聖王

聖王

 聖王の諱は明襛、武寧王の子である。
 智識は英邁、事に当たって決断力があった。
 武寧が死去し、位を継いだ。
 国民はそれを讃えて聖王と称した。

 秋八月。
 高句麗の軍隊が浿水に到達したが、王は左将軍の志忠に命じて、步騎一万を統帥させ、戦に出陣して撃退した。

 二年。
 梁の高祖が詔を出して王を冊し、持節都督百濟諸軍事綏東將軍百濟王とした。

 三年、春二月。
 新羅と互いに訪問し合った。

 四年、冬十月。
 熊津城を修繕し、沙井柵を立てた。

 七年、冬十月。
 高句麗王興安が自身で兵馬を統帥して侵攻し、北鄙穴城を抜いた。
 佐平燕謨に命じ、步騎三万を率いて、五谷の原にて抗戦したが、勝てなかった。
 死者二千人余り。

 十年、秋七月甲辰。
 雨のように隕石が降った。

 十二年、春三月。
 遣使して梁に入らせ朝貢した。

 夏四月丁卯。
 熒惑が南斗を犯した。

 十六年、春。
 首都を泗沘に移し(一説には所夫里と名づける)国を南扶餘と號した。

 十八年、秋九月。
 王は将軍燕會に命じ、高句麗の牛山城を攻めたが、勝てなかった。

 十九年。
 王は遣使して梁に入らせ朝貢し、その際に上表して毛詩博士、涅槃等經義、並びに工匠、画師などを要請した。
 梁はそれに従った。

 二十五年、春正月己亥朔。
 日食が起こった。

 二十六年、春正月。
 高句麗王平成が濊と共謀し、漢北獨山城に攻め込んだ。
 王は遣使して新羅に救援を要請した。
 羅王は将軍朱珍に命じ、甲卒三千を率いさせて、出撃させた。
 朱珍は日夜を通して進軍し、獨山城のふもとに到着すると、麗兵と一戦して大いに破った。

 二十七年、春正月庚申。
 白虹が日を貫いた。

 冬十月。
 王は梁の京師に寇賊がいることを知らず、遣使して朝貢した。
 使者が梁に到着すると、城門が壊され周囲が荒れ果てているのを見て、端門の外にて号泣した。
 道行く人々はそれを見て、涙を流さない者はいなかった。
 侯景はそれを聞いて激怒し、その使者を捕えた。
 景平になって、ようやく帰国することができた。

 二十八年、春正月。
 王は将軍達己を派遣し、兵一万を率いさせて、高句麗の道薩城を攻め取った。

 三月。
 高句麗兵が金峴城を包囲した。

 三十一年、秋七月。
 新羅が東北鄙を奪取し、新州を置いた。

 冬十月。
 王女が新羅に帰った。

 三十二年、秋七月。
 王が新羅を襲撃しようとして、自ら步騎五十を統帥し、夜に狗川に到着したが、新羅が伏兵を発して戦となり、入り乱れた兵士たちによって殺害されて死去した。
 諡(おくりな)は聖である。

 

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≪白文≫
 聖王、諱明襛、武寧王之子也。
 智識英邁、能斷事。
 武寧薨、繼位、國人稱為聖王。

 秋八月。
 高句麗兵至浿水、王命左將志忠、帥步騎一萬、出戰退之。

 二年。
 梁高祖詔冊王為持節都督百濟諸軍事綏東將軍百濟王。

 三年、春二月。
 與新羅交聘。

 四年、冬十月。
 修葺熊津城、立沙井柵。

 七年、冬十月。
 高句麗王興安、躬帥兵馬來侵、拔北鄙穴城。
 命佐平燕謨、領步騎三萬、拒戰於五谷之原、不克。
 死者二千餘人。

 十年、秋七月甲辰。
 星隕如雨。

 十二年、春三月。
 遣使入梁朝貢。

 夏四月丁卯。
 熒惑犯南斗。

 十六年、春。
 移都於泗沘、一名所夫里、國號南扶餘。

 十八年、秋九月。
 王命將軍燕會、攻高句麗牛山城、不克。

 十九年。
 王遣使入梁朝貢、兼表請毛詩博士、涅槃等經義、幷工匠、畵師等、從之。

 二十五年、春正月己亥朔。
 日有食之。

 二十六年、春正月。
 高句麗王平成與濊謀、攻漢北獨山城。
 王遣使請救於新羅。
 羅王命將軍朱珍、領甲卒三千、發之。
 朱珍日夜兼程、至獨山城下、與麗兵一戰、大破之。

 二十七年、春正月庚申。
 白虹貫日。

 冬十月。
 王不知梁京師有寇賊、遣使朝貢。
 使人旣至、見城闕荒毁、竝號泣於端門外、行路見者、莫不灑淚。
 侯景聞之、大怒、執囚之。
 及景平、方得還國。

 二十八年、春正月。
 王遣將軍達己、領兵一萬、攻取高句麗道薩城。

 三月。
 高句麗兵圍金峴城。

 三十一年、秋七月。
 新羅取東北鄙、置新州。

 冬十月。
 王女歸于新羅。

 三十二年、秋七月。
 王欲襲新羅、親帥步騎五十、夜至狗川、新羅伏兵發與戰、為亂兵所害薨。
 諡曰聖。


≪書き下し文≫
 聖王、諱は明襛、武寧王の子なり。
 智識は英邁、能く事を斷ず。
 武寧薨じ、位を繼ぎ、國人稱して聖王と為す。

 秋八月。
 高句麗兵浿水に至るも、王左將志忠に命じて、步騎一萬を帥(す)べさせ、戰(いくさ)に出でて之れを退く。

 二年。
 梁高祖詔りて王を冊し持節都督百濟諸軍事綏東將軍百濟王と為す。

 三年、春二月。
 新羅と交聘す。

 四年、冬十月。
 熊津城を修葺し、沙井柵を立てる。

 七年、冬十月。
 高句麗王興安、躬(みずか)ら兵馬を帥べて侵に來たり、北鄙穴城を拔く。
 佐平燕謨に命じ、步騎三萬を領(おさ)めさせ、五谷の原に拒戰するも、克たず。
 死者二千餘人。

 十年、秋七月甲辰。
 星隕ること雨の如し。

 十二年、春三月。
 遣使して梁に入り朝貢す。

 夏四月丁卯。
 熒惑、南斗を犯す。

 十六年、春。
 都を泗沘に移し、一に所夫里と名づく、國を南扶餘と號す。

 十八年、秋九月。
 王は將軍燕會に命じ、高句麗の牛山城を攻むるも、克たず。

 十九年。
 王は遣使して梁に入り朝貢せしめ、兼ねて表して毛詩博士、涅槃等經義、幷びに工匠、畵師等を請ひ、之れに從ふ。

 二十五年、春正月己亥朔。
 日之れを食する有り。

 二十六年、春正月。
 高句麗王平成と濊謀り、漢北獨山城を攻むる。
 王遣使して救を新羅に請ふ。
 羅王將軍朱珍に命じ、甲卒三千を領め、之れを發す。
 朱珍日夜兼程し、獨山城の下に至り、麗兵と一戰し、大いに之れを破る。

 二十七年、春正月庚申。
 白虹日を貫く。

 冬十月。
 王梁京師に寇賊有るを知らず、遣使して朝貢す。
 使人旣に至り、城闕の荒毁するを見、竝びに端門の外にて號泣し、行路を見る者、灑淚せざるもの莫し。
 侯景之れを聞き、大いに怒り、之れを執囚す。
 景平に及び、方(まさ)に還國を得る。

 二十八年、春正月。
 王將軍達己を遣り、兵一萬を領め、高句麗の道薩城を攻め取る。

 三月。
 高句麗兵金峴城を圍む。

 三十一年、秋七月。
 新羅東北鄙を取り、新州を置く。

 冬十月。
 王女新羅に歸す。

 三十二年、秋七月。
 王新羅を襲はむと欲し、親(みずか)ら步騎五十を帥べ、夜に狗川に至るも、新羅の伏兵發して戰に與(くみ)し、亂兵の害する所と為り薨ず。
 諡(おくりな)を曰く聖。