武寧王

武寧王

 武寧王の諱は斯摩斯麻(あるいは隆餘隆とも)、牟大王の第二子である。
 身長は八尺、眉目は絵に描いたように美しく、仁慈にして寬厚、民心は付き随って帰服した。
 牟大の在位二十三年に死去し、即位した。

 春正月。
 佐平の芍加が加林城を拠点にして叛いたが、王は兵馬を統帥して、牛頭城に至り、扞率の解明に命じて討たせた。
 芍加は降服すると願い出たが、王はそれを斬って白江に投げ捨てた。

 本件について論じよう。
 春秋には次のように言われている。
「人臣が直ちにそれをしようとしなければ、直ちにそれをしようとして必ず誅するものである。」
 もし芍加の大罪を犯した悪人どもの元締めであるというのなら、天地の間に受け入れられるところなどない。
 それを罪することを即断せず、芍加自らが免罪されることがないと気付いてから謀叛を起こし、その後に誅するというのは遅きに失したと評価せねばなるまい。

 冬十一月。
 達率の優永を派遣し、兵五千を統帥させて、高句麗の水谷城を襲った。

 二年、春。
 人民が餓え、しかも疫病が起こった。

 冬十一月。
 兵を派遣して高句麗の国境近辺に侵攻した。

 三年、秋九月。
 靺鞨が馬首柵を焼き、高木城に進攻した。
 王は兵五千を派遣し、これを擊退した。

 冬。
 氷がなかった。

 六年、春。
 疫病が大流行した。

 三月至五月。
 雨が降らなかったので、川澤が枯渇した。
 人民が餓えたので、倉を発して賑救した。

 秋七月。
 靺鞨が侵攻に来て高木城を破り、殺害あるいは捕虜にすること六百人余り。

 七年、夏五月。
 二つの柵を高木城の南に立てた。
 また長嶺城を築いて、靺鞨に備えた。

 冬十月。
 高句麗の将軍高老と靺鞨が共謀して漢城を攻めようとし、進軍して橫岳のふもとに駐屯したが、王が群体を出動し、戦って撤退させた。

 十年、春正月。
 次のように下令した。
 隄防を完固にして、内外の游食者を駆り出して、帰農させよ。

 十二年、夏四月。
 遣使して梁に入らせ朝貢した。

 秋九月。
 高句麗が加弗城を襲撃して奪取し、軍を移して圓山城も撃破し、殺害あるいは掠奪すること甚だ多かった。
 王は勇騎三千を統帥し、葦川の北にて戦った。
 麗人は王の軍が少ないのを見て、与し易しと判断して陣を設けなかった。
 そこを王が奇に出でて急擊し、大いにこれを破った。

 十六年、春三月戊辰朔。
 日食が起こった。

 二十一年、夏五月。
 大洪水が起こった。

 秋八月。
 蝗が発声して穀物を害した。
 人民が餓え、新羅に亡入する者が九百戸である。

 冬十一月。
 遣使して梁に入らせ朝貢した。
 これ以前は、高句麗を破れ続けて、年々国力が衰弱してきた。
 ここに至って何度も高句麗を撃破したことを上表して伝え、今回初めて通好することで強国として認識されるようになった。」

 十二月。
 高祖が詔を出して王を冊して言った。
「行都督百濟諸軍事鎭東大將軍百濟王餘隆、藩を海外で守り、貢職を遠くから修め、そうして忠誠を示しておる。
 朕にとって、それをよろこばしきことである。
 よって前例に則り、ここに栄命を授け、使持節都督百濟諸軍事寧東大將軍とする。

 二十二年、秋九月。
 王が狐山の原にて狩りをした。

 冬十月。
 地震。

 二十三年、春二月。
 王が漢城に行幸し、佐平因友因支や達率沙烏などに命じ、漢北州郡の十五歲以上の人民を徴発し、雙峴城を築かせた。

 三月。
 漢城から帰還した。

 夏五月。
 王が死去した。
 諡(おくりな)は武寧である。

 

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≪白文≫
 武寧王、諱斯摩斯麻、或云隆餘隆、牟大王之第二子也。
 身長八尺、眉目如畵、仁慈寬厚、民心歸附、牟大在位二十三年薨、卽位。

 春正月。
 佐平芍加據加林城叛、王帥兵馬、至牛頭城、命扞率解明討之。
 芍加出降、王斬之、投於白江。

 論曰、
 春秋曰、
 人臣無將、將而必誅。
 若芍加之元惡大憝、則天地所不容、不卽罪之、至是自知難免、謀叛而後誅之、晚也。

 冬十一月。
 遣達率優永、帥兵五千、襲高句麗水谷城。

 二年、春。
 民饑且疫。

 冬十一月。
 遣兵侵高句麗邊境。

 三年、秋九月。
 靺鞨燒馬首柵、進攻高木城。
 王遣兵五千、擊退之。

 冬。
 無氷。

 六年、春。
 大疫。

 三月至五月。
 不雨、川澤竭。
 民饑、發倉賑救。

 秋七月。
 靺鞨來侵、破高木城、殺虜六百餘人。

 七年、夏五月。
 立二柵於高木城南、又築長嶺城、以備靺鞨。

 冬十月。
 高句麗將高老與靺鞨謀、欲攻漢城、進屯於橫岳下、王出師、戰退之。

 十年、春正月。
 下令、
 完固隄防、驅內外游食者、歸農。

 十二年、夏四月。
 遣使入梁朝貢。

 秋九月。
 高句麗襲取加弗城、移兵破圓山城、殺掠甚衆。
 王帥勇騎三千、戰於葦川之北。
 麗人見王軍少、易之、不設陣。
 王出奇急擊、大破之。

 十六年、春三月戊辰朔。
 日有食之。

 二十一年、夏五月。
 大水。

 秋八月。
 蝗害穀。
 民饑、亡入新羅者、九百戶。

 冬十一月。
 遣使入梁朝貢。
 先是、為高句麗所破、衰弱累年。
 至是上表、稱累破高句麗、始與通好、而更為强國。

 十二月。
 高祖詔冊王、曰、
 行都督百濟諸軍事鎭東大將軍百濟王餘隆、守藩海外、遠修貢職、迺誠款到、朕有嘉焉。
 宜率舊章、授玆榮命、可使持節都督百濟諸軍事寧東大將軍。

 二十二年、秋九月。
 王獵于狐山之原。

 冬十月。
 地震。

 二十三年、春二月。
 王幸漢城、命佐平因友因支、達率沙烏等、徵漢北州郡民年十五歲已上、築雙峴城。

 三月。
 至自漢城。

 夏五月。
 王薨。
 諡曰武寧。


≪書き下し文≫
 武寧王、諱は斯摩斯麻、或(あるいは)云く隆餘隆、牟大王の第二子なり。
 身長は八尺、眉目は如畵、仁慈寬厚、民心歸附し、牟大在位二十三年薨じ、卽位す。

 春正月。
 佐平芍加、加林城に據りて叛くも、王は兵馬を帥(す)べ、牛頭城に至り、扞率解明に命じて之れを討たせしむ。
 芍加降に出ずるも、王は之れを斬り、白江に投げる。

 論じて曰く、
 春秋に曰く、
 人臣將にせむとすること無くば、將にせむとして必ず誅す、と。
 若し芍加の元惡大憝なれば、則ち天地に容る所なし、之れを罪するに卽せず、是れ自ら免ずること難なるを知るに至り、謀叛して後に之れを誅するは、晚(おそき)なり。

 冬十一月。
 達率優永を遣り、兵五千を帥べさせ、高句麗の水谷城を襲ふ。

 二年、春。
 民饑え且つ疫(おこり)あり。

 冬十一月。
 兵を遣りて高句麗の邊境を侵す。

 三年、秋九月。
 靺鞨馬首柵を燒き、高木城に進攻す。
 王兵五千を遣り、之れを擊退す。

 冬。
 氷無し。

 六年、春。
 大いに疫あり。

 三月至五月。
 雨(あめふ)らず、川澤竭(かわ)く。
 民饑え、倉を發して賑救す。

 秋七月。
 靺鞨侵に來たり、高木城を破り、殺虜すること六百餘人。

 七年、夏五月。
 二柵を高木城南に立て、又た長嶺城を築き、以て靺鞨に備ふ。

 冬十月。
 高句麗將高老と靺鞨謀り、漢城を攻むると欲し、進みて橫岳の下に屯(たむろ)するも、王師を出だし、戰ひて之れを退く。

 十年、春正月。
 下令、
 隄防を完固し、內外の游食者を驅り、農に歸せり。

 十二年、夏四月。
 遣使して梁に入り朝貢す。

 秋九月。
 高句麗襲ひて加弗城を取り、兵を移して圓山城を破り、殺掠すること甚だ衆し。
 王は勇騎三千を帥い、葦川の北にて戰ふ。
 麗人王軍の少なきを見、之れを易し、陣を設けず。
 王奇に出でて急擊し、大いに之れを破る。

 十六年、春三月戊辰朔。
 日之れを食す有り。

 二十一年、夏五月。
 大水。

 秋八月。
 蝗穀を害す。
 民饑え、新羅に亡入する者、九百戶。

 冬十一月。
 遣使して梁に入り朝貢す。
 先ず是れ、高句麗の破る所と為り、衰弱年を累(かさ)ぬ。
 是に至りて上表して累(かさ)ねて高句麗を破ることを稱へ、始めて與に通好し、而りて更(あらた)めて强國を為す、と。

 十二月。
 高祖詔りて王を冊して曰く、
 行都督百濟諸軍事鎭東大將軍百濟王餘隆、藩を海外に守り、貢職を遠修し、迺ち誠に款(よしみ)到り、朕に嘉(よろこばしきこと)有らむ。
 宜しく舊章を率い、玆(ここ)に榮命を授け、使持節都督百濟諸軍事寧東大將軍を可(ゆる)すべし。

 二十二年、秋九月。
 王狐山の原に獵る。

 冬十月。
 地震。

 二十三年、春二月。
 王漢城に幸(ゆ)き、佐平因友因支、達率沙烏等に命じ、漢北州郡民年十五歲已上を徵(め)し、雙峴城を築く。

 三月。
 漢城より至る。

 夏五月。
 王薨ず。
 諡(おくりな)を曰く武寧。