三斤王

三斤王

 三斤王(あるいは壬乞とも)は文周王の長子である。
 王が死去し、年十三歲で位を継いだが、軍事や国政については、一切を佐平解仇に委任した。

 二年、春。
 佐平の解仇と恩率の燕信が衆人を集めて、大豆城を拠点にして叛いた。
 王は佐平の眞男に命じて兵二千で討ち入ったが、勝てなかった。
 更に德率の眞老に命じ、精兵五百を統帥させて攻撃し、解仇を殺した。
 燕信は高句麗に奔走したが、その妻子を捕えたので、熊津にて斬った。

 本件について論じよう。
 春秋の法では、君主が弑殺されて犯人を討たなければ、それを深く叱責させ、臣下や子とは見なされないとされた。
 解仇は文周を賊害したが、その子の三斤が王位を継ぎ、ただ解仇を誅殺できなかったのみならず、それに国政を委ね、一城を拠点として叛くに至った後、再二に渡って大兵を興してようやく勝った。
 謂わば、「霜が降る季節を逃して氷が固く張る季節に慣れ切った」「小さくくすぶった火を消さず、燃え盛る火焔になってしまった」というもので、問題は原因から徐々に大きくなってゆくものだ。
 唐の憲宗が弑殺された際には、三世した後にようやくその犯人を殺すことができた。
 このような海隅の遠い片田舎においては言うまでもなく、三斤のような子供が、またどうして道理に足る行動ができようか。

 三月己酉朔。
 日食が起こった。

 三年、春夏。
 大旱魃が起こった。

 秋九月。
 大豆城を斗谷に移した。

 冬十一月。
 王が死去した。

 

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≪白文≫
 三斤王、或云壬乞、文周王之長子。
 王薨、繼位、年十三歲、軍國政事、一切委於佐平解仇。

 二年、春。
 佐平解仇與恩率燕信聚衆、據大豆城叛。
 王命佐平眞男以兵二千討之、不克。
 更命德率眞老、帥精兵五百、擊殺解仇。
 燕信奔高句麗、收其妻子、斬於熊津。

 論曰、
春秋之法、君弑而賊不討、則深責之、以為無臣子也。
 解仇賊害文周、其子三斤繼立、非徒不能誅之、又委之以國政、至於據一城以叛、然後再興大兵以克之。
 所謂履霜不戒、馴致堅氷、熒熒不滅、至于炎炎、其所由來、漸矣。
 唐憲宗之弑、三世而後、僅能殺其賊、況海隅之荒僻、三斤之童蒙、又烏足道哉。

 三月己酉朔。
 日有食之。

 三年、春夏。
 大旱。

 秋九月。
 移大豆城於斗谷。

 冬十一月。
 王薨。



≪書き下し文≫
 三斤王、或(あるいは)云く壬乞、文周王の長子なり。
 王薨じ、位を繼ぐは年十三歲、軍國政事、一切佐平解仇に委ぬらる。

 二年、春。
 佐平解仇と恩率燕信衆を聚め、大豆城に據りて叛く。
 王は佐平眞男に命じて兵二千を以たせて之れを討たせしむるも、克たず。
 更に德率眞老に命じ、精兵五百を帥(す)べ、擊ちて解仇を殺す。
 燕信は高句麗に奔るも、其の妻子を收め、熊津にて斬る。

 論じて曰く、
 春秋の法、君弑して賊討たざれば、則ち之れを深責し、以て臣子無しと為すなり。
 解仇の文周を賊害するも、其の子三斤立を繼ぎ、徒だ之れを誅するに能はざるのみに非ず、又た之れに委ぬるに國政を以てし、一城に據りて以て叛くに至り、然る後に再び大兵を興して以て之れに克つ。
 所謂霜を履みて戒めず、堅氷を致すに馴れ、熒熒として滅せず、炎炎に至り、其の由る所は漸に來たり。
 唐憲宗の弑、三世して後、僅(ようや)く其の賊を殺すに能ふ、況や海隅の荒僻、三斤の童蒙、又た烏(いずくん)ぞ道に足らんや。

 三月己酉朔。
 日之れを食す有り。

 三年、春夏。
 大旱。

 秋九月。
 大豆城を斗谷に移す。

 冬十一月。
 王薨ず。