義慈王

義慈王

 義慈王は武王の元子で、雄勇にして果断であった。
 武王の在位三十三年、太子に擁立された。
 親に事えるに孝をもってし、兄弟に与するに友をもってしたので、当時『海東の曾子』と號されていた。
 武王が死去すると、太子が王位を継いだ。
 太宗は祠部郞中の鄭文表を派遣して、柱國帶方郡王公百濟王に冊命した。

 秋八月。
 遣使して唐に入らせて謝を表し、方物の献上を兼ねた。

 二年、春正月。
 遣使して唐に入らせ朝貢した。

 二月。
 王州郡を巡撫した。
 囚人を慮り、死罪の者を除いて全員を釈放した。

 秋七月。
 王自ら兵を統帥し、新羅に侵略して、獼猴などの四十城余りを下した。

 八月。
 將軍允忠を派遣し、兵一万を率いさせて新羅の大耶城を攻めた。
 城主の品釋と妻子は降伏に出た。
 允忠はそれらを悉く殺し、その首を斬って王都に送り、男女一千餘人を生け捕りにして国西部の州縣に分居させ、兵を駐留させてその城を守らせた。
 王は允忠の功を賞し、馬二十匹、穀一千石を賜った。

 三年、春正月。
 遣使して唐に入らせ朝貢した。

 冬十一月。
 王と高句麗が和親し、新羅の黨項城を略取しようと謀って入朝の路を塞ぎ、遂に兵を発してそこに攻め込んだ。
 羅王の德曼が遣使して唐に救援を請うと、王はそれを聞いて兵を引いた。

 四年、春正月。
 遣使して唐に入らせ朝貢した。
 太宗は司農丞相里の玄奬を派遣し、領国に告げて諭した。
 王は表を奉り陳謝した。
 王子隆を太子に擁立し、大赦した。

 秋九月。
 新羅は將軍の金庾信が兵を率いて侵攻し、七城を略取した。

 五年、夏五月。
 王は太宗が高句麗に親征し、新羅から徴兵をしたと聞いた。
 その隙に乗じて、新羅の七城を襲撃して略取した。
 新羅は將軍の金庾信を派遣し、侵略しに来た。

 七年、冬十月。
 將軍義直が步騎三千を統帥し、新羅の茂山城下に進軍して駐屯し、兵を分けて甘勿、桐岑の二城に攻め込んだが、新羅の將軍金庾信は自ら士卒を励まし、死を決して戦い、大いにこれを破った。
 義直は独り馬に乗って帰還した。

 八年、春三月。
 義直が新羅の西辺境の腰車等一十城余りを襲撃して略取した。

 夏四月。
 玉門谷に進軍したが新羅の將軍金庾信が抵抗し、再戦して大いにそれを敗った。

 九年、秋八月。
 王は左將の殷相を派遣し、精兵七千を統帥させ、新羅の石吐などの七城を攻め取ったが、新羅の将である金庾信、陳春、天存、竹旨らが抗戦し、それを打ち破った。
 不利となったので散り散りになった士卒を集め、道薩城の下に駐屯して再戦するも、我が軍は敗北した。

 冬十一月。
 雷。
 氷無し。

 十一年。
 遣使して唐に入らせ朝貢した。
 使者が帰還すると、高宗は璽書を降し、王を諭した。
「海東三國は国家の礎を築いてから日は長いのに、国境を並べて地に犬牙を実らせ、近代からというもの、遂に嫌隙を構え、互いに戦争を起こし、侵略をし合って安寧を得た歳などない。こうして三韓の人民に命を懸けさせ、俎上で刀や戈を向けられ、憤りをほしいままにし、互いに朝夕問わず繰り返している。朕は天に代わって物事を統治し、深く矜憫の情を抱いておる。
 去る年、高句麗、新羅らの使者は、並んで入朝したときのことだ。朕はそこで讐怨を赦し、今後は敦く款睦するようにと命じたはずだ。」
 新羅の使者であった金法敏は上奏して言った。
「高句麗、百濟は唇と歯のように互いが依存し、ついに干戈を挙げて、大城重鎭まで交互に侵攻し、百濟にその地を併合され、日を経るごとに国土は狭まり、それとともに国力も衰えております。どうか百濟に侵略した城を返させるよう詔を下していただけませんでしょうか。
 もし詔に奉らないようであれば、すぐに我が国が兵を興して打ち取りましょう。古地を奪還すれば、すぐに講和を結ぶことにします。」
「朕もその言葉の通りに考えておった。許可しないわけにはいかぬ。昔、齊桓公の国土は諸侯に列せられていたが、それでも亡びゆく国を存続させた。万国の主である朕は言うまでもなく、危機に陥った藩を救恤しないわけにはいくまい。」
「王が併合した新羅の城をその本国に返還し、新羅は捕獲した百濟の俘虜を王に返還させよ。その後は敵対を解いて紛争を放棄し、戈(ほこ)を収めて軍事行動をやめれば、肩の荷を下ろしたいという百姓の悲願を叶う。三国は戦争の労をなくさせるように励むがよい。このように辺境の地に血を流し、屍を国境に積み上げ、農耕も機織も廃業し、士女に愉しみもない現状に比べれば、年を同じくして語ることなどできない雲泥の差であろう。
 王がもしこの警告に従わないのであれば、朕は既に法敏の要請により、彼と王との決戦に任せることにする。また、高句麗には互いに救援しないようにと約束させた。高句麗がもしこの命令を承諾しないなら、すぐに契丹諸藩に遼へ渡らせる。連中が国土の深くにまで入り込んで掠奪をすることになるだろう。
 王よ、朕の言葉を熟慮し、せいぜい自らの福多からんことを求め、良策をよくよく考えて企図し、後悔を遺さないようにするがよい。」

 十二年、春正月。
 遣使して唐に入らせ朝貢した。

 十三年、春。
 大旱。
 人民が餓えた。

 秋八月。
 王が倭国と通好した。

 十五年、春二月。
 太子の宮を修め、侈麗を極めた。
 王宮の南にて海亭を立望した。

 夏五月。
 赤毛の馬が北岳の烏含寺に入り、仏閣の周囲を鳴きながらうろつき、数日して死んだ。

 秋七月。
 馬川城を重修した。

 八月。
 王と高句麗、靺鞨が新羅の三十城余りを攻め破った。
 新羅王の金春秋が遣使して唐を訪朝し、表を称した。
「百濟、高句麗、靺鞨が我が国の国境北端を侵略し、三十城余りを没収しました。」

 十六年、春三月。
 王と宮人は淫らに荒み、音楽に耽溺し、飲酒をやめることがなかった。佐平の成忠(あるいは淨忠と伝わる)が諫言を極めたが、王は怒って獄中に囚えた。このため諫言する者はいなくなった。
 成忠は食を断って獄中で餓死し、臨終の際に書を上奏した。
「忠臣は死しても君を忘れず、一言お伝えして死にたいと願います。私はいつも時流を観て異変を察しておりましたが、これから兵革の事が起こるのは必然です。
 用兵とは、戦地を慎重に選ばなくてはならぬものです。有利な場所に敵を誘き出し、その後に万全を期して戦うべきです。もし異国の兵が来た場合、陸路からは沈峴(一に炭峴と伝わる)を通過させず、水軍については伎伐浦(一に白江と伝わる)の岸に入らせないようにし、その険難で通路が狭いことを利用して防御すれば、その後は有利に戦えるでしょう。
 王はそれを省みなかった。

 十七年、春正月。
 拜して王の庶子の四十一人を佐平に任命し、それぞれに食邑を賜った。

 夏四月。
 大旱魃が起こり、大地が赤く染まった。

 十九年、春二月。
 数多くの狐が宮中に入り込み、そのうち一匹の白狐は上佐平の書案に座った。

 夏四月。
 太子の宮で雌雞と黃雀が交尾をした。
 将を派遣して新羅の獨山、桐岑の二城に侵攻した。

 五月。
 王都西南の泗沘河に大魚が現れて死んだ。全長三丈。

 秋八月。
 女の屍体が生草津に浮かんだ。身長は十八尺。

 九月。
 宮中の槐樹が人の哭き声のように鳴いた。
 夜、鬼が宮の南路で哭いた。

 二十年、春二月。
 王都の井戸水が血の色となった。
 西海の浜から魚の群れが現れて死に、百姓が食べても食べ尽くすことができなかった。
 泗沘の河水が血の色のように赤くなった。

 夏四月。
 蝦蟆が數万匹、樹の上に集った。
 王都の市民が故もなく驚走した。まるで誰かが捕まえようと追いかけているかのようであった。倒れて死ぬ者は百人余り、財物を亡失する者は数え切れないほどであった。

 五月。
 暴風雨が到来し、天王、道讓の二寺塔を震わせ、また白石寺講堂を震わせた。
 玄雲は龍が如く、空中で東西が互いに闘った。

 五月。
 王興寺の衆僧の皆が洪水に随って寺門に入る船を見た。
 野鹿のような姿をした犬が一匹、西から泗沘河の岸にたどり着き、王宮に向って吠えると、すぐにどこかへと去っていった。
 王都にて犬の群れが路上に集り、あるものは吠え、あるものは哭き、時が経つとそのまま解散した。

「百濟は滅亡する! 百濟は滅亡するぞ!」
 宮中に入り込んだ一匹の鬼はこのように大声で叫ぶと、すぐに地面にもぐりこんだ。
 王はそれを怪訝に思い、人に地面を掘らせると、深さ三尺ほどのところで一匹の亀を掘り当てた。その背には、次のような文が書かれていた。
「百濟同月輪、新羅如月新」
 王はそれについて巫者に問うと、次のように答えた。
「『同月輪(月輪に同じ)』とは、満月のことです。満月はこれから欠けてゆく。『如月新(月新の如し)』とは、まだ満月ではないということです。まだ満月ではないということは、これから満ちていくということでしょう。」
 王は怒り、それを殺した。
 ある人が言った。
「『同月輪(月輪と同じ)』とは、盛況であるということです。『如月新(月新の如し)』とは微弱であるということです。その意(こころ)は、我が国家は盛況であり、新羅は微弱な存在であるということに他なりません。」
 王は喜んだ。

 高宗が詔を下した。 「左衛大將軍の蘇定方を神丘道行軍大摠管に任命する。左衛將軍劉伯英、右武衛將軍馮士貴、左驍衛將軍龐孝公を引率し、兵十三万を統帥して征伐に向かえ。同時に新羅王の金春秋を嵎夷道行軍摠管に任命する。自国の兵を率い、軍勢を合流させよ。」
 蘇定方は軍を引率し、城山濟海から國西德物島にたどり着き、新羅王は將軍金庾信を派遣して、精兵五萬を率いさせ、そちらに赴かせた。
 王はそれを聞いて群臣と会議を開き、戦守の宜を問うた。
 佐平の義直が進言した。
「唐兵は溟海の遠旅を経ております。水に慣れていない者が船にいれば、必ずや困難を孕んでいるでしょう。
 まさにそれらが初めて陸に下ろうとするとき、その士気がまだ平常を取り戻していないうちに急擊すれば、志を得ることができるはずです。新羅人は大国の援助に頼りきりで、我が国の心を軽んじているところがあります。もし唐人が利を失するのを見れば、必ず疑懼し、敢えて鋭進することなどできはしません。ですので、先に唐人との決戦を計画した方がよいでしょう。」
 達率の常永たちは言った。
「それは違います。唐兵は遠征に来ているのだから、その意図するところは速戦を欲しているはずです。その先鋒とぶつかってはなりません。新羅人は以前から何度も我が軍に敗れており、現在の我が兵の勢いを望めば、恐れざるを得ないでしょう。
 今度の計略では、唐人の路を塞いでその軍が衰えるのを待つべきです。先に別動隊を派遣して、羅軍を撃たせ、その銳気を折りましょう。その後は臨機応変に合戦すれば、軍を全うし国を保つことができます。」
 王は決断を先延ばしにして考えたが、どちらに従うか決められなかった。
 その時、佐平の興首が罪を得て古馬彌知之縣へ流罪に遭っていたので、人を派遣してそれに質問した。
「事は急である。本件をどうすべきだろうか。」
 興首は言った。
「以前から唐兵は数が多く、師は厳格で公正に規律が執られ、しかも新羅と呼応し、共謀しております。もし平原や広野で対陣すれば、勝敗はわかりません。
 白江(あるいは伎伐浦とも伝わる)と炭峴(あるいは沈峴とも伝わる)は我が国の要路です。兵一人槍一本でも万人に当たることはありません。どうぞ勇士を選抜し、そちらに向かわせてお守りください。唐兵を白江に入らせないようにし、新羅人に炭峴を通過させないようにしましょう。
 大王は城門を重く閉じて守りを固くし、あちらが資源や糧食を尽くして士卒が疲れるまでお待ちください。その後で奮ってそちらを撃てば、確実に撃破できます。」
 時に大臣たちは信じず言った。
「興首は長らく罪人として捕われておりました。主君を怨み国家を愛してはいないでしょう。その言を用いてはなりません。
 唐兵を白江に入らせ、潮流を利用して舟を並べさせず、新羅軍に炭峴を上らせて道幅の狭さゆえに馬を並べさせない、このほうがいいに決まっています。
 まさにその瞬間に兵を放って撃退するのは、譬えるなら籠の中の鶏を殺し、網にかかった魚を離すようなものです。」
 王はそれに同意し、唐と新羅の軍隊が既に白江、炭峴を通過していると聞くと、将軍の堦伯を派遣し、決死隊五千を統帥させて黃山を出発させた。新羅軍との戦いでは、四度合戦してそのすべてに勝利したが、兵が寡少で力尽きてしまい、最後には敗北し、堦伯はそこで戦死した。
 そのため、兵を合流させて熊津口を防御し、江を渡って兵を駐屯させた。
 蘇定方は江の左岸から出て、山を上って陣取り、それと戦った我が軍は大敗を喫した。
 王が指揮する軍隊は潮に乗って、舳艫をずらりとならべて進撃し、太鼓を打ち鳴らして騒ぎ立てた。
 蘇定方は步騎を率いてその都城にまっすぐ向かったが、あと一舍のところで停止し、我が軍は総結集してそれと交戦したが、またしても敗れ、死者は一万人余りに上った。
 唐兵が勝ちに乗じて城に迫ると、王は逃げられないことを悟り、嘆いて言った。
「成忠の言を用いなかったがためにこのようになってしまったことを悔いる。」
 とうとう太子孝と北鄙に逃走した。
 蘇定方がその城を包囲すると、王次子の泰が自ら立って王となり、衆勢を率いて守りを固めた。
 太子の子の文思が王子隆に言った。
「王と太子が出奔したので、叔父が勝手に王となりました。もし唐兵が包囲を解いて撤退したとしても、私たちが無事でいられるでしょうか。」
 こうして左右を率いて縋り出た。人民は皆がそれに従い、泰はそれを止められなかった。蘇定方が士に堞(ひめがき)を超えさせ、唐の旗幟を立てさせると、泰は音を上げて門を開き、命乞いをした。こうして王と太子孝も諸城とともに皆で降伏した。
 蘇定方は王と太子孝、王子泰、隆、演と大臣、将士八十八人、百姓一万二千八百七人を京師に送った。
 国はもともと五部、三十七郡、二百城、七十六萬戶で形成されていたが、これ以降、熊津、馬韓、東明、金漣、德安の五都に督府を析置し、それぞれに州縣を統括させ、現地の頭領を抜擢し、都督、刺史、縣令に任命することで、それらを治めさせた。
 郞將劉仁願に都城を守るように命じ、また左衛郞將王文度を熊津都督に任命し、その余衆を慰撫させた。
 蘇定方は捕虜とした者たちを皇帝に謁見させると、詰責をした後に宥めた。
 王が病死すると金紫光祿大夫衛尉卿の位が追贈され、旧臣には臨終の立ち会いを許した。
 孫皓、陳叔寶の墓の側に葬り、並びに竪碑をつくるようにと詔を下した。
 隆に司稼卿の位を授けた。
 王文度は海を渡ったところで死去したので、劉仁軌をその代理に任命した。
 武王の子従である福信は、かつての将兵や浮屠の道琛とともに周留城を拠点として叛逆し、倭国に人質として出されていた古王子の扶餘豊を迎え、王に擁立した。
 西北部の皆が呼応し、兵を引いて都城の劉仁願を包囲した。
 劉仁軌を檢校帶方州刺史に起用し、王文度の軍勢を率いさせ、すぐに新羅兵を出発させることで、劉仁願を救出するように詔を下した。
 劉仁軌は喜んだ。
「天がこの翁に富貴をもたらそうとしているのだ。」
 そう言うと、唐曆と廟諱を受け取って行軍した。
「私は東夷を掃平し、大唐の正朔を海表に頒けようぞ。」
 劉仁軌は軍の指揮を厳重に整え、転戦しながら前進した。
 福信たちは両柵を熊津江口に立てることで抗った。劉仁軌と新羅兵がともに攻撃すると、我が軍は退走して柵に入り、川で阻んで橋を狹んだが、墮ちて溺れたり戦死した者は一万人余りであった。
 福信たちはすぐに都城を包囲から解放し、任存城に退保した。新羅人は軍糧が尽きたので引き返した。
 時は龍朔元年の三月である。
 こうして道琛は領軍將軍、福信は霜岑將軍とそれぞれが自称すると、徒衆を招集し、その勢力はますます拡大した。
 使者が劉仁軌に告げた。
「大唐と新羅の約誓は、『百濟人は老人であろうと年少であろうと問うことなく、一切を皆殺しにし、その後、国を新羅に与える』というものだと聞いている。それがために死ぬくらいならば、戦って滅びた方がよい。我々が集結したのは、自分自身を守るためだ。」
 劉仁軌は文書を作成して具体的な利害を陳述し、遣使して説諭させた。
 道琛たちは軍勢の数が多いことを恃んで驕り高ぶり、劉仁軌の使者を外館に置いたまま、侮って言った。
「使者の官位が小卑である。我はこれ一国の大将であるぞ。そちらに参じることもないし、文書への返答もしない。そんなことはするだけ無駄だ。」
 劉仁軌は衆勢が少ないために劉仁願と軍を合流させ、士卒を休息させてから新羅と合流し、あちらを包囲したいと上表して請願した。
 羅王の春秋が詔を奉り、その将軍の金欽に兵を率いさせて派遣し、劉仁軌たちを救援させようと古泗に行かせたが、福信が迎撃して敗った。
 金欽は葛嶺道から遁走して帰り、新羅が再度の出撃を敢行しようとはしなかった。
 続いて福信が道琛を殺し、その衆を併合した。
 豊はそれを制御できず、祭事の主催をするだけであった。
 福信たちは、劉仁願たちが孤城無援だったので、遣使してそれを慰撫させた。
「大使たちよ、いつ西に帰られるのだ。その時は送り届けてやろう。」

 二年七月。
 劉仁願、劉仁軌たちが福信の余衆を熊津の東で大いに破り、支羅城や尹城、大山、沙井などの柵を抜き、甚だ多くを殺害あるいは捕虜とし、そのため兵を分けることでそこを鎭守させた。
 福信たちは眞峴城の江に臨み、高く険しい衝要であったので、兵を加えて守備に当たった。
 夜、劉仁軌は新羅兵を監督し、城の板堞に接近し、明るくなるに従って城に入り、八百人を斬殺し、遂に新羅の補給経路を通した。
 劉仁願は兵の増援の要請を上奏すると、淄靑萊海の兵七千人を出発させ、左威衛將軍孫仁師を派遣し、多勢を統率させて海を渡らせ、それによって劉仁願の衆を増援するよう詔を下した。
 この時、福信は既に権勢を専横し、扶餘豊と互いに猜疑心を懐きあっていた。
 福信が病であると称して窟室に寝て豊を待ち、病気の見舞いに来たらそれを捕まえて殺そうとしていた。
 豊はそれを知り、親衛隊を統帥して福信を暗殺した。
 高句麗と倭国に遣使して出軍を乞い、唐兵を拒もうとした。
 それらを孫仁師が途中で迎擊して破り、とうとう劉仁願の衆と合流させ、士気は大いに高まった。
 そこで諸将が今後のことについて合議すると、ある者が言った。
「加林城は水陸の衝要です。先鋒を合わせて突撃しましょう。」
 劉仁軌は言った。
「兵法には『実を避けて虚を擊つ』とある。加林は険難にして堅固、攻め込んでも士人が負傷し、守っても空虚な日を過ごすだけだ。周留城こそが百濟の巣窟、ここに群集しようではないか。もし勝てば、諸城は自ずから降伏することになるだろう。」
 ここで劉仁師と劉仁願、羅王の金法敏は、陸軍を統帥して進撃し、劉仁軌と別動隊の杜爽、扶餘隆は水軍及び粮船を統帥し、熊津江より白江に往き、そこで陸軍を会し、同じく周留城に向かった。
 白江口で倭人に遭遇したが、四たび戦ってすべてに勝利し、その舟四百艘を焼き尽くすと、煙炎が天をも焦がし、海水は赤色に染まった。
 王の扶餘豊は身を脱して逃走し、どこへ行ったか分からない。一説には高句麗に奔走し、その宝劒を獲たと伝わる。
 王子の扶餘忠勝、忠志たちは、その衆勢を統帥し、倭人と並んで降伏した。
 遲受信だけが独り任存城を拠点都市、まだ降伏しなかった。
 事の初めは、黑齒常之が亡散した兵に口を極めて結集を呼びかけること十日、三万人あまりが帰順した。
 蘇定方は兵を派遣してそれを攻撃したが、黑齒常之は抗戦してそれを敗り、再度二百城余りを奪取した。蘇定方は勝つことができなかった。
 黑齒常之と別部將の沙吒相如は険難の地を拠点し、福信と呼応していたが、ここに至って皆が降服した。
 劉仁軌は赤心でこれを示し、任存城の奪取を自ずから起こさせようとして、そこで鎧、仗、糒を給った。
 孫仁師は言った。
「野心は信じ難い。もし甲鎧や粟を受け渡せば、寇族のすることに資してしまう。」
 劉仁軌は言った。
「私は沙吒相如と黑齒常之を観たが、忠義に厚く深謀の者であった。機会に当たって功を立てれば、それで何を疑うことがあるだろうか。」
 二人がその城を奪取し終えると、遲受信は妻子を委ねて高句麗に奔走し、残党はことごとく平げられ、孫仁師たちは態勢を整えて帰国したが、詔が下され、劉仁軌は駐留して兵を統帥させて鎭守することになった。
 戦火の残滓として、並び立つ家屋は荒れ果て、屍骸が雑草が覆い茂るかのようにあたりに倒れていた。
 劉仁軌は、骸骨の埋葬から始まり、戸籍の設置、村落の整備、官長を配置、道路の開通、橋梁を設立、堤堰を補修、坡塘を復旧、農桑の奨励、貧困者への配給、孤老の養生、唐の社稷を立て、正朔と廟諱を頒けるように命じた。人民は皆が喜び、それぞれがその場所で安んじられた。
 帝は扶餘隆を熊津都督に任命して帰国させ、新羅の古憾を平らげて遺った人を招還した。
 麟德二年、新羅王と熊津城で会合し、白馬を殺して盟を結んだ。
 劉仁軌が盟辞を書き、それを金書鐵契と名付け、新羅の廟中に保管した。盟辞は新羅紀の中で見られる。
 劉仁願たちが帰国すると、隆は民衆の心が離れてしまうことを恐れ、また京師に帰った。
 儀鳳中、隆を熊津都督帶方郡王に任命して帰国させ、残った民衆を安撫させた。そこで安東都護府を新城に移すことで、そこを統治させた。
 この時、新羅は強国であり、隆は旧国領に入ろうとせず、高句麗に入国してそこに身を寄せて死んだ。
 武后もまたその孫の敬襲王にそうさせたが、当時その地は既に新羅、渤海、靺鞨が割拠していたので、国家の系譜は遂に絶たれた。

 本件について論じよう。
 新羅古事には「天が金の櫃を降したので、姓は金氏である。」と伝わっている。
 その言葉は怪しむべきもので信じることはできないが、我が史書の編修に際しては、その言い伝えが旧いことをもって、その辞を削ぎ落すことはできなかった。
 また、このようにも聞いている。
「新羅人は自分たちが小昊金天氏の後裔であるから、姓は金氏である(『新羅國子博士薛因宣撰金庾信碑』及び『朴居勿撰姚克一書三郞寺碑文』に見られる)。高句麗もまた高辛氏の後裔であるから、姓は高氏である。」
 これは晋書載記に見られ、古史には「百濟と高句麗は同じく扶餘を出自とする。」とあり、また「秦漢が乱離の時代、中国人が数多く海東に逃竄した。」とも伝わる。してみれば、三国の祖先がその古聖人の苗裔でないことがあるだろうか。なんともこれらの国々は長く続いたものである。
 晩年に至って百濟は、その所行に非道が多かった。また代々新羅を仇とし、高句麗と連合することでそれを侵軼し、有利な状況に乗じて、新羅から重城、巨鎭を分割して返還しなかった。所謂『親仁なる善き隣国は国家の宝である』とはいかなかったのである。
 こうして唐の天子は再三その怨を平げよと詔を下したが、陽(ひなた)では従いつつも陰(かげ)ではそれに違い、そのために大国から罪を獲た。亡国となったことも、また必然であったのだ。

 三國史記 卷第二十八

 

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≪白文≫
三國史記 卷第二十八 宣撰 輸忠定難靖國贊化同德功臣 開府儀同三司 檢校太師 守太保 門下侍中 判尚書吏禮部事 集賢殿太學士 監修國史 上柱國致仕臣金冨軾 奉宣撰 百濟本紀 第六 義慈王  義慈王、武王之元子、雄勇有膽決。
 武王在位三十三年、立為太子。
 事親以孝、與兄弟以友、時號海東曾子。
 武王薨、太子嗣位。
 太宗遣祠部郞中鄭文表、冊命為柱國帶方郡王公百濟王。

 秋八月。
 遣使入唐、表謝、兼獻方物。

 二年、春正月。
 遣使入唐朝貢。

 二月。
 王巡撫州郡。
 慮囚、除死罪皆原之。

 秋七月。
 王親帥兵、侵新羅、下獼猴等四十餘城。

 八月。
 遣將軍允忠、領兵一萬、攻新羅大耶城。
城主品釋與妻子出降。
 允忠盡殺之、斬其首、傳之王都、生獲男女一千餘人、分居國西州縣、留兵守其城。
 王賞允忠功、馬二十匹、穀一千石。

 三年、春正月。
 遣使入唐朝貢。

 冬十一月。
 王與高句麗和親、謀欲取新羅黨[1]項城、以塞入朝之路。
 遂發兵攻之。
羅王德曼遣使、請救於唐、王聞之罷兵。

 四年、春正月。
 遣使入唐朝貢。
 太宗遣司農丞相里玄奬、告諭兩國、王奉表陳謝。
 立王子隆為太子。
 大赦。

 秋九月。
 新羅將軍庾信領兵來侵、取七城。

 五年、夏五月。
 王聞太宗親征高句麗、徵兵新羅。
 乘其間、襲取新羅七城。
 新羅遣將軍庾信、來侵。

 七年、冬十月。
 將軍義直、帥步騎三千、進屯新羅茂山城下、分兵攻甘勿、桐岑二城、新羅將軍庾信、親勵士卒、決死而戰、大破之。
 義直匹馬而還。

 八年、春三月。
 義直襲取新羅西鄙腰車等一十餘城。

 夏四月。
 進軍於玉門谷、新羅將軍庾信逆之、再戰大敗之。

 九年、秋八月。
 王遣左將殷相、帥精兵七千、攻取新羅石吐等七城、新羅將庾信、陳春、天存、竹旨等、逆擊之、不利、收散卒、屯於道薩城下、再戰、我軍敗北。

 冬十一月。
 雷。
 無氷。

 十一年。
 遣使入唐朝貢。
 使還、高宗降璽書、諭王曰、
 海東三國、開基日久、並列疆界、地實犬牙。
 近代已來、遂構嫌隙、戰爭交起、略無寧歲。
 遂令三韓之氓、命懸刀俎、築戈肆憤、朝夕相仍。
 朕代天理物、載深矜憫。
 去歲、高句麗、新羅等使、並來入朝、朕命釋玆讎怨、更敦款睦。
 新羅使金法敏奏言、
 高句麗、百濟、脣齒相依、竟擧干戈、侵逼交至、大城重鎭、並爲百濟所倂、疆宇日蹙、威力並謝、乞詔百濟、令歸所侵之城。
 若不奉詔、卽自興兵打取、但得古地、卽請交和。
 朕以其言旣順、不可不許。
 昔、齊桓列土諸侯、尚存亡國、况朕萬國之主、豈可不恤危藩。
 王所兼新羅之城、並冝還其夲國、新羅所獲百濟俘虜、亦遣還王。
 然後、解患釋紛、韜戈偃革、百姓獲息肩之願、三蕃無戰爭之勞。
 比夫流血邊亭、積屍疆埸、耕織並廢、士女無聊、豈可同年而語哉。
 王若不從進止、朕已依法敏所請、任其與王決戰、亦令約束高句麗、不許遠相救恤。
 高句麗若不承命、卽令契丹諸藩、度遼、深入抄掠。
 王可深思朕言、自求多福、審圗良策、無貽後悔。

 十二年、春正月。
 遣使入唐朝貢。

 十三年、春。
 大旱。
 民饑。

 秋八月。
 王與倭國通好。

 十五年、春二月。
 修太子宮、極侈麗。
 立望海亭於王宮南。

 夏五月。
 騂馬入北岳烏含寺、鳴匝佛宇、數日死。

 秋七月。
 重修馬川城。

 八月。
 王與高句麗、靺鞨、攻破新羅三十餘城。
新羅王金春秋、遣使朝唐、表稱、
 百濟與高句麗、靺鞨、侵我北界、沒三十餘城。

 十六年、春三月。
 王與宮人、淫荒耽樂、飲酒不止。
 佐平成忠、或云淨忠、極諫、王怒、囚之獄中、由是、無敢言者。
 成忠瘐死不食。
 臨終上書曰、
 忠臣死不忘君、願一言而死。
 臣常觀時察變、必有兵革之事。
 凡用兵、必審擇其地、處上流以延敵、然後可以保全。
 若異國兵來、陸路不使過沈峴、一云炭峴、水軍不使入伎伐浦、一云白江、之岸、擧其險隘以禦之、然後可也。
 王不省焉。

 十七年、春正月。
 拜王庶子四十一人為佐平、各賜食邑。

 夏四月。
 大旱、赤地。

 十九年、春二月。
 衆狐入宮中、一白狐坐上佐平書案。

 夏四月。
 太子宮、雌雞與黃雀交。
 遣將侵攻新羅獨山、桐岑二城。

 五月。
 王都西南泗沘河、大魚出死、長三丈。

 秋八月。
 有女屍浮生草津、長十八尺。

 九月。
 宮中槐樹鳴、如人哭聲。
 夜、鬼哭於宮南路。

 二十年、春二月。
 王都井水血色。
 西海濱、群魚出死、百姓食之、不能盡。
 泗沘河水、赤如血色。

 夏四月。
 蝦蟆數萬、集於樹上。
 王都市人、無故驚走、如有捕逐者、僵仆而死百餘人、亡失財物、不可數。

 五月。
 風雨暴至、震天王、道讓二寺塔、又震白石寺講堂。
 玄雲如龍、東西相鬪於空中。

 五月。
 王興寺衆僧皆見、若有船楫、隨大水、入寺門。
 有一犬狀如野鹿、自西至泗沘河岸、向王宮吠之、俄而不知所去。
 王都群犬集於路上、或吠或哭、移時卽散。
 有一鬼入宮中、大呼、
 百濟亡、百濟亡。
 卽入地、王怪之、使人掘地、深三尺許、有一龜。
 其背有文曰、
 百濟同月輪、新羅如月新。
 王問之巫者、曰、
 同月輪者滿也、滿則虧。
如月新者未滿也、未滿則漸盈。
 王怒殺之。
 或曰、
 同月輪者盛也、如月新者微也。
 意者國家盛、而新羅寖微者乎。
 王喜。
 高宗詔、  左衛大將軍蘇定方、為神丘道行軍大摠管、率左衛將軍劉伯英、右武衛將軍馮士貴、左驍衛將軍龐孝公、統兵十三萬、以來征、兼以新羅王金春秋、爲嵎夷道行軍摠管、將其國兵、與之合勢。
 蘇定方引軍、自城山濟海、至國西德物島、新羅王遣將軍金庾信、領精兵五萬以赴之。
 王聞之、會群臣、問戰守之宜。
 佐平義直進曰、
 唐兵遠涉溟海、不習水者、在船必困。
 當其初下陸、士氣未平、急擊之、可以得志。
 新羅人恃大國之援、故有輕我之心、若見唐人失利、則必疑懼、而不敢銳進。
 故知先與唐人決戰、可也。
 達率常永等曰、
 不然。
 唐兵遠來、意欲速戰、其鋒不可當也。
 新羅人前屢見敗於我軍、今望我兵勢、不得不恐。
 今日之計、宜塞唐人之路、以待其師老。
 先使偏師、擊羅軍、折其銳氣、然後、伺其便而合戰、則可得以全軍、而保國矣。
 王猶豫、不知所從。
 時、佐平興首得罪、流竄古馬彌知之縣、遣人問之曰、
 事急矣、如之何而可乎。
 興首曰、
 唐兵旣衆、師律嚴明、況與新羅共謀掎角。
 若對陣於平原廣野、勝敗未可知也。
 白江、或云伎伐浦、炭峴、或云沈峴、我國之要路也。
 一夫單槍、萬人莫當、宜簡勇士、往守之。
 使唐兵不得入白江、羅人未得過炭峴。
 大王重閉固守、待其資粮盡、士卒疲、然後奮擊之、破之必矣。
 於時、大臣等不信曰、
 興首久在縲紲之中、怨君而不愛國、其言不可用也。
 莫若使唐兵入白江、沿流而不得方舟、羅軍升炭峴、由徑而不得幷馬。
 當此之時、縱兵擊之、譬如殺在籠之雞、離網之魚也。
 王然之。
 又聞唐、羅兵已過白江、炭峴、遣將軍堦伯、帥死士五千、出黃山、與羅兵戰、四合皆勝之、兵寡力屈、竟敗、堦伯死之。
 於是、合兵禦熊津口、瀕江屯兵。
 定方出左涯、乘山而陣。
 與之戰、我軍大敗。
 王師乘潮、舳艫銜尾進、鼓而譟。
 定方將步、騎、直趍其都城、一舍止。
 我軍悉衆拒之、又敗、死者萬餘人。
 唐兵乘勝薄城。
 王知不免、嘆曰、
 悔不用成忠之言、以至於此。
 遂與太子孝、走北鄙。
 定方圍其城。
 王次子泰、自立為王、率衆固守。
 太子子文思、謂王子隆曰、
 王與太子出、而叔擅為王、若唐兵解去、我等安得全。
 遂率左右、縋而出而出、民皆從之、泰不能止。
 定方令士超堞、立唐旗幟、泰窘迫、開門請命。
 於是、王及太子孝與諸城皆降。
 定方以王及太子孝、王子泰、隆、演及大臣、將士八十八人、百姓一萬二千八百七人、送京師。
 國本有五部、三十七郡、二百城、七十六萬戶、至是、析置熊津、馬韓、東明、金漣、德安五都督府、各統州縣。
 擢渠長、為都督、刺史、縣令以理之。
 命郞將劉仁願守都城、又以左衛郞將王文度為熊津都督、撫其餘衆。
 定方以所俘見上、責而宥之。
 王病死、贈金紫光祿大夫衛尉卿、許舊臣赴臨。
 詔葬孫皓、陳叔寶墓側、幷為竪碑。
 授隆司稼卿。
 武王從子福信、嘗將兵、乃與浮屠道琛、據周留城叛、迎古王子扶餘豊、嘗質於倭國者、立之為王。
 西北部皆應、引兵圍仁願於都城。
 詔起劉仁軌檢校帶方州刺史、將王文度之衆、便道發新羅兵、以救仁願。
 仁軌喜曰、
 天將富貴此翁矣。
 請唐曆及廟諱而行曰、
 吾欲掃平東夷、頒大唐正朔於海表。
 仁軌御軍嚴整、轉鬪而前。
福信等、立兩柵於熊津江口、以拒之。
 仁軌與新羅兵合擊之、我軍退走入柵、阻水橋狹、墮溺及戰死者萬餘人。
 福信等乃釋都城之圍、退保任存城、新羅人以粮盡引還。
 時、龍朔元年三月也。
 於是、道琛自稱領軍將軍 福信自稱霜岑將軍、招集徒衆、其勢益張。
 使告仁軌曰、
 聞大唐與新羅約誓、百濟無問老少、一切殺之、然後、以國付新羅、與其受死、豈若戰亡。
 所以聚結、自固守耳。
 仁軌作書、具陳禍福、遣使諭之。
 道琛等、恃衆驕倨、置仁軌之使於外館、嫚報曰、
 使人官小卑、我是一國大將、不合參。
 不答書、徒遣之。
仁軌以衆少與仁願合軍、休息士卒、上表、請合新羅圖之。
 羅王春秋奉詔、遣其將金欽、將兵救仁軌等、至古泗。
 福信邀擊、敗之。
 欽自葛嶺道遁還、新羅不敢復出。
 尋而福信殺道琛、幷其衆。
 豊不能制、但主祭而已。
 福信等、以仁願等孤城無援、遣使慰之曰、
 大使等、何時西還。
 當遣相送。

 二年七月。
 仁願、仁軌等、大破福信餘衆於熊津之東、拔支羅城及尹城、大山、沙井等柵、殺獲甚衆、仍令分兵以鎭守之。
 福信等、以眞峴城臨江高嶮、當衝要、加兵守之。
 仁軌夜督新羅兵、薄城板堞、比明而入城、斬殺八百人、遂通新羅饟道。
 仁願奏請益兵、詔發淄、靑、萊、海之兵七千人、遣左威衛將軍孫仁師、統衆浮海、以益仁願之衆。
 時、福信旣專權、與扶餘豊、寖相猜忌。
 福信稱疾、臥於窟室、欲俟豊問疾、執殺之。
 豊知之、帥親信、掩殺福信。
 遣使高句麗、倭國、乞師以拒唐兵。
 孫仁師中路迎擊破之、遂與仁願之衆相合、士氣大振。
 於是、諸將議所向、或曰、
 加林城水陸之衝、合先擊之。
 仁軌曰、
兵法、避實擊虛、加林嶮而固、攻則傷士、守則曠日。
 周留城、百濟巢穴、群聚焉、若克之、諸城自下。
 於是、仁師、仁願及羅王金法敏、帥陸軍進、劉仁軌及別帥杜爽、扶餘隆、帥水軍及粮船、自熊津江往白江、以會陸軍、同趍周留城。
 遇倭人白江口、四戰皆克、焚其舟四百艘、煙炎灼天、海水為丹。
 王扶餘豊脫身而走、不知所在、或云奔高句麗、獲其寶劒。
 王子扶餘忠勝、忠志等、帥其衆、與倭人並降。
 獨遲受信據任存城、未下。
 初、黑齒常之嘯聚亡散、旬日間、歸附者三萬餘人。
 定方遣兵攻之。
 常之拒戰敗之、復取二百餘城、定方不能克。
 常之與別部將沙吒相如據嶮、以應福信、至是皆降。
 仁軌以赤心示之、俾取任存自效、卽給鎧、仗、糒。
 仁師曰、
 野心難信。
 若受甲濟粟、資寇便也。
 仁軌曰、
 吾觀相如、常之、忠而謀、因機立功、尚何疑。
 二人訖取其城、遲受信委妻子、奔高句麗、餘黨悉平、仁師等振旅還。
 詔留仁軌、統兵鎭守。
 兵火之餘、比屋凋殘、殭屍如莽。
 仁軌始命、瘞骸骨、籍戶口、理村聚、署官長、通道塗、立橋梁、補堤堰、復坡塘、課農桑、賑貧乏、養孤老、立唐社稷、頒正朔及廟諱。
 民皆悅、各安其所。
 帝以扶餘隆為熊津都督、 俾歸國、平新羅古憾、招還遺人。
 麟德二年、與新羅王會熊津城、刑白馬以盟。
 仁軌為盟辭、乃作金書鐵契、藏新羅廟中、盟辭見新羅紀中。
 仁願等還、隆畏衆携散、亦歸京師。
 儀鳳中、以隆為熊津都督帶方郡王、遣歸國、安輯餘衆、仍移安東都護府於新城、以統之。
 時、新羅强、隆不敢入舊國、寄理治高句麗死。
 武后又以其孫敬襲王、而其地已為新羅、渤海、靺鞨所分、國系遂絶。

 論曰、
 新羅古事云、
 天降金樻、故姓金氏。
 其言可怪而不可信、臣修史、以其傳之舊、不得刪落其辭。
 然而又聞、
 新羅人、自以小昊金天氏之後、故姓金氏、見新羅國子博士薛因宣撰金庾信碑、及朴居勿撰姚克一書三郞寺碑文、高句麗亦以高辛氏之後、姓高氏。
 見晋書載記。
 古史曰、
 百濟與高句麗、同出扶餘。
 又云、
 秦、漢亂離之時、中國人多竄海東。
 則三國祖先、豈其古聖人之苗裔耶。
 何其享國之長也。
 至於百濟之季、所行多非道、又世仇新羅、與高句麗連和、以侵軼之、因利乘便、割取新羅重城、巨鎭、不已、非所謂親仁善鄰、國之寶也。
 於是、唐天子再下詔、平其怨、陽從而陰違之、以獲罪於大國、其亡也亦宜矣。

 三國史記 卷第二十八

<書き下し文>

 義慈王、武王の元子、雄勇にして膽決有り。
 武王在位三十三年、立ちて太子と為す。
 親に事ふるには孝を以てし、兄弟に與(くみ)するに友を以てし、時に海東の曾子と號す。
 武王薨じ、太子位を嗣ぐ。
 太宗祠部郞中鄭文表を遣り、冊命して柱國帶方郡王公百濟王と為す。

 秋八月。
 遣使して唐に入らせ、謝を表し、兼ねて方物を獻ず。

 二年、春正月。
 遣使して唐に入らせ朝貢す。

 二月。
 王州郡を巡撫す。
 慮囚、死罪を除き皆之れを原(はな)つ。

 秋七月。
 王親(みずか)ら兵を帥(す)べ、新羅を侵し、獼猴等四十餘城を下す。

 八月。
 將軍允忠を遣り、兵一萬を領(おさ)め、新羅の大耶城を攻む。
 城主の品釋と妻子降(くだり)に出でる。
 允忠盡く之れを殺し、其の首を斬り、之れを王都に傳へ、生獲りにすること男女一千餘人、國西の州縣に分居し、兵を留めて其の城を守る。
 王允忠の功を賞し、馬二十匹、穀一千石。

 三年、春正月。
 遣使して唐に入らせ朝貢す。

 冬十一月。
 王と高句麗和親し、新羅の黨項城取らむと欲して謀り、以て入朝の路を塞ぐ。
 遂に兵を發(はな)ち之れを攻む。
 羅王德曼遣使し、唐に救を請はせ、王は之れを聞きて兵を罷(ひ)く。

 四年、春正月。
 遣使して唐に入らせ朝貢す。
 太宗司農丞相里玄奬を遣り、兩國に告諭す。
 王表を奉り陳謝す。
 王子隆を立て太子と為す。
 大赦す。

 秋九月。
 新羅將軍庾信兵を領めて侵に來たり、七城を取る。

 五年、夏五月。
 王は太宗の高句麗に親征し、新羅に兵を徵(め)すと聞く。
 其の間に乘じ、新羅七城を襲ひ取る。
 新羅將軍庾信を遣り、侵に來たる。

 七年、冬十月。
 將軍義直、步騎三千を帥べ、進みて新羅の茂山城の下(ふもと)に屯(たむろ)、兵を分けて甘勿、桐岑の二城を攻むるも、新羅の將軍庾信、親(みずか)ら士卒を勵かし、死を決して戰ひ、大いに之れを破る。
 義直は匹馬にして還る。

 八年、春三月。
 義直新羅の西鄙の腰車等一十餘城を襲ひ取る。

 夏四月。
 玉門谷に進軍するも、新羅の將軍庾信之れに逆ひ、再戰して大いに之れを敗る。

 九年、秋八月。
 王左將殷相を遣り、精兵七千を帥べ、新羅の石吐等七城を攻め取るも、新羅の將庾信、陳春、天存、竹旨等、逆ひて之れを擊つ。
 不利となり、散卒を收め、道薩城の下に屯し、再戰するも、我が軍敗北す。

 冬十一月。
 雷。
 氷無し。

 十一年。
 遣使して唐に入らせ朝貢す。
 使(つかひのもの)は還り、高宗は璽書を降し、王を諭して曰く、
 海東三國、基を開きて日は久しき、疆界を並列し、地は犬牙を實る。
 近代已來、遂に嫌隙を構へ、戰爭交(こもごも)起こり、略して寧(やすらか)なる歲無し。
 遂に三韓の氓をして、命を懸け刀を俎し、戈を築して憤りを肆(ほしいまま)にし、朝夕相仍(かさ)ぬ。
 朕は天に代わり物を理(おさ)め、深に矜憫を載けり。
 去歲、高句麗、新羅等の使、並びて入朝に來たり、朕は玆(ここ)に讎怨を釋し、更に敦く款睦すべしと命ず。
 新羅の使の金法敏奏じて言はふに、
 高句麗、百濟は脣齒相ひ依り、竟(つい)に干戈を擧げ、侵逼し交(こもごも)至り、大城重鎭、並びに百濟の倂する所と爲り、宇(いえ)を疆(せばま)ること日蹙(せま)り、威力は並びに謝(おとろ)ふ。
 百濟に詔し、侵す所の城を歸させしめんことを乞ふ。
 若し詔を奉らざれば、卽(すぐ)に自ら兵を興して打ち取り、但だ古地を得るのみにて、卽ち交和を請はむ。
 朕は其の言を以て旣に順ふ、許さざる可からず。
 昔、齊桓は土を諸侯に列ぶも、尚ほ亡國を存す、况や朕は萬國の主、豈に危藩を恤せざる可きか。
 王は兼ねる所の新羅の城、並びに冝しく其の夲國に還し、新羅は獲る所の百濟の俘虜、亦た遣りて王に還させしむ。
 然る後、患を解ひて紛を釋し、戈(ほこ)を韜(おさ)めて革を偃(や)め、百姓は息肩の願を獲、三は戰爭の勞を無からしむることに蕃(はげ)め。
 夫の邊亭に血を流し、屍を疆埸に積み、耕織並び廢し、士女に聊(たの)しみ無しと比ぶれば、豈に年を同じくして語る可きけむや。
 王若し進止に從はざれば、朕已に法敏の請ふ所に依り、其れと王との決戰に任せ、亦た高句麗に遠相救恤を許さずと約束せしむ。
 高句麗若し命を承かば、卽ち契丹諸藩をして遼に度り、深入して抄掠せしむ。
 王は深く朕の言を思ひ、自らに福多からむことを求め、良策を審圗し、後悔を貽(のこ)すこと無からしむ可し。

 十二年、春正月。
 遣使して唐に入らせ朝貢す。

 十三年、春。
 大旱。
 民饑ゆ。

 秋八月。
 王と倭國通好す。

 十五年、春二月。
 太子の宮を修め、侈麗を極む。
 王宮の南に於いて海亭を立望す。

 夏五月。
 騂馬(あかうま)北岳の烏含寺に入り、佛宇を鳴き匝(めぐ)り、數日して死す。

 秋七月。
 馬川城を重修す。

 八月。
 王と高句麗、靺鞨、新羅三十餘城を攻め破る。
 新羅王金春秋、遣使して唐に朝し、表稱す。
 百濟と高句麗、靺鞨、我が北界を侵し、三十餘城を沒す、と。

 十六年、春三月。
 王と宮人、淫荒耽樂、飲酒止まず。
 佐平成忠、或(あるいは)淨忠と云ふ、極諫するも、王怒り、之れを獄中に囚へ、是に由りて、敢へて言ふ者無からしむ。
 成忠は瘐死不食す。
 臨終に書を上(ささ)げて曰く、
 忠臣は死しても君を忘れず、一言して死するを願ふ。
 臣は常に時を觀て變を察し、必ず兵革の事有らむ。
 凡そ用兵、必ず其の地を審擇し、處上流以延敵、然る後に以て保全す可し。
 若し異國の兵來たれば、陸路沈峴、一に炭峴と云ふ、を過せしめず、水軍は伎伐浦、一に白江と云ふ、の岸に入らしめず、其の險隘を擧げて以て之れを禦し、然る後に可なり。
 王は焉れを省ず。

 十七年、春正月。
 拜して王の庶子の四十一人を佐平と為し、各(それぞれ)に食邑を賜ふ。

 夏四月。
 大旱、地を赤くす。

 十九年、春二月。
 衆狐宮中に入り、一(ひとつ)の白狐は上佐平の書案に坐す。

 夏四月。
 太子宮、雌雞と黃雀交る。
 將を遣り新羅の獨山、桐岑二城を侵攻せしむ。

 五月。
 王都西南の泗沘河、大魚出でて死す、長さ三丈。

 秋八月。
 女屍の生草津に浮かぶ有り、長さ十八尺。

 九月。
 宮中の槐樹鳴くこと、人の哭き聲の如し。
 夜、鬼宮南路にて哭く。

 二十年、春二月。
 王都の井水血色す。
 西海濱、群魚出でて死し、百姓之れを食らへども、盡くすこと能はず。
 泗沘河水、赤きこと血色の如し。

 夏四月。
 蝦蟆數萬、樹上に集る。
 王都市の人、故無く驚き走ること、捕逐する者有るが如し、僵仆して死するもの百餘人、財物を亡失するもの、數ふ可からず。

 五月。
 風雨暴れ至り、天王、道讓の二寺塔を震はし、又た白石寺講堂を震はす。
 玄雲は龍の如し、東西相ひ空中に於いて鬪ふ。

 五月。
 王興寺の衆僧皆、船楫有り、大水隨ひ、寺門に入るが若しを見ゆ。
 一(ひとつ)の犬有り狀(ありさま)は野鹿の如し、西より泗沘河の岸に至り、王宮に向かひ之れに吠え、俄かにして去る所を知らず。
 王都の群犬は路上に集り、或(あるいは)吠え或は哭き、時を移して卽ち散る。
 一(ひとつ)の鬼有り宮中に入り、大いに呼(さけ)ぶ。
 百濟は亡ぶ、百濟は亡ぶ、と。
 卽ち地に入り、王之れを怪しみ、人をして地を掘らせしむれば、深さ三尺を許し、一(ひとつ)の龜有り。
 其の背に文有りて曰く、
 百濟は月の輪なると同じくし、新羅は月の新(あらた)なるが如し。
 王は之れを巫者に問へば曰く、
 月の輪なると同じくするは滿なり、滿てば則ち虧(か)く。
 月の新なるが如きとは未だ滿たざるなり、未だ滿たざれば則ち漸(しばらく)して盈(み)つ。
 王怒りて之れを殺す。
 或(あるひと)曰く、
 月の輪なると同じくするは盛(さかん)なり、月の新なるが如しとは微(かすか)なり。
 意は國家盛となり、而るに新羅は寖微の者ならんや。
 王喜ぶ。
 高宗詔をす、  左衛大將軍の蘇定方、神丘道行軍大摠管と為し、左衛將軍劉伯英、右武衛將軍馮士貴、左驍衛將軍龐孝公を率いせしめ、兵十三萬を統べ、以て征に來たり、兼ねて新羅王金春秋を以て、嵎夷道行軍摠管と爲し、其の國兵を將(ひき)いせしめ、之れと勢を合はす。
 蘇定方は軍を引き、城山濟海より國西德物島に至り、新羅王は將軍金庾信を遣り、精兵五萬を領めせしめ以て之れに赴く。
 王之れを聞き、群臣と會し、戰守の宜を問ふ。
 佐平の義直は進みて曰く、
 唐兵は溟海を遠涉し、水に習はざる者、船に在らば必ず困る。
 當に其の初めて陸に下らむとし、士氣の未だ平がざるとき、之れを急擊し、以て志を得る可し。
 新羅人は大國の援に恃り、故に我の心を輕ずること有り、若し唐人の利を失するを見れば、則ち必ず疑懼し、而りて銳進を敢てせず。
 故に先に唐人と決戰するを知れば、可なり。
 達率の常永等曰く、
 然らず。
 唐兵遠來し、意(こころ)は速戰を欲す。
 其の鋒は當たる可からざるなり。
 新羅人前に屢(しばしば)我軍に敗らるる、今我が兵の勢いを望めば、恐れざるを得ず。
 今日の計、宜しく唐人の路を塞ぎ、以て其の師の老(おとろ)ゆるを待つべし。
 先に偏師をして、羅軍を撃たせ、其の銳氣を折り、然る後、其の便を伺ひて合戰すれば、則ち可得以全軍、而りて國を保たむや。
 王猶豫するも、從ふ所を知らず。
 時に佐平の興首は罪を得、古馬彌知之縣に流竄し、人を遣り之れに問ひて曰く、
 事は急なり、之れを如何として可なるか。
 興首曰く、
 唐兵旣に衆(かずおお)く、師は嚴明に律し、況して新羅と共謀掎角す。
 若し平原廣野に對陣すれば、勝敗は未だ知る可からざるなり。
 白江、或は云く伎伐浦、炭峴、或は云く沈峴、我が國の要路なり。
 一夫單槍、萬人に當たること莫し、宜しく勇士を簡(えら)び、之れに往きて守るべし。
 唐兵をして白江に入るを得ることをなからしめ、羅人未だ炭峴を過ぎるを得ざらしむ。
 大王重く閉じて固く守り、其の資粮を盡くすを待たば、士卒疲れ、然る後に之れを奮擊し、之れを破るを必せむ。
 時に於いて、大臣等信じず曰く、
 興首久しく縲紲の中に在り、君を怨みて國を愛さず、其の言用ふる可からざるなり。
 唐兵をして白江に入らせれば、流れに沿ひて舟を方(なら)ぶを得ざらしめ、羅軍をして炭峴に升らせしめれば、徑(みち)に由りて馬を幷ぶを得ざらしむるに若くもの莫し。
 當に此の時、兵を縱(はな)ち之れを擊つは、譬ふれば籠の雞在るを殺し、網の魚を離すが如きなり。
 王之れを然りとす。
 又た唐、羅兵已に白江、炭峴を過ぐるを聞き、將軍堦伯を遣り、死士五千を帥(す)べせしめ、黃山を出で、羅兵と戰ひ、四(よたび)合ひて皆之れに勝つも、兵寡(すくな)く力屈し、竟(つい)に敗れ、堦伯之れに死す。
 是に於いて、兵を合はせ熊津口を禦し、江を瀕(わた)り兵を屯(たむろ)す。
 定方は左涯を出、山に乘りて陣す。
 之れと戰ひ、我が軍大敗す。
 王師は潮に乘り、舳艫銜尾して進み、鼓して譟(さわ)ぐ。
 定方は步騎を將(ひき)い、其の都城に直趍するも、一(ひとたび)舍止(とどむ)る。
 我が軍の悉衆は之れを拒むも、又た敗れ、死者は萬餘人。
 唐兵は勝ちに乘じて城に薄す。
 王は免れずを知り、嘆きて曰く、
 成忠の言を用ひざり、以て此に至るを悔ゆ。
 遂に太子孝と北鄙に走る。
 定方は其の城を圍む。
 王次子泰、自ら立ちて王と為り、衆を率いて固く守る。
 太子子文思、王子隆に謂ひて曰く、
 王と太子出で、而りて叔擅を王と為す。
 若し唐兵解きて去れば、我等安(いずくに)ぞ全(まっとう)を得む。
 遂に左右を率い、縋りて出でて出で、民は皆之れに從ふも、泰は止むること能はず。
 定方は士をして堞(ひめがき)を超えせしめ、唐の旗幟を立たせしむれば、泰は窘迫し、門を開き命を請ふ。
 是に於いて、王及び太子孝は諸城と與に皆降る。
 定方は王及び太子孝、王子泰、隆、演及び大臣、將士八十八人、百姓一萬二千八百七人を以て、京師に送る。
 國に本(もともと)五部、三十七郡、二百城、七十六萬戶有るも、是に至り、熊津、馬韓、東明、金漣、德安の五都に督府を析置し、各(それぞれ)州縣に統(おさ)む。
 渠長を擢き、都督、刺史、縣令と為し以て之れを理(おさ)めしむ。
 郞將劉仁願に命じて都城を守らせ、又た左衛郞將王文度を以て熊津都督と為し、其の餘衆を撫せしむ。
 定方は以て俘する所を上に見えせしめ、責めて之れを宥む。
 王は病死し、金紫光祿大夫衛尉卿を贈り、舊臣の赴臨を許す。
 孫皓、陳叔寶の墓の側に葬り、幷びに竪碑を為(つく)らしむと詔す。
 隆に司稼卿を授く。
 文度海を濟り卒す、劉仁軌を以て之れに代ふ。
 武王の子從の福信、嘗ての將兵、乃(およ)び浮屠道琛と與に、周留城に據りて叛き、古王子扶餘豊、嘗て倭國の質の者を迎へ、之れを立て王と為す。
 西北部皆應じ、兵を引き都城にて仁願を圍む。
 劉仁軌を檢校帶方州刺史に起し、王文度の衆を將いせしめ、便ち道に新羅兵を發し、以て仁願を救はしむと詔す。
 仁軌喜びて曰く、
 天將に此の翁を富貴せしめんか。
 唐曆及び廟諱を請ひて行きて曰く、
 吾東夷を掃平し、大唐の正朔を海表に頒かたむと欲す。
 仁軌は軍を嚴整に御し、轉鬪して前む。
 福信等、兩柵を熊津江口に立て、以て之れを拒む。
 仁軌と新羅兵之れに合擊し、我が軍退走して柵に入り、水を阻み橋狹むも、墮溺及び戰死する者萬餘人。
 福信等乃ち都城の圍を釋(はな)ち、任存城に退保し、新羅人は粮の盡きるを以て引き還す。
 時は龍朔元年の三月なり。
 是に於いて、道琛自ら領軍將軍を稱し 福信自ら霜岑將軍を稱し、徒衆を招集し、其の勢益(ますます)張(ひろが)れり。
 使は仁軌に告げて曰く、
 大唐と新羅の約誓を聞けば、百濟は老少を問ふこと無く、一切之れを殺し、然る後、國を以て新羅に付す、と。
 其れに與して死を受かば、豈に戰ひ亡ぶに若かざらむ。
 聚結する所以、自ら固く守るのみ。
 仁軌は書を作(おこ)し、具(つぶさ)に禍福を陳(の)べ、遣使して之れを諭す。
 道琛等、衆を恃り驕倨(おごりたかぶ)り、仁軌の使を外館に置き、嫚(あなど)り報せて曰く、
 使人の官は小卑、我は是れ一國の大將、參ずるに合はず。
 書に答へず、之れを遣るを徒(いたずら)にす。
 仁軌は衆の少なきを以て仁願と軍を合はせ、士卒を休息し、上表し、新羅と合ひ之れを圖まんと請へり。
 羅王春秋詔を奉り、其の將金欽を遣り、兵を將(ひき)いて仁軌等を救はしめんとし、古泗に至らしむ。
 福信邀擊し、之れを敗る。
 欽は葛嶺道より遁(のが)れ還り、新羅は復た出だすを敢へてせず。
 尋いで福信は道琛を殺し、其の衆を幷す。
 豊は制すること能はず、但だ主祭するのみ。
 福信等、仁願等の孤城無援なるを以て、遣使して之れを慰して曰く、
 大使等、何時西に還らむ。
 當に相ひ送を遣らむとす、と。

 二年七月。
 仁願、仁軌等、福信の餘衆を熊津の東にて大いに破り、支羅城及び尹城、大山、沙井等柵を拔き、殺獲すること甚だ衆(おお)く、仍りて分兵をして以て之れを鎭守せしむ。
 福信等、眞峴城の江に臨み高嶮たるを以て、衝要に當たり、兵を加へ之れを守る。
 仁軌は夜に新羅兵を督し、城の板堞に薄(せま)り、明に比(したが)ひて城に入り、八百人を斬殺し、遂に新羅の饟道を通す。
 仁願奏じて兵を益(ま)さむことを請へば、淄靑萊海の兵七千人を發(はな)ち、左威衛將軍孫仁師を遣り、衆を統べせしめ海を浮(わた)り、以て仁願の衆を益(ま)さむと詔す。
 時に福信旣に權を專(もっぱら)とし、扶餘豊と相(こもごも)猜忌を寖(そそ)ぐ。
 福信は疾(やまひ)を稱し、窟室に臥し、豊を俟ち疾を問へば、之れを執り殺さむと欲す。
 豊は之れを知り、親信を帥べ、福信を掩殺す。
 高句麗、倭國に遣使し、師を乞ひて以て唐兵を拒まむとす。
 孫仁師中路に迎擊して之れを破り、遂に仁願の衆と相ひ合はせ、士氣大いに振う。
 是に於いて、諸將は向ふ所を議し、或(あるひと)曰く、
 加林城は水陸の衝、先を合はせ之れを擊たむ。
 仁軌曰、
 兵法、實を避け虛を擊つ。
 加林は嶮にして固、攻めれば則ち士を傷め、守れば則ち日を曠(むなし)くす。
 周留城は百濟巢穴、焉れに群聚し、若し之れに克たば、諸城自ら下る。
 是に於いて、仁師、仁願及び羅王金法敏、帥陸軍進、劉仁軌及び別帥杜爽、扶餘隆、帥水軍及び粮船、熊津江より白江に往き、以て陸軍を會し、同じく周留城に趍る。
 倭人に白江口にて遇ひ、四戰皆克ち、其の舟四百艘を焚けば、煙炎は天を灼(こ)がし、海水は丹(あか)く為る。
 王扶餘豊は身を脫して走り、在る所を知らず、或は高句麗に奔り、其の寶劒を獲たと云ふ。
 王子扶餘忠勝、忠志等、其の衆を帥べ、倭人と並び降る。
 獨り遲受信は任存城に據り、未だ下らず。
 初め、黑齒常之は亡散を嘯(うそぶ)き聚むること旬日間、歸附する者三萬餘人。
 定方は兵を遣り之れを攻む。
 常之拒戰して之れを敗り、復た二百餘城を取り、定方は克つこと能はず。
 常之と別部將沙吒相如は嶮に據り、以て福信に應ずるも、是に至り皆降る。
 仁軌は赤心を以て之れを示し、任存を取るを自ずと效せしめんとし、卽ち鎧、仗、糒を給ふ。
 仁師曰く、
 野心信じ難し。
 若し甲を受け粟を濟(わた)せば、寇の便に資するなり。
 仁軌曰く、
 吾は相如、常之を觀、忠にして謀、機に因り功を立て、尚ほ何を疑ふか。
 二人は其の城を取ることを訖(お)へ、遲受信は妻子を委ね、高句麗に奔り、餘黨は悉く平ぎ、仁師等は振旅(ととの)へて還る。
 仁軌を留め、兵を統べせしめ鎭守せしむと詔す。
 兵火の餘、比屋凋殘、屍の殭ること莽の如し。
 仁軌始めて命ずるは、骸骨を瘞(う)め、戶口を籍し、村聚を理(おさ)め、官長を署し、道塗を通じ、橋梁を立て、堤堰を補ひ、坡塘を復し、農桑を課し、貧乏を賑し、孤老を養ひ、唐の社稷を立て、正朔及び廟諱を頒く。
 民皆悅び、各(おのおの)其の所に安んず。
 帝は扶餘隆を以て熊津都督と為し、歸國せしめ、新羅の古憾を平げ、遺人を招還す。
 麟德二年、新羅王と熊津城に會し、白馬を刑して以て盟す。
 仁軌は盟辭を為し、乃ち金書鐵契と作し、新羅の廟中に藏(かく)り、盟辭は新羅の紀の中に見(あらわ)る。
 仁願等還り、隆は衆の携散を畏れ、亦た京師に歸り。
 儀鳳中、隆を以て熊津都督帶方郡王を為し、歸國せしめ、餘衆を安輯せしめ、仍りて安東都護府を新城に移し、以て之れを統べせしむ。
 時に新羅强し、隆は舊國に入ることを敢へてせず、高句麗に理治し寄り死す。
 武后又た其の孫の敬襲王を以てするも、而るに其の地は已に新羅、渤海、靺鞨の分くる所と為り、國系遂に絶つ。

 論じて曰く、
 新羅古事に云く、
 天は金樻を降し、故に姓は金氏。
 其の言は怪しむ可くして信ずる可からず、臣は史を修め、其の傳の舊を以て、其の辭を刪落するを得ず。
 然して又た聞く、
 新羅人、自ら小昊金天氏の後たるを以て、故に姓は金氏、新羅國子博士薛因宣撰金庾信碑、及び朴居勿撰姚克一書三郞寺碑文に見(あらわ)る、高句麗亦た高辛氏の後を以て、姓は高氏。
 晋書載記に見(あらわ)る。
 古史に曰く、
 百濟と高句麗、同じく扶餘に出ず。
 又た云く、
 秦漢亂離の時、中國人多く海東に竄(のが)る。
 則ち三國の祖先、豈に其の古聖人の苗裔ならむや。
 何を其の國の享(つづ)くを長ならむ。
 百濟の季に至り、行ふ所に非道を多く、又た世(よよ)に新羅を仇し、高句麗と連和し、以て之れを侵軼し、利に因り便に乘じ、新羅の重城、巨鎭を割取して已まず、所謂親仁善鄰、國の寶なるに非ず。
 是に於いて、唐天子再び詔を下し、其の怨を平げ、陽(ひなた)に從へども陰(かげ)には之れに違ひ、以て大國に罪を獲、其の亡びたるや亦た宜(むべ)なるかな。

 三國史記 卷第二十八