高句麗の王釗は隣国を軽んじて友誼を廃し、自ら士衆を率いて我々の国教を侵害するようになりました。
我が国の王須は、軍旅を整えて急襲し、機に乗じて攻撃に馳せ参じ、矢石をしばし交えて釗の首を斬って晒し者にしました。
これ以来、敢えて高句麗は南方の我が国を顧ることはなくなりました。
しかし、馮氏の命数が尽きて以来、燃えカスどもは逃げ回り、醜類どもは漸次勢力を盛り返すようになりました。
こうして我が国を侵略しようと迫られ、怨みに構えて禍を連ねること三十年余り、財も力も尽き果てて、自ら虚弱に転がり落ちてしまいました。
もし天が我々を慈しむというのであれば、遠く果てなき我が国まで、速やかに一将軍を派遣し、我が国をお救い下され。
そうすれば、私の賤しき娘を送って後宮にて箒を執らせ、併せて子弟を派遣して牧場や厩の手伝いをさせましょう。
高句麗を殲滅しても、一尺の土地さえも匹夫たる我が身が領有しようとは思いません。」
また次のようにも上奏した。
「今、璉には罪があります。
國を自らの魚肉のように貪り、大臣彊族の戮殺はやむことなく、罪は満ちて悪は積もり、庶民は離散し、これこそ滅亡の時であり、手を貸すべき時でございます。
まさに馮族の士馬さえも鳥畜でありながら故郷を愁い、樂浪諸郡も心は故郷に向いており、皇帝陛下による天威の一挙があらば、戦をすることなく征伐できるでしょう。
私は不敏の身ではございますが、力を尽くそうと志して、私の統率する者たちを率いて、王風を受ければ響応しようと存じます。
まさに高句麗の不義、詐欺、暴虐はひとつではありません。
外には隗囂藩卑の言葉を慕い、内には悪人がいたるところで暴れまわるような行動に懐いております。
奴らは一方では南の劉氏に友通しながら、一方では北の蠕蠕と盟約を交わし、互いに共同で上顎と下顎のように、王の領土を侵略しようと謀っております。
昔、唐堯は聖に至り、罰を丹水に致しました。
孟嘗君は仁と称して、道端に書かれた悪口さえも捨て置きませんでした。
涓流の水を早急に塞ぐべきでしょう。
今もしそうしなければ、後悔を残すことになります。
去る庚辰年の後、私は西国堺の小石山北國の海中にて、十余りの屍を発見しましたが、そこで見つけた衣服や道具、鞍勒を並べて見ると、どうにも高句麗の物ではないようでした。
後に聞いた話では、これは王の使者が我が国に降られる途中、長蛇が経路を邪魔し、それによって海に沈められたとのことではありませんか。
まだ我が国は委任を受けていませんが、深く怒りの心を抱きました。
昔、宋の申舟が虐殺を行った際、楚の莊王は裸足で駆けだしたと云われ、鷂が鳩を放ったと知った信陵君は食事もせずに追いかけたと云うではありませんか。
敵に勝利して名を立てれば、その美名が興隆してやむことはないでしょう。
私は小さな田舎の村々をもって、なお萬代の信にお慕い致します。
言うまでもなく、陛下は氣を天地に合わせられ、その勢力は山海を傾るものでありますから、どうして高句麗のような子倅ごときに天道を跨がせることができるでしょうか。
今回、発見された鞍のひとつを献上いたしますので、実際に検証してください。」
顯祖は百済が僻地から遠くに危険を冒して朝献したことをもって、すこぶる厚く礼遇した。
使者として派遣された邵安が、百済の使者と一緒に帰還した。
詔には次のようにあった。
「表をいただきまして、その内容を聞かせていただきました。
つつがなく、甚だ喜ばしきことでございます。
あなたは東隅、五服の外にありながら、山海を遠しとせず我が国の高き門に忠誠をもって帰順なさったこと、欣嘉は我が心まで至り、我が胸中にお収めします。
朕は万世の業を継承し、四海に君臨し、群生を統御しております。
現在、世界は清一となり、八方は義に帰し、赤子を背負って中国に至る者は数え切れぬほどです。
風俗の和、士馬の盛、見聞するところ皆が共に親しみ合っております。
あなたと高句麗が仲違いをし、頻繁に侵犯しておられますが、苟もよく義に恭順で、仁によってそれを順守すれば、仇敵を愁うことなどないはずです。
以前、使者を派遣しましたが、海に船を浮かべて荒外の国を撫させましたが、行ったきり年は積もり、まだ帰ってきておりません。
そのため存亡達否も、いまだに充分に審理できておりません。
あなたの送られた鞍ですが、旧来の我が国におけるそれと比較してみましたが、どうにも中国の物ではないようです。
似たものを用いて事件とし、無理やりに過を生ずるとはどういうことですか。
本件の解決に向けての權要は、別旨にて論じます。」
また、詔には次のようにある。
「高句麗が進路を阻み、あなたの土地を侵略し、先君の旧怨を晴らすために人民を安息すべきとの大德を棄て、幾度となく軍隊によって干戈を交え、苦難を結び、辺境を荒らしまわっていることはわかりました。
あなたの使者は申胥の誠実さを兼ね備えておられました。
國に楚越の急があれば、すぐに義の展開に応じては僅かばかりの兵を出し、機に乗じて電撃的に挙兵します。
ただし、高句麗は藩を先朝より称しており、職を供して日も久しくございます。
彼については、昔から仲違いすることがあるといえども、国については、いまだ中国に対して令を犯すような過ちがあるとは言えません。
あなたは使者に命じて初めて中国と通じ、すぐに高句麗への討伐を求められましたが、本件について証拠を合わせて調査し検討したところ、理が充分に尽くされているとは判断できません。
ですので、往年餘禮たちを平壤に派遣して到着させ、その状況を顕彰しようとしているのですが、高句麗は煩忙であると朝廷に奏請して答弁を拒否し、言葉と理路の何れも整然としているため、使者はその要請を抑えることができません。
また、司法によって本件の責を成立させることもできません。
ですので、本件について述べられた内容を聴取するのみで、詔を出して餘禮たちは帰国しました。
もし、今回また旨に違うというのであれば、両国それぞれの咎をこれ以上露呈することになり、今後は自らの陳述であったとしても、罪から逃れることはできないはずです。
ですので、その後に軍を興して討伐に向かうのであれば、それは義を得たものといえるでしょう。
九夷の国は、世の海外に居しております。
統治がのどかなものであれば藩に奉じますが、恩恵が亡くなれば国境を打ち立てます。
ですので、羈縻については前典に著されておりますが、楛については歲時に貢がなかった。
あなたは強弱の形成を詳らかに陳述し、往代の事跡を具に列せられておられますが、習俗が違えば事情も異なるというもので、ここで恩恵を与えてしまえば公正に悖ります。
洪規の大略とは、天子がいまするがごとくするものです。
現在の中夏は太平一つにして、世界に憂慮などありません。
天子の威光が東に極まり、評判が翻り、蛮地にて未開の人々を援助し、遠くに皇帝の風を及ぼして帰服させたいといつも願っております。
高句麗の述べる内容は良好なもので、まだ征伐するに及びません。
もし今回の詔旨に従わないのであれば、あなたの謀に朕も同意して協力をし、大軍によって先導すれば、高句麗を遠いことはないでしょう。
ですから、あらかじめ我々と同じく軍を興して率いるためにも、それに備えて事をお待ちください。
時がくれば、報告の死者を使を派遣し、速やかにあちらの実情を究明します。
師擧の日には、あなたが先導して我々を導き、大勝した暁には、また元功の賞を受けて頂きたく思います。
なんとも素晴らしいことだと思いませんか。
錦布海物を献上されておりますところ、まだこちらには到達しておりませんが、あなたの至心は明らかです。
今回、雜物を賜わることにしましたので、それは別幅にて。」
同時に邵安たちを護送して璉にも詔を出した。
邵安たちは高句麗に到着すると、璉は昔餘慶に仇があると称して、東に往くことを許可しなかったので、邵安たちはここで皆帰還することになった。
こうして詔を下してその件を強く批判した。
その後、邵安たちを使者に出し、東萊に向かって海を渡り、餘慶に璽書を賜り、その誠節を褒賞しようとした。
しかし、海濱に到着した邵安たちであったが、吹き荒れる嵐に遭遇してしまったため、結局百済にたどり着くことなく帰還してしまった。
王は高句麗人が辺境を侵犯するからと何度も上表して軍を魏に乞うたが、魏はそれに従わなかった。
王はそれを怨んで、遂に朝貢を絶った。
二十一年、秋九月。
麗王の巨璉は兵三万を率いて来襲し、王都の漢城を包囲した。
王は城門を閉めて戦に出ることができなかった。
高句麗人は軍を四つに分けて、挟撃した。
また風に乗じて火を放ち、城門を焚燒した。
人心は危懼し、あるものは降服しようと城を出たがる者まで現れた。
王はその包囲が差し迫っていることに気づかず、数十騎を率いて、城門を出て西に走った。
それを高句麗人が追撃して害した。
まず、高句麗の長壽王は百濟に対して陰謀を企み、そちらに間諜をもぐりこませようとした。
その時、仏僧の道琳應募が言った。
「愚僧は既に道を悟ることはできません。
ですので、国恩に報いようと思います。
願わくば大王よ、私が不肖であるにかかわらず、指示を出して下されば、王命を辱めることはないでしょう。
王は喜んで密使として百濟に送り、欺かせた。
これによって、道琳佯は罪を逃れて奔走したとして百濟に入国した。
時に百濟王近蓋婁は博奕を好んでいた。
道琳は王門にたどり着いて告げた。
「私は幼少の頃から碁を学んでおりまして、神妙の境地に達しております。
願わくば左右の者からお聞かせいただけないでしょうか。」
王は召して門に入れ、碁の対局をしたが、事実、全国的名手であった。
こうして王は道琳應募を尊び、上客として非常に親しく懇ろになり、どうしてもっと早く出会うことができなかったのかと恨むほどであった。
道琳は一日侍坐し、ゆったりとして言った。
「私が異国人であるにもかかわらず、上様は私を疎外することなく、恩寵すること甚だ厚くございました。
しかしながら、これは一芸の値打ちに過ぎません。
いまだかつて毛一本の益さえ私は王に与えておりません。
今回、私は一言を献上させていただきたいと願っておりますが、上様のお心を計りかねております。」
王は言った。
「どうかお話しください。
もし国家に利益があることなら、それは師も望むところでしょう。」
道琳は言った。
「大王の国は、四方はいずれも山丘河海に囲まれております。
これは天の設けられた険でございますが、人為の形ものではありません。
これこそが四方に隣接する国々が、強いて心を観ようとしない点で、それゆえに面倒ごとを嫌がって奉っているだけなのです。
そのために、この国は崇高の勢と富有の業をもって当たっているのに、人に評判されるのを恐れて、城郭を建てたり宮室の修復をしておりません。
先王の骸骨は露地に仮葬したまま、百姓の屋廬も河流に流されています。
私はひそかに、これは大王のすべきことではないと思っております。
王は言った。
「わかった。
すぐにそうしようではないか。」
こうして国民を悉く徴発し、土を盛り上げて城を築き、その内側には宮殿、楼閣を作り、臺榭まで建付け、荘厳美麗でないものはなにひとつなかった。
また大石を郁里河から採取し、槨を作って父骨を葬い、河に樹の堰を築くことには蛇城の東から崇山の北まで至った。
これによって倉庾は枯渇し、人民は窮困し、邦の危うさは、まさに累卵よりも甚しい状況であった。
ここへきて、道琳は逃げ帰り、そのことについて報告した。
長壽王は喜び、まさに百済を討伐しようとして、すぐに軍隊を帥臣に授けた。
近蓋婁はそれを聞いて、子の文周に言った。
「私は愚かで不明であった。
姦人の言を信用し、こんなことになってしまったのだ。
仁民は疲弊しきって兵も弱体化し、危事でありながら、誰も私が戦うために協力しないだろう。
私がここで社稷のために死ぬとしても、お前がここにいて一緒に死ぬのは無益だ。
どうかこの困難から逃げ延び、国の系譜を継いでくれ」
こうして文周は木劦滿致、祖彌桀取(木劦、祖彌、どちらも複姓であるが、隋書には木、劦を二姓としている。どちらがただしいのかはわからない)と共に南へ行った。
ここに至って、高句麗の對盧齊于、再曾桀婁、古尒萬年(再曾、古尒、どれも複姓)たちは兵を統帥し、北城を攻撃し、七日かけて抜き、南城の攻撃に移り移り、城中は危恐したので、王が城から逃げ出した。
高句麗の将軍桀婁たちは王を見ると下馬して拝礼し、そのまま王の顔面に向かって唾を三度吐き、そのままその罪を数え、縛って阿旦城下に送り、これを処刑した。
桀婁と萬年はもともと百済の人であったが、罪に問われて高句麗に逃げ出した者たちである。
本件について論じよう。
楚昭王が亡くなると、鄖公辛の弟懐が王を弑殺しようとして言った。
「平王は我が父を殺したので、私はその子を殺すのだ。
これも可であろう。」
辛は言った。
「君が臣を討伐するのであれば、誰が敢えてそれを仇とするだろうか。
君命は天である。
もし天命によって死ぬのであれば、誰がそれを仇とするだろうか。」
桀婁たちは自らの罪によって国にいられず、そのために敵兵を導き入れ、前君を縛りつけて害した。
その不義なるや、なんと甚だしいことか。
さすれば、このように言われるかもしれない。
「それなら伍子胥が郢に入って屍を鞭で打ったのはどうなのか」と。
ならばこのように答えよう。
「楊子は法言にて、本件は德に由らないものだと思われると評した」と。
所謂徳というものは、仁と義のみである。
このように、呉子胥の残忍な行為は鄖公の仁に如かない。
これをもって本件を論じ、桀婁たちのしたことが不義であることは、明らかである。
|