≪白文≫
高句麗百濟祀禮不明、但考古記及中國史書所載者、以記云爾。
後漢書云、高句麗好祀鬼神社稷零星、以十月祭天大會、名曰東盟、其國東有大穴、號襚隧神、亦以十月迎而祭之。
北史云、高句麗常以十月祭天、多淫祠、有神廟二所、一曰夫餘神、刻木作婦人像、二曰高登神、云是始祖夫餘神之子、竝置官司、遣人守護、蓋河伯女朱蒙云。
梁書云、高句麗於所居之左、立大屋祭鬼神、冬祠零星社稷。
唐書云、高句麗俗多淫祠、祀靈星及日箕子可汗等神、國左有大穴曰神隧、每十月王皆自祭、古記云、東明王十四年、秋八月、王母柳花薨於東扶餘、其王金蛙以太后禮葬之、遂立神廟、太祖王六十九年、冬十月、幸扶餘祀太后廟、新大王四年、秋九月、如卒本祀始祖廟、故國川王元年、秋九月、東川王二年、春二月、中川王十三年、秋九月、故國原王二年、春二月、安臧王三年、夏四月、平原王二年、春二月、建武王二年、春四月、並如上行、故國壤王九年、春三月、立國社、又云、高句麗常以三月三日、會獵樂浪之丘、獲猪鹿、祭天及山川。
冊府元龜云、百濟每以四仲之月、王祭天及五帝之神、立其始祖仇台廟於國城、歲四祠之(按海東古記、或云始祖東明、或云始祖優台北史及隋書皆云、東明之後有仇台、立國於帶方、此云始祖仇台、然東明爲始祖、事迹明白、其餘不可信也)、古記云、溫祚王二十年、春二月、設壇祠天地、三十八年、冬十月、多婁王二年、春二月、古尒王五年、春正月十年、春正月十四年、春正月、近肖古王二年、春正月、阿莘王二年、春正月、腆支王二年、春正月、牟大王十一年、冬十月、並如上行、多婁王二年、春正月、謁始祖東明廟、責稽王二年、春正月、汾西王二年、春正月、契王二年、夏四月、阿莘王二年、春正月、腆支王二年、春正月、並如上行。
≪書き下し文≫
高句麗百濟の祀禮は不明、但だ古記及び中國史書の載す所の者を考え、以て云を記すのみ。
後漢書に云く、高句麗は鬼神社稷零星を祀ることを好み、十月を以て天を大會に祭り、名を東盟と曰ひ、其の國の東に大穴有り、襚神と號し、亦た十月を以て迎へて之れを祭る。
北史に云く、高句麗は常に十月を以て天を祭り、淫祠多く、神廟は二所有り、一に曰く夫餘神、木を刻り婦人の像を作る、二に曰く高登神、是れを始祖夫餘神の子を云ひ、官司を竝置し、人を遣り守護たらしめ、蓋し河伯の女と朱蒙を云へり。
梁書に云く、高句麗は居する所の左に大屋を立て鬼神を祭り、冬に零星社稷を祠る。
唐書に云く、高句麗の俗は淫祠多く、靈星及び日、箕子、可汗等の神を祀り、國の左に大穴有りて神隧と曰ひ、十月每に王は皆自ら祭る。
古記に云く、東明王十四年、秋八月、王母の柳花は東扶餘に於いて薨じ、其の王の金蛙は太后の禮を以て之れを葬ひ、遂に神廟を立て、太祖王六十九年、冬十月、扶餘の太后廟を祀るを幸し、新大王四年、秋九月、卒本に如きて始祖廟を祀り、故國川王元年、秋九月、東川王二年、春二月、中川王十三年、秋九月、故國原王二年、春二月、安臧王三年、夏四月、平原王二年、春二月、建武王二年、春四月、並びて上の如く行ひ、故國壤王九年、春三月、國社を立て、又た云く、高句麗は常に三月三日を以て、會して樂浪の丘に獵をし、猪鹿を獲り、天及び山川に祭る。
冊府元龜に云く、百濟は每に四仲の月を以て、王は天及び五帝の神を祭り、其の始祖の仇台廟を國城に立て、歲に四(よたび)之れを祠る。(海東古記を按ずれは、或(あるもの)は始祖を東明と云ひ、或(あるもの)は始祖を優台と云ひ、北史及び隋書皆云く、東明の後に仇台有り、國を帶方に立て、此れを始祖の仇台と云ふ、然るに東明を始祖と爲し、事迹は明白、其の餘は信ず可からざるなり)。
古記に云く、溫祚王二十年、春二月、壇を設して天地を祠り、三十八年、冬十月、多婁王二年、春二月、古尒王五年、春正月十年、春正月十四年、春正月、近肖古王二年、春正月、阿莘王二年、春正月、腆支王二年、春正月、牟大王十一年、冬十月、並びて上の如く行ひ、多婁王二年、春正月、始祖の東明廟を謁し、責稽王二年、春正月、汾西王二年、春正月、契王二年、夏四月、阿莘王二年、春正月、腆支王二年、春正月、並びて上の如く行へり。