蓋鹵王

蓋鹵王

 蓋鹵王(あるいは近蓋婁とも)の諱は慶司、毗有王の長子である。
 毗有の在位二十九年、死去に際して王位を継いだ。

 十四年、冬十月癸酉朔。
 日食が起こった。

 十五年、秋八月。
 将軍を派遣して高句麗の南鄙に侵攻した。

 冬十月。
 雙峴城を修復し、大柵を靑木嶺に設けた。
 北漢山城の士卒を分けて守衛にあたらせた。

 十八年。
 朝魏に遣使して上表した。
「私は東の果てに建国をしましたが、豺狼が王朝までの経路を塞ぎ、代々王朝の教化を受けてまいりましたが、藩として王朝に奉じることができませんでした。
 雲の向こうの王朝を羨望し、馳せ参じようとの想いは極まっておりましたが、よい風が吹くことは決して多くはありません。
 伏して惟だ皇帝陛下、天恵に協和しておりましたが、あなた様を仰ぎたいとの情に耐えることができませんでした。
 謹みて私署の冠軍將軍、駙馬都尉弗斯侯長史餘禮、龍驤將軍帶方太守司馬張茂等を派遣し、舫(もやい)を海に投げて波を阻み、苦海の経路を捜索し、自然の命運に託し、万一の偶然に頼んで漕ぎだしました。
 神祇の垂感を懇願したことで、皇帝の靈気が天を覆ったのか、なんとか天庭に達することができました。
 私の志を宣暢させていただければ、早朝にそれを聞き夕べに死没しようとも、永きに恨みを残すことはありません。
 次のようにも上奏した。
 我々と高句麗は何れも夫餘を出自としており、先世の時には篤く旧款を崇めておりました。
 しかし、高句麗の王釗は隣国を軽んじて友誼を廃し、自ら士衆を率いて我々の国教を侵害するようになりました。
 我が国の王須は、軍旅を整えて急襲し、機に乗じて攻撃に馳せ参じ、矢石をしばし交えて釗の首を斬って晒し者にしました。
 これ以来、敢えて高句麗は南方の我が国を顧ることはなくなりました。
 しかし、馮氏の命数が尽きて以来、燃えカスどもは逃げ回り、醜類どもは漸次勢力を盛り返すようになりました。
 こうして我が国を侵略しようと迫られ、怨みに構えて禍を連ねること三十年余り、財も力も尽き果てて、自ら虚弱に転がり落ちてしまいました。
 もし天が我々を慈しむというのであれば、遠く果てなき我が国まで、速やかに一将軍を派遣し、我が国をお救い下され。
 そうすれば、私の賤しき娘を送って後宮にて箒を執らせ、併せて子弟を派遣して牧場や厩の手伝いをさせましょう。
 高句麗を殲滅しても、一尺の土地さえも匹夫たる我が身が領有しようとは思いません。」

 また次のようにも上奏した。
「今、璉には罪があります。
 國を自らの魚肉のように貪り、大臣彊族の戮殺はやむことなく、罪は満ちて悪は積もり、庶民は離散し、これこそ滅亡の時であり、手を貸すべき時でございます。
 まさに馮族の士馬さえも鳥畜でありながら故郷を愁い、樂浪諸郡も心は故郷に向いており、皇帝陛下による天威の一挙があらば、戦をすることなく征伐できるでしょう。
 私は不敏の身ではございますが、力を尽くそうと志して、私の統率する者たちを率いて、王風を受ければ響応しようと存じます。
 まさに高句麗の不義、詐欺、暴虐はひとつではありません。
 外には隗囂藩卑の言葉を慕い、内には悪人がいたるところで暴れまわるような行動に懐いております。
 奴らは一方では南の劉氏に友通しながら、一方では北の蠕蠕と盟約を交わし、互いに共同で上顎と下顎のように、王の領土を侵略しようと謀っております。
 昔、唐堯は聖に至り、罰を丹水に致しました。
 孟嘗君は仁と称して、道端に書かれた悪口さえも捨て置きませんでした。
 涓流の水を早急に塞ぐべきでしょう。
 今もしそうしなければ、後悔を残すことになります。
 去る庚辰年の後、私は西国堺の小石山北國の海中にて、十余りの屍を発見しましたが、そこで見つけた衣服や道具、鞍勒を並べて見ると、どうにも高句麗の物ではないようでした。
 後に聞いた話では、これは王の使者が我が国に降られる途中、長蛇が経路を邪魔し、それによって海に沈められたとのことではありませんか。
 まだ我が国は委任を受けていませんが、深く怒りの心を抱きました。
 昔、宋の申舟が虐殺を行った際、楚の莊王は裸足で駆けだしたと云われ、鷂が鳩を放ったと知った信陵君は食事もせずに追いかけたと云うではありませんか。
 敵に勝利して名を立てれば、その美名が興隆してやむことはないでしょう。
 私は小さな田舎の村々をもって、なお萬代の信にお慕い致します。
 言うまでもなく、陛下は氣を天地に合わせられ、その勢力は山海を傾るものでありますから、どうして高句麗のような子倅ごときに天道を跨がせることができるでしょうか。
 今回、発見された鞍のひとつを献上いたしますので、実際に検証してください。」
 顯祖は百済が僻地から遠くに危険を冒して朝献したことをもって、すこぶる厚く礼遇した。
 使者として派遣された邵安が、百済の使者と一緒に帰還した。

 詔には次のようにあった。
「表をいただきまして、その内容を聞かせていただきました。
 つつがなく、甚だ喜ばしきことでございます。
 あなたは東隅、五服の外にありながら、山海を遠しとせず我が国の高き門に忠誠をもって帰順なさったこと、欣嘉は我が心まで至り、我が胸中にお収めします。
 朕は万世の業を継承し、四海に君臨し、群生を統御しております。
 現在、世界は清一となり、八方は義に帰し、赤子を背負って中国に至る者は数え切れぬほどです。
 風俗の和、士馬の盛、見聞するところ皆が共に親しみ合っております。
 あなたと高句麗が仲違いをし、頻繁に侵犯しておられますが、苟もよく義に恭順で、仁によってそれを順守すれば、仇敵を愁うことなどないはずです。
 以前、使者を派遣しましたが、海に船を浮かべて荒外の国を撫させましたが、行ったきり年は積もり、まだ帰ってきておりません。
 そのため存亡達否も、いまだに充分に審理できておりません。
 あなたの送られた鞍ですが、旧来の我が国におけるそれと比較してみましたが、どうにも中国の物ではないようです。
 似たものを用いて事件とし、無理やりに過を生ずるとはどういうことですか。
 本件の解決に向けての權要は、別旨にて論じます。」

 また、詔には次のようにある。
「高句麗が進路を阻み、あなたの土地を侵略し、先君の旧怨を晴らすために人民を安息すべきとの大德を棄て、幾度となく軍隊によって干戈を交え、苦難を結び、辺境を荒らしまわっていることはわかりました。
 あなたの使者は申胥の誠実さを兼ね備えておられました。
 國に楚越の急があれば、すぐに義の展開に応じては僅かばかりの兵を出し、機に乗じて電撃的に挙兵します。
 ただし、高句麗は藩を先朝より称しており、職を供して日も久しくございます。
 彼については、昔から仲違いすることがあるといえども、国については、いまだ中国に対して令を犯すような過ちがあるとは言えません。
 あなたは使者に命じて初めて中国と通じ、すぐに高句麗への討伐を求められましたが、本件について証拠を合わせて調査し検討したところ、理が充分に尽くされているとは判断できません。
 ですので、往年餘禮たちを平壤に派遣して到着させ、その状況を顕彰しようとしているのですが、高句麗は煩忙であると朝廷に奏請して答弁を拒否し、言葉と理路の何れも整然としているため、使者はその要請を抑えることができません。
 また、司法によって本件の責を成立させることもできません。
 ですので、本件について述べられた内容を聴取するのみで、詔を出して餘禮たちは帰国しました。
 もし、今回また旨に違うというのであれば、両国それぞれの咎をこれ以上露呈することになり、今後は自らの陳述であったとしても、罪から逃れることはできないはずです。
 ですので、その後に軍を興して討伐に向かうのであれば、それは義を得たものといえるでしょう。
 九夷の国は、世の海外に居しております。
 統治がのどかなものであれば藩に奉じますが、恩恵が亡くなれば国境を打ち立てます。
 ですので、羈縻については前典に著されておりますが、楛については歲時に貢がなかった。
 あなたは強弱の形成を詳らかに陳述し、往代の事跡を具に列せられておられますが、習俗が違えば事情も異なるというもので、ここで恩恵を与えてしまえば公正に悖ります。
 洪規の大略とは、天子がいまするがごとくするものです。
 現在の中夏は太平一つにして、世界に憂慮などありません。
 天子の威光が東に極まり、評判が翻り、蛮地にて未開の人々を援助し、遠くに皇帝の風を及ぼして帰服させたいといつも願っております。
 高句麗の述べる内容は良好なもので、まだ征伐するに及びません。
 もし今回の詔旨に従わないのであれば、あなたの謀に朕も同意して協力をし、大軍によって先導すれば、高句麗を遠いことはないでしょう。
 ですから、あらかじめ我々と同じく軍を興して率いるためにも、それに備えて事をお待ちください。
 時がくれば、報告の死者を使を派遣し、速やかにあちらの実情を究明します。
 師擧の日には、あなたが先導して我々を導き、大勝した暁には、また元功の賞を受けて頂きたく思います。
 なんとも素晴らしいことだと思いませんか。
 錦布海物を献上されておりますところ、まだこちらには到達しておりませんが、あなたの至心は明らかです。
 今回、雜物を賜わることにしましたので、それは別幅にて。」

 同時に邵安たちを護送して璉にも詔を出した。
 邵安たちは高句麗に到着すると、璉は昔餘慶に仇があると称して、東に往くことを許可しなかったので、邵安たちはここで皆帰還することになった。
 こうして詔を下してその件を強く批判した。
 その後、邵安たちを使者に出し、東萊に向かって海を渡り、餘慶に璽書を賜り、その誠節を褒賞しようとした。
 しかし、海濱に到着した邵安たちであったが、吹き荒れる嵐に遭遇してしまったため、結局百済にたどり着くことなく帰還してしまった。

 王は高句麗人が辺境を侵犯するからと何度も上表して軍を魏に乞うたが、魏はそれに従わなかった。
 王はそれを怨んで、遂に朝貢を絶った。

 二十一年、秋九月。
 麗王の巨璉は兵三万を率いて来襲し、王都の漢城を包囲した。
 王は城門を閉めて戦に出ることができなかった。
 高句麗人は軍を四つに分けて、挟撃した。
 また風に乗じて火を放ち、城門を焚燒した。
 人心は危懼し、あるものは降服しようと城を出たがる者まで現れた。
 王はその包囲が差し迫っていることに気づかず、数十騎を率いて、城門を出て西に走った。
 それを高句麗人が追撃して害した。

 まず、高句麗の長壽王は百濟に対して陰謀を企み、そちらに間諜をもぐりこませようとした。
 その時、仏僧の道琳應募が言った。
「愚僧は既に道を悟ることはできません。
 ですので、国恩に報いようと思います。
 願わくば大王よ、私が不肖であるにかかわらず、指示を出して下されば、王命を辱めることはないでしょう。
 王は喜んで密使として百濟に送り、欺かせた。
 これによって、道琳佯は罪を逃れて奔走したとして百濟に入国した。

 時に百濟王近蓋婁は博奕を好んでいた。
 道琳は王門にたどり着いて告げた。
「私は幼少の頃から碁を学んでおりまして、神妙の境地に達しております。
 願わくば左右の者からお聞かせいただけないでしょうか。」
 王は召して門に入れ、碁の対局をしたが、事実、全国的名手であった。
 こうして王は道琳應募を尊び、上客として非常に親しく懇ろになり、どうしてもっと早く出会うことができなかったのかと恨むほどであった。
 道琳は一日侍坐し、ゆったりとして言った。
「私が異国人であるにもかかわらず、上様は私を疎外することなく、恩寵すること甚だ厚くございました。
 しかしながら、これは一芸の値打ちに過ぎません。
 いまだかつて毛一本の益さえ私は王に与えておりません。
 今回、私は一言を献上させていただきたいと願っておりますが、上様のお心を計りかねております。」
 王は言った。
「どうかお話しください。
 もし国家に利益があることなら、それは師も望むところでしょう。」
 道琳は言った。
「大王の国は、四方はいずれも山丘河海に囲まれております。
 これは天の設けられた険でございますが、人為の形ものではありません。
 これこそが四方に隣接する国々が、強いて心を観ようとしない点で、それゆえに面倒ごとを嫌がって奉っているだけなのです。
 そのために、この国は崇高の勢と富有の業をもって当たっているのに、人に評判されるのを恐れて、城郭を建てたり宮室の修復をしておりません。
 先王の骸骨は露地に仮葬したまま、百姓の屋廬も河流に流されています。
 私はひそかに、これは大王のすべきことではないと思っております。
 王は言った。
「わかった。
 すぐにそうしようではないか。」

 こうして国民を悉く徴発し、土を盛り上げて城を築き、その内側には宮殿、楼閣を作り、臺榭まで建付け、荘厳美麗でないものはなにひとつなかった。
 また大石を郁里河から採取し、槨を作って父骨を葬い、河に樹の堰を築くことには蛇城の東から崇山の北まで至った。
 これによって倉庾は枯渇し、人民は窮困し、邦の危うさは、まさに累卵よりも甚しい状況であった。
 ここへきて、道琳は逃げ帰り、そのことについて報告した。
 長壽王は喜び、まさに百済を討伐しようとして、すぐに軍隊を帥臣に授けた。

 近蓋婁はそれを聞いて、子の文周に言った。
「私は愚かで不明であった。
 姦人の言を信用し、こんなことになってしまったのだ。
 仁民は疲弊しきって兵も弱体化し、危事でありながら、誰も私が戦うために協力しないだろう。
 私がここで社稷のために死ぬとしても、お前がここにいて一緒に死ぬのは無益だ。
 どうかこの困難から逃げ延び、国の系譜を継いでくれ」
 こうして文周は木劦滿致、祖彌桀取(木劦、祖彌、どちらも複姓であるが、隋書には木、劦を二姓としている。どちらがただしいのかはわからない)と共に南へ行った。
 ここに至って、高句麗の對盧齊于、再曾桀婁、古尒萬年(再曾、古尒、どれも複姓)たちは兵を統帥し、北城を攻撃し、七日かけて抜き、南城の攻撃に移り移り、城中は危恐したので、王が城から逃げ出した。
 高句麗の将軍桀婁たちは王を見ると下馬して拝礼し、そのまま王の顔面に向かって唾を三度吐き、そのままその罪を数え、縛って阿旦城下に送り、これを処刑した。
 桀婁と萬年はもともと百済の人であったが、罪に問われて高句麗に逃げ出した者たちである。

 本件について論じよう。
 楚昭王が亡くなると、鄖公辛の弟懐が王を弑殺しようとして言った。
「平王は我が父を殺したので、私はその子を殺すのだ。
 これも可であろう。」
 辛は言った。
「君が臣を討伐するのであれば、誰が敢えてそれを仇とするだろうか。
 君命は天である。
 もし天命によって死ぬのであれば、誰がそれを仇とするだろうか。」
 桀婁たちは自らの罪によって国にいられず、そのために敵兵を導き入れ、前君を縛りつけて害した。
 その不義なるや、なんと甚だしいことか。
 さすれば、このように言われるかもしれない。
「それなら伍子胥が郢に入って屍を鞭で打ったのはどうなのか」と。
 ならばこのように答えよう。
「楊子は法言にて、本件は德に由らないものだと思われると評した」と。
 所謂徳というものは、仁と義のみである。
 このように、呉子胥の残忍な行為は鄖公の仁に如かない。
 これをもって本件を論じ、桀婁たちのしたことが不義であることは、明らかである。

 

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≪白文≫
 冬十月。
 葺雙峴城、設大柵於靑木嶺、分北漢山城士卒戍之。

 十八年。
 遣使朝魏。
 上表曰、
 臣立國東極、豺狼隔路、雖世承靈化、莫由奉藩。
 瞻望雲闕、馳情罔極、凉風微應。
 伏惟皇帝陛下、協和天休、不勝係仰之情。
 謹遣私署冠軍將軍駙馬都尉弗斯侯長史餘禮、龍驤將軍帶方太守司馬張茂等、投舫波阻、搜徑玄津、託命自然之運、遣進萬一之誠。
 冀神祇垂感、皇靈洪覆、克達天庭、宣暢臣志、雖旦聞夕沒、永無餘恨。
 又云、
 臣與高句麗、源出扶餘夫餘、先世之時、篤崇舊款。
 其祖釗、輕廢鄰好、親率士衆、凌踐臣境。
 臣祖須、整旅電邁、應機馳擊、矢石暫交、梟斬釗首。
自爾已來、莫敢南顧。
 自馮氏數終、餘燼奔竄、醜類漸盛。
 遂見凌逼、構怨連禍、三十餘載、財殫力竭、轉自孱踧。
 若天慈曲矜、遠及無外、速遣一將、來救臣國、當奉送鄙女、執箒後宮、幷遣子弟、牧圉外廐、尺壞壤匹夫、不敢自有。
 又云、
 今璉有罪、國自魚肉、大臣彊族、戮殺無已、罪盈惡積、民庶崩離、是滅亡之期、假手之秋也。
 且馮族士馬、有鳥畜之戀、樂浪諸郡、懷首丘之心、天威一擧、有征無戰、臣雖不敏、志效畢力、當率所統、承風響應。
 且高句麗不義、逆詐非一、外慕隗囂藩卑之辭、內懷凶禍豕突之行。
 或南通劉氏、或北約蠕蠕、共相脣齒、謀凌王略。
 昔唐堯至聖、致罰丹水、孟嘗稱仁、不捨塗詈。
 涓流之水、宜早壅塞、今若不取、將貽後悔。
 去庚辰年後、臣西界小石山北國海中、見屍十餘、幷得衣器鞍勒、視之、非高句麗之物。
 後聞、乃是王人來降臣國、長蛇隔路、以沈于海。
 雖未委當、深懷憤恚。
 昔宋戮申舟、楚莊徒跣、鷂撮放鳩、信陵不食。
 克敵立名、美隆無已、夫以區區偏鄙、猶慕萬代之信、況陛下合氣天地、勢傾山海、豈令小竪、跨塞天逵。
 今上所得鞍一以實驗。
 顯祖以其僻遠冒險朝獻、禮遇尤厚。
 遣使者邵安、與其使俱還。
 詔曰、
 得表聞之、無恙甚喜。
 卿在東隅、處五服之外、不遠山海、歸誠魏闕、欣嘉至意、用戢于懷。
 朕承萬世之業、君臨四海、統御群生。
 今宇內淸一、八表歸義、襁負而至者、不可稱數。
 風俗之和、士馬之盛、皆餘禮等、親所聞見。
 卿與高句麗不穆、屢致凌犯、苟能順義、守之以仁、亦何憂於寇讐也。
 前所遣使、浮海以撫荒外之國、從來積年、往而不返、存亡達否、未能審悉。
 卿所送鞍、比校較舊乘、非中國之物。
 不可以疑似之事、以生必然之過。
 經略權要、以具別旨。
 又詔曰、
 知高句麗阻疆、侵軼卿土、修先君之舊怨、棄息民之大德。
 兵交累載、難結荒邊、使兼申胥之誠、國有楚、越之急。
 乃應展義扶微、乘機電擧。
 但以高句麗稱藩先朝、供職日久。
 於彼、雖有自昔之釁、於國、未有犯令之愆。
 卿使命始通、便求致伐、尋討事會、理亦未周。
 故往年遣禮等至平壤、欲驗其由狀、然高句麗奏請頻煩、辭理俱詣、行人不能抑其請、司法無以成其責、故聽其所啓、詔禮等還。
 若今復違旨、則過各咎益露、後雖自陳、無所逃罪、然後興師討之、於義為得。
 九夷之國、世居海外、道暢則奉藩、惠戢則保境。
 故羈縻著於前典、楛貢曠於歲時。
 卿備陳彊弱之形、具列往代之迹、俗殊事異、擬貺乖衷。
 洪規大略、其致猶在。
 今中夏平一、宇內無虞。
 每欲陵威東極、懸旌域表、拯荒黎於偏方、舒皇風於遠服。
 良由高句麗卽敍、未及卜征。
 今若不從詔旨、則卿之來謀、載協朕意、元戎啓行、將不云遠。
 便可豫率同興、具以待事、時遣報使、速究彼情。
 師擧之日、卿為鄕導之首、大捷之後、又受元功之賞、不亦善乎。
 所獻錦布海物、雖不悉達、明卿至心。
 今賜雜物如別幅。
 又詔璉護送安等。
 安等至高句麗、璉稱昔與餘慶有讎、不令東過、安等於是皆還、乃下詔切責之。
 後使安等、從東萊浮海、賜餘慶璽書、褒其誠節。
 安等至海濱、遇風飄蕩、竟不達而還。
 王以麗人屢犯邊鄙、上表乞師於魏、不從。
 王怨之、遂絶朝貢。

 二十一年、秋九月。
 麗王巨璉帥兵三萬、來圍王都漢城。
 王閉城門不能出戰。
 麗人分兵為四道、夾攻、又乘風縱火、焚燒城門。
 人心危懼、或有欲出降者。
 王窘不知所圖、領數十騎、出門西走。
 麗人追而害之。
 先是、高句麗長壽王、陰謀百濟、求可以間諜於彼者。
 時、浮屠道琳應募曰、
愚僧旣不能知道、思有以報國恩。
 願大王不以臣不肖、指使之、期不辱命。
 王悅、密使譎百濟。
 於是、道琳佯逃罪、奔入百濟。
 時、百濟王近蓋婁好博。
 道琳詣王門、告曰、
 臣少而學碁、頗入妙、願有聞於左右。
 王召入對碁、果國手也。
 遂尊之、為上客、甚親昵之、恨相見之晚。
 道琳一日侍坐、從容曰、
 臣異國人也、上不我疎外、恩私甚渥、而惟一技之是效、未嘗有分毫之益。
 今願獻一言、不知上意如何耳。
 王曰、
 第言之、若有利於國、此所望於師也。
 道琳曰、
 大王之國、四方皆山丘河海、是天設之險、非人為之形也。
 是以、四鄰之國、莫敢有覦心、但願奉事之不暇。
 則王當以崇高之勢、富有之業、竦人之視聽、而城郭不葺、宮室不修。
 先王之骸骨、權攢於露地、百姓之屋廬、屢壞於河流、臣竊為大王不取也。
   王曰、
 諾。
吾將為之。
 於是、盡發國人、烝土築城、卽於其內、作宮樓閣臺榭、無不壯麗。
 又取大石於郁里河、作槨以葬父骨、緣河樹堰、自蛇城之東、至崇山之北。
 是以、倉庾虛竭、人民窮困、邦之陧杌、甚於累卵。
 於是、道琳逃還以告之。
 長壽王喜、將伐之、乃授兵於帥臣。
 近蓋婁聞之、謂子文周曰、
 予愚而不明、信用姦人之言、以至於此。
 民殘而兵弱、雖有危事、誰肯為我力戰。
 吾當死於社稷、汝在此俱死、無益也。
 盍避難以續國系焉。
 文周乃與木劦滿致、祖彌桀取、木劦、祖彌、皆複姓、隋書以木劦為二姓、未知孰是、南行焉。
 至是、高句麗對盧齊于、再曾桀婁、古尒萬年、再曾、古尒、皆複姓、等帥兵、來攻北城、七日而拔之、移攻南城、城中危恐、王出逃。
 麗將桀婁等見王下馬拜、已向王面三唾之、乃數其罪、縛送於阿旦城下戕之。
 桀婁、萬年、本國人也、獲罪逃竄高句麗。

 論曰、
 楚昭王之亡也、鄖公辛之弟懷、將弑王曰、
 平王殺吾父、我殺其子、不亦可乎。
 辛曰、
 君討臣、誰敢讐之。
 君命、天也、若死天命、將誰讐。
 桀婁等、自以罪不見容於國、而導敵兵、縛前君而害之、其不義也、甚矣。
 曰、
 然則伍子胥之入郢鞭尸、何也。
 曰、
 楊子法言評此以為不由德。
 所謂德者、仁與義而已矣、則子胥之狠、不如鄖公之仁。
 以此論之、桀婁等之為不義也、明矣。



≪書き下し文≫
 蓋鹵王、或(あるいは)云く近蓋婁、諱は慶司、毗有王の長子なり。
 毗有の在位二十九年、薨じて嗣ぐ。

 十四年、冬十月癸酉朔。
 日之れを食する有り。

 十五年、秋八月。
 將を遣り高句麗の南鄙を侵せしむ。

 冬十月。
 雙峴城を葺(おさ)め、大柵を靑木嶺に設け、北漢山城の士卒を分けて之れを戍(まも)る。

 十八年。
 朝魏に遣使す。
 上表して曰く、
 臣は國を東極に立てるも、豺狼は路を隔て、世靈化を承くると雖も、藩を奉じて由ること莫し。
 雲闕を瞻望し、馳の情は罔極するも、凉風應ずること微かなり。
 伏して惟だ皇帝陛下、協和天休するも、係仰の情に勝たざるのみ。
 謹みて私署の冠軍將軍駙馬、都尉弗斯侯長史餘禮、龍驤將軍帶方太守司馬張茂等を遣り、舫(もやひ)を投げて波阻み、玄津の徑(みち)を搜し、自然の運に託命し、萬一の誠を遣進す。
 神祇の垂感を冀(こひねが)ひ、皇靈の洪覆、克ちて天庭に達し、臣の志を宣暢し、旦に聞かば夕べ沒すると雖も、永きに恨を餘すこと無からむ。
 又た云く、
 臣と高句麗、與に源は扶餘夫餘を出で、先世の時、篤く舊款を崇む。
 其の祖釗、輕んじて鄰好を廢し、親(みずか)ら士衆を率い、臣の境を凌踐す。
 臣祖の須、旅を整へ電邁し、機に應じて擊に馳せ、矢石暫し交え、釗の首を梟斬す。
 爾より已來、敢へて南顧すること莫し。
 馮氏數を終へてより、餘燼は奔竄し、醜類は漸く盛えり。
 遂に凌逼され、怨を構へて禍を連ね、三十餘を載き、財を殫(つく)し力を竭(つく)し、自ら孱踧に轉ず。
 若し天の曲矜を慈むことあらば、遠く無外に及び、速やかに一將を遣り、臣國を救ひに來たれ。
 當に鄙女を送りて奉り、後宮に箒を執らせ、幷せて子弟を遣り、牧圉外廐せしむ。
 尺壞の壤、匹夫は敢へて自ら有せず。
 又た云く、
 今璉に罪有り、國は自らを魚肉とし、大臣彊族は戮殺已むこと無く、罪は盈(み)ち惡は積もり、民庶は崩離し、是れ滅亡の期、假手の秋(とき)なり。
 且に馮族士馬、鳥畜の戀に有り、樂浪諸郡、首丘の心に懷き、天威の一擧あらば、戰無に征有り、臣は不敏と雖も、力を效畢すること志し、當に統べる所を率い、承風響應せり。
 且に高句麗の不義、詐(いつはり)を逆(むか)ふは一に非ず、外には隗囂藩卑の辭(ことば)を慕ひ、內には凶禍豕突の行(おこなひ)に懷く。
 或は南の劉氏に通じ、或は北の蠕蠕に約し、共に相ひ脣齒となり、王略を凌がむと謀れり。
 昔唐堯は聖に至り、罰を丹水に致し、孟嘗は仁を稱し、塗詈を捨てず。
 涓流の水、宜しく早く壅塞すべし。
 今若し取らざれば、將に後悔を貽(のこ)さむとす。
 去る庚辰年の後、臣は西界の小石山北國の海中にて、屍十餘を見、衣器鞍勒の得るを幷べ、之れを視れば、高句麗の物に非ず。
 後に聞けば、乃ち是れ王人の臣國に來降し、長蛇路を隔て、以て海に沈む。
 未だ委は當たらずと雖も、深く憤恚を懷(いだ)く。
 昔宋の申舟を戮(ころ)せば、楚莊徒跣し、鷂の放鳩を撮へば、信陵食せず。
 敵に克ち名を立てれば、美隆已むこと無し。
 夫は區區(まちまち)の偏鄙を以てし、猶ほ萬代の信に慕ふべし。
 況や陛下の氣を天地に合はせ、勢は山海を傾ければ、豈に小竪に天逵を跨塞せしむるか。
 今鞍の得る所の一(ひとつ)を上(ささ)ぎ以て實驗せり、と。
 顯祖は其の僻遠冒險して朝獻するを以て、禮遇尤(すこぶ)る厚し。
 遣使の者邵安、其の使と俱に還る。
 詔に曰く、
 表を得之れを聞けば、無恙(つつがな)く甚だ喜ばしき。
 卿は東隅に在り、五服の外に處するも、山海を遠しとせず、誠に魏闕に歸すること、欣嘉は意に至り、懷(ふところ)に用戢す。
 朕は萬世の業を承け、四海に君臨し、群生を統御す。
 今宇內は淸一、八表は義に歸し、襁負ひて至る者、數を稱する可からず。
 風俗の和、士馬の盛、皆餘禮等、聞見する所を親しむ。
 卿と高句麗穆(むつまじ)からず、屢(しばしば)凌犯を致すも、苟も能く義に順(したが)ひ、之れを守るに仁を以てすれば、亦た何ぞ寇讐に憂ふか。
 前の遣使する所、海に浮して以て荒外の國を撫するも、從來積年、往きて返らず、存亡達否、未だ審悉するに能はず。
 卿の鞍を送る所、比校して舊乘と較ぶれば、中國の物に非ず。
 疑似の事を以て、以て必然の過を生ず可からず。
 經略の權要、以て別旨を具(そな)ふ。
 又た詔に曰く、
 高句麗の阻疆、卿土を侵軼し、先君の舊怨を修め、息民の大德を棄て、兵(つはもの)を交ゆることを累載し、難(わざはひ)を結び邊を荒らすを知る。
 使は申胥の誠を兼ね、國に楚越の急有らば、乃ち義を展じるに應じ微に扶す、機に乘じて電擧す。
 但し、以て高句麗は藩を先朝に稱し、職を供する日も久し。
 彼に於いて、昔より釁(なかたがひ)有ると雖も、國に於いて、未だ犯令の愆(あやまち)有ることなし。
 卿は使命して始めて通じ、便ち伐を致することを求め、事會を尋討するも、理は亦た未だ周(めぐ)らず。
 故に往年禮等平壤に遣りて至らしめ、其の由狀を驗ずることを欲するも、然れども高句麗は頻煩を奏請し、辭理俱に詣(いた)り、行人は其の請を抑ふること能はず、司法以て其の責を成すこと無し、故に其の啓する所を聽き、詔りて禮等還る。
 若し今復た旨に違へば、則ち各(おのおの)の咎を益(ますます)露はに過ぎ、後に自ら陳(の)ぶると雖も、罪を逃るる所無く、然る後に師を興し之れを討ち、義に於いて得を為せり。
 九夷の國、世の海外に居し、道の暢(のどか)なれば則ち藩に奉じ、惠戢むれば則ち境を保つ。
 故に羈縻は前典に於いて著すも、楛は歲時に於いて曠(むなし)く貢ぐ。
 卿は彊弱の形を備陳し、往代の迹を具列するも、俗の殊(こと)なれば事も異なり、貺を擬すれば衷に乖(もと)る。
 洪規の大略、其れ猶ほ在るがごとく致す。
 今の中夏は平一にして、宇內に虞ひ無し。
 陵威は東に極め、旌に域表を懸け、偏方に荒黎を拯(たす)け、遠服に皇風舒ばさんと每(つね)に欲す。
 高句麗は敍に卽くに由りて良く、未だ卜征に及ばず。
 今若し詔旨に從はざれば、則ち卿の來謀、朕意に載協し、元戎啓行すれば、將に遠しと云はず。
 便ち豫め同じく興を率い、具へて以て事を待つ可し。
 時に報使を遣り、速やかに彼の情を究む。
 師擧の日には、卿を鄕導の首と為し、大捷の後、又た元功の賞を受くれば、亦た善しとざるや。
 錦布海物の獻ずる所、悉達せざると雖も、卿の至心は明らかなり。
 今雜物を賜ふこと別幅の如し。
 又た璉に安等を護送して詔る。
 安等は高句麗に至り、璉は昔餘慶と讎有るを稱し、東に過ぐるを令(ゆる)さず、安等は是に於いて皆還り、乃ち下詔して之れを切責す。
 後に安等を使し、東萊に從ひ海を浮かび、餘慶に璽書を賜ひ、其の誠節を褒ず。
 安等は海濱に至るも、風飄の蕩に遇ひ、竟(つい)に達さずして還る。
 王は麗人の邊鄙を屢犯するを以て、上表して師を魏に乞ふも、從はず。
 王之れを怨み、遂に朝貢を絶つ。

 二十一年、秋九月。
 麗王の巨璉は兵三萬を帥い、來たりて王都漢城を圍む。
 王は城門を閉め出戰に能はず。
 麗人は兵を分けて四道を為し、夾攻す。
 又た風に乘じて火を縱はせ、城門を焚燒す。
 人心危懼し、或いは降に出ずるを欲する者有り。
 王窘めて圖む所を知らず、數十騎を領(おさ)め、門を出でて西に走る。
 麗人追ひて之れを害す。
 先ず是れ、高句麗の長壽王、陰(ひそか)に百濟を謀り、彼者に間諜を以てす可しと求む。
 時に浮屠道琳應募曰く、
 愚僧は旣に道を知るに能はず、以て國恩に報ゆこと有らむと思へり。
 願はくば大王、臣の不肖を以てせず、之れを指使すれば、期して命を辱ざらむ。
 王悅び、密使して百濟を譎(いつわ)る。
 是に於いて、道琳佯は罪を逃れ、奔りて百濟に入る。
 時に百濟王近蓋婁は博を好む。
 道琳は王門に詣(いた)り、告げて曰く、
 臣は少くして碁を學び、頗る入妙、願はくば左右に聞くこと有らむ。
 王は召して入れ碁を對し、果たして國手なり。
 遂に之れを尊び、上客と為し、甚だ之れを親昵し、相見の晚を恨む。
 道琳一日侍坐し、從ひ容れて曰く、
 臣は異國人なれども、上は我を疎外せず、恩私甚だ渥し。
 而るに惟だ一技の是效、未だ嘗て分毫の益有らむ。
 今一言を獻ずること願ひ、上意を知らざりて如何とするのみ、と。
 王曰く、
 第ぎて之れを言へ。
 若し國に有利ならば、此れ師に望む所なり、と。
 道琳曰く、
 大王の國、四方は皆山丘河海、是れ天設の險、人為の形に非ざるなり。
 是を以て、四鄰の國、敢へて覦心有るもの莫く、但だ事の不暇を願ひ奉る。
 則ち王は崇高之勢、富有之業を以て當たるも、人の視聽を竦(きら)ひ、而るに城郭を葺(おさ)めず、宮室を修めず。
 先王の骸骨、露地に權攢し、百姓の屋廬は河流に屢壞し、臣は竊(ひそ)かに大王の為に取らざるなり。
   王曰く、
 諾。
 吾將に之れを為す。
 是に於いて、盡く國人を發し、土を烝し城を築き、其の內に卽し、宮樓を作し臺榭を閣し、壯麗ならざる無し。
 又た大石を郁里河に取り、槨を作して以て父骨を葬ひ、河に樹の堰を緣ること、蛇城の東より崇山の北に至る。
 是れを以て、倉庾虛竭し、人民は窮困し、邦の陧杌、累卵に於いて甚し。
 是に於いて、道琳逃還り以て之れを告ぐ。
 長壽王喜び、將に之れを伐たむとし、乃ち兵を帥臣に授く。
 近蓋婁之れを聞き、子の文周に謂ひて曰く、
 予は愚にして不明、姦人の言を信用し、以て此に至る。
 民殘しくして兵弱く、危事に有ると雖も、誰も我が力戰の為に肯(うべな)はず。
 吾當に社稷に於いて死せるも、汝は此に在りて俱に死ぬは無益なり。
 盍し難を避け以て國系を續がむか。
 文周乃ち木劦滿致、祖彌桀取、木劦、祖彌、皆複姓、隋書に以て木劦を二姓と為すも、未だ孰か是れ知らず、と與に南行す。
 是に至り、高句麗對盧齊于、再曾桀婁、古尒萬年、再曾、古尒、皆複姓、等兵を帥い、北城に來攻し、七日にして之れを拔き、南城を攻むるに移り、城中危恐し、王出逃す。
 麗將桀婁等は王を見て下馬して拜し、已に王の面(つら)に向かひ三(みたび)之れに唾し、乃ち其の罪を數へ、縛りて阿旦城下に送り之れを戕(ころ)す。
 桀婁、萬年、本國の人なれども、罪を獲て高句麗に逃竄す。

 論じて曰く、
 楚昭王の亡くするや、鄖公辛の弟懷、將に王を弑さむとして曰く、
 平王は吾が父を殺し、我は其の子を殺す、亦た可ならずや。
 辛曰く、
 君が臣を討たば、誰か敢て之れを讐するか。
 君命は天なり。
 若し天命に死なば、將に誰を讐とせむ。
 桀婁等、自ら罪を以て國に容られず、而るに敵兵を導き、前君を縛りて之れを害す。
 其の不義なるや、甚だしきかな。
 曰く、
 然れば則ち伍子胥の郢に入り尸を鞭ずるは、何ぞや。
 曰く、
 楊子の法言に此れを評して以為らく德に由らず、と。
 所謂德者、仁と義のみなれば、則ち子胥の狠、鄖公の仁に如かず。
 此れを以て之れを論じ、桀婁等の為不義なるは、明らかなり。