威德王

威德王

 威德王、諱は昌、聖王の元子である。
 聖王が在位三十二年に死去したので、王位を継いだ。

 元年、冬十月。
 高句麗が大いに兵を挙げて熊川城に攻め込んだが、惨敗して帰国した。

 六年、夏五月丙辰朔。
 日食があった。

 八年、秋七月。
 軍隊を派遣して新羅の邊境を侵掠したが、羅兵が出擊したので敗退し、死者は一千人余り。

 十四年、秋九月。
 遣使して陳に入らせ朝貢した。

 十七年。
 高齊後主が拜して王を使持節侍中車騎大將軍帶方郡公百濟王に任命した。

 十八年。
 高齊後主が今度は王を使持節都督東靑州諸軍事東靑州刺史に任命した。

 十九年。
 遣使して齊に入らせ朝貢した。

 秋九月庚子朔。
 日食があった。

 二十四年、秋七月。
 遣使して陳に入らせ朝貢した。

 冬十月。
 新羅の西邊の州郡に侵攻するも、新羅の伊飡世宗が軍隊を統帥し、これを撃破した。

 十一月。
 遣使して宇文周に入らせ朝貢した。

 二十五年。
 遣使して宇文周に入らせ朝貢した。

 二十六年、冬十月。
 長星竟天、二十日して滅した。
 地震が起こった。

 二十八年。
 王が遣使して隋に入らせ朝貢した。
 隋の高祖が詔を下し、拜して王を上開府儀同三司帶方郡公に任命した。

 二十九年、春正月。
 遣使して隋に入らせ朝貢した。

 三十一年、冬十一月。
 遣使して陳に入らせ朝貢した。

 三十三年。
 遣使して陳に入らせ朝貢した。

 三十六年。
 隋が陳を平定した。
 一隻の戦船が漂流して耽牟羅國に到着した。
 その船は帰還することができ、その途中で于國界を経由した。
 王は甚だ厚く物資をそれに送り、並びに遣使して表を奉り、陳を平定したことを祝賀した。
 高祖はそれをよしとして、詔を下した。
「百濟王は既に陳を平定したと聞いて、遠くから表を奉られた。
 往復は至難であり、もし風浪に遭遇すれば、たちまち窓外を受けてしまうだろう。
 百濟王の胸の内は非常に真心があり素直で純粋である。
 朕はそのことを既によく知っておる。
 お互いに遠くに去っていたとしても、我々は実際に会っているのと同じではないか。
 どうして何度も遣使して、相対する必要がどこにあるだろうか。
 今後は年別の入貢を義務とせず、朕もまたそちらに遣使しないでよいであろう。
 王よ、どうかよろしくご理解いただきたい。」

 三十九年、秋七月壬申晦。
 日食があった。

 四十一年、冬十一月癸未。
 星孛が角亢に現れた。

 四十五年、秋九月。
 王が長史王辯那を使者として、隋に入らせ朝献させた。
 王は隋が遼東に役を興すと聞いて、遣使して表を奉り、軍隊の先導をしたいと請願した。
 帝は詔を下した。
「往年、高句麗は職貢を供することなく、人臣としての礼が無かった。
 それが将軍に命じてこれを討伐しようとした理由だ。
 しかし、高元は君臣共に恐懼し、畏服して罪に帰した。
 朕は既にそれを赦したので、もう討伐するつもりはない。」
 我が使者を厚遇されて帰らせた。
 高句麗はそのことを知ったので、軍隊を出して国境を侵害した。

 冬十二月。
 王が死去した。
 群臣は議して諡(おくりな)を威德とした。

 

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≪白文≫
 威德王、諱昌、聖王之元子也。
 聖王在位三十二年薨、繼位。

 元年、冬十月。
 高句麗大擧兵來攻熊川城、敗衄而歸。

 六年、夏五月丙辰朔。
 日有食之。

 八年、秋七月。
 遣兵侵掠新羅邊境、羅兵出擊敗之、死者一千餘人。

 十四年、秋九月。
 遣使入陳朝貢。

 十七年。
 高齊後主拜王為使持節侍中車騎大將軍帶方郡公百濟王。

 十八年。
 高齊後主、又以王為使持節都督東靑州諸軍事東靑州刺史。

 十九年。
 遣使入齊朝貢。
秋九月庚子朔、日有食之。

 二十四年、秋七月。
 遣使入陳朝貢。

 冬十月。
 侵新羅西邊州郡、新羅伊飡世宗帥兵、擊破之。

 十一月。
 遣使入宇文周朝貢。

 二十五年。
 遣使入宇文周朝貢。

 二十六年、冬十月。
 長星竟天、二十日而滅。
地震。

 二十八年。
 王遣使入隋朝貢、隋高祖詔拜王為上開府儀同三司帶方郡公。

 二十九年、春正月。
 遣使入隋朝貢。

 三十一年、冬十一月。
 遣使入陳朝貢。

 三十三年。
 遣使入陳朝貢。

 三十六年。
 隋平陳。
 有一戰船、漂至耽牟羅國、其船得還、經于國界、王資送之甚厚、幷遣使奉表、賀平陳。
 高祖善之、下詔曰、
 百濟王旣聞平陳、遠令奉表。
 往復至難、若逢風浪、便致傷損。
 百濟王心迹淳至、朕已委知。
 相去雖遠、事同言面、何必數遣使、來相體悉。
 自今已後、不須年別入貢、朕亦不遣使往、王宜知之。

 三十九年、秋七月壬申晦。
 日有食之。

 四十一年、冬十一月癸未。
 星孛于角、亢。

 四十五年、秋九月。
 王使長史王辯那、入隋朝獻。
 王聞隋興遼東之役、遣使奉表、請為軍鄕道。
 帝下詔曰、
 往歲、高句麗不供職貢、無人臣禮、故命將討之。
 高元君臣、恐懼畏服歸罪、朕已赦之、不可致伐。
 厚我使者而還之。
 高句麗頗知其事、以兵侵掠國境。

 冬十二月。
 王薨。
 群臣議諡曰威德。


≪書き下し文≫
 威德王、諱は昌、聖王の元子なり。
 聖王在位三十二年に薨じ、位を繼ぐ。

 元年、冬十月。
 高句麗大いに兵を擧げて熊川城を攻めに來たるも、敗衄して歸す。

 六年、夏五月丙辰朔。
 日之れを食す有り。

 八年、秋七月。
 兵を遣り新羅の邊境を侵掠するも、羅兵出擊して之れを敗り、死者一千餘人。

 十四年、秋九月。
 遣使して陳に入らせ朝貢す。

 十七年。
 高齊後主拜して王を使持節侍中車騎大將軍帶方郡公百濟王と為す。

 十八年。
 高齊後主、又た以て王を使持節都督東靑州諸軍事東靑州刺史と為す。

 十九年。
 遣使して齊に入らせ朝貢す。

 秋九月庚子朔。
 日之れを食す有り。

 二十四年、秋七月。
 遣使して陳に入らせ朝貢す。

 冬十月。
 新羅の西邊の州郡を侵すも、新羅伊飡世宗兵を帥べて、之れを擊破す。

 十一月。
 遣使して宇文周に入らせ朝貢す。

 二十五年。
 遣使して宇文周に入らせ朝貢す。

 二十六年、冬十月。
 長星竟天、二十日して滅す。
 地震。

 二十八年。
 王遣使して隋に入らせ朝貢す。
 隋高祖詔り、拜して王を上開府儀同三司帶方郡公と為す。

 二十九年、春正月。
 遣使して隋に入らせ朝貢す。

 三十一年、冬十一月。
 遣使して陳に入らせ朝貢す。

 三十三年。
 遣使して陳に入らせ朝貢す。

 三十六年。
 隋陳を平らぐ。
 一(ひとつ)の戰船有り、漂ひて耽牟羅國に至る。
 其の船還るを得、于國界を經る。
 王は之れに資送すること甚だ厚く、幷びに遣使して表を奉り、陳を平ぐことを賀(いわ)ふ。
 高祖之れを善(よし)として、詔を下して曰く、
 百濟王旣に陳を平ぐこと聞きて、遠きより表を奉らせしむ。
 往復は至難、若し風浪に逢へば、便ち傷損を致す。
 百濟王の心迹は淳(すなお)の至り、朕已に委知す。
 相ひ去りて遠しと雖も、事は言面を同じくし、何を必ず數(しばしば)遣使し、相體悉くしに來たるか。
 今より已後、年別入貢須べからずして、朕亦た往に遣使せず、王宜しく之れを知るべし、と。

 三十九年、秋七月壬申晦。
 日之れを食す有り。

 四十一年、冬十一月癸未。
 星孛、角亢にあり。

 四十五年、秋九月。
 王長史王辯那をして、隋に入らせ朝獻す。
 王隋の遼東の役を興すを聞き、遣使して表を奉り、為軍鄕道を請へり。
 帝詔を下して曰く、
 往歲、高句麗職貢を供することなく、人臣の禮無し、故に將に命じて之れを討たむ。
 高元は君臣恐懼し、畏服して罪に歸す。
 朕已に之れを赦し、伐を致す可からず。
 我が使者に厚くして之れを還す。
 高句麗頗る其の事を知り、兵を以て國境を侵掠す。

 冬十二月。
 王薨ず。
 群臣議して諡(おくりな)を威德と曰ふ。