武王

武王

 武王の諱は璋、法王の子である。
 品行は人並外れてすぐれ、志気は豪傑である。
 法王が即位した翌年に死去したので、子が位を継いだ。

 三年、秋八月。
 王が群体を出撃させ、新羅の阿莫山城を包囲した。(一説には母山城という名とも)。
 羅王眞平が精騎数千を派遣して抗戦し、我が軍は利を失して帰還した。
 新羅は小陁、畏石、泉山、甕岑の四城を築き、我が国の国境線を侵犯して迫ってきた。
 王は怒り、佐平の解讎に步騎四萬を統帥させ、その四城に進攻した。
 新羅将軍乾品、武殷が衆人を統帥して抗戦した。
 解讎は不利になったとして軍を引き、泉山西の大沢中に撤退し、兵を伏せてそれを待った。
 武殷が勝ちに乗じて甲卒一千を率いて追撃し、大沢に到着したところで伏兵を発して急擊した。
 武殷が墜馬し、士卒は驚駭し、どうしてよいかわからなくなってしまった。
 武殷の子である貴山が大言した。
「私はかつて師にこのような教えを受けました。
『士が戦に当たるときは、退いてはならない』と。
 なぜ敢えて奔退し、師の教えを貶めることがありましょうか。」
 馬を父親に授け、そのまま小将の箒項と戈を振るって力闘して死んだ。
 残りの兵はそれを見てますます奮い立ち、我が軍は大敗してこれまでの有利を失い、解讎はなんとか逃れて、馬ひとつだけで帰った。

 六年、春二月。
 角山城を築いた。

 秋八月。
 新羅の東鄙に侵攻した。

 七年、春三月。
 王都に雨土、昼が暗かった。

 夏四月。
 大旱魃が起こり、その年は飢饉になった。

 八年、春三月。
 扞率燕文進を派遣し、隋に入らせ朝貢した。
 また佐平王孝隣を派遣して貢をさせ、兼ねて高句麗を討伐するように要請した。
 煬帝はそれを許可し、高句麗の動静を伺わせた。

 夏五月。
 高句麗が松山城を攻撃してきたが、城を下すことはできなかった。
 石頭城に移動して襲い、男女三千を捕虜にして帰った。

 九年、春三月。
 遣使して隋に入させて朝貢した。
 隋の文林郞裴淸が倭國への使者を奉ったので、我が国を経て南路した。

 十二年、春二月。
 遣使して隋に入らせ朝貢した。
 隋の煬帝が高句麗を征伐しようとした。
 王は國智牟を入らせ軍令をさせて戴けないかと要請した。
 帝は悦び、厚く賞錫を加え、尚書起部郞席律來を派遣して、王と共謀した。

 秋八月。
 赤嵒城を築いた。

 冬十月。
 新羅の椵岑城を包囲し、城主の讚德を殺し、その城を滅ぼした。

 十三年。
 隋の六軍が遼に渡った。
 王は国境にて兵を厳戒し、隋を助けるように声言したが、実際にはどちらにつくか曖昧な態度を取った。

 夏四月。
 宮の南門にて震があった。

 五月。
 大洪水で人家が漂没した。

 十七年、冬十月。
 達率の芍奇に命じて兵八千を領めせしめ、新羅の母山城を攻む。

 十一月。
 王都で地震があった。

 十九年。
 新羅の将軍邊品たちが椵岑城を攻撃し、更には再度攻撃し、奚論が戦死した。

 二十二年、冬十月。
 遣使して唐に入らせ、果下馬を献上した。

 二十四年、秋。
 兵を派遣して新羅の勒弩縣に侵攻した。

 二十五年、春正月。
 大臣を派遣して唐に入らせ朝貢した。
 高祖はその心からの誠実さを慶び、遣使して冊し、帶方郡王公百濟王の位に就かせた。

 秋七月。
 遣使して唐に入らせ朝貢した。

 冬十月。
 新羅の速含、櫻岑、歧岑、烽岑、旗懸、冗柵等六城を攻め、これらを奪取した。

 二十六年、冬十一月。
 遣使して唐に入らせ朝貢した。

 二十七年。
 遣使して唐に入らせ、明光鎧を献上した。
 そのついでに高句麗が道路を塞いでいるため、上国に来朝できないのだと訴えた。
 高祖は散騎常侍の朱子奢を派遣して来させ、詔を下して我が国及び高句麗を諭し、その怨を平らげた。

 秋八月。
 兵を遣り、新羅の主在城を攻め、城主を東所に執り、之れを殺す。

 冬十二月。
 遣使して唐に入らせ朝貢した。

 二十八年、秋七月。
 王は将軍沙乞に命じ、新羅の西鄙二城を抜き、男女三百餘口を捕虜とした。
 王はまた新羅から侵奪地を割譲させようとして、大いに挙兵し、出撃して熊津に駐屯した。
 羅王の眞平はそれを聞いて、遣使してその危機を唐に告げた。
 王はそれを聞いて、すぐに軍行を止めた。

 秋八月。
 王が姪の福信を派遣し、唐に入らせ朝貢した。
 太宗は新羅が世讎と互いに侵伐し合っていることについて、王に璽書を賜って言った。
「王は代々君長であり、東蕃を統治してきた。
 海を越えて遥か彼方にある片隅の地にありながら、風や高波にどれほど酷く阻まれても、忠実にも朝貢に到来している。
 職貢には互いに使者を送って尋ね合い、貴国が善き統治をおこなっていること、まったくもって慶びの至りである。
 朕は寵命を承り、君として區宇に臨み、その思いは正道を弘めることにあり、その愛は人民を育むことにある。
 舟車の通じる所、風雨の及ぶ所、それらにある者の本来の寿命をまっとうさせ、それらの悉くに平穏を齎して治めるようとしているのだ。
 新羅王の金眞平は朕の蕃臣であり、王の鄰國である。
 それなのに、いつも軍を派遣し、征討すること止むことがないと聞いておる。
 安然を軍によって阻むことは、朕の望むところから乖離しておる。
 朕は既に王の姪である福信と高句麗新羅の使者に対し、つぶさに和を通じよと勑し、それらすべてに輯睦を許した。
 王よ、必ずこれまでの前怨を忘れ、朕の本懷を識り、共に隣国としての情を厚くし、すぐに兵革を停めよ。」
 王は遣使によって表を奉り、陳謝した。
 しかし、外面的にはその命に順ずると称していたが、内面では元のようにお互いを仇と見なしていた。

 二十九年、春二月。
 兵を派遣して新羅の椵岑城を攻めたが、勝つことなく帰還した。

 三十年、秋九月。
 遣使して唐に入らせ朝貢した。

 三十一年、春二月。
 泗沘の宮を重修した。
 王熊津城に行幸した。

 夏。
 旱魃が起こり、泗沘の役を停止した。

 秋七月。
 王が熊津から帰ってきた。

 三十二年、秋九月。
 遣使して唐に入らせ朝貢した。

 三十三年、春正月。
 元子の義慈を封じて太子とした。

 二月。
 馬川城を改築した。

 秋七月。
 兵を放って新羅を討伐しようとしたが、不利となった。
 王は生草の原にて狩猟をした。

 冬十二月。
 遣使して唐に入らせ朝貢す。

 三十四年、秋八月。
 將を遣り新羅の西谷城を攻め、十三日して之れを拔く。

 三十五年、春二月。
 王興寺を成した。
 その寺は川に臨み、彩飾は荘厳で美麗であった。
 王は頻繁に舟に乗り、寺に入りて香を行った。

 三月。
 宮の南に池を掘り、水を二十里余り引き、四岸に楊柳を植え、水中に島嶼を築き、方丈仙山を擬した。

 三十七年、春二月。
 遣使して唐に入らせ朝貢した。

 三月。
 王は左右臣寮を率い、泗沘河の北浦を遊覧して酒宴を開いた。
 両岸に奇巖怪石が錯立し、奇花異草がその間に群生し、まるで画図のようであった。
 王は飲酒しながら感歎を極め、鼓を打ち鳴らして琴を弾きながら自ら歌い、従者もそれに合わせて舞った。
 当時の人は、その地を大王浦と呼ぶようになった。

 夏五月。
 王は将軍于召に命じ、甲士五百を統帥させ、新羅の獨山城を襲撃させた。
 于召は玉門谷に到着したが、日が暮れたので、鞍を解いて士を休ませた。
 そこに新羅の将軍閼川の将兵が突然到来し、鏖擊した。
 于召は大石の上に登り、彎弓にて抗戦したが、矢が尽きて捕われる所となった。

 六月。
 旱魃が起こった。

 秋八月。
 群臣と望海樓で酒宴を開いた。

 三十八年、春二月。
 王都に地震が起こった。

 三月。
 また震があった。

 冬十二月。
 遣使して唐に入らせ、鐵甲雕斧を献上した。
 太宗はそれを優労し、錦袍並びに彩帛三千段を賜った。

 三十九年、春三月。
 王と嬪御が大池に舟を浮かべた。

 四十年、冬十月。
 また唐に遣使し、金甲雕斧を献上した。

 四十一年、春正月。
 星孛が西北に現れた。

 二月。
 子弟を唐に派遣し、入国させて学を請うた。

 四十二年、春三月。
 王が死去した。
 諡(おくりな)を武という。
 使者は唐に入り、素服を着て表を奉った。
「君の外臣、扶餘の璋が死去しました。」
 帝は哀悼を玄武門にて挙げ、詔を下した、
「遠くを懐かせる統治の道には恩命より先ずるものはなく、飾終の義は遥か遠方であろうと隔たることはないものである。
 故柱國帶方郡公百濟王扶餘璋は、山を越え、海を渡り、遠くにありながら王朝の統治を受け、宝物を献上し、牘手紙を奉り、始終にそれを変えることがなかった。
 突然の逝去であったこと、深く哀悼の意を表す。
 いつもの下賜に加え、その栄光と哀しみを表するため、光祿大夫の位を追贈する。」
 甚だ厚く贈物を賜った。

 

 戻る








≪白文≫
 武王、諱璋、法王之子。
 風儀英偉、志氣豪傑。
 法王卽位、翌年薨、子嗣位。

 三年、秋八月。
 王出兵、圍新羅阿莫山城、一名母山城。
 羅王眞平遣精騎數千、拒戰之、我兵失利而還。
 新羅築小陁、畏石、泉山、甕岑四城、侵逼我疆境。
 王怒、令佐平解讎、帥步騎四萬、進攻其四城。
 新羅將軍乾品、武殷、帥衆拒戰。
 解讎不利、引軍退於泉山西大澤中、伏兵以待之。
 武殷乘勝、領甲卒一千、追至大澤、伏兵發急擊之。
 武殷墜馬、士卒驚駭、不知所為。
 武殷子貴山大言曰、
 吾嘗受敎於師、曰、
 士當軍、無退。
 豈敢奔退、以墜師敎乎。
 以馬授父、卽與小將箒項、揮戈力鬪以死。
 餘兵見此益奮、我軍敗績、解讎僅免、單馬以歸。

 六年、春二月。
 築角山城。

 秋八月。
 新羅侵東鄙。

 七年、春三月。
 王都雨土、晝暗。

 夏四月。
 大旱、年饑。

 八年、春三月。
 遣扞率燕文進、入隋朝貢。
 又遣佐平王孝隣入貢、兼請討高句麗。
 煬帝許之、令覘高句麗動靜。

 夏五月。
 高句麗來攻松山城、不下、移襲石頭城、虜男女三千而歸。

 九年、春三月。
 遣使入隋朝貢。
 隋文林郞裴淸奉使倭國、經我國南路。

 十二年、春二月。
 遣使入隋朝貢。
 隋煬帝將征高句麗、王使國智牟入請軍期。
 帝悅、厚加賞錫、遣尚書起部郞席律來、與王相謀。

 秋八月。
 築赤嵒城。

 冬十月。
 圍新羅椵岑城、殺城主讚德、滅其城。

 十三年。
 隋六軍度遼、王嚴兵於境、聲言助隋、實持兩端。

 夏四月。
 震宮南門。

 五月。
 大水、漂沒人家。

 十七年、冬十月。
 命達率芍奇領兵八千、攻新羅母山城。

 十一月。
 王都地震。

 十九年。
 新羅將軍邊品等、來攻椵岑城、復之、奚論戰死。

 二十二年、冬十月。
 遣使入唐、獻果下馬。

 二十四年、秋。
 遣兵侵新羅勒弩縣。

 二十五年、春正月。
 遣大臣入唐朝貢。
 高祖嘉其誠款、遣使就冊為帶方郡王公百濟王。

 秋七月。
 遣使入唐朝貢。

 冬十月。
 攻新羅速含、櫻岑、歧岑、烽岑、旗懸、冗柵等六城、取之。

 二十六年、冬十一月。
 遣使入唐朝貢。

 二十七年。
 遣使入唐、獻明光鎧、因訟高句麗梗道路、不許來朝上國。
 高祖遣散騎常侍朱子奢來、詔諭我及高句麗、平其怨。

 秋八月。
 遣兵、攻新羅主在城、執城主東所、殺之。

 冬十二月。
 遣使入唐朝貢。

 二十八年、秋七月。
 王命將軍沙乞、拔新羅西鄙二城、虜男女三百餘口。
 王欲復新羅侵奪地分、大擧兵、出屯於熊津。
 羅王眞平聞之、遣使告急於唐。
 王聞之、乃止。

 秋八月。
 遣王姪福信、入唐朝貢、太宗謂與新羅世讎、數相侵伐、賜王璽書曰、
 王世為君長、撫有東蕃、海隅遐曠、風濤艱阻、忠款之至、職貢相尋、尚想嘉猷、甚以欣慰。
 朕祗承寵命、君臨區宇、思弘正道、愛育黎元、舟車所通、風雨所及、期之遂性、咸使乂安。
 新羅王金眞平、朕之蕃臣、王之鄰國、每聞遣師、征討不息。
 阻兵安忍、殊乖所望。
 朕已對王姪福信及高句麗新羅使人、具勑通和、咸許輯睦。
 王必須忘彼前怨、識朕本懷、共篤鄰情、卽停兵革。
 王因遣使、奉表陳謝。
 雖外稱順命、內實相仇如故。

 二十九年、春二月。
 遣兵攻新羅椵岑城、不克而還。

 三十年、秋九月。
 遣使入唐朝貢。

 三十一年、春二月。
 重修泗沘之宮。
 王幸熊津城。
 夏旱、停泗沘之役。

 秋七月。
 王至自熊津。

 三十二年、秋九月。
 遣使入唐朝貢。

 三十三年、春正月。
 封元子義慈為太子。

 二月。
 改築馬川城。

 秋七月。
 發兵伐新羅、不利。
 王田于生草之原。

 冬十二月。
 遣使入唐朝貢。

 三十四年、秋八月。
 遣將攻新羅西谷城、十三日拔之。

 三十五年、春二月。
 王興寺成。
 其寺臨水、彩飾壯麗。
 王每乘舟、入寺行香。

 三月。
 穿池於宮南、引水二十餘里、四岸植以楊柳、水中築島嶼、擬方丈仙山。

 三十七年、春二月。
 遣使入唐朝貢。

 三月。
 王率左右臣寮、遊燕於泗沘河北浦。
 兩岸奇巖怪石錯立、間以奇花異草、如畫圖。
 王飲酒極歡、鼓琴自歌、從者屢舞。
 時人謂其地為大王浦。

 夏五月。
 王命將軍于召、帥甲士五百、往襲新羅獨山城。
 于召至玉門谷、日暮、解鞍休士。
 新羅將軍閼川將兵、掩至鏖擊之。
 于召登大石上、彎弓拒戰、矢盡、為所擒。

 六月。
 旱。

 秋八月。
 燕群臣於望海樓。

 三十八年、春二月。
 王都地震。

 三月。
 又震。

 冬十二月。
 遣使入唐、獻鐵甲雕斧。
 太宗優勞之、賜錦袍幷彩帛三千段。

 三十九年、春三月。
 王與嬪御泛舟大池。

 四十年、冬十月。
 又遣使於唐、獻金甲雕斧。

 四十一年、春正月。
 星孛于西北。

 二月。
 遣子弟於唐、請入國學。

 四十二年、春三月。
 王薨。
 諡曰武。
 使者入唐、素服奉表曰、
 君外臣扶餘璋卒。
 帝擧哀玄武門、詔曰、
 懷遠之道、莫先於寵命、飾終之義、無隔於遐方。
 故柱國帶方郡公百濟王扶餘璋、棧山航海、遠稟正朔、獻琛奉牘、克固始終、奄致薨殞、追深慜悼。
 宜加常數、式表哀榮、贈光祿大夫。
 賻賜甚厚。


≪書き下し文≫
 武王、諱は璋、法王の子なり。
 風儀英偉、志氣は豪傑なり。
 法王卽位し、翌年薨じ、子位を嗣ぐ。

 三年、秋八月。
 王兵を出し、新羅の阿莫山城を圍む、一に母山城と名づく。
 羅王眞平精騎數千を遣り、之れを拒戰し、我が兵利を失して還る。
 新羅小陁、畏石、泉山、甕岑の四城をを築き、我が疆境を侵逼す。
 王怒り、佐平解讎をして、步騎四萬を帥べさせ、其の四城に進攻す。
 新羅將軍乾品、武殷、衆を帥べて拒戰す。
 解讎は不利なれば、軍を引き泉山西の大澤中に退き、兵を伏せて以て之れを待つ。
 武殷勝ちに乘じ、甲卒一千を領(おさ)めて、追ひて大澤に至るも、伏兵發して之れを急擊す。
 武殷墜馬し、士卒驚駭し、為す所を知らず。
 武殷の子貴山大言して曰く、
 吾嘗て師に敎を受けて曰く、
 士當に軍(いくさ)なれば、退くこと無し、と。
 豈に敢へて奔退し、以て師敎を墜としめや。
 馬を以て父に授け、卽ち小將箒項と、戈を揮(ふる)って力鬪して以て死す。
 餘兵此れを見て益(ますます)奮い、我が軍敗績し、解讎僅かに免(のが)れ、單馬以て歸す。

 六年、春二月。
 角山城を築く。

 秋八月。
 新羅東鄙を侵す。

 七年、春三月。
 王都雨土、晝暗し。

 夏四月。
 大旱、年饑ゆ。

 八年、春三月。
 扞率燕文進を遣り、隋に入らせ朝貢す。
 又た佐平王孝隣を遣り貢に入らせ、兼ねて高句麗を討むことを請へり。
 煬帝之れを許し、高句麗の動靜を覘(のぞ)かせしむ。

 夏五月。
 高句麗松山城を攻めに來たるも、下せず、石頭城に移り襲ひ、男女三千を虜にして歸す。

 九年、春三月。
 遣使して隋に入り朝貢す。
 隋文林郞裴淸倭國に使するを奉り、我が國を經て南路す。

 十二年、春二月。
 遣使して隋に入らせ朝貢す。
 隋煬帝將に高句麗を征さむとす。
 王は國智牟を入らせ軍期を請はせしむ。
 帝悅び、厚く賞錫を加へ、尚書起部郞席律來を遣り、王と相ひ謀る。

 秋八月。
 赤嵒城を築く。

 冬十月。
 新羅の椵岑城を圍み、城主の讚德を殺し、其の城を滅す。

 十三年。
 隋の六軍遼に度(わた)る。
 王は境に於いて兵を嚴め、聲言して隋を助け、實は兩端を持す。

 夏四月。
 宮の南門に震あり。

 五月。
 大水、人家を漂沒す。

 十七年、冬十月。
 達率の芍奇に命じて兵八千を領めせしめ、新羅の母山城を攻む。

 十一月。
 王都地震。

 十九年。
 新羅將軍邊品等、椵岑城を攻めに來たり、復た之れをし、奚論戰死す。

 二十二年、冬十月。
 遣使して唐に入らせ、果下馬を獻ず。

 二十四年、秋。
 兵を遣りて新羅の勒弩縣を侵す。

 二十五年、春正月。
 遣大臣入唐朝貢。
 高祖其の誠款を嘉(よろこ)び、遣使して就かせ冊して帶方郡王公百濟王と為す。

 秋七月。
 遣使して唐に入らせ朝貢す。

 冬十月。
 新羅の速含、櫻岑、歧岑、烽岑、旗懸、冗柵等六城を攻め、之れを取る。

 二十六年、冬十一月。
 遣使して唐に入らせ朝貢す。

 二十七年。
 遣使して唐に入らせ、明光鎧を獻じ、因りて高句麗の道路を梗(ふさ)ぎ、上國に來朝することを許さざるを訟(うった)ふ。
 高祖遣りて散騎常侍の朱子奢を來たらしめ、詔して我及び高句麗を諭し、其の怨を平ぐ。

 秋八月。
 兵を遣り、新羅の主在城を攻め、城主を東所に執り、之れを殺す。

 冬十二月。
 遣使して唐に入らせ朝貢す。

 二十八年、秋七月。
 王將軍沙乞に命じ、新羅の西鄙二城を拔き、男女三百餘口を虜にす。
 王復た新羅の侵奪地の分くるを欲し、大いに兵を擧げ、出でて熊津に屯(たむろ)す。
 羅王眞平之れを聞き、遣使して急を唐に告ぐ。
 王之れを聞き、乃ち止む。

 秋八月。
 王姪の福信を遣り、唐に入らせ朝貢す。
 太宗は新羅世讎と數相ひ侵伐するを謂ひ、王璽書を賜りて曰く、
 王世に君長を為し、撫は東蕃に有り、海隅遐(はる)か曠(ひろ)く、風(かぜ)濤(たかなみ)は艱(けわし)く阻むも、忠款の至、職貢相ひ尋ね、尚ほ嘉猷を想ひ、甚だ以て欣慰す。
 朕は寵命を祗承し、君は區宇に臨み、思は正道を弘め、愛は黎元を育み、舟車の通ずずる所、風雨の及ぶ所、之の遂性に期し、咸(ことごと)く乂安せしむ。
 新羅王の金眞平、朕の蕃臣、王の鄰國、每(つね)に師を遣り、征討すること息(や)まざると聞く。
 安忍を阻兵するは、望む所に殊乖す。
 朕は已に王姪福信及び高句麗新羅の使人に對し、具(つぶさ)に和を通ぜむとして勑(さと)し、咸(ことごと)く輯睦を許す。
 王必ず須べからく彼の前怨を忘れ、朕の本懷を識り、共に鄰情を篤くし、卽ち兵革を停むるべし。
 王は遣使に因り、表を奉り謝を陳(の)ぶる。
 外には命に順ずると稱すると雖も、內實には相ひ仇すること故(もと)の如し。

 二十九年、春二月。
 兵を遣り新羅の椵岑城を攻め、克たずして還る。

 三十年、秋九月。
 遣使して唐に入らせ朝貢す。

 三十一年、春二月。
 泗沘の宮を重修す。
 王熊津城に幸(ゆ)く。

 夏。  旱、泗沘の役を停む。

 秋七月。
 王熊津より至る。

 三十二年、秋九月。
 遣使して唐に入らせ朝貢す。

 三十三年、春正月。
 元子の義慈を封じて太子と為す。

 二月。
 馬川城を改築す。

 秋七月。
 兵を發して新羅を伐たむとするも、利あらず。
 王は生草の原にて田(か)る。

 冬十二月。
 遣使して唐に入らせ朝貢す。

 三十四年、秋八月。
 將を遣り新羅の西谷城を攻め、十三日して之れを拔く。

 三十五年、春二月。
 王興寺を成す。
 其の寺は水に臨み、彩飾壯麗なり。
 王每(つね)に舟に乘り、寺に入りて香を行ふ。

 三月。
 宮南に池を穿ち、水を二十餘里引き、四岸に楊柳を以て植へ、水中に島嶼を築き、方丈仙山を擬す。

 三十七年、春二月。
 遣使して唐に入らせ朝貢す。

 三月。
 王は左右臣寮を率い、泗沘河の北浦に遊燕す。
 兩岸に奇巖怪石錯立し、奇花異草を以て間すること、畫圖の如し。
 王飲酒して歡を極め、鼓琴して自ら歌ひ、從者屢舞す。
 時に人其の地を謂ひて大王浦と為す。

 夏五月。
 王將軍于召に命じ、甲士五百を帥べさせ、往かせて新羅の獨山城を襲ふ。
 于召玉門谷に至るも、日は暮れ、鞍を解き士を休ませしむ。
 新羅將軍閼川將兵、掩(ひそ)かに至り之れを鏖擊す。
 于召大石の上に登り、彎弓にて拒戰するも、矢盡き、擒はるる所と為る。

 六月。
 旱。

 秋八月。
 群臣と望海樓にて燕す。

 三十八年、春二月。
 王都地震。

 三月。
 又た震。

 冬十二月。
 遣使して唐に入らせ、鐵甲雕斧を獻ず。
 太宗之れを優勞し、錦袍幷彩帛三千段を賜ふ。

 三十九年、春三月。
 王と嬪御大池に舟を泛かぶ。

 四十年、冬十月。
 又た唐に遣使し、金甲雕斧を獻ず。

 四十一年、春正月。
 星孛、西北にあり。

 二月。
 子弟を唐に遣り、入國せしめ學を請ふ。

 四十二年、春三月。
 王薨ず。
 諡(おくりな)を武と曰ふ。
 使者唐に入り、素(しろ)服して表を奉りて曰く、
 君の外臣扶餘璋卒す。
 帝哀を玄武門に擧げ、詔して曰く、
 懷遠の道、寵命に先ずること莫く、飾終の義、遐方に隔たること無し。
 故柱國帶方郡公百濟王扶餘璋、山を棧(わた)り海を航(わた)り、遠稟正朔、琛を獻じ牘を奉り、克固始終し、奄(にわか)に薨殞に致ること、深く慜悼を追(おく)る。
 宜しく常數に加へ、哀榮を式表し、光祿大夫を贈るべし、と。
 賻賜すること甚だ厚し。